まぐわい。間の食い合い。

まぐわい。間の食い合い。

≪1。まぐわい。間の食い合い。≫

父韻がまだ分からないのでまた繰り返します。

頭で考えている限り分かる訳ないよって言われていますので、ボヤーッとしたところや、閃いたところなどを取り入れてやってみます。

------------------------

【 ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。】

【「汝(な)が身はいかに成れる」】

これを言い換えます。「汝が身は」ですから、相手の身によって、【身】の中身が変わります。

(注。汝・相手というのは自分の外の相手側実体のことではなく、自分の心の中の汝・相手の事です。伊耶那美の神といっても自分の心の中で立てられた伊耶那美を汝・相手としています。外在する相手のことではありません。しつこいくらいの注。)

う)君の身体はどうなっているの、

お)哲学的な話題にすれば今現在という時間は如何に造られてるかとか、

あ)感情の上からなら降り注ぐ陽光の恵みはどこから来たのだろうかとか、

え)明日私は進路を決めなくてはならない如何にするか、

等々になることでしょう。

ギは相手の身に関してはその世界をいろいろ問うことが出来ますが、本人の成すところは「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」という先天の依頼を現そうと【国土(くに)生みなさむ】【と思ふはいかに】と同意を求めることです。

それを相手の次元に当てはめれば、

う)君の身体はどうなっているのには、身体(国)の成り立ちを現し、

お)哲学的な話題にすれば今現在という時間は如何に造られてるかには、今という時間論(国)になり、

あ)感情の上からなら降り注ぐ陽光の恵みはどこから来たのだろうかとかには、その情感や宗教、芸術感情(国)を白状し、

え)明日私は進路を決めなくてはならない如何にするかには、選択決定(国)を示すことなどが、

国土を生みなさむことの「身」を現すになるでしょう。

その方法はというと、【この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、】になります。

そこで、う、お、あ、えの各次元での刺し塞ぎを示さねばなりません。ここで使用されているのは「刺し塞ぎ」ですが、これだけが全てではありません。ミ側に全世界の次元構造があるように、ギ側にも如何にするかの多様な構造があります。

それが≪誘う≫という原理的な韻律をベースとしてギの雰囲気に載せれていかねばなりません。

う)では、君の身体はどうなっているのには、身体(国)の成り立ちを刺し塞ぎで現し、

お)では、哲学的な話題にすれば今現在という時間は如何に造られてるかには、今という時間論(国)の成り立ちを刺し塞ぎで現し、

あ)では、感情の上からなら降り注ぐ陽光の恵みはどこから来たのだろうかとかには、その情感や宗教、芸術感情(国)の成り立ちを刺し塞ぎで現し、

え)では、明日私は進路を決めなくてはならない如何にするかには、選択決定(国)の成り立ちを刺し塞ぎで現し、

等々となります。

【「刺し塞ぎ」】は放っておけばただ湧き出るだけの温泉水を導き利用するのに小型の蛇口で家庭用にするか、大型の排水口にして風呂屋に供給するか、岩で囲って露天風呂にするか、小便小僧を造って噴水にするか、等々の「刺し塞ぎ」となります。

ミの命の方は成りっ放しなのに、ギの命の方は「成り成りて、成り余れるところ一処あり」で、「かみむすびの神」に対する「た・かみむすびの神」と同じ関係です。

言葉で言えば、母音「i」にたいする父韻の「チ・Ti = T+i」に同じで、眼を開けたときに見る、まぶた+見る眼と見られたもの、臭いを嗅ぐときの、鼻の嗅覚+臭いを嗅ぐ鼻と臭いを嗅がれたもの、の関係と同じでしょう。

そこで精神・心の世界ではどうなるかです。

物の世界では物の作用反作用を物によって、その力を利用して形を変えて消費、現象化していきますが、心の中でも同様な力動因が必要です。

その力動因の運用によって作用を加えないと「刺し塞ぎ」切れない「成り成り」の世界が続きます。心の世界にも蛇口や小便小僧のような刺し塞ぐものがないと、ものを示すのに「あーあーあ、エーエーエーッ」となるだけです。

心の世界は、【「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、】という吾(わたし)の眼が付いて地に成る、あ・め・つ・ちから始まります。

相手の【身】を意識したとたんに、頭脳内に意識された【身】と意識している【身】とが発生します。ここでは単に相手の存在があるというだけで具体的になっているのではありません。

そこでその存在を示すのに、指し示すことがそのまま相手の実相を言い当てるような示し方と、外から説明を加えたり約束事として納得し合うやり方があります。

約束事で示す場合には増えれば増えたで、減れば減ったでその都度内容を変えて行けばいいのです。その反面事の実相はいつまでも現れずに、その廻りを廻ってああだこうだと言い合うことになります。実体を見てその特徴性格を調べ分析整理していくことになるでしょう。

一方内容と表現が一体となり一致して、表現される相手の中から言葉が出てくる時には、言葉とその内容、相手の姿とその実体実相が一致していることでしょう。一挙に見識が与えられ、読み切ったというような全体が得られます。

【「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。】

ミの「成り成りて、成り合わぬところ」の「成り成りて」はそれ自体があり続ける「成り合わぬところ」です。先天の実在といってもいいでしょう。ミは見られる側として頭脳内に定立させられましたが、何であるかの個別的な規定はされていません。無言無音の色即是空、空即是色といっていいでしょう。

一方、

【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。】

の、ギの「成り成りて」は見る側にあって能動側でうずうずしている色不異空、空不異色でしょう。こんな言い方では何を言っているのか分かりません。ギの場合の「成り成り」はミの先天の≪実在≫とは違って、先天の実在の≪働き≫です。

つまり同じものの、≪実在側と働き側≫です。ギとミの命は男女神で陰陽裏表の関係のように見えます。しかし、各実体には既に、裏表陰陽がありますから、男女神を陰陽裏表とすることはできません。そうしたいときには男女神がある一つのこと統一されたものの裏表なるような場合です。

この段落では、ミの成り成りは一般的でどれということの出来ない成り成りで、対象として広すぎ大きすぎて成り合わぬものですが、ギの成り成りは能動側の意図を持たされた成り成りで、能動という個別的な働きが一つ余計にあります。

ですので、ギの「成り成りて」の働きがミの「成り成りて」の実体に共通なのではなく、ギの働きの内容である成り余った所がミの「成り成りて」と共通なのです。ギの意図する働く内容となっているものが、ミの成り成りと同じということです。

ギの側には能動という意図を持った働きがあり、それは同時に能動の働きに拠って範囲を決められ限定されていきます。その限定されたものが「成り余れるところ一処」となり、これがミの「成り合わぬ処」のどこかで一致しなければなりません。

ですのでここでのギ・ミの命を一枚のメダルの陰陽、裏表とすることはできません。

ミは対象となっている実体側一般的で、ギは実体を持っている働きで意図を持って個別的です。

ギは実体を持っている働きとは言っても、働きの現れは実体においてです。ですので、ギは能動意図の中に実体となるものがあるといっても、自らを表現するには客体側に自分と同じものを必要とします。

ギの能動意図の中にある実体と似たもの真似たものを探し求めて同意を求めるというわけです。そしてここではどうしても、真似たものでなくては自分として表出できません。フトマニのマニは真似て似せることで、その語源の由来となっています。

≪2。まぐわい。間の食い合い。≫

なおもしつこく繰り返し。

事の始まりは、あ・め・つ・ち、吾(あ)の眼(め)が付(つ)いて地(ち)に成るところからです。

君の身体はどう造られているの、という吾の眼が発生してしまったところからです。

「汝(な)が身はいかに成れる」

【身】は≪実≫で君の内容はどうやって造られてきたかというわけです。

身・実は世界の次元層として様々です。

う次元なら、腹減ったなとか、

お次元なら、何故腹が減ったのかなとか、

あ次元なら、空きっ腹を抱えた虚しさを得るとか、

え次元なら、さて空きっ腹をどうしてくれようとか、

などの吾の眼、吾の意図が出てきています。

吾の眼の統合的なあらわれ方が、吾の眼が付いて地に成る先の相手に問う形で、「汝(な)が身はいかに成れる」です。

ですので相手の身体として見る時は(自分の中での相手のこと)、

う次元なら、五感感覚の対象として欲望を覚えるとか、五感の欲望、

お次元なら、知識興味関心の対象として疑問になるとか、経験知識概念、

あ次元なら、美的に芸術的に感情的に対象となるとか、感情、

え次元なら、身体機能、重量、体格の選択、使用法とか、選択按配、

のような違いが吾の眼として出てくるでしょう。

それらの元をただせば同じ一つのもので現象表現が変わってくるだけのもので、その中のどか一つが後々に、誰かさんの意見になり、私の主張なりになっていきます。ですので誰がどのような主張をしようとたかが知れたものです。世界宇宙にまでは届きません。

ウオアエの次元世界も元の同じものが拡がったもので、各自の意識の中で固定化されていくものです。元の一つのものが四つに分かれるのは原理的なことですから、何にでも適応できます。

身、実、身体に関しては上記にありますが、例えば、今現在とは何かというような時間論存在論問題でもおなじことです。

しかし例えば、今とは何か、今に生きるとは、今を掴むとか、お気に入りで表現されていきますが、心の原理(古事記の原理=神(心)道の原理)として把握されることは稀です。

今とは存在しない、何故なら今と言ってる今がもう過去だから

今とは過去にも未来にも干渉できる特異点

過去と未来との境になる時

光速より速い速度で過ぎていくので捕まえることはできない瞬間

等々、無数の答えが用意されています。

大抵の答えは「汝(な)が身はいかに成れる」かという実在実体と働き動きをごちゃ混ぜにしたところからのものです。

瞬間といってもそんなものは相対的なもので瞬間の瞬間、宇宙時間での何万年単位の瞬間まで切り口によって変化しますので、大抵は思いつきアイデアが気に入るかどうかでの評価になります。

最愛の人を、子を失った恋人や母親は何年経とうとその瞬間を生きていきます。過去を引きづっているのではなく吾の眼が付いて地に成るときの時間、人が生きていく時間は時計で示される時間とは違います。しかしこのような個別的な気付きをづらづら並べて捕らわれいても、原理の了解にまで至りません。

