2・チキミヒリニイシの使用法

2・チキミヒリニイシの使用法

現在学校で教わる五十音図は日本語のアルファベットとして教えられていますから、大和の日本語の五十音図とは別のものです。そこから見るとチキミヒリニイシの順位は奇妙なものと見えるでしょうけれど、これをア段に変換してみると、タカマハラナヤサとなってどこかで聞いたことがある気になるでしょう。

とはいってもタカマハラナヤサ自体が教えられていないので、いずれにしても奇妙であることに変わりはありません、が、そんなことはいってられません。

タカマハラ(高天原)ナヤサは神さんたちのいる天上とか日本のどこかの高原地帯とかで、そこがますます栄えるという分かっているような分からないものです。

言霊学で言う高天原(タカアマノハラと読む)は精神意識の世界をいい、古事記での読み方も高天はタカアマと読めと注意書きがあります。

ですのでその心を汲み取れば、タカアマノハラとは、タとカのアの間の原のことです。タで始まる意識の間の連続と、カで始まる意識の連続の五十音図の原があるとなります。

そして理想の思惟運用のあり方の語順が、タから始まるアの間の原(音図)になると、タカマハラナヤサのア段の順になるのでタカマハラと略します。

この理想の思惟運用を形成しようというのが、八咫の鏡というわけです。

一方、カから始まるアの間の原になると、順列が恣意的になります。その場合には、正しい順位を作るように工夫されているのがやはり八咫の鏡です。大祓祝詞にもあります。

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イの展開。

西へ行くか東に行くかで全然変わってしまうように、イの展開次第で意識の内容が変わります。

誰がそんなことをするのかといえば、本人がするのですが、本人がしていく内容を見ると、実は本人はさせられているという受動の立場にいます。その出て来る形が本人のこととなりますから、現象としては実際には本人のこととなっていきます。

これは、霊に憑かれてやったというようなことではなく、何でもない日常の行為全てに該当しています。この真の動因は本人には無いといいましても、現われる現象は本人を通す以外ありませんから、間違いなく本人のものです。

しかし本人のものだからといって本人が自覚的にしているようであってもなくても、それ以前の主客の状況があります。元はといえば、自分の肉体も蓄積された人参やじゃが芋だし、意識も過去概念の蓄積でしかありません。自分だけの自我など存在しません。それでも自分であるのは自分のイ(イキル、イル、イノル、イキスル、イザナウ等の言霊イ)が自分のものとしてあるからです。

イが展開されますと鏡の中心から段階が上がり第二の和になります。

そこでイヰがチキミヒリニイシに展開される様子を述べなければなりません。

中心のイヰにおいてもイからヰへの渡りがあるのですが、この場合にはイヰの関係は直接的で、主体側のイがあれば客体側のヰが有るか無いかの返答をするだけのものです。

現象としては有る無しが現われるだけでイとヰを仲介するものはありません。渡れば動くし渡らなければ動かないのです。動く場合には巣の中にある全体が動くし、動かなければ一部も半分も無く全体が動きません。

では動いた場合にどうなるのか。それが第二の和に行くことになります。

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イからヰへ。そしてヰからの飛躍。

言霊イは意識の統括者として、ここに成る意識と、ここにある意識と、ここから成る意識と、そしてそれらの全体の意識で、それらの四つの対象となって現われ出たものが言霊ヰです。と同時に現われ出るものとして言霊イを呼び込みいざなう受動的な主体性を持っています。

主体的な働き掛けに四態あるので、それの応対にも四態あります。

しかし、鏡の中心たる次元ではイの剖判以前の統体として、ヰに対応していてます。

ここに成った意識への応対が無ければ意識は現われず、ここにある意識への応対が無ければ意識は現われず、これから成る意識への応対が無ければ意識は現われず、全体としてある意識への応対が無ければ、やはり何も現われません。

そしてひとたび応対が成就すれば言霊イが言霊ヰとして形成されイマココの次元に現われます。

するとイマココに現われたヰにたいする意識がまた形成されることになります。

フトマニ原理を数霊で示した一二三神示は数を使って、012345678910の循環として示されています。10(ヰ)が次の次元の0(イ)になるというわけです。

そこで第二の和では成ったヰを受けてイの次元の剖判した姿が現れます。イの能動側主体の現れがチキシヒとなり、ヰの受動側主体の現れがイミリ二となります。これによってイヰが自らを現すのに、八種の違いの変化を示すことができるようになるわけです。神道に関係する八は全てこれからきています。

