三種の神器の使用法。2

三種の神器の使用法。2

その8。試し斬り。

その6、7、でも鏡が出てきませんでした。まだ分かっていないから扱えないというだけのことですので、心配する必要などありません。各人でどんどん進んでください。

全人類とその全歴史の秘密を背負った「八咫鏡(やたのかがみ)」です、「一厘の仕組の事は言わねばならず、言うてはならず、」そう簡単ではないですが、もう言わねばならない時期になりました。ところが時期は来たのに言うことのできる人がいません。

あまりにも阿呆らしいほど簡単な内容ですが、誰もが難しく考えないと分かった気にならないものです。ここにもその一人がいます。素直に赤子になればいいだけですが、過去文献があまりにも複雑煩雑解読不明な言葉づかいに満ちていて、それを真似ている方が楽なくらいです。何も知らずに神がかりみたいなこと言う法が楽なくらいです。

知らなければ知らないで構わないし、知らないままでも真実の形は表現できますし、そういった流れの中にあります。無知でも神がかりは実行できるし、知りたいとなると語彙の解読が必要だし、知ってる分かってると宣伝しても誰も来ないし役に立ちません。

いずれにしても原理だけは学ばなければなりませんが、馬鹿らしいほど簡単なことで学ぶ必要を感じられないのです。古事記の神代の巻きは天照すという鏡を創造する話ですが、自分の思っていること考えていること、それが鏡だよということで尽きてしまいます。馬鹿らしくも時々刻々と普通にやっていることなのです。

これは古事記の解釈に限らず、他の分野も同様です。知識が出るたびに了解と疑問が湧いてきて留まることができないのです。そういったこころ持ちを古事記はウマシアシカビヒコジといいます。霊妙に葦の芽が幾らでも出てくるような記憶概念世界のことを行っていますが、そのことを知ってみたらいいのにと、こちらが思わなくても、知識としては「ああそうなの」で自分に都合が悪ければ通りすぎてしまいます。

ですので、いくら知的に解説しても無駄なことなのです。その無駄なことをうまく導くのが分かっているひとの役目です。

八咫鏡(やたのかがみ)の利用はこういったことも含まれています。

三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)の三種内での位置はどうなっているのでしょうか。

天照すは後に鏡を、我が御霊として「いつき奉れ」、といっています。「いつく」というのは「五作る」ことで、あちらにあるものを拝むことではありません。「拝む」というのは、おろがむ、おろか者が神迎えるで、愚かにかむがむ、のことです。

いつくは、五作るで、五の内容を作る、五とは人間の五次元の性能を自分で作り上げるということです。天照すというのは自分のことで自分の持っている、人間性能である五次元を完成させていきなさいということです。

自分を表現して完成しなさいというのですから、そんなことはわかりきった馬鹿らしくてやりたないことというわけです。それを分かったような顔をして解説しているのがこのブログで、自分のことを棚に上げて読んでいる読者がいるという構造です。

ブログは自分の思ったこと感じたことを綴っていけばそれで成り立っていきます。それを知的な格好を付けると、起承転結だ、論理だ、科学だ、事実認識だと、正当化と権威付けをしたくなってきます。またそうしないと安心できないからです。なぜなら、書くという対象をおろがむからです。

おろがむのは別に神さん達ばかりではないのです。

「この大掃除、一応止んだと安堵する。この時、富士鳴門がひっくり返るぞ。早う改心してくれよ。政治も経済も何もかもなくなるぞ。食べるものも一時はなくなってしまうぞ。覚悟なされよ。三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。」(お筆さき)

これなどは何が書いてあるのか分かりません。神から伝えられたというのですからますます分かりません。内容は分からないのに、分かる言葉を繋げて概念を投入して分かるところだけは格好をつけて、後はおろがむわけです。

でも、言霊学で見れば何でもない日常茶飯事のことで、例えば雑然とした机の上にあるペンを取り上げることなのです。それを歴史、世界に拡大すればこうなります。「梅で開いて松で治める」の内容が分かれば、後の分からない言葉は飾りとしてもいいものです。

「梅で開いて松で治める」は馬鹿らしくも簡単なことですから、わざと古事記を引用して書けば、冒頭三神、造化三神、のことをいっています。あるいは、アの芽が付いて地になる、あめつち、のことです。机上のペンを取り上げること、画面を見ること読むこと、等々解説するのが返って難しい普通のことをいいます。

