i 子様のための古事記の言霊百神 09

i 子様のための古事記の言霊百神 9

母音は呼気の流れが邪魔されずそのまま出てきて鳴りっ放しですが、その母音が実在世界の何に対応しているかです。あるいは実在世界のどこから母音が出てきたのかです。

母音は沢山ありますが、沢山の母音を実際に一音で現すことができませんが象徴的に現すことはできます。それが象徴として現された天の御中主の神(言霊ウ)です。布斗麻邇御璽(ふとまにのみたま) という図に示されている〇に・(ちょん)が入っている図です。同じ天の御中主でも言霊ウの働きをしてる時は四重まる(ウオアエのこと)に・(ちょん)が入っています。

しかしそれは表徴として語られた場合のことですので、まずは実在との関連をさがしてみます。そこで前回は腹と腹の緊張や声帯とか皮膚とかの生理的な結びつきがあるということを示しました。一つ一つの事例は各人の追体験で実証してもらうわけですが、例えば、わぁー楽しい、というときの、わぁーと、わぁー哀しいわぁー寂しいというときのわぁーは、全く別の感情を現しているようですが、わぁーアアという感情表現があり、ここにある共通な一般性である「アー」を体験するということです。

母音世界は客観世界と同様に鳴りっ放し在りっ放しの時空共に無限の世界です。しかしここに人が出てきますと人の肉体上の制約制限から有限界が生じてきます。あーーの発生が無限に続くといっても身体の受容限界を越えればそこまでどまりです。その後は機器のお世話、科学技術のお世話にならなくてはなりません。

ここに人間の機器を使ってでも無限に到達しようとする意志と常なる制限を受けいれる精神世界があります。結局母音世界の心にも片や無限、片や有限のこころもちがこもってきます。言い替えれば人も自分も外の世界も無限であることに気が付いたということは、無限という限界を納得したということです。

無限という有限に行き着くことは日常生活上でも普通のことです。感じ考え思い付くだけのことをして無限のことをした、もっと上手にいえばあらゆることあらゆる手だてを尽くしたといいますが、その人の有限をしめすものです。

おそらく、ここに母音が発生します。

実在客観世界は無限の物理的な力の作用反作用の世界でそれ自体独自なものですが、ここに人がかかわり始めるやいなや、物質世界の無限の自然な世界が人の性能によってそれぞれ有限のかかわりとなります。

しかしこれは有限な人がかかわり合うからというだけではありません。無限持続の時空にかかわる人間側に、相手と同じ無限の時空が実在していなければ何のかかわりもできないのです。人が無限でなければ客観無限世界にかかわれない、同じ土俵に立てないと言うことです。

この土俵が母音なのです。では実際に母音のなにがどのようにかを見てみたい。

最初は母音世界全体です。何々の母音という判別できる以前の総体としての一塊です。まだアとかイとかウとかに分別できていません。朝目覚めた時の、目を開けるその一瞬の前にある世界といったらいいでしょうか。その一瞬前の世界には宇宙世界の全時空と本人が詰まっています。

古事記ではその全体を象徴して全母音世界である天の御中主の神、言霊ウと名付けました。(続日本紀では「中今」)

これはウオアエイと分離された母音の一つのウではありません。全世界の象徴である言霊ウです。人のように成長する上昇循環重層構造体なので、ウで始まり五母音になりウで統合されていくように、五母音の内の一つとなったウの発生はまだ後々のことになります。世界の無限を象徴する言霊ウのことで、

ひふみ神示では、チョンであったり○であったり、○チョンであったりとその時その場でいろいろ変化しています。

その無限を有限とする言霊ウの天の御中主の神で、後を振り向いて自分を見る、立っている所から前を見る、上方から鳥瞰して見る、今の立っているところを見る、等の取り方の相違からどの母音もそれぞれの位置づけが始まります。

世界の無限を象徴する言霊ウが産まれました。とはいってもそさだけでは、象徴を話しているだけで勝手ないい加減なことを言っていることとなんら変わりません。問題は人間側に実在する無限の実在を示すことです。

象徴がウだからといってもこれは「う」という発音をまだ示していません。言霊ウはこの世の世界宇宙に意識の兆しというか、人がかかわることを始めるや否や人の精神宇宙に目覚める無限への感情です。実際の場面に注意していくと、まず物事の意識の始めの兆しに現れるものです。

例えば実験してみれば、一秒の何十分の一秒以下の時間に視覚ならば視覚に現れ固定される以前の世界のことです。視覚を移動して次のものを見る時の見たという以前のできごとになります。そのときにはそこに有るものは何であるのか判断を下し与える以前の世界があります。ぞれを引き延ばすと、そこに何々がどういう状態で何故あってそのあるものの性質はこういうものでという後からつけ加わる固定され規定される全ての時空が含まれている状態です。

朝日の昇るのを見てその感動の瞬間に発声される声の直前に、確かにある母音世界のことです。この状態は後に人の性能の五つの次元に対応していきすが、当面の今は一塊の全体世界です。古代大和ではそれを言霊ウと名付けたのでした。

今までの始まりは、アメツチの「ア」だったのに突然「ウ」になったりして話が違うと思われるかもしれませんが、「ア」は意識の始めで、「ウ」は始まる意識の前提です。ところが「ウ」にはまだその始めがあります。

それが「ス」です。いずれも象徴表現ですが実体を現した象徴表現です。

例えばを示しておきます。

充電された電池があります。繋がれていなければ何もありませんが、エネルギーは充満しています。静かに済んだ動かない「ス」の状態です。それが繋がれれば動くか動かないかそのうごめきがある「ウ」を経て、そこで動きか不動か、こっちとあっちの違いが明かされる「ア」となります。

この一連の過程は常に何ものかの動因の下地による支えがなければ、どの時点においても不可能となるものです。その動因を始めから全過程を通していざなっているのが「イ」です。

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16-2.腹母音。無限。

さて、何故これが母音のウになっているのか。実際に発音される「う」になるのかが証明されなければなりません。

在りっぱなしの世界が心の在りっぱなしの世界と同調共感した様子を、兆しとか兆しの始めとか言いましたが、実際の流れは兆しの連続持続です。兆しだけがあるのならその後に出るものはありません。それだけのものです。

兆しだけでそれだけのものというのは、単に概念で言われているだけです。何故ならそのものとして現象になって現れていないのですから、五感の対象でも無く経験知識の対象でもなく記憶としてあったものでもなく、ただの観念です。

しかしそのような兆しをもたらしその後に意識の対象となって、現象して五感、感覚の対象となるものです。現象としては無いけれどその元となってあるあるもの、観念だけど観念を生み成した元の上に出来たもの、記憶ではないけれど記憶となってでてくるもの、そういった心の前世界の姿があります。