では何故八つなのか。それは大昔、スメラミコト集団が検証したことを残してくださったので、それを受け取る以外にありません、分析をしてみると次のことになるでしょう。今という瞬間が八つから構成されているからです。

1 あるものがイマある

1’ イマあるものが持続している

2 過去を探してイマある

2’ 過去が結びついてイマある

3 未来に向けてイマある

3’ 未来に向けてイマあるものが持続している

4 過去現在未来の全体としてイマある

4’ 過去現在未来の全体としてイマあるものが持続している

イマの瞬間はこの対になった四種で計八つです。

そしてこの八つを支えている主体側が、言霊イで、客体側が言霊ヰとなります。

それを横一列に並べれば五十音図のイ段となります。

古事記ではそれぞれ神名が表記されています。

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古事記の神名とイ段言霊(父韻)。

【1 言霊 チ】 宇比地邇(うひぢに)の神。 (ウの性質)いまだけあるという性質

精神宇宙全体がそのまま現象発現に向って動き出す端緒の力動韻

・創造・陽出力

宇は地と比べて近い。天は地と比べて近い。吾の眼の全体感はそのまま相手対象に向ういとなみ・働きをする。

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【1' 言霊 イ】 妹須比智邇(いもすひぢに)の神。 (ウの性質) いまだけあるという性質の持続

動き出した力動が持続する韻

・繁栄・飛至力

すべからく智に比ぶるに近かるべし。智による選択に依らずとも相手対象のなりさまと成る。

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【2 言霊 キ】 角杙(つのぐひ)の神。 (オの性質)探し掻き進める働き。

体験内容を自我の方向に掻き寄せようとする力動韻

・収納・陰掻力

立てた規範をもってその運用に合うように相手対象を引き寄せるいとなみ、働き。

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【2' 言霊 ミ】 妹活杙(いくぐひ)の神。 (ヲの性質) 探したものを掻き集める動き。

精神内容の中に己にある自己の体験内容に思いが結びつこうとする力動韻

・整理・旋回力

立てた規範を中心にして相手対象に適合させるようななりさまを探す働き。

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【3 言霊 シ】 意富斗能地(おほとのぢ)の神。 (エの性質) 拡がりを得るためのイマの保存収縮。

精神宇宙にある精神内容が螺旋形の中心に静まり収まる力動韻

・調和・透刺力

大いなる量りの働きの地。選択決着を目指して納めようとするいとなみの識別の土台となる働き。

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【3' 言霊 リ】 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。 (ヱの性質)保存収縮のここからの拡がり。

ある精神内容が宇宙の拡がりに向って螺旋状に発展拡大して行く力動韻

・滲透・螺婁()力

大いなる量りのわきまえ。選択識別されたなりさまが繰り返し述べられるような働き。

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【4 言霊 ヒ】 於母陀流(おもだる)の神。 (アの性質)花火の全体のような表面性。

精神内容表現が精神宇宙球の表面に完成する韻

・開顕・開発力

意識内容が自己の表層へと上昇し自己の表面結界を超えて、表面で見つかったものと結び付こうとする働き。

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【4' 言霊 ニ】 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。 (ワの性質)花火の全体が煮詰まるような表面性。

物事の現象の種が精神宇宙の中核に煮詰まり成る韻

・成熟・吸引力

心の深部(夜)のなりさまの恐れおおさがもの事の原因となるように煮詰まる働き。

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チキミヒリニイシ、の前に、チイキミシリヒニ がある。

イヰにおいての判断は、有るか無いか、動くか動かないかを直接に示すものです。その結果がヰで示されます。

次にヰを見ての判断がきます。第二の鏡はチキミヒリニイシですが、どのように行くかといえば、またイに戻ることによってです。

イは自身の意志活動を発動しヰにおいて自身を確かめ、ヰをここにあるものとして立てます。そしてあるものに対してどのようにあるのかを提示します。その提示の仕方がチイキミシリヒニです。

