01- 始めに

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その一- <第百六十号>平成十三年十月号

「古事記と言霊」というテーマでお話を始めます。古事記とは日本の最も古い書物の一つであり、言霊と申しますのは日本民族の太古の祖先が、人間の心を構成している究極の要素として今から八千年乃至一万年程前に発見したもので、その言霊(これをコトタマと呼びます)によって構成されている人間の精神法則を布斗麻邇(フトマニ)と呼びました。以上の日本最古の書物である古事記と、日本の太古といわれる時代に日本人の祖先によって発見された言霊布斗麻邇の原理とが如何なる関係にあるのか、その関係を調べることによって如何なる事が分かって来るのか、等々をお話するのがこの「古事記と言霊」講座の目的であります。

今回の講座は表題に多少の違いはあるものの「古事記と言霊」の四回目の講座であります。過去三回の講座で言霊布斗麻邇の原理は理論的には百パーセント近くまで完成し、その三回の講座の話を基礎にして当会発行の書籍「古事記と言霊」が世に送り出されています。そんな事情を踏まえた上での第四回「古事記と言霊」講座で御座いますので、従来とは趣向を変え「古事記と言霊」の本の記述の順序に則って話を進めながら、随所に記述の内容に関連したエピソードや言霊学勉学についての注意事項などを折り込んで話を進めて参りたいと思います。興味深い講座の話にまとまり、読者の皆様の言霊学の尚一層の御理解に役立つならば幸甚と存じます。出来れば「古事記と言霊」の本を座右にしてお聞き下されば便利かと存じます。

先ず古事記という本について簡単に説明しましょう。古事記は奈良時代の最初の天皇である元明天皇の勅命(和銅四年九月十八日・七一一年)により太安万侶が稗田阿礼(ひえだあれ)の誦んだ帝王の日嗣と先代の旧辞を撰録して和銅五年正月十八日・七一二年に献上した書物であります。その古事記撰録の基礎となりました稗田阿礼の暗誦した歴史とは、元明天皇より三代前の天武天皇が稗田阿礼に勅語して、帝王の日嗣と先代の旧辞(くじ)とを誦み習わしめた、といわれるものであります。帝記とは歴代天皇の系譜を中心に諸氏族の系譜との関わりを記した書、旧辞とは前の世の伝えごとの事であります。

古事記は全文が漢字で書かれています。とは言いましても漢文ではありません。日本語を、その音と同じ漢字を当て、またはその意味・内容が同じ漢字を当てて書かれたのであります。例えば姓(うじ)の日下(くさか)を玖沙詞(くさか)と書き、名の帯(たらし)の字に多羅斯(たらし)を当てるようにであります。簡単に言いますと、私達が現在、難しい漢字に假名のルビを振るように日本語を漢字のルビで書いたのです。この方法は日本最古の歌集といわれる万葉集にも同じように使われました。従ってこれを現代人が読みこなす事は困難であり、万葉集の歌の中には今現在に到っても如何に読んでよいかが不明のものもある位であります。幸い古事記は本居宣長(もとおりのりなが)の多年の労作により寛政十年(一七九八年)「古事記伝」として翻訳され、現代人に読めるようになりました。何故安万侶がこの様な難読な書としたのか、またはせざるを得なかったのか、の理由を明らかにする事も本講座の目的の一つであります。

古事記は上中下の三巻より成っています。上つ巻は天地の開闢、天の御中主の神より日子波限建鵜草葺不合(ひこなぎさたけうがやふきあえず)の尊までの神話を載せ、中つ巻は神倭伊波礼■古(かんやまといはれひこ)の天皇(神武天皇)より品陀(ほむだ)の御世(応神天皇)までの歴史、下つ巻は大雀(おおさざき)の天皇(仁徳天皇)より三十三代小治田(おはりだ)の大宮(推古天皇)までの歴史が書かれています。中下巻は天皇を中心とする現実の歴史書であり、その前の上巻が、中巻以前の歴史と思わせるような恰好の神々の神話で構成されているのが最大の特徴と言えましょう。この奇妙とも思える歴史書構成の内容に対する解釈の相違が近代日本人の歴史観・国家観に大きな変動をもたらす事にも繋がることになります。この日本人の歴史観に根底からの見直しを迫る事も本講座の目的の一つと言う事が出来ます。