そこで何故難しいのかあるいは簡単なのかとなるのは、そこにある各人が所持している判断規範によるのです。それが天照すで、当たり前に普通の人がもともと持っているものです。天照すを神にしたければ自分のことですから、充分に注意してくださいよ。

古事記は冒頭百神を使ってその規範の創造を説明していることになります。それが人の思惟行為だけでなく、社会、歴史創造に当てはまるというだけではなく、原理だと見ぬいていたのです。お筆先を記録できても内容は知りませんから、解説ができていませんので、おろがむのは結構ですが、五作くには自分を投入しなければなりません。

古事記を天照すから元に戻ってみましょう。

。 三貴子となった規範。天照す。

。 衝立船戸となった規範。筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原の規範。

【。 黄泉比良坂の桃の子三つ。客体側ヱヲウ。ここは客体側の規範なので全体は【 】の中に入る。】

。 建御雷の男の規範。

。 和久産巣日の規範。

。 天の御柱と八尋殿。まぐわいの規範。

。 沼矛と塩(四穂)と天津神の規範。

。 天の御中主の規範。あめつちの規範。

となります。産まれる前の先天の規範から、自分に始めて規範が具わり、対象を認識して現象を創造する幼稚な規範となり、主体を確立した規範となり、客体世界に取り込まれた規範を知り、主客両者の創造を目指す規範となり、成功して完璧な規範である、天照すとなります。

人はこれらの過程を一瞬の内に通過して一語を発し、続けていくのです。その一つ一つの通過を統轄しているのが、天照すの規範です。

結局、天照すの規範の使用法を語るのは、神代の巻き全体を語るのと同じことになります。

別に言い替えれば、人の意見というのは、それぞれの段階で出てきた勝手な思い付きということです(本人は真面目に考えたと主張しますが)。

それでもそれが、「あ」という単音にも既に三千世界があるゆえんとなります。

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三種の神器の使用法。その9。いざ、いざ、いざ。

エイッ、と一刀両断してもその後何も産みません。太刀の切れ味がえられるでしょうけど、切ったものをどうするのかが不明です。太刀はそれだけのものですが、それでも評論家なり批評家なりなら、それに収入と名声が加わるからそれでも満足できるものなのでしょう。

原因追求をしても過去経験の中を眺めるだけで、それを元にした予測を予防のためになると思っているようですが、新しい事象は結局いつもすり抜けてしまいます。というのは新しいことは過去からでは予測できないから、新しいのでそれを得るまでは不明なままです。

禊祓はそれを超えねばなりません。単なる過去からの資料を分析するだけではありません。その太刀の切る行為を返す刀で剣(つるぎ)にするのです。必ず行って返る往復をしなければなりません。

もちろん、未来はまだ来ていないから未来なので、未来をしゃべることはできません。未来を喋っていると称するのは過去概念の投影です。禊祓はこれを真の投影事に変えるのです。禊祓にしてもまだない未来を語れませんが、前に示した人間性能の「今」の五つの次元の内、今-未来の次元を使用することによってそれが可能となります。

「今」を詳細に見ると、以下のようでした。

一、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の関係、 五感感覚の次元、そして後に言霊う。

二、産まれようとし てあったものが今ある、といういわば、 過去-今の関係、知識記憶概念の次元、そして後に言霊お。

三、それら二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、 今-全体の関係、 感情情緒の次元、。そして後に言霊あ。

四、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の関係、按配選択の智恵の次元、そして後に言霊え。

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる、持続する創造能動意志が今の全てを貫いています。今の持続。そして後に言霊い。

このそれぞれ次元の違う五つの今があるのです。

切り下ろす太刀は、一、切りたく思い、二、切る法を見つけきり、三、切った満足をえる、ここまでを形成します。

剣(かたな)が手にしているのは目前にころがる分断された要素(玉)です。これが切った者にまとい付くと黄泉の国になります。禊祓はこれらを全部すくい上げ、縫い直していくのです。その根幹にあるのが五、の創造する意図です。材料である一、二、三、を(これを豊宇気毘売(とようけひめ)という)四、に渡して、四のつるぎによる調理が始まります。

刻まれ切り裂かれたものは玉となりましたが、こんどは意図に沿った玉にしないと四のまな板に載りません。要するにそれぞれの玉のよって立つところと、向かう方向を付けることです。それを玉に尾尻を付けて可視化できるようにしたのが、勾玉というわけです。

