06章-1 こころの今とは何か

<今とは何か>

本章は六章「己の心の成立」の中にあるものです。己の心が成立(御柱と八尋殿)して、その活動場(十四島)もできました。そこで次は実際に動くことですが、動くことは時間の内で動くことになりますので、こんどは時間を創造してみましょう。

あちこちでイマココという言い方をしてきましたが、「今・イマ」を明かしていませんでしたので、ここでイマの問題だけを扱うことにしました。

「いま」というのは「イの間」のことで、言霊「イ」は父韻母音として発現してきますから、その現れの十七を取ることになります。ですのでここでは「イマ」の十七面相を明かすことになるでしょう。

また例えば、イマと言おうとして、イマという言葉を選んで、イマと発音して、イマと聞いて、イマと了解確認するのはほんの一瞬のことです。古事記はその一瞬を百の神様の名前を使用して解説したものですから、イマとは百神のことでもあります。

とはいえ十七神の原理は人間の心の原理ですから、イマを語る上でも貫徹していきます。

過去と未来との境になる時と捉えればその実相は十七の瞬間を「いま」といっているとなるでしょうし、時間意識か場所意識かに傾けばそれのどちらかの現れとなるでしょうから、十四島のどれかに杭を立てることになるでしょうし、確認了解されたイマを語るときには百神のどれかを持ち上げることになるでしょう。

いずれにしてもイマを時の現れとして固定してしまうと現象解釈となって迷いますので、まずはフトマニ原理に沿って明かしてみたいと思います。

フトマニ原理は常にあめつち(吾の眼を付けて智と成す)から始まります。

イマを知識と実践、及びその発展した姿である哲学や宗教、と取ることになるときも、イマの自覚なく時間に流される意識から、自覚していく意識を持ちたいという思いを得るときも、現れの捉え方は無限の軸点がありますが、まずは原理を確かめておきましょう。

その前に少し驚くようなイマの分析をしておきましょう。これらはイマの理解の要素になりますが、固定してしまいますと悪い例となります。悪い例に対してあれこれ意見を出してもらっても、それぞれが固定されて訂正されませんので、それの出所(フトマニ原理)に戻る必要があります。

イマというのは百神の一塊の連続、十七原理の全体、十四島を全部渡り終えることですから、以下の例に示されるのは各要素としてのイマの姿です。ですのでそれだけを取り出してもらっても困ります。

「今」とは何か

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「今」にはその

在り方 ・アリサマ (知識) と、

働き方 ・イキサマ (実践) が

ある。

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ありさま。

「今」という瞬間は、その在り方を見ると、

一 今そのものが現前しているという今の在り方

二 今そのものが過去から現在にきたという今の在り方

三 今そのものが現在から未来へいくという今の在り方

四 今そのものが上記全体としてあるという今の在り方

の四つの統合体を指しますが、意識の切り取り方によってどれかに片寄っていきます。

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いきさま。

「今」という瞬間は、その働き方を見ると、 その働きの様態からも見ることができます。

一、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の関係で、今の持続していく働きがあります。

二、産まれようとしてあったものが今産まれる、といういわば、 過去-今の関係で、今が現在を掻き繰る働きがあります。

三、今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の関係で、未来に静まりあるいは拡散する働きがあります。

四、そしてこれら三態が一挙に俯瞰されるように生まれる状態、いわば、 今-全体の関係で、その状態に開くか煮詰まるかする働きがあります。

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今にはこのようにその在り方と働きとがあります。

しかし、「在り方」と「働き方」を統合している「今」があり、それを昔の人は

「今中」・ナリサマ と言った。

今とは何かは、この「今中・ナリサマ」から始まる。

そしてこのイマのナリサマは、無自覚的な意識のイマから、自覚されたイマの意識のアリサマへと変化する経過を辿ります。

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イマというのはこの世と同義ですから、この世の何をとってもイマの問題になります。

上でイマを瞬間とか働きとかで捉えましたが、時間の変化でも捉えられるし、実体の変化としても捉えられます。

時間の変化

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時間の変化、という瞬間は、その在り方と働きの方面から見られます

まず時間の変化のあり方は以下の四態

一 時間の変化そのものが現前しているという時間の変化の在り方

二 時間の変化そのものが過去から現在にきたという時間の変化の在り方

三 時間の変化そのものが現在から未来へいくという時間の変化の在り方

四 時間の変化そのものが上記全体としてあるという時間の変化の在り方

変化ということはこの四つの統合体を指しますが、現象を作る意識はその意識の切り取り方によってどれかに片寄っていきます。

次いで、時間の変化は、その働きの様態からも見ることができます。

働きの様態。

一、時間の変化が産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の関係で、今の時間の変化が持続していく働きがあります。

二、時間の変化が産まれようとしてあったものが今産まれる、といういわば、 過去-今の関係で、今の時間の変化が現在を掻き繰る働きがあります。

三、時間の変化の今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の関係で、時間の変化の未来に創造され静まりあるいは拡散する働きがあります。

四、そしてこれら三態が一挙に俯瞰されるように生まれる時間の変化の状態、いわば、 今-全体の関係で、時間の変化の状態に開くか煮詰まるかする働きがあります。

時間の変化にはこのようにその在り方と働きとがあります。こうしたことが「今」という瞬間に全てが凝縮連結されています。

ですので「時間の初めの時」というときの内容は上記の在り方と働きの掛け合わされたものが出てくることになります。

そしてさらに、これらは意識の初めには自覚的であるか、無自覚反射的であるかの違いによってもその有り様は変化します。

実体。

今の実体的な見方

一 今そのものが現前しているという在り方

二 今そのものが過去からきたという在り方

三 今そのものが未来へいくという在り方

四 今そのものが上記全体としてあるという在り方

普通「いま」というのは上記のどれかを指していることが多い。

しかし、「今」の本体は上記1~4の総体にある。

・今の四つの様相 (定点の四つの今)

「今」を詳細に見ると、以下の様態を示しています。

一、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の関係、 五感感覚の次元、そして後に言霊ウとなる。

二、産まれようとし てあったものが今産まれる、といういわば、 過去-今の関係、知識記憶概念の次元、そして後に言霊オとなる。

三、それら二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、 今-全体の関係、 感情情緒の次元、。そして後に言霊アとなる。

四、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の関係、按配選択の智恵の次元、そして後に言霊エとなる。

このそれぞれ次元の違う四つの今があるのです。

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今の心。

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今が今を産む時の心の姿。

一 今が今を今あるものとして産むときは、五感感覚の欲望の形で生まれる。

二 今が過去にあるものを今あるものとして産むときには、記憶概念による知識の形で生まれる。

三 今が今あるものを未来にあるものとして産むときには、分配按配による選択の形で生まれる。

四 今が上記の形態を一挙に納得了解するものとして産むときには、感情・情緒の形で生まれる。

ここで主語となっている今は言霊イの創造意志が、それぞれの次元を創る形で生まれる。

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イマをとらえる関心の角度視点によって現れる様々な在り方を示しました。それらが個別的な実例となっていきます。

しかしこれらの視点は流れのスナップ写真というか一点を留めただけのもので、全体を示していません。全体というのはいうまでもなく、古事記の冒頭百神でイマを百神で語ることができれば完成ということです。

上記で述べたイマの色々は、一回ごとにたたき台に載せられたもので関心を引くでしょうがそれだけのものです。

ここまでの論考では言霊原理の十七神と自己領域の確立までしか語っていません。わたしとしてはイマの全体を示してみたいのですが、この「イマとは何か」も、無理せずできるところまでやってみて、後は読者に任してしまいましょう。

というのもフトマニ言霊学の原理は数千年前に既に完成していて、現代の我々はそれに似せて自己反省をして追体験をしようというもので、現代の誰かが考えたものではありません。そこには知的財産権などというものはなく、世界歴史に参加しようという意志があります。

確かに解説している人間は自分の考えを使って何かしらを形成していると思っていますから、その分だけの知的財産は持っているかもしれませんが、たかがしれたものです。世界朝廷のスメラミコトへの立候補まではほど遠いものです。

既に弟子を自称したり、講演や売文をしている者が出てきています。それなりの独自なもの、アイデアなどを持っているという自負からでしょうが、切磋琢磨していくにはそういった者も必要とされるし、フトマニ学を知るすそ野が拡がる切っ掛けともなっていきます。まずは蛭子が巷に流され、そして淡島の一般領域が普遍的になっていくことの無自覚的な手伝いともなっています。

いつか「共に参(ま)ゐ上がりて、天つ神の命を請ひたまひき。」の時期がくるでしょう。

では始める前につぎのことだけ断っておきましょう。

ここでは、心にとってのイマの話ですから、物理学とか、今見ている太陽の光は実は八分前の光を見ているのだとかいう、科学・数学の時間で解析するイマのことではありません。

例えば、心には一分経っても五分経っても一時間経っても今空腹でありつづけるイマがあります。あるいはあれにしようかこれにしようかよそうかといったいつまで経ってもイマの来ない、そういった心のイマの話です。

全ての問題は古事記をなぞっていけば解決するようになっています。

ではわたしのイマを創ってみましょう。

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〈 こころの今とは何か 〉論。 -- 古事記の引用による逐次適用

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【古事記、こじき】

ここでいう【こじき】の【こ】は心の「こ(子現象)」を指します。心子の事を記そうとするもので、そのテーマは「イマ」です。

【天地(あめつち)】

【あめつち】は私の意識である、吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)と成す、ことで、私の持つイマという吾の意識を考え思うことです。イマと言えば誰にでも通じる「今」がありますが、と同時に私自身の個別的な思いの「イマ」があります。

【初発(はじめ)の時】

現在私の持っている、あるいは持ち始めようとしているイマの意識のことで、後から知識概念が加わったり考えたと称するものを追加したりする以前の、もともと自分の持つイマの意識のことです。論理概念となって理論だ科学だ客観性として固定される概念を扱うのではありません。

心は時々刻々ころころ変わりますが、その時々のイマとされた心が誰でもの始まりです。

【高天(たかあま)の原(はら)に成りませる】

イマという意識の始まりがありますが、その始まる場所があり、その在り処を高天原といいます。タカマハラとは読まず、特別にタカ・アマ・ノハラとよめと原文に指定されています。

タとカの・吾(ア)の間の・原ということで、言霊タとカで始まる吾の間(私の意識の居間)の原(言語運用規範・五十音図のこと)を指します。

私の吾の意識を運用する場所を各人が持っているということです。言葉の運用にはそれが働く規範領域がないことには、通用せず単なる個人だけに発明された言葉になってしまいます。日本人は五十音図を規範としています。その運用に五十音図が「タ」で始まる規範と「カ」で始まる規範とがあり、普通の言葉で言い換えれば、自覚しているか無自覚かということになります。タカアマの原は天上にあるのではなく心にありますから、「イマ」も心の内にあります。

【神の名(みな)は、】

その活動場での出演してくる役者たちのことです。五十音図と同じ五十人(要素)になり、次いで五十の運用がでてきます。役の進行に応じて働きやその現れ方が変化していきますが、受精卵の細胞分裂のように、植物の種のように、現象成長の違いも元を正せば同じ一つのものから発生したという関係です。すそ野は拡がりそれそれの姿は変わり独自性を持つようになりますが元は一つですから、柿の種から桜は咲かず、人は豚の子は生めないのです。

種、受精卵は後に百神となりますが、それぞれが独自な現象を持ったイマの百神の変化(百面相)と同時に、始めの一つから生まれたもので、百がそれぞれ独立していながら、全体で一つです。それを「神」と名付けました。掻き混ぜ掻き寄せられた内容を実としたものです。各人が掻き寄せ集めますので、その途中での在り方はやはりそれぞれの形で独自性が出てきて、個人の主張に花を添えます。その花の主張は多くは無自覚な自己主張ですから、十人十色百家争鳴が普通の状態となります。百の様相を全体として把握運用できる方がスメラミコトとなります。

しかしどのような途中の状態で未完未熟、逸脱間違えがあっても、その時点までの成果がそれぞれの個人的な形で取り入れられていますので、否定することはできません。 つまり、各人はそれぞれのそこまでの了解された経過を背負っていますので、【天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)】を、天の御中主の神といいますが、各個人次元にすればそれぞれの水準の主の持ち主になるというわけです。