これを先天の実在といいます。

意識の対象となったものではないけれどその始めの兆しを示しているもの、生まれ出てくるうごめきの動く動因として実在しているものです。

母音の響きをチャクラや丹田に伝えるのは発音された音声の現象したものの世界ですから、ここではその逆に母音を発生させる方向を取らねばなりません。あるいは最初から発声があってそれに自己表出とか指示表出とかをくっつけるのがありますが、母音の発生の根拠を示していませんので、実在の根拠を探す必要があります。

探すものは、この実在の根拠となるものが鳴りっ放し在りっ放しの無限、きりがないこと、いくらでもあることの人間性能への反映です。実在とは言っても実体現象となる以前のもので、自己表出され指示表出されるもの以前のことです。表出されるものが有るということになるとそれは既に現象となったものです。現象から始めると混乱しか起こりません。

自分の感じる心、思う心を両端に開いた松葉の根元に戻さねばなりません。このなになにしっ放しの無限となっている根元が母音です。全ての産まれる元となるものです。

しかしこれを発声に取ると声帯や胸や横隔膜からは母音はでてきません。確かに出てくるのは声で母音となって発声されますが声は肺活量によって途切れます。

ではどこに鳴りっ放しがあるのかというと、腹に在ります。

声は声帯と横隔膜だけで発声させるのではなく腹が働いています。この腹を注意して見てください。肺の呼気は直ぐに終りがきて、発声ができなくなります。そのときの腹を見てください。

声が終わっても腹の緊張は続き腹圧に変化がありません。声はと切れ肺ははあはあ言って大きく胸が動いているのに腹は静かなものです。同じ緊張が持続しています。それどころかこの腹の緊張の持続によって同じ母音の継続が可能となっています。あるいは声を出さずとも腹の緊張腹圧は緊張させっ放しにすることができます。

もしかすると全身の皮膚とか毛穴の開閉だとかも関与しているかもしれませんが、確認できません。

この腹から母音が産まれます。

腹の重要性は全ての分野で言われていますが、結果現象を産むことは経験的に分かってはいても、先天のこころの動因がここにあることを明確に示すことが必要です。胸横隔膜を使って発声となる以前の人間側の実在世界がここにあります。ぜひ腹の緊張持続する無限世界を味わってみてください。

呼吸に応じて腹は上下し、声を出そうが出すまいが、腹に緊張が産まれない時には人は何もしていません。そしてひとたびこころの緊張が腹に生じたならば、腹は世界を相手に世界に向かい世界を受けいれる腹となっていきます。

こころの先天の領域は腹に在り、この腹のうごめきが揺すり揺すられその動きがいざなわれると心の兆しが産まれます。

古事記をみてみます。

【かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらば)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。】

この段落は直接には現象子音が発生した後のことですがここでは母音の発生に該当させます。ここで【葡匐(はらば)ひて】といっています。腹-這いで謎解きをすれば、腹-映えのことで、腹の緊張が心に映えてくるということです。哭(な)きたまふは勿論鳴く、発音することで、腹の内部の緊張に合った心の同調を求めて心と腹の映えてくる音との関係を研究検討をしたということです。

そこで見いだしたのは腹の緊張を起こし心の同調映えを起こすものが有るということで、それを泣沢女(なきさわめ)といいますが、不通に言われている悲しみを現す女ではありません。腹と心の同調反映具合を起こす為に鳴き発声して音と心の一致を求めている父韻のことです。(男か女か気にしたければ男ですよ。女の方に泣くことが多いので泣く-鳴くにかこつけて「女」という字で現しただけです。)

さて母音の発声を求めて実際の発声器官を越えて腹にまできました。腹の緊張にみられる無限性が母音の無限性に対応しているのです。

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無限。

母音が無限だとか腹の緊張が無限に対応しているとか、おかしなことを言っていると感じているかもしれません。人の寿命が有限で有限の世界しか認識できないのに、どこに無限があるのでしょうか。観念だけの遊びのようです。

無限とは今現在のそれぞれの方向への可動性のことで、過去に目を向ければ知識記憶の範囲内で幾らでも遡行できる範囲の可動性をいい、未来に目を向ければ今の立場を可能にする範囲内で前進できることをいいます。

またそれには今に留まったままの無限といういい方もあり、その時は水面に波うつ輪の広がりのようにその中心には波の広がり全体があるという感じになります。

「神を絶対無限の存在者」のようにすれば、過去現在未来全部をカバーしてしまうことになるでしょう。

過去方向へ無限を見ると、幾ら頑張ってもその人の知識の範囲内に留まり、そこから飛び出たものは意識の向こう側に概念として形成されます。神とか霊とか宇宙の次元だとか、意識の外に行ってしまった言葉は幾らでもあります。そういった言葉も記憶として返ってきますから、何の経験の裏付けもなく何々は無限であると主張できるようになります。

そこで言われる外のことは、無限の向こうにいるあるいは在ると、何ものかが分かったようなことをいいますが、単なる過去概念の記憶をこすっただけのものです。各人の確認できる範囲を超えた向こう側の無限の世界のことですから、正直にわからないと言えばいいのですが、そこには、拝むとか信仰とか安心とか感じるとかの心の要素がまた重なってくるのでそう簡単に断定できなくなっていきます。

未来の方向に向いた無限も同じことで、過去の繰り返しの該当延長できる範囲までは分かるけれど、そこから先は、何かの存在がいるとかいないとか、あるとかないとかについては、全然わからないくせに、繰り返しの該当する範囲を超えて一般概念化していきます。在るか無いか分からないところなのに、感知できないところは過去経験で補ってしまっていきます。

これらは経験の裏付けの在る無しから言っていることですが、実はこの接点を超越して過去方向にも未来方向にも無限が実在しているのを知ることがあります。今までは知識記憶を元として時間軸を設定して過去未来の無限をみてきました。そこではワイワイ騒ぎながら自分の考え主張を言う世界でした。

論理の緻密さとか知識量とかがものを言い相手を喰う世界でしたが、全てが過去の記憶の借り物を密輸して成り立たしてたものだけです。構成された文章を読んでいくと何か個性的な主張のようなものがありそうに感じますが、どこにもその人が独自に打ち立てたものはありません。このブログも同じこと。

さてところが、それらのドングリを超える立場が、誰にでも普通にあります。その始めが感情です。情緒感動情感等々です。前もって言っておけば、それらはその最高段階になれば宗教の愛となりますが、宗教人になってしまうとそこで終わりです。愛の心持ちが単なる始めの一歩にしか過ぎないことを忘れてしまい、慈愛をかざすという逆立ちが起きます。後に言及されるでしょうから元に戻ります。

