言霊腹母音 4

13-9-2。腹母音。意識にある自覚体を名づけた。ぅ(u)+母音。

このように主体側に規定される、相手側のまず最初はなんだか分からない全体から始まるのが重要なことです。そんなことを言われても物を見たり聞いたりすれば瞬時に相手を認識し判別します。到底、始まりは何だか訳の分からないものだといわれてもピンとこないと思います。

しかし、これは戸惑ったりつっかかったり引っかかったりするようなときに、自分の動きが止まり前に進めないことを感じるときなどにはっきり出てきます。全体的な始まりの世界があり、それが具体化していきます。

主体側によってまだ規定されないまずある全体世界の意識が半母音となり、その普遍性は瞬時に相手を判別している時にも基本として貫徹している半母音実在となっているものです。

この意識の主体がまず向かう半母音世界は訳が分からないがある世界で、その世界が主人公であり、無限であるか有限であるかも、過去であるか未来であるかも分からない、あるいはそれらを全部ひっくるめた今の全体を包含した世界です。それはまさしく天の御中主の神の世界です。

ここでは天の御中主という天地宇宙次元から、主体側の意識に対応した天の御中主になったのです。つまり天の御中主の神は神産巣日の神の内容となりました。この前承される神が次の神の内容という関係は古事記全体を通してかわりません。幼少年青年期、過去は現在の自分の内容となっているようなものです。

古事記では主体側を現す高御産巣日の神以前には天の御中主しかいませんから、主体側言霊アの高御産巣日が結びつくのは、言霊ウの天の御中主しかいません。ぅ(u)+ア→ワです。この両者が結ばれ産まれる子供が言霊ワの神産巣日の神となります。

古事記の神産巣日の神というのがいるわけではありません。御中主と高御産巣日の結合によって第三者として誕生します。そこでひとたび誕生してしまえば実体として相手対象となり、神産巣日の世界が存続していくのです。全体があって主体とそき関わりがあれば、主体のそれぞれの段階それぞれの次元に応じた神産巣日が無数無限に誕生していきます。原理上は一神の扱いですが、実体化されれば無限の扱い、その場その時に誕生する扱いになります。

以上は古事記の記述の配列を根拠としていますが、13章は腹母音の話なので、以上の原理を腹次元に適応しようというものです。

そこまでいけるかどうか分からないがもうすこし進んでみようと思います。

そこでは心が、主体側が、心の相手を見るなり欲するなり感じるなりするのですから、ぅ(u)-母音の場合は、心と心の相手は同じこととなります。発音で書けば、天の御中主のウと結ばれますから、ぅ(u)ア→ワ、ぅ(u)イ→ヰ、ぅ(u)ウ→ウ、ぅ(u)エ→ヱ、ぅ(u)オ→ヲでそれぞれの母音から半母音が産まれます。拗音は常にぅ(u)です。

主体側を欲望とすれば、欲望を得る場合は欲望の内容は自分が起こした欲望を自分が自分で得ることになります。これが発展していきますと産業経済物欲実現の社会創造になっていきます。

それは今ここの現在が今ここにないと気が済まない精神世界を作っていきます。

スイッチを入れる行為が納得できるのは自分側にスイッチを入れるとスイッチが入るという普遍性が獲得されていてそれを実現できるからです。犬猫がスイッチを踏むとか赤ちゃんがスイッチを叩くとかしておきる現象とは根本的に違います。

もし人にこの半母音宇宙が無いと自らのことを自らによって了解納得が出来ません。頭脳意識内に ぅ(u)という構造が無いと、主体側の意思行為の行き着く先がありません。赤ちゃんのおしっこうんこしたい放題でニコニコした世界になります。

肉体行動五感で現れる半母音世界は頭脳内意識の半母音の動きと較べられないくらいです。五感世界で現れる半母音は非常にゆっくりで意識でも整理分析ができるほどですが、頭脳内では原子の動くスピードでことが決していきます。見ることも考えることも出来ません。しかし頭脳内半母音の構造が設定されなければ意識活動も解明されません。

この頭脳内でのスピードは脳内科学が後代に明らかにするでしょうが、やはり一本の柱に主客が備わっている構造は変わりません。腹母音のウや ぅ(u)はどこにあるかといえば記憶の中にあるはずです。これは見えず分析できないことですが、実態的にあった場所を確定しないと観念論になるでしょう。

しかし大和の聖人はそれを解明してしまったのです。現代の知性がいくら寄ってたかっても適いません。追体験しようにもできません。われわれはただ古事記に示されたものを受け取る以外には出来ないでしょう。(ギブアップ)

(余計な推測。神武天皇以前までのスメラミコトには、継承されたそれらを感得する何らかの秘術秘策があるようにおもえます。思想や方法として個人が了解するようなものをはるかに超えた精神事業です。地位を受け取ればそのままできるというようなものではありません。全く余計な推測でした。)

大和の言葉では半母音はワ行で、その代表としてワという言葉で現しています。大和以外の国語には半母音の意味内容を持ったワはありません。ワという発音に何らかの意味を付加していくだけのものです。大和のワは自分の心の内容が向かう相手がそのままワ、ぅ(u)+ア=ワ(神産巣日の神)、になります。

どの半母音にも自分が行って帰るぅ(u)→ワが含まれているため、大和日本人の意識には何に対しても何処においても何をしても、和、輪、環、我、の意識が擦り込まれています。母音を使用するときには自動的に和が発動していきますから、これに沿った日本精神が形成されていくのです。

こうして人のどの性能も、自身の中にぅ(u)、ウ、を持っている為何でもないように自然に自分の次元活動ができるのです。

この全活用がワになれる五段によるイエウオア(ぅ(u)+イ=ヰ。ぅ(u)+エ=ヱ。ぅ(u)+ウ=ウ。ぅ(u)+オ=ヲ。ぅ(u)+ア=ワ。)の言語体系が大和の日本語です。

外国語の半母音は発音であれとこれとを判別するだけのようで、半母音には意味内容がありません。そのため主体の表明には常に主語が必要とされ、主語を日本語のように省略してしまうと通じない文章になります。大和の日本語では相手対象のことを話せば自動的に自分が入り込みますから、わざわざ主語を言う必要もないのです。

このことは、主客の一体となった形で全人類の秘密の象徴として五尺の忌柱となって伊勢神宮に立てられています。ですので神道は日本の宗教ということではなく、世界人類の精神原理として隠された形で創設されたものです。もうじき地球世界の岩戸開きが始まりますが、開かれた後には当然神道は全ての人のものになっていますから他の宗教と同じように消滅していきます。

いつまでも象徴のままで放っておいても何にもならないものです。心の発祥運用原理ですからここから発していけば何でもどんと来いというところですが、実用までにはまだ遠い。皆さんの協力が必要です。

大和人も日本人も世界の人たちも同じ人間で同じ性能、同じ次元世界を持っているので、これといって日本だけが偉いとか優秀とかいうものではありません。人種としての人間性能に代わりはありません。日本以外の人は残念なことに大和の言語体系を持っていないというだけのことで、いくらでも勉強して学ぶことが出来ます。(今後世界は再び大和の言葉が旧約聖書に書かれた通りになるでしょう。ここまで文化文明が進歩しているだから、言うのが早すぎるということもないでしょう。)

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13-10-1。腹母音。半母音と母音。腹母音と父韻 ➀。鐘が鳴る。

世界の言語には大和の日本語以外に半母音に意味内容をもった言語はありません。つまり外国語では主体側の結びつく相手は主体側が勝手に作り規定した通りになるようにされています。主体側が権威をもって、相手をこうだとすれば相手はそうなるだけです。主語が欠かせないからです。

主体と客体、こっちとあっち、出発点と終着点があるだけで、もっぱら出発の仕方だけが問題になります。設定されてしまった目的目標に向かうことが重要で、選択手段は従属し、目的のためには手段を選ばずというようになってしまいます。もちろん出発点と終着点が固定していればそうなるのは当然でしょう。

相手側半母音を実体的にみればそこにある形を作ることが主たる主体の活動ですが、実際のあり方は活動しつつ組み立てられ成りゆくものです。そこでは時処位の変化があります。それを考慮しなければ半母音側の実際の姿はありません。

今までは相手側と「わ、和、環」を作るといってきましたが、それは何分にも実体的な相手の設定を立てていたことでした。実際には時処位に沿った半母音側があります。半母音側が立てられたということですから、条件状態材料等が半母音側の時処位に沿うように集められていなければなりません。(ついでに古事記で言われる神名はこの段階の神を辺疎(へさかる)の神という。客体側半母音に咲かせて落ち着かせる。)

何でもかんでもが相手側と和を結ぶということにはならないのです。過去から今を満たすため、今そのものを満たすため、今からこれからを満たすための材料選択が必要です。材料があるだけ、和を満たすという希望の掛け声だけでは何も成りません。 (辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神、差を繋ぐ。)

さらに、あちら側終着点側に到達するには主客の差を繋ぐばかりでなく両者間の間隙を少なくしていき、一体化していくことになります。(辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神。間隙を減らし一体化する。)

これら客体側の三者の動き(主・客側からの動きがあるので本当は六者の動き)がうまく働くことで相手側目標に一致した姿に近づきます。この三者(主客で六者)の働きによって出るものが出揃い出て、働くものが働き働いて成るものが成りたってきます。

目標に近づき意図が実現に向かいことが成り満足と喜びが得られることになるでしょう。ところがここに問題が起きています。日常的には人生目的を持って生きなさいと言い換えられ、誰も反対できない強い言葉になっていますが、意図目標を持つことで安心あるいは不安を得ることがあります。用意周到に按配を重ねてきたにも係わらず、手持ちの札駒では最期の喜びまでは保証できていません。もちろんこれから来ることを保証して安心させるのは大変なことです。

相手対象とのワを作ろうとしているのにその意志と全材料だけでは不十分なのです。全部出揃ってるのに不十分とは狐に摘まれたようなものです。何故でしょうか。

全部用意しなければ不十分であることは分かります。全部揃ってしまうとそれも不十分というのですから、どうしょうもない感じになります。

考えられるだけのことをして、意志を立て目標を立てるのですから、自分に安心はできます。自分の立場主体側から出発することに関しては、用意はできて安心はできるのですが、相手側到達側に立った時に不安があり、その不安が自分に返ってくると、出発に安心はできてもワを結ぶのに自他に立命はできないということが起きます。

自分に安心だが自他に立命でないのです。これは相手対象に関して詳細を考慮に入れていても起きることで、要するにまだ無いことを考えているだけのことだからです。相手対象側の詳細とはまだ現象となっていない時にはいくら案を練り考えても、一般概念で現される多少でしかないのです。