ここで尾尻が付くことによって方向性を持った玉として再生するのです。こんどは剣(つるぎ)の出番です。

それが、「滌(すす)ぎたまふ」で、「す」を二回繰り返すことで、刻まれた要素の「す」が、縫い合わされつるむものになる「す」にすすぎ清められ変わることを示しています。

「す」は言霊神は、頬那芸(つらなぎ)の神、言霊ス、で頬を「つら」と読ましていますが、「ほお」に直すと、ほ、霊、言霊、玉となった要素に尾が付く形です。また音図の右半分の中央を占め、八方向の中心にいます。

こうして剣が往復することで、玉に尾が付き調理する方向が産まれます。

しかし、ここに何故どうして剣が振るわれ玉に尾が付いたのかを明かさなければ、結果だけしか語っていません。

ここに五、の創造意思の「今」の持続が出てきます。

「す」が八方向の中心にいますから、この「今」は八方向に展開します。われわれは今画面を見ているわけですから、それを例にするとこんな感じです。

チ。1。今、パッと全体を見ているだけで個別的なものの判別以前の時。。

イ。2。今、パッと全体を見ているのが持続してボーッと眺められているだけで、個別的な判別をしていない時。

キ。3。今、画面の存在を認識するが、その内容のなんたるかをどれどれと自分に引き寄せる時。

ミ。4。今、引き寄せる時にそれと自分が、なになにと結ばれる力動因が発動している時。

シ。5。今、見ている画面をよしよしと自分の中に静め込もうとする時。

リ。6。今、見ている画面を自分の内部がへぇーーと拡がっていくように見る時。

ヒ。7。今、見ている画面の自分の外部輪郭がわぁーーと輝くように見る。

ニ。8。今、見ている画面から自分が煮詰まり何かが抽出されるようにうぅーんと見る。

この八種の方向が、欲望、知識、感情、選択の次元でそれぞれ見られているわけで、ここに「今」というのは8×4の32通りの「今」が出てきます。

読む人はこの32通りの現象や反応となって現われます。逆に言えば自分はこう考えるなどといって書いたり、しゃべったりしていますが、残りの31通りのことを忘れているのです。

これが、切り裂かれた要素による普通の判断で、つるぎによる禊祓はここから出発して、32全部をまとめあげるのです。全員の意見が一つに昇華されてしまうのですから、文句のでようも反対意見も出てきません。これがスメラミコトの天照すの鏡を使用したやりかたです。

とはいっても何かが分かったわけではありません。

形だけは少しついたかもしれません。しかし、内容がありません。 sos SOS sos。

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三種の神器の使用法。その10。規範としての鏡。

剣(たち)で切り分析し要素(勾玉)を得ます、得た要素(勾玉)を返す剣(つるぎ)で総合します。

切るには切るだけの方法規範が要ります。そこでできた勾玉を認識するにも規範が要ります。

そしてそれらをどうするのかの意図の規範がなければ何も動きません。意図に沿って勾玉は連結し直さなければ役に立ちません。それにも規範が必要です。

ここでいわれる規範が天照すです。ただし通常は自覚的ではありませんけど、事はそのまま進行して現象(子)を産みます。というのもわたしの低次元が反映する為に、自覚的な天照すの規範を説明することができないからです。いずれにしても、子の事を記す、子事記というわけです。

切るにしろ総合するにしろ常に規範(鏡、天照すの鏡、)が必要です。規範はこころを照らし、写し、こころを始めるものです。人のこころの鏡造りが古事記の冒頭で、鏡に映るこころの出来ごとを子を産むとして述べているものです。現代語で言えば現象創造です。

こころの全ては鏡に映り、こころは鏡を頼りに動きます。そのためこころの状態、次元によって鏡も変化発展していきます。それを完成した原則として述べたものが、天照らすの鏡です。

