ろ 言霊ンはどこから来たか、どこへ往くか。1-6

言霊ンはどこから来たか、どこへ往くか。1-6

火(ほ)の夜芸速男(やぎはやお)の神を生みたまひき。またの名は

火(ほ)の炫毘古(かがやびこ)の神といひ、またの名は

火(ほ)の迦具土(かぐつち)の神といふ。

火の夜芸速男の神の火(ほ)は言霊、夜芸(やぎ)とは夜の芸術の意、速男(はやお)とは速やかな働きという事。神とは実体という程の意です。

火の炫毘古の神の火(ほ)は言霊、炫(かがや)毘古とは輝(かがや)いている働きの意。またの名

火の迦具土の神の火(ほ)は言霊、迦具土(かぐつち)とは「書く土(つち)」の意です。昔は言霊一音一音を神代文字として粘土板に刻み、素焼きにしてclay tabletにしました。これを甕(みか)と呼びました。甕の神は御鏡(みかがみ)に通じます。

ここまで来ますと、火の夜芸速男の神とは昔の神代文字の事であることが分ります。文字は言葉が眠っている状態です。

夜芸速男とは夜芸即ち読み(夜-夜見-よみ-読み)の芸術である文字として言霊を速やかに示している働きの意であります。またの名、

火の炫毘古とは文字を見ると其処に言霊が輝いているのが分ります。以上の事から五十番目の神、

火の夜芸速男の神、言霊ンとは神代文字の事であると言う事が出来ます。太古の神代文字は言霊の原理に則って考案されたものでありました。言霊ンのンは「運ぶ」の意だそうであります。確かに文字は言葉を運びます。それを読めば言葉が蘇ってきます。

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精神世界の最期の変態した姿が非精神化されたものとなっている。表現された言語宇宙と言っていいだろう。それは五感感覚で受容される現実的な物、空即是色の物質化された世界となっている。

火(ほ)の夜芸速男(やぎはやお)の神は、

火(ほ)--生まれ出て現象となった言霊

夜芸(やぎ)--焼き--やき--主体側の意図が焼き付けられた

ぎ--濁音は過去結果受動を現して、焼き込まれている

や--屋--主体側の意図した大きな家屋として

き--自らの精神宇宙の中にあるもの(経験知、記憶等)を自分の手許に引寄せる力動韻

夜芸--(夜-夜見-よみ-読み)の芸術である文字

夜--暗い闇の中である頭脳内

芸--頭脳意識内での技能、主体の意図イメージを物質化する技、芸

速男--はやお、速やかな働き、となり、

主体側の意図を持って生れた言霊は、五感感覚では触ることも見ることもできないが、闇夜の蔵屋に相当する頭脳内では主体側の意図が焼き付けられた言霊として速やかに機能してその技芸による物質化への変態が行われる

手にした粘土板、書かれた文字にイメージ、意図、精神は手に触れないがそれらが輝く粘土板となっている、となる。

こうして言霊ン(言霊言語全体をンとして現している)が生まれ出たが、ただ生れたというだけでは何の役にも立たない。まだ使用されるだけの構造を持っていない。

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目前に五十神の名前が付けられた言霊ができまし。

それは物質とは何かと研究して元素を見いだしたように、人間の精神とは何かを追求して見いだした心の五十の要素です。日本人は五十音を使用して精神を表現している以上その心とはこの五十の言霊のことです。心は元素である五十の言霊で成り立っています。

古代日本人は数百年数千年の研究の結果、人間の心は五十の要素でなることを発見して、その元で物事に名を付け、社会を運用してきたようです。

心の元素を発見したからと言って社会を運用出来るわけではありませんが、古事記の次の五十神を読み解くとき心はどのように整理され運用されるのかが分かるようになっているといいます。

なんという古事記の神代の巻でしょう。楽しみです。

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言霊ンはどこへ往くか。2。

人と人の間を行き来しなければ言霊は生きてきません。主体、話して、送り手と客体聞き手受け取りての両者を取り持つものは何かが明かされます。

まずこれ以上の言霊は不要であることが宣言されます。

ほと(陰部)が焼かれて病気になり子供は産めないといい、後にイザナギは五十の言霊のカグツチを相手に主体側の行為を開始します。両者ともに新しい言霊を造ることはしません。