それらの基盤には一般意思があり、そこに起きるのは、一般的な掛け声や、原則だけのものや、大志希望の吐露、やる気だとか意志を鼓舞したものものだけでは何もならないという姿と同時に、現象と成る以前の詳細も未だ確認されることはなく後回しになるのですから、一般的であれ個別的であれ適用して誤れる事なきを得るというわけには行かなくなります。

半母音世界は主体側から規定され作られるとはいえ、そう滅多なことではハイハイとは言わない強情さを持っているようです。古事記で言う禊祓えはここから真の禊の段階となります。ここまででは、自己の主体の明瞭な確立、安心を得ることでしたが、そのことからは自他の立命は得られませんでした。半母音世界が禊できていないからです。

では続いていきましょう。母音世界に近づきましょう。

試してください。

ウオアエイと母音の発声音を出すたびに腹の緊張位置は変化していきます。ウの腹の緊張する位置ではウの口の形ができ、オの腹の緊張する位置ではオの口の形ができます。その他同様で、発声は口の形だけから作られるわけではありません。

ウの腹の緊張を保持したままウ以外のオアエイ、あるいはオの腹の緊張を保持したままでオ以外のウアエイを出してみてください。その他も同様で、そんなことにすると、おかしなヘンテコな母音ができます。変な母音の音は、その母音の音に従って腹の緊張が引き戻され正常化することでしょう。

ついでに子音も加えてやってみてください。ア段ならアのタカマハラナヤサの発声時の腹の緊張はみな同じです。他の母音行の子音を混ぜると変化がよく出ます。

でもそれは単なる発音発声での生理的な関係です。それにはまだまだ胸郭とか手足の緊張とか身体の皮膚の収縮緊張とかも加わり、発声の生理学みたいになるでしょう。

音声に霊が宿るとかいう言霊はそういったあやふやな事を基盤にしているようです。霊が宿る言霊学とか言うものは、大和日本語の発声が固定確定していることを最初から受けいれているから安心していられるのですが、基礎的なことがらがないがしろにされています。そこで霊が宿る言霊学では霊とか言霊がどうしても出てきてしまいます。

フトマニコトタマ学では、心の中での出来事ですから音声そのものを問題としているわけではありません。心の外にあるどこからか侵入してくる霊を問題にすることもありません。

音声だけが問題なら、腹を除いて胸声帯横隔膜だけで発声することはできますが、声は出ていても、つまり声と舌の位置からは日本語の発音の真似はできても、心のこもった大和の日本語になっていないということになります。

それでも時間が経てば外国人の場合なら自国式の腹母音が矯正され、日本人もビックリするような上手に話す外国人も沢山でてきています。外国人が日本語の学習中の時と、まるで日本人みたいに話すといわれるようになったときを比べると、本当に態度も日本人のようになっています。

彼らの自国で築いた習慣、常識、意識が変わったわけではありません。それでも子供の魂いつまでもの自国での態度、習慣の違いによる戸惑いを超えた大和の意識が付加されているように思えます。

何故そんなことが起きるのかといえば大和の腹母音の習得ということになるでしょう。誰かにこの問題を明らかにしてもらいたいものです。大和の音声の習得ではなく、大和の腹の習得にかんして、大和の武道が何か役立つことになるかもしれません。

腹母音の腹の緊張の位置だけ変えてもアイウエオの変化はあるかといえばそんなことはできません。呼気が伴っていないからです。しかし実際には腹母音の位置を確認するのも結構むずかしいものです。呼吸による胸の上下、声帯の緊張に邪魔されます。

しかしここに、音が出ていないのに母音に対応している腹があるのです。アの音がでた時のアの腹、ウの音がでた時のウの腹等が音に先立って、先天的に実在していることを発見しました。それが前に紹介した「葡匐(はらば)ひて哭(な)きたまふ」、つまり腹這い、腹-映え、腹がこころに映えることでした。

そこで今回はその腹がこころに映える様子についてです。

古事記はここに泣沢女(なきさわめ)の神という父韻の働きを持ったものがあることを示しています。同様に泣沢女(なきさわめ)という(男)神は心の領域で小豆島(あずきじま)またの名を大野手比売(おおのでひめ)という説明があります。これを参考にしますと、こうなります。

まず、用語からいくと、

小豆-あずき、は明らかに続く気・言霊ということです。間違わないでください、豆の小豆がそうだというのではありませんよ。古事記で用いられている当て漢字の読解です。

大野手比売(おおのでひめ)とは大いなる(大)横に平らに展開している(野)働き(手)を秘めている(比売)の意です。ひめと言ってもお姫様ではなく秘め隠されていることです。

音として発音されていないのに泣沢女(鳴き騒ぐ)ものとして在り続け、一度鳴き始めたら鳴きっ放しのものが腹の中に有るということで、その在り方をよく見ると明らかに続く気であり、後にアイウエオ母音の各横の段に成っていくものとしてあるが今は先天の中に隠されているということです。

以下は引用です。

「 お寺の鐘がゴーンと鳴ります。

人は普通、鐘がその音を出して、人の耳がそれを聞いていると考えています。

正確に言えばそうではありません。

実際には鐘は無音の振動の音波を出しているだけです。

では何故人間の耳にゴーンと聞こえるのでしょうか。

種明かしをすれば、その仕掛人が人間の根本智性の韻である八つの父韻の働きです。

音波という大自然界の無音の音が、人間の創造智性である八つの父韻のリズムと感応同交(シンクロナイズ)する時、初めてゴーンという現象音となって聞えるのです。

ゴーンという音を創り出す智性のヒビキは飽くまで主体である人間の側の活動なのであり、客体側のものでありません。

鐘の音を聞くという事ばかりではなく、空の七色の虹を見るのも、小川のせせらぎを聞くのも同様にその創造の主体は人間の側にあるという事であります。

八つの父韻の音図上の確認の締まりを泣沢女の神という理由を御理解願えたでありましょうか。」

引用ここまで。

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13-10-2。腹母音。半母音と母音。腹母音の永続。神の起源。

重要な引用でした。

鐘が鳴っているのではありません。鼓膜が聴いているのでもありません。それらは物理生理の生体科学の作用反作用、電気信号の交換、電荷の移動でしかありません。その内容は科学による解明に任せられています。というより科学思想の独占場です。

この鐘の例では無言の音波、無音の振動と聴覚鼓膜の関係のように思えますが、心の音はそれらの事実の上にさらに心が乗った上で展開されていきます。心が物質あるいは物質的なものあるいは物質的な象徴を介在媒介されなくては現せないという、単なる物理上の制約にあるというだけのことです。

ですので心の問題は科学のいう事は全部受けいれます。しかし科学のいう事はどこまで行っても単なる物理作用交換の解説を出る事も無いのです。心の物理面を明かす事はできても心にまでは到達できません。

ではここでいわれているこころと、母音を発する心とは何でしょう。横隔膜、声帯はどれだけ解剖しても心は現れてきませんが、またそれらなくしては心を表現できません。

アという音、アという字はインクのしみドットの輝き空気の濃淡です。それに心が乗るといいますがそれは外国の、大和日本語以外の言葉には言えますが大和日本語には該当しません。大和の日本語はアそのものが心となる構造にあります。

勿論今の日本語は外国語と同様なシステムで作られた言葉が大量に混じっていますから、新しい言葉のことではなく、古代から伝わってきた大和の日本語のことを指し、日本語の元になっている大和言葉の事です。

心が乗るというと当然降りるもあるわけで、乗り物があり、それとは別の実体が乗ったり降りたり離れたりしていくのが外国の言葉です。ところが、大和の日本語は乗り物が実体であるような、どのような言語学上の法則をもっしても説明も類似性も見いだせないで、お手上げ状態であるような、言葉というのが本当のところです。

その理由は簡単です。

他の言葉はものを示す為に作られています。お札同様こっちの紙は百円、こっちの紙は千円と、そういうふうにゼロの数が書き込まれているからそういう約束になっているだけというものです。大和の日本語は約束事が言葉の上に乗っているのではなく、こころそのものが言葉という表現に成っているのです。もともとまるで違うものでした。

その根本にある実在の根拠が腹にあります。

その実在の人間的な根拠を腹の緊張に見つけそれが腹-映えて心になるというところまできました。腹-映えの形跡は人として多かれ少なかれ見いだせるもので、外国語においいても同様にあります。しかしここで古代大和の聖人達は物凄い事を始めたのです。

約束事を沢山作ってこれはこうだあれはああだ、こう言うのだということを一切切り捨てました。数字の1の後に幾ら0が付いている紙幣であろうとヤギに与えればウメェーーです。言葉の指示と内容が別々になる、またそういった言葉の説明や、付け加えた規則そういった構成に成っている言葉の体系を一切放棄したのです。

その代わりアという時はアの心が現れるからアと言い、エと言う時はエの心持ちがあるからエという前代未聞の言葉の体系をつくりました。それが大和の言葉であり、その続きである日本語であり、言葉の不思議を感じ心が言葉に成っている事を確認できる大和言葉です。

ものを示すのでなく、心を示すのです。今更こんな事をいわれてもピントきませんが、大和言葉を受け継いだ日本人はもともと次元空間が違う言語空間に住んで、社会、関係、生産を営んでいる人たちなのです。これは国民という事ではなく、大和の日本語を使用している人という意味です。

母音の違いによる腹の緊張の違いがあり、発音と関連しているのが分かりました。しかしそれぞれ生理的物理的な部位が違いますから、それぞれが独自に動き、問題として提起でき、突っ込みや閃きが出てきます。

母音に対応する腹があるというのも、それらの閃きの中の一つで、いくらでも別の突っ込みができるでしょう。

さて母音と心です。母音各段での腹の緊張は子音に関わりなく同じであることが分かりました。母音は鳴りやまず永続することは、腹の緊張にも当てはまり、子音が一回ごとに腹を替えてくのに対して、母音のときの腹は永続します。

息苦しくなって母音の発声が止まっても、その母音の腹は変わらず存続していきます。再び同じ母音を発音していくのは簡単ですが、他の母音は載ってきません。ここには腹の母音の半母音側があると見ることができるでしょう。発音をしなくても母音の腹を作っておけば、発音する主体側の音声は容易にこの腹の半母音と結ばれることができます。

この腹の緊張の半母音世界はどこにあるかというと、腹に出来ますが、それは永続しているとは言えません。腹の緊張はしょっちゅう変わり変化しています。いつまでも続くとか永続しているとか言えるにはそれなりの条件がいります。

この腹の緊張が作る半母音世界があるといい、永続しているといいますが、文字通りに永続ということはもちろんありません。人がいなくなり自分がなくなるのに永続などと言えるわけがありません。それでも半母音(母音)世界は常にあるという、この不思議を止揚しないとなりません。

これは神という言葉にも言えることですが、まだおおっぴらに言える段階でないので、そんなこともあるという程度のものにしておきます。まず、半母音世界が何処にどのように永続した形であるかを尋ねてみます。