感情は普通の人間性能ですが、一度それを掴もうとすると、とてつもなく次元のひっくり返った様相を見せます。例えば今この文章を読んで何らかの感情が起きていると思います。何も感じないよ、また法螺か、確かにそうだ、感情は大切にしましょうとかの思いにそれぞれの何がしかの感情がこびりついています。その時の感情を一度知ろうとしてみてください。つまり借り物ではなく自分の感情であることを確かめようとしてください。

と、こんな事を書き読んでいる内に、先程の感情はもう消えているでしょう。ぼやけているか、新しいものに取って代わられたか、思い出せもしないかもしれません。感情というものは今現在から先には生きられないからです。

自分の感情を捕らえてみてください。いつでも先程の感情はと、過去のことを言い出すはずです。感情は今現在に生きたとたんに過去となります。そこでどうしてもつかまえようとすると過去へ過去へと幾らでも後退していくことになります。知識概念が過去を扱っているにも係わらず常に今を今を捕らえようと努力しているのは真反対です。

感情を捕らえようとすれば過去に赴くだけでなく、その感情の起承転結を捕らえようとすればさらに過去以前へと後退していかねばなりません。もちろんたまには新鮮なまま感情を保つこともあります。深く大きな情動などがそうで、愛や見神もそうなるでしょう。

しかしそうよくよくあるものではないし、また続けるにはある種のテクニックがいるようです。つまり常に自分が起きている、起こされていることを自覚しなくてはならないので、過去へ後退することと今起きていることが同時に在る世界になりますか。

この過去と今が同時にある世界に注意を促すのを宗教は得意としています。超越者が今ここにいるかのように扱います。そのために使用されるに適した言葉が「あ」で、「アーメン」とか「アミダ」とか「アッラー」とかの、「ア」を使用していきます。「あ」は今現在の全体を示し、あるあった、ありがたい、あっ空を見ろ、あっ痛い等々の現実在に常に連れ戻してくれます。

そこで「あ」を自覚していきますと、その「あ」には過去の全体も含まれ、未来に向かう全体をも含んでいることを感じられます。つまり「あ」という母音には、その「あ」が示す現象とその現象以前以降の全体、つまり無限を示すことが出来ているようです。

「あ」で示された現象はいずれ消え消滅し、何も無いと言える状態を想定しざるを得なくなります。現象は見失っても、不思議なことにそこには「あ」の何ものかが残っています。捜し物を見付け「あった」と叫んだり、神を見て頭を垂れたが二度と神とは会えなかったり、あっ車が来る危ない、というようなとき、現象としては全て過ぎ去ってしまいますが、記憶として残るものの他に、あの時の「あ」であったが今でも「あ」であるものが、実在していきます。

「あ」の無限性の一端を示しましたが、まだ他にも母音はあるのでそれも示さなければならないのですが、別の機会があることでしょう。母音「う」から始まっているのに、何時の間にか「あ」になってしまいました。

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17。腹母音。「片手の音」。半母音。

今回は受動側から見たものです。半母音。

白隠が修行者たちを前にしてこう言った。

「隻手声 (せきしゅのこえ)あり、その声を聞け」 (大意:両手を打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がしたのか。その片手だけ の音声を聞け。)

実際にやってみれば出来ませんが、音にこだわるならば指を鳴らせば音は簡単にでます。両手でなく片手を床なり腿なり適当な対象と合わせれば音がでます。また両手を叩いて音を出した後に記憶に残して片手で音を出しているつもりにもなれます。

数十年前におぎゃーといった自分の泣き声は非常に微弱になっているとはいえ未だに宇宙をさまよっています。人の足を踏んでしまい痛いと言われて顔を見つめあったときの運命の初恋の声はいまでも聞こえます。

頓智や物理学や記憶などで答えればそれぞれなるほどとなります。それらに知識の釉薬や仏教の専門用語を塗れば結構な文章になるでしょう。

感性とか心で聴けとか、片手では音はでないから無音だとか、色眼鏡の言葉での判断を捨て分別を捨てこだわりを捨てて聞け、なんていうところが坊さんたちの解答らしい。勿論分別を捨てた判断解答をするということ自体はどうなる、とつつかれますからそこは以心伝心無音を聞くという風に逃れていきます。まあ、頭の中ではその積りになれますからそれで安心もできますが。

白隠さんがどんな積りでどういったかは知りませんが、半母音からの解答です。

この問題は両手というのはわたしとあなた、主体と客体、見る側とみられる側、分別する方とされる方、等々対になっているものならなんでもいいのです。対、陰陽、表裏になっているけれどこだわりがあろうと囚われ偏りがあろうとあるまいと、現象としてそれらを見てしまわないということです。

主客の陰陽となっているものは別にこだわりや分別があって両面があるのではありません。

わたしとあなたが抱き合っています。あなたは座を外していなくなりました。わたしは一人であなたを抱いています。握手する練習をしているでもテレビを見ているでもどんな日常行為でも同じです。こっちとあっちで一つの円環 = 和・輪ができていることなら、その状態の如何にかかわらず成立する問題です。

その片方だけの声を聞けというのですから、こだわり分別を捨てる心で聞く感性で聞くなんて言い出したら駄目ピシャリと叩かれます。思慮分別を交へず見聞覚知を離れて聞く、というのが一つの自分と対象との行って帰る環状の上に乗っているものを既に分離しているものだからです。

行為してしまえば簡単に音は出ます。片手で師匠の頬を打てばいいのです。

問いではわざと主客の和・輪を成立させていないのです。輪が成立していないのに聞いてみろというのです。聞くに関しても本当は聞く側と聞かれる側があるのですが、聞く側の主体行為のことはこのシリーズの始めから述べてきていますので、まだ残っている聞かれる側 = 半母音を取り上げます。

両手があっても手が勝手に打ち合うわけではありません。意志の介在があります。この意志の介在があれば膝を打つ頬を叩いて音を出すでも構わないのですが、その時は質問が手を使わないで頬を叩けみたいになるので、白隠さんはそうしなかっただけです。同じ構造の問題です。

今までは主体側の母音も客体側の半母音も、その両者を介在する父韻もごちゃごちゃにした形で書いていました。これからはそうもいきません。(本当は分かっちゃいないのでうまくかけないだけですが。)

もう一度手を打って音を出すことの形を見てみましょう。一般的な形では、手が勝手に合わさるのではなく、叩くという意思の介入があります。そこで音が出る出ないは結果現象に関するものです。この過程だけでも細かく見ていけば様々な途中経過が在るのでそれを全部書くことは出来ないくらいです。