古事記で言われる御中主は心の原理として語られていますから、どこかにそういった神さんがいるとか、創造主として考えられているとかいうものではありません。

【天の御中主(みなかぬし)の神】 のイマ

始めの一つ目の要素であり、種・受精卵であり、後の百神の原型でもあり、完了された百神の姿でもあります。イマで言い換えれば、始めの一つ目のイマであり、イマの種・受精卵、後のイマの百の形となって現れる原型でもあり、完了した次に引き継がれる一つの全体としての百神でもあります。

心のイマに関する私の意識(吾の眼)の誕生です。後の私の考えや思いの元となるもので、これが発展変化消滅等していく意識の「主」となります。この「主」に関係無いものは入れませんし発表できませんから、「主」が関心を示し関連させるものだけが取り入れられ太り出します。

それでも自分の考えと称して藪睨みであろうと間違っていようと次元が違おうと、これがイマであると主張ができるのは、イマという一般性(蛭子)が流布されているからです。

「今とは何か」と「イマ」と言いさえすれば、通用する言葉はこの一つあれば充分ですから、それが起こす関心はさまざまです。元々の吾の眼・私の意識がそれぞれであるためです。

それでもそれなりに交流したり、取捨したりするのは、私の意識を動かす動因となっている一般性(蛭子)があるからです。その最初の活動次元が欲望です。

イマの「主」としての天の御中主の神に、イマを知りたい、イマを食べたい、イマに感動したい等々の五感感覚次元の基層としての欲望がなければ、ことは進行しません。幾ら結構な理性的論理的な今現在論を持っていても述べてみたい書いてみたいという欲望がなければ、「主」は何の行為も起こさず何も起きませんし知らせることも起きません。

例えば今現在論は概念知識を持ってする論理なので欲望の出る幕は無いと思えますが、イマの時点で論理が自分一人で喋ることは無いのです。論という立派な形式になれるのは、論を成したいという心の奥から誘われたものに突き上げられたからです。

それは論の内容とは関係なく独自なものです。しかし論を成したいという欲望の充足が放棄されれば、論の進行もありません。

このように天の御中主は論の概念内容とは関係ありませんが、その進行のイマの動因となっているものです。そしてこの動因が常にイマイマと持続していること、御中主が現前していることが、概念進行の上でも必要なことです。

ここでは概念知識の論を動かすイマの欲望の持続を指摘しましたが、概念・論の内容と動因となっている欲望とは別のことを示すためです。この働きをフトマニ学では言霊ウ・天の御中主の神と呼びます。

天の御中主のイマ。

あめつち・吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)と成す活動が開始されるやいなや、言霊の全体が現れ吾の眼が芽を出します。わたしが持つ最初のイマの意識です。後に枝葉となり花咲き実となる多様性をしめす元となるものであると同時に始めの独立している一歩です。

天の御中主の神には言霊ウの意識が与えられています。誰がそんなことを決めたのかは不明ですが、一万年前のスメラミコトが決めたことで、それを記した原本は皇室の賢処に秘されています。がしかし、各人の心の中に誰にでも秘されていますのでそれぞれが探し出してもらえばいいものです。(全部で冒頭五十神が五十音に配当されているということになります。)

天の御中主とは心の中身の主で一粒の種であり受精卵であり、始まりの元として独自の姿を持ったものです。心の始まりで言えば欲望をもって始まり、欲望世界は言霊ウであり、イマの始まりであって言霊ウというイマです。

言霊ウというイマの全体。

御中主は結果現象となった実の中身の主のこととして扱えば、例えばこの論考は何を言っているのか知りたいという知識比較記憶概念を明らかにしたいという時も、概念知識による理解以前に、始めのイマに知りたいという知ることの内容とは別の知りたいという欲望があります。知りたいという欲望は形の上では論理的に知りたいとか科学的に知りたいとかの姿をとりますが、知る概念とか記憶とかとは別のことです。

知りたい欲求がなければ知る概念操作も働きません。

そこで、イマの言霊ウ次元(天の御中主)があります。 イマの語り始めです。

イマの欲望次元はその後の現象の種でもありますから、花や実や葉や枝となった現象と共通のものがあるからといって、果実等で語ってしまうと、次元の無視や経過の軽視によって恣意的な思いつきを提供しているに過ぎないことになりかねません。確かに次元や経過を考慮しなくても話せるし、努力の結果を得ることができますから、自己所有への愛着が起きるものです。しかし、それを取り入れてしまうと考えと考え思いと思いがぶつかるだけで、それぞれの相手(自分)の正当な位置づけをしてあげないことには跡形がつかないのです。

十人十色といっても元を正せば古事記の冒頭百神(要素五十運用五十)のどこかに位置しているのに双方とも無自覚なままというだけのことです。どのような意見も間違っていて駄目というものはなく、自身の位置付けに無自覚な無節制なのに、愛着して逸脱を反省する規範を持たないからのことでしかありません。

しかし前もって言っておけば、現代には世界においてこれを訂正する規範はありません。多数決とか話し合いの妥協とかウィンウィンとか民主的とか専制的とか力で倒すとか引っ込むとかで決めているだけです。何故ならそれを可能とする言語体系を持った言語規範が存在しないからです。大和の日本語においてのみそれが可能となる言語規範を持っていますが、整理理解し適応して利用できる方(スメラミコト)がいません。そのためには言霊学が速やかに普及して世界朝廷を打ち立てられるようになることが必要です。

寄り道が過ぎるようです。

さて、実の始めの中身の主である御中主はそれ自身が始めであり、全体の身の主です。それ自身で統一統合されている全体ですから、言霊ウもイマもそのように見ていきます。

坊主と悟り。

例えば坊主は一生を悟りを得るためにかけますが、悟りの内容は知らず、悟りと言われる言葉の中身である種を抱いています。ある時悟れば良しですが、そのまま死ぬことの方が普通です。

悟りを知らないが悟りたいという決死の思いはあります。ではその坊主の悟りたい欲求のイマとはどういうものかといえば、毎日毎日一生分からないままに悟りたいというイマです。イマは瞬間どころか寝ても覚めても仏門を志して以来数十年というイマが続いているのです。途中で知識が増えたところで何もなりません。欲望のあるあいだがイマです。

知識が増えたところで悟りの内容を知りませんから、悟りたいという欲望の内容も分かりません。つまり悟りたいという欲望のイマの内容は、悟りたいという欲望そのものです。

これは主体側の欲望がそのまま客体側の結果となっているということです。寿司を食べたいという欲望の主体側の内容はそのまま寿司を食べるという結果を得ることと同じです。知識の場合は、知りたい知識はなんだろうという疑問は、得られた概念知識とは別のものとなって得られることに満足を見出します。しかし悟りを得たいのに悟りの行法を修得したところで何にもなりません。

言霊ウの欲望次元は全て同じです。五感感覚の受容器官が違っても、常に御中主の同じ原理の内にいます。悟りたいも寿司を喰いたい同じことです。

言霊ウの欲望次元は何をもってイマを得ているのでしょうか。それはイマを現前させている、現前しているからです。欲望が無くなれば欲望の形も働きも消えます。現前から消えますから、過去も現在も未来も消えます。いつか心機一転して悟りとは何かをしりたいという欲望を起こしても、それはまた別のこととなります。

欲望のイマも消えてしまえばそれを現していた言霊ウも消えますから、その後に続く言葉はありません。知識概念のように言葉がいつまでも残ることがなく、欲望の過去もありません。寿司を喰いたかった悟りたかったというのは記憶概念で、その時に在った欲望のことを指していません。

しかしそれにしても実の中身の主は時間の変化の中にいます。御中主のイマはどのような時間の変化をしていくのでしょうか。

言霊ウの御中主では、イマは今あることがイマで、欲望があり続ける限りイマが続きました。あの人に会いたい会いたいという時は毎日がイマです。子供があれを買ってと駄々をこねる時も駄々を消し去るか買ってあげるまで子供のイマは続きます。

ですので、ここでは時間の変化そのものが現前しているということが時間が変化していることです。つまり、主体側が時間の変化の中にいて、客体側が主体を時間の変化の中に収めています。言い換えれば欲しいという主体の思いは、欲しがっている内容と同じです。悟りたいという思いは、悟りの内容を知らないなりに悟りの内容を得ようとし、寿司を喰いたいという思いも寿司の知識や概念などを知らないなりに寿司の内容を得ようとします。

それにしても、欲望を充足するしないにはそれなりの時間を感じるでしょう。つまりイマのなんらかしらの延長感をえます。欲望のイマが欲望がある限りイマであるといっても、前のイマと今のイマとでは違いを感じます。

これは記憶概念が蓄積されていくので、前のイマと今のイマとに違いを見出していくからです。

しかし、この二つのイマにおいてもそれが起きた初発の時の様態を見ますと、同じ原理であることが分かります。言霊ウの持続において両者の始めは、いずれも、時間の変化が生まれようとしているものが今生まれることで、いわば、 今-今の関係で、今の時間の変化が持続していく働きがあります。

知識概念の場合は誰かのどこかに在った過去知識が今に持ち来らされるので、それが完了すればそれ以上の時間の変化はなく、記憶という過去にまた落ち込んでいくだけです。

というように御中主・言霊ウでは常に今-今が現前していきます。

自覚された言霊ウ。

さらに人にはここに自覚するという機能が備わっています。無自覚な欲望は勝手に現れて勝手に狼藉を働き主張だけをしていきます。

欲望を自覚するとは、欲望が欲望として今そのものに現前しているという在り方を捉えるということです。そうすると、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の関係、 五感感覚の次元、自分の欲望を自分で生んで選択している感覚が出てきます。そして後に言霊ウとなり、言葉となっていく時にウ段の言葉を生成していきます。

悟りたいという修業中に知識は増えていくでしょうが、相変わらず悟りの内容は悟っていないのだから分かりません。そこにあるものは悟りたいという強固な秘められた意志に動かされた自分を律する修業への欲求です。知識で言えば修得される概念の多少のことではなく、自分にあるのは修得したいという欲望です。それだけが自分の自由になる自覚の対象です。知識などは過去の誰かのものですから、知ることはできても悟りたいという欲望の自覚の対象になりません。 欲望を自覚の対象とすることは普通ありません。なされるがままです。無自覚な欲望の発露は低次元な意識ということではありません。

大臣になりたい、大金を儲けたい、知識を増やしたい、悟りたい、寿司を喰いたい、等々と形は変わり、大衆社会も産業経済社会も多くはこの欲望の志を得ることで成り立っています。崇高な目標を目指そうとその欲望としての構造は同じです。欲望は軽蔑し唾棄されるものではありません。

イマそのものは欲望ではありませんが、イマの現れが欲望になるのが言霊ウ次元の世界です。過去の情報を引き寄せかき集めてイマを感じるのが知識で、イマあるものをイマ在らしめ持続させようとするのが欲望です。

無自覚な欲望は、腹が減っているから寿司が喰いたい、金が無いから金を儲けたい等というように、目的そのものが欲望ですから、手段に対する考慮はありません。

しかし同じ欲望でも、自覚されていると欲望の扱いが変わります。

自覚に至るにはそれなりの経過を経なければならず、自覚する状況があるとはいっても、ここでその詳細を取り上げることはできません。古事記の原理に従えば客観世界である黄泉国(よもつくに)の不定な姿を反省することから始まります。自他の意識の判断規範を手に入れ、それを持って時処位を決めていくことが出来るというのが自覚です。それでもその規範自体が主体的には正しいと思えても、自他ともに正しいという真の自覚には至っていません。

というように話は黄泉国の後に、禊ぎとして出てきますのでそこで再説します。

ここではイマに関して言えば、天の御中主は意識されたイマの始めであり、後に開く様々なイマの姿の全体の主ということです。イマでありながら後に開くイマという怪しげな言い方ですが、記述の順序としては後ということで、意識の流れのなかでは瞬時のことです。ことに自覚されているイマの場合には、欲望に関する時処位の自他の意識が既に成り立っています。

始めであり種である主のイマはこのあとどうなるのでしょうか。

このあと九十九の神名での説明が控えています。それが一瞬の内に起きます。しかし、百神を連結するものが要ります。種は休み無く成長して行き枝葉蕾花へとなっていきますが、それぞれの経過途中を写真にとってしまうと、別々のものとなってしまいます。

