②-0 心が付くから始まる・淡路の穂の狭別の島・未剖判

アメツチ論・心が付くから始る

古事記の始まりの一句。

天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、

高天(たかあま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、

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あめつちとは

吾(ア)の眼(メ)を付(ツ)けて智(チ)となす

私・各自(あ)の意識(め)を付(つ)けて智(ち)恵となす、のこと。

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【00】 天地(あめつち)

これを、テンチ、と読むと最初から古事記の解釈が違ってきます。テンチは漢語読みで漢字の心を反映したもので、単なる天と地とその世界を示します。古事記ではアメツチと読み、大和の心そのものをあらわします。

天地(あめつち)とは、吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となすこと。

吾(あ)の 吾とは私の、自分のこと

眼(め)を 眼は私の意識、意識の芽を

付(つ)けて 相手、対象、客体等に向かい取り込むことで、

智(ち)となす 相手の地で実践智を発揮すること

心の始まりは私の意識が何かに付くから事が始まるので、その自分の内なる心の広がりを精神宇宙となった天地という。

意識の世界での発芽、変態、脱皮、みそぎ(身削ぎ)、成長という繰り返される循環の内に、理想の思惟規範を得ようというものです。

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天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかあま)の原(はら)に成りませる

私の意識は、意識するという主体意識が意識される客体側に付くことができ、両者を取り結ぶ働きによって新たな子現象を創造することであらわれます。

ですので、付く意識があって、意識の付く相手対象があるので付くことができ、そこに付く主体的力能があるので付くことができ、付かれる実在があるので付くことが起きます。

これらは先天のありさま、いきさま、となっていて、この働きが成就すればことのなりさまが現われ、その始まりが意識の始まりとなり、子現象としての意識のあらわれが言葉となって表出してきます。

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初発(はじめ)の時

初発(はじめ)の はじめは端(はし)眼・芽(め)、私の意識の生まれでようとする端緒の意識

私の意識の芽にあらわれる吾の眼・私の意識の内容である時間で、十の気が時と成ってあらわれること(父韻の項目参照)

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普通「天地(あめつち)」と言えば、常識的に誰もが「天と地」または宇宙天体とか、太陽系宇宙とかを指すものと思います。古事記の神話の冒頭の文章である「天地」も当然そのようなものの事と思うことでしょう。現在の古事記研究の国文学者もその様に解釈して少しも疑いません。その証拠は古事記の本の頁毎に見える字句の訳注に明らかに読みとれます。古事記の編纂者である太安万侶も神話を書き始めて、その初めに「天地の初発の時」と書いた時の第一の願望は「天地」をその様にとって貰う事であったであろうと推察されます。「そんな当り前の事を何故言うんだ」と思われる方が多い事でしょう。けれどそれから後に奇想天外な、誰もが夢にも思わない事が秘められているのです。それは何か。古事記編纂後千年乃至二千年(兎も角、一千年単位で数える長い年月)の将来、神倭朝十代崇神天皇によって世の表面から隠されてしまった言霊布斗麻邇の原理の存在に日本人が気付く時、古事記の神話の初めの言葉「天地の初発の時」が、その常識と誰でも考える「天と地」または「この太陽系宇宙」、即ち今日の天文学や宇宙物理学等で謂う外界の宇宙空間の事ではなく、それら外界の宇宙空間を見ている私達人間の内なる心の広がり(宇宙)の事なのだ、という事に気付いて欲しいという奥なる願望が秘められているのです。

「天地」が人の心の内なる広大な宇宙、そこに人間の数限りない大小の出来事が去来する心の広がりであることに気付きました。ではその「初発の時」とはどんな時なのでしょうか。外界に見える宇宙の広がりの「初め」といえば、何百億年か、もっと前の宇宙の巨大なエネルギー変動によって種々の天体が形成され始めた時という事になりましょう。けれど人の心の宇宙の初発とはそんな昔の事を言っているのではないでしょう。人間の内面に何かの現象が始まろうとする時、という事です。それは主体的な心に何かが始まろうとする時、そうです。それは「今」です。時を客観的に見て、新しい二十一世紀が始まった時は、と言えば、それは西暦二〇〇一年一月一日午前零時です。しかし心の出来事を内に見て、その心の「初まり」と言えば、それは常に「今」であります。厳密に言えば、人は常に今、今、今に生きています。今・此処が常に「天地」の初めであり、場所です。この今を永遠の今と言います。そしてその場所が宇宙の中心です(この事は後程詳しくお話ししたいと思います)。今・此処を古神道は中今と呼びます(続日本紀)。

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高天原(たかあまはら)

心と意識の活動場は脳髄にあって高天原(たかあまはら)と呼ばれる。タカマハラではない。

ここでの天はアマと読み、意識の間を行き交う実在とその働きがあるということで、

】と【】で始る【あ(吾)】の間【】を持つ精神の【

ということです。

一つには【】から始まる動きと、もう一方には【】から始まる動きがあり、それと重複して【】から【】に渡るという二重の働きを指しています。それが意識の先天の働きだと指示しているわけです。

【た】 主体、全体、私、等

【か】 客体、個別、あなた、等

【あ】 実在、タとカの実在の実相

【ま】 精神の活動する間とその働き

】 精神規範図、五十音図のこと(きっちり五十)

その音図内の組み合わせで、先天のありさま、いきさま、なりさまが、心の発生、問題の提示、気づき、初めの何か、等となり、言葉であらわされたこころとなります。

心の始まりは、吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となす、あ・め・つ・ちからですが、心が付いてあらわれるには、心のあらわれ以前に付く相手客体対象がなくてはならず、付こうとする主体とその力能がなくてはならず、付く活動場となる領域がなくてはならず、これらの前もって整ってあることが先天のあめつち(天地)です。