ホトは子供、言霊が生れるところですが、霊(ホ)の出生を止(ト)めるという意味になっています。従って次に出てくる神は別の場所、言霊を生むという事ではなく別の意味内容を持った仕方で生れます。たぐり、くそ、ゆまりは直接の身体行為部位を意味しません。

ここでは一応イザナミの病気とその行為のようになっていますが、主客の別離した思惟と身体行為とは存在しませんので、客体とは何かに関する主体側との関係が同時進行で示されています。

まず、客体とは何か、

それと同時に進行していく主体行為とは何かを見てみましょう。

一、この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。

ホト(霊止)と読み替えた通り、客体側の創造行為は止まっています。

受け入れる客体がないので、主体側の働きかけはありません。

二、たぐりに生(な)りませる神の名は金山毘古(かなやまびこ)の神。次に金山毘売(びめ)の神。

客体側には生み出された結果として金山(神名かな--かな文字の五十の山)があります。粘土版に書かれた文字の山です。集まってそこにあるだけのものです。

主体側には働きかける判断材料となるものです。資料の山になる、という感じ。

たぐりというのは、手さぐりとか手繰り寄せるとかいうように、検討材料資料を集める事です。

三、次に屎(くそ)に成りませる神の名は波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。次に波邇夜須毘売(ひめ)の神。

クソというのはもちろんウンチではありません。ク(組む、酌む、括る、加える)、ソ(注ぐ、削ぐ、添える)で集まった材料の資質、性向、傾向を考慮して分類分析していって、材料をそれぞれのソ(素)と呼べる個性に従って組直すことです。

主体によるそのような行為があっても主体に放って置かれた客体は単なる個別の小山があるだけでしょう。

以上いずれも、毘古(ひこ)毘売(ひめ)は、音と文字、になりますが、それぞれの場面、次元に応じます。

四、次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は弥都波能売(みつはのめ)の神。

重要度のランク付けを受けた後に見放された検討資料みたいな物が客体で、分類後に必要な物を抽出してくのが主体でしょう。

五、次に和久産巣日(わきむすび)の神。

この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふ。

手持ち材料内での最終候補になっているのかそうでないのか音沙汰ないのが客観側で、決め手が無く未だに他の角度からの考慮していくのが主体側でしょう。

かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。

伊耶那美の神はイザナギにとっての客体でしたが、ここでもう相手はできないことになります。

言霊五十神を二人で生んできて、病になり子供は産めなくとも、言霊材料の整理に手を貸すことまではできました。

しかし、ここから先はもう本人、主体主の働きかけの世界です。

伊耶那美の神は言霊を生むという創造行為とその整理に手を貸すところまではできたが、後はじぶんじしんの領域である客体の世界に戻ることしかできません。

いざなぎは伊耶那美の神と同時進行的に金山(かな文字の山)を相手にしましが、どうしても文字が単なる文字の山になってしまうことが、とても悲しいことに思えています。つまりその都度伊耶那美の神が無視されていることです。

そこでいざなぎは泣き騒ぎますが、次回に。泣くは鳴くで、いざなぎの言霊循環による意思表示です。

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言霊ンはどこへ往くか 3。

人間の心は五十個の言霊から成り立っています。それは心の元素ですからそれ以上足し加える必要はありませんが、五十の組み合わせは無数となりましょう。

言葉の組み立て、精神構造完成のための言霊が金山としてあります。

金山毘古の神。次に金山毘売の神。

たぐりに成りませる神の名は金山毘古の神。次に金山毘売の神。

たぐりとは嘔吐(おほど)の事でありますが、ここでは「手繰(たぐ)り」の意の謎です。金山毘古の金は神名の意です。言霊一つ一つを粘土板に刻んで素焼きにした甕を手で手繰(たぐ)り寄せますと神代文字の山(神山)が出来ます。精神的なもの、物質的なものすべてを整理する為には先ずすべてのものを手許に寄せ集めることから始めなければなりません。金山毘古は音を、金山毘売は文字を受け持ちます。

全世界を相手にできますが全世界を意識はできません。意識されたものがその人の全世界となります。全世界の全というとき純粋客観だけの事となります。イザナミはイザナギの相手として客観ですがここではイザナギのたぐり寄せる主体行為内でのみの金山です。