手を打って音を出すという意志行為を主にすれば、片手で音を出すのは簡単で、指を鳴らすでも、膝でも頬でも床でも机でも師匠でも叩けばいいだけです。音が出る手を主体側とすれば、意志行為が手の動きに乗るあるいは意志に従って手を打つことになります。問題は音を聞けということですから、手の受動側の相手は音になります。音の受容器官は耳です。客体側の耳は音を聞いても主体的に音を出す方ではないので、永遠にただ待つだけです。

通常は意志と両手と音(耳)の三者が揃って円環が整うわけです。片手で打つ音を聞けと白隠さんがいいました。ここで円環を主体的に誘う両手を片手に変更しています。それでも音を聞けというのですから、前に言ったようにすれば、音は幾らでも聞けるわけです。

音という現象、出来上がった現象、分別を捨てろという現象、感性で、心で聞くという現象に囚われれば全部アウトです。というのも、受動側で現象を創造するのは意思の働きかけとそれを受け持つ主体側がなければ何も成立しません。ですので現象の形態を幾らあれこれ述べ立てようともともと成り立つものではありません。

現象は主客、自他、わたしとあなただけでは成り立たず、その両者間を行き交うものがいります。この三者を神道では造化三神と言っています。

わたしとあなたがいるから目と目があって握手をしたのです。あなたがいなくて手が無ければ差し出した手を掴んでくれる人がいません。しかしあなたさえいれば、握手だけが意思の疎通を促すものではありません。

何故手を差し出す行為ができるのでしょうか。何故リモコンのスイッチを入れればオンになることを知っているのでしょうか。盛り合わせの寿司を御馳走しましょうといわれ、何故とっさに大好物のイカがあるか気になるのでしょうか。両手を叩けば何故音がすると知っているのでしょうか。

これらは公案風に言えば、手を出さず握手をしろ、電池を抜いたままオンにしろ、イカ抜きのイカの寿司を喰え、片手の音を聞け、という風になりますが、人の五感が働く時、記憶が出てくる時、按配選択をしようとするときその相手対象が無いのに主体側は自らの行為を遂行せよということです。

実際の行為で答えるなら上記の頓智みたいな答えになるし、心持ちで答えたければ、その時の相手対象が無い自分のこころもちが答です。白隠の問題は聴覚ですから、そのときの心持ちで聞いた音が答になります。しかし実際には自他、主客との往来はありませんから、心持ちで聞いたと言うことも無く、あるのは先天的に自分が得ることのできる相手対象のことになります。

この得ることのできる相手対象(客観、客体、あなた等相手対象をさす言葉)はその人自身、つまり自分自身にあるものだけしか自分の相手対象としません。自分の中に無いものは自分の相手にならないのです。握手を知らない人は相手がいても握手ができないのです。でも握手を教えれば誰とでも可能になります。つまり主客の円環を作ることは最初から無限の可能性の在る世界が作られています。

何にしろ、そのときの先天的な自分全体の受け取ることのできる統体が片手の音を聞くことの解答です。先天の半母音といいます。これは自分の中に先天的に客観的に成り立っているものです。主体的な母音側が見つけることができるのはそれに応じた自分の中にある客体側の半母音ということです。

ですのでその人だけに限っても答えはその人の主体側の能動意志に応じて、幾らでもあります。禅の方からは分別意識の囚われを主題にしたいようなので、分別妄想を打ち破る方向へ持っていこうとします。思い込み妄想を捨てろといいます。無い音だから無のことだといいます。

分別は別けて分かる、分けるから判ることを言います。でも分かったときは現象の現れが分かるということで、両手で叩けば音がするという現象を指しています。それを白隠さんは現象とその前提となるものをごった混ぜにするという公案の手口を利用しました。

ですので本来ならば禅の公案は解くものではなくて、設問の不備を指摘して正しい問い方に変えればいいものです。現象を生ずる両手の片方をもぎ取ったわけですから、現象方面のこと、音を聞くとか音が出るとかのことは放っておけばいいのです。それを坊主たちは真に受けて現象のことを考えるからとんちんかんになります。

では禅仏教において現象を生ずる以前の世界について教えているかといえば、悟れば分かるというだけです。そんなことに一生かけたり腕を切り落としたりするのですから、呪縛されるというのは余程のことなのでしょう。普通の日常では、現象を生じたければ簡単に解決しています。片手で師匠を叩けばいいだけのことで、坊主だけがそんなことは出来ないという分別の妄想を持っているわけです。

現象を生むには意思の介在がいりますが、意志のことを話さなくても存在する世界があります。それが母音世界と半母音世界です。母音世界は主体側の心と結ばれればすぐに現れてきますが、半母音の相手対象世界は主体側の働きかけが無ければあらわれません。それでも片手の音を聞けという無理な注文をしています。要するに注文の結果を持ち出すと埒が明かないので、注文できる根拠を示した方が早いことになります。

間違った設定をして質問しながら真面目な質問としてしまうわけですが、このトリックを明かせば、主体側の能動と客体側の受動とを取り違えることから起きます。手を動かし打つというのは、その結果どうなるのかという客体側の現象結果については、受動側が存在しなければ結果を出せません。そこで結果を示せと言われるわけですが、人間には結果側の世界が独自にあります。

この公案では音になっていて、音に関しては幾らでも喋れるわけです。この幾らでも喋れる音を主体側の能動行為と切り離して、音を出すとか聞くとかしてしまうとそこに主客の乖離した世界があらわれます。つまり受動側だけの世界を主張しろということになります。

古事記ではこれを受動側の「女人先立ちて言える」と表現していて、主体側の内容(霊・ひ)の流れ去った(流・る)現象創造(子・こ)で、蛭子を生むといっています。

ところが人間世界にこの蛭子の一般的な現象世界が在るために、簡単に通話が通じていくのです。(蛭子の世界で後述)

このように主体側、客体側それぞれの世界があり、能動主体側から客体側を見て在るけど結ばれない世界を空即是色といい、客体受動側から主体側を見て在るけれど結ばれない世界を色即是空といいます。フトマニ言霊学から見て不完全な世界ですからこれらは統合され、和を結ばねばなりません。仏教では般若心経に概念的な経文を載せていますが、フトマニでは古事記の冒頭十七神によって実質内容構造を示しています。

それには主客の間を取り持つ父韻というものを考えなくてはなりませんが、もう少し母音の話が続きます。

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18-1。腹母音。不似と似。事実と内容。

こころを尋ね母音を尋ねてわけの分からないことを書いていくうちに悟り、空の話になってしまい、さらに混沌としていることと思います。その上さらにそれを混ぜ返すようなことが続きます。