これは先天十七神であらわされています。(古代スメラミコトが発見した人類史上至高の原理)

主体意識というのがあって何でも自分が始めで自分から始って行くと思い思われますが、どこにもそのようなものはなく、先天の自分以外のもの(天津先天十七神)からの自分の意識への依頼として事は始ります。自分の頭で考えているようですが、誰もが出来合いの言葉を借りているので、自分が作ったものなど何もありません。

人はまず先天の依頼を受け入れることから事をはじめますが、受け入れる自分がまずそこにいるという、二律背反があります。この静と動、個と全、初めと終わり、過去と今、あるとない、の統一された姿が伊勢の御柱です。

続く十七神は先天原理の構造を示しています。

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成りませる

成りませる

成るはこの後何度も繰り返される最重要な概念の一つです。

名が付くことを成るといいます。

神々が成るというのは、吾の眼が付いて智になったもので、宇宙永劫に神がいるとするのは、唯一古事記を例外としたその他の様々な宗教の主張です。

ナルは、名る、成るで、天地(あめつち)の初発(はじめ)の時間において、高天(たかあま)の原という精神意識を司る頭脳内の場所に成りませる時空の出生の明らかなものを指しています。高天原で確かめられた言葉の内容には、名が付きます。

言葉の運用に関しているときには鳴る(発声する)の意味を持つようになります。

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成りませる神の名(みな)は、

天の御中主(あめのみなかぬし)の神

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高天原(たかあまのはら)に鳴る(成る)。

高天原という頭脳中枢に言葉が鳴り響くことを指したものですが、現象をまだ扱っていませんから言葉の音が聞こえるのではありません。韻の鳴る響きが用意されるというだけです。

音(おと)の韻を踏んでこそそこでの同調が起こり音が発生する始めの出来事です。

成るはまた多くの名が流布されているなかで、同調された韻を持つものだけが鳴り響き、言葉の名となって、了解を得るものです。先天の韻が鳴り響かなければ了解できる音にはなりません。

天の御中主の神。

その始めであると同時に、始めを形成するのが、天の御中主です。始めの先天の韻の響きから出てきました。事の起きる始めの響きです。わたしの意識(吾の眼、あめ)の実相・霊(御)の中身の主です。注意が喚起され注意を集中しようと「んっ」と緊張するそのまた端緒の言霊です。単にわたしの中身ということではなく、中身の中身としてその韻と同調でき立ち上がり沸き上がってきた響きです。

言霊ウです。

産まれ出るものの予兆を感じてうずくまり、そこにうごめき浮き上がってくる意識が熟れてくると生まれる、わたしの実の中身となり、わたしにその主と成るように強制する韻を持つ響きの主です。

それは同時に客観的などっかにいる造物主のことではなく、韻の響きを受け取りその主人公となる人間各自、わたしのことです。吾の眼の実・霊の中身を所有している主です。

意識に何かが始まる時、また始まりを得た時、あるいは何かをもって始まる時、始まりに結び付く時、そして始まりの決意を得た時の音韻が言霊ウです。

始めの韻の響はそれを受け取る側と、受け渡す側が同じです。それ自身が韻の発動者であり受動者です。ウには陰陽がなく主客同一ですが、ここで剖判することが意識の始めとなります。

淡路の穂の狭別の島

ウは動かなければ主客の剖判は現われませんが、剖判した行き先が元々秘められています。これを示したのが天の御中主の神の宝座である淡路の穂の狭別の島という言い方です。淡路・アワ路・は主客となる五十音図のア行とワ行のことで、その両者を行き交う道の途上にある意識の行き先がほんの切っ先の違いで分かれ出てくる意識の領域ということです。

切っ先の出だしがアであるかワであるか、で変化する意識の現れの伏線、予兆がここに張られています。

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゛゛゛ 随想 吾の眼 ゛゛゛

完結と持続。

吾の眼を付けて智と成すとあめつち(天地)を、いま、ここ、の瞬時に成就していくものとするわけですが、読み下し文になっいる最後の「成す」はアメツチに含まれていません。

アメツチは名詞扱いで事物の有る無しという思いが強く反映していますから、天地という事象を指すには好都合ですが、ではその天地が持続連続しているのを見るとき、どのような構造になっているかがはっきりしません。

さて「成す」はどこにあるのでしょうか。

あめつちを使って文章にするときには、あめつちに続く言葉が加わります。あめつちと、あめつちは、あめつちに何々とは、等の形になりますが、あめつちで切れる場合とそれに続く語がある場合との違いは何でしょうか。イマココであめつちという場合にどこにその差異があるのでしょうか。

そもそもアメツチも四語の連続です。アメツチには何故それに続く語が無くアメツチで切れてしまうのでしょうか。あめつちに語が続く場合には、あめつちと関係の無い語が何故続くのでしょうか。これが会話中ならば、話しが途切れたり繰り返されたり、あるいは飛んでしまったりすり替えられたりしてしまう訳ですが、元々の出発点はあめつちです。

それは、たかまはらなやさ(チキミヒリニイシ)の意識の流れを持つか、かさたなはまやら(キシチニヒミイリ)または、かたまはさなやら(キチミヒシニイリ)の意識の流れを持つかによります。

ここに八語の連続が出てきますが、これらはイマココの瞬時の頭脳内での出来事です。

吾の眼が付いて智に成る以前の吾の眼の形成のされ方によります。

父韻及び時置師の項目を参照。