チイキミシリヒニの順に。

簡単に言えば、あるものをあると確認するのに八父韻を通過するということです。

例えばこんな風にです。

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まずイの動韻がチとして展開します。

【1 言霊 チ】 は宇比地邇(うひぢに)の神、宇は地と比べて近い、天は地と比べて近い、吾の眼の全体感はそのまま相手対象に向ういとなみ・働きをする、つまりウの性質を持っていて、いまだけあるという性質を現わし、精神宇宙全体がそのまま現象発現に向って動き出す端緒の力動韻となって、ヰを受け取ります。

イマココにあると確認されたヰは、新たに言霊イの支援を受けて、あると持続していることが確認されます。ありてあるものの確認。

それは、あるとして確認されます。

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あると確認されますと、その持続の確認に入りありつづけることが確認されます。

【1' 言霊 イ】 の妹須比智邇(いもすひぢに)の神の新しい領域に入り、ウの性質であるいまだけあるという性質の持続 を示して、動き出した力動が持続する韻として言霊イが了解します。

すべからく智に比ぶるに近かるべし、智による選択に依らずとも相手対象のなりさまと成る、というように、そこにあるだけで事が成就しています。

さらにイの活動が持続していきますと、そのものの証を知りたくなります。

そこで次の神で示される働きが動き始めます。

ここまでであるものがあり続けることの確認ができました。

自分の心にはあるものがありつづけるものがあるというイの思いができました。

そのイの思いが新しい出発点となります。

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あるものがあるという自分の思いができてしまっていますので、今度はそこが始めとなります。

【2 言霊 キ】 は角杙(つのぐひ)の神はオの性質を持ち、自分の持っているものを基準に探し掻き進める働きをします。

体験内容を自我の方向に掻き寄せようとする力動韻となって、自分で立てた規範をもってその運用に合うように相手対象を引き寄せるいとなみ、働きをしていきます。

あると思うものが中心となって(それに合うように)角を出していきます。

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まずは角と接触のあるものに結ばれます。

【2' 言霊 ミ】 は妹活杙(いくぐひ)の神で、ヲの性質を持ち、掻き集められたものと結ばれる動きになります。

杭( 杙)という言霊チイキの精神内容の中に、己にある自己の体験内容に思いが結びつこうとする力動韻となり、立てた規範を中心にして相手対象に適合させるようななりさまを探す働きをします。

とはいっても内容規範は、チイキの一般的なもので、あったものに結ばれるだけです。

そこで今度は結ばれたものがイの位置を占めます。

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結ばれた実はありますが、それをどうするかはこれからです。あったものに返して過去を確認するのならここまでです。しかしあったものをどうするかという思いが出ます。

【3 言霊 シ】 意富斗能地(おほとのぢ)の神が、どうするかの選択を決めます。エの性質をもって、 拡がりを得るためのイマの保存収縮、つまりこれから拡がるためのまとまりに向います。

大いなる量りの働きの地で、選択決着を目指して納めようとするいとなみの識別の土台となる働きです。 精神宇宙にある精神内容が螺旋形の中心に静まり収まる力動韻となり、言霊ミの力動をそのまま受けます。

動かない方向で受ければ言霊シで、動く方向へ結ばれれば言霊リに向います。

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イの動韻はミ(実)となって動くか動かないかの選択にさらされます。動かない持続がシで、動いても動かなくてもその持続を受けるのがリです。

【3' 言霊 リ】 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神で、ヱの性質を持ち、保存収縮のここからの拡がりを受け持ちます。

ある精神内容が宇宙の拡がりに向って螺旋状に発展拡大して行く力動韻となり、大いなる量りのわきまえとして、選択識別されたなりさまがここの地点から繰り返し述べられるような働きとなります。

イの原動因は全ての原動韻となります。動かないというのも動かない持続の動因を受けたものです。

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シとリは選択されそれぞれ持続して未来へ向います。

こうして、現にある、過去からある、未来にあるという、時間の流れを得ます。そして更にもう一つの時間の流れがあります。これは全体的に感得する時に現われます。

【4 言霊 ヒ】 於母陀流(おもだる)の神です。あっ、なるほどと一挙に了解するときの顔の動きを神名にしました。アの性質をもち、花火の全体の表面性が、そしてその精神内容表現が精神宇宙球の表面に完成する韻として働きます。