この場合では、「汝(な)が≪身・今≫はいかに成れる」かになりますから、

う次元なら、五感感覚の対象として知覚していく≪今≫とか、

お次元なら、知識興味関心の対象として疑問になる≪今≫とか、

あ次元なら、美的に芸術的に感情的に対象となる≪今≫とか、

え次元なら、身体機能、重量、体格の選択、使用法となる≪今≫とか、

≪今≫はそれぞれの次元層に分かれます。

う) 五感感覚の欲望獲得のう次元なら、今現在に欲望を得ることが特徴で、≪今≫を対象とする時には、それが反映されて、≪今=今≫の獲得となります。今どうしても欲しい頂戴の世界です。

お) 知識興味関心のお次元なら、過去知識概念要するに記憶から呼び覚まされる知識を得ることが特徴で、≪今≫対象とするときには、それが反映されて、≪過去=今≫の疑問や知識になります。過去知識や過去概念を求めて探し回り、温故知新などと言っても決して新しいことを造ることはありません。

あ) 芸術的宗教的な感情のあ次元なら、鳥瞰された全体的を得ることが特徴で、≪今≫を対象とするときには、それが反映されて、≪今=全体≫の個別性に捕らわれない総体的な抽象的な言葉がもたらせられます。全体的な了解しか無いので個々の現実には無力であり、将来の努力目標としてしか提示できません。

え) 選択、使用法え次元なら、按配配分を決める智慧の獲得が特徴で、≪今≫を対象とするときには、それが反映されて、≪今=未来≫の方向性を決めていくことになります。ここにきてようやく未来を据えますが、将来に向かう原理原則の運用を知りません。

「今」「現在」の解説はこの四つのどれかを受け入れたりくっつけたりして多くが出来上がっていきますが、吾(私)の眼が付くという主体側の条件がしばしば等閑にふされてしまいます。

意識世界の「今」は実は四つの次元層になっていました。

今というと瞬間は一つのように見えましたが重層的な構造を持っていました。「今」についてもう少し探ってみます。

今・イ間・イの間についてです。

この間がまぐわいの間の食い合いとなっていきます。

≪3。まぐわい。間の食い合い。父韻。≫

私の下手な解説説明などではなく、きちっとしたものを引用します。

http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/lecture/no165/no165.htm

私も含め、皆が理解できるように祈りたい気持ちです。

以下全部引用。

【 次に成りませる神の名は、

宇比地邇(うひぢに)の神。次に妹須比智邇(いもすひぢに)の神。

次に角杙(つのぐひ)の神。次に妹活杙(いくぐひ)の神。

次に意富斗能地(おほとのぢ)の神。次に妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。

次に於母陀流(おもだる)の神。次に妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。】

右の文章に出て来ます八神の名はすべて言霊父韻を指し示す神名であります。古事記の初めから今までに現われ出ました神、天の御中主の神(言霊ウ)より豊雲野の神(言霊ヱ)までは言霊母音、半母音を示す神名でありました。

母音・半母音の宇宙は共に大自然実在であり、それが人間社会の営みの原動力となるものではありません。高御産巣日の神(ア)と神産巣日の神(ワ)が噛み結ぶと言いましても、またアが主体、ワが客体と言いましても、そのアである主体そのものが客体に向かって働きかけを起こすことはありません。

実際に主体と客体とを結び、人間社会の中に現象を生じさせるものは大自然宇宙そのものではなく、飽くまで人間でなくてはなりません。そうでなければ、人間自体の創造行為というものはなくなり、創造の自由もない事になり、人間は宇宙の中の単なる自然物となってしまいます。人間という種が万物の霊長といわれ、神の子といわれる所以は、人間が自らの意志によって社会の中の文明創造の営みを行う事によります。

言霊母音・半母音を結び、感応同交を起こさせる原動力となる人間の根本智性とも言うべき性能、それが此処に説明を始める言霊八父韻であります。

この言霊の学の父韻に関して昔、中国の易経で乾兌離震巽坎艮坤〈けんだりしんそんかんごんこん〉(八卦)と謂い、仏教で石橋と呼び、旧約聖書に「神と人との間の契約の虹」とあり、また新約聖書に「天に在ます父なる神の名」と信仰形式で述べておりますが、これ等すべての表現は比喩・表徴・概念であって実際のものではありませんでした。言霊学が完全に復活しました現在、初めて人間の文明創造の根源性能の智性が姿を明らかに現した事になるのであります。

これより説明いたします言霊八父韻は、言霊母音の主体と、言霊半母音の客体とを結び、現象の一切を創造する原動力となる人間の根本智性であり、人の心の最奥で閃めく智性の火花であり、生命自体のリズムと言ったものであります。

その父韻を示す八つの神名の中で、一つ置きに「妹」の字が附せられています。それで分りますように八つの父韻は妹背、陰陽、作用・反作用の二つ一組計四組の智性から成っています。当会発行の言霊学の書「古事記と言霊」で八つの父韻について個々に詳細な説明があります。そこでこの会報では個々の父韻の説明の要点のみをお話申上げることといたします。

--------------------------

宇比地邇(うひぢに)の神。妹須比智邇(いもすひぢに)の神。

言霊チ、イ。上の言霊イは母音のイではなく、ヤイユエヨの行のイであります。言霊チを示す神名、宇比地邇の神は「宇は地に比べて邇(ちか)し」と読めます。宇とは宇宙、いえ等の意味があります。人間の心の家は宇宙です。言霊アの自覚によって見る時、人の心の本体は宇宙であると明らかに分ります。するとこの神名は人の心の本体である宇宙は地と比べて近い、と読めます。即ち心の本体である宇宙と地と同じ、の意となります。宇宙は先天の構造、地とは現象として現われた姿と受取ることが出来ます。そこで宇比地邇の神とは心の宇宙がそのまま現象として姿を現す動き、となります。

太刀を上段に振りかぶり、敵に向かって「振り下ろす剣の下は地獄なり、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と、まっしぐらに突進する時の気持と言えばお分り頂けるでありましょうか。結果は運を天にまかせ、全身全霊で事に当る瞬間の気持、この心の原動力を言霊チの父韻と言います。それに対し言霊イの父韻は、瞬間的に身を捨て全身全霊で事に当ろうと飛び込んだ後は、その無我の気持の持続となり、その無我の中に自らの日頃培った智恵・力量が自然に発揮されます。須比智邇とは「須(すべからく)智に比べて邇かるべし」と読まれ、一度決意して身を捨てて飛び込んだ後は、その身を捨てた無我の境地が持続し、その人の人格とは日頃の練習の智恵そのものとなって働く、と言った意味を持つでありましょう。

以上の事から言霊父韻チとは「人格宇宙全体がそのまま現象として姿を現わす端緒の力動韻」であり、父韻イとは「父韻チの瞬間力動がそのまま持続して行く力動韻」という事が出来ましょう。ここに力動韻と書きましたのは、心の奥の奥、先天構造の中で、現象を生む人間生命の根本智性の火花がピカっと光る閃光の如き動きの意であります。

---------------------------

角杙(つのぐひ)の神。妹活杙(いくぐひ)の神。

言霊キ、ミ。昔、神話や宗教書では人間が生来授かっている天与の判断力の事を剣、杖とか、または柱、杙などの器物で表徴しました。角杙・活杙の杙も同様です。言霊キの韻は掻き繰る動作を示します。何を掻き繰る(かきくる)か、と言うと、自らの精神宇宙の中にあるもの(経験知、記憶等)を自分の手許に引寄せる力動韻のことです。これと作用・反作用の関係にある父韻ミは自らの精神宇宙内にあるものに結び附こうとする力動韻という事が出来ます。

人は何かを見た時、それが何であるかを確かめようとして過去に経験した同じように見える物に瞬間的に思いを馳せます。この動きの力動韻が父韻ミです。またその見たものが他人の行為であり、その行為を批判しようとする場合、自分が先に経験し、しかもそういう行為は為すべきではないと思った事が瞬間的に自分の心を占領して、相手を非難してしまう事が往々にして起ります。心に留めてあったものが自分の冷静な判断を飛び越して非難の言葉を口走ってしまう事もあります。これは無意識にその経験知を掻き繰って心の中心に入り込まれた例であります。

人は世の中で生きて行く時、この父韻キミの働きを最もしばしば経験します。そしてこの働きは最も容易に認識する事が出来るのではないでしょうか。

------------------------

意富斗能地(おほとのぢ)の神。妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。

言霊シ、リ。父韻を示す神名の中でこの父韻シ・リの神名からその父韻の内容を理解することはほとんど不可能に近いと思われます。意富斗能地は大きな斗(はかり)の働きの地と読めます。物事を判断し、識別する大いなる能力の地という訳です。人はある出来事に出合い、その事を判断・識別する事が出来ず迷う事があります。あゝでもない、こうでもないと迷いながら、次第に考えが心の中でまとめられて行きます。そして最後に迷いながら経験した理が中心に整理された形で静止し、蓄積されます。蓄積される所が心の大地という訳です。この働きから学問の帰納法が生れて来るでありましょう。

大斗乃弁とは大いなる計りの弁(わき)まえと読めます。意富斗能地と作用・反作用の関係にある事から、心の中にある理論から外に向かって発展的に飛躍していく働きと考えられます。父韻リはラリルレロの音がすべて渦巻状、螺旋状に発展していく姿を表わしますから、父韻リとは心の中の理論が新しい分野に向かって螺旋状に発展し、広がって行く働きであることが分ります。この様な動きの理論の働きは演繹法と呼ばれます。学問ではなくとも、多くの物事の観察から人の心の中に一つの結論がまとまっていく過程、また反対にひとつの物事の理解から思いが多くの事柄に向かって連想的に発展して行く事、その様な場合にこの父韻シ、リの存在が確かめられます。

-----------------------------

於母陀流(おもたる)の神。妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。

言霊ヒ、ニ。於母陀流の流の字に琉(る)を当てた本がありますが、言霊的意味に変わりはありません。於母陀流の神を日本書紀には面足尊(おもたるのみこと)と書いており、その意味・内容は更に明らかとなります。ハヒフヘホの音は主として人の言葉に関する音であります。