人間の精神行為の始めはたぐりというわけです。

た--精神宇宙全体がそのまま後天の現象となって現われ出る力動韻。先在性が大いなる全体的な現象となって押し出し出てくる。言霊子音タは言葉として田(た)・竹(たけ)・滝(たる)・足(たる)・貯(たくわえる)・助(たすける)・叩(おし)・佇(たたずむ)・戦(たたかう)等に使われます。

ぐ--先天内の作業を現象界に於て再現した。言霊クに漢字を当てますと、来(く)、区(く)、杭(くい)、組(く)む、食(く)う、悔(く)う、臭(くさ)い、熊(くま)、茎(くき)、雲(くも)、……等となります。

り--心の中にある理論から外に向かって発展的に飛躍していく働きと考えられます。

精神行為の始まりは様々ですが、第一印象を得る、全体観を得る、直観を得る、等一つのトータル観です。対象を意識し始める最初の神が高御産巣日の神でやはりタから始まっています。国生みを終えて神産みの始めの神は大事忍男の神ですがこの神には言霊タが配当されています。天地の初発の時高天原のタに始めて神が誕生し、天の岩戸では天照大御神をひっぱり出すのは天の手力男の神のタです。言霊百神の最後も建速須佐の男のタです。

生きることでまずは食べることのタ、立つこと、古代社会ではまず田を作ること、耕すこと等々。

これらの例からタは始めの意識の出現の力動韻となる。

始めというからにはその元々は何も無かったのでしょうか。第一印象を受けて物事が進行する場合に、印象以前には相手対象を意識していません。存在すらしていないともいえます。それがどうして動きだすのでしょうか。それはそこに先在的に素地があったからです。ここでいう素地(そじ)のそはたぐりの次に出てくる屎(くそ)のそにあたります。素地が組込まれていたからというわけです。

不思議に思ったのはここではイザナミのたぐりで、イザナミの行為のようになっています。しかし、イザナミは受動側にいるので主体的行為はしていきません。かといってイザナギの主体行為ではない。これは冒頭の成りませると同様に鳴りませると読み替えるべきことに気づきました。

「たぐりに成りませる神の名は金山」は手さぐり、繰り寄せる行為によって集めた成ったかな(神名)文字の山を一つ一つ(成り-鳴り)鳴らして発音してみるということになります。寄せ集められた資料の意図に沿った有効性を試さないことには使用に耐えません、そのことをいっています。

人の精神行為の始めは金山をたぐることです。言霊言語としての金山は精神の活動の直接の表現ですが、人の行為のすべてに該当します。今日始めてあった人、見た映画、考えたこと、おかずを何にするか迷ったこと等全て金山です。でもただそこにあった、いたで済ましたなら、何も創造的なことは起こらないので、それを揺り動かし揺すり眼覚ますことが必要になります。これをたぐりになる(鳴る)と表現しています。

鳴らすのは主体側の意志意図によって様々ですが、まず目前に出現した金山の全体像をたぐることから始まります。まずは金山毘古の神、次に金山毘売の神。陰陽、男女、作用反作用、精神と肉体、音と文字等がたぐりのたとして現れ、ついでたぐりのくへ移ります。

言霊クは沫那芸(あわなぎ)の神で、言霊ム沫那美(み)の神の言霊ムと対になって、もっぱらク-ム組む働きの一方を受け持ちます。、

たぐりのぐの個別的な働きは先天前在する作業を現象界に於て再現していくことですので、タとして現れている第一印象等統一体を組み立てるために全面に押し出します。

有効な精神現象を遂行するために自らに規範となる精神構造を作ろうというわけです。自分が動くためにはその意志と動く原則を知らねばなりません。

言霊として表出された文字群や五感の対象物となるものは現在しますが、働きかけの原則をまだ知りません。文字ならばその音と表出された形、今日見かけた人ならその人への精神的物理的な関係を結べていません。

このたぐりのたは次に出てくるイザナギの泣き騒ぎと同じ言霊循環の始めを現しています。後者においてはイザナギが主体的にただ一人の意志表示をする者として泣沢女(なきさわめ)の神というかたちになっています(そこではミの命は必要ないので自分のポジションに返ってもらうようになっている)が、ここでは中間のバトンタッチ、ギの命の精神主体を確立するための前段階を通過するという形になっています。