意識内容が自己の表層へと上昇し自己の表面結界を超えて、表面で見つかったものと結び付こうとする働きになります。

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人は面白いもので、了解し納得する最期の時に了解を反故にする意識が芽生えます。全的な了解の裏側です。それが、

【4' 言霊 ニ】 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神です。綾を織る夜に怪しい賢い意識の内奥の声を聞く、という何とも素敵な神さんです。ワの性質をもち、開き弾く花火の全体が煮詰まり、濃縮していいのかと問いかけられるような表面性と中心性をもったものです。

物事の現象の種が精神宇宙の中核に煮詰まり成る韻で、心の深部(夜)のなりさまの恐れおおさがもの事の原因となるように煮詰まる働きをします。

この八韻の通過が意識活動での一単位です。

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チイキミシリヒニからチキミヒリニイシへ。終わり方。

フトマニ言霊学である古事記の説明が既に複雑であるのに、この段落の表題はさっぱりでしょう。分かっていない私が解説しているのですから混乱は更に拡がります。古事記の神名を五十音に配当してあるあんちょこが皇室の賢所にあるそうです。八咫の鏡を見たってただの古鏡ということでその意味を覗くことはできません。伝統を護持したからといってその意味内容を知るわけではありません。あんちょこならば文字で示されたものでしょうから、読めばすこしは解読の足しにはなるでしょう。

いつの日か皇室の誰かが手にするでしょうけれど、古事記は言霊学の原理教科書であることを知って読むのとでは各段の違いがあるでしょう。いずれにしても一般人には公表されないでしょうから、それなりに探索することになるでしょう。

そこで八咫の鏡の見えない第二の和へ移ります。

チキミヒリニイシのア段はタカマハラナヤサ(高天原成弥栄)ですから、何か意味があるように感じられますが、他方はタヤカマサラハナとなってしまい何のことやらとなります。

個別に解読していきますと全体の関連が見えません。つまり言霊ヒとニが意識運用で了解の構造上最後に出てくるからです。しかも戸惑いながらです。

それをひっくり返し正しい順で考えていこうというのが、たかまはらなやさです。

両者の終わり方はイ段では二とシです。学校で習う五十音図ではラ行でリの終わりです。

それぞれの言霊で終わるとして解していきますと、

リ、、意識活動の単位がリで終わると、オオトノベというように大いに述べて持続の終わらない意識で一単位を閉じようにも閉じられない意識になります。知識概念を扱う世界では、

「オ」次元での父韻の配列は、

○・キチミヒシミイリ・○

ですから、いつまでも尽きない主張を、させられます。

リ、、同様に、欲望生産の世界では、

「ウ」次元での父韻の配列は、

○・キシチニヒミイリ・○

ですから、いつまでも尽きない欲望の再生産に向かわさせられます。

シ、、

一方、タカマハラナヤサのシでの終わり方は

「エ」次元での父韻の配列は、選択按配の世界で、

イ・チキミヒリニイシ・ヰ

で、静まりまとまる意識で治められます。

ミ、、また、感情世界の

「ア」次元での父韻の配列は、

イ・チキリヒシニイミ・○

で、ミが終わりに来るということは、実(ミ)のままで放置され、咲く花の将来は受けての勝手となり、感情の表出の構造となります。

ニ、、上記四つの世界をまとめているのがチイキミシリヒニで、それぞれの終わり方を、ニで煮詰めて用意しているといういわけです。

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チキミヒリニイシ(たかまはらなやさ)のイ段配列について。

意識の働きの原理であるチイキミシリヒニが言霊ニで終わるので、それぞれの意識が煮詰まり主張の基盤を固めることができます。そこには二と対になっているヒが隠されているので、それを次に続けて拡張していけるイの創造の源とすることができます。

