12 今現在論

今現在とは何か

言霊学でいう時間は物理学や数学で扱う時間ではなく、生きた意識の時間です。早く食事が出てこないかと待ち遠しさで時計を見ると針が止まっている感じを受け、楽しさに時を忘れる時間のことです。意識のない規則正しい時計を見つめるほうの眼に、生きている時間があります。

吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となる時間のことです。

時は現象の変化のあるところに感じられます。現象の変化は心象にしろ物象にしろ、その姿の変化そのものの意識の流れに沿った心のあり方が、時として感じられたものです。

ですので時とは何かでは物理現象(心象、物象)の体側のあらわれをまず先天領域で片付けておかねばなりません。全体の目次は以下の通りですが、古事記の構成と全く同じです。(古事記は意識の原理論ですから、意識に関することは古事記を真似るしかありません。)

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00 時の始まり・今の始まる以前の今がある

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01 今には五つの実在世界がある(母音領域)今の居間

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02 今には八つの働きがある(父韻領域)今の息

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03 今の根源韻、今の大親分

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04 時の自己確立(御柱)

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05 時の締り(十四島)

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06 時現象(心象)

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07 時現象(物象)

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08 時表現(回帰)

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09 時の整理運用

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10 時の主体韻の確認

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11 時の無自覚な分析主張

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12 時の表現

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13 客観的な時(黄泉)

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14 自覚反省

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15 時の理想な納得主張

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00 時の始まり・今の始まる以前の今がある

今はとても豊かです。過去の記憶や知識が今にあり、未来の可能性や夢が今にあり、今ある欲望や願望が今に持続してあり、情緒や感情の思いが今現われてあり、そして、よしいざ、という一声で全てが動きます。今という一点の尖端に全てが集中しています。

ところが、今という意識のスイッチが入っていない時には何もありません。通電されていない今とは何と貧相なのでしょうか。何の過去も未来も、肝心な現在もありません。つまり今がありません。今が無ければ、今しかない、等と言うこともできません。今しかないというお説教などどこ吹く風です。

しかし一度オンされれば満開となります。

このことを古事記はこう言います。

あめつち(天地)の初発の時、高天原に成りませる神の名は天の御中主の神。

翻訳すると、天地を大和の言葉でアメツチと読み、吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となす始めの時、精神意識界に浮き出てくるのは自分という意識の中心を成す主人公ですとなります。

今とは何かに適合すれば。

私の今の意識をオンして自分の今の意識となす始めの時に、頭脳中枢に成り出てくる今と名付けられるのは、先天の今の中心にあって、全ての今の意識活動の大元の主人公となる天の御中主の神と名付けられているもの、という意味になり、今という意識が剖判していない、どちらにもオンにもオフにもなる事態です。今という働きが働いて今を成すのか、今という実在が働きを呼び込むのか、未だ分かれてはいません。

意識がオンされるや否や今の世界が満開となります。ではオンされる以前には突如現われる満開の今はどこにあったのでしょうか。それが吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となる始めの時、無意識無自覚の頭脳中枢に、今となる事どもの主、(ぬし)が成り出てきます。

ということは、今ある時にはただ今あるだけで、今無ければ無い。今あるというときには今あることが今あるというだけで持続していく、今あることと持続して今あることとは、今の尖端においては同じことです。

このことは、過去が今あることでもないし、今あることを未来に置くことでもありません。しかし、今あることが全てで、今あるという時に限られていて、過去が今にあることも今が未来にあることもないのです。

このようにまず始めの今とは、今有るか無いかというだけのものです。

ではその他の今がいろいろありますが、それらはどこにあるのでしょうか。

それはありません。その他の今というのはまだまるきり出番になっていません。ですので、こういった今があるや違う今があるということもありません。

今の天の御中主の世界は、今のところはこれだけのものです。色々言われるであろう今の事柄達は、そういった思いの兆しが出てきて芽吹くので、天の御中主としての今とはまた別の世界次元のことになります。

御中主が心の今の主(ぬし)であるのなら、その他諸々の事どもも同時に含まれているはずですが、何故連続してあるいは発展的に指摘してはいけないのでしょうか。

そこには物質世界と意識世界の差があるからです。物質世界は作用反作用の横滑りとか量的変化とかその変化による断絶とかをもたらします。意識世界も似たような進展をもたらしますが、それ自体に内属した変化によってもたらせられるものではありません。

欲望が知識へ、そして実践智へ進化するように見えますが、それは現象を物質並に併置していく事から起きた間違えです。欲望は幾ら足そうと引こうと、知識に変化することはありません。同様に知識を幾ら削ろうと欲望へ逆戻りすることもありません。

意識は吾の眼(アメ、天)に戻ることによって、そこで思いの兆しを芽として相手に付け地に成そうとする時に、吾の眼の内容を得たり変化したりするのです。いちいち天に昇り地に付けることで、意識の次元を現わします。

言霊学で冒頭の剖判、ウからアワへの剖判、のことが言われる時には、冒頭の天地(アメツチ)に戻って剖判の思いの兆しを得た時には剖判となり、知識の思いの芽を見た時には知識となるのです。これを原初の言霊循環いい、吾の眼(アメ、天)にはその後の言霊百神が詰まっています。

つまり言霊学の原理となっている古事記の冒頭百神とは、あめつち(天地)を百回繰り返すことで百の次元上昇循環を経て子現象を産む子事記の原理物語となっています。百のアメツチの循環を経る以前に間違え脱落したり、またその場所から再出発してしまうためにこの世の混乱が起きています。

古事記は正当な意見や現象を産むには百回分戻ることを教え、アメツチの先天原理から百回分繰り返して進むようにして、始めての歓喜に満ちた一言分の子現象を得ると教えています。