物質の鏡なら、小さい大きい厚いうすい鏡、かわいい鏡、等。

人に成長に合わせると、赤ちゃんの鏡、子供の鏡、青年の鏡、成人の鏡、老人の鏡、等になります。

しかし、精神規範記鏡(天照すの鏡)は、

この世の始まりの鏡、、、あめつちの規範。天の御中主の規範。

先天の鏡、、、冒頭十七神の規範。

後天の鏡、、、続く三十三神の規範。

自分に持つ天津先天之鏡、、、 オノゴロ島まぐあい前、沼矛と塩(四穂)と天津神の規範。

自分に持つ後天の鏡、、、まぐあいの規範。天の御柱と八尋殿。

赤ちゃんの鏡、、、和久産巣日の規範。

客観性への鏡、、、カグツチの規範。

無自覚な鏡、、、建御雷の男の規範。

【黄泉の国の規範。 黄泉比良坂の桃の子三つ(客体側ヱヲウ)に気付く。ここは客体側の規範なので全体は【 】の中に入る。科学とか計量とか客観事実とかいわれる世界。】

主体性に目覚めるへの鏡、、、伊耶那岐の大神の規範。主客の統一。

自覚的な鏡、、、衝立船戸となった規範。筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原の規範。

創造する鏡、、、三貴子となった規範。天照すの規範。

というように、自覚の元に「いつく」方向をとる成長進化、変態をとげる鏡となります。

この完成された姿が天照すの鏡で、これを逆に見ていくと、それぞれの欠けた不十分な精神段階がずらっと続いているのが現状世界ということになります。

人と世界は多かれ少なかれ、欠如した精神で歴史を運用してきているので、それが当たり前のようですが、欠如の明瞭な自覚を欠いているからそうしか見えないだけです。

そういった意識の人たちは、古事記の解釈でも、聖書でも論語でも、自分の手の届く範囲のお気に入りを選択しているだけなのに、最先端を突破しているように感じています。知ることのできる範囲を知って解説しているので、それは当然その人の世界の前線になります。どの分野に限らず同じ穴のむじなですが、自分一人の立場に立っているので世界一最強の感じを受けてしまうのです。

これらは伊耶那岐の大神の使用する規範以前のもので、無自覚な鏡を使用しています。 宗教などは典型的に自覚を欠いた世界でしか生きられず、神を否定する人もそれに変わる客観事実を追求するとかいうこと、知的でいることとかが神替わりになっています。感情人間味のない暗い世界に沈み込んでいきます。

解説は下から上へ進化する方向で説明を加えていけば、一通りの解説になりますが、解説者の精神次元の限界で留まります。それは、天照すの鏡をベースにした説明ではなく、単なる分かったことを並べただけの解説になります。ふもとから山頂のお鉢は望めないのです。

天照すの鏡は、精神的な自覚を超え創造するところに出てきますから、廻りから外からあれこれ言ったところで、単なる言い掛かりの解説にしかなりません。

ですので経験の無い、わたしなどの解説できる範囲にないのですが、世界で唯一古事記を解説できる島田正路氏の説明を受け入れることによって、それを果たしたいとおもいます。( 『言霊百神』 http://www.futomani.jp/ )

天照すの鏡はどういうものか概略です。(図 http://www.futomani.jp/lecture/no220/no220.htm のコピーができませんので。)

ヤタの鏡は、八角形で、八はこころの八つの動きを表し、中央にギミの命が立ち、その廻りをこころの律動である父韻が取り囲み、そのために八角形になっています。中国の風水、易で使用する八角形の風水盤の原型です。(なぜなら、フッギが古代大和でスメラミコトから学んだものだからです。)

中央の岐美、父韻の外側が実在母音世界を象徴したウアオエ、ウワヲヱの次元世界で四分されます。そしてその外側を四つの同心円で、かさたはなまやら行の子音が囲みます。アイウエオ五十音図を八角形にしたものです。

断っておきますが、実物にそのように刻みが彫ってあるのではありません。鏡の精神的な意味の内容を表すとこうなるというものです。

鏡は五十音でできていますから、五十音にしたという刀の機能と、五十の言霊要素という勾玉と、鏡を見て言霊を使用するというつるぎの機能を全部内包してます。

それをわざわざ三種の独立した機能の表徴としたのが神器というわけです。

ここで注意しなくてはならないのは、三種による機能が完璧に揃っていても何にもなりません。立派な台所と調理用具はあっても材料が無いからです。

ということは前に書きましたそれぞれの段階の鏡規範にも材料が必要ということになります。

材料は、一つは主体側の意思そのもの、そして他方は物象、物質側材料です。人参キュウリがあっても意志がなければ調理はできません。

材料の準備を、

『かれその御頸珠の名を、御倉板挙(みくらたな)の神といふ。』 棚に並べ、その材料は、

『愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも』という、「ひとつき」、ひと続きの気(言霊要素)からなり、