古事記の話はどの段においてもまず言霊タを立てることから始まります。この言霊タが理解出来ないかぎり、古事記について書かれたもの考えられたものは淡島と蛭子を作ることしかしていません。

このブログも何の進歩も前進もありませんので、もっと骨のあるものを探しているかたは、一言メッセージ欄から飛び込んでください。

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言霊ンはどこへ往くか4。

この段の金山から、和久産巣日(わくむすび)の神は冒頭に対応させると

0、言霊ン 、火(ほ)の夜芸速男(やぎはやお)の神=天の御中主の神。

1、たぐりに生(な)りませる神の名は金山毘古(かなやまびこ)の神。

次に金山毘売(びめ)の神。

一、たぐり寄せる行為は高御産巣日の神で、その相手神産巣日の神は1、の全体。

2、次に屎(くそ)に成りませる神の名は波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。次に

波邇夜須毘売(ひめ)の神。

二、屎(くそ--組む素、組素)する行為は天の常立(とこたち)の神と国の常立の神で、その相手豊雲野の神と宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神は2、の全体。

3、次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は弥都波能売(みつはのめ)の神。

三、ゆまりする行為はギとミで、上記の神の順列を決めていくこと。、母音半母音の位置づけ。

4、次に和久産巣日(わくむすび)の神。この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふ。

四、続いて数ある子音(32個)も母音半母音の間に納めること。

の四段階の次元となっていて、もっぱら全てイザナミ=母音半母音行の整理に関するものです。

その後の段ではイザナギの意志を泣沢女(なきさわめ)の神として定立し、彼独自の主体行為が開始される。それは冒頭の宇比地邇(うひぢに)の神以下(八神とギミ二神)の次段に結ばれる。

さて、1、と一、の意味するものは何かというと、客体客観には二面性が、金山毘古(かなやまびこ)の神と金山毘売(びめ)の神、があるということらしい。

通常は主客の二面性として捉えられているが、古事記はさらに客体側の二面性を示している。

過去からの記憶とその関連を考える経験知、金山毘古(かなやまびこ)の神。音。

先在性を組み立て選んで今後に向かう実践智、金山毘売(びめ)の神。文字。

言霊の現れは音としてはその音が続いている間だけ、山彦を聞いていると時だけですが、それの組み立てを変換してレコード、CD等にすれば地球の裏側にまで届くし、また今日会った人についてならその印象が残っている間だけはその人は生きているが、記憶印象が消えてしまってはその人も消えてしまうが、写真やブログに記録しておけばいつまでも印象は秘められて(毘売びめ)生きている。

たぐりの手続きによって材料を集めた次には、屎(くそ)に成りませる神の名は波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神、次に波邇夜須毘売(ひめ)の神というようにくそ(組素)する神となります。

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言霊ンはどこへ往くか5。

次に屎(くそ)に成りませる神の名は波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。次に波邇夜須毘売(ひめ)の神。

言霊く。言霊そ。

精神活動の二番目は、目前にどさっと金山のようにあるものを、元々の構成要素はどんなものか見ることです。パソコンのカバーを開けるとキーボードの全体が目に入り、ついで単キーに注意が移ります。

そしてキーを打つことになりますが、組み上がっているもの(く)を素(そ)に分けるようになりますと、そこに選択の正当さを巡って逡巡の気が動きます。このキーかあのキーかと迷います。しかし打たねばならない内的なエネルギーに押されてさらなる力が注がれ、せかされてきます。(言霊ソ、セ、天の水分(みくまり)の神、国の水分の神)

そこで選択された要素、素地、元素となっているものが、間違いが無く安定した状態で使用出来るか、自分に不利逆らうこと無く安全であるかをみることになります。波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神、波邇夜須毘売(ひめ)の神は、ある単キー(波邇(はに)を選んで言葉を作るときそれが意図に沿うものならば、打鍵の結果に心安らかな思いが夜須(やす、安)らかに訪れる実体ということです。

波邇夜須毘古(はにやすひこ)は選択打鍵して安らかさを得ることで、波邇夜須毘売(ひめ)は刻印された画面には安らかさが秘められているということでしょうか。

この人間の精神活動の二番目にある波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神と波邇夜須毘売(ひめ)の神の活動はなぜ起こるのでしょうか。人の精神は何かことあるごとにそれを分析分類していくことに適しています。個別的な素へ素へと際限なく向かっていきます。