面足とは心の表面に物事の内容表現が明らかに表わされる力動韻という事が出来ます。私も時に経験することですが、何かの集会で突然一人の人から「久しぶりにお会いしました。御無沙汰していて申訳御座いません。あの節はお世話になりました」などと親しげに挨拶されます。余りに親しげであり、突然の事とて、戸惑い、いい加減な挨拶を返してそのまま別れてしまう事があります。別れた後で「確かに何処かでお会いした事があるように思えるが、さて何方(どなた)だったかな」と仲々名前を思い出せません。二、三日経って、散歩な心に懸っている間に、次第に心の奥で思い出そうとする努力が煮つまって行き、以前に会った時が何処か、何時か、どんな時か等の事が焦点を結び始め、終に心の一点に過去の経験がはっきり一つの姿に沈黙の内に煮つめられた時、その瞬間、意識上に「あゝ、あの時の木下さん……」と言葉の表現となって花咲いた訳であります。かくの如く心の表面にはっきり表現として現われる時には、心の奥で過去のイメージが実を結んでいる、という事になります。この心の奥に一つの事の原因となるものが煮つめられて行く力動韻、これが父韻ニであります。

--------------------------

≪4。まぐわい。間の食い合い。ギミの神。1。≫

私の下手な解説説明などではなく、きちっとしたものを引用します。

http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/lecture/no165/no165.htm

以下全部引用。

以上、妹背四組、八つの父韻チイ、キミ、シリ、ヒニについて簡単に説明をいたしました。お分かり頂けたでありましょうか。古事記の神名はすべて言霊の学問に関して禅で謂う所の指月の指だと申しました。「あれがお月様だよ」と指差す指という事です。ですから指差している指をいくら凝視しても、それだけでは何も出て来ません。指が指差すその先を見ることが肝腎です。今までお話して来ました父韻についての説明も矢張り「指月の指」であることに違いはありません。読者におかれましても、この説明にあります力動韻を自分御自身の心の奥に直観されますようお願い申上げます。

父韻のお話に添えてもう一つ御注意を申上げておきます。「父韻の説明を読んで自分の心を探ってみるのだが、八つの父韻がどんなものなのか、実際に心の中に起る何が父韻なのか、どうも分かりません」と言われる方が時々いらっしゃいます。どうしたら父韻の働きが分かるのか、一つのヒントを申し上げようと思います。チイキミシリヒニの八つの父韻がアオウエの四母音に働きかけて、言い換えますと、八つの父韻が母音と半母音四対を結ぶ天の浮橋となって三十二の子音言霊を生みます。この子音言霊のことを実相の単位を表わす音と言います。父韻は母音(半母音)に働きかけて物事の実相の単位である子音言霊を生みます。その子音が生れる瞬間に於いて、その子音誕生の原動力となる父韻の動きを誕生の奥に直観することが出来ます。でありますから物事の実相を見ることが出来るよう自分自身の心の判断力を整理しておく事が必要なのです。心の整理とは心の中に集められた経験知識を整理して、少しでも生れたばかりの幼児の如き心に立ち返って物事の空相と実相を知る事が出来る立場に立つ事であります。その時、実相を見る瞬間に、その実相誕生の縁の下の力持ちの役目を果たす八つの父韻の力動韻を直観することはそんなに難しい事ではありません。

ここまでの説明で心の先天構造を構成する十七言霊の中の十五の言霊が登場しました。言霊母音と半母音ウアワオヲエヱ七音、言霊父韻チイキミシリヒニ八音、合計十五音となります。そこで最後に残りました言霊イ・ヰ即ち伊耶那岐・伊耶那美二神の登場となります。その説明に入ることとしましょう。

-------------------------

---------------------------------------------

伊耶那岐(いざなぎ)の神。伊耶那美(み)の神。

言霊イ、ヰ。先天構造を構成する十七の言霊の中の十五言霊が現われ、最後に伊耶那岐(言霊イ)と伊耶那美(言霊ヰ)の二神・二言霊が「いざ」と立上り、子音創生という創造活動が始まります。言霊イ・ヰが活動して初めて先天十七言霊の活動が開始されます。この様に言霊イ(ヰ)は一切の創造活動の元となる言霊であります。

「大風が吹くと桶屋が儲かる」という話があります。一つの原因があると結果が現われる。その結果が原因となって次の結果が出て来る。……かくして因果は廻って果てしなく話は続くという事になります。言霊ウの宇宙から社会の産業経済活動が現われます。言霊オの宇宙から学問という分野の活動が起ります。……では何故ウ言霊から産業経済活動が起るのか。……それは人間の根本智性である八つの父韻が母音言霊ウに働きかける事によって現象を生むからです。……では何故八つの父韻は言霊母音に働きかける事が出来るのか。話は何処まで行っても尽きないように見えます。この次々に考えられる原因・結果の話に「止(とどめ)」を刺すのが伊耶那岐・伊耶那美二神の言霊イ・ヰであります。言霊イ・ヰは大自然宇宙を含めた人間生命の創造意志と呼ばれる一切の原動力であり、伊耶那岐・美の二神は宗教で創造主神または造物主と呼ばれているものに当ります。

現代では使われなくなりましたが、昔「去来」と書いて「こころ」と読み、また「いざ」とも読みました。伊耶那岐は心の名の気の意であり、伊耶那美は心の名の身という意味となります。心の名とは言霊の事です。そこで生命創造意志である言霊イ、ヰの意義・内容を次の三ヶ条にまとめて書いてみましょう。詳しい説明は次号に譲ります。(図参照)

一、四言霊アエオウの縁の下の力持ちとなって、これ等言霊を支え統轄します。

二、人間の根本智性であるチイキミシリヒニの八父韻に展開して、四母音に働きかけ、人間の精神現象の一切を創造します。

三、生み出された現象に言霊原理に則った相応しい名前を付ける根本原理となります。

言霊イ・ヰは母音・半母音であり、同時に父韻となるものでありますので、特に親音と呼びます。

先月号会報の終わりに伊耶那岐・美二神、言霊イ・ヰの内容とその働きを三ヶ条にまとめて書きました。これより説明して行きます。

一、言霊イは他の四母音言霊エアオウの縁の下の力持ちの如くこれ等言霊を支え、統轄します。

母音エアオウの精神宇宙からはそれぞれに特有の精神現象が生れます。次元ウの宇宙からは五官感覚に基づく欲望性能が、次元オからは経験知識という所謂学問性能が、次元アの宇宙からは感情性能が、そして次元エの宇宙からは実践智という人間性能が生まれます。これら現われ出た人間性能の現象は言霊ウの欲望現象より社会的に産業・経済活動、言霊オより一般に学問・物質科学が、言霊アより感情、引いては宗教・芸術活動が、言霊エより実践智、またこれより政治・道徳活動が現われます。しかし言霊イの創造意志の宇宙からは現実世界に現われる何らの現象もありません。

けれど今、此処で活動する人間の心をよくよく観察しますと、言霊ウオアエよりの現象の底に、それらの現象を縁の下の力持ちという言葉の如く下支えしている生命創造意志言霊イの力があることに気付きます。言霊ウの五官感覚に基づく欲望性能が現われるのも、その底に言霊イの生命創造意志が働くからです。言霊オの記憶を想起してその現象の法則探究即ち好奇心が起るのも、その底に生命の創造意志が動くからであり、言霊アの感情性能が現われるのも創造意志あっての事であり、更に言霊エの実践智性能も創造意志が動いて初めて発現して来ます。このように言霊ウオアエから起る諸現象はすべてそれぞれの母音宇宙の底に言霊イの生命創造意志の力が働く事によって発現して来る事が分ります。言霊イは右に示しますように言霊ウオアエを縁の下の力持ちの如く下支えし、統轄します。

第二ヶ条の説明に入ります。それは「言霊イは人間の根本智性であるチイキミシリヒニの八父韻に展開して、四母音宇宙ウオアエに働きかけ、これ等四次元からそれぞれ八つの現象の単位を、即ち全部で計三十二の実相の単位を創生する」ということです。この第二ヶ条は第一条の「言霊イが他の四母音ウオアエを下支えし、統轄する」という事を更に詳細に説明し、その上で母音と半母音であるウとウ、オとヲ、アとワ、エとヱの宇宙の間に入ってその両者を結び、それぞれの次元の現象の単位を誕生させる(言霊イの働きである)八つの父韻チイキミシリヒニなる人間天与の根本の智恵をクローズ・アップさせる説明となります。言葉がやゝ難しくなりましたが、平たく述べますと、「人間はどの様にして外界の出来事を、それが現象として認識することが出来るのか」という人類の認識論という学問が始まって以来数千年間、いまだかって完全な解明がなされていない大問題に最終的な解答を与える素晴らしい事柄を提示したものなのです。こう申上げても何の事だかお分かり頂けないかも知れません。順次説明して参ります。

向うのお寺の鐘の音が「ゴーン」と鳴りました。何故人の耳に「ゴーン」と聞こえたのでしょうか。「そんな当り前の事を言って何になる。お寺の鐘を坊さんが撞いて音が出た。その音を人が耳の聴力で聞いたのだ」と言って納得してしまう事でしょう。けれどそう簡単に片付けてしまえない事があるのです。棒で撞かれた鐘は果たして初めから「ゴーン」という音を鳴らしているのでしょうか。撞かれた鐘は振動して、その振動による音波を出します。鐘はただ無音の音波を出しているだけなのです。そしてその音波が人の耳元に達したとき、人は「ゴーン」という音を聞く事となります。この経緯を合理的に説明するにはどうしたらよいのでしょうか。そこに言霊学独特の八父韻が登場します。

人がいます。向うに鐘があります。鐘が鳴ったとしても、人がいなければ鐘がなったかどうか分りません。逆に人がいたとします。けれど鐘が鳴らなかったら、人はその音を聞く事はありません。どちらの場合も主体と客体の関係となることはない訳です。鐘が鳴り、その音を人が聞いた時、聞いた人が主体(言霊ア)、聞かれた鐘が客体(言霊ワ)の関係が成立します。けれど主体であるアと客体であるワは母音と半母音であり、「身を隠したまひき」であり、その双方共に相手に働きかける事はあり得ません。双方だけではその間に現象は起らない事になります。