本来なら簡単明瞭に図式にしてこうこうだと言ってしまい、後は読者に任せればいいのですが、お節介な余計な説明したい欲求が出てしまいそれに従っています。

数千年来、心とは何かと問われ追求され答えられてきましたが、終わりがありません。空とか悟りとかを知ることも心のほんの一部の働きでしかないけれど、前宣伝が大きすぎるためか一生をかけたり、そのことだけが獲得目標になったりして、そのために生涯を費やすことが起きています。

ネットで心の図式を探してみました。広辞苑は以下のようなものを挙げている。

・字数制限のため略

またあるブログでは「心は最広義では価値世界と概念世界の全てであり、広義では概念世界を指し、最も狭義では赤字(・)の部分を意味すると考える。(「心の哲学(4)円環運動」から引用)」となっています。

こころにはこういうこともあります。物に心を託したけれど、ぞんざいに扱われるようなとき、その物に託された心はなんでしょうか。

それぞれ十人十色で引用すればきりがありませんし、それに手を貸せばわたしも溺れていくでしょう。どれをとってもそれぞれあることですし、それなりに正解ですから、後はお気に入りの選択だけになってしまう感じです。

このブログでは古事記の冒頭を心の原理としていて、神の系列だとか古事記の神だとかの話は出てきません。神という名の心の話です。

そこで心の原理を見取り図風に図式風にしたいのですが、図式の作り方が分かりませんので、

http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/chart/chart.htm

を借りて心の構造の見取り図とします。

この図は人間の心の原理中の原理みたいなもので、大和日本だけでなく人間であることの原理を現した秘宝です。ただこの図式には、図式という制約上平面になってしまうのでこの原理が動いた立体的な姿は現れていません。また、原理というのは現代語ですが、わたしが勝手に言っているのではなく、古事記では「天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき」といい、その心の支柱と御殿をいったものです。

カタカナは古事記の冒頭の神に順番通り対応しています。対応の根拠は古代大和の聖人たちが何世代をもかけて研究したものですが、書き物として皇室の賢処に秘されています。これが公開されれば実質的な岩戸開きとなるでしょう。しかし民間では既に研究対象となっていて、このブログもアイウエオ五十音と神との対応を解説しようとするもです。

この図で原理というのは、例えば「あ」を発音しようとするとき、「あ」の準備をして「あ」と発音して「あ」と聞いて「あ」と了解して「あ」と記憶され「あ」の宇宙となるそのたったの一サイクル、「あ」だけの一サイクルを示したものです。ですのでこの古事記の原理に動き広がり流通する内容を加え理解しなければなりません。

ところがこの原理(支柱と御殿)の凄いところは、動き広がり流通する内容が原理の中に内包されていることです。回転こまの軸をこの原理とすれば、人の心は広がり大きくなるこま全体です。この回転は図で言えば、図の最後に在る上下のアイウエオ百枡全体が、先頭にある一つの「ウ」になる循環上昇関係(ウ=百)となります。

上記に引用した心の二例は何処をとってもこのフトマニ言霊図のどこかに該当し、また恣意的に図として抽出し描かれたものとみることができます。今進行している腹母音の章はこの図では先頭の「ウ」の始まりを、この原理全体の流れに従って書こうとしているものです。

簡単に流れを追うと、こころの先天から始まり、それぞれのこころの領域を通過しつつ、心の要素を用いて表明しまた先天世界に帰るとなります。

この元に戻ったときにあらわれる姿を、日月神示の冒頭では「二二ははれたりにほんはれ」といっています。翻訳では富士は晴れたり日本晴れ、となっていますが、これは日月神示が心の内容を現したものであることを知らずに言葉を配当したためで、「二二」というのは富士ではなく、「不似・ふじ(似ていない)」のことです。

富士という訳ではせいぜい不二を連想して見事な山があるというだけで、心の内容はありません。それを「不似は晴れたり」にすると、心とその表現行為、思っていることと言っていることの「不似」という似ていないことが晴れて、全うな心持ちになるということになります。こころとそのあらわれの両者に如何に和をもたらすかというのが日月神示全体のテーマです。

古事記にはよく「国」と出てきますが、これも「クニ・組んで似せる」ことの象徴表現で、冒頭ではアの目が付いて地になる、あめつちのアの意識の目が、国若くふらふら浮かんだ油のようなものを、組み似せて固めていく過程を示すぞとなっています。

続いてすぐ、イザナギとイザナミのつまり自分の心のまず行う仕事として命令されたものが、「このただよえる国を修めつくり固め成せ」で、天津神に似たものを自分の心に構築せよとなっています。

似ていないものを似せる、それを似せて組んでいくことが心の動きになります。フトマニ言霊図では始めのわけの分からない「ウ」が心の過程を得て全様相が明らかになったとき、それは「う」となることを示していて、古事記の百番目の神である建速須佐之男が「海原」を治めるとなっています。海原というのは「う」の原ということです。御中主から建速須佐之男で、ウからウの一循環が完成するとなります。

さてもう少し「不似は晴れたり日本晴れ」について書きます。

ここでは日本晴れとなっていますが、これも本来は二本晴れが正しく「不似は晴れたり二本晴れ」がよりヒフミ神示の意に沿った訳です。しかし「不似は」なんていう訳はヒフミ神示の内容分かっていなければ、余計に混乱をもたらすものですから象徴的に「富士は」としておけば、聞き応えはいいものとなります。

不似というのは感じ考え思ったことでもそれを言いあらわすと、自分でも違ったニュアンスを得たり相手に対してはまるで反対の解釈をされることがある、ことからもわかると思います。この思っていることと言ったこととの間が両者にとって明瞭であれば不似は晴れたり、わたしとあなた、こっちとあっち、の二本もすっきり爽やかということですが、言葉を用いた表現は常にそうはならないというところがあります。

この表現の内容と示された事実との間に乖離があって十人十色ができてしまう構造を解決しようというのが古事記やヒフミ神示です。人はそれぞれというのが当たり前の前提としてあると思っていますから、そんなことを言えばとんでもないと思われるでしょうけれど、それができてしまったからこそ古代大和の五千年以上前からの、心人間の秘宝として伝承されているものです。

肝心なことは言葉の、頭の中の、心の、思いの、考えの、感じの、内容は事実ではないということです。禅問答で小僧に頬を打たれ師匠は「痛い」と言いました。丁度部屋の閉まった襖の向こうを歩いていた茶坊主がその師匠の「痛い」という声を聞いて、お師匠さんまた腰を痛めたかなと思いました。これで分かるように「痛い」の言葉の内容は事実を現していないのです。

言葉の内容をそのまま事実としてしまうと、茶坊主が聞いた「痛い」の内容は腰痛になってしまいます。人は普通自分の喋っている内容は事実として喋っているつもりです。しかし全然そんなことはないのは聞いている人の感想を聞けば、全部自分と違うと気づきます。