常にイに戻ります。その御蔭で了解が関連づけられ持続していきます。

チイキミシリヒニを通過した後ではその一サイクルをニで終了しています。これは意識の原理構造にあることで、全ての単音、単語に共通のものです。

ですので次のサイクルはニをもってイの始めとしますが、ニはイの韻の展開したもので直接現象したものとはなりません。

ここから、ニをもったイのチイキミシリヒニを経過して、その内容をチまたはキとして展開し、それをチイキミシリヒニと経過して最後のニにおいて、チまたはキの実を結んだものとして、次のイへ渡します。

そして第二のサイクルも同様です。

図式化して示してみます。

イた’(チイキミシリヒニ)ヰた

イか’(チイキミシリヒニ)ヰか

イま’(チイキミシリヒニ)ヰま

イは’(チイキミシリヒニ)ヰは

イら’(チイキミシリヒニ)ヰら

イな’(チイキミシリヒニ)ヰな

イや’(チイキミシリヒニ)ヰや

イさ’(チイキミシリヒニ)ヰさ

となり、ヰの後のたかま、、、が現象します。

たかまはらなやさを、ニで煮詰めて次々に渡すわけです。こうして一つの言葉となりますが、見てわかる通り、各単音が同じ構造です。つまり大和言葉の日本語は各単音に意味があるということです。

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イの展開 2。

イ-㐄。

鏡の中心において、まだはっきりしてはいない何だか分けの分からない、有るか無いかの意志の働き(イ)が確認される(㐄)と、その働きの在り方が現れます。働きの在り方は働きかける側と働きを受ける側とがあり中心のイ次元では、働きかける主体側と働きかけられる客体側になります。

ここで注意しなくてはならないのは、働きかけられる側といっても目的対象となっている物のことではなく、同じ意識内での働きかけられる意識内の客体側です。

イの意識が働きかけることができるのは、イの意識の中に働きかけられる意識を持つからです。物質世界でいえばプロペラ飛行機が空気の無いところでは前進できないようなものです。プロペラを廻す発動機は自分に空気抵抗をもたらす働きかけられる機能を持たないと飛べません。

つまり、主体性とは自分の客体性に働きかけることで、働きかけられる客体性を受け取ることで、主体性となります。

有るか無いかの創造意志のイ次元が展開されると展開されるという時間空間関係がチイキミシリヒニという位相をとります。

ここに鏡の第二の和ができます。

イの創造意志が確認されるには、イ自身に内包しているイのチイキミシリヒニを煮詰めて、ニにおいて自身を確認されることになり㐄として現れます。

こうしてイが展開され次段へ進みます。

次段へ進んだ展開されたイは、時空を伴ってチイキミシリヒニの位相となり、それぞれ主体側のチキシヒと客体側のイミリニになります。

イの展開。チキシヒ-イミリニ。

これは展開されたイの位相を示しています。

チは創造意志の直接の働きかけの位相、

キは創造意志の過去に結ぶ付く働きかけの位相、

シは創造意志の未来への働きかけの位相、

ヒは創造意志の全体を鳥瞰する働きかけの位相、

イは創造意志の直接の働きかけられた位相

ミは創造意志の過去に結ぶ付く働きかけられた位相

リは創造意志の未来への働きかけられた位相、

ニは創造意志の全体を鳥瞰する働きかけられた位相、

それぞれはチイ-キミ-シリ-ヒニの能動-受動の対となっています。

ですのでそれの出現のときには、働きかける働きと、働きかけさせる働きの両面を持つものとして出てきます。

そしてその後で普通に言われる、客体対象を持つようになったときに、働きかけられる客体と働きかける主体とが判別できるようになってきます。

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鏡の第二の和。

八咫の鏡の第二の和の肝心なところは、展開した言霊イがチキシヒ-イミリニの主客に展開することです。これによって有るか無いかのものから、位相を持ったあるものへ具体化が進行します。