「人が鐘の音を聞いた」という現象が生じるのは、主体アと客体ワの他に、根源的な宇宙生命の創造意志である言霊イ(ヰ)の実際の働きをする人間の根本智性である八つの父韻の為す業なのです。八つの父韻が主体と客体を結んで現象を起こす事となります。

では八つの父韻はどんな形式で主体と客体を結びつけるのでしょうか。主体と客体が結び付く時、能動的なのは主体であり、先ず主体側から客体に向かって問いかけをし、客体側は主体の呼びかけにのみ答えます。この事を父韻の働きではどういう事になるのでしょうか。八つの父韻チイキミシリヒニは作用・反作用の関係にあるチイ・キミ・シリ・ヒニの四組から成ります。この四組の中で、濁音が附けられる音チキシヒが主体側の父韻であり、濁点が附けられないイミリニの父韻が主体側よりの呼びかけに答えるものです。主体と客体だけでは決して現象は起りませんが、その間に八父韻が入り、両者を仲介し結びますと、主体と客体の間に現象が生れます。その時、主体と客体の間に入る八父韻の中で、主体側の客体側への問いかけの働きとなるのはチキシヒの四父韻であり、その問いかけに答えるのが客体側のイミリニの四父韻という事になります。主体側の問いかけである父韻チには客体側のイが、父韻キにはミが、父韻シにはリが、そして父韻ヒにはニが答える事となり、その答える時現象が生れます。このチに対してイ、キに対してミ、シに対してリ、ヒに対してニが反応し、答えること、それを主体と客体のリズムの感応同交というのであります。

先に言霊父韻の説明の所で、八つの父韻が四つの母音に働きかけて計三十二の子音言霊を生むと申しました。また主体と客体のみでは現象は起らないが、主体と客体との間に八つの父韻が入り、主体と客体とを結ぶ時、三十二の現象の単位である子音を生むと申しました。その子音を生むメカニズムを、八つの父韻の陰陽の二つの働きに分けて更に詳細に正確に説明した事になります。お分かりいただけたでありましょうか。

≪5。まぐわい。間の食い合い。ギミの神。2。≫

私の下手な解説説明などではなく、きちっとしたものを引用します。

http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/lecture/no165/no165.htm

以下全部引用。

上の説明を更に整理してみましょう。人間の心にはそのそれぞれより現象が生れるウオアエの四母音の次元があります。言霊イの次元は、それ自体からは現象を生むことのない縁の下の力持ちの次元です。ウオアエの四次元はそれぞれウヲワヱの四つの半母音宇宙と主体と客体の関係にあります。このウ―ウ、オ―ヲ、ア―ワ、エ―ヱの四対の主客対立の間にチイキミシリヒニの八父韻が、言い換えますと、主体側のウオアエにチキシヒの四父韻が働きかけ、客体側のウヲワヱにイミリニの四父韻が寄って行き、そこにチイ、キミ、シリ、ヒニの陰陽のリズムが作用・反作用の感応同交を起す時、初めて次元ウオアエの四界層に現象が起る事となるのであります(図参照)。この事を言霊イ・ヰを観点として簡単にまとめて見ますと、図の如き構造が完成します。人間の生活一切の営みは、次元ウ―ウ、オ―ヲ、ア―ワ、エ―ヱの主客の感応同交による四次元界層の現象でありますが、同時にそれは創造主神と呼ばれ、造物主と宗教界で崇められる人間生命意志(言霊イ・ヰ)の根本活動である言霊父韻の働きに依るのである、という事であります。人間の一挙手・一投足の動きはその奥にこの様な大きな内容を秘めているという事を忘れてはなりません。

人が鐘の音を聞く、という現象に加えて、もう一つ例を挙げてみましょう。人がいます。向うに青い葉の茂った高い木があります。普通の常識から言えば、木があり、それを人間の眼の視覚が捉えたという事になります。この簡単な事も心の根本構造である言霊学の見地からすれば、人それ自身は純粋な主体であり、樹それ自体は純粋な客体であり、この両方だけでは両者の間に現象は起り得ません。そこに人間の精神生命の根本の創造意志(言霊イ・ヰ)が働き、両者間を取り持つ時、初めて現象が起ります。ここまでは前例の人と鐘との場合と同じです。この現象を更に細かく説明しましょう。人と木との間に起る現象には四次元、四種類の可能性があります。

先ずウ次元の現象が考えられます。人間と木との間に考えられる現象としては、この木の高さは、また人と木との間の距離は、幹の直径は、……等々の問題です。即ち人間の五官感覚意識に基づく問題です。次にオ次元の現象と言えば、この木は学問的には何科に属する植物か、常緑樹か、落葉樹か、木材として利用の可能性の有無等々が考えられます。アの次元では、この木の写真の芸術的価値を出すのは朝焼け、昼間、夕暮のどれが効果的か、風にそよぐ枝の葉擦れの音の音楽的効果如何……等々でありましょう。そしてエ次元の問題としては、車の往来が激しくなり渋滞が起っている。この木を切り倒してでも道路を拡張すべきか、どうか、等が考えられます。

以上、人と木との間に起り得る現象は四種類が考えられるのですが、それ等四種類の現象は人間が生来授かっている性能がそれぞれ違っておりますから、人と木との間に入る人間の根本智性である八つの父韻の並びの順序も当然違って来る事が考えられます。言い換えますと、人間天与の四性能を示す四母音(ウ―ウ、オ―ヲ、ア―ワ、エ―ヱ)に対して、生命意志の働きである八父韻はそれぞれ相違する配列を以って対応、感応することとなります。これも言霊イ(創造意志)の霊妙な働きであります。

これまで伊耶那岐の神(言霊イ)の内容の第二について長く説明をして参りました。そろそろ言霊イの働きの第三点の話に入ることにしましょう。この第三点は「第二点の働きによって生み出された現象に、言霊原理に則り相応しい名前をつける」事であります。この第三点は誰も気付かない事で、しかも言われてみればいとも当然の事とも思われ、それでいて人間の生命の営みひいては人間の文明創造の仕事に大変重要な意義を持つもの、と言う事が出来ます。説明して参りましょう。

言霊イ(ヰ)は人間の生命創造意志の次元であります。創造と言いますと、現代人は普通言霊ウ次元の産業・経済活動に於けるビルや道路、飛行場、船舶などの建設、建造を、または言霊オ次元の学問社会に於ける新学説の発見・発表などを思い出すのではないかと思います。更にまた言霊ア次元に於ける諸種の芸術活動、音楽・絵画・彫刻・小説等々の創造、その他各種スポーツの振興等も同様でありましょう。また言霊エ次元に於ける新しい道徳理念の発表、政治倫理の発見等も創造行為と言う事が出来ます。

上に羅列いたしました各次元の活動・行為がすべて社会の中の創造である事に間違いはありません。この誰も疑いを差し挟むことがない事実であることが、若し「○○がなかったとしたら」という前提を許すとすると、それ等すべての創造行為が一辺に「無」に帰してしまうという、その様な前提がある事にお気づきになる方は極めて少ないのではないでしょうか。

「そんな魔術のようなものがこの世の中にある筈がない」と思われるでしょう。けれど極めて真面目な話、それは厳然と存在するのです。それは何か、「名前」です。貧しい家庭の中でも、今ではエアコン、テレビ、携帯、パソコンなどの科学製品は当り前のように見られる世の中となりました。その内部の機械構造は分らなくても、大方の人は操作が出来ます。けれどこれ等の電化製品が発明された時、若しそれに名前が付かなかったらどうなったでしょうか。「テレビジョン」という名前が付けられなかったら、ただ人は「アー、アー」というだけで、テレビの普及どころか、それは世の中に存在しないのと同じで終ってしまうのではないでしょうか。

「何を言い出すかと思ったら、そんな途方もない事を。名が付かないなんて事はある筈がない」と言われるかも知れません。発明されれば、その物品に名前は付けられるでしょう。でも若し付けられないとしたら。……SF小説のような恐ろしい世界が予想されもするのではないでしょうか。

物品に対してではなく、この世に生を受けた人間に名が付けられなかったら、どうなるでしょうか。その人には戸籍がありません。国籍もありません。小学校にも入れません。就職も出来ません。正式な結婚も絶望です。その人の一生は奇想天外なものになるでしょう。「そんな有りもしない事を何故言うのだ」とお叱りを受けるかも知れません。けれど私はそういう自分の名前を持っていない人を一人知っています。先の大戦に出征し、軍隊の仲間は全部戦死し、自分だけ一人日本に帰って来た時は、自分を知っている人はすべて死んでおり、自分の名前も戦死という事で抹殺されて、法務省へ再三の戸籍復活の請求にも「事実を証明する人なし」という理由で却下され、苦悩の中から余生の五十年間を今も尚生きている人を一人知っています。その人がどのような人生を歩まれて来たか、聞く人がいたら多分開いた口が塞がらない事でしょう。

名前がなかったら、という仮定の事について長々とお話しました。人でも物でも、その名前というものは、私達が普段思っているより遥かに重大な事を含んでいるのです。二十世紀のヨーロッパの有名な哲学者、ハイデッガー、ヤスパース等の人達は「物事の実体とは何か、それは名前だ」と言っています。新約聖書、ヨハネ伝の冒頭には「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。この言は太初に神と共に在り、万のものこれに由りて成り、成りたるものに一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あり、この生命は人の光なりき。……」と説かれています。

上のように物や人の実体であり、生命であり、光でもある名前を命名する根元的な役割、力、生命は何処から出るのでしょうか。それが言霊イ(ヰ)であり、言霊イの第三番目の重要な働きという事が出来ます。八つの父韻が四つの母音に働きかけて生れて来る種々の現象に、それに相応しい名前を与え、この人間社会の生々発展の基礎的役割を果たす事、それが言霊イの第三の内容であり、役目なのです。

---------------------------------------------

≪6。まぐわい。間の食い合い。ギミの神。3。≫

私の下手な解説説明などではなく、きちっとしたものを引用します。

http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/lecture/no165/no165.htm