裁判などはわざと事実と内容を切り離したり、都合よくくっつけたりします。両者共に事実として認めても、私の内容としては認められない、なんていうことはざらです。これが「不似」で、似ていないことがそのままでは晴れない、今までの考え方認識の仕方では明らかにならないということです。

わたしでも誰でも一生懸命書いたりしていますが、書き上がったことが内容を現した事実と感じています。ところがそんなことは全然お門違いだというのは読み手の立場になれば分かります。良くも悪くも勝手に解釈され、理解もされず事実として通じてもいないということが起きます。

心を扱うのは直接その人の経験が扱えますから、喋っている内容をそのまま事実とし易い。事実と内容は似ていながら似ていないと言うより、内容は事実ではないのです。事実となる以前に内容があります。

これに対して馬鹿言うのじゃない、事実があって内容があるじゃないか、まず富士山があって、その内容を話すじゃないか、御来光があって、神がいて、自分の子供がいるからそれらのことを話すではないかと言うことでしょう。しかし落ち着いてください。

名は体を現す富士山があるから富士山といい、名は体を現す子供がいるから子供についてのおしゃべりができるというでしょう。では一言うちの子供はこうなのよと言ってみてください。それは事実ですか。先生の評価は、遊び仲間勉強友達の評価は、隣のおばさんはなんと言うか。

それに対して全部の事実とか一部の事実とか個人的とか言うこともあります。あくまで事実があって、部分的な事実ながら内容を指したものだと言うつもりです。これでは内容とはいつでも部分的で個人的なものになってしまいます。それでも事実としてあるのがまず先だと言う意見は変えません。それは部分的で個人的でないかのようです。

ここで主張されているのは事実とは実は事実ではなく、人間の向こう側にある何だか分からない客体側世界というだけです。人間の意識とは関係しないあっち側のことですので、喋りようがありません。富士山を知らない人に富士山と言えば、それを聞いた人は自分の知っているだけの記憶概念を総動員して答えるでしょう。「ああそれは蝶々のことだね」

それを聞いた地質学者は富士山と言うのは休火山なのだよといい、それを聞いた富士信仰者は神の住む山だと言い、それを聞いた画家は単純すぎるフォルムで絵にならないものだよといい、素人写真家は幾ら撮ってもまだこれぞというものは無い山といいます。

こうなってくると何処に事実があるのか分からなくなりそうですが、これらの発言の共通点が事実となります。こういうことです。

事実として山があるとか無いとかではなく、そう言った内容を持ったものが事実です。まず内容ができて出来上がった内容を表現するのです。ですのでその内容が事実とされるのです。

まず客観実在として富士山があるという主張に当てはめれば、客観実在としてある、というだけがじじつとなります。雄大だ、神々しいというときはそのそれぞれが事実となります。こうして事実となる前にまず内容ができて、その内容が事実となるのです。ないようは変化生成消滅していきますから、事実もそれに従っていきます。

人間の向こう側にある物に内容が与えられたときに事実となることができます。新しい現象の発見のときなどはまず、ある、ということだけが事実となっています。それから先のことはまだ事実不明なのです。内容がどんどん明かされるに応じて、どんどん事実に似てくるというわけです。

内容が事実となること次に探ってみましょう。

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18-2。腹母音。心道。先天の半母音世界。ぅ(u)+母音。国=クニ=組んで似せる。

言葉の運用では喋っている内容が即事実ではなく、内容を持ったものを事実としていくのです。今わたしは上記の一文を書き上げましたが、書き上げた文章が事実ですが、事実が文章の内容ではではなく、内容を持ったものあるいは内容を持たした事実としたものです。火星に水があるというは、火星が水ではなく、水が火星でもなく、火星に水があるというのが事実で、水が火星の内容ではありません。意見主張というのは勝手なもので、喋った内容をそのまま事実としがちです。

意見交換論争討論などをみていれば分かる通り、それぞれ内容は出てきますがさっぱり事実となりません。政策提言などは最初から事実としないことを内容としている始末です。ではせっかくの内容があるのに事実と何故ならないのでしょうか。ここにも最後の一厘を超えるということが出てきます。第三者となって当事者間に了解されることです。このような当事者間から独立したかつ両者に了解される、第三者としての事実を作る存在が事実となるので、内容がそのまま事実となるのではありません。

では腹母音に戻って先天の半母音世界をみていきます。

わたしの相手のあなた、陽の相手の陰、主体の相手の客体、等々自分の片半分が半母音となりますが、どのようにして片割れを自分の相手と了解するのでしょうか。

現象を追うと、路傍の石を拾う、画面のスイッチを入れる、字を書く、明日の予定を考える、カレーを食べる、等々何でも全て自分のする行為の相手は物体物質と掛かり合うこと、概念知識と掛かり合うこと、感情情緒と掛かり合うこと、どうしようか迷い選択すること、意思決定にかかわり合う等のどれかに関係しています。

現象は自分ではありません。スイッチを入れても画面の絵や文字は自分ではなく、路傍の石を蹴飛ばしても、カレーを食べても、また書いた文字も自分ではありません。考えた思想概念もそれは言葉という借り物に乗っているものです。現象は概念も含め自分以外の客観物です。

喜怒哀楽の感情が自分のものと言えるものかもしれませんが、それを説明してしまうと、言葉概念が使用されますから自分から離れしまい、それかといって黙って感じているだけなら、誰も知ることがありません。自分の感情を説明できないもどかしさ、理解されないもどかしさはよくあることです。そんなことなら誰にも説明しないで黙って自分に仕舞い込んでいれば、常に自分を保つことができそうにも思えてきます。

ところがそれにも係わらず、この概念記憶の客観物がまるで自分のもの、あるいは自分自身であるとして扱われます。自分が創造した物に限らず拾った石も、食べたカレーも、感動も何ものかも自分自身の五感感覚で得たもので自分のものになり、自分の考え思いで得たもので自分の考え自分の思いになり、その他等々となります。

全くそんなことは普通な当然な日常的なことです。いったい何を考えることがあるのかというくらいにあたりまえのことだけです。自分が触って感じて考えればもう自分のものです。当たり前のことを書いて読まさせられると、またこんがらがってきます。