物質を分解して元素へ行き、そこで停止することなくさらに究極をもとめて研究は続きます。結論が次の疑問の端緒となってしまうからです。

では精神世界を分析した古事記はどうなっているのでしょうか。

食事に使うお茶碗を子供に持たせて、これは何で出来ているかと問うと、子供は茶碗を壊して破片からできていると言い、糊を持ち出してくっつけました。一方大人に何で出来ているかと問うと、十人十色の講釈が始まりました。子供の場合はプラモデル感覚で基に戻せば終わったと外に遊びにでますが、大人の場合には手にもしない茶碗を相手に議論が続いています。

どこにこの違いがあるのか。大人は議論から抜け出せず、子供はもう他の事を始めている。

両者とも経験宇宙から始まることですが、金山の神の受け入れ方が違います。子供は金山の音の世界、聞けば聞こえる、見れば見られる、ご飯を入れれば食べられる、水を入れれば飲める、そういった主体の活動に関わる金山毘古(かなやまびこ)の神の世界から始まっています。

大人は、金山毘売(びめ)の神の世界である記憶知識の総動員される先在したものから選択する世界から始めます。

子供にとっては場面が変われば既に前のことは完結した世界です。大人は常に過去の記憶記録がこびりつき払い落とすことができないので終わりがありません。

そこで毘古(ひこ)を音、毘売(ひめ)を文字を意味するものとします。

安心して使用出来ると刻印された材料が集まってきました。

次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は弥都波能売(みつはのめ)の神となります。

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古代では文字は粘土版に焼いてそれを波邇(はに)と言いました。日本の神代文字は既に数千年以上も前に存在しているはずです。

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言霊ンはどこへ往くか6。

この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。たぐりに生(な)りませる神の名は金山毘古(かなやまびこ)の神。次に金山毘売(びめ)の神。

次に屎(くそ)に成りませる神の名は波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。次に波邇夜須毘売(ひめ)の神。

次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は弥都波能売(みつはのめ)の神。

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次に和久産巣日(わきむすび)の神。この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふ。

かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。

手元に資料が、また五十音言霊の全部が出揃い、次にその整理・活用法の検討が徐々に進んでいきます。

画面に古事記の「古」という文字を見て「古」と読んで納得するほんの一瞬を古事記という教科書は五十の手順で説明していきます。現在はその端緒にこれから着こうとするところです。

尿に成りませる神の名は弥都波能売の神。

尿とは「いうまり」即ち「五埋(いう)まり」という謎です。五十の埴土を集めて、その一つ一つを点検して間違いがないのが分ったら、次に何をするか、というと先ず五つの母音を並べてみることでしょう。「五(い)埋まり」です。

その順序はといえば、アは天位に、イは地位に落ちつき、その天地の間にオウエの三音が入ります。オウエの三つの葉(言葉)の目が入りました。弥都波能売(みつはのめ)とはこれを示す謎です。日本書紀では罔象目と書いております。罔(みつ)は網(あみ)の事で、五母音を縦に並べてみますと罔(あみ)の象(かたち)の目のようになっているのが分ります。

五十の埴土(はに)を並べて整理しようとして、先ず五つの母音を基準となるよう並べたのであります。

ここを例解してみようと思う。募金箱の金が山のように溜まり勘定が始まります。箱をひっく返して散らばる紙幣コイン達を集めます。紙屑ゴミ石などいらないものを除き、金だけにして、その単位ごとに仕分けしていきます。外国のコインとか使用不能となった紙幣などえり分け有効な紙幣とコインはそれぞれ額面の順位ごとに分類されるでしょう。