以下全部引用。

言霊母音ウオアエの四次元から生れて来る種々なる建設、発見、発明、主張、学理、理念、これ等は勿論社会の創造物であります。そしてその様な社会の創造物相互の関連ある進展が文明社会の創造発展と言うべきでありましょう。と同時に、それら生み出された現象上の進歩・発展の創造物に名前をつけること、そしてその名前と名前の関連する精神的発展、これも人類文明の限りない発展の実体ということが出来るのであります。

人類社会に創造される物事につけられる名前自体の限りなき発展、それが人類文明の創造という事が出来ます。

以上で言霊イ(ヰ)の三つの言霊学的内容についての説明を終えることといたします。この三つの内容について復習をしますと、――

●第一に言霊イは母音ウオアエ四宇宙の最終・最奥の次元に位して、これら四つの母音宇宙の縁の下の力持ちとなって統轄します。

●第二に八つの父韻に展開して、母音ウオアエに働きかけ、三十二の現象子音を生みます。

●第三にその生まれ出た三十二の最小の現象の実相単位のそれぞれを一個乃至数個結び合わす事によって生まれ出る現象に名前を付けます。

広い広い心の宇宙の中に何かが始まろうとする兆し、言霊ウから次第に宇宙が剖判し、更に宇宙生命の創造意志という言霊イの実際の働きである八つの父韻が他の四母音宇宙に対する働きかけの話となり、心の先天構造を構成する十五の言霊が揃い、最後に母音であり、同時に父韻ともなる親音と呼ばれる言霊イ(ヰ)が「いざ」と立ち上がる事によって先天十七言霊が活動を開始することとなる人間精神の先天構造の説明が此処に完了した事になります。この十七言霊で構成される人間精神の先天構造を図示しますと次のようになります。この先天構造を古神道言霊学は天津磐境と呼びます。

この名前を説明しましょう。天津は「心の先天宇宙の」意です。磐境とは五葉坂の意、図を御覧になると分りますように先天図は一段目に言霊ウ、二段目にア・ワ、三段目にオエ・ヲヱ、四段目にチキシヒイミリニ、五段目にイ・ヰが並び、合計五段階になります。五葉坂とは五段階の言葉の界層の構造という意であります。

人はこの心の先天構造十七言霊の働きによって欲望を起こし、学問をし、感情を表わし、物事に対処して生活を営みます。人間何人といえども天与のこの先天構造に変わりはありません。国籍、民族、住居地、気候の如何に関らず、世界人類のこの心の先天構造に変わりはありません。この意味で世界人類一人々々の自由平等性に何らの差別はつけられません。人間は一人の例外もなく平等なのです。またこの意味に於いて人類を構成する国家・民族の間に基本的優劣は有り得ません。また人類がその「種」を保つ限り、この先天構造は永久に変わることはありません。この先天構造に基本的変化が起ることとなったら、その時は人間という「種」が人間とは違った異種に変わってしまう事となります。

ここまでの説明で心の先天構造を構成する十七言霊の中の十五の言霊が登場しました。言霊母音と半母音ウアワオヲエヱ七音、言霊父韻チイキミシリヒニ八音、合計十五音となります。そこで最後に残りました言霊イ・ヰ即ち伊耶那岐・伊耶那美二神の登場となります。その説明に入ることとしましょう。

この天津磐境と呼ばれる心の先天構造は人間の心の一切の現象を百パーセント合理的に説明する事が出来る唯一の原理であります。人類社会の後にも先にもこの原理に匹敵する、もしくはこれを凌駕する原理は出現し得ない究極の原理であります。古来伝わる宗教・哲学の書物の中にはこの天津磐境の原理を象徴・呪示するものがいくつか認められます。その一つ、二つについてお話をすることにします。

中国に古くから伝わる「易経」という哲学書があります。易の成立については「古来相伝えて、伏羲が始めて八卦を画し、文王が彖辞を作り、周公が爻辞を作り、孔子が十翼という解説書を作った」と言われています。その易経の中に太極図というのがあります(図参照)。太極図について注釈書に「易に太極あり、是、両儀を生ず。両儀、四象を生じ、四象は八卦を生じ、八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず」と説明しています。この太極図を天津磐境と比べてみて下さい。構造は全く同じように見えます。けれど磐境は物事の実在と現象の最小単位である言霊を内容とするのに対し、太極図は哲学的概念と数理(―は陽、--は陰)を以て示しているという明瞭な相違があります。この事から天津磐境が先に存在し、易経は磐境の概念的写しであり、易経は磐境の呪示・表徴であり、指月の指に当ることがお分かり頂けることと思います。

【大極図】

次に印度の釈迦に始まる仏教に於いて人間の精神の先天構造をどの様に説明しているかを見ましょう。

古くからあるお寺へ行き、普通二重(二階)の建築で、上の階の外壁が白色で円形、または六角形のお堂を御覧になられた方があると思います。これを仏教は多宝塔と呼びます。この多宝塔と、この塔と共に出現する多宝仏(如来)については、仏教のお経の中のお経と称えられる法華経の「妙法蓮華経見宝塔品第十一」という章の中で詳しく述べられています。その説く所を簡単にお話すると次の様になります。

法華経というお経は仏教がお経の王様と称える最も大事なお経でありまして、その説く内容は「仏所護念」と言って仏であれば如何なる仏も心にしっかり護持している大真理である摩尼宝珠の学を説くお経とされています。摩尼宝珠の摩尼とは古神道言霊学の麻邇即ち言霊の事であります。見宝塔品第十一の章ではお釈迦様がこの法華経(即ち摩尼)を説教なさる時には、お釈迦様の後方に多宝塔が姿を現わし、その多宝塔の中にいらっしゃる多宝如来が、多宝塔の構造原理に則ってお釈迦様の説教をお聞きになり、お釈迦様の説く所が正しい場合、多宝如来は「善哉、々々」と祝福の言葉を述べ、その説法の正しい事を証明するという事が書かれているのであります。

先にお話しましたように、天津磐境の精神の先天構造によって人間の心の営みの一切は実行・実現され、しかもその実現した一切の現象の成功・不成功、真偽、美醜、善悪等々はこの磐境の原理によって判定されます。同様に仏教の最奥の真理を説く釈迦仏の説法は、その後方に位置する多宝塔の多宝仏により、多宝塔の原理によってその真偽が判定され、その真は多宝仏の「善哉」なる讃辞によって証明されます。この様に多宝塔とは言霊学の天津磐境を仏説的に表現し、説述したものと言う事が出来るのであります。これに依って見ましても、言霊学に説かれる先天十七言霊にて構成される人間の心の先天構造、天津磐境は人類普遍の心の先天構造に関する究極の原理であることが理解されるでありましょう。

仏教の多宝塔の外壁が何故円形または六角形であるか、それは人間の心の先天構造は生れながらに与えられた大自然の法則だからであり、人為ならざる大自然の形状は普通円形で表示され、その数霊は「六」であるからであります。以上で「古事記と言霊」講座の精神の先天構造の章を終ります。

---------------------------------------------

引用のまとめ。

「言霊八父韻」

「言霊母音・半母音を結び、感応同交を起こさせる原動力となる人間の根本智性とも言うべき性能」

「言霊学が完全に復活しました現在、初めて人間の文明創造の根源性能の智性が姿を明らかに現した事になるのであります。」

「八つの父韻は妹背、陰陽、作用・反作用の二つ一組計四組の智性から成っています。」

「心の奥の奥、先天構造の中で、現象を生む人間生命の根本智性の火花がピカっと光る閃光の如き動き」

【宇比地邇(うひぢに)の神】。言霊チ。

「宇比地邇の神とは心の宇宙がそのまま現象として姿を現す動き、となります。」

【妹須比智邇(いもすひぢに)の神】。言霊イ。

「父韻チの瞬間力動がそのまま持続して行く力動韻」という事が出来ましょう。」

【角杙(つのぐひ)の神】。言霊キ。

「掻き繰る動作を示します。何を掻き繰る(かきくる)か、と言うと、自らの精神宇宙の中にあるもの(経験知、記憶等)を自分の手許に引寄せる力動韻のことです。」

【妹活杙(いくぐひ)の神】。言霊ミ。

「自らの精神宇宙内にあるものに結び附こうとする力動韻」

「人は何かを見た時、それが何であるかを確かめようとして過去に経験した同じように見える物に瞬間的に思いを馳せます。この動きの力動韻」

【意富斗能地(おほとのぢ)の神】。言霊シ。

「物事を判断し、識別する大いなる能力の地という訳です。人はある出来事に出合い、その事を判断・識別する事が出来ず迷う事があります。あゝでもない、こうでもないと迷いながら、次第に考えが心の中でまとめられて行きます。そして最後に迷いながら経験した理が中心に整理された形で静止し、蓄積されます。蓄積される所が心の大地という訳です。この働き」

【妹大斗乃弁(おほとのべ)の神】。言霊リ。

「心の中の理論が新しい分野に向かって螺旋状に発展し、広がって行く働き」

【於母陀流(おもだる)の神】。言霊ヒ。

「心の表面に物事の内容表現が明らかに表わされる力動韻」

【妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神】

「心の奥に一つの事の原因となるものが煮つめられて行く力動韻」

≪7。まぐわい。間の食い合い。≫

古事記の神には次のように言霊五十音が対応しています。

【 言霊 ウ。 天の御中主(みなかぬし)の神。

【 言霊 ア。 高御産巣日(たかみむすび)の神。

【 言霊 ワ。 神産巣日(かみむすび)の神。

【 言霊 ヲ。 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。

【 言霊 オ。 天の常立(とこたち)の神。

【 言霊 エ。 国の常立(とこたち)の神。

【 言霊 ヱ。 豊雲野(とよくも)の神。

【 言霊 イ。 伊耶那岐(いざなぎ)の神。

【 言霊 ヰ。 妹伊耶那美(み)の神。

この配列は言霊を説明するために神名を語っているので、逆に神名に言霊を配当したものではありません。

こうした名前の神が実在しているのではなく、また、神世界とか霊界とかにいるのではありません。

ですので、神道の神を拝む方たちとは全然別の立場にありますが、宗教のように神を拝むのではなく、神(フトマニ言霊)を斎く(いつく)のです。

降臨降霊があり、神秘経験交流があるのはどうするのかとなります。信じることや待ち望んでいる事などが入り込んでくるので、実体の話の次元では一筋縄では行きません。多くは与えられいる名前から出発していますから、神も自分を現すのに人間どもが知っていると称する名前を利用しているだけか知れません。