こんがらがったついでにさらに図を加えます。アイウエオ五十音図です。

能動主体の母音側--取り持つ律動とその現象---受動客体の半母音側

能動主体側 ア---カサタナハマヤラという律動---客体側ぅ(u)ア= アワの主体-客体。

能動主体側 イ---キシチニヒミイリという律動---客体側ぅ(u)イ = イヰの主体-客体。

能動主体側 ウ---クスツヌフムユルという律動---客体側ぅ(u)ウ = ウウの主体-客体。

能動主体側 エ---ケセテネヘメエレという律動---客体側ぅ(u)エ = エヱの主体-客体。

能動主体側 オ---コソトノホモヨロという律動---客体側ぅ(u)オ =オヲの主体-客体。

五十音図は両側に心の能動主体、受動客体の柱を置き、その両者を取り持つ律動と現象結果が中にあります。母音側の能動主体が中間の律動を通して相手側の半母音側に渡ると、その中に主客から作られながら、主客からそれぞれ独立した第三者の現象が生じる図です。それを人の行為として象徴したのが鳥居をくぐるという行為になり、わたしが相手対象に渡って真っ当な現象を生むということになりました。

カレーを食べることなら、わたしという主体側が、カレーという相手に向かって、食欲という律動を通して食べる現象を生むことになります。カレーを食べたというのが事実で、食べるというのはカレーの内容ではありません。主体が客体に渡って現象を生んで事実となるので、主体が客体に渡る相手はカレーに限らず無数無限に口を拡げて待っていて、正しくカレーに行き着いたときにカレーを食べた事実が産まれます。

またカレーを食べる前にも、食べる食べるあれだこれだと主体側は主張するでしょう。その主張を持ってこうすればこうなる、ああすればああなると主体側の律動によって結果さえ出したつもりになれます。しかし、相手対象となるカレーを射止めなければカレーを食べたという事実は得られないのです。

参照。惑わしたついでに。 まず鳥居の原型を見てください。『大神神社(三輪神社)』

( http://small-life.com/archives/10/04/1120.php )

わたしがあなたに渡って中をくぐると、私という現象を生む(神道徒になる)という図です。

現象したものを中心にして話すと以上のようになりました。さらに半母音側の世界に入りましょう。

主体アと客体ワの両柱を渡る能動の律動がしめ縄です。この中をくぐるとアワの主体客体によってできた現象です。今までの説明は平面上でした。

鳥居は立ってるじゃないかということでしょう。鳥居も象徴物象表現ですから心の主客を立てて表現できましたが、主客を分けるのは概念的に理解しやすいからです。ところが神道にはもう一つ最深奥の秘儀となっている象徴があります。アイウエオ五十音図と同じ、鳥居と同じ意味内容を持ったもので、伊勢神宮の忌柱(いみばしら)で、天ノ御柱・天ノ御量柱、心御柱 しんのみはしらです。心柱、こころの柱です。

五で割り切れる五尺の長さで、五分の二が埋もれていて、柱といっても床下にあって屋根を支えているわけでもなく、真上に舟形にヤアタの鏡を戴いています。

神霊の宿る柱ではなく自分の心が宿る柱です。主体と客体が一つの心のように一本になっています。

神道の最深奥も分かってしまえばなんと言うことも無いのですが、何ということも無い分かり方というのは単なる知識概念での分かり方です。つまり分かったいう事実の内容は概念でしかありません。心柱はアイウエオの五つに分かれていて分かったというのは単なる概念知識で了解した、フトマニで言えばオの次元のことでしかありません。全部の内容を解き明かすのはまだ先です。

古事記(心道、神道)は心を平面図上で、主客の分かれた形で、一本の柱の形でと心のあり方をそれぞれの場面に応じて説明しています。心は重なり合って成長肥大化していきますから、さらに立体的にも説明されなければなりません。平面上の説明にはよく原が使用されますが、立体となった心は山が使用されています。こころはころころ動き変化成長していきますから、活用運用する心の説明も必要になります。奇振嶽(くしふるだけ)奇しき心を振る振る運用する山です。

どれをとっても原理は同じで、心の主体側客体側とそれの仲介役が出てきますが、一言で言えば古事記冒頭の十七神が心の原理となっています。十七はひふみ神示によく出てきますし、主客を一本の柱にすると十四神になるので、十四もよく出てきます。さらにそれをよりコンパクトにすると三神になったりで、その時々の取り方で変幻自在です。全て冒頭の十七神の変身した姿です。

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18-3。腹母音。先天の半母音世界。国=クニ=組んで似せる。

以上が先天の半母音を説明する前提です。こんなにごちゃごちゃと書くということは、どうせこの後の説明もうまく出来ないだろうということですから、期待などしないで、各自それぞれ追体験し、自証した方が早いですよ。

何かをしていく時には自分の心が主体となって相手対象に向かうのですが、そこで相手対象を得た時のことについてです。

スイッチを入れて画面の文字を見た時、たった一つの主体の行為と見えても、これだけでも実に多くの連続した主体的な行動経過の流れがあります。一つ一つ区切って書き出せば百年経っても書き出せないくらいのものです。

この一つ一つ区切って存在していくことを古事記では国=クニ=組んで似せる、区切って似せる、といいます。組んで似せるのは、まず主体の意図に似せるのです。それには相手対象がいります。そして両者間を行き交う行動因が必要です。これが三位一体となっていくのがクニになります。クニの似は二二は晴れたりニホン晴れの不似(二二)のニ、アメツチのアの目が付いて地に成るのア、主体の意識が対象に付いて自分を似せて了解すること等と同じことになります。

主体に似せるのか相手に似せるのか、今のところは曖昧な書き方です。自分の考えが相手対象となるのか、相手対象から自分の考えが産まれるのか、こういったあっちかこっちかという知識了解の次元では埒の明かないものです。この両者を超えていくことを、ひふみ神示では○にチョンを入れるとか言っています。あっちとこっちの分裂を○にして、なおかつ主体のチョンを入れるということになります。

不似(二二)を晴らすことで、あっちとこっち、わたしとあなたの二本が晴れることでもあり、両者を組んで似せたクニを治めることでもあります。これはどちらかかの立ち位置にいる限りは解決できず、ひとまず意識の次元を上げて全体を見なければなりません。しかし能動的であるのは主体側ですから、主体から出発します。

主体から出発するといっても、朝、行ってきますと学校へ向かう主体行為がまずあるようですが、今日の一時限目は先生が風邪で休んで二時限目から始まるというように、主体意志からだけ始めると間違えるのです。主体側の意志行為は直接に自分のことですから、片手で音を出せとかいわれて、そうだと思ったこと考えたことを主体側だけでやろうとしてもうまくいきません。

主体側の意思意図が無ければ何も起きませんが、主体側が意図を持つということ自体は、主体が自分と自分の対象を分別したことです。この分別は直ちに起きます。しかし分別以前の○の統体があるからそこから始まるのに、自分を起動する以前の姿を忘れては上手い具合に行きません。