この神と神との間を繋ぐ経過を示したものが、マグアイの段落になっています。マグアイは百神に変化する間それぞれの時点で起きていきます。つまり了解までの一瞬の間に百回起きて百神を結びます。

(ここでは便宜上百回と言っていますが、ひふみ神示では、「フトマニとは大宇宙の法則であり秩序であるぞ、神示では012345678910と示し、その裏に109876543210があるぞ、 九十(マコト)の誠であるぞ、合せて二十二、(フジ)であるぞ。神示の始めに示してあろう。二二(フジ)は晴れたり二本晴れぞ。」と前後に 0を入れて前から続くことと後ろへ続くことを示していす。この場合は父韻での連結を示したものです。)

【次に 高御産巣日(たかみむすび)の神。次に 神産巣日(かみむすび)の神】 のイマ

神名があることはその独立した事柄があることを示しています。御中主に続きそれとは別の事柄となったカタミ・カミムスビがあるということですが、いずれも御中主から連続して生まれてきたものです。受精卵で細胞分裂をするような関係です。

一がニを生ずる構造を明かすことが必要です。もちろん意識上のことですが、億万単位の大自然の生命進化の方法を意識も真似ていきます。生物の場合は機構構造機能の分化を物質状態で示しますが、意識の場合は御中主によって提起された意識の細胞分裂、意識の分化となります。その現象表現は言葉です。

まず意識があるという提起があり、その細胞分裂があります。次いで意識があるということを自身が知ること同時に意識が自分の対象を知るということに分化します。後に主体側と客体側、主観客観、霊側体側、働きと実体、等々に剖判(分化)していきます。

しかしこれは外見現象を見ているだけですので、御中主の中身の分化を示していません。つまり御中主自身に、タカミ・カミムスビの種が備わっていることを示さねばなりません。

鼻が顔のどこにあるかと聞かれれば正中線上にあると答えられますが、何故正中線上にあるのかという問いには答えられません。同様に、天の御中主の中身はどうなっているのかと聞かれれば、十七の働きと実体で成り立っていると一万年前からスメラミコトは答えますが、何故十七なのかは答えません。各人一人一人で心に聞けば確かめられるよといいます。

言霊ウから言霊ヰまで十七個の言霊が全て出揃いますと、この先天構造図を「天津磐境」(あまついわさか)と呼びます 。天津は先天の意、磐境は五葉坂(五段階の言葉の性・さが・構造)です。それが心の原理、古事記の冒頭、です。

どういうことかといえば、各神さんはそれぞれの中身として古事記の冒頭十七神を抱いているということです。

御中主が分裂してタカミ・カミムスビになるのですが、御中主の働き・主体側がタカミムスビになり、実体・客体側がカミムスビになります。そこで独自の二神が誕生します。と同時にその二神の中身にはそれぞれ十七神が出来ています。これは心の原理ですからその後の展開においても同様です。

御中主のイマでいえばイマは十七の神の名が付いている要素を抱いていて、その全体によってイマとなります。御中主としてはイマが提起されたというだけで、そのイマについてどんなものかということはなんら分かっていません。従ってイマの御中主の次の段階ではイマを知る主体とイマとされる客体を分けることから始まります。初めにイマがあるというだけでは何のことだかさっぱりわかりませんが、そこでイマを知る側と知らせる側に剖判していきます。

この独自の神が剖判していく内的動因が十七神というわけです。

イマがあることに関して持続の因子が働いていなければならず、働いていれば十七神は活動を続けます。御中主の主体側の要素は言霊イの廻りに集まり、客体側の要素は言霊㐄の廻りに集まり、細胞の核分裂よろしく両方向へ分裂していきます。こうして何か分からないが在るというものが、それを知り感じる側と知らせ感じさせる側とに分かれ、分かれたことで相手がいることを知るのです。

その構造はまぐわいの段落で説明されていて、ギミの命の結婚儀式の形をとっています。

主体側には言霊ウアオエチキシヒイが、客体側には言霊ウワヲヱイミリニ㐄が分化していきます。

(細胞の各分裂に倣った比喩ですので、意識の動きをそのように表現しただけです。)

そこで各時点、次元でマグアイが起きれば子現象が出来ます。つまり何らかのイマに関する意識ができて、新しい独立した神ができるわけです。こうしてイマの何らかの意識ができて、イマを意識し、イマの相手が意識されます。イマが意識されたということはそこにまたイマの十七神がそろったことになり、次の段階に向かいます。 このア・ワの段階ではまだ何かの対象に対するはっきりしたイマの意識を持つことではありません。イマがあって、イマの何らかの対象を意識しただけです。しかしわたしとわたしでないものとの分別はできました。

この段階が言霊ア・ワです。自分の意識と意識の対象は感じられるだけです。そういった対象感覚は、感情となってあらわれます。イマを感じている全体感はありますが、個別的にこういうこととして言うことはありません。

言霊ア・ワのイマ

ア・ワ時点でのイマは、言霊ウのあるというものが提示されるだけのものですから、それの全体が主客として現れます。意識に全体として現れる意識は、感情です。

感情と感覚は重なるところもあって整理しづらいですが、言霊学では欲望と感情の次元の差異を言います。要点は感情でも感覚でも、自分が自分の意識対象となって区別がつかないのが欲望次元と呼ばれ、自分の意識の対象として相手を意識しているのが感情次元と呼ばれる感情・感覚です。

ア・ワ次元のイマは自他が剖判していて、対象相手となるものがあります。自分の心が悲嘆・感動しているときも、自分の心を客観他者として相手にし悲嘆・感動を持っているなら感情となりますが、自分の悲嘆・感動の中に浸り込んで自分を失い、その持続を得ようとしているときには欲望の次元です。(いつまでも泣いていたいとか喜んでいたいとか。) 感情の場合には自分の対象となったものに対していますから、忘れない努力、思い出し続ける努力が必要です。感情次元のイマは後に発展した形になると宗教、芸術世界となってきますが、それらが生き続けるには、全体がそのまま思い出され続けていることが必要です。

しかし記憶にあるものを思いだすのではなく、意識に与えられている全体を直接思うのです。細部や個別性は後からくっついてきますので、そのような過去にあったものをイマに持ち出すこととは違います。欲望のウ次元はイマの持続は思い出さなくとも心を放しませんが、アの次元では全体を忘れないように持続して思いだしていく持続の努力が要ります。

この持続の努力がア・ワ次元のイマとなります。

言霊アの次元は言霊ウから授かった全体が現れますから、その全体の持続の努力と、在ったものを引き取って現在に提起し続けることと、そして在るものを常に失わず未来へ繋いでいくことが、渾然一体となっています。この全体としての渾然一体性がア・ワ次元の独自性です。

ところがこの全体をいう時には、個別性とか具体性とかははっきりせず、こうこうこういうものでと特徴をあげられません。私の思い私の感じの内にあるものといいますが、言い表し示す具体性がありません。

具体性が無くても常にここに思いだされ目前にあるように感じられているときには、全体としてイマがいきています。起きた事の全体印象、感情がイマとなって持続していくので、記憶や体験したことのある過去の事例と結び付くときには、思い出となって過去がここに出現してくるように思えますが、思いだされた内容を示していくのは知識概念の次元です。しかしたまにはあの時の感情が思いだされ目前を占領し、突然イマが生き返ります。

では思いだされものはイマでしょうか。知識、概念、等は過去にあったものがイマ現れてきましたが過去にも存在していました。(付け加わる知識についてはまた別の次元の話ですから置いておきます。)

過去の感情を思いだした時は、過去にあったものがイマ現れてきましたが、過去の再現でしょうか。記憶概念、知識経験としては過去が再現されていますが、そこには新たなイマの感情が生まれています。記憶が過去からイマ現れたのとは違って、感情がイマの時点で全体として現れてきました。

【 この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。 】のイマ。

欲望は繰り返されますが、過去にあった欲望が繰り返されることはありません。同じ範疇として捉えられますが、その欲望に関しては一回限りです。現在を得るか得ないかです。

ここにイマ現在を活きて動かしていく動因となる心の欲望と感情があります。両者ともイマの現在をうごかしていきます。知識概念は過去の再現で過去をイマに持ち来らせますが、知識そのものが動因とはなりません。何だろう知りたいという欲求のもとに、その知識が動くので知識は得られる対象となっているだけです。

欲望も感情も、欲望することがイマを得ることであり、また感情を持続させることがイマを明かしていることで、常にイマを動かしていきます。このことを古代スメラミコトは枝那の聖人に教え、かれは一は二を生じ二は三を生じて三万物を生じると表現しました。簡単に言えば欲望と感情で何でも生んでしまうという心の在り方を示します。まず欲望と感情を立てていますので、それに沿って知識経験概念も解釈され、その解釈されたものを現そうとします。古代枝那にかかわらず古代からの世界の潮流です。このように手当たり次第の世界文明が創られてきたのです。

その意味では、古代スメラミコトの命じた歴史創造の在り方は、今なおイマ現在として続いているのです。スメラミコトの欲望と感情の内にイマもいるということです。過去経験も欲望の為に利用されていますから、世界中で勝手に創造された文明文化どうしの衝突混乱がつづいています。世界の人達とその為政者はまず打ち立てた欲望の充足の為に経験や知識概念を使用しています。

環境汚染の混乱も次の産業経済の発展の中に組み込まれていますので、汚染除去が産業に寄与しなければ無視されています。全ての分野でそんな調子ですから手のつけようがありません。むしろ汚染がひどくなって利用価値の高まりを期待しているようです。それでもせいぜい個別的な取り組みでしかありません。

どうしたらいいのかは、スメラミコトの命じた歴史創造の欲望の位置を最初に立てる事を止めることですが、それを国単位世界単位で実践できるだけの力のある方がでてきません。かえって強力な欲望に支えられ力で勝ち取るようなことをしてきました。

既に蛭子淡島の内容を見てきましたが、蛭子のヒである霊(ヒ)が流れ去ってしまい、欲望・感情を打ち立て(ア)、それを直接得ようと(ワ)して、実質内容(言霊オと言霊エの世界)が従属していることをしめしています。

現代が今なお古代スメラミコトの欲望次元の中を彷徨っているなどと言うと、いい加減なデマと聞こえます。欲望のイマは充足されるまで続きます。世界歴史も同様です。

しかし、芽が出て枝葉が出て花が咲いて実がなってと見ていくなら、花が枯れるか実が地に落ちるかを待つだけのことで、意識の出番がありません。

意識の世界では、 「三万物を生ずる」、のです。三柱の神で万物を生じるのです。造化三神という名前まで持っています。たとえ淡島のようであろうとも戦争生存競争の今日を築いてしまっても、それは始まってしまった意識による世界文明の成果です。

では、誰のどんな意識なのか。

それは世界歴史の初めを意識し、世界歴史を創ろうとした人の意識です。山川を一つ越えるのもままならない、それでいて世界を見据え全体を作ろうとした人間がいたということです。そのような人間の意識、造化三人(神)が自覚的に世界を作ったので今日の世界があります。この三人の目が世界に向いていなかったら、人間は相変わらず現在でもウサギを追いかけライオンに襲われ雨に濡れていたでしょう。この造化三人というのがスメラミコトです。ここで三人というのは、意識の実体と機能の象徴的な表現ですので、一人にしろ二人にしろ、ウ・ア・ワの造化三神の構造は持っているものです。

そんな一万年も生きている人間がいるのかと問われれば、いるからこそ現代世界が続いているのですから、いると答える以外にありません。現代の欲を手にするのに、感情をそのままぶつけ、知識も経験も欲に従わせ、それでもって選択按配をして実践していく、そいった実践の仕方の元を逆に辿り、過去に戻ってさらに元の元を探してみると、こうした文明を生んだ「元の主」がいることになります。始まる元があるのです。そうでなければ動物社会の一員でしかありません。

それとも、自然発生的な文明を信じるとか、偶然の言語生活を受け入れるとか、突然変異で文明の元が出来たと言うことになるでしょう。何らかの自然の威力で文明の元ができたとしてしまえば、そういった非知性的な人間・自分のことは棚に上げて置いて、後は人間の反省知性が文明を作っていったとするご都合主義になるでしょう。