そういったことがあるにせよ、人間の立場からは自分の意識の動き働きによってその内容に名を与え、実体内容を表現することができます。これは各人がやればできることで、それが既得の名前と重なればそれはそれで嬉しい有り難い出来事となるでしょう。

心の始まる、自分の心が何かを見る、そういった心の動きを追うとき、その心の動きを、吾(私)の眼が付いて地に成ると「あめつち」であらわし、そこに主体側の「天(あめ)」と客体側の「地(つち)」から、天地という言葉を造り、自分と世界の対応に関心感嘆することもあるでしょう。

そこで、そのものの始まりの心、始めの意識をどういうものかと尋ねることもでき、「うーん」何かと唸っている時、その「うーん」そのものが始めの言葉となっていることにも気付いていきます。そんな「うーん、う」がもしかしてもしかするとなどと空想している内に、「あっ、そうかもしれい、こんな事かもしれない」などというのが起きてきます。

何も分からないなりに、わからないことに捕らわれ、それに任されていると、自分を支配して自分の中に居すわって自分の全てに取って代わっている「うーん、う」がいることに気付きます。それじゃ、そんなものの言いなりになっているそれを何と言おうかとなります。

つまり分からないなりに自分の分からない心が確かにあると捕えらえ、またそう自分が捕らえられている全体感みたいなものを得ます。

そうすると「うーん、う」というのは自然に天から与えられたもののようで、それが自分の今現在を成し支配していて、自分の中心ごとになっていて主のような顔をしていことが分かります。

ひとつそれを天の御中主と名付けるのはどうだろう。なかなかぴったりの命名じゃないかと感心などしてみるけれど、古事記には既に「天の御中主」がいます。

なんじゃこれは宇宙のどこかにいる中心の神と言われているが、何なのか自分の意識の始まりなのか、そういえば意識の始まりとは自分の宇宙の中心のことで、自分を意識していく事と変わりは無いし、意識しているものは常に自分の宇宙の中心にいるし、これは全く、「天の御中主の神」とは、そうだ結局自分のことだ、となっていることに気付きます。

そこで自分の、人の、意識世界の始まりの実体を表現するものとしてそれを「言霊 ウ」を「天の御中主の神」と名付けました。

そこでこんどはいつでもどこでも自分の始まりは言霊ウとして出てきます。

それじゃ出てくる言霊ウをどう働き表現できるかというと、古事記によれば、その内容の表現は、心の実体世界の主体側と客体側を現すものとして、

【 天の御中主(みなかぬし)の神。言霊ウ-ウの世界】

【 高御産巣日(たかみむすび)の神。言霊ア(-ワ)の世界】

【 神産巣日(かみむすび)の神。言霊(ア-)ワの世界】

【 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。言霊ヲ(-オ)の世界】

【 天の常立(とこたち)の神。言霊オ(-ヲ)の世界】

【 国の常立(とこたち)の神。言霊エ(ーヱ)の世界】

【 豊雲野(とよくも)の神。言霊(エ-)ヱの世界】

となり、そのような内容に導く働きは、言霊ウの世界では、

【宇比地邇(うひぢに)の神】という言霊ウの働き、(言霊チ)

【妹須比智邇(いもすひぢに)の神】という言霊ウの働き、(言霊イ)

【角杙(つのぐひ)の神】という言霊ウの働き、(言霊キ)

【妹活杙(いくぐひ)の神】という言霊ウの働き、(言霊ミ)

【意富斗能地(おほとのぢ)の神】という言霊ウの働き、(言霊シ)

【妹大斗乃弁(おほとのべ)の神】という言霊ウの働き、(言霊リ)

【於母陀流(おもだる)の神】という言霊ウの働き、(言霊ヒ)

【妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神】という言霊ウの働き、(言霊ニ)

【 言霊 イ。 伊耶那岐(いざなぎ)の神。

【 言霊 ヰ。 妹伊耶那美(み)の神。

となり、そして他の言霊次元世界も同様となります。

さて、上記はよく見ると五十音図のアワ行とイ段のことです。

平面に抜き出して見ると、鳥居の形に見えませんか。

もしかして、神道っていうのは五十音図のこと、心って五十、生きる、息、家、いつく、いる、今の「い」って「五」のこと ?。

倭・大和・やまとって、八間十、八(チイキミシリヒニ)の間が十(アイウエオワイウヱヲ)のこと、 ?

≪8。まぐわい。間の食い合い。≫

≪ウ≫はワ行に無いのではなく、アワ行に共通で剖判しません。

前にウ次元は今=今の関係として説明しました。ウ次元の欲望実現は、今欲しいから今頂戴で、今欲しているものを今手にしたいという、今の対象が今で、欲望の対象は欲望自体で、子供が駄々をこねるように今手に入れることしか考えないという構造です。

ですので、ウの相手対象もウで、アワ行共にウであることを示しています。

主体ア(吾の眼)の中に自分の対象(付いて地に成る)がある典型的なものです。

五十音図ワ行から削除しても意識からは消せません。

「中今」という言葉があります。「過去と未来の間をいったり、時間の永遠の流れのうちに中心点として存在する今」となっています。(引用)

今までの私の説明も、この引用も肝心なことが分かっていません。「今」を分析してその内容を示しましたが、「今」は今今でありながら時の流れを造り、過去にも未来にも今であり続ける原理原則が示されていません。

今在ることを分析しても、今在りつつ生きて活動し創造していることが示されていません。実体の分析があっても働きが未明です。ウを今=今の関係としても、そのようにさせるものが説明できません。

実体は幾ら分析しても活動する働きは出てこないと同様に、今を幾ら分析しても「今」は不動で、その動きはありません。言葉を変えて、今を生きる、というと繋がり連なってくる感じがしますが、瞬間瞬間を繋げるイメージしか出てきません。過去=今、今=今、今=未来という関係を繋げてもバラバラな今しか繋がりません。

そこで、どうしても、今でありながら過去から未来へと繋がっている今を探すことになります。ここに、決して留まることのない無限の力を秘めた繰り返し押し寄せる波(なみ)という父韻が登場します。(イザナギ、イザナミ)

波がある時も凪(なぎ)の時も、はじめの波は次の波を呼び込み、次々といざなわれ、砂浜に吸い込まれます。

今という一瞬に波の持続力があります。どの波も波の形を造りますが、その場所に留まることはなく押し寄せ、次々と「割れて砕けて裂けて散るかも」(源実朝)です。

過去が今に繋がり、今の瞬間から未来の今へ繋がっていき、生きているのはこの動力因によります。

なんということもありません。今を実体化しないで、今と言わないで、今とは何かから出発しないで「今」の動きから「今」の動く通りに語ればいいのです。

古事記はこれを【 伊耶那岐(いざなぎ)の神。 妹伊耶那美(み)の神。】の二神で現しました。言霊イで、生きる、息、行く、いる、家、今、等のイです。

イの座が凪であっても、波があっても、常にいざない、いざなわれる運動の内にある事を知ればいいのです。

動力因は一つあれば充分かと思えますが、発する側と受け取る側の力も両方がなければなりません。ギミの神は(凪・波)はその双方を表徴したものです。双方は後に実体となればそれぞれ独立できます。宇宙帆船イカロスは太陽光圧力を動力としています。

男神が波の無い凪(イザナギ)だと、活動する男のイメージに合いません。

実は、男が活動するように見え、活動する男の力の大きさが見えるのは実体内容によるものです。男性側は初動の能動因の一押しで始まり、その後の螺旋上昇循環で大きくなります。

男性側は神の一撃であると同時に、平定し凪をもたらします。

相手側実体内容が大きくなっていくので、それを操る男性側が大きくなったように見え、それに応じて男性側の二押し目三押し目が大きくなっていきます。しかし、その実相は男性の中に在る女性(実体内容)なのです。これを女性側から見て変性男子と言っています(出口直)。

要するに男性側と言われているものは常に最初の一押しの連続になります。言葉を変えて言えれば、今を連続させていくわけです。

今-今のウの世界、過去-今のオの世界、今-未来のエの世界、今の全体のアの世界はどのように表現されるのか見てみましょう。今欲しいから今頂戴の世界です。これを言霊ウの世界としますが、父韻が八つありますから常に、八つの世界として展開されます。

例えを加え、欲望、知識、選択、感情、の問題に当てはめてそれぞれどのような表現になるか見てみます。

ただし、欲望、その他もその現象形態からすればいろいろな形になって行きますが、ここで扱うのは欲望、その他という形にする因子を問います。父韻。現象と成った欲望、その他そのものを分析するのではありません。(父韻であって音ではない。)

ここでは単に父韻のそれぞれが欲望やその他に係わる姿を見るだけですから、父韻の係わりによって現れてくるかたちの違いを分析していくのではありません。

また、父韻の組み合わされた現れ方や、その順序、父韻チが父韻キより先に現れると別の形になるとかいうことは、まだ先の話になります。単位要素のような単純な形を探します。

-------------------------

「言霊母音・半母音を結び、感応同交を起こさせる原動力となる人間の根本智性とも言うべき性能、それが此処に説明を始める言霊八父韻であります。」

---------------------------------------------------

------------------------------------------------------

注意。)

意識の動き、心の動き、父韻の動きをまずは感じとらないと話になりません。

わたしの文章はこの本質的な経験体験実体を無視して書いていますから、いい加減です。

自分の気付きや、思いつき、考えたこと、知的欲求を満たすこと、などを書いていますから、そういうことは基本的には駄目なことです。そのことは分かっていますが、それでも知りたい、書きたい、知らせたい、という二十日鼠が動き、それなりにネズミの餌になっていきますのでその通りにしています。

【 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。】

とあるように、天津神から【天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。】の文章でないと価値あるものになりません。

