[運用 34] 辺疎(へさかる)の神

奥疎の神、辺疎の神

伊耶那岐の大神という世界身の中に摂取された黄泉国の文化は、それが実相を明らかにされた時点でも禊祓の洗礼を受けている訳ではありません。伊耶那岐の大神の身体の中に取り入れられただけの状態です。その文化を取り入れた我が身の状態をよく観察して、これに新生命を与えるための業の出発点となる実相を見定める働き、これが奥疎の神であります。もう少し説明を加えましょう。黄泉国の文化をわが身の内のものとして摂取した時は整理されていない文化を身の内に入れたのですから、自らが清められ、新しい生命に生まれ変わらねばなりません。では何処が整理されるべきなのか、禊祓の業の出発点としての自らの黄泉国の文化体験はどう認識すべきなのか、が決定されなければならないでしょう。摂取した文化の実相を見極めて、それを摂取した自らの禊祓の出発点としなければなりません。その出発点(奥)(おき)の状態を見極めて行く働き、これを奥疎と呼ぶのであります。

行の出発点としての自らの実相が見極められたら、次ぎに禊祓によって新生命に生まれ変わった世界身としての自らは如何なる状態となっているか、の終着点の新世界身の姿がはっきり心に浮び上がります。禊祓の業の目的達成の時の状況が明らかに心中に浮び上がります。この様に禊祓の業によって創り出されて行く結果(辺)の状況の決定、これが辺疎の働きであります。この働きによって黄泉国の摂取された文化がどんな姿に変わって行くかが決定されると同時に、その文化が摂取された後は伊耶那岐の大神の世界身である世界文明がどういう姿に変化・革新されて行くかも決定されます。禊祓の出発点の実相を見極める働きが奥疎の神であり、禊祓の業の終了後の世界身の実相を決定する働きが辺疎の神であります。それは黄泉国の新しい文化を摂取したばかりの伊耶那岐の大神の心の内容から、禊祓の行を始める出発点に「これが新しく摂取する文化の実相だよ」と思い定める事(奥疎)、またその摂取した新文化は禊祓の結果として「この様な姿で人類文明の一翼を担うようになるのだ」という確乎としたイメージを結ぶ事(辺疎)なのであります。

先月号までにて古事記の所謂伊耶那岐の大神(伊耶那美の命を包含した伊耶那岐の命)と、御身(自らの主観世界を心とし、客観世界を自らの身体とする世界心、宇宙身、宇宙生命)の内容を詳しく説明して来ました。その意味での御身を禊祓するという事は、宇宙身自体の革新事業であり、人類文明の創造行為という事となります。

その禊祓の行為の規範として伊耶那岐の大神は、自らの主観内に樹立した建御雷の男の神という五十音言霊構造を衝立つ船戸の神と掲げました。次にわが身として摂取する黄泉国の文化の内容を天津菅麻音図上に於て調べる為の五項目として道の長乳歯の神以下の五神名を定めました。かくて言霊布斗麻邇の最終結論に導く行為の準備は整った事になります。そして禊祓が開始されたのであります。

奥疎(おきさかる)の神、辺疎(へさかる)の神

黄泉国の文化を身の内に摂取した伊耶那岐の大神は、その摂取した時点のわが身の実相を禊祓する出発点の状況として認定する事から始めます。これを奥疎の神と言います。次にその出発店から禊祓が始まり、その結果、黄泉国の文化が世界文明の内容の一部として取り入れられ、禊祓の行為が終了した時点に於てわが身は如何なる状況に変革されているか、のイメージが明らかに見定められます。この働きが辺疎の神であります。先月号はここまでお話しました。