世界歴史が造化三人(神)によって始まったというのは、人間の自覚された歴史をいうので、無自覚な物質の変化していくような流れをいうのではありません。たとえわれわれは自覚を知らなくとも、世界を自覚された眼で捉え創造している知性の上に乗っているのです。それはすなわちスメラミコトの欲望の規範に乗っているので、過去を留め未来をうがつことができ新たな感動を得ることができます。

【次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、】のイマ。

そうすると過去にあるものは、条件反射や物理的な作用反作用や時の流れと共に偶然出会うまでは知られていないものとしてあるのではなく、探し掻き分け自分に引き寄せるものとなって、現れてきます。無自覚から始まった歴史観ではであったものの偶然の利用でしかありません。

この原文は、蛭子、淡島の内実は言霊オ・エの世界のことですから、記憶から出てくるものをこれからここに置こうというものです。その内、まずここでは過去にあるものの扱いです。

過去にあるもの、と言ってしまっていますが、そのように在ると知るのは後のことで、当初の在り方は「次に 国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に」というものです。文章そのものの解説は03章にあります。

ア・ウ・ワの一般的、全体的な意識でその中に在るものを見るのですから、そこに在るものの組み合わせ(国)は浮動していて不定不明で、まるで暗気(水母)そのものが泳いでいるようです。それは言霊ウの五感感覚で内容は分からないが在るものとして感じられ、言霊アの感情情緒でも、自分に対する何か在るものとして感じられているだけです。

それでもそこに在る何者かとして感じられていますから、それらを探す意識がある限りここにでてきます。

こうしてあったものが、つまり過去が現在に引き寄せられます。

その引き寄せる内容を決めるのは、何者かが在ると感じている、五感感覚の持ち主、イマにさせている感情の種類によるのです。関心のない感覚感情からする引き寄せは無視されでてきません。個人の考えでとか、私の思い出とか、個人的にはとかいいますが、もともとそれだけでしかないものに自尊心や自己満足がくっついてきている発言です。それが主体的な現れとなってきます。

さらにまた主体側ではなく客体側では過去の出てくる在り方がまるで無秩序です。引き寄せるもののあらわれに秩序はなく記憶という形で好き勝手に選ばされるようになっています。

頭脳内では直ちに出てくるものが記憶として蓄積されるときに概念に変換されますから、概念としてその秩序を見ることができます。

夢というのは頭脳内に出てきたものが概念として記憶され整理される以前のもので、ただ好き勝手な出っぱなしの状態をいいます。(もちろん夢の中でも頭脳は働いていますから、自分の見ている夢を概念秩序化はしています。理性からすればより欲望感情に近い位置で夢は見るものですから、そのようなイマとなって目茶苦茶な秩序になることもあります。夢については後に再説されます。)

ここで言われている 「 葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、 」というのは過去の客体側の実体世界のことですが、それは、言霊ウとアワで感じられているだけのものですから、暗い気(くらげ)であり、そう言うものとして規定されたものです。

頭脳は勝手にどんどん働いていくのでアシカビが出てくればどういものでそういうものでこういうものでと、詳細を規定するようになりますが、そこには瞬間ではあれど時間の経過があり、順位があります。通常は頭脳にこき使われてそのまま口に出てきますが、その瞬間を書き示すと古事記の冒頭の百神になるというのは既に知らせてあります。これからそのうちの大四番目の神名で示されるイマに入ろうとするものです。

【 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に 】のイマ。

前段で客体側があることを知るようになりましたが、その知り方はウ・ア・ワによるもので、全体的な浮動したものとしてです。それでも暗気(くらげ)なものとして相手対象があること、全世界宇宙があることに気付きました。

この気付かれた暗気が 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神です。ウアワの無秩序な生命力の現れです。三神の興味関心のある ことと結び付いた一般性として現れますが、欲望、感情が次々と出ては色々な対象に結ばれるように、その相手となって結ばれていくものを提供していきます。

提供時には暗気として結ばれますが、結ばれた後は結ばれたものと一体化した主体となる「天の常立の神」になります。

ウ・アワの時点とアシカビヒコヂ(言霊ヲ)の時点ではそれぞれ次元が違います。

何も無いが何かの起動因の在る言霊ウから、自らの動因に目覚めると自分という主体と相手対象という客体に剖判しているのが分かりました。すると相手対象を意識することで自分の姿が現れててくる、この相手対象がアシカビヒコヂになり、相手の姿を借りて得て着飾った主体がでてきます。

それをイマで言い換えれば、隠れていた客体を引き寄せ引き釣り出して来る要因があることになり、それが、過去にあったものをイマに提示する天の常立の神と名付けられた、過去から現在に来るイマとなります。

【天の常立の神】のイマ。

何故何億年前の地球や宇宙の誕生や有るか無いかも分からない過去に意識が向かうのでしょうか。

それは、先天的に大自然(天)が常(常)に立ち上がってくること(立)を意識できるからで、吾の眼(私の意識・天)が常(常)に過去において成立する(立)対象世界があり、それらの関連を引きつけ考える世界があるからです。

アシカビヒコヂは記憶そのものの世界(言霊ヲ)であり、アメノトコタチは記憶し関連付ける主体の世界(言霊オ)です。

言霊ヲの世界から記憶が出てくるのを記憶とするので、記憶の実体世界が事実としてあったということではありません。言葉として出てくるので言葉の内容はまた別のことです。私には赤子の時代があったというのは、「赤子の時代」という一般的な言葉で表現できる世界があったというだけで、赤子の内容は指示していません。

主体と客体の関係は何でもが自分側からの働きかけがあるから主体というのではありません。言霊ウの世界には主客が無く剖判していません。ここに何らかの動因が加わり主客に分かれ、主客がそれぞれ意識されたときに過去の記憶世界とその関連付け世界ができます。言霊循環で言えば、言霊ウの次元においても、アシカビヒコヂとアメノトコタチの世界(アワの世界と同様に)が前もって隠されているのです。

ですので、ここにあるイマの世界は、過去に結び付くそれを引き出す、相互の関連を考える時に現前してきます。過去があったのではなく、言葉として結びつき捉えられた時にイマとなるのです。

過去の存在は、物質的物理的な持続を言葉で捉えたときに、その捉えた言葉に存在するので、捉えられた言葉の通りの内容で存在するのではありません。捉えられ表現された一般的な言葉に各人勝手な個性的個別的な意見を載せてそれだけを表現していると思い込んでいるのです。

【 この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。 】のイマ。

この言霊二神、アシカビヒコヂとアメノトコタチ、の世界も「独神」他に頼ることなく独立しているので、言霊ヲオから発する記憶とその関連をこととする世界も独自に発展していきます。

そこではあったものとして見つかるものをここに引き出してくることがイマの世界となります。学問、知識、科学の世界となります。

【次に成りませる神の名は】のイマ。

次に出てくる言霊エヱの世界も独神というのですから独立した世界をもっています。それをイマに当てはめていますから、イマというのは一つのイマを指すだけでなく沢山のイマがあるということになります。

ですので「次に、次に」は継続したものと取られやすく、過去を継続して背負っていくように見えますが、そうではなく、イマココの瞬間においての「次に」です。イメージすれば同一底面の上に重層的に描かれた円とか、各階が独立して心柱に繫がった五重の塔とかになります。

イマココの瞬間において常に全体が現れる「次に」ということで、現れたときには独自に出てきます。リンゴと一言言っても、食べたいのか、見事なのか、種類を知るのか、選ぼうとしているのか、一つしかないリンゴでも心に意識されたものの内容は別々のものとして、イマに現前してきます。(実際には複合的ですが原理として話しています。)

【国の常立(とこたち)の神。次に、豊雲野(とよくも)の神。この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。】のイマ。

「あったもの」をイマに引きずり出してくると、イマに在るものとなります。それはアシカビヒコヂをアマノトコタチによって引き出すと、過去がイマあるものとなるのに似ています。過去がイマ在ると言っても物質的に物理的に在るのではなく言葉としてイマにあるのです。

ここで客体側を独立したもの(独神)として扱うと物理の作用反作用の世界が出来てきて、物理的に検証可能な科学的な世界となります。

これは客体側の物理世界を扱うので、扱う知識概念の主(ぬし)が主体側にあるからといって主体側が物理世界を動かしているわけではありません。あっち側はあっち側なりの物理法則で動いていくのです。

感覚的に過去が存在すると感じ考えますが、現象として現れていた過去の実体と心の構造内部の過去の実体とは別々です。感覚感情的に確認できた現象は物のあり方となって現象していますが、心に現れる実体はそれ自体と現象となって現れていません。しかし後に、言葉となり、言葉の実体と物事の実相が似たものとして出てきます。ここで早とちりをして、言葉の内容と物事の実相が似ているところから、言葉が過去そのものや物事そのものを現すとするには、まだ先の話です。

「あったもの」がイマ在るものとなると、今度はそこにそれに対する対処の世界が目前に拡がってきます。イマ在るものとなったものを「どうするか」の世界です。蒐集整理分析等色々な手続きが出てきます。古事記はそれを、古事記はそれを 国の常立(とこたち)の神、 くに(組んで似せる・区切って似せるもの)が恒常的に立ち上げられていく実体のことと捉え、その実体世界を言霊エとしました。国は天下国家と通じる国のことですが、心の原理論では心に出来る「くに」のことを指します。

在るものの世界に主体が係わると選択按配が出てきます。心の大いなる働きの部分は過去の概念知識を知りイマの世界に引き出し、それを「どうにかしよう」とするものです。ここに概念経験知識を実践実行の智恵に次元変換をしていくものがあります。経験知識を幾ら溜め込んでも実践の智恵にまるで届かないということはよく見かけることです。

では実践智の内容とは何かといえば、今まで出てきた神の内容全部を動かすことです。その動かされる元の世界が言霊ヱになり、豊雲野の神となります。豊(トヨ)は五十音図の両端(主体側と客体側)アイウエオ・ワイウヱオの十に、雲(汲んで組むこと)の働きが加わり、活動領域の場(五十音図の野原)が出来ます。そしてその活動場を選択することで現象を生んでいきます。

(前の説明では先天十七神からしています。)

トヨクモノの神は十の戸を働きと組み合わせて、実践の智恵を作り出していこうとするものです。

ですのでここでのイマは心に実在している十の戸(アイウエオ・ワイウヱヲ)を選ぶことがイマになります。

【 次に成りませる神の名は、 】

次に次にと神名がでてきますが、それでも一言追加されている言葉、【成りませる】、があるところが区切りとなっていて、そこから別次元の説明となっています。

つまりここからは別の世界となります。いままでは在るもの実体の話でしたが、ここからは働きのはなしです。実体があってもそれ自身では動けませんから、ここに働きが加わるわけです。客観物理世界では動因の作用反作用ですが、心の分野では意志によるその発現となります。

イマある世界の形からイマの形を動かし創造する神々の話になります。

今、と一言言えばそれで終わりなのですが、古代のスメラミコトは今にアイウエオの形があることを発見したばかりでなく、各形に八つの今の現れ方があることまで見抜きました。神道や皇室文化で伝承されている八に関するものは全てこのイマの八つの開き方に関するものです。しかし来るべき日が来るまで「八」を表徴として隠没しておく使命を授かってきました。何故そんなことがあるのかについては世界の歴史編になります。

ここでは時至り満ちて、明治天皇によって岩戸開けの準備がなされ、神道、皇室、日本の至宝財産から解き放たれるために民間において広く流布され、世界へと向かう「八」となりました。

「八」が人間行為の元でありそれによって実践しその現象結果を得ます。人の成すことは全ては元を正せば「八」となります。

抽象的に話しても、具体例をあげてもこれは心の原理としてあるものですから分かりづらいものです。実際に分からないまま事は済んでしまい意識されることはありません。しかし戻れば同じところへ行き着きますから、誰が何をやろうと良いも悪いも無く、人間皆同じ原理を持った兄弟となります

「八」は父韻として既に説明(04章」してありますから、ここではイマを生むこととの関連を探ります。イマという子の事を記す。

古代スメラミコト達は八の最初の発見者達ですから、現代の我々のようにおんぶされて利用しているのと違いますが、安心しておんぶされたまま反省了解できるように利用します。