この場面での額面が弥都波能売の神に相当するでしょう。心の解明を成し遂げた古事記の場合は心の位置付け精神性能の次元の違いということになります。

み、は数字でいうと0-1-2で始まりとその陽と陰、主体と客体

つ、は港の波止場、渡し場、1-2-0

みつ、は三、三段階、三つの人間の次元宇宙

は、は言の葉、言霊、精神宇宙の表面にあらわれる

の、は載る乗せる復唱する

め、は直前の集約された姿

はのめ、葉の芽、これから明らかになる精神宇宙の芽

(参照。弥都波能売(みつはのめ)名義は「出始めの水の女」。「水つ早(みつは)」の義と考える。

「万葉集」には「始水(みづはな)」(巻十九、4217)とあり、「はな」は「始・端」 の義で、「出始めの水」の意。また「早い」ことを単に「早」とも言ったことは、「石走る垂水の水の早しきやし」(万葉、巻十二、3025) の借訓「早」によって分る。やはり「始・端・初期」の意。

伊耶那美命が火神を生み、病臥して尿を出したときに化成した神。火の暴威鎮圧のために水神が生れたわけである。むろん水神は灌漑用水の 神でもある。神武即位前紀には「厳罔象女」とあって、「罔象女」を「みつはのめ」と訓む注がある。)

人間精神性能の次元宇宙は古事記の冒頭全体で示されています。

天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は

1-天の御中主(みなかぬし)の神(言霊ウ母音)。次に

2-高御産巣日(たかみむすび)の神(言霊ア母音)。次に

3-神産巣日(かみむすび)の神(言霊ワ半母音)。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。

次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、

4-宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神(言霊ヲ半母音)。次に

5-天の常立(とこたち)の神(言霊オ母音)。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。

次に成りませる神の名は、

6-国の常立(とこたち)の神(言霊エ母音)。次に

7-豊雲野(とよくも)の神(言霊江半母音)。この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。

次に成りませる神の名は、

8-宇比地邇(うひぢに)の神(言霊Tチ父韻)。次に

9-妹須比智邇(いもすひぢに)の神(言霊Yイ父韻)。次に

10-角杙(つのぐひ)の神(言霊Kキ父韻)。次に

11-妹活杙(いくぐひ)の神(言霊Mミ父韻)。次に

12-意富斗能地(おほとのぢ)の神(言霊Sシ父韻)。次に

13-妹大斗乃弁(おほとのべ)の神(言霊Rリ父韻)。次に

14-於母陀流(おもだる)の神(言霊Hヒ父韻)。次に

15-妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神(言霊Nニ父韻)。

次に

16-伊耶那岐(いざなぎ)の神(言霊イ親韻)。次に

17-妹伊耶那美(み)の神(言霊井親韻)。

の十七神が人間の精神構造を示し、同時にその性能をも示しています。

このブログは未だに読後感みたいなものを書き綴っているだけなので、古事記を取り上げる順序は不定です。上記十七神については各自一言メッセージ欄から飛び込んで参考にしてください。

性能の次元は五段あってその内から三つを取り上げるというのが引っかかるところです。

金ならば最高と最小とその中間に分かれるところでしょうが精神においてはどなっているでしょうか。

まず母音が取り上げられています。

尿とは「ゆまり-いうまり」即ち「五埋(いう)まり」という謎です、とありますが、何故どのように五埋まりという行為に行き着くのか。世界の母音はいろいろあるが明瞭な形ではアオウエイになるということでしょうか。まずは先天的な原理原則を立てるということでしょうか。

五(イ)埋(う)まりとありますから、何か空白部分があって、(イ)に関するもので埋まるということでしょう。伊耶那岐・伊耶那美二神は言霊イ・ヰを受け持ちます。また創造意志の原律として全世界を采配下に置きます。創造意志はそのものが現象するわけではなく、腹が減った、勉強したい、政治家になる等活動現象を伴う。そこから言霊イの働きうける創造される精神客体を設定することが埋まるということでしょう。

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冒頭では宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神が天の常立(とこたち)の神の前に出てきます。言霊では客体側のヲを受け持っています。記憶そのものの世界、記憶が納まっている心の空間世界のことになります。つまり宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神の世界からでないと物事は立ち上げられないことのようです。

アオウエイは主体側の立場ですが、ワヲウ江井に渡った姿がヲとなることのようです。

下ウ→ア・チイキミシリヒニ・ワ→上ウ

、、、、、、、、(下ヲ)→オ・チイキミシリヒニ・ヲ→上ヲ

、、、、、、、、、、、、、、、、、(下エ)→エ・チイキミシリヒニ・江→上エ

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、(下ア)→ア・チイキミシリヒニ・ワ

、、、、、、、、、以下循環する

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