古事記撰上の年の八年後に舎人(とねり)親王等によって「日本書紀」が撰上されました。この書もまた歴史の初めに神話が冠せられています。この日本最古の書物であり、歴史書である古事記・日本書紀の伝える日本の歴史の記述の前置きに現実世界の歴史ではない超越的世界の神々の神話の記述があることから、日本国の君主である歴代の天皇・皇位の尊厳が人事を超越した神によって国が肇まる以前に既に決定されていたという、人間による証明不可能な信じ仰ぐより他に解釈する事が許されない絶対の神性を持ったものと規定されたのでありました。その信じるより他の態度を国民の側に許さない天皇位の根拠は古事記神話の「天孫降臨」の章、『日子番(ひほこ)の邇々芸(ににぎ)の命に詔科(みことおほ)せて、「この豊葦原の水穂の国は、汝(いまし)の知らさむ国なりとことよさしたまふ。かれ命のままに天降りますべし」とのりたまひき。』と記された天照大神の皇孫邇々芸の命に与えた命令に拠っている事であります。更に近世に入り、この神話による天皇位の尊厳は明治憲法により「天皇は神聖にして犯すべからず」という最高法律の条文として規定され、天皇は信仰上も、また法律上に於いても絶対のものとなりました。以上が第二次世界大戦終了までの日本国天皇の皇位と日本国国体の姿でありました。この様な見解が長年月にわたり日本国民の信条として続く事となりましたのも、一にかかって古事記・日本書紀の超現世的な神話がそのまま現実世界の歴史の構想力・原動力として取り入れられた事にあります。「日本は神国なり」の思想が日本人の頭脳に浸み込んだ結果に他なりません。この様な思想は事日本国だけなら時として通用する事もありましょう。けれど世界の各民族のすべてに通用する「神聖」としては到底通用し得ない事が起きて来る事も否むことは出来ない事です。そしてその時が到来します。

第二次世界大戦が勃発しました。神国日本が神聖なる天皇の名に於いて戦争をし、完敗しました。昭和天皇は敗戦の翌年、昭和二十一年一月「古事記・日本書紀の神話は単なる神話であり、皇室とは関係ないものである」との詔勅を発表・宣言し、次いで発布された日本国憲法によって「主権在民、天皇は国民統合の象徴」との決定がなされたのであります。所謂人間天皇宣言であります。日本の従来の天皇中心の歴史は、考古学的遺物、または外国の古文書にてその実在が証明されたもの以外はすべて歴史の中から抹殺されました。所謂実證的歴史が出発したのです。その結果、良きにつけ悪しきにつけ日本国と日本人の因習、伝統として日本人の心に育まれて来た日本人のアイデンティティーが少なくとも表面的には木端微塵に吹き飛んでしまいました。今の日本人は糸が切れた奴凧(やっこだこ)、根なし草の境涯に陥り、民主主義的ヒューマニズムの心がやっと社会の連帯感を支えているのが実状です。「日本人よ、何処へ行く」のでしょうか。

以上、古事記・日本書紀の神話をそのまま現実社会史観とした過去の日本人の歴史観と、記紀の記述を全く放棄した戦後の〈実證的〉と称する歴史観とを簡単に並べて見ました。その余りの変貌に改めて驚かれる方もあるのではないでしょうか。私達日本人は遠い祖先の時代から少なくとも数千年の間、この日本列島の地に住み、生活を営んで来ました。その長い間に自然に培われて来た日本民族としての生命の叫びとでもいわれるもの、血統と霊統のアイデンティティー、民族としての使命等があるのではないでしょうか。社会的な変化、精神的変貌を繰り返しながら、意識の底に形成されて来た民族の特性・特徴が当然あって然るべきではないでしょうか。第二次世界大戦の敗戦の前と後でかくも正反対の立場と見える日本の歴史観の変化も、実は日本人の意識の底の底を流れる生命の血統・霊統の源泉の立場から見るならば、日本人が長い間に培って来た意識の下の使命が辿る必然の当為の道なのではないでしょうか。一見この様な途方もなく大言壮語とも思われる「世界の中の日本」の道の発見の課題に一石を、大きな大きな一石を投ずる事も本講の目的の一つであります。