ちょうどイマと八が同時に出ている文章を見つけましたのでついでに載せておきます。

ひふみ神示から。

「八のつく日に気つけてあろうが、八とはひらくことぞ。今が八から九に入る時ぞ、天も地も大岩戸ひらき、人民の岩戸ひらきに最も都合のよい時ぞ、天地の波にのればよいのぢゃ、楽し楽しで大峠越せるぞ、神は無理申さん、やればやれる時ぞ、ヘタをすると世界は泥の海、神々様も人民様も心の目ひらいて下されよ、新しき太陽は昇ってゐるでないか。」

今迄は四本指八本指で物事をはかって誤りなかったのであるが、岩戸が明けたから親指が現れて五本十本となったのぢゃ、このことよくわきまへよ」

新しき太陽というのは民間に流れた「八」の理解、「心の目」、のことです。私でありあなたであり、各人一人一人が新しい太陽というわけです。引用にあるようにイマと八を関連付けてみます。八が九に入り、十本となるイマの働きを示めしてみます。

「八」というのは下記の八神のことです。

1 宇比地邇(うひぢに)の神。

言霊チ。 イマに在るものがイマ在るとする力動を提示する。言霊ウの性質を持つ。(イマあるものをイマ捕まえる主体側。)

2 妹須比智邇(いもすひぢに)の神。

言霊イ。 イマ在るものが現に有り続ける力動を提示する。言霊ウの性質を持つ。(イマあるものをイマ捕まる客体側。)

3 角杙(つのぐひ)の神。

言霊キ。 在ったものをイマに収納しようとする力動を提示する。言霊オの性質を持つ。(あったものをイマ引き寄せる主体側。)

4 妹活杙(いくぐひ)の神。

言霊ミ。 在ったものに自分のイマを置き換えようとする力動を提示する。言霊オの性質。(あったものをイマ引き寄せられる客体側。)

5 意富斗能地(おほとのぢ)の神。

言霊シ。 在るものをイマから静め落ち着かせ調和させようとする力動を示す。言霊エの性質。(あるものをイマ地に置こうする主体側。)

6 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。

言霊リ。 在るものをイマから他者の未来に広め置き換えようとする力動を示す。言霊ヱの性質。(あるものがイマ地に置かれる客体側。)

7 於母陀流(おもだる)の神。

言霊ヒ。 イマ在るものがイマという現在の表面を覆いつくそうとする力動を示す。言霊アの性質。(あるものの全体がイマ開く主体側。)

8 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。

言霊ニ。 イマ在るものがイマという現在の内部中核へ吸引されていこうとする力動を示す。言霊ワの性質。 (あるものの全体がイマ収縮する客体側。)

古事記は「八」の秘密を大昔からこうして開示してきましたが、直接悟られないように示しました。しかし現在はそれを受けて全員が悟れるように、過去の(神道や学者の)解説を放棄し、修正するように解説しなくてはなりません。それだけの時代がきているのです。

今までのように記され与えられた神名から入っていくと、元々その内容が分からないように名付けられていますから、名義未詳で解けないばかりか新たな発見だとか視点だとかいって余計な悩みを得るだけです。

古事記は心の、意識運用の、原論として、次のように始めるようにいいます。

【天地の初発(はじめ)の時、(吾の眼・私の意識・を付けて智と成す)

【高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、(心の発生)

【 天の御中主(みなかぬし)の神。次に (心の主 問題の提示)

【 高御産巣日(たかみむすび)の神。次に (心の自覚 主体)

【 神産巣日(かみむすび)の神。 (心の自覚 客体)

「私の心が動き出してきた時、

「精神領域に出来てきた意識(興味関心反応捕らわれ誘因等々)は、

「何か分からないが発生した心の「主」、

「その心が在るとする心の主体、

「その心の内で心が向かい、心を受ける相手側となる実体となる。

禅でいう今。

つまり吾の眼が付いたときに、私の意識の主がいるのだからそこから始めれば良い。出来上がり規定されうまい具合に湧いてきたアイデアや見つけた見解等にとらわれると、愛着執着所有欲から事を始めてしまう。

初めに在るのはわけの分からないなりに自分の心の主がいるのだからそれに従うべきだ。と、なります。

ですので最初の一手というのは自分でもわけの分からない事から始めたということを知るになります。その分からない何ものかの内に自分の主体ができました。それを了解した後で、次に次に、となり、「次に」というのは一つづつ足して増えていくと同時に、八つの次に次に全体がまとめて加わります。

全体がまとまってあるからこそ個別の選択ができるのです。

言葉で語るには順序を経ますから、御中主が始めに来て何も無いわけの分からないものがまず在るといいますが、自分というものを立てると、まずあるものは自分です。自分の思い考え感じがあって事が起き動いています。自分の頭脳の中を自分の言葉が駆けめぐって、自分が言葉を喋って世界が動いていると思います。ここに在るのは原理を考え感じる事と、考えている自分がまずいることの乖離です。これを把握していないということです。あるいは時処位の経過を無視していることです。

例えば「今」という言葉を使うとき、「今」と言った自分から始めてしまうと、それが始めとなり、その中で「今」と一体になるようになってしまいます。それでは「今」といった自分の「今」から逃れられません。自分の今があるのは確かなことですが、それは巷に流布され歴史を泳いできた今の上に載ったものです。自分の経験し記憶した過去からの今の上に創った自分の今でしかありせん。ですのでその今を整理分析しても自分の言い及ぶ範囲のことを言い立てるだけのことです。「イマ」の全体を語らず従ってイマの実相も語れません。

ある禅僧は次のように語っています。

「今は今であって、今に留まっていないのが本当の今である。この消息を体得するための修行だ。」

「只管打坐で息と一つになり、身心の隔てを取る」

こうして食って座り込むだけの社会に何もしない座禅になります。イマとは最初から言霊循環と蛭子淡島の上に載った十七の要素の全体のことであることを教えていないからです。それは釈迦が座禅という形を創ってしまったからでもありますが、古代において釈迦がスメラミコトを尋ね教えを請うた時、スメラミコトは言霊学の全部を開示しなかったか、十七要素のうち「八」に関するものは口外を禁止し、後の人類に努力を要請するように仕組んだからでしょう。

「イマ」に限らず心の現象は先天言霊循環構造の十七の要素で成り立ちますので、「今は今であって、、、」とするのは、「今」の全体と禅僧の言う個別的な「今」とが同じ言葉で語られているだけです。それでも禅僧が自分の範囲内で自分の「今」をいう限り、禅僧のいう「今」の全体となりますから「今は今であって、」となり、その全体性の獲得を悟ったということにしているわけです。

それはイマの全体を悟ったのではなく、自分におけるイマの全体を悟ったのですから自分から見た自分にとっては全体の悟りを得たことです。それは単なる社会の一個を占めるもので、その限りでは社会へ出ていきますが、社会全体には手がでません。

宗教方面から悟りを求める限り、一個を出ることができないのです。私達は社会に生きているのですから社会全体の悟りを必要としているのです。宗教的な一個一個の悟りを幾ら集めたところで社会にはならないのです。坊さんたちは自分の言葉で自分を語る事はできますが、社会の言葉を使うことを知りませんから何時まで経っても社会全体を悟りに導くことをしません。

では社会の悟りとは何でしょうか。そんな言い方は聞いたことがありません。社会は意識を持った主体では無いので実は社会の悟りなどというものはありませんが、主体側の個人が社会を自らの悟りに取り込むことはできます。もともと社会的に生きて社会の言葉を使用しているのですからできるはずです。

そうでなければ、悟りを説明するのに同じ仏教でも宗派によって違い、神道やキリスト教に悟りを翻訳するのに困ります。

多くの宗教があり、多様な言葉と方法でそれぞれの悟りが在るわけですが、人類の幸福を目指しているのに何故統一できないのでしょうか。もし言葉が多様であるというのを原因とするならば、世界統一語でもって世界中が一つなら社会の悟りもできるはずです。各宗教、宗教家は世界統一語でなら個人も社会も悟りに導けると言うのでしょうか。

しかし悟りは言葉では伝わらないと固執しています。つまり、そこでの悟りはそういった種類のそこまででしかない悟りということでしょう。

悟りを大げさに考えないでもっとも簡単な形にすると、言葉を使って物の実相を得ること、その実相に沿った名前を付けて指名することになります。大勢の中から知っている誰かに何々さんと声をかける のも、経験知の上からした悟りです。ですので悟りに言葉は無いというときは、人生生命全体の大きな相手の実相を得たものなので、それを現す言葉が「サトリ」そのものとなってしまっているからです。

ですので悟りは日常そこいら辺に幾らでも転がっているものですが、得る感じるという特別な観の眼(明らかに観じ見る・カミ)があります。机の上に在るものを指して「本がある」といえば、そこに本があるではないですか。瞑想している心があると言えば心があるではないですか。今があるといえば今があるではないですか。

宗教(芸術)はここまでの導きの役割を負ったものです。

しかしどのように在るのかは語れません。修行しろというわけです。宗教、芸術世界の特徴は進むべき方向はみえても、行き着く先が見えないというのがあります。それでもその方向の彼方に目標の実現があるだろうという指向性だけは分かっています。

そこで同じ道を行くことに共感している場合には、試行錯誤をしてきた先達の指導が必要ということになります。

ところが修行して悟った後に在るものが何も無いのです。悟りを見つけ神を見つけましたが、その後のそこから発する実践規範がどこにもありません。神を見つけ飛び込んだのに、具体的な行動規範を得ることができません。在る哲学者は神を見つけたときに、「神は死んだ」と表現しました。別の聖者は忘我の状態で慈善を施すこともありますが、社会性がありません。

悟りを出発点とする人類のための実践綱領を得られないからです。

それは実体、物のあるいは心の在るという状態の実相を獲得するまでのことは、明かされましたが「どのように」そして「これからどのように」の実相を明かせないからでした。

この章のはじめにイマの実体の姿をいろいろ示しましたが、不十分であると言いました。

ここからはその働きの話になります。

神の名にすれば八つ、その表記された漢字の字数を数えれば数十字、これが全人類の行動の秘密です。

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イマを捕まえる。

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人は生き(五気)るのに心の五つの性能を働かします。その始めが五感感覚を元にした欲望感覚の発動です。物の世界ならば風が吹けば草木がなびくと言う作用反作用の今の連続ですが、心はそれに気付く意識がなければ感覚的に知ることはできません。この感覚は物の方からやってきて物理作用を無意識的に押しつけられ感覚を得る場合と、意識的に感覚を働かせて得る場合とがあります。

前者は条件反射の生物学の分野ですからここでは扱いません。

また、一分後は今でなく未来で、一分前は今でなく過去で、0.1秒前後は今だろうかというようなことも問題にしません。それは心の無いのっぺらぼうの算数上の問題です。

ここでは心に生きているイマの解明です。

草木がなびいて揺れている葉を見て、イマ揺れていると感じるイマです。

前に「八」の神を紹介しましたが二神づつの対になっています。

心の次元によってイマの意識の現れが変わります。

・感覚・欲望次元のイマの流れ。直接今にあるものの世界。

全体が、1 宇比地邇(うひぢに)の神から 2 妹須比智邇(いもすひぢに)の神に至る流れの中にあり、

その流れは 3キ・5シ・1チ・8ニ・7ヒ・4ミ・2イ・6リ の順を通して現象していきます。

・知識・記憶次元のイマの流れ。過去が今に現れるものの世界。

全体が、3 角杙(つのぐひ)の神の神から 4 妹活杙(いくぐひ)の神に至る流れの中にあり、

その流れは 3キ・1チ・4ミ・7ヒ・5シ・8ニ・2イ・6リ の順を通して現象していきます。

・選択・按配次元のイマの流れ。今を未来に置くものの世界。

全体が、5 意富斗能地(おほとのぢ)の神から 6 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神に至る流れの中にあり、

その流れは 1チ・3キ・4ミ・7ヒ・6リ・8ニ・2イ・5シ の順を通して現象していきます。

・感情・宗教次元のイマの流れ。今の全体を確認するものの世界。

全体が、7 於母陀流(おもだる)の神から 8 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神に至る流れの中にあり、

その流れは 1チ・3キ・6リ・7ヒ・5シ・8ニ・2イ・4ミ の順を通して現象していきます。

・自然成長のイマの流れ。先天に授かっている心の力能の世界。

全体が、0 伊耶那岐(いざなぎ)の神 から 0 妹伊耶那美(み)の神に至る流れの中にあり、

その流れは チイキミシリヒニの順不同自由出現を通して現象していきます。

(番号は前にあげた八神に対応しています。)

