(イ--意思の発動)・チイキミシリヒニ

(イ--意思の発動)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。

(イ--意思の発動) 伊耶那岐(いざなぎ)の神

チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)

イ--以ちて、(や行のイ)

キ--伊耶那岐の命

ミ--伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、

シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め

リ--成せ」と、

ヒ--天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、

ニ--言依さしたまひき。

(ヰ--意思の帰還)

私たちは普通ならば、感じ、考え、思ったことをそのまま自分のこととして話し書いていきます。ブログも同じで、練りに練ったことであろうと閃きであろうと自分のものとして書いていきます。そこで使用している言葉、書いている言葉がどのようにできてどのように自分のものになったものかは誰も問う人はいません。

「問う人はいません」と頭の中に言葉の流れができれば、そのまま自分の造った言葉としているつもりです。「つもりです」と書いたときつ、も、り、で、す、の一つ一つの語、その言葉のつながり、意味、表記のしかた、ここで喋っていいものかの選択、等々がほんの一瞬に全てがきまります。こんな凄い芸当は誰がするのでしょうか。

他でもありません、我々一人一人が何でもなく普通にやってしまうことです。

へのへのもへじで、何と言うことなくやってしまうものですが、この物凄い超能力といってもいいものに気付いたのが古代のスメラミコトたちでした。かれらはここに意思のイの創造力がいざない合いまねぎ合い看取り合うのを発見し、自分の確かな経験内容にイの創造力である伊耶那岐の神と名付けました。

天与の創造力が伊耶那岐の神として与えられ、それが後にウオアエの各次元の縁の下の力となっています。

ですのでチイキミシリヒニの展開には、欲望、知識のウオ次元の自覚が無いとか、アの感情、エの次元の自覚があるとか、言う以前のこととなります。例えば赤ちゃんなどには、どこでうんちするとかおしっこするとかの自覚も何もなく自由自在です。例えばものの決定行為の決意などの前にも、疾風怒濤のように起きてくる意思そのものの発揮というのがあります。犯罪を犯す直前に頭を空白にされながら大いなる決意で決行するとかもあります。

それらの過程は過去の記憶が蘇るととることや、過去との類似が出てきたと取ることもあり、動物的な自然反射行為と解されることもあるでしょう。

また、全く始めての環境始めての場所等で、おや、前に来たことがあると感じることもあります。

これらの手に負えない自由奔放な、意思であるのか強制であるのか、時と場所と次元を選ばさせてもらえない意思の出現を受取る側の立場に私たち人間はいます。

ところが人間の性能は凄いもので、動物のように自由もなく強制を受けるだけのようにみえることを、自覚された意思のもとに成し遂げてしまうことができます。

この手に負えない強制された初体験を経験済みと感じるだけでなく、自覚的に展開できないかとして道を探し、タカマハラナヤサの経過をたどり、自由に行動するなかに取り入れ、自分と他人の世界創造をしていけるのです。

大げさな例をあげなくても、一方では、日常の普通のことの始めの一瞬前の前意識の状態は自分がいるのに自分でない、自分のしていることなのに自分の頭が奪われている、そういったことの後に自我意識が出てきます。「はっと気がつくと、何々だった」なんていう言い方がよくあります。

他方では、赤ちゃんの自由自在勝手気ままなおしっこは、大きくなればタカマハラナヤサの経過の元に納められていくのです。

欲望五感感覚次元などでは、タカマハラナヤサの経過は充分理解されやすいのですが、次の経験概念過去知識の運用段階になるとなかなかそうも行かなくなります。

それでも子供の勉強を見てあげるときとか、一緒にゲームをするときなど思い出してみると、宿題の解答の手順を教えたり、こうすればゲームに勝てるとわざと負ける場合など、子供の出方がみんな分かりますから、子供の満足が行くような運用ができます。

しかし今は同じ「チ」で始まっていますが、「チイキミシリヒニ・タヤカマサラハナ」、と、「チキミヒリニイシ・タカマハラナヤサ」、とでは、「チ」の次元が違います。

赤ちゃんのような自由奔放な勝手きまま自在な「チ」と、自覚された全体が見通された自由奔放な勝手きままなように見える「チ」との違いがあります。

チイキミシリヒニ(たやかまさらはな)がうまく片付いたら、チキミヒリニイシ(たかまはらなやさ)に行けるでしょう。

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13-2。(イ--意思の発動)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。

父韻の配列の解説。

このチイキミシリヒニが現象となったとき、それぞれの自我の次元を構成して、

「ウ」次元での父韻の配列。

○・キシチニヒミイリ・○

あ・かさたなはまやら・わ

「オ」次元での父韻の配列。

○・キチミヒシミイリ・○

あ・かたまはさなやら・わ

「ア」次元での父韻の配列。

ア・チキリヒシニイミ・○

あ・たからはさなやま・わ

「エ」次元での父韻の配列。

ア・チキミヒリニイシ・ワ

あ・たかまはらなやさ・わ

となります。

これらの前段にあって、各次元での自我の成立に係わったのが以下です。

自我の成立=名付け次元での父韻の配列。

イ・チイキミシリヒニ・ヰ

あ・たやかまさらはな・わ

これらはあいうえお五十音図のそれぞれの次元のイ段とア段を抜き出したものです。つまり五十音図は心の運用の仕方に応じた様々な種類があります。

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上記各五十音図の「シ」の位置に注目してもらって、「シ」【「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め(12 言霊 シ) 意富斗能地(おほとのぢ)の神】を中心に慨略してみます。

「シ」に配当されている古事記の文章は「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め」です。かんたんに言えば結論を創ることです。

ウの欲望次元では、キで心に掻き寄せた欲望がすぐに結論の「シ」となって、これしかないんだという心を造り、直ちに心が「修理(おさ)め固め」られます。(キ-シ)

オの知識次元では、キの疑問関心事が、過去知識と照合された後に、自分なりの正しさを得て、言葉になれば、心に決めます。(キ-チ-ミ-ヒ-シ)、

欲望次元のように心に出てきたものが直ぐ「修理(おさ)め固め」られるのではなく、過去概念との交渉があります。

アの感情次元では、まず感情が出てきて、その後で心の関心事と結ばれ、それが心の中で拡大され、何らかの表現を得て、その表現が心の行動の目的となって、「修理(おさ)め固め」られます。(チ-キ-リ-ヒ-シ)

アの感情次元ではウ、オのように心に「シ」が決まるのではなく、アの感情は既に自明のことですから、アの表現を行動目標として決めていきます。

そして、エの次元では、タカマハラナヤサ(シ)とあるように、心の一連の経過の最後に結論として納得了解される「シ」として立てられるのです。

以上のことが全部、

自我の成立=名付け次元での父韻の配列。

イ・チイキミシリヒニ・ヰ

あ・たやかまさらはな・わ

の始めの「イ」に含まれています。

(・) 【16 言霊 イ】 伊耶那岐(いざなぎ)の神。

(意志の発動) 親韻、

(吾の眼の創造原理)

・自覚があるなしではなく、天真爛漫、そのまま動く。過去-今-全体-今-未来の何が飛び出すか分からない。