相手側半母音世界は実在主体側(母音世界)の働きと働きかけがあると同時に産まれ、それによって出来た現象の中に隠されます。そこでひとたび現象がしまえば、その主体が消滅しても現象と現象の中に隠れた形で永続するということになります。

アを発声してアという発音現象を創造します。アを発して適当なところで止めてみると止めたところに、アの腹の緊張がアの発音現象がなくても存続していきます。そこから、発音無くしてアの腹の緊張だけを作ることができてきます。ちょっと難しいですが、というのもどうしてもアの口の格好をしないと最初はうまくいかないのですが、それでも、発音しないでアの腹の形だけができるようになるころには、アの腹の形を借りていると感じるようになります。

つまり発音されるア以前に永続してきたアの腹を見付けた感じです。

そこで声帯からの発声が加わりアが発音されると、そのアも昔からあるアの音が蘇った感じをもちます。永続していたアを今掘り起こした感じです。

そういった感じをもとにアを意識して、主体能動側のアと区別するためその意識にアという半母音(母音)をあて、客体受動側のアの意識の自覚体に「ワ・ぅ(u)+ア」という半母音があると名づけると、そこにたちまち、アの半母音世界である「ワ」が永続して出現してきます。

例えば自分で書いたもの作ったもの発音したものに関しても、ひとたび現象したものとして扱われると永続性が感じられるようなものです。今此処という時間を生きているにもかかわらず、自分が現象させたものは、永遠の過去から取り寄せたようにさえ感じ、また、永遠に放出したもののように思えます。

ここにおもしろいことに、借り物の半母音世界から出てきたにもかかわらず、自分で隠したものを自分で探し出したような錯覚が生じています。静かに収まっていた半母音世界を起こしたのが主体である自分だからです。

腹の緊張次元で言葉の発音以前にこれらのことも起きています。

注意してください、能動主体側の働き以前には半母音世界はありません。主体側の働きと共に受動側の世界も起きてきます。そこに半母音側の世界が出現してきます。そして半母音世界と名付けられるや否やそこに永続性が成り立ちます。

そこに名付けが完了するや否や永遠が成立するのです。

人間の精神が実在する以前には世界も宇宙も存在していないのです。ただしその存在を人間とは関係のない絶対客観世界があるとするならばそのようなものとしてあります。人間と関係ない相手対象ですから、人があるとか無いとか言うことも無い何でもないものです。ということも無い相手対象とならないものです。

何故そのような自己撞着する矛盾した事を平気で言えるかといえば、昔々の大昔に誰かが人の外にあるウチュウがあると自覚してそれを宇宙とか世界とか名付けてしまったからです。そしてそれ以来宇宙は永遠に存在するものとなったのです。

ということで、もう気付いていることと思われますが、神というのも同じことです。 宇宙を造った神などというものはいなかったし、古事記の神もヒフミの神も世界の思惟、宗教の神も元々はいませんでした。ある時ある人がカミの属性を自分に自覚してそれに神という名を与えたときに、そのような意識の自覚体に神と名付けられたために、腹母音(半母音)と同様なことが起こり永遠化したのです。

その永続の根拠が自分の腹にあり、自分の腹の形に永遠を確証していますから、それに続く人たちも同様に自証でき、ここに自他との自証他証の一致を見いだし物神化していったものです。

動物や幼児にも権威威信恐怖畏敬の念があり、感情感覚的に誰でも経験して自証できているようですが、それは生理的な感情次元での保身や自己防御の運動に至るもので自他を巻き込んで和・輪を造る他証を創造していません。

つまりそこにカミが隠れて(収められて)いるということを主体的な活動で明かしたのではないということです。他の人と輪・和を結んで他証を完成していることにならず、共感同交された言葉を共有していません。

ですので、大和の神道を自然崇拝だとかアニミズムとか人や物や諸力の神格化にしてしまうのは後世に始まった解釈内のことですので、古事記の神々の内容とはなりません。

とうとう神の起源を喋ってしまいました。

そして物質世界と同様にひとたび事が成立してしまえば、今度は物質側の属性が顔を出し、大きな顔でのさばり出します。神の、半母音の、宇宙の世界の成立後の属性はその物質化の時代毎に変化しますから、それぞれに応じた規定をうけることになり、また他それについての論証反証等の考察が行われていきます。

しかし、本当のことを言えば、神について語るのは、小さな声でですが、後の祭りなのです。

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13-10-3。腹母音。腹母音の永続。永遠の神。

前回に神の起源を喋ってしまい、そうすると宇宙創造の神さんでなくなるので、今回はやはり永遠の神をテーマにせざるを得ません。永遠の生命とも、永遠に君を愛すとも、永遠の若さをとも、人はそれぞれ勝手なことを言うようです。永遠の類語もまた多く、人が永遠を喋ると自分なりの条件限定を棚上げして、永遠の方だけに目が向くようです。

概念で考えると永遠永劫久遠等々何か勇ましくかっこよく見えますが、大和の古語にすると、ひさし、ひさかたで、枕詞となって天、空、月、雲、雨、光、夜、都などにかかるとなっています。漢の言葉との性格の相違でしょうか、大和では優しい言葉になっています。枕詞はもうその語源が分からないものが多く、ひさかたのというのも久しい方、久堅のように当て漢字を用いて、天などの無限性とか、天を久しく堅いものとして現しているということです。

普通は意識を自分のものとして扱っています。自分で感じて考えて自我を形成していると思っています。ところがそんなことでは全然ないのです。自我は自分の事で自分で造ったものだというのは全くの幻想です。個性的な自我というのも存在しません。これは生物的な自分の誕生を見れば生物生理的には自分で造ったものなどないし、物心付いて言葉を操ることができるころには全ての言葉は既成のものから与えられたものでしかないので、それにのっかかった精神活動も自我が造ったものではありません。自我というのは他者というベースの上に乗っかりひっ掛かった状態から後でできたものです。

ひさかたの天(あめ)の何々というのはこの状態を指したもののように思えます。久しい方、久しく堅いではなく、霊(ひ)のサとなっている御方による私のアの目の意識、ということのように思えます。これは私という意識の由来は言葉の霊がまだ活動を開始していない静かな霊(ひ)の授かりによるという意味のようです。

音信不通のような遠いあちら側にいるいる御方が今までの静けさを破って私に寄り添ってきた、そんな状況のようです。そこで出来た状況をあちら側にとるかこちら側に取るかで、それぞれ言葉が変化していったのでしょう。

そこから派生して久しい御方が実体化されあちら側に立てられ、その御方の授けた依頼なり命令なりが各人に受けいれられることになり、そこから自我の活動が始まります。こちら側に主体自我が立てられ、あちら側に天、神が立てられました。

ひさしい御方はあちら側にいて何でも授けてくれますが、それは私である主体が主体側の意識に沿ってその現象を生むことによっておきます。信仰はそれを神の恩寵賜物としますから立場が入れ替わります。神様が何かしたのではなく、自分が感じたり成したりしているのに天上の向こう側に預けてしまっているのです。

天の向こうにいるのは自分なのに、まさか自分がいるとは思えないので拝んでしまって安心しているのです。天とか神とかがあっち側にあって久遠となるには、天も神もを抽象化され昇華されて単純になり具体性、個性を削ぎ落とされていかないとなりません。具体的であれば比較によって概念が入り込み過去の履歴のあら探しが行われてしまいます。

そこであちら側の最高者は名前だけになり、それも象徴性を帯びた抽象的な名だけになっていきます。あるいは神の名をみだりに唱えるなということで、神を讃える所作の名称が神変わりになっていきます。

そこで今度はあちら側の抽象度の高いもの、創造者、神などが、個別的な人間に降りてこなくてならないことになります。またそこでは全知全能の全体性を付与されていますから、人間側に実在する根拠を尋ねることになり同交共感が起こらねばなりません。

ところが残念ながら私たち一般人が書くこと喋ることはここまでしかいきません。ここから先はあちら側の世界を把握することが出発点となります。私のいるここが宇宙世界の中心であることは割合理解されやすいものです。過去現在未来の御中主とは自分のことで、それをあちら側に投影すると天、神、創造主になることまでは掴めます。そしてあちら側に御中主が立ちます。

ここにいる私たちが御中主なのにあちら側にいる御中主に取って代わられて、拝み命を受けるような関係になってしまう。それなりにこちら側に原因があるからですが、こちら側の世界に左右されずに一致してしまう受け取り方があります。

家庭の次元でも、社会の次元でも、宗教神の次元でも、自然の中においても起きます。その世界では当初、御中主がどちらにいるか分かりません。

という分からないところで今回は止めておきます。

ここからが神道の出発点で、今までは単なる整理整頓です。

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13-10-4。腹母音。腹母音の永続。永遠の神。ひふみの霊人。

神の永遠は私たちの心の何に、何処に対応しているのでしょうか。私たちの心が神の永遠性を感知して初めてそれが了解できます。しかし人の心は何処から見ても有限であるように見えます。一体どこに無限を了解することのできる心があるのでしょうか。私たちに死なない生命がなければ、神の無限も了解できないはずです。それなのに神の無限を了解して自らをも死なない生命の持ち主という人がいます。

その人たちは誰でもが永遠の生命を持つといいます。 とはいっても理解は様々で死んで産まれて死んでまた産まれるというのや、来世で永遠に生きるとか、人類としては永遠とか、永遠の命の希望のことだとか、キリストにある永遠の命に繋がるとか、信じればとか、霊は永遠性を持つからとかで、直接にか間接にかよく分からないし、条件がついたり付かなかったりで迷うところなどもあります。

生きているうちには現象として永遠の命を体験することはできませんが、そのような主張は多くあります。普通に考えても自然の状態には永遠はないのですから、それさえもあると主張するには余程の体験があってのことでしょう。

一方生きているのは有限ですが死の方から見れば死んでしまえば、簡単に永遠が続くように見えます。死んでしまっているから永遠という感じも得られないでしょうが、生きている間に永遠の死が訪れとる感じる人は多いでしょう。

このようにどっちに付いていいか分からないのが普通ですが、死とか生命とかを実体としてここにあるものとしていくと、捕らえ所が無くなるようです。そこで、死と生とを相手にするのではなく、死と成るもの、生と成るものを相手にしたらどういうことになるでしょうか。

私は生きていますが、私が生きていることを実体として捕らえるのではなく、私を生かしているものを捕らえ、そのものが成り行く姿が私であるという風に捕らえるのです。私を学校に通う小学生にしたもの、こんな考えを書き散らしている私にしたもの、という風に成り行く姿を得ようとするのです。

ここまではヒフミ(日文)神示でいう 「存在は、必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。創造されたものならば、永遠性はあ り得ない。二日んの巻。第一帖」に相当するでしょう。

問題はその後の「宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつあ る。」「神そのものが絶えず、鳴り成り、成り鳴りてやまず、止まる所なく生長し、歓喜しつつあ る」とあるところを、神の行為=自分の行為とするところにあるでしょう。