これはどういうことかというと、例えば食事をする場合でも、空腹時と美食時の食事とはちがう形があり、口の方を食器食物に持っていく直接的な食べ方や、全体を見渡し鑑賞してから食べ始めるとか、どれをどうするか選択してからとか、いろいろあります。それを意識の次元で心の運び方の違いを示したものです。

第一印象。

生理視覚上の作用として画面を見ている場合では、意識は画面の内容は見ていません。入射する光源が網膜を打つだけです。しかし光は出っぱなしです。では最初に目にした光はどこへ行ったのでしょうか。そしてそれに続く光はどうなっているのでしょうか。これは半分は生理学上の問題でそれは科学が扱います。言霊学では光が視覚に刺激を与え、意識を呼び覚ました、その最初の一回分だけが問題です。

見るというのはその一回目の刺激に連続してあとから付いてくる、また新しい意識された刺激が続くことです。各瞬間瞬間に刺激が続きますが、生物として受け取るのではなく、意識において受けているものが刺激となっていきます。連続して見ている場合でも、同じ情景のように見えますが視点や目の玉は常に動いていて、その都度意識されたものが新しい姿の見ている画面となっています。

ですので画面は変わっていないように見えますが、それを見ている意識は常に揺れ動いています。じっと見つめ続けるといいますが実は同じ視点に留まっているのはほんのわずかな時間で、同じ視点といわれる範囲内を高速で目の玉はふらふら移動しています。あるいは目の玉が揺れ動き、変化瞬間をつくっているために見ていられるともいえます。

映画フィルムの画面の連続も、実は一コマの連続です。視覚を意識するときも、光の一コマが一場面となっている連続です。光の強弱色彩の変化等が感じられるのは、それぞれがまた別の場面となっている一コマです。

ですので最初の一コマ目、第一印象がものをいいます。一番に意識され、一番に判断され、一番に記憶されていきます。それに続く場面とは次々とおきる舞台進行でのことで、そこで強い印象をあたえると関心興味となって、不断の連続の中に新たな始まりがあるように思えるのです。しかしそれは、続いてはいるが別の場面の始めです。

そこで最初の一コマ目、ただし、意識に興味関心を与えた初めの時の見続ける一コマ目、を見ていきます。意識に載った初めのことですので、注意の払われない無関心で過ぎていく場合の初めではありません。

反応から感覚へ。

第一印象の初めは生理的な物理作用から起きる化学電気信号等の情報の受け渡しで、画面から光ったといっても光ということで認識したわけではありません。わけの分からないものの情報が伝達され、化学物質やら信号等の伝達の行き着く先の脳髄で光に反応しています。それはそのままの全体が与えられ持続を継承します。次いで、在ったものが光への反応であることから、光の情報が引き寄せられます。反応して引き寄せられた情報が光であると固められていき、それは了解され光であると了解され、光への対処反応の準備が整います。そうすると意識はそれを示すため光という判断を押し出してきて、その判断が煮詰まります。そしてその後で光という自己了解をします。(眼にも止まらぬ瞬間内での動きですが、それなりの時間経過が生じています。)

こうして単なる物理現象が頭脳内での感覚の元として生まれました。次いで自分に得た感覚の元に対して、その時の係わりの意識が起きてきます。テレビを見たいから電源を入れた、あるいは画面の美しさを知りたかった、あるいは何の画面であるのか、等々の心の係わりが光という感覚の元となっているものに向かいます。

すると、ここでは画面を見るということを例にとっていまので、次のようなことが頭の中で起きてきます。

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・感覚・欲望次元のイマの流れ。

全体が、1 宇比地邇(うひぢに)の神から 2 妹須比智邇(いもすひぢに)の神に至る流れの中にあり、その流れは 3キ・5シ・1チ・8ニ・7ヒ・4ミ・2イ・6リ (ア段でいえばアカサタナハマヤラワの五十音図)の順を通して現象していきます。

ここに直接今にあるものの世界ができてきます。

物を見る、画面を見ている単純な視覚世界の場合、この時も見てしまっている対象、見ている画面から出発しますと言霊学になりません。何故ならそれらは見てしまっている現象世界にいるからです。その人の見る姿勢の現れとして見ているからです。見ているという同じ言葉はう他の人も同様に表現します。そこには見ているという各個別の姿勢・視点が現れていますから、その内容を問えば十人十色になってしまいます。ここでは見たという現象世界がどのように出来上がっていくかが問題です。見ているイマをイマ創ることです。見ているということの始まりは、画面か本か何だか知れない入射して刺激を与える光というだけです。一歩歩く前に0(霊)歩があるのです。

感覚は単なる生理機能で物理的科学的な作用反作用の結果です。画面を見ることも同様ですが、それを意識に取り上げるようになると事情が変わります。

感覚を得ることは物理条件から来る作用を受けて受容器官が働き、それを脳髄が知覚していきますが、物質的な刺激の連続がなければ見つづけることはなりません。刺激があれば感覚器官も受容し続ける働き状態を維持します。

ところが物質的な作用や刺激の働きかけは自然状態でのことで、手加減や意志的な作用を働きかけることはありません。それではどうして、見続けることや見るのを止めて消したりできるのでしょうか。

ここに欲望意志が介入しているのです。

眼を開けて単に見ることも、眼を開けた瞬間から感覚受容器官である目に飛び込む光とは別に、光に喚起された欲望意志が目覚めているのです。人間であるからには、生物として条件反射の生理的な見るという結果を生むと同時に、人間としての欲望意志の介入による(消極的積極的な)実践行為が時々刻々と選択されています。

ですので眼を開けて単に眺めることも、腹減ったと食いつく事も、単純な生理機能の働きの現れですが、こと人間が行なうときには動物と同じ行為ではありません。

般若心経。

見るという単純な視覚行為を考えて感覚が何故欲望次元かみてみましょう。

生理的物理的な刺激が感覚受容器官で感知されると感覚を引き起こしますが、何故、何かの対象を感じるのかといえば、生理的な作用の上に乗って、欲望意志が対応したからです。欲望意志が対応しなければ感覚はありません。寝ている間や気付かずにいるとき集中しているとき、まっしぐらに歩いているとき等は目前のものさえ見ません。

生物生理上の刺激による反射作用は生物として起きているので物理作用として普遍的です。その内で人間の性能を駆使して人間が受容できる可視光線等の受容できる刺激を受けた時にのみ、感じ見ることができるだけです。

人間として見るのは意識を介してみるので可視光線によって視界ができているのではありません。テレビの画面を見ていると思っていますが、ところが画面など見ていません。電源を入れれば可視光線は出っぱなしの状態になります。机の上にある本や鉛筆、茶碗などがテレビを見るわけではないのです。しかし鉛筆や茶碗に対しても同じ光線が出ています。その光線そのものに画面や顔や風景があるわけではないのです。

人の光線受容器官に達して刺激を受け取っているからそうなるにすぎません。しかしその刺激そのものも、茶碗にとっては何でもないように、何の意味もないのです。刺激が脳髄に伝わっているだけです。生理的な刺激にテレビの画面の内容などありません。

つまり全世界は見るもの聞くもの五感を打つものが幾らあろうと、意識にとっては巨大な空を創っているだけなのです。

般若心経はいいます。「 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。」と。ここの部分はあまりにも有名になってしまっ誰でもが「色・空」から考え思い始めてしまいます。そこから始める解説が大部分です。解説では、空と言い、無いと言っておきながらまず「色・空」を受け取りそれをあるものとしてお説教が始まります。

ところが「色・空」から始めるお説教はどれだけ空を説こうとも経験を明かそうとも、出発からして違うのです。

心経はこう始まっています。「行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空」、訳すると、私の意識が活動を開始する時、空がまずあった。

始まる時は空だった、始まりは空を見ているところからだと言っています。次行に出てくる空があるとか無いとかとは別の空別です。空のはなし以前が問題だと言っています。「色即是空」の前が設定されているのです。言葉では同じ「空」で書き表されていますが、別次元のものです。あるものが前提として空だということと、在ったものが空ということとは違います。

古事記の冒頭を見てください。

【あめつち(吾の眼・私の意識・が付いて地に成る)の初発の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は 】 意識活動が開始された時に、神々が成ってきた。

どうです、全く同じことを言っているのです。(釈迦はスメラミコトから教えを受けていますから当然ですが。)

参考。

古事記理解の副読本となっているひふみ神示には次のような記載があります。

「第一歩の前に〇歩があるぞ。〇歩が大切ぞ。心せよ」 「根本の元の元の元の神は〇から一に、二に、三に、四に、五に弥栄したのであるぞ」 「世の元は〇であるぞ、世の末も〇であるぞ、〇から〇に弥栄するが、」 「世の元、〇の始めから一と現われるまでは〇を十回も百回も千回も万回も繰り返したのであるぞ」

そこで、あるものがあり続けるものとなるイマについてです。

1 宇比地邇(うひぢに)の神(0)から 2 妹須比智邇(いもすひぢに)の神(0)に渡る 宇比地邇(うひぢに)の神(0)

: 生理上の条件反射によって喚起された欲望意志が目覚めます。 : テレビの画面を見るという設定で、画面に向かっていますがまだ画面を見ているという結果を得ていません。目前の事物の全体雑多な事物からの光が視覚を打ちます。(途中でテレビという言葉使いがありますが、それは結果として最後に現れるものです。) 後に画面の光であると規定されるものがその元の形であることが了解されます。意識において光という視覚が現れました。

この光という感覚に対して、ウヒヂニからスヒヂニまでの意識の流れがおきます。

ウヒヂニはあるものに向かう主体意識で、スヒヂニはあるものを在らしめておく客体側意識です。この両者間のあるものに向かいあるものを在らしめ続ける、までに八つの経過があります。

注意を要するのはあるものに向かう主体意識から始めることで、(既に)在ったものから始めると蛭子淡島になってしまうということです。

ここでは感覚の元となった光ができましたが、その光を在ったものとして扱っていくと光の整理分析になり心が受理した光から離れます。ですので光に向かう主体の動きを見ていきます。ウヒヂニは意識は在るものにより近い、在るものが直接的な関係で結ばれるという動きです。光という感覚の元が直接光という意識になります。がしかし始まりは、意識が了解確認した結果として得られる光を目指すものとしてあります。

注意することは、言葉で書き表しますと、光という言葉に関しても、先天の言葉と了解される前の言葉と了解された言葉と頭脳に載った言葉と表現に結び付いた言葉とこうして表現されている言葉と、表現されて移動伝達されている言葉と相手に到達して相手が理解したとして話す言葉と、同じ光と言っていますがそれぞれが意識の次元が違います。(空とか色とか、全て言葉に関しては通用します。)

ここではウヒヂニからスヒヂニ、ありあらしめることからあり続けること、までを完了させるにはさらに八つの経過がありますが、主体側ウヒヂニは在るものを了解意識すると同時に、自らの意識を継続持続させるものを相手対象に見出さねば自らを表明できません。

これは他の父韻の三対にもいえます。

3 角杙(つのぐひ)の神 から 4 妹活杙(いくぐひ)の神 に至る流れの中の作用反作用。知識を得ることは知識を授かること。

5 意富斗能地(おほとのぢ)の神から 6 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神に至る流れの中の作用反作用。選択することは選択されること。

7 於母陀流(おもだる)の神から 8 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神に至る流れの中の作用反作用。感情を表現することはそれが煮詰まること。

・3キ : 雑多なもの達の光の中から、テレビに関する光を捕らえます。光っていたからか、見たいと思っていたからか、視界をさえぎっていたからか、とにかく他のものへの関心でなく意識にテレビを引き寄せます。テレビの光と言う視覚を得ました。この視覚は外部の物理生物世界と繫がっているもので、主体側が創造したものではなく、考え思って想像したものでもありません。主体側には与えられたものです。選択肢があるように見えますがそれだけのものでしかなく、自由自在に処理できるものではありません。意識の始まりとは実にこのように不自由なものです。それでも意識は在るものとして、角を掻き括り受け入れました。(角杭・角を出して引き寄せる)