古事記の神話と歴史との関係の話からいくつかの問題提起をして来ました。最後に歴史そのものについて考えてみましょう。古事記の神話をそのまま鵜呑みにして来た戦争以前の日本の歴史、その神話を全く否定して作られた戦後の歴史、この双方の歴史観は正反対のものです。同じ国の同じ時代の歴史を取扱う歴史書がかくも違うものとなるとは全く奇妙としか言いようがありません。その時代の年月が如何に長く、複雑な事件が如何に多く起ったとしても、起った出来事の実相は常に唯一つしかありません。なのにその記述にこれ程大きな違いが出て来るのは何故なのでしょうか。その最も大きな原因は歴史を考え、記述する人の判断の基となる経験知識が人それぞれに異なるからです。「○○さんってどんな人」と○○さんを知っている十人の人に聞いて見て下さい。十人十色の答えが返って来るでしょう。全く同じ答えなど先ずありません。歴史を判断する立場も十人十色です。ですから十人の歴史学者は十種類の歴史を書く事となります。知識偏重の現代人にはその歴史の十人十色が当然と思うのかも知れません。歴史を学問の対象と考えて、自らのアイデンティティーの根源の一つであるとは考えていないように見受けられます。そこに真実の歴史から懸け離れた歴史書が横行することともなります。歴史記述が多様化することは構わぬ事でしょう。けれどそれと同時に歴史的な実相は実は唯一つしか存在しないという嚴たる事実を認める事も重要でありましょう。そこに歴史を記述する人間そのものが問題となります。「人間とはそも何者なのか」という問題を過去の歴史が現代人に提起しているのではないでしょうか。

「人間とは何か」の言葉を聞くと、私が学生時代よく聞いた藤村操の話を思い出します。今で言う東大生であった俊才藤村操は「人生不可解なり」の一語を残して、日光華厳の滝に身を投じ自殺したのでした。明治時代(一九○三年)の話です。それから約百年の歳月が経ちました。その間、日本はもとより世界の何人も藤村操の疑問に完全な解答を与えた人はいないようです。それでは人類始まって以来今日まで、また今日より未来永劫、この「人生とは何か」に人類は答えを出し得ないのでしょうか。否、決してそうではありません。人類は各民族が神代と呼ぶ遠い昔、既にこの「人間とは何ぞや」の問題に必要にして十分な完全無欠の解答を発見しているのです。それが本講座「古事記と言霊」の話の中の言霊学(コトタマノマナビ)なのであります。詳しくは後程お話申し上げることといたします。

「古事記と言霊」の古事記の説明はこの位にして、次に言霊についての簡単な説明をいたします。言霊はコトタマと呼びます。コトダマではありません。この説明は後程いたします。人が何かの物を見たとします。この時、見ている人の主観的な立場をネグレクトして(これを哲学の言葉で捨象といいます)見られている客観的な物質が何であるか、どんな成分から成り立っているか、と調べて行って長い科学的研究の末に物質を構成している究極の物質として分子、原子を発見しました。その発見までに人類は約四、五千年の歳月を要したと考えられています。更に人類は人間の意識では捕捉することが出来ない物質の先験的領域に研究の手を延ばし、終に物質の先験構成要素として電子・陽子・中性子その他究極的な種々の核子、果てにコークなるものの存在を突きとめました。物質というものの全構造を明らかにするのもそう遠い事ではないでしょう。物質科学の一応の完成は間近だと思われています。人類は「物とは何ぞや」に究極の解答を出す事が出来る時が来ました。

人類が「物とは何か」の疑問に対する答えを出そうと研究を始めた時より更に数千年前、人間は「人には心がある。心とは何なのであろうか」の問を発しました。その疑問に興味を持った人々が一ヵ処に集まり、お互いに力を合わせて研究を始めました。古事記に高天原とありますから、その場所は地球の高原地帯、アジアのチベット、またはアフガニスタン、インド方面の山岳地帯ではなかったでしょうか。集まって来た賢者達の関心は人の心と言葉との関係であった様に思われます。人類が「物とは」の問いに一応の答えを出すに要したと同じ程に長い年月をかけた研究の結果、賢者達は人の心についての完全な解答を発見したのです。その解答によれば、人の心を分析して行って、もうこれ以上分析出来ない処まで来た時、心は十七個の先天要素と三十二個の後天要素、それに文字化する要素一合計五十個の要素から構成されている。彼らはそれ等要素の一つ一つを、現在私達が小学校時代に覚えたアイウエオ五十音の清音の単音の一つ一つと結び、これを言霊(コトタマ)と呼びました。それは心の最小単位であると同時に言葉の最小単位でもあるもの、心であると同時に言葉であり、言葉であると同時に心でもあるもの、即ち言霊(ことたま)であります。人の心は五十個の言霊によって構成されており、五十個より多くも少なくもありません。彼等は言霊の事を一音で霊(ひ)とも言いました。霊(ひ)が止(とど)まるから人です。

次に彼等は人の心の動きを言霊の動きとしてそのすべてを解明しました。人の心の動きとは五十個の言霊が典型的に五十通りに動く事であると発見したのです。五十個の言霊が五十通りの動きをする、即ち計百個の原理を発見し、この原理・法則に布斗麻邇と名を付けました。私達はこれを言霊の原理と呼んでいます。彼等は言霊即ち霊の原理を知る人です。霊知り(ひしり)(聖)と呼ばれます。