フヒミ神示は神の立場から人間へ与えられたもので、「神の歓喜をそのまま受け入れる霊人」という書き方になっています。霊人をいろいろの段階に分けていますが、同じ人(わたしならわたし、あなたならあなた)の精神次元の相違のことで、霊界のあっち側いる様々な霊のことを示したものではありません。

ついでにまとめると、次のようになります。

日の霊人が神の歓喜を内的にうけ入れる霊人、日の霊人は、神の歓喜をその生命に吸い取る。

月の霊人が神の歓喜を外的にうけ入れる霊人、月の霊人は、神の歓喜をその智の中にうけ入れる。

両霊人は「互に交通し得ないのであ る。この二つの世界の中間に、その融和、円通をはかる霊人と、その世界が存在する。」

人間には誰も分からないような書き方で、何故書き知らすのか私には疑問ですが、少数の人間においても人間の立場から、上記と全く同じことを了解行為している人がいます。その人の場合には次のように表現されています。

「「私」という概念、「私」という自我意識を離れますと‘ア・エ・イ’という次元に意識で左右することができない性能にも恵まれている、支えられているということが意識できます。

そうしますと「私」という‘ウ’と‘オ’という観念から自分自身の全働き、全生命を観ていた「私」というものの束縛からパァーと消えます。すると‘ア・エ・イ’という性能もハッキリ自分に与えられている。直接意識は出来ないけれど完全に与えられているということに気が付きます。

これに気が付いた時には自分と言うものの性能が即人類、人という生物の類と同じになる。ちょっとややこしいのでお分かりになりますかな。自分と決め込んでいるのは、こうやって触る肉体、理屈を言って「こうこうだから、憎らしい」とか言っている自分。

自我意識とは‘ウ’と‘オ’であるということを論点においた考え方。この考え方をフッと脇に置きますと、無くなってしまうと死んでしまいますので、無くなることはありませんが脇に置きますと、‘ア・エ・イ’も事実であることが分かってくる。(引用ここまで)」

こちらの方もそう簡単ではないと発言者自身が言っているくらいです。

要するにここは意識の大回転が必要で知識を増やそうと概念を操ろうとそういった次元では解決できない場面です。

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13-10-5。腹母音。腹母音の永続。永遠。

朝起きて顔を洗い歯を磨き、鏡を見て笑いありがとうと言い、腕立て伏せして屈伸運動して、と日常を始めますが、別にそうでなければならないことではないのです。ワァーと叫んで走り出しても、歯磨き前に経を読んでもいいわけです。

ここで何をしてもよいし何を感じても考えてもいいことで、要するにそこには個々の様態に縛られない、「日の霊人が神の歓喜を内的にうけ入れる霊人」である「‘ア・エ・イ’という次元」にいる自分がいることに気づきます。

そこでは「私はこうする」という束縛のない、全方向に向かうことが自由な生命を与えられていることに気付きづきます。

朝起きて裸で駆け出したら病院行きだという前に、各自よく反省してみると、何度かそれらしい兆候やしてみたい思いなどがあったことが、誰にでも思い出せると思います。さらに思い出していくと、何らかしらのとてつもない自由な気分がえられたような微かな記憶が浮かんできます。

別の言葉で言えば目茶苦茶をやろうとする以前に、ふっと得られる広大無辺な自由意志があります。小説映画などでは犯罪者が犯罪を行う直前に得られる宇宙から開放された自由感を悪魔(神)にそそのかされたという形にしたり、差し込む光と共に神の声が聞こえたりとしています。

へんてこな例をあげましたが各自省みてください。

ここで意識の大回転が無いと次に進めないようです。

前回の霊人とか、‘ア・エ・イ’とか、意識を記憶概念、経験知識で捕らえて喋るからこうにしかならないのです。しかし、概念知識を放棄しては自分を現せず交流もままに成りませんから、知識の束縛に従わざるを得ないのです。そこで神と交流したとか見神があったとか空を悟ったとか坊主たちが私たちに語る語り方になるというわけです。

誰でもが同じ次元に立つのは出来ず、人は成長して成るようになっていますからそれぞれの道を進まざるを得ません。その道案内が古事記の神代の巻ですが、やはりその人なりにしか読めませんし、その人の理解して了解していることがその人の今となっているだけです。

そこで私の場合は今までのらくらと書いてきたような状態ということです。

結果として現された文章がこうして残っていくわけですが、何にしろ、文章にしろ、そのものとしては存在していないというか、結果現象の物理客体現象存在しか残っていません。

「何ものも、それ自らは存在しない。弥栄しない。必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する。(ヒフミ神示)」

産まれた結果現象を産まれてしまった存在から見ていくと、産まれる以前はその存在はありませんから、現在の現象は存在していないことになります。一方、現象してしまった存在の方からでなく成りつつ生まれつつある方面から見ますと、常に弥栄えつつ生まれに生まれゆくと見られます。

つまり存在と内容を同一視するか、しないかで全然別の方向への答えが出てしまいます。人はひとたび考えたり書いたりして結果現象を創造してしまうと、その存在と内容を同一視します。つまり、考え書いたことは、その内容と同一だとします。ところが残念なことはそれはその人の世界にとってだけのことです。その人の今までの成果が上がったというだけのことです。

決して考え書かれたことの内容が示されたことではないのは、いくらでも追加や賛否が付け加えられることから、不十分な内容であることが判ります。この不十分さは過去現在未来に渡る歴史的なもので、何処に実体があるのか判明しないけれどいつでも何処でも誰でもが口を出してくるものです。

時処位的に誰でも介入参加できるがその実体が無いという不思議なものです。もちろん実体がなければ介入も出来ませんからそこにはあるものがあることになりますが、よく見るとそこにあるものは与えられた名前、流通する「体は名を現す」という言葉です。人はこの言葉を得てそれを実相としたり、実体としたり、内容としたりしているわけです。

例えば人とは神とは何かという場合、過去現在未来に渡ってそれぞれの人がそれぞれに実体とはこうがだと言うことでしょうし、そう言ってきました。ところが誰もが未完成で不十分であることを白状しているだけです。厳としてあるのは言葉だけです。誰もが成功しないのに言葉だけはあり続けます。

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・13-11-1。腹母音。こころの神代(かみよ)。禁断の木の実。

聖書には禁断の果実の実とあり、古事記には黄泉の食事をしたとあります。両者とも智慧を得るということになっています。実は、記憶を得たということです。この記憶が全ての混乱の元、永遠の混乱の元となっていきます。

『主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。

しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。

それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。』(旧約聖書)

アダムもイブも善悪を知る木の実を食べる前には既に、神の言葉も蛇の言葉も聞いて知る知恵はありました。

また「きっと死ぬ」と言われて食べましたが死にませんでした。

ここでは肉体の死を指したものではなく、死んだ知恵が生きるという逆説を示したものです。つまり過去の記憶が生きた智慧に取って変わり、生きた智慧が死んで死んだ記憶に支配されるということです。

ひとたび実在を記憶してしまいますと、その実在の記憶を実在の内容とすることで、事実を記憶内容に置き換えてしまいます。自分の知っていること分かっていること等が自分の中にあってそれを固持していますから、そのことによって相手対象や向こう側の事実とかいうものを量り、それに取って替えようとするものです。

ですので喋ったことの内容や書かれたことの内容はかじった木の実でしかないけれど、それが自分の中にあるもので、またそれしか考えていませんから、その口をついて出てくるものが、相手対象であり事実であるとするのです。

事実というのは今此処の動きの上に載ったもので、過去現在未来の全体が同時に一体となって進行していきますから、実体化できるものではありません。

「何ものも、それ自らは存在しない。弥栄しない。必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する。(ヒフミ神示)」、といわれる所以です。

智慧の木の実はそこにあるものとして立てられますから、それを当然のように実体化し実在と言い張り、記憶が保証していきます。観念概念知識記憶の次元では、無いものであっても平気で在ると言い張ることができます。

何故いつわることができるのでしょうか。あるいは喋ることはいつでもいつわりとなることができるのでしょうか。

「いつわり(偽り)」は五つを割ることで、もともと五層の全体であるもの(心)を、分解してしまいその一つを記憶に残して在るものとして立て、それでもって全体を現すものとして結果を装うからです。

実際の現れは、自覚があったり、考えに考えたり、流れのままに浮かんだものであったりいろいろですが、出てきた表現は多かれ少なかれその人の記憶に裏付けられ立てられていますから、その人にとってだけは充分に満たされているというだけのものとなります。

ですのでその人は自分には嘘偽りを着くことはしていないのです、というより、自分なりの真実を記憶保持しています。それは一部にしかすぎませんが、その記憶の自分なりの扱い方によって大きくも小さくもなっていきます。

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13-11-2。腹母音。こころの神代(かみよ)。我はアルファにしてオメガなり。

聖書は創世記で生命の木と善悪を知る木で始まり、最後の黙示録ではやはり命の木で終わっています。

また、「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。」といわれていますが、「ワタシ」ガ誰なのか、何なのかはまだはっきりしていないようです。

他にも、「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」

「また言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、乾く者には、いのちの水の泉から、値なしに飲ませる。』」ともいわれている。

このアルファとオメガの切り取り方の違いで多くの答えが出てきます。せっかくの回答例を気にせず脇に置いておいて、古事記と関連づけてみると、「わたしはアルパであり、オメガである」は、

「わたし(天の御中主の神)はアルパ(高御産巣日の神)であり、オメガ(神産巣日の神)である」となります。

説明なしでこんなことをいわれても思いつきのまやかしのだと受け取られてしまいそうです。ところが私の方にはさらに悪いことには、説明しなくても通じているはずだと言う想いが強くなってきています。ですので上記の造化三神はバリエーションの一つで、別の言い方もできますよと、小声で付け加えておきます。

これまでの説明では、「わたしはアルパであり、オメガである」を時間軸で取ったり、内容で取ったり、存在で取ったりしながら、目的から実践へと取ったり、宗教色や哲学色やらを加えて、現象と内容、存在と実体を自由に取り違えているのに、神に近づいていると称してきました。

(( しかし、何も知りもしない分野にたいして、数千年の心血を注いだ研究とその心持ちを無視したように、よくも平気でこんなことが言えるものかと、自分の頭の内容を常に疑っています。))

(( それにしても、当然予想される反対意見や真の解釈とか、伝統的な考え方とかが出てくるでしょう。善悪を知る木の実を食べているから。でもそれらに対して反論の準備も用意もしていません。何故なら木の実の味を知ってはいるけれど、それしか知らないからです。))

((例え複数の木の実を味わっているとしても、せいぜいそれだけのものです。もともとの命の木と共に在る、善悪を知る木の生える土壌、環境、遺伝性質などを無視して直接舌に感じる味を指示していくからです。))