・5シ : 角杭にひっかかり引き寄せられたものはそれなりに処理しないとなりません。意富斗能地(おほとのぢ)・大いなる量りの働きの地の出番です。現在の自己の興味関心時処位人格の総体からするその人の全力能・つまりその人の過去の総体において角杭が引っかけたものをその人自身として現し、多様な他のもの達から引き離します。つまり得たものを処理するのですが、5シは主体側の言霊ですから能動的な処理ができます。煮てもいいし焼いても放棄してもいいのですが、処理すると言う共通の意識が、大いなる処理する量りを地に付ける、つまり有無を言わせず黙らし自分にそのものとしてしまうことです。静め鎮まらすことになります。画面の光を得ることに関してなら、他のことは無視放棄選択しないで画面の光だけを意識に通すことにします。こうして欲望の対象がテレビにあると固定され、静まります。

・1チ : ですので、その時の総体がその人となりの現れとして、相手対象は自分であるという等号で結ばれます。というのもここでさらに主体側の言霊チが働き、連続した主体側の働き言霊キシチとなって、自我自己所有自己中心ができあがってきます。これは意識するしないに関係なく、感覚を持つこと欲望を持つことの普遍的な現れですから、相手を批判非難するなんてことはとてもできることではありません。批判の論理も自己中心でしかなくそれしかできないからです。知らぬが仏でどっちもどっちなのですが、この両者を合一止揚するのが禊ぎです。

宇比地邇(うひぢに)・宇が直接対象として現れる・対象となったテレビが自分に最も近い対象となる。そのため自己の判断力能の全体である意富斗能地(おほとのぢ)が全体となって 宇比地邇にのっかかります。 自己の自己による自分のための判断が出てきます。これは次元上昇して意識が変化するとか、ありがとうを称えて訓練するとかしても変える事はできない人の不変な性質です。それが欲望と結ばれますから、唱えろ信じろとさらにたちの悪い事になります。ここでは画面に固執して画面しか存在しないとなります。

・8ニ : 主体側の言霊が連続して出てきてガチガチの自己主張を展開しますと、言霊 ニ 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神がでてきます。怪しみながら畏まって音(ね)を聞いてしまうことになり、自己意識の夜(あや・吾夜・心の底)にかしこき自分を鼓舞する音が鳴り響くのを聞きます。暗示(自己暗示)みたいなものです。とうとうキ・シ・チの内容を煮詰めてしまい、自己が抽出されたものと思い込み対象の実相を得たものとしてしまいます。

・7ヒ : こうなれば、それらを納得して発表するしかありません。言霊ヒ 於母陀流(おもだる)の神。精神内容表現が精神宇宙球の表面に完成する韻として、正否・真偽に関係なく自分から出てくるものとして扱われます。言霊ヒも主体側に属するものですから、自分に所有しているものを当然のものとして表出していき、少なくとも自分には正であり真であるとしていきます。神名のオモは面で顔のことです。自分の納得了解していることですから、正否真偽善悪に捕らわれず自分の面は足りています。主体側として働きかけていますから相手側に働きかけの内容を得るようになります。

・4ミ : 活杙(いくぐひ)の神、とうとう自分が固執したものに自然に結びつき、当然な成り行きの実を得たとします。自分側には自然とされる判断規範・杭・を相手側において見出したとしていきます( いくぐひ) ので、そこに両者の結実があるとしていきます。ここですでに自分において実を成し結論、結果、現象を自己の内に創造してしまいますので、他者が見えなくなります。あるいは他者にも方向があるということを無視します。自己完結する為の元ができてしまうので、今度はそれをどうしようかとなります。

・2イ : ミは対象世界に投げ返され、相手対象の中で行動して動いているように思います。自己意識の中では言葉で完結させています(ハ)ので、今度は行為によって出て行くことになります。神名は、相手と自分を同一視する須比智邇(すひぢに)となっています。

・6リ : 対象の中で行動しているのが自分であり、対象とは自分が創ったとなりました。最後に大いに述べるこが実行されます。

この順を通して現象していきます。

1 宇比地邇(うひぢに)の神(0)から 2 妹須比智邇(いもすひぢに)の神(0)に渡ってきた 2 妹須比智邇(いもすひぢに)の神

: こうしてここにスヒヂニに到達し、在るものがあり続けるものへとなります。

過去が今に現れる世界。

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イマが今あってイマが持続していく今の世界に対して、他に三つのイマの現れ方があります。言霊ウの欲望次元に続いて二つ目は、 過去がイマに現れる世界です。これは記憶を介しますから、やはりその半分は生理的な記憶を解明する世界となりますが、記憶となったものの生理世界・頭脳内の化学、電気信号の世界ではなく、意識において記憶となる世界があります。

思い出されて語りだす物事の全ては過去のことでしかありません。概念を操って述べ立てる論理も過去の記憶を寄せ集めただけのものです。科学関係のノーベル賞のほとんどは新規に創造されたものは無く、思いつきや夢で見たもの偶然に突き当たったもの等から得られたことがヒントになっていることがほとんどです。あったものを見直すだけのことですので、創造者というより発見者ということです。

過去をイマに持ち来らす力動を与えるのが言霊キ・ミの 角杙(つのぐひ)の神 ・妹活杙(いくぐひ)の神になります。人の最も主要な 精神性能の現れの一つです。

記憶を記憶情報と対応した神経回路でそれを脳と結びつけると、脳を突ついて記憶を探る生理学の記憶になってしまい、人間の意識の記憶となりません。

汝殺すなかれと十戒にあります。その言葉は殺人を犯してしまった人の記憶にどう刻まれるのでしょうか。殺人は色々で、殺人によって英雄になったり建国の父だったり、罪や恐怖不安に苛まされたりですが、殺人の記憶は消せず殺すなかれなどという説教など聞きたくないでしょう。当事者がいなくなれば彼らの持っていた記憶も無くなり、記録も消され、事件も無かったことにされるかもしれません。そして私達は在るのに知らないことだらけの世界に生きています。

しかし、殺すなかれとか殺人とかの言葉が無くなるわけではありません。五万年前の今日殺人が起きていたと言っても、昨日地球の裏側で殺人が起きていたといっても、同じことです。殺人という言葉を使って意識は過去のどこへでも飛んで行きます。

面白いことに、事件があっても無くても言葉を使うとそういうことが言えます。その意識内の実相が明かされなくてはなりません。神経回路を手繰る生理的な記憶のこととは違います。記憶は無くとも言葉と概念があるとそれに関する実体も在るように思われてきます。言葉によって記憶が創らされます。無いのに有ると。記憶を扱うのは人の最も重要な性能です。言葉を使うと嘘も本当もその境が無くなります。喋っている言葉書いている言葉が自己主張をしていきます。人がこうしたことを出来るその根拠を見出しましょう。

・知識、記憶次元のイマの流れ。

全体が 3 角杙(つのぐひ)の神 から 4 妹活杙(いくぐひ)の神 に至る流れの中にあり、その流れは 、3キ・1チ・4ミ・7ヒ・5シ・8ニ・2イ・6リ の順を通して現象していきます。

3 角杙(つのぐひ)の神(0) から 4 妹活杙(いくぐひ)の神(0) に至る流れの、始めの 角杙(つのぐひ)の神(0)

・ ・過去が有ることが分かっているわけではありません。それは後で分かることです。そして分かった過去というのはイマのことです。 過去のものがイマにそのものとして現れることは無く、過去の実在とされた概念として顕現します。物質物象として持ち出された過去は、過去のイマココの実在から時間の経った物体となっています。それを見せられて過去は実在するとするのは、実在した過去と現在に持ち来らせられた過去との混同です。しかしそれを仲介している意識があり、それを表現する概念があります。

これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為す、これ知る為り、と孔子は言いました。つまり自分の角にひっかかったものと掛からないものを分けたということです。では自分の角はどうしたのでしょうか、どこへ行ったのでしょうか、そもそも何処から来て自分のものとして判定の主催者となったのでしょうか。孔子様は語りません。まさか長年の修業によってなどと言うはずもありません。子供でも親から分からなければそうはっきり言いなさいと教えられています。さあ、角とは何でしょう。

ジコチュウ。

記憶を概念として扱う意識は常に現在です。ですので概念をそのまま物象化しますとあたかも過去がイマココに在るように見えます。ジコチュウ。

さらに過去は無限大に大きいものなのに、その中での記憶の概念化というものは砂粒を大岩に見立てるようになります。何故でしょうか。これもジコチュウ。

さて原理は変わりません。ここでも 【天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は 】、つまり、 吾(あ)の眼(め)が付(つ)いて智(ち)になる、私の意識の初発の時、心の知識記憶概念の領域世界に成りませる神の名は、 角杙(つのぐひ)の神です。角を出しつつ触るものを意識していきます。広大無辺の宇宙で角が触れるだけのものを意識していきます。無辺無窮の宇宙の中にいますから、どこにいてもその角の触れる時処が宇宙の中心です。 人は自己中心が宇宙によって保障されているとも言えます。

ただし、宇宙による保障を受けてはいますがそれを自覚していません。宇宙から与えられたものなのに、自分はこうだからというだけです。角を出して掻き括りうまい具合に当たれば自分がしていることのように、自分が角を出した主体行為の結果を得たように思います。角を出せば出したで手当たり次第に触れる世界がありますが、角を幾ら出しても出し足らない世界の無数の砂粒の一つにに当たっただけで大岩としていきます。

角杙(つのぐひ)の神 から妹活杙(いくぐひ)の神へは、宇宙によってジコチュウが保障されています。

世界宇宙に向かって意識し始める時、ツノグイは自らの角に都合の良いものを角の先に引き寄せトリモチのように身近にくっつけようとします。こうしてトリモチは成長していきますが、逆にイクグイの方は成長してきたトリモチでもって、自分の判断力でもって、くっつけられるものをくっつけ結ばれようとします。

あっちに在るものを引き寄せ自分の角の成長の出汁にすることで、あっちに在るものと結ばれようとします。ジコチュウが良いとか悪いとかではなく人の性能としてあるものですので、ジコチュウの結果だけを見るのではなくその成りたち成り行きを探ってみましょう。

過去が存在するというのは現実的な感覚で意識できます。今見ている画面は一秒後には過去ですが、過去より存在している画面の前にいると思っています。過去の実在の事実は現在に影響し未来にまで及ぶだろうと思いやすいです。

ところがそこで見ている過去とは物質の存在のことです。物質の世界は物質に語らせるのがよく、意識を持ち込んで混同させることはありません。隣部屋の人はここに画面があることなど知らないのです。問題はいつでもアメツチ、吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)と成す、です。吾の眼、私の意識が向かうところに天地ができるのです。

3キ ・・ あっち側にあるものは過去の物質、ぼろぼろの文献、記録、記憶等で、自然崩壊で地に帰る途中のものたちです。ここではそれらを取り上げた知識、概念の問題になります。自分の出した角においてその角によって結び付く全体の流れの中で、その結びつきだけを取り上げようというものです。角に触れたものだけがイマとして現前してきますので、同じ過去の物質、文献を見ても角の角度や粘り度、機能が違えばまた違う知識、概念となるものです。角の先にくっつき吾の眼(あめ・私の意識)ができました。それかその人の天地(てんち)です。そこでそれをどうするのかに向けて意識の動きが始まります。

全体が自分に都合の良いように角を出して結びつきそれで都合のよい角を創っていく方向にあって、そのまた始めが自分の角から始まる言霊キです。これでもかこれでもかと自己中心から始まります。始まるだけではなく、それを補強し強化していきます。続くのは言霊チです。

1チ ・・ 角で取り入れたものをどうにかしようとします。当然どうしようもありません。その人の持っている、持って生まれた、そしてここまで育ってきた経験と知識全体しか誰もが持ち合わせていません。その全体で対応します。自分の全体で対応しますから、他のことは分からず目に見えず、あるもの全部で対応しているつもりです。考えられるだけのもの、思いつくだけのものが出てくるだけですが、それしかないのにそれだけのものを出してきますから、まるで相手対象の全体、世界全体をこれしかないというつもりで扱います。井の中の蛙大海を知らずと文句を付ける方も五十歩百歩で、同様に言霊キで始まって言霊チで受けています。それなりに自己の人格知識等の全体で受けますから、それは実(ミ)を結ばざるを得ません。