『この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふ。』 で、先天的に用意された規範の中に見いだすのです。

この二神は伊耶那岐が直接産んだものではありません。調理材料として提供されるものだからです。

調理材料が揃っても、調理意志がなければ「知らしめす」ことができず、また、意志があっても勝手なことではうまく行くはずがありません。

ではこの意思はどこにあるのかというと、天照すの鏡の中央イ段にあるのです。

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三種の神器の使用法。その11。鏡の中央イ段。

天照す大神の鏡の中央イ段に意志があるといっても、見えるわけではありません。

心を形に表す事に関して、普通は、大事なことは、「形」を通して、その奥にある「心」を見つめていくことだと思います、のようにいわれています。

では、「見つめた心」をどう形にするのですかというと答えられません。いっそのこと色即是空空即是色で、形など無いのだとしても、心は無いのだとは言えず、空を心にするかしないかで行き詰まります。

しかし安万侶さんはこころの形を神名で表しました。 しかも心の全姿を示したのです。

現代の人は心を形に表すとは言いますが、その心は説明できません。お世話になった方に、愛する人に、といってもその形を明かにした人はいません。大福餅を、ダイヤモンドをあげて形にするといってもこころそのものではありません。

安万侶さんは古代から伝えられてきた心の形の表現を、古事記で次のように示しました。

1。宇比地邇(うひぢに)の神。【 言霊 チ に成る心】 。

2。妹須比智邇(いもすひぢに)の神 【 言霊 イ に成る心】 。

3。角杙(つのぐひ)の神。【 言霊 キ に成る心】 。

4。妹活杙(いくぐひ)の神。【 言霊 ミ に成る心】 。

5。意富斗能地(おほとのぢ)の神。【 言霊 シ に成る心】。

6。妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。【 言霊 リ に成る心】 。

7。於母陀流(おもだる)の神。【 言霊 ヒ に成る心】 。。

8。妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。【 言霊 ニ に成る心】。

上0。伊耶那岐(いざなぎ)の神。【 言霊 イ に成る心】 。心をいざなう。

下0。妹伊耶那美(み)の神。【 言霊 ヰ に成る心】 。いざなわれる。

ここでいわれていることは物の属性を語ることではありません。大福、ダイヤをプレゼントするときに、その品物の属性からくる反応の元を心としているようです。しかし心には形が無いのですから、属性を現象で表せません。大福のように甘くダイヤのように輝く愛をあなたには、現象となった心ですからその説明に使用される属性も現象を語るだけです。

何々のような、という象徴表現に終始するものとなります。現象を元として語りますから、受け入れ方取り方によって、通じなかったり勘違いされたりと言うことが起きます。

安万侶さんの書き残してくれた心は心そのもの、心の動きそのものを表したものです。

もちろん、形に表現できない心を安万侶(フトマニ言霊、天照す、スメラミコト)だけが表現できるのだと疑問がおきることと思います。

この疑問は、大和の日本語からとそれ以外の言語を使用する者たちからと二系統があります。他国語の使用者たちには、感情以外の次元では、契約による

象徴の形をとりますので、契約による納得、自由な契約と言う精神が発達していきます。契約の範囲内で形を作っていきます。象徴との契約になります。

しかし、大和の日本語を使用している場合には、契約の観念が起きません。大和の言語体系、構造の中に既に、行って帰る構造、言ったものは相手に届いて自分に帰る言語を話してるからです。

つまりそこで起こした疑問と言うのは大和の日本語に無自覚と言うだけのものです。無自覚ではありながら、往復する構造が出来ているのですから、受け取られなかったり、勘違いされるのは、相手の性だとしていくわけです。自分の無自覚を棚に挙げているだけです。

そこで、古事記のフトマニ言霊をベースにした言葉は、表現出来ない心の内容を表現できる全過程を通過して言語表現の形を作っているので、もともとが他国言語とは違った世界で唯一の比較できない言語なのです。全過程の通過というのが、古事記の冒頭百神を通するのと全く同じこととなっています。

これは別に言えば、心の表現は大和の日本語でしか表現出来ないということで、心を用いて行なうことは、政治経済産業科学学問社会生活の等々で、全て人間のすることは、他国言語では手が出ないということです。つまり世界運用が大和の日本語を使用しないと出来ないということです。