【註】現在言霊という言葉は静かなブームとなっているようです。書店の棚には数種から十数種の言霊の本が並んでいます。それ等の本の言霊はすべて「コトダマ」とタの字に濁音が附いています。舟底を「ふなぞこ」と読みます。舟の底の意ですと、このように底に濁点が附いて「ぞこ」となります。同様一般の言霊論では言霊とは言葉の心、言葉に含まれている心の意でありますので「ことだま」と濁ります。本書にある言霊は説明いたしましたように、言であると同時に心でもあるもの、即ち言と心の意でありますので「ことたま」と濁点が附きません。本論にある言霊とは、現代人がそれぞれ自分の経験知からする言霊論ではなく、遠い太古から日本に伝わる言霊学(コトタマノマナビ)の言霊であります。

時が来て言霊布斗麻邇の原理の自覚者達は自らの発見した心の究極の原理・法則を運用・活用してこの地球上に理想世界を建設しようと思い立ちました。霊知り(聖)の集団はアジアの高原地帯から今の中国を通り、朝鮮半島を過ぎて更に進みました。古事記に「ここに■肉(そじし)の韓国を笠沙之前(かささのみさき)に求(ま)ぎ通りて詔りたまはく、此地(ここ)は朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞ甚(い)と吉き地と詔りたまひて……」とありますから、朝鮮半島を通って日本の九州地方に来たという事になりましょう。この事実を古事記・日本書紀の神話は「天孫降臨」と呼び、天空の高天原から皇祖の天照大神の孫神に当る邇々芸の命が九州の高千穂の峰に天降ったと記しています。

心の究極の法則を自覚した霊知り達がこの日本列島に天降ったといわれる時は何時だったのでしょうか。はっきりはしません。けれど今から約一万年乃至八千年位前という事は確かであります。日本到着後、聖達即ち私達日本人の大先祖がした最初の仕事は言霊原理に則り事や物の実相に名を付けた事であります。日本語の創造です。物や事の真実の姿に即して、一音一音が心の実相を示す言霊を結び合わせて名を付けたのですから、その名前や言葉は物や出来事の真実の有様をそのまま表現しています。概念の説明・解釈を必要としません。言葉がそのまま実相です。「惟神(かんながら)言挙げせぬ国」とは日本語の上述の意義を言ったものであります。

大先祖の霊知り達が次に取掛かった仕事は、物事の実相がそのまま表現されている言語が、更にそのまま通用して矛盾の起こらない社会即ち国家の建設です。日本国家の肇国はこうして行われました。日本国の誕生です。今から少なくとも八千年程前の事と推察されます。日本の国を肇めた人の名前を古事記は邇々芸(ににぎ)の命と呼びます。邇(に)とは二・似の意です。邇々(にに)とは「二次的な、更に二次的な」の意で、第三次的なの意となります。第一次の真理は言霊です。第二次的とは言霊を結ぶ事によって付けられた物事の名前です。第三次的な芸術(邇々芸)とは言霊原理によって名付けられた物事の名前が世の中に使われて矛盾が起こらない社会・国家・世界を建設・実現させる芸術の意となります。そのように言霊原理に則って人々が幸福に生活し、全体の調和が保たれる合理的な国家、世界の建設の創始者、またその意図の下に人類の文明創造を始めた責任者の名前を邇々芸の命と呼ぶのであります。

邇々芸の命と、その建設の意図を受け嗣ぐ霊知り達の努力によって、日本の国と世界に平和で心豊かな社会が築かれて行きました。現在世界各民族の神話が「神代」と呼んでいる平和豊饒な時代とは単なるユートピアなのではなく、人類の歴史に数千年にわたり実在し、存続した精神的理想の時代であったのです。この時代の日本国は「霊の本」(ひのもと)と呼ばれました。世界の政治の根本原理である布斗麻邇を保持して世界の中心となり、その上言霊原理より直接造られた日本語を以って生活を営む国の意であります。その法・教・政庁の最高責任者を天津日嗣天皇(アマツヒツギスメラミコト)と呼びました。心の先天構造から発する(天津)精神原理(日)を先祖より受け嗣ぎ、世界の人々の生命・使命(みこと)を総覧(スメラ)する人の意であります。

天津日嗣天皇の統べる日本国朝廷の道義政治の下に世界は平和な時代が続きました。天皇の系譜(王朝)である邇々芸(ににぎ)、日子穂々出見(ひこほほでみ)、鵜草葺不合(うがやふきあえず)の三王朝が相継ぐ約五千年の間精神文明の華が咲いた時代であります。その記述は「古事記と言霊」の歴史編を御覧下さい。この五千年間を人類の第一精神文明時代と呼びます。