「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。」は、「オメガ、最後の者」、「終わりである」で終わっています。

実はこれではまるで駄目なのです。私は終わりで、その後が続きません。つまり、終わりです。、

前例に続いて聖書を前にして、つまり神を前にして駄目などと言って、大変申し訳ないと思います。それなりの確信が私の方にあれば少しは助かるのですが、かいもくまるきり雲を掴むようなもので分かっているところがありません。ただ単に神のおおみごころと慈悲にすがって甘えさせてもらっています。

引用です。

『以上、日本皇室と言霊原理との関係についてお話して参りましたが、この神器の同床共殿の廃止による変化は皇朝ばかりでなく、日本の国民にとっても大きな変化をもたらすこととなりました。それは日本の国民が、自らの国柄の真実と同時に、自らが日頃使っている日本語の起源についても、またその日本語が一度それを聞く時、物事の真実はその言葉の中に明らかに示されていて、余す所がないのだ、という重要な事実についても忘却してしまったことであります。

十七の空相音と三十二の実相音によって造られた、かけがえのない真実を示す日本語と、それを使用する日本人の言語意識との間のギャップが大きく広がったことであります。私達日本人が日常使用する言語の中から「光」が消えてしまい、真実の光が言語の奥に潜在化してしまったことであります。真実と言語とのギャップは今日まで続いています。日本の国民の全体がこのギャップの総清算を迫られている時代が近づいていると申すことが出来ましょうか。』

「わたしはアルパであり、オメガである。」のような、「わたし」を主語にした文章は全て「総決算を迫られている」という理解があり、これをひじょうに強く感じています。

その後のことはまだ何もありません。挑戦です。

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13-11-3。腹母音。こころの神代(かみよ)。主語(わたしという主体)の位置。

主語とは何かに関して『ウィキペディア(Wikipedia)』には、

「専門的には日本語の主語について統一した見解は今のところなく、日本語学・言語学においては日本語の主語をめぐる議論が今も続いている」ということらしい。とりあえず切り口を定義しておいて、それにあったものを主語としている。

日本武道の合気道では、攻撃する主体側が倒れてしまうので、文の主語は攻撃者だが実体はひっくり返った者を言うことになりそうだ。またソクラテスに質問すると質問したものが主語の立場にいたはずなのに、いつのまにか受け身の側にいたりする。食物連鎖とか連結階段や網状のものなど、動いているものの中にあるものも、主語の取り方によっては一定せずくるりと交替するようなこともある。

べつに文の構造要素の話を他の事ですり替えているわけではないのですが、ここではわたしという主体の位置についてみてみる事にします。

手っとり早く、わたしはいるか、といえばわたしなどいません。ですので、わたしに類した、主体だとか、人格だとか、自我だとか、自覚だとか、能動側だとかも、ありません。こちら側が無ければ当然あちら側もありません。そこから派生して出てくる、私の考えだとか見解主張だとかもありません。

全くメチャメチャなことを言い始めたようですが、元に戻ってみましょう。

各自の生命の始め、自分の生物としての成り立ちをみてみてもすぐ分かる通り、自分という物質生物生命体は自分で造ったものではありません。父母と養分です。その物質の仕組みの上に載って精神意識はできていますから、自分の考え観念思考記憶概念等も自分で造ったものではありません。ですので当然それを使用運用する言葉も自分で考えたものではありません。

もしかしたら自分は(あなたは)星の王子かお姫様として生まれていたかもしれず、今頃日本語など知らず英語でぺらぺら喋っていたのかも知れないが、何のご縁かブログの書き手と読み手となっています。

ここから言えることは、わたし(あなた)の始まりである宇宙世界には主語がないけれど、そこに主語を持つ精神が生まれたというです。

主語とは何かについての定義づけもしていませんが、勝手に話が進んでいくようです。まず定義を出して主語とはどのようなものか説明してもらわないと、理解かできないという方もいるかもしれません。ですがもともと主語の無い世界から生まれているのですから、それを定義づけることはできません。要するに後付けに、主語に限らず、なってしまいます。

そして後付けを主張する主体が主語となるとでも言っておきましょうか。ですので学校などで自分の主張ははっきりさせましょう等といわれていますが、元をただせば非常に怪しげな教育となるでしょう。無いものをまずあると主張させる嘘つき人間と所有欲望人間を生産していくだけのようにもみえます。

無いものから始まっているのですから、無いから始めるのが当然です。主語を使用し主張するのはずっと後のことです。

それでも人による主語の使用は、主語の使用によって世界が始まり創造されるという想いを与えています。主語の使用者は世界の中心にいると思っています。このでんぐり返しはどこからくるのでしょうか。

わたし・あなたは主語を使用しますが、私たちが寄って立つ基盤の世界、宇宙には主語がありません。この主語の無い宇宙に自我とか本人意識を打ち立てるのですから、造ったもの勝ち、囲い込んだもの勝ち、言ったもの勝ち、強い者勝ち、要するに我を通す者勝ちの世界が出てきます。

主語の無かった世界に自我が生まれるのですから、こんな不思議なことはありません。世界宇宙の創造主がいるという意見があるとしても、それだけでは自己意識の出来上がる過程は明らかではありません。自我意識は気がついたら自分のものだ、自分が造ったもの考えたものと言っているだけのもので、大本は自我意識にはありません。

わたしはここで自分で考え造ったものを書いている積もりになっています。いい気なものです。ここから相手の人格否定や感情を害することや、言い合いから戦争の準備までしていくわけです。少なくとも自分を主張し保護し相手との違いを示したいと思っていることでしょう。双方とも誰もが、物質生理的にも精神意識的にも造られた存在であるにも係わらず、自分の我の存在を主張してしまいます。

自分を見つめ本当の自分を探すといって、今ある自分を本当の自分かと突き詰めていきます。今有る自分の何かを引き出して、それが本当の自分であると、現象分析とそれにまつわる全状況と歴史を提出したとします。しかし、過去概念の記憶に何か一つの見落としが見つかり、そこから自分を見るとまるで違ってしまう。さあどうするかです。

では元々無いものの上にどのように旗を立てるかみてみましょう。

自我など元々無いといっても元々わたし(あなた)は有るわけで、有るといっても自分で選択したものではありません。それでも自我は有る自己意識は持っているという思いは強く、自我意識の組み合わせでこの世が出来ているようなものです。

ただしそこを悪い見方をすれば、この世の悪いこと、弱肉強食も殺人も戦争も自我意識が元となって起きたものでしょう。我だけが通る日には世界がひっちゃかめっちゃかになってしまいます。また我を良い方からみれば、自我による無制限な野放しが、自我の範囲内に収まっているとも言えます。つまり当事者というものが出来ていきますので、他者にまでは手を出さないということでもあります。

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13-11-4。腹母音。こころの神代(かみよ)。主語(わたしという主体)以前の先天。

先天のわたし。

物理的にも生物的にも意識的にも精神的にも、わたしはここにいるといっても、本当のところ、わたしはわたし以前のものから成り立っているのが分かりました。一方普通にこうしている時には、わたし自分で感じ自分で思い自分で考えそして自分の行為をしていると思っています。

自分が自分以前から成り立っていることは、物理的生物的な経験世界が形を変えて、今現在のようになったと捕らえられますが、そうすると単なる変形成長、変態変異発展になってしまいます。物質的生物的にはそのように見えるところもあるでしょう。変形変移の時系列の以前の状態を先天ととるならいざ知らず、精神意識、心の内なるものも、動き成長発展ではどうなるのでしょうか。

先天とは現象と成る以前のことで、後天に対応したものです。物質世界なら原油からプラスチィックが出来たり、タンパク質を食して筋肉となったりというような経過を辿ることも出来ますが、現れる心の先天はどのように導くのでしょうか。

環境とか影響、勉強の道筋から記憶をたどっていくこともできるでしょうが、それらの表現であり現れ現象と成っている言葉の先天はどこからきているでしょうか。教えられる言葉があって、それが新たな誰かの頭脳に住み着いたでは、そこに有ったものが住処を移したようなもので、そこに有るものの先天を説明したものとはなりません。

現象の成り立ちを以前の現象で説明するのでは何時までたっても、現象の変化を追うだけのことで、先天にはならいが、それでは、それら以外の先天はどこにどのようにあるのかといわれると、答えに窮するのも事実です。なんとも情け無い話です。心の問題を扱っているのですから、現象の先天というのは、物質的な潜在のことで、精神意識の先天とはならないようです。

そこで、心の潜在ではなく、心の先天を見いだしに行くことになります。ところが心の先天は現象以前の意識を探すことになりますが、現象になる以前の意識などとは意識でないもののことですから、なんともはや矛盾した言いかたになります。意識に現れていないのが先天になりますから、そのようなものは表現できません。

それにもかかわらず古事記では何故それが表現できてしまっているのでしょう。例えばそれが出来ている人には名前まで付いています。

『天津日嗣天皇(アマツ・ヒツギ・スメラミコト)。

‘天津アマツ’、天の道理、先天の道理と申し上げてもいいですね、人間の持っている精神の先天部分の道理を

‘日嗣ヒツギ’、受け継いだ

天皇(スメラミコト)の‘スメラ’はスメル(統べる)統一する、‘ミコト’言葉。』(引用)

これは心の内側に有る問題として確かめなければ口に出せないのですが、既にそれを全て明らかにしてしまった方がいて、上記の引用のように平然と書き残してくれているわけです。しかし、読むだけのこちら側のわれわれ連中はまず文章を読んで記憶と混ぜあわして、解釈なり理解なりをしようとしています。

先天は現象を生み出していきますから、説明されるべき先天を現象の言葉では語れないことになり、現象の先天ではなく、潜在を語った積もりにしかなれません。そこでどうするかといえば、個々の現象を離れざるを得ません。そこから現象に成る先天を探すことになります。

そこで出て来るのは経験感情、実際に得られた感情を語ることになるでしょう。しかし、感情はその人にははっきりしていて、自由奔放な了解をもたらしますが、他者を意識した交流流通がありません。

あるいは、言いたいことがあるけれど言葉にならない、こんなことあんなことを思ってはいるらしいが自分でも現せられない、実際に頭の中がグルグル廻っていて何かが出てきそうで出てこない、そんな状態があります。

それらの時にいる状態から何らかの言葉が出てきて、自分を語り、思っていること感じていることを喋ることになりますが、そこで見いだしたことは、語ったことの潜在、前段、過去、前世等ではなく、先天から押し出されたものです。過去とか潜在とかは先天が出てきた時の一つのありかた、過去の記憶との結びつき方の現象となっものとなります。

先天を時系列と結んだり、あるいは先天が時系列と結ばれたり、空間の居場所となったり、異なった次元にそれぞれ立ったりしていき、各人の意識考えなるものが表明されます。そうしてそれらは別々の欲望や選択の違いなどになり、別々の知識の解釈になっていきます。