(非常に飛躍した勝手な論理で、現実世界を無視しているようですが、対処療法しか出来ない歴史とは、大和言葉が使用されて来なかったということでもあります。まもなくフトマニ言霊の大和の日本語による世界運用が始まります。菅政府とその全部の反対派も同じことの二様の表現でしかありませんから、現政治態勢が全部ひっくりかえった後のことですが。)

もちろんそのためには古事記を理解しなければなりません。血統と地位、象徴だけでは何も出来ません。世界の歴史の為に古事記が記録されているのです。日本人として少しは関与してもいいはずです。

ですので、心を表した安万侶さんの示す八(+二)神は、心の内容を形にした、形になった心というものです。安万侶さんは完璧ですが、それを解説するわたしはいい加減ですから、このブログなど読んでも何にもなりません。各人の心で自照してください。

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そこで、丸い心という考えにヒントを得て、次のようにしました。

丸い心の珠の中心にわたしの心があります。ところがここに欠陥があります。珠の中心にわたしの心があって、心が動いて珠が回っていくのですが、真ん丸なので、動いているのか止まっているのかその廻転が見えないのです。

動いていく内燃機関の現動因が伊耶那岐、妹伊耶那美です。ギミの動きが見えないのでそこに尻尾を生やしました。そこで珠は曲玉(勾玉)となりました。尾があるので動きが見えます、どの方向にあるのか一目瞭然となりました。尾の向いていく方向に応じて安万侶さんは八方向の心持ちを神の名を借りて示しました。

八方向と言っても物理空間ではなく、心の在り方の動いていく空間ですので、上下左右というとではありません。

1。宇比地邇(うひぢに)の神。【 言霊 チ に成る心】 。心の全体が地盤となる。宇宙が地と比べて近い。心全体が地に近い。心の宇宙全体がそのまま現象となって現われ出てくる。これは風船が膨らむように心が尾ごとパッと拡がる。

2。妹須比智邇(いもすひぢに)の神 【 言霊 イ に成る心】 。心の全体が維持持続する。(妹は正反作用反作用の対。) すべからく智に比べて近い。一旦現れ出てきた動きは是非とも経験知識よりは近い=本来の智恵が働く。現われでてきた動きの持続は弥栄(いやさか)に延びゆく。パッと拡がったものがづーっと延びていく。

3。角杙(つのぐひ)の神。【 言霊 キ に成る心】 。心の体験をかき寄せる。ツゥーと角を延ばして捕え、自分が喰うように自分の方に引き寄せてくる。自他との境目、境界の違いを気づかう岐(分枝)を引き寄せる。中心にある自分に引き付けるように。

4。妹活杙(いくぐひ)の神。【 言霊 ミ に成る心】 。心の内容の実に結ばれる。中心にある自分と言う実が膨らむように。 角杙の対で、自分に引き寄せる持続、自分と一緒になって自分の実が膨らみ続ける。珠の中央部が膨張していく。

5。意富斗能地(おほとのぢ)の神。【 言霊 シ に成る心】。 心の内容が中心に静まる。大いなる量りの働きの地、思慮行為の大いなる量り基準の、述べられ選択された地へ納まる。中心とされたもの(丸の中心とは限らない)へ、集約していく。

6。妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。【 言霊 リ に成る心】 。心の内容が離散散開する。地に集約していくの反対で、大いなる量りの働きの辺、、海辺、へき地、端・はじへと拡散伸長していく。心の中心へでなく辺へ向かう。

7。於母(おもだる)の神。【 言霊 ヒ に成る心】 。心の内容が表面に開く。於母はおもで、面・顔のこと、陀流は足るで、たる、満足した顔のこと。心の表面に完成完了していくこと。心の中心は置いてきぼりといった感じで、そのまま表現事情が了解できる。

8。妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。【 言霊 ニ に成る心】。 心の内容が煮詰まってゆく。あやに・かしこき・ね、で夜(表面の反対)、見えない心の部分中心部に、音が煮詰まっていく。心のあなかしこ、あなかしこ。

上0。伊耶那岐(いざなぎ)の神。【 言霊 イ に成る心】 。心をいざなう。

下0。妹伊耶那美(み)の神。【 言霊 ヰ に成る心】 。いざなわれる。

こきギミの神は上記八神の全創造意思知性の根源律動となるものです。

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