≪9。まぐわい。間の食い合い。大元から実現へ。≫

○ 心の八つのきっかけ。

「あ」

ことの始めは目覚めの時のように相手対象も自分もなく、ぼやぼやもやもやまだ半分眠っているけど眠りじゃない意識とまだ半分眠っているという意識の混じり合った内にあります。

そんな中にあっても、地球が回転しているように、太陽系が公転し、銀河宇宙が公転して、宇宙そのものが公転しているのか動いているのがわかりませんが、人は目覚めて起きるといったことは、何故だか分からないながら与えられています。

意識の次元でも人はどうしても眼を開けて物を見てしまうし動いてしまう。夜眠れば朝には起きてしまう。このようなことは何故だかはわかりません。しかし人はそれを受け入れて感知することができ、知識とすることができます。

しかし知覚することも知識化することもその根源は分からないので、神を持ち出して済ましています。分からないものは分からないのですが、カッと明らかにあると感じられているそのような実体があって、その実は感じられています。

そのようにカッと明らかに実があるというのが、カッと明らかな実(み)、カミ、神です。

そのあまりにも単純明快な明らかさの故に、人はそれを理解できないのです。眼を開ければ物が見えます。単純な事実です。その見えるメカニズム、作用は解明できますが、見るというあまりにも単純な事実を説明できません。

人は通常この単純なカッと明らかな事実を得ています。常に神の行為をしているのです。あまりにも自分が神であるために気付かないのです。ですので、分析もできず作用も分からず自分の対象にもならず、中空に放り出して、気が向くと他人に対するようにああだこうだというだけになります。

普通は中空に放り出され、見向きもされませんが、時たまお気に入りや閃きや気付きとぶつかると、顔を出すことがあります。でもその時は常に喋っている人の範囲内での神さんでしかないので、いつもどこかいじけた側面をもたらせられています。

「め」

そこで古代大和の聖人達は本気で自分の神、カッと明らかな実(み)、毎日経験する明らかに単純なことを追求しました。

その結論が古事記の冒頭百神です。特に始めの十七神は原理として確立しました。

その内実体世界の対になっているものを、オ-ヲ、エ-ヱ、ア-ワ、を一つとして勘定し、全十四の原理による建国を知らしめる「豊葦原の瑞穂の国 (とよ、十四、あしはらのみずほのくに)」を宣言しました。(十七神を十四で数える他の方法もあります。)

古代聖人たちの追求によって人の心、人の持つカミ、の内容が五重の実体構造と八種の働きに根源の能動因であることが明かされ、大和言葉が創造され、理想的な政治社会が運用されました。古代宗教より以前のおとぎ話民話には理想社会であったことがよく出てきます。

ひとたび社会の下部構造が確立されますと、それを大きく発展させようという欲がでてきます。欲望の充足、生活経済活動の規模も大きくしたいと思います。

そこでは調和や協調、共同社会では進歩の芽が発達しません。

どうしても相手より先に、上に行こうとする意思、多くの力を持つこと、競争することが必要になってきました。戦争はそのより実際的な方法となりました。

古代において貨幣経済が見通されていたかどうかは分かりませんが、事の強大化は事物の発展とその統制にあることは知っていました。

「つ」

物の世界は物理法則によって発展するのは分かっていましたから、それを援助助長するための、思考法を調和と協調から、競争と自己優位性の獲得に敵するものにしました。

こうして競争社会が出現しますが、強弱を造ることが目的となっていますから、強者はどんどん大きくなるようになりました。その反対に、弱者の意気消沈が発生してきますので、その対策として宗教を発明して予防策として与えました。

これらのことは、貧弱な古代の生活基盤を、世界的な規模で改善発展させようとしたことから起きました。計画は客観状況によりますが、意思は希望や理想となって飛び立ち空想ともなります。

そこで絵に描いた餅にならないように、意識に応じた物質社会、物質社会の発達に応じた精神構造を用意しておきました。あいうえお五十音、その意思の父韻のい段イ・キシチニヒミイリ・ヰです。

イ・社会の調和協調による個人への束縛を解き放つため、自覚的な社会規範をゆるくして、個人は何をしてもよい許されているという上位規範(宗教、教え、条文)に変えました。

キ・協調的な社会規範を自覚する必要がなくなり、個人の思いつき、集団の欲望をまずかき集めることからできるようになりました。

シ・各人各集団はそれを益することのできる関心事に専念することができるようになりました。

他者との違いより競争心が芽生えることになりました。

チ・各集団の専心事に応じて、知識、信条、目的や経験の方向が決められていきました。

ニ・こうして、他者との違いにおいて、自分の立場を立てるようになり、

ヒ・その為にだけの個人や集団の主張や言葉表現等の現象を生み、

ミ・それをもって、他集団や他社会、他人に取って代わらせるようになり、

イ・その持続が奨励され、

リ・来世へまで持ち越された行為実践目標となっていき、留まるところの無い欲望充足世界と成りました。

「ち」

このように古代の大和において世界歴史の運動が決められていきましたが、最後の「わ」行の時代に近づきました。

古代においては世界朝廷建設のために、勝手な欲望充足と競争を許しましたが、現在は既に産業経済通信交通科学知識分野は一つになりつつあります。

世界運用の国連では一応国単位ですが、実質は米国の意思を検討しているだけです。

しかし、米国は自ら造った民主主義に足をとられて世界運用の自由がありません。

また民主主義においては世界運用は成功しません。。

いよいよ世界は古代大和の聖人達の予定した通りに世界朝廷建設の時代になりました。

産業経済のウ次元、情報知識科学分野のオ次元は既に単一世界を形成しつつあります。

ところが実践運用分野のエ次元が全く用意されていないのです。五千年前に与えられたあかさたなはまやらわ思考の延長から抜け出せません。

五十音図を天津太祝詞音図(たかまはらなやさ)に変換するだけのスメラミコトが存在しません。

---------------------

今回は脱線したのか、当然の延長帰結か、ぶっ飛びか歴史の必然か、分からないと思います。

≪10。まぐわい。間の食い合い。父韻へ。≫

父韻は「韻・リズム」「原動因」「生きる意思」ですからそれ自体で自分を表現し現象することはありません。

動物園に行きたい、カレーを食べたいという意思があるだけでは何も産みません。

そこでどうするかといえば、自分を動き働くもの機能する側、と実体を持った動かされるものとに自己分裂をするのです。

物を分けてもまた物となるだけですが、意思を持つ人の場合には、意思が、働きと実体に分かれます。

このブログでは「働き」と「実体」と言い、古事記では、【 高御産巣日(た・かみむすび)の神。次に 神産巣日(かみむすび)の神】とあります。「た」の有る無しで私という一者の両面の違いを現しています。

ところが働きと実体に分けても、その両者が結び合わなければ事が成就しません。字を書こうと鉛筆をとりあげる場合に、手に持つ働きはあり、また、鉛筆がそこにありますが、手にある持つ働きは能動的な機能を遂行出来るというだけで、実際に持つにはその力を発揮しなくてはなりません。

「むすび」の場合には物質世界では同じ物の重なり移動変形混合等になりますが、人間意思の世界では、創造実現となります。

いま私は働きと実体とに分かれています。それを「むすぶ」ことになります。

そしてその実際に鉛筆を「むすび」持つ機能が父韻です。機能が働き実際に現れるときには、実体と結ばれますからその形を現しますが、その形の現れ方が対になった八神です。

古事記では何の説明もなく、ダダダダダーと出てきます。

【 宇比地邇(うひぢに)の神。次に

【 妹須比智邇(いもすひぢに)の神。次に

【 角杙(つのぐひ)の神。次に

【 妹活杙(いくぐひ)の神。次に

【 意富斗能地(おほとのぢ)の神。次に

【 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。次に

【 於母陀流(おもだる)の神。次に

【 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。

そして最後に与える力と受け取る力の全体に保障を与えていくのが、

【 伊耶那岐(いざなぎ)の神。次に

【 妹伊耶那美(み)の神。

というわけです。

略画すると、

大元の意思があり、 (あ、吾の)(御中主)

実現のための自己分裂があり、剖判 (め、眼・芽が)(高御、神むすび)

実在世界とそれを結ぶ橋渡しがあり、 (つ、付いて)(母・父神)

それらに力を与える、「いざ、出陣じゃ」があり、 (ち、地に)(ギミ神)

創造実現、 (成る)

となり、冒頭十七神が、あ・め・つ・ち、となっています。

≪11。まぐわい。間の食い合い。父韻しかない≫

実を言いますと、母音とかウの次元とか書いていますが、本当は父韻しかないのです。

人は生きている。寝ていても「いきる」、座っていても「いきる」、食べていても「いきる」で、その様相表現は変わりますが、「いきる」そのものはそこに常にあります。いきるという父韻が働いているのです。その現象、在り方は無数に出てきますが、「いきる」ということそのものは、分析できずにそこにあります。

眼を開けて世界を見ますが、見るメカニズムは分かっても、見ることそのものは分析できないし分からないのです。眼を覚ましたから見る、何で見るのですか。理由などありません。見るから見るのです。

それは欲することでも他のことでも同じです。この明らかにあると分かっているが、規定できない、カッと明らかな実(み)がある、カミ、神です。

「汝の心の清く明きは、いかにして知らむ」 と、天照らすはスサノオに問います。

単純明快な明らかな何でもない普通のことを知的に知ろうとすると、問いを発した人が暗闇に落ちます。古事記では天照らす自身が天の岩屋戸に入ります。

天照す大御神も自分の発した問いのせいで岩戸に閉じこもってしまいましたが、後にやはり自分の先天の働きを操作することで出てきました。

自分の意思に従って働きの手を差し述べるだけでいいのです。後は天の手力の男の神という父韻が働いてくれます。

≪剖判≫ということ。

○ 始めの一者である【天の御中主の神】という父韻は自らを働きと実体に分けます。自己剖判します。

ここで天の御中主の神を父韻といいました。言霊学を勉強している人は御中主は言霊ウの今中ではないのか、父韻は後に八つ出てくるのじゃないのかと思うことでしょう。

しかし、そもそも「天の御中主(みなかぬし)の神」も【天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神】とある通り、成り出てきたのです。