イは、 イ’(チイキミシリヒニ)イ で現れ、

現れたイが内包していたイのチキシヒのどれかの主体性となります。ここでチキシヒのどれかの主体性がイの展開されたものとなります。

過去知識に結び付くキに展開したならば、

イ’(チイキミシリヒニ)イが確認されて㐄になり、つまり、イ’からみれば働きかける働きがチイキミシリヒニと渡ってイとなり、

㐄からみれば働きかけさせる働きでイ’をチイキミシリヒニと導き、イにさせるのです。

そこでイが確認され、次のキへの展開をしようとするならば、

イ’(チイキミシリヒニ)イ(㐄)=キ’となり、ついで確認されれば、 キ’(チイキミシリヒニ)キ(㐄)になります。

客体は意識の向こうにあるもののように取られていますが、客体として理解される以前に、

働きかけさせる受動的な能動性と、働きかけられる客体性の統一体としてあります。それがイミリニです。

変な感じを受けますが、能受動客体-イミリニと、主体的能動主体-チキシヒに剖判します。

受動側に対して、働きかける働きと、働きかける働きに内包している受動性の統一体が能動主体のチキシヒです。

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主体性。

主体性というのは見かけに反して、必ず受動的です。

おれは主体的にしていると大きな顔ができるのは、受動側が自分の手足を持たないためですが、受動側の性格、性質、性状の範囲が、主体性を取り囲んでいます。身体は西と東に分身して飛び回ることはできません。

意識の運行も同様で主体側の思うことが何でも実現するのではないけれど、主体側の思ったことしか客体側は答えません。というのも主体側に思わせたのは客体側(㐄)であるからです。

さらに主体性には面白いことがあります。例えば科学関係のノーベル賞受賞者のお話を聞くと、該当する事物の発見や発明には主体性がありません。受賞に相当した発見は夢で見たとか、偶然だったとか、弟子が見つけたものの中にあったとかいうものだらけです。科学思想の運用には確かな客観性が必要な為、その時その場の主体性など必要としていないのです。重大な発見の主体は人にはなく、事物間の関係の確かさにあります。

主体側から始まりますが主体がないのはどうしたことでしょうか。

自分の欲望の始まりをよく見ると同様なことが分かります。自分は欲望の充足を欲していますが主体は無いのです。

腹が減ってカレーが喰いたいとなりますが、自分のカレーがあって自分のカレーが食べたいというのではありません。欲望の起った結果に左右されてそれがたまたまカレーが欲望に取り付き芽生えたのです。

鏡の中心にはイ㐄の創造意志がありますが、そのように書くと物事は意志から始まるようにみえるしそう書いてきました。ところがここでは主体性は主体から始まらないというような口ぶりです。これは言霊循環の原理によるので循環していることを忘れてしまうと、固定された一過程が拡がってしまいそれの始めと終わりしか目に入らなくなるためです。意志は巣(す)のなかで生まれてきます。

高御産巣日、カタミムスビ、タとカの実(卵)が巣の中に産まれてくる、神産巣日、カミムスビ、それらが明らかに結ばれて巣の中にある、と古事記は始まっているとおりです。卵は巣に抱えられています。

イ㐄の始まりもこのとおりです。

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八度拝。

意識の在るという構造が八っつあり、その現れがチキシヒ・イミリニのイ段で示されました。神道の八はこの意志の発動の八つを示しています。それぞれの意味合いは既に述べました。チイ・キミ・シリ・ヒニの四つの対になっています。

意志の展開は主体性を能動的か受動的かで示し、それぞれが自主的であってチイキミシリヒニの循環の中の一要素となっています。そのいみはチイキミシリヒニの八っつを一つの単位とする循環の中に在るので、好き勝手に連続したり飛ばしたりはできないのです。単位となっている八つの過程を守らねばなりません。

例えば過去の概念知識を得る場合と、では今日はこれから本屋へ行こうとする時の心の運び方は、この八つの動き方が違います。これは八つしかなく八つが一つの単位要素であるため八つを一巡して消化しなくては次に進めない構造となっています。伊勢神宮では神さんに出す食事の際には八度拝をするそうです。

現在では古事記が意識の運用の原理教科書であるといっても通じないのですが、八が心の運用の現れであるということを各人が体験してしまえば、八とは心のことだと分かるようになるでしょう。しかしだからといって古事記を心の教科書とするにはまだ納得できないでしょう。それでも古事記をあんちょことしてここまで書いてきているのですが。