似る似せる似せられるは人の精神行為では創造に係わる本質的なことです。古事記ではアメツチから始めアのメが付いて地に成るというアの芽を地において似せて成ることをテーマにしていて、ヒフミ神示ではやはり冒頭を不似は晴れたりといって、似ていないことを似せることをテーマにしています。そもそもフトマニというのも二十間(真)似で二十の間(真)を似せる学問ということです。

古事記では、国(クニ、組んで似せる)という言葉の使用頻度は多いですけど、そのどれもが主体の心の領域を組んで似せて実現すると読み替えられます。国の古事記の本意は日本の国とか何々地方とかの国土のことではありません。そのように読まさせられているので、それはそれで今暫くは仕方のないことですが、古事記を心の現理論として了解していけば徐々に分かることです。

もちろん後段では話が進んで言って国土の意味にもなりますが、それでも原則となっている主体の心を組んで似せるという意味が貫徹しています。ですので地名とか場所とか探すのも捜し当てた歓びがあるでしょうが、二次的なことで、心と切り離された場所探しならもう意味はないことでしょう。心の現理論とは別の、精々名前の由来としてぐらいは考察されてもいいものになるでしょう。

組んで似せる相手側を半母音と言います。ここで半母音側を現象実在したものとして扱ってしまいますと、主体客体、主観と客勧、思考と存在、わたしとあなた等々の存在論の勇み足、はみ出しの見本となっていきますので注意してください。

というよりも面白いことに、必然のように人ははみ出していく、間違えていくというのが伊耶那岐やスサノオの動きで示されますので、意気消沈することもありませんが。

人とはまず間違うということが古事記では立派に保証されているのです。

妹伊耶那美が先に話しかけ、蛭子を産んで世界に広めたことからこの世を始めています。これは国を造ろうと言って最初の結果です。つまり社会集団の国の共通基盤の創造を指しています。どの立場の主体であろうと、主体達の交流を可能にする言葉の流通の基礎基盤の話をしているのです。主体が彼の意思に沿って組んで似せるには社会性を一般性を無視できず、この一般的な社会性の上に乗らないと個性社会性共に創造できない、その社会性基盤の創造のことです。

このように人の世界はまず個々の主体にとっての「生みし子良からず」を基盤として形成されていきます。つまりこれが自他ともに共通となる一般共通性となり、それをとおして話が通用するものとなっていきます。共通の国、組んで似せられたクニの中にいることになり、不似は晴れたりになります。そして個々の主体が活躍する場所にもなります。

古事記は完璧な心の原論ですからその共通の国を、先天の根拠として示しています。 主客の別の分別が出来た後に、造化三神の後、まず出てきた神が、

「次に、国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。【 言霊 ヲ】」

と説明されています。

古事記で「次に」というのは、前の全体を受けて、前全体を自身の内容として第三者として現れることです。

主体が自他との分別を知った後には、国=組んで似せることがアヤフヤな時に意識の中で用意されているのは半母音側の言霊ヲと言っています。人はまずこの範囲内で自らのこころの構築が始まります。

高御産巣日(たかみむすび)の神の主体側が登場し、次にそれを受けて神産巣日(かみむすび)の神の受動側が登場します。そこで一つの全体ができて、その全体という受動的なものが宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神となって、次に、それに向かう主体的な天の常立(とこたち)の神がでてきます。

このように能動受動がペアとなって、主側客体側が入れ代わりつつ次々に自分を創造していきます。

ですので、客体と主体とは一体ですが、一の統一体がある時と、二の主体が客体に向かう時と、三の客体が主体を待ち受ける時の三次元世界をもともと内包しています。

今までスイッチを入れて画面の字を見るとか言ってきましたが、ひふみ神示でいう○の世界も実はこの三次元世界をまとめて言ったものなのです。その世界は実在に先天的にあるというだけで、この後いわゆるチョンをいれる行為があります。しかもそれは八つに分類されますが後述します。

そこで半母音側の世界も元々三段階(三次元)ありますからそのように話さなければなりません。

前回はなした伊勢の最奥義となっている心の御柱とは人の心のことで、人類の心のことです。いつまでも日本の神道に留めておく理由はもう無いのですが、まだ暫くはこのままでしょう。伊勢の心の御柱は地球人類の心ですからいつまでも日本だ日本だといっている時代ではないのです。これはまだちょっと速すぎる言い方ですが、大和の日本からその方向へ言い出さないことには、世界は動きません。

宇宙の動きはオノゴロ(おのれのこころの)島の領域で人の心となれる天の御柱と八尋殿を打ち立てました。このうち、御柱はこころの世界の実在性の一般化を模したもので、八尋殿はこころの世界の動きを模したものとなり、これらが心の動きとなって現象創造行為、言葉の創造となっていくものです。

鳥居とか五十音図とか古事記の神代の巻きとかを全部ひとまとめにすると一本の柱、伊勢の御柱になります。何でもない、ただ心の事を話しているだけなのですが、比喩があれこれ入っていて平面とか立体とか、内容とか形式とか、主体能動とか客体受動で説明しているから、ごちゃごちゃした感じになります。

伊勢の御柱のように動かずここにあるこれだと、それを見つめて感得してしまえば全てです。全てですなんて言ういいかたはおかしいけれど、私たちそれぞれがおかしいので、心柱はそれだけのものです。少なくとも禅のように感得してしまえばそれを最低条件として、世界が動き出します。それまではいろいろとあれこれごちゃごちゃが続きます。

一本の柱なのに主体側と客体側があって、立体と平面があって、能動と受動があって螺旋上昇循環しているなど、いくら説明したってきりがありません。ハッと悟ってもらった方がいいのです。私も悟ってしまえばこんな分かってもいない説明をしなくても済みます。

この伊勢の柱の真実はこれまでの二千年間の人類の哲学の根本を象徴したものですから、もし分かったという暁には、人類史の曙となるものです。既に大和のスメラミコト達によって解明されていたものを再度追体験するだけですけれど、その後の二千年間誰一人として、宗教家も思想家も哲学者も解けなかった問題です。

今世紀になって初めて全貌が故島田正路氏によって明かされましたが、続く人がいません。主客の存在に関するどんな分野からの根本命題に答えることができる唯一の原理ですが、未だにこの心の原理を解せる次の人が出ません。

本来なら島田正路氏によってスメラミコトが復言(かえりごと)を受けて、古事記の原理を受け継ぐのですが、皇室においても全く用意ができていません。最近よく言霊学ということで個人的な記事を見ますが、世界朝廷まで見通している人はいないようです。

これは人間の心の構造を真似た言語を持っていないとできないことです。残念ながら大和言葉を受け継ぐ日本語にしかその構造が世界のどこにも残っていないので、必然的に日本語を知っている人の中からしか暁をおぼえ開ける人がでません。

i子様 出番ですよ。

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