この何だかわけの分からない段階を通って、知らぬ間に自分の思い考えと称するものがでてきます。頭に浮かび出てきた時点では既に自分の色が塗られているので、そこにあるものは自分のものと主張していきます。しかしその内実はわけの分からないもので、感情的には全体感を得ているものでしょう。

出てきた時には自分のものとなっていますが、先天の時には海のものとも山のものとも分からず状態ですから、出てきた時に自分でも、おやっとしたり、ハッとしたり、なるほどと思ったりすることもあります。

つまり出てきたものは自分のものと多かれ少なかれ威張って主張しますが、その大本はわけの分からないものです。これを自我とか人格とは自己責任とかに置き換えますと、もともとそんなものは無いということになります。知らんてる間に出てきてしまったものに後から自我とか自己責任とかの名前を付けて、そういうものがあるとしたのです。

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13-12-1。腹母音。こころの神代(かみよ)。先天と潜在。

先天と後天、潜在と顕在、本質と現象、等々、対になっている言葉をまとめると、隠れと現れになったり、天津と国津であったり、あるいは、天と地、心と精神だったり、神と人だったりになって、ではそれらはどうなると考え出すともう見当がつかなくなっていきます。

隠れんぼごっこや手品なら、どこかにある物体を探したり場所を移動したりするだけですが、心の現れとなる言葉は心という物体が現れることではありません。潜在的にある心という物体ではなく、心という精神が物体となって表象される関係です。

現代物理学を利用して物質の波動性と心の波動性を結びつけるようですが、古代大和にはそんな知識はありません。それでも音魂がありますから、音霊の波動をを感じていたかもしれません。しかしそうなると音霊の一方的な方向しか出てないので、言葉の創造にはなり難い気がします。

心という精神が物質でしか表現できない、心を物象化する構造を明かしたのが古事記の冒頭百神ですが、単に心が現れる構造原理としてではなく、心の現れ方がそのまま理想的な精神が現れてくるような、整理分析することがそのまま運用法となっているのがミソというか凄いところです。

数千年の間には、思想論とか認識論とか実在論とか心と精神の関係論とか、神とは何か論とか宗教論とか創話機能論とかがでてきましたが、古事記の神代記においてしか人間の心が原理としてと同時に活用運用論として明かされたことはありません。

世界の精神宗教哲学思想をかじってもいないのに、こんなことを言ってしまっては誇大妄想にとりつかれ、頭を乗っ取られた神がかりのようなものです。実際に誰かを改心させたことも無く導いたこともありませんが、どのような神の話しも、教義も、哲学も、精神思想も古事記の右に出るものは無いとはっきりしていて、そこにしか現実は無いとというのが実際の話です。

もちろん一生懸命勉強して考えても、このブログを見れば分かる通りうまくいってはいません。信仰のように思い込んだところで、活用運用することとは別ですが、宗教や他の思想のように思い込んで気に入ればそこにはまり込んでしまうしまうことが無いという特徴があります。何しろ自分の考えを放棄するところから始めるのですから、他の人には頼りなく相手にならず、自分の主張を主義としないのですから、相手にも理解されません。

宗教のもろもろの教祖たちは皆自分の意見を吐かず、言わされる立場書かされる立場でした。これらは半分妄想の中でや、行ずるという形の中で強制を受け取り得られたものです。この経験は強烈ですから、本当に神の声を聴くように行われたのでしょう。

しかしこれでは神や創造主による犬や動物の調教と同じです。内容は高貴な精神次元の話ですが、全て一方通行で得られたものです。神が与えるのですから文句を言うこともありませんし、それが望みでしたので本望でしょうけれど、何故ここに自覚的に追求する道が無いのでしょうか。

これを追求し、ついに人によってその道筋を付けたのが古代のスメラミコトたちでした。神と対話して神の言葉を記していると主張する教祖たちも尻尾を巻くくらいのものです。そこでは、今から見れば完全などんでん返しですが、人の立場から見れば当然の努力の成果で、今の立場にいるわれわれの方がひっくり返っているのです。

つまりこれはこういうことになります。当然な心の運用において現在のひっくり返った世界を作り出したということです。私たちは古代の正常な世界において、ひっくり返るように造られそれを数千年維持するようにされているということです。

モーゼもキリストも釈迦も孔子も古代のスメラミコトの命を受けた思想を広めていることになります。こんなことを言うと、これも神がかり的な盲信から喋っていると受け取られるものです。証明も出来ないくせにいい加減な事をいうなというとこでしょうが、既に証明はされていて、皆さんが知らないだけです。そしていつか知ったとしても、時代の波がまだ寄せ来ないなら、信じることも出来ないものです。

こういった類の話はあちこちに出回り、増えてきています。統体で覗けばそういった時代の波を受けているからです。どの話が本物でどれが嘘だというのではありません。自然淘汰されて本物が残るというのでもありません。これからの世界はそんな嘘とか本当とかを探ったり自然淘汰を待ったりするような、自覚の無い行き方ではなくなります。だからといってもちろん全ての人が自覚するというのでもありません。

どういうことかといえば、心を知りたい次元のことならば、今までなら科学思想の発展、こころのミクロマクロの世界の分析によってより多くの観念概念知識の収集集積によって、知りたいという思いを満足させてきました。それは現代も続いていて、新技術新発見新理論による新たな展開を喜ぶ心持ちを植えつけられています。

これは科学の進歩の向かう方向ですからさらに進化していくものですが、これまで進化進歩といわれるものの延長上に心(その他何でも)を置いてきた成果には、その時代の成果教義が反映していくだけで、何時まで経っても本質真実は見いだせないと気付くようなものです。

幸せを求めるのに金を積めば得られると教えられ金のためには手段を選ばなくて良い風潮が蔓延して来ましたが、ではその金とはどういうものかといえば、新聞広告と同じゼロの数の違う種々の印刷物でしかないと気付くようなものです。

今後はみんなの生きる世界を思う場合、これらのもの、知識とか金とか、をどうしましょうかというだけの時代になっています。科学思想が幾ら発達しても真実には到達できず、使い道の無い富を蓄えた世界の大富豪たちは、自分達にもっと税金を掛けるように自ら主張してくるようになりました。

それに答えるように物象世界の富や自然現象や大災害を精神世界に翻訳しようと世界中が、宗教指導者や道徳家や政治家達が駆け回っています。しかし誰もどこも世界のみんなを導くことに成功はしません。その一方個人では自己意思の発奮が大きく問題となる時代になりますが、世界のみんなを相手にすることには身が縮こまってしまいます。

誰もその精神原理を持っていないからです。自己主張による意見なら身の安全を賭ける位のところまでなら、多くの人が犠牲を省みずに試みています。また陰に陽に自由とか人権とか生命の尊重とかの抽象的な概念を掲げてその価値を現そうとしています。

それらの行為の内奥にはこの二千年間の宗教とそれらが主張してきた神々への不信があります。宗教組織と無力な神を宛にしませんから政治政府行政に目が向いていってしまいます。そこでは解決策として力とか反権力への意志とかになっていきます。みんなが生きる世界のためにまたもや抽象概念を正義とした闘争を持ち込んでいきます。

これらは起きるべくして起きているし、弾圧する側も反抗する側もみんなが生きる世界を持ち来らす原理を持っていないけれど、それを探し求めようとしている現れとなっているものです。世界中でこの欲求は急速に高まっています。

この高まりを感じ世界への目の向け方を変えようというのが、次々に出てきています。しかしどこにも指導原理は無く、価値概念の実現を待ち望みか、適当な指導要項や神の言葉とかで少数の指導者集団を形成しようとするしかないようです。みんなが生きる世界を抱き抱えるのに耐えられるだけの原理がないので、どの考え方もどこか臆病風を吹かせています。

ところが素晴らしく恐ろしいことには、このような人間の心の方向を造っておいた方がいたというのが、大和のスメラミコト達の残した古事記と心道(神道)です。

ですが、その説明には大和の日本語でしか現せないというのが問題であり、未だ現し方を知ったスメラミコトが出現していないという問題なのです。

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13-12-2。腹母音。こころの神代(かみよ)。各次元の先天。

先天は五感では得ることが出来ないといっておきながら、探ってみようといいます。手に触れることの出来ないものを探り寄せることはできるでしょうか。

やってみるしかありませんという前に、既に疑問があります。出来ないと判っていてやろうとは何か、です。さらにその疑問自体には、次の疑問が付いています。何故出来ないと判っているのか、です。

まるで卵と鶏になりそうですが、出来ないと分かるということも何時か何処かで何に関して分かるなり分からないなりの判断が得られていたのかの、それぞれの歴史過程があります。

現在は、それなりの考えたり書いたり出来る知識と記憶の集積の上で事が進行していますが、それらにはそれぞれの段階があることでしょう。先天など考えたことも無いとしても、既にその言葉を知っているし聞いたことはあるし、初めて聞くとしてもそれに何かの反応対応の準備もできています。

ですので急いで辞書を開いて初めて先天の項目を見ても、各人の手持ちの知識概念や記憶観念との兼ね合いが直ぐ出てくるように頭の作りはなっていますから、辞書を読めば読んだなりに取り込むことができます。

そこでは取り込む前と後の違いが出てきますが、その一連の経過過程を見ると同じことの繰り返しになることがわかります。初めて知ることにしろ別の誰かの意見を調べるにしろ、あちら側にある記録知識がこちら側に取り寄せられてきます。

では五感で探ることのできない、経験以前の先天を探ってみましょう。

経験以前の世界を探るのですから、そこに有るとか無いとか言えるだけのものは実体としては把握できません。質問にある先天と何かは、先天として有ると何かとか有るとした先天とは何かとか先天という実体は何か、という質問と同じことです。

つまり、有る(無い)事を前提とした疑問を作っていて、先天を求める疑問のでき方に不正があります。そこで疑問の形は変えられなければならず、先天に成る道を問うことになります。

ここでは何々とは何かというかたちで何々の潜在を前提としていません。成り出てくるように解いていこうと思います。

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【 天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、 天の御中主(みなかぬし)の神。】

この冒頭の一句が全ての始まりとなります。ここで成りませるのは「先天」ですから、天の御中主(みなかぬし)の神を書き換えると次のようになります。

【 天地の初発(はじめ)の時】、今の私の心の中に起きる出来事が現れ出ようとする兆しの瞬間の時、

【高天(たかま)の原(はら)に】、それが事の始めとなるがまだ何もない心の世界に、

【成りませる神の名(みな)は】、その出来事が起こる以前の心の働き、形として現れない働きが分かるようになると、

【天の御中主の神】、それを「先天」と呼びます。

解説風に書くと返って分からなくなるので、原文通り覚えた方がいいです。

「先天」とは何かを解説しようとするものですが、その始めは何もない心の世界に何ものかが動き始めていってやがては「先天」になるというものです。

やがてとは言っても意識の中では瞬間的な出来事ですが、全体的に見ていけば「先天」という意識の発展していく過程にあり、ここでは原初的な発生時にあたります。

「先天」の成り現れる原始的な意識としての「先天」で、生成変化変態の過程のことですから、それらをこういうものだと切り取りスナップ写真にしてしまってはなりません。原始的な意識の始まりで有る「先天」はやがては、五感感覚上の「先天」となり、次いで学的知的な概念上の先天となり、宗教上の感情での先天というように形を変えていきます。

