[運用 25] 衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神

かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。次に投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、道の長乳歯(みちのながちは)の神。次に投げ棄つる御嚢(みふくろ)に成りませる神の名は、時量師(ときおかし)の神。次に投げ棄つる御衣(みけし)に成りませる神の名は、煩累の大人(わずらひのうし)の神。次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、道俣(ちまた)の神。次に投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神の名は、飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。

いよいよ人間精神上最高の心の働きである「禊祓」の言霊学上の解明が行われる事となるのですが、ここで今までに幾度となくお話した事ですが、この禊祓が行われる場面の状況について重ねて確かめておき度いと思います。

伊耶那岐の命と伊耶那美の命は共同で三十二の子音言霊を産みました。ここで伊耶那美の命は子種が尽き、自分の仕事がなくなったので、本来の住家である物事を客観的に見る黄泉国(よもつくに)へ高天原から去って行きました。

一人になった伊耶那岐の命は先天十七言霊と後天三十二言霊、計四十九言霊をどの様に整理・活用したら人間最高の精神構造を得るか、を検討して、建御雷の男の神という音図を自覚することが出来ました。

この主観内の自覚である精神構造が、如何なる世界の文化に適用しても人類文明創造に役立ち得る絶対的真理である事を証明しようとして、伊耶那美の命のいる黄泉国へ高天原から出て行き、そこで整備された高天原の精神文明とは全く違う未発達・不整備・自我主張の黄泉国の客観的文化を見聞きして、驚いて高天原へ逃げ帰りました。

逃げ帰る道すがら、伊耶那岐の命は十拳(とつか)の剣の判断力で黄泉国の文化の内容を見極め、黄泉国の客観世界の文化と高天原の主観的な精神文化とは同一の場では語り得ないという事実を知り、同時にその客観世界の文化を摂取して、高天原の精神原理に基づいてその夫々を世界人類の文明の創造の糧として生かして行く自らの精神原理(建御雷の男の神)が立派に役立つものである事をも知ったのであります。

以上簡単に述べました事実を踏まえながら、伊耶那岐の命は自ら体験した黄泉国の文化の内容を、世界人類の文明創造に組入れて行く行法を「禊祓」という精神の学問、即ち言霊原理として体系化する作業に入って行きます。更に申しますと、右の状況を踏まえる事、同時に伊耶那岐の大神の立場に立つ事、言い換えますと、伊耶那岐の命の高天原の原理を心とし、黄泉国の伊耶那美の命の心を自らの身体と見る伊耶那岐の大神の立場に立つ事という二つの条件を満たした時、初めて「禊祓」の大業が成立することとなります。これよりその作業の実際について解説して行きます。

かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、

杖(つえ)とは、それに縋(すが)って歩くものです。その事から宗教書や神話では人に生来与えられている判断力の事を指す表徴となっています。投げ棄つる、とは投げ捨てる事ではなく、物事の判断をする場合にある考えを投入する事を言います。判断の鏡を提供する意味を持ちます。

衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。

衝き立つ、とは斎き立てるの謎です。判断に当って、その基準となる鏡を掲げることであります。その鏡とは何なのかと言いますと、先に伊耶那岐の命が五十音言霊を整理・検討して、その結論として自らの主観内に確認した人間精神の最高構造である建御雷の男の神という五十音言霊図であります。船は人を運ぶ乗物です。言葉は心を運びます。その事から言葉を船に譬えます。神社の御神体としての鏡は船形の台に乗せられています。でありますから、船戸の神とは、船という心の乗物である言葉を構成する五十音言霊図の戸、即ち鏡という事になります。衝き立つ船戸の神とは、物事の判断の基準として斎き立てられた五十音言霊図の鏡の働き(神)という事になります。此処では建御雷の男の神という五十音図の事です。

禊祓という行法の作業の基準として斎き立てた建御雷の男の神という五十音言霊図の事を衝き立つ船戸の神と呼びます。という事は、建御雷の男の神と衝き立つ船戸の神とは、その内容となる五十音言霊図は全く同じものであり、その現われる時・処によって名前が変わるだけという事になります。では何故建御雷の男の神という一つの神名で終りまで押し通さないのでしょうか。そこに古事記神話の編者、太安万侶の深謀が窺えるのであります。この事について説明を挿し挟む事とします。

右のように書きますと、伊耶那岐の大神が自らの心の中に斎き立てた衝き立つ船戸の神が、前に出て来ました建御雷の男の神であるという事が自明のように思われるかも知れません。けれど実際には古事記神話の何処にもそんな記述はありません。また同時に言えます事は、これから後の言霊百神を示す神話の中に衝き立つ船戸の神という神名が唯の一つも出て来ないのであります。言霊布斗麻邇の学問の結論となる「禊祓」の行法の判断の基準として不可欠な衝き立つ船戸の神の正体を明らかにせず、また禊祓の実践の最中にもその神名さえも書かず、ただ実践の最初にのみ「投げ棄つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸の神」と一度だけ書いた太安万侶の意図は何処にあったのでしょうか。

それは禊祓と呼ばれる言霊布斗麻邇の学問の総結論に導くための人間精神の最高の行法が、単なる自我を救済する自利の道ではなく、また自分と相向う客観としての他を救う単なる利他の道でもなく、自らに相対する他を包含した自分、即ち客体と一体となった主体である宇宙身自体を清めるというスメラミコトの世界文明創造の業である事を後世の日本人に知らせるための太安万侶の大きな賭であったのでありましょう。何故なら伊耶那岐の大神の宇宙身である御身という意味を理解しない限り、後世の人々が想像だに出来ない禊祓の真意義を説くに当って、太安万侶は古事記の神話という謎物語の中での最大の謎をここに仕掛けたのであります。それは考えに考えた末の決断であったのです。「知らせてはならず、知らさいではならず、神はつらいぞよ」という大本教祖のお筆先はこの事情をよく物語っていると言えましょう。衝き立つ船戸の神の内容が建御雷の男の神であるという事は、古事記神話全体の文章の流れの把握によってのみ言い得る事なのです。

さて伊耶那岐の大神は御杖に続いて自分の身につけているものを次々に投げ棄ち、合計五神が誕生します。これ等の五神は禊祓の実行のため基準の鏡となる衝き立つ船戸の神とは違い、伊耶那岐の大神が自らの身体として摂取する黄泉国の文化を、その内容について詳しく調べる為の五つの条項を示す神名なのであります。その一つ一つについて解説をして参ります。