何が八かといえば、心の開き方運用法が八つということです。もちろんそれは巣の中の卵・0・霊があってののことで、私達は中心に卵となるイ㐄を見出しました。

今度は展開していく番です。

ヤタの鏡はそれ自体が理想的な思惟方法を示すと同時に、正しい思惟方法へと向かうように創られています。

正しい思惟方法などというと、何だそれは、となりますが、それら全部をひっくるめて鏡に彫り刻んであるので、使い方の修得には骨が折れるというか、極秘なのでしょう。フト祝詞ににヒントがあるので参考にしながら挑戦してみましょう。

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天津金木を、本打切り、末打断ちて、

この文章の解釈が従来は最も困難であった箇処であります。天津金木の内容が不明であったためであります。言霊学が復活して天津金木が言霊五十音図の事であることが判明し、この文章の意味も明らかになりました。

天津金木とは音図に向って最右端の母音の縦の並びがアイウエオとなり、横の十言霊がア・カサタナハマヤラ・ワと並ぶ五十音図の事であります。現代の学童が学校で教わる五十音図のことであり、言霊学によれば人間の言霊ウの次元から発現する人間性能である五官感覚に基づく欲望現象を人間に与えられた五性能の一番中心に置いた時の人間の心の構造を五十音の言霊で表わした音図のことであります。

この天津金木音図を「本打切り、末打断ちて」とあります。音図に向って右の母音から物事は出発し、八つの現象子音の実相の変化を経過して、最後に向って左の半母音に至ってその物事は終結します。

でありますから、「天津金木を、本打切り」といえば音図の本である五母音の縦の並びを音図全体から切り離してしまうという意味であります。「末打断ちて」とは天津金木音図の半母音の縦の並びを切り離してしまう事となります。

千ち座くらの置おき座ざに置き足たらはして

千座とは道ちの倉くらの意です。生命の道理の構造と言った意味であります。「置き足らして」とは、生命の道理に合うようにすべてを置いて見て、という事、即ち「天津金木音図で示される人間の欲望を中心とした五十音図の中で、母音と半母音の列を切り離し、その母音と半母音の列と、中間に展開しているカサタナハマヤラの八行とを、生命の道理を示す構造の上に当てはめて置いて見て」という事であります。この作業が実際にはどの様なものか、は後程説明いたします。

天あま津つ菅すが麻そを、本刈断ち、末刈切りて

天津菅麻とは天津菅麻音図の事で、人が生まれたばかりの天与の心の構造を表わす五十音言霊図の事であります。菅麻とは「すがすがしい衣も」の意で、生まれたばかりの赤ちゃんの心の衣の事です。「本刈断ち、本刈切りて」とは金木の時と同様に天津菅麻音図の母音、半母音の列を音図から切り離してしまう事であります。

八や針はりに取とり辟つきて

天津菅麻音図の両端の母音・半母音の列を音図から切り離し、残った縦の八つの現象音の列を一列ごとに裂いてばらばらにしてしまって、という事であります。

天あま津つ祝のり詞との太ふと祝詞事のりとごとを宜のれ。

天津太祝詞音図に示されている如く、即ち母音の縦の列アイエオウ、音図の一番上の横の列アタカマハラナヤサワの精神構造が示す行法によって天津金木、天津菅麻の精神を宜りなおしてみよ、というわけであります。

(この項目ここまで引用)

スメラミコトの統治の秘密は自由自在に上記の手順を操れることです。

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天津金木から天津太祝詞音図へ

手順を操るなどと言っても何のことだかサッパリであるのは変わりませんが、太祝詞、古事記の教えを自分の中に見出すことに精を出していこうと思います。

流れ。あ段で記載。

天津金木==あ・かさたなはまやら・わ (金木の心持ちがある)

→ ==×・かさたなはまやら・わ (主体側・本を切り離す・客体側・末を切り離す)

→ ==×・かさたなはまやら・× (金木を生じた現象の過程が残る。主客が切り離されているので純粋な生成過程が残っている。金木の恣意的なア・ワからまぬがれつつ、生成されたそこにあるものとしてある。)

主客の判断主体が切り離されているため、それに変わる・恣意性に変わる・判断規範が必要となり、それの上で運用されて判断の確認を得なければならなくなる。

千座の置座(対比する一切の規範)に置き足らはして (金木による過程現象はそこにあるので、捨てることも否定することもできないし、そこにできてあるというその役目がある。)