そのそれぞれの次元での先天のあり方様子が違ってきますが、各次元内での構造は同じ姿をしています。何も無い心に「先天」の意識が生まれてくるのと、宗教上の神の先天感情が生まれてくるのとは、その姿は大いに異なりますが、生まれてくる構造は同じ構造原理(=古事記の冒頭)を持っています。

原初の始まりには何も無い全体の「先天」から始まりますが、それの発展過程上での始まりは、それぞれの過程で得られたそれまでの全体の「先天」を持って始まります。現れ出てくる「先天」からすれば、それらの始まりはいつでも無い全体から始まるということです。

ここでは「無い全体」という言い方をしていますが、古事記では

原初の始まりに、「あめつち」・アの目が付いて地に成るのアという意識、

先天構造原理の始まりに、天の御中主(みなかぬし)の神、

先天自己の心の始まりに、ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、

先天自己領域の始まりに、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)

後天自己領域の始まりに、十四島、

後天現象要素の始まりに、大事忍男(おおことおしを)の神

後天現象の運用の始まりに、金山(かなやま)の神

後天現象適用の始まりに、和久産巣日(わくむすび)の神

客体側世界の始まりに、子の一木(ひとつき)、

客体側世界の主体化に、泣沢女(なきさわめ)の神

主体内規範の確立の始めに、建御雷(たけみかづち)の男の神

黄泉(後天現象)世界での始まりに、黄泉戸喫(へぐひ)

黄泉世界での主体の始めに、男柱一箇(をはしらひとつ)

自覚的な禊ぎの始めに、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)

自覚的な禊ぎの運用の始めに、 衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神

理想的な創造規範の始めに、三貴子、

というように、それぞれの各次元段階から新たな「先天」が現れ出てくることに成っています。

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13-12-3。腹母音。こころの神代(かみよ)。先天の原理構造。先天母音世界。

人は親であり子供であることができるように、それ自身が先天でありそれの先天を持つことができます。別に言えば、それは後天でありながら先天であることができるということになります。これは表現する上での言葉の綾ですから、時空の流れの中に置き直せば、普通に前後関係として出てきます。

かくれんぼごっこや手品のように有ったものの場所の移動だったり、活動次元の変移であったり、成長変態であったり、階段の上がり下がりのようなものであったりしますから、様子の現れからすれば様々な形があります。

また先天を厳密に捕らえ、経験以前の先験、五感意識では捕捉できない前意識のように捕らえることもあります。そのような場合には無意識から意識が、空から色が、無から有が出てくるように捕らえられることでしょう。

かくれんぼ等の場合ならちょっと手が加われば犯人たちの変装とか隠遁とかになり、出てきた時との相違もそれぞれ大きなものがあったりなかったり、下手だったり見事に裏を書かれたりといったことが起きるでしょう。

いずれにしてもそこには時間的な差から来る認識の違いが大なり少なり得られるでしょう。そこで古事記ではその時間差から来る前後の違いを、【みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。】といっています。前の状態や実体はそれ自体だけで存在していて、後天的顕現している現象からは身を隠している、顕現した現象の特徴や具体性はまだ現れていないということになります。

もちろんひとたび身を現せば相違比較の対象となりますから、過去から持ち来った特徴や変化を見ることになるでしょう。かくれんぼで同じ身体が出てくるとしても、その時間差からすれば前と後では違いがあります。出てきた瞬間にはその人であることが確かめられなくてはなりません。そこには確認以前と確認後の主客の関係、先天後天の関係が成り立っています。

先天構造の先天実在、母音世界、(先天への働きかけ(父韻世界)は後ほど)

先天の構造は次の通りです。

先天という一つの統体は五層の次元で構成されています。まず、静的に見ると。

一、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の構造関係の中での先天。

二、産まれようとしてあったものが今ある、といういわば、 過去-今の構造関係の中での先天。

三、それら上記二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、 今-全体の構造関係の中での先天。

四、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の構造関係の中での先天。

の四態があります。

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造能動意志を喚起する先天のが今の全てを貫いています。いわば、今の持続の中の先天。

これが現実に流れている今の中にあるスナップショットで、先天を言う場合にはこの五つに分かれます。

このそれぞれ次元の違う五つは、主体側から見られた今の中にある先天に成っている、先天に成っていく先天があるという関係です。

これはいわば、今において先天が成り立つ世界です。

それに対して、主体側に対応した受動側の客体側から見られた先天があります。

今そこにある世界で、今そこにあった先天が了解される世界です。

いわば今において過去が成り立つ世界です。

一’、産まれようとしているものが(今産まれる)今産まれた、いわば、 今-今となった関係の中にあった先天。

二’、産まれようとしてあったものが(今あった)今ある、といういわば、 過去-今となった関係の中にあった先天。

三’、それら二態が一挙に俯瞰された状態、今ある-あったいわば、今-全体となった関係の中にある先天。

四’、そして、今あるものがこれから動こうとして産まれる、今ある今あるだろうといういわば、 今-未来となった関係の中にあった先天。

の四態があり、

五’、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造受動意志を喚起すま先天が今の全てを貫いています。(能動受動の)今の持続の中にあった先天。

これで先天の過去-現在の実在は揃いますが、先天はそのままでは出てきません。

つまり先天の創造出現にはまだ至っていないということです。

上記十項目だけでは先天はまだ出現していないということです。

上記は「先天」ではなく、今の先天世界に実在している「先天」なのです。

後にこれらに父韻が加わりますと先天が動きます。

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13-12-4。腹母音。こころの神代(かみよ)。先天の原理構造。父韻世界。

先天があるところまでは行きましたが、そのまま先天が出てくるわけではありません。先天の主体側も客体側もそうとも関係交流を持たなければ、現象が生まれません。

http://kojiki-and-kototama.sblo.jp/

こと、よさし、たまいき ・ 引き寄せ ・ いざない、いざなわれ ・ 授かり、授かっている。

こと、よさし、たまいき⇒先天

引き寄せ

いざない、いざなわれ

授かり、授かっている。⇒潜在

よさ‐し【寄・任】-日本国語大辞典

〔名〕(「よさす(寄)」の連用形の名詞化)委任なさること。また、委任なさった役目や場所。まかされた役目や場所。任務。任所。*書紀〔720〕継体二三年四月(前田本訓)「因て其の地を封(よさせ)ること、良 ...

よさし‐どころ【任所】-日本国語大辞典

〔名〕天皇が統治を委任した所。また、統治をまかされた所。まけどころ。任地。*書紀〔720〕雄略七年是歳(前田本訓)「田狭、既に任所(ヨサシトコロ)に之いて、天皇、其の婦を幸(つかは)しつることを聞きて ...

腹にまで●あアア宇宙

【天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、】

(1) 天の御中主(みなかぬし)の神。次に

(2) 高御産巣日(たかみむすび)の神。次に

(3) 神産巣日(かみむすび)の神。この三柱の神は、【みな独神(ひとりがみ)に成りまして、】【身(み)を隠したまひき。】

==おのれの心の領域==

『 【ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、】』

『 【伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、】』

『【 「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、】』

『 【【天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。】』

『 【かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、】』

『 【その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、】』

『 【塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、】』

『 引き上げたまひし時に、』

『 その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、』

『 これ淤能碁呂島(おのごろ)なり。』

『 その島に天降(あも)りまして、』

『 天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。』

▼▼▼ここから▼▼▼

・潜在意識の中に細々と伝わってきた。

・潜在意識の中のことが世の中の現象として現われてきている。日本語の真実が残っているということです

・人間の心の潜在意識に隠されておりした言霊の原理が不死鳥の如くに甦りました。今から百年前に言霊布斗麻邇の原理を誰も言うことはありませんでした。なかったのではなくて伊勢神宮の奥に、宮中の賢所の奥に、又は、人間の潜在意識の奥に、ちゃんとあったもの

・縁とは記憶の繁りであり絆である。一度あったことの記憶は忘れられてしまっても縁は切れない。人間の潜在意識に印画されているからである。

・ある出版社の編集長が「島田さん、特訓して下さい」と言うので、まず先天から説明すると、「その先天というのが分からない、潜在意識にあるものですか」、そうじゃない、「じゃ、ドロンドロンの霊ですか」、そうじゃない。

・「あなた方は五体は満足でも、精神的には5分の3で生きてるんだよ」って。「この大切な二つは、地中に埋もれていて、あなた自身の潜在意識の中に入ってしまって、心の表面では自覚できていないんですよ」というしるしに、こういうものをわざと立てたのです。

・それを生れながらにして授かって生れてくるのが人間なんだということが分かる、それが原動力。理屈も何もない、その「有難い」という気持ちから「さて」と言って立ち上がると十七の先天、三十二の子音が分かると同時に、五十音に則った活動が現実に起こってきます。

・言霊の学問は先天と後天の全ての現象と原因をハッキリ示すことが出来て、

・自分の心の中に確かめていただきたい

・先天十七の言霊が分かりますと、後は澱みなくパーッと分かってまいります。先天ですから眼で見たり、耳で聞いたり、又、意識の上で捉らえたりすることは決して出来ないものです。

・ 聖書に出て来る「生命の樹」(心の先天構造の順序に従ってする思考、ウからアワと分かれる、とする思考)で生きればものすごく楽なんです。そうでなく知識の「善悪を知るの樹」(ウ-アワの構造順序の自覚を欠いて、アとワ、見聞きする主体と客体に分かれたところから初めて思考が始まる思考。)でやるから苦しい労働をし、苦しい頭の回転をして、そして結果が悪いんです。

▲▲▲ここまで▲▲▲

出雲の国は父韻、伯伎(ははき)の国は母音、堺なる比婆(ひば)の山は言霊子音でした。

出雲の国という地名はうまい具合に千年間利用されてきただけです。ここでは腹の緊張が発声音と結び付く心の動力因となっているものがあり、そのことを指します。

そしてこれが父韻と呼ばれるものの仕業なのです。

発声をしないで声を出す準備だけをしてみてください。アーーと言う恰好だけをしてみて、無音の口を開くと同時にあるいは口を開く以前に、腹において腹母音のアの緊張が産まれています。アの声は無くてもアの腹母音が活動して働きの態勢を整えています。そのまま無言のアッアッアッをしてみると実際出雲の雲がむくむく湧き出るような腹を感じます。