精神文明時代の第三番目の鵜草葺不合王朝の中葉に到り、爛熟した精神文明の社会の中に漸くその時までとは違う風潮が起って来ました。物事を見る側、即ち主体を見つめる眼が、物事を外界として見る物質の方向に移って行く傾向が醸成され始め、進んでその外界の探求に興味を示す人が増して来たのであります。今より四千年程前の事と推定されます。それを主張する社会の中の勢力が次第に強くなって来ました。「心とは何ぞや」から「物質とは……」への関心の変動です。

この人類の精神の偏向を早く察知した日本の朝廷は、徐々に精神文化の日本より外国への輸出を減らして行き、終に今より三千年程前に到り、日本朝廷の人類文明創造の政治の宏謨が精神文明から世界を挙げて物質文明創造へと切り換える事が決定されたのであります。一足先に外国に於いて精神文明時代は終焉の幕が下ろされ、二千六百余年前、日本に於いても新しい神倭王朝の創設となり、六百年後、神倭(かんやまと)王朝第十代崇神天皇の時、精神文明創造の原器であった言霊布斗麻邇の原理の象徴である三種の神器が天皇の座右から離され、伊勢神宮の神体として信仰の対象となって祭られたのであります。

物質科学文明の創造促進のための精神土壌は弱肉強食の生存競争社会です。そのための方便として第一精神文明時代を築き上げた精神原理布斗麻邇は政治への適用が廃止されました。古事記の神話にありますように天照大神は岩戸に隠れ、世の中は真っ暗になりました。ですから物質文明即ち「物質とは何か」が解明された暁には、精神原理布斗麻邇は再び世の中に復活されなければなりません。人類の第二物質科学文明完成の時が来た時、第一精神文明の原理が人間の意識に復活し、それら心物双方の二大原理が協調する人類の第三文明時代の到来を宏謨に入れての上の朝廷の決定であるからです。

崇神天皇以後二千年の歳月を経て、言霊の原理が再び人々の意識の表面に浮かび上がって来る事に備えて、日本の朝廷に於いて種々の方策が実行に移されました。それ等の施策については「古事記と言霊」の「歴史編」に詳しく示されています。言霊原理隠没から七百年が過ぎた奈良時代の初め、それ等施策の最後のものとして、ここにお話しております「古事記」並びに「日本書紀」の編纂が行われたのであります。これは私達日本人の古代の祖先の霊知り達、日本神道ではこの人達を皇祖皇宗と尊んでいますが、この人達が二千年後の子孫の日本人のために遺した深謀遠慮の賜(たまもの)であります。物質科学文明創造の促進のための方便である生存競争時代に於いては、言霊原理は日本並びに世界の人々の忘却の内に閉じ込めておかなければなりません。けれど忘却とは喪失ではありません。時が来れば必ず民族の意識上に帰って来なければなりません。大本教祖のお筆先は「知らしてはならず、知らさいではならず、神はつらいぞよ」と表現していますが、この「知らせてはならず、知らさいではならず」の苦肉の一策が古事記の上つ巻の神話(神々の物語)となって現れたのであります。古事記の編者、太安万侶は勅命により歴史書の巻頭の上つ巻に歴史とは直接関係のないような神話を飾りました。そして途轍もない歴史書を作り上げました。……

もうお話が此処まで来れば、大方の読者はお気付きになった事でしょう。古事記の上つ巻の神話は「人間の心とは何か」の完全解答である言霊布斗麻邇の原理を神々の物語という謎々の形式で示した「人間」そのものの文明創造の歴史の序文なのです。「蟹はその甲羅に似せて穴を掘る」といわれます。人間はその天与の性能という甲羅通りに歴史を創造します。太安万侶は「人間とは何ぞや」の全容である言霊の原理を神話という謎で示し、その人間精神の自己発展の記録としての歴史を書こうと意図したのであります。

以上、「古事記と言霊」講座開始に当って、「古事記」と「言霊」双方について予め簡単な解説を申し上げました。そのどちらの説明も現在の国文学者や歴史学者が聞いたら、直ちに空想物語として一笑に附してしまうに違いないでしょう。にも拘わらずこの解説は真実そのものなのであります。読者の皆様がこれから始まる本講座の話を成る可く先入観なしにお聞き下さり、御自分の心の姿と比べてお考え下さるならば、太安万侶の撰上した古事記の神話の指し示す人間の心の全内容とその動き、またその原理によって創造されつつある人類の歴史の実態が掌にとる如く明らかになって来ることでしょう。

(次号に続く)