今が今分かり、今に今と表現する喜びを得るために、今の瞬時に凝り塊っている百の今をほぐしていきましょう。

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01 今には五つの実在世界がある(母音領域)今の居間

冒頭の「あめつち(天地)の初発の時、高天原に成りませる神の名は天の御中主の神。」において、「アメツチ(天地)」は「天の御中主の神」の内容です。種は花木の内容であるようにです。蛙の子は蛙ですが変態変化成長があり、同じことを繰り返し複製をします。

意識を持つ人の場合は複製をするのではなく、創造という複写をします。

無意識界での複製は条件に左右される進化を遂げますが、人は意志による創造進化を遂げます。つまり、意志という突飛な制御されない物質的な条件の則をはみ出た動因韻子が左右します。

古事記はこの意志による動因韻子が記載されている世界で唯一の人類の秘宝です。これがために世界中からモーゼ、釈迦、孔子、キリスト、モハメッド等の聖人が大和のスメラミコトの元に集まり教えを受けにきました。(記載されて定本になった古事記は千数百年前のことでしかありませんが、その元の思想、フトマニ、現代的には言霊学、は一万年近い秘められた歴史をもちます。)

ということで意志の韻子が「あめつち」に先天的にあることになります。意志は働きを持ちますが、それ自体で表現されることは無く実体の上に宣(の)ることでしか自らを表現できません。

ですので古事記もまず実体世界の全貌を明かしてから、働き世界を示すようになっています。

ありさま(01)、いきさま(02)、いざない(03)、なりさま(04~08)、そして運用へ

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まずは、何も無いが先天で満たされているあめつち(天地)が、ありました。

ここには、実在と働きとその両者を取り結ぶ自己の在り方と働きと、それらによって出来上がる現象が秘められ隠れていますが、まずは、後の全てが先天としてあると同時に、気にかけ感じ考え思った分だけしかそこには秘められていないので、それだけしか出てこないという二重層構造になっています。

思った分しか顔を出さないが、思った分と思うであろう分は全部出すという構造です。これが「天地」と「御中主」の関係で、御中主が働いてその創造物を造るとそれが、「天地あめつち」と「御中主」の第三者となって、新たな「天地」に加わります。表現が下手ですが、上昇する螺旋循環を思い描いてください。

ここで注意しなければならないのは、「あめつち」と「御中主」を媒介仲介する何ものかがいるということです。冒頭の原文をよく見れば、「あめつち」と「御中主」の間に「高天原」がでてきますが、これがこの時点での自分のことです。頭脳中枢、意識の活動場となります。

つまり、「あめつち」も「御中主」も自分「高天原」がいなければ存在しないということです。高天原という地名や史跡探しをしている限りは、至高の秘宝たる古事記に近づくことはできません。

そのことは吾の眼という意識が付こうと付くまいと、物質世界は客観的に現存するではないかという意見として現われています。しかしこれは、客観実在とその関係を意識を用いないで計量数値化して現わすだけで、数値や物理表象としての高天原ということです。あったものの関係を数量で理解するもので、それによってあったものを細工変形して工作物として新たに産み出すものです。

それらの産物は、感情や情動や思い付きや記憶概念や意志等による介在を受け付けず、物としての作用反作用の進化系を作るだけなので、意識の係わりによる創造とは関係ありません。それらの係わりがあるように見える時には、意識としての創造の働きが載っている時です。時計の針が時を刻み創造していくように見えるのは、物理現象の数値の反復を意識が捕らえているからです。

このように客観的といっても意識の係わりがまといつくので、意識の事項は科学的な厳密さ加減によります。ですのでいわゆる絶対的な客観世界は存在しないというだけでなく、意識の計量数値化する働きの現れとして存在します。

その係わりを全般的に述べたものが古事記の冒頭十七神で、実在世界神と働き世界神とその両者の仲介者で構成されています。

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実在世界の数値化、象徴化、実相の表現化(子事記化)

古代から世界の思想はこの世を五つに分けました。五大、五元素、五行とギリシャ、インド、中国の多くの聖人たちが古代大和で学んだ教えを広めました。(生理的に五が適用されることもある) 大和言葉では生命の基本に係わる言葉は五(い)に関係しています。

人の生きる道はい(五)のち、くつろぐ場所はい(五)え、吸うのはい(五)き、生命を全うするのはい(五)きる、そして人の存在するのはい(五)ま、等々。それぞれを漢語表記にすれば理解されやすいのですが、漢語は現象の分析表記なので、事の実相内実を掴むには向いていません。

また宗教ではより以前を想定し、世界の始まりを無とか創造主とか神、絶対神とかで説明しています。これらは主体的には想定了解しているだけで、客体側にとっては努力目標のように全くオープンで相手側において証明確認できることではなく、任されたままです。

「今現在論」の論考も宗教を真似れば神から始まってしまうでしょう。何故なら今を現象したものとして扱うからです。フトマニ言霊学ではそういうことはなく、「今」は吾の眼が付いて智になる「あめつち」から始まります。吾の眼が無ければ何も始まりません。客観物理世界はそれでもあるわけですが、それそのものを扱うのは客観思想たる科学の分野での仕事で、意識の学、心の学であるフトマニ言霊学は事戸を渡してあります。

それでは意識の原理論たる言霊学はどのように説明するのでしょうか。

まず意識に捕らえられた内容を実相として表現するようにします。そしてそれに沿って表現実践します。でも、そこで原理論教科書である古事記を見ると神々の羅列を見るだけです。これでは信じるか信じないかの対象を得るだけなので、神名の読み方を大和言葉に変えていきます。

始めに出てくる「天地」をテンチと中華式に読むと真相が出てきません。

仏陀は譬えを使いましたが、古事記は実相内容で表記していきます。

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02 今には八つの働きがある(父韻領域)今の息

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