伯伎(ははき)の国、子音発生のときは母音のことでしたがここではここではその母音の発声を探っていますから、腹母音、腹の緊張の五つの変化持続、無限実在ということになりそうです。

そうすると、比婆(ひば)の山は横隔膜、胸、声帯等の動きが現象となります。声はその結果です。どうりで言語学でいくら舌口腔声帯などを分析しても心は一向に出てきたことがないはずです。

繰り返しますが、この出雲の国の働きが無ければ、腹の緊張は単なる生理的なもの、発声される音は心のない声帯の振動でしかありません。しかしそれは心が直接に言葉となっている大和言葉の物理的条件となるもので、それを操作するのが父韻となります。

わたしとあなたという二人がいるだけでは子供はできません。心だけでは言葉にならず、そこに発声器官の全体が加わっても言葉にはなりません。音は音でどこまで行っても音です。心と発声とが別々です。出雲の国の働きで出来たものでないからです。

出雲の国というだけでは抽象的過ぎます。どなたかに助けて欲しいところですが、しっかりしろ。

出雲=イ+ズ+モ。伊耶那岐の神(言霊イ)+頬那芸(つらなぎ)の神(言霊ス)+木の神名は久久能智(くくのち)の神(言霊モ)の組み合わせで出来ています。

精神活動の行くぞ生きる命のイの大本、伊耶那岐のイ+言霊スは静止の姿、動作のない状態+久久能智とは久しく久しく能(よ)く智を持ち続けるの意で全部で、心の創造意思が動作のない状態でありながら萌えいずる内部振動中ということになります。

そこで古代大和の聖人達はその振動を整理分析しました。発音以前に実在する腹母音の分類分析と人の心の現れを比較しました。腹の内部の響きと実際の心の現れとが研究されたことでしょう。

勿論、社会生活上はそんなことはやっていられませんから、通じあえるような了解ごと共通の約束事の中に留まっています。これが大和の日本語以外の世界中の言葉です。契約事を大事にする西洋のこころの元があります。裏を返せば言葉に心がないので共通の契約後とで縛りつけておこうという必然になるものです。

大和の言葉はここに父韻という心の韻(ひびき)の実在を発見して構成されています。この心の響きに対応する相手が腹になります。響きはものの在り方として感ぜられますが物ではありません。

鐘がゴーンと鳴りました。実は力の作用反作用で空気振動の濃淡が出来ただけです。植物や昆虫には音は聞こえません。ところがこんなテレビを見たことがあります。枝にいる昆虫が交尾相手を呼び込むのに腹足を使って振動を起こしどこにいるか分からない相手にここにくるように伝えているというのです。実験ではその周波数を真似て発しているとお見合い相手が隣の木から一端地に降りて発信元にまで来ました。残念なことにそこにあったのは器械でしたけど。(余話)

ここにどうしてもわたしたちにある感受能力、共感感応同交をもたらす性能を設定せざるを得ません。

動物の物理的な力の交換伝達作用の中にあるだけならば、科学によってそれらは証明されていきます。脳内科学もそのうちの一つです。心を現す脳のメカニズムも明かされるでしょうけれど、心を現す言葉の秘密を明かすに至らないでしょう。言葉の電気信号を集めてもこころにはなりません。

頭には思考の流れがあり概念記憶が出たり入ったりしているのにそんなものに腹母音などあるのかと思われます。

しかし思考というのは記憶知識の頭脳内での概念操作の分野に属するもので、創造されていた言葉によって現象(この場合は過去現象)を操作するだけのものですから、言葉の発生とは関係ありません。(それよりも記憶概念が腹に産まれるのじゃないかと見ていく方が良いかと思えます。)

ウの腹。

五感感覚で与えられる心の腹での対応が声ではウの腹にあります。五感での知覚の特徴はそれを使用して自分のものとすることでその欲望を充足することです。

見る聞く嗅ぐ等の五感感覚の取得時の腹の緊張を探ると全部同じで、声になった時のウの位置緊張と同じであることが古代に発見されました。

五感感覚の知覚を得る直前の腹を観察してみてください。感覚を得て何々であってどうしたいという知識や選択の判断が出てくるその前の時空のことです。

駅にいくまでにいろいろのものを見聞きし匂いを嗅ぎますがそれらが何であるかという判断をする前の腹です。その時はウの腹で歩いています。

オの腹。

駅に着くといつもと違って人込みが出来ています。あれは何だと疑問が起きます。画面を見ていると難しい漢字がでてきて読めません。これは何だと疑問がおきます。その時状況に合わせて腹が動きます。疑問が出ている時はオの腹でオを発音しているときと同じ腹になっています。

エの腹。

事故があったのでいつもの乗り換えが出来ないことが分かりました。そうすると今度はもっとも上手な目的地への到達方法を選ぼうとします。あの線ならあそこで降りて、この線ならここで乗り換えてと智恵の選択になります。その時にはエの発音をするときと同じ腹が構えられています。

アの腹。

またそこに何らかの感情情動がおきるときにはどのような感情になるにせよ、アと発するときと同じアの腹が見いだせます。

イの腹。

おや時間だ、出かけなくてはよし行こうという場合など意志をもって自らを制するときに見いだせるのは、イを発音したと同じイの腹です。

これらは腹の感応同交が母音と同じ韻(ひびき)を持つということで、同じ音現象になることではありません。音現象を決定する心の奥のひびきとでもいうものでしょうか。

人の腹はこうして全ての事象に対応できることになり、発音の基盤ができました。つまり全ての事象は五つの心が対応した母音で現せることになりました。

( これが後にインド中国に伝わって五大五行となった実体です。それを元にインド中国では概念として発展させました。また、聖書でいう生命の樹であり、エデンの園から流れ出て(イ)四つの源流となる(ウオアエ)河の実体です。竹内文書参照。

今後この意見が常識となる前にもっと上手に解説することが出来れば今のうちならノーベル賞ぐらいとれると思えますが、元気な方どうぞ挑戦してみてください。)

とうとう母音の心が現れました。でもたったのそれだけのものです。こういうことをイメージしてください。新品のピカピカの靴が手に入りました。靴底もピカピカで道路もぴかぴかです。さてこの靴を履いて歩けるでしょうか。ツルツル滑って歩けません。その人の全体重を受け取り反作用を与える負荷、抵抗が無いとまともに歩けないのです。

同じように腹母音があり、その心との対応があるといっても対応を受け取るものが無ければ腹母音は実現しないのです。この対応を受け取る側が半母音です。言語学でいう弱い摩擦音が有る無しをいうのではありません。

では世界にある母音の多くは何なのでしょう。大和の言葉を除くそれらは言語学の対象で、音韻とか口腔とか舌の位置とか脳内の反応部位との関係とかで整理されていきます。大和言葉もその物理的な現れの中では分析の対象になりますが、こころを現す言語としてでなく音に心を足し算したものとしてです。研究者の学者の頭数だけ足し算の要素が加わっていきます。

いくらやっても心は見つからず現れない物事を客観方向へ客観方向へと向かう学問になっていきます。速須佐之男命答へ白さく、「僕(あ)は妣(はは)の国根の堅洲国に罷(まか)らむとおもふがからに哭く」とまをしたまひき。

心の世界の片半分=堅洲国(かたすくに)。

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13-13。腹母音。こころの神代(かみよ)。呼気とこころ。半母音。

先天-母音-能動。

ア。高御産巣日の神

イ。伊耶那岐神

ウ。天の御中主の神

エ。国の常立の神

オ。天の常立の神

先天-半母音-受動。

ぅ-ワ。神産巣日の神

ぅ-ヰ。伊耶那美神

ぅ-ウ。天の御中主の神

ぅ-ヱ。豊雲野の神

ぅ-ヲ。宇摩志阿斯訶備比古遅の神

先天-父韻-実行因。

T-チ。宇比地邇神

Y-イ。妹須比地邇神

K-キ。角杙神

M-ミ。妹生杙神

S-シ。意富斗能地神

R-リ。妹大斗乃弁神

H-ヒ。於母陀流神

N-ニ。妹阿夜訶志古泥神

後天-子音-現象。

大事忍男の神 言霊 タ

石土毘古の神 言霊 ト

石巣比売の神 言霊 ヨ

大戸日別の神 言霊 ツ

天の吹男の神 言霊 テ

大屋毘古の神 言霊 ヤ

風木津別の忍男の神 言霊 ユ

大綿津見の神 言霊 エ

速秋津日子の神 言霊 ケ

妹速秋津比売の神 言霊 メ

沫那芸の神 言霊 ク

沫那美の神 言霊 ム

頬那芸の神 言霊 ス

頬那美の神 言霊 ル

水分の神 言霊 ソ

国の水分の神 言霊 セ

久比奢母智の神 言霊 ホ

国の久比奢母智の神 言霊 ヘ

風の神名は志那津比古の神 言霊 フ

木の神名は久久能智の神 言霊 モ

山の神名は大山津見の神 言霊 ハ

野の神名は鹿屋野比売の神 言霊 ヌ

天の狭土の神 言霊 ラ

国の狭土の神 言霊 サ

天の狭霧の神 言霊 ロ

国の狭霧の神 言霊 レ

天の闇戸の神 言霊 ノ

国の闇戸の神 言霊 ネ

大戸或子の神 言霊 カ

大戸或女の神 言霊 マ

鳥の石楠船の神 言霊 ナ

大宣都比売の神 言霊 コ

火の夜芸速男の神 言霊 ン

古事記に出てくる母音半母音の順序

ウアワ-ヲオエヱ-イヰ

古事記に出てくる子音の順位

たと-ヨ-つて-ヤユエ-けめ、くむするそせほへ、ふもはぬ、らさろれのねかまなこん

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こんな風に図示してもなにを理解していいのか分からないと思います。

こちらの書く方は分かった積りで恰好をつけて書いています。

つもりでやってるので真実に達しません。

思いつきの考え閃きがでてきて、それに疑問を持って自分なりに答えていきます。

そんな量が増えれば何らかの結果現象もでてきて、またその現象に囚われてしまいます。

分野は違ってもこんなことばかりです。

考えとか自己主張とかの成れの果てです。

自分の考えなど持たないようにしたいけど、知識の奴隷となるとこうなってしまいます。

菅直人にこうしろああしろこうして欲しいああして欲しいといろいろ注文がついています。

注文の総体をまとめてもまだ足りないはずです。

それでも言い出した本人達は真面目で最良の忠告提言をしている積りになっています。

政府側もできる限り出来るだけという限界を最大の努力と勘違いしてやっているつもりです。

さらに注文提言した者どうしで喧嘩さえあります。

ですので全てがバラバラです。

全ての提言意見、施政者の間違いは自分の考えを述べるところからきます。

被災者と被災の外にいる者たち全体の「いたく歓びて貴い結果」を得ていく生命生活意思行為を見つけようとしないからです。

●●●●●

未完。