金木の心持ちを対比させる一切の規範の本となる。

古事記では衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神から建速須佐の男の命までで示される意識の運用神で、一言でまとめると伊耶那岐の大神ことで、その完成された姿が三貴子となります。この長い運用神のリストが千座の置座です。

その母音と半母音の列と、中間に展開しているカサタナハマヤラの八行とを、生命の道理を示す構造の上に当てはめて置いて見て」という事であります。

対比される相手の天津菅麻がここにあります。

天津菅麻==あ・たやかまさらはな・わ (天然自然な在り方がある)

→ ==×・たやかまさらはな・わ (主体側を切り離す・客体側を切り離す)

→ ==×・たやかまさらはな・×

金木のあるというだけのものが、 スガソの天性の鏡に写し出されます。

そこで要素と要素同士が対比されるように準備します。

八針に取り辟きて (対比される経過の一つ一つをつくります。

→ ==×・た・や・か・ま・さ・ら・は・な・×

こうして対比される相手が八つづつできますが、その内容は、衝き立つ船戸の神以下建速須佐の男の命までが八つの一つ一つの経過の内容となります。カの対比に衝き立つ船戸の神以下建速須佐の男の26神、サの対比に26神、タ以下同じ経過を渡れるようになります。

天津祝詞の太祝詞事を宜れ。(これを持って太祝詞の配列に準ぜよ。)

配列を作り直し、主客を加えて恣意的な判断から脱却した判断運用に赴きなさい。

天津菅麻==あ・たやかまさらはな・わ

天津金木==あ・かさたなはまやら・わ

天津太祝詞音図==ア・タカマハラナヤサ・ワ

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参考、意識の運用神たち。

[運用 24] 伊耶那岐の大神 (自他合一規範の創造へ)

[運用 25] 衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。』・・(自己主張の拠り所)

[運用 26] 道の長乳歯(みちのながちは)の神。』 ・・(関連性と連続性)

[運用 27] 時量師(ときおかし)の神。』 ・・(時処位の検討)

[運用 28] 煩累の大人(わずらひのうし)の神。』 ・・(曖昧性の排除)

[運用 29] 道俣(ちまた)の神。』・・(分枝点方向の明瞭化)

[運用 30] 飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。』 ・・(実相を明らかに組む)

[運用 31] 奥疎(おきさかる)の神。 ・・(主体側の出発整理)(エ次元の選択創造)

[運用 32] 奥津那芸佐毘古(なぎさびこ)の神。 ・・(主体側の選択創造性)

[運用 33] 奥津甲斐弁羅(かいべら)の神。』 ・・(主客の間隙を減らす)

[運用 34] 辺疎(へさかる)の神。 ・・(客体側の到着整理)

[運用 35] 辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神。 ・・(客体側の結果選択創造性)

[運用 36] 辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神。』 ・・(客主の間隙を減らす)

[運用 37] 八十禍津日(やそまがつひ)の神。 ・・((情感による禊)

[運用 38] 大禍津日(おほまがつひ)の神。』 ・・(原理による禊)

[運用 39] 神直毘(かむなほひ)の神。 ・・(経験知による探求)

[運用 40] 大直毘(おほなほひ)の神。 ・・(欲望性能による探求)

[運用 41] 伊豆能売(いずのめ)。』 ・・(実践智による探求)

[運用 42] 底津綿津見(そこつわたつみ)の神。 ・・(実践智の働き)

[運用 43] 底筒(そこつつ)の男(を)の命。』 ・・(実践智の確認)

[運用 44] 中津綿津見の神。 ・・(五感欲望の働き)

[運用 45] 中筒の男の命。』 ・・(五感欲望の確認)

[運用 46] 上津綿津見の神。 ・・(経験知の働き)

[運用 47] 上筒の男の命。』・・(経験知の確認)-

[運用 48]天照らす大御神。』 ・・(人類文明創造の最高規範、天津太祝詞、やたの鏡)

[運用 49] 月読(つくよみ)の命。』・・(精神的学問文化をコントロールする精神構造)

[運用 50] 建速須佐の男の命。』 ・・(欲望性能の整理、物質的繁栄をもたらす精神構造)

理想の最高規範の完成。

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