4ミ ・・ 実(ミ)の結ばれ方がまた 角杙(つのぐひ)なのです。自分の全体をもって角を出していますから、それが全てと思い、成った実(ミ)しかないように思えます。実(み)は結び付いた客体側ですから、今までの成長してきたその人の人生、人格、知識、概念等の全部に結びつき、自分との整合性を得るようになります。自己中心の実ができました。

7ヒ ・・続いて言霊ヒの於母陀流(おもだる)の神の出現によって 、ミの内容を面(おも)に出して表明しようとします。控えめに言おうと一方的に言いたいことを言おうと、各人の面(おも)に足るように満足するようにいうしかありません。そのためには自分の出した角に都合の良いように言葉(ヒ)を選び、自分の出した角の正当性と所有を誇り自己満足に導きます。満面の足りた思いへ向かいます。

5シ ・・ 最初の出だしであるツノグイはどこまでも付いて廻ります。自分は手加減をして、相手のことを考えて、妥協してなどと考えるのも自分の角の都合次第の出来事です。どんな形になるにせよ自分の決めていく壊れない形を創っていかねばなりません。こうして自分にも不安が無いように相手には確かな形を与えるように、言葉の形を整え鎮め、言葉の出てくる地を固めます。オホトノヂ、大いに主体側の規範を確定していく地を固めます。

8ニ ・・ 主体側の地が静まり確定していく内に客体側の内容が煮詰まっていきます。煮詰めていくのは角を出して角で取り入れるのに自分の都合の良い状態をもとめるためです。こうして角を出す、そして角を出している、これから出し続けていく自分の行動の名目を立て、固め、その名において心の行動に至る名分や理由付けができていきます。

2イ ・・ スヒヂニ・須比智邇・が働きます。心の中でしっかりとした名分が立っていましたので、須(すべか)らく心の起こそうという行為が名目・名分である智と比べて近い( 邇)、つまり名分と同じで同じことができる行動規範を得ているということです。

6リ ・・ こうして大いに述べるオオトノベによって次々と事態を向かえ発展していきます。言霊循環の内にいますから、その進展と共に自己主張が強固になり頑固になり、他者を見向きもせず排斥するようになるというのもよくあることです。

3 角杙(つのぐひ)の神(0) から 4 妹活杙(いくぐひ)の神(0) に渡ってきた活杙(いくぐひ)の神(0) ・・ こうして知識次元のイマの流れはあります。自分と違う他者の意見などを見ていると、行き過ぎだとか不足だとかを感じますが、 そう感じる本人を含めて同じ心の動き方をしています。角にくっついたものが過去から引き寄せられ、それを述べるので新規の創造をしているわけではありません。

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・選択、按配次元のイマの流れ。創造するイマ。

三つ目のイマは、選択配分しようするときのイマの世界です。これも意識の中にある世界をそのままあるものとして扱ってしまいますと、無いものをあるとする希望や嘘の世界を創ってしまいます。

創造とは何かと問われると無数の回答が見つかります。

創造の以前は何もない無からの創造とか、何かの元が有るという宗教、神、ビッグバンとか、希望や計画の実現とか、有効有用性の創出とか、創造することとは何かを示す多くの意見があって、勝手なことを言いだすのが創造性かと思ってしまうくらいです。

創造は過去にあったことを今に持ち出して、それを今に置くと未来に成ってなっていきます。吾の眼を付けて地に成す、あめつち、が創造です。自然の造形、絶景、地球そのもの宇宙そのもの、進化などは、人間が手を入れることなくできたもので、歴史創造として比べる相手ではありません。

あったものを今に置くと何故か新しくなる、その始めの一歩を人間が創ったということ、それが歴史創造で、生命意志を人間が自覚して取り込み人間の生命意志をスメラミコトとして打ち立て実践していくことです。

全体が 5 意富斗能地(おほとのぢ)の神から 6 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神に至る流れの中にあり、その流れは、1チ・3キ・4ミ・7ヒ・6リ・8ニ・2イ・5シ の順を通して現象していきます。

今をイマに置く未来を創る世界。

この創造の世界(言霊エ)は前二者(言霊ウ・オ)とは決定的に違うところがあります。

扱う世界が手持ちとして既に今に有ることです。前二者にはそういうことがありません。

言霊オの天の常立と言霊エの国の常立の違いにはっきり現れています。前者は有るか無いか分からない先天(天)の常に存立するもので、先天にあるものと落ち合えば(ツノグイ)出てくる世界。後者は、クニ、組(く)み組まれ区切って似(に)せるで、組むものが既にある世界です。それを常に存立させ、トヨクモノ・父韻(十)母音(四)を組み心の野(タカアマノハラ)が出来ていきます。

言霊ウの世界(欲望)の意識の運び方・ 3キ・5シ・1チ・8ニ・7ヒ・4ミ・2イ・6リ の順

言霊オの世界(知識)の意識の運び方・ 3キ・1チ・4ミ・7ヒ・5シ・8ニ・2イ・6リ の順

言霊エの世界(選択)の意識の運び方・ 1チ・3キ・4ミ・7ヒ・6リ・8ニ・2イ・5シ の順

上にある父韻の働く順位を比較してください。

キから始まるということは自分に自覚した内容を持っていないため、心の欲望を掻き寄せるか従うか(ウ次元)、勝手に出てくる記憶知識を掻き寄せるかそのまま従うかします。

ところがチから始まる時には手持ち材料があるので、それをどうするのか、取るのか取らないのかの選択から始まざるを得ません。

そして前者の終わり方のイ・リでは、分からないまま受け入れたものをそのまま拡げ発展させますが、イ・シの終わり方では、心の行動を鎮め結論終末へ向かうように働きます。

その流れを統轄し保障するのが各流れの前後に先天的に統轄者としての母音の性格を持った各二神です。

言霊ウ次元では、常に相手対象と共にいる ウヒヂニ・スヒヂニ。

言霊オ次元では、常に相手を探し回りくっつく ツノグイ・イクグイ。

言霊エ次元では常に規範を持って鎮めまた拡げる オホトノヂ・オホトノベ。

この母音の性格を持った対の各二神は、禊ぎの後完全な自覚体となって現れます。ここまででは、無自覚に従うもの、先天に流されるものの段階です。

5 意富斗能地(おほとのぢ)の神(エ)から 6 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神(ヱ)に至る流れの中にあり、その始めの意富斗能地(おほとのぢ)の神。

・・ 言霊エ次元をア段で示すと、タカマハラナヤサ、ですが、前段で言ったように当面は禊ぎ以前のタカマハラ(心の領域)ですから、手持ちの実在が全面的に有るという形で扱われます。扱う材料の時処位と扱い方の規範が明確であるわけではありません。

それでも扱う対象がありますからどう扱うかの選択に迫られます。主体側のオホトノヂは選択する智恵・実践智の規範が準備されている宇宙で、客体側のオホトノベは智恵・実践智によって現された世界を述べ、延べ・伸べ広める宇宙世界です。

0イ ・・ イマ持っているものがある世界、それは無自覚であるならイマ持たされている世界からはじまります。

1チ ・・ 宇比地邇(うひぢに)の神。 言霊チ。 イマに在るものがイマ在るとする力動を提示する。イマあるものをイマ捕まえる主体側。自覚があれば自分の時処位を示す宇宙から始めますが、持たない場合には手持ちの持ち分全体が直接その人のものとして現れてきます。今現在何ものかを持っているものがあり、その全体から始まります。

この全体が心の大いなる地の規範を通して、大いに述べ伝え実行に移すオホトノヂからオホトノベの流れの中にあります。ですのでイマの全体がオホトノベの方向へ引き寄せられていきます。典型的な心の動きは選択按配となり、命令の実行形式を通して、政治、道徳へとなっていきます。

3キ ・・ 角杙(つのぐひ)の神のここでの言霊キは、 在ったものをイマに収納しようとする力動を提示しますから、今持っている全体をあったものとしてをイマ引き寄せる主体側となります。ですが角杭の角を出して取り込めるだけの範囲が全体となる制約があり、それを全体として行き、結び付きます。

4ミ ・・ 言霊ミの 在ったものに自分のイマを置き換えようとする力動を提示し、言霊オの性質を持った、あったものをイマ引き寄せられる客体側の妹活杙(いくぐひ)の神に渡されます。ツノグイとの接触で選ばれた全体が実となり、自らの量りの地の規範によってそれを述べ実行していき、まず両者(キミ)の結びつきを表明します。

7ヒ ・・ 於母陀流(おもだる)の神、言霊ヒで結びつきが表明されていきます。 チの段階であった当初のイマ在るものが、キミの段階でイマという現在が選択されて結び付いています。つまり当初の全体に対して出来るだけのものに結び付いた、それをあるものの全体としてイマ開く主体側となります。ここでイマ開くというのは自分の意識に言葉として選択したものを与えることです。

6リ ・・ そして自分に対して与えられた言葉を大斗乃弁(おほとのべ)の神によって、 在るものをイマから他者の未来に広め置き換えようとする力動を示す働きが発動されます。最初の全体の印象表象であったものが、キミで選択結ばれ新たな自分の全体となり、それが意識内で表徴された新たな自分を律する全体となり、それがイマオホトノベに向けて、言葉によりそして行為により地に置かれようとします。

8ニ ・・ オホトノベによって自分を律する言葉が出きれば、ここで妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神が出てきて、 イマ在るもの(言葉)がイマという現在の内部中核へ吸引されていこうとする力動を示します。言霊ワの性質をもっていますから、その言葉は到達すべき目標として自分に与えられた確かな名目となります。 こうしてあるものの全体がイマ収縮して煮詰まり、意識の向かう行動するという方向が決まります。 (行動するといってもこれは意識内のことですから、駆け出したり食べたりということではなく心の中でのことです。実際の行動の心の在り方になります。)

2イ ・・ 妹須比智邇(いもすひぢに)の神。 言霊イ。 イマ在るものが現に有り続ける力動を提示する。言霊ウの性質を持つ。イマあるものをイマ捕まえる客体側ということですから、心にイマある意識の在り方がそのまま有り続けるものとして出てきます。つまり前段0・チ・キ・ミ・ヒ・リ・ニ・の全体が心で創られたものとして、同じ形で現れます。

5シ ・・ 意富斗能地(おほとのぢ)の神。 言霊シ。 在るものをイマから静め落ち着かせ調和させようとする力動を示す。言霊エの性質。あるものをイマ地に置こうする主体側。

全体がオホトノベへ向かう最後は結論としてどの形にするかの選択によって、自らを表明する地を示します。ウ・オの次元の心の運用では、終わり方が言霊リでしたので、述べっぱなし走りっぱなしで落ち着くところがありませんでした。心の意識を落ち着かせて相手側に渡すものがありません。言霊エの選択次元では前段の全体が言霊シで終わりますから、結論へ向かい集約されていきます。この集約されて落ち着き形の出来たものが渡されます。

5 意富斗能地(おほとのぢ)の神から 6 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神に至る流れの中にあり、その

終わりの 6 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神

・・ こうして確定されたものが出来、出てきます。渡されたオホトノベは確定された結論現象を受け取り、それを述べるわけです。ここに形としてイマが創造されるのです。

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・感情、宗教次元のイマの流れ。

四つ目のイマは感情世界のイマです。意識によって捕らえておかないとすぐ消えたり逃げて行ったりしてしまいやっかいな感情となっています。これは禅三者全体を含んでいますので各そちらの方面へ出過ぎますと、分野が違っているのに無視することになってきます。例えば感情の思いで記憶を在るものとして今に在る物としてしまうことなどです。

全体が、7 於母陀流(おもだる)の神から 8 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神に至る流れの中にあり、その流れは、1チ・3キ・6リ・7ヒ・5シ・8ニ・2イ・4ミ の順を通して現象していきます。

今の全体を確認する世界。

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・原理上の成長するイマの全体の流れ。

全体が、 1 宇比地邇(うひぢに)の神から 8 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神に至る流れの中にあり、その流れは、1チ・2イ・3キ・4ミ・5シ・6リ・7ヒ・8ニ の順を通して現象していきます。

今を顕現させる原理。

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以上で本章の冒頭であげたイマの様々な様態に対する、不足分を解消するものとします。

中途半端の用ですが、禊ぎの章でまた全体的に取り上げられるでしょう。