つまり父韻の働きの最初の実体的な現れということです。

「御中主」に父韻の働きが内包されていなければ、剖判も起きません。

では何故剖判が起きるのか。

それは「清くあかき」単純明快なこと、朝眼が覚めて物が見えてしまい見てしまい見る自分と見られる世界ができることが起きるからです。しかし、そういった人間に本源的な性能に理由は見つかりません。起きたから見たとしても、見るということは根源的な性能で、ただ見ちゃうのです。

眼を開けて物が見える見ている自分がいる、そういうことが分かるのは、あるいは分からないのはその理由などないからです。分けるから分かるようになり、分けなければ分からないままです。

生きているから剖判は起きてしまうというだけです。「生きているから」と言えば一応理由を見つけたようですが、剖判そのものを言ったものではありません。

しかし「いきているから」という上位概念からすれば、生きるが剖判として内容を展開できるようになります。目覚めて見ることも、生理的光学的に説明できるようなものです。繰り返しますがだからといって、見ること、剖判することそのものは説明できません。

分けたから分かるといっても、分けてしまえばあっちとこっちになります。

自分が分けた、自分の手足のあっちとこっちは結ばれなければなりません。そこでその両者を結ぶものもまた父韻です。

人は自分を分けないと自分が分かりません。汝自身を知れとは知る相手である自分を造ることです。

そこで分けたものを今度はくっつける作業が出てきます。こういったことも人間の本源的な力能ですから、何故ということは分からずそれが神だよといって済ますのが無難なところです。

ですのでそこから先の神について語ろうとしても、明らかだけど分からないことを神と言っているのですから、それ以上のことはできません。

がしかし、それを人間側のこととしていくのなら、さらにより多くのことが解けてきます。

神さんは実体の現れに載ってしまいますから、実体を喋りだすことは人間の得意技で、実体を喋る人間側に乗せられます。

【天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。】で、まず喋る舌(矛は舌の形をしている)を与えられたのですから。

人間側は実体の現れを見るのは得意ですが、見る働きそのものを自分の物としていません。自己剖判して自分を知るために自分を立てたのに、その働きには関心が少なく自分でも分からず、現象実体ばかり見ようとします。

「働き」には作用を及ぼす主体側の方面から見ることが多いですが、必ず反作用があります。

古事記では対の、チイ・キミ・シリ・ヒニ、の神で示されています。

剖判するとは自分のことですから、チイ・キミ・シリ・ヒニ、の神の元の働きがあります。元があるから分かれたのですから。それがギ・ミ神です。

ギ・ミ神は既に剖判した形で出てきますが、その統一されている姿は何かというと、アメツチのア(吾)です。他の文献には「天譲日天狭霧国禅月国狭霧(あめゆずるひあめさぎりくにゆずるつきくにさぎりのみこと)」としてでてきているようです。一つの神名の中が剖判したかたちになっています。

天(吾の眼が)譲(ゆずるは揺り動く)日(霊)となって、天(当初先天では)狭霧(霧の中のぼやーとしたものが)、国(自らに似せて組み立てようと)禅(ゆずるは揺すり動かされて)月(付き従い)国(組んで似たもの)がぼやーとした狭霧状態ででてくる。

この神名は、働き方面からみた名付け方ですから、古事記を成立させるのに都合が悪かったので採用されなかったのかもしれません。

では、剖判の内容、働きが実体と共に現れるその仕方がどのようなものか見てみましょう。つまり八つの父韻を見て見ましょう。

≪12。まぐわい。間の食い合い。一厘。≫

≪一厘。≫

一厘の仕組みと言われています。現代語で言えば一パーセントの仕組みでしょうか。しかし、一厘の一は数量の一ではありません。分かりやすく言えば、始めの仕組みのことです。

桃栗三年柿八年で八年立つと美味しい柿が食べられますが、始めの種蒔きの一撃が一厘のことです。実際の種を蒔くことではありません。種を蒔く行為に至るその一撃のことです。

よく見れば何と言うこともありません。普通の日常の毎時毎秒ごとに起こること起きること起こしていることです。

そうです。父韻の働きのことをいいます。

一厘、いちりん、イロハのイ、始めのイ、行為を始める意思のイのこと(イザナギ・ミ)で、父韻チイキミシリヒニと展開する対の四組の始めのチを運用することの代表とさせて、運用することを、流・リでとらえ、その現象結果であるンを産むことです。

解読文章にするとややこしいですが、アメツチ、吾の眼が付いて地に成る、と同じことを言っています。

人の成すことの始めのことですから、寝ぼけ眼で目覚めてお早うということから、世界平和世界運用に関することまで全部に係わる始めのことをいいます。何でもかんでもの始めのことですから、考えだけ当てはめればとんでもないことまで一厘の仕組みとなってあちこちで流布され、朝お早うということとはまるで関係ないこととされています。

ただし注意してもらわなくてはならないのは、実体的な方面と働きの方面があるからといっても、それを直接取り上げてもらっては、蛭子を産むことになります。

金神の艮の文(トドメノフミ)では、一厘の事を申すのぞ、として、「こことこことの真ん中にそれぞれ神が降りるのぞ。」、主体側と客体側の真ん中に神(父韻)が係わると言っています。

ひふみ神示では、「一厘の仕組とは に神の国の チョン を入れることぞ、よく心にたたみておいて呉れよ」です。

トドメノフミの「真ん中にそれぞれ神が降りる」と、ヒフミ神示の「神の国にチョンを入れる」を同じものと見るときには、神とかチョンとかいうものの実体や何であるかとかいう疑問は持たないことです。

つまり、「降りる、入れる」という働きを指しているので、そこに入る何であるかを指してはいないからです。ですから知らそうにも知らすことのできない、これがなければ何ごとも始まらない最後の一厘ということです。

馬鹿らしいほど当たり前な普通なことです。

古事記ではその構造もまで明かし、冒頭三神で示されています。ここにある父韻の働きのことです。

どんな古文書も御告げも神示とか呼ばれるものも、古事記以上に具体的に記したものはありません。すべて古事記の思想、ふとまに言霊学、の実在を知らせるものです。

手にした柿の種を植えることではなく、植えようとする心の働きを一厘といいます。

よく一厘は隠れているといいますが、実体としては先天として隠れ、実体に対しては働きとして隠れているということです。

-------------------------------------------

古事記の冒頭の構造はこうなっていると知っただけでここまで書いてきました。

ようするに単なる教科書の丸暗記と変わりません。

それでも、大和、日本語、神社、神道、スメラミコト、日本思想、文化、祭り、そして世界の歴史、などの様々な表徴が、古事記の冒頭十七神からきていることが分かるようになりました。

いよいよこれから八種の父韻を個別に説明する段になったようです。

父韻も島田正路氏の教科書に全て内容が公表されています。

まずは、「 http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/ 」を読んでおいた方がいいはずです。

≪13。まぐわい。間の食い合い。人間であること。≫

フトマニ言霊学での≪剖判≫は、主体と客体、あるいは見るものと見られるものといって、この両者から、あるいは主客一体とか梵我一如とかいって、両者を前提したうえでその統一体から、あるいは二種類の存在を認めて前意識や潜在観念を探ろうとするものでもありません。

眼を開けば赤い花が見える、お腹が空いたカレーが食べたい、ここにこんなことが書いてあるが何のことだろう、明日は何を着ていこうか、等の何でもない当たり前のことに心の原理を見つけ、気に入らないあいつを殴りたい、どうしたらいいのか、戦車で攻めるかロケットを使うか等等、人間が行為することなら、そこに見つかる同じ原理で社会世界の歴史をも建設しようというもので、皆が納得できる道を探そうとするものです。

そのための原理は古事記の冒頭百神に書かれていますが、まずはその有り難い人類の為の至上の遺産を身につけようとするものです。古代スメラミコト達が残した至上の原理がそのまま倭の日本という形になっていて世界に不二の国です。不二はまた不似で世界のどこの国とも似ていない唯一ということでもあります。

ではその原理の始めは何かといえば、冒頭三神、ウのア・ワへの、 【 天の御中主(みなかぬし)の神。次に 高御産巣日(たかみむすび)の神。次に 神産巣日(かみむすび)の神】への剖判ということになります。

世界の全思想哲学考え方が、主体と客体へと剖判してしまったものから始めています。一つを半分にすればそこには別々のそれぞれ独自の塊があることになりますが、それは実体結果現象と成ったもので、それを生成した力動を忘れてます。

もちろんそこには力学的な作用があるとの認識は普遍に存在しています。それは、あまりにも当たり前なことの為その作用を考慮しませんでした。古事記の思想は約一万年前には心の原理として完成していて集団世界を運用していましたから、人間は物質文明の進歩に反して、精神的には大変な退歩をしていたことになります。

どこかで、でんぐり返しをしないといけません。(今回は大げさな出だしです。)

さて、主客に分かれたものは、物質世界ならば、何かの作用、要因、動因が外部から加わってて二分されたものとなるでしょう。元に戻すにはまた何らかの外力が必要となります。

生物界でなら細胞分裂等のように、自分の中に不思議な動因があります。細胞分裂は見ることはでき、要因要素、過程は観察できますが、何故なのかは未だに分かりません。

さらに、心においては自然の過程から飛び出し、物を創造し精神を創造していく主客への剖判があります。主客とか剖判、ギミの命等と言っていますが、何故細胞分裂するのかと同様まだ分かっていません。

分かってはいませんが分からないものを取り出して観察はできています。そしてそれらに秩序を与えこんがらないように一つ一つのものに名前を与え、皆が共通に使用できるようにしています。

寝ぼけ眼でおやおやもう朝かと起きるとき、一切は自分の中での出来事です。眼を開けた向こうにある朝の世界は自分の存在に関わりなくありますが、自分が見て感じた世界しか自分の世界とはなりません。その世界はどこにあるかといえば、外部の客観世界にあるのではなく自分の中で客体世界を形作っています。

そうするとここに自分の中にある客体世界とそれを見ている主体世界があることに気付きます。

二つに割れた物質世界のことではなく、細胞分裂する生物世界のことでもなく、意識による創造世界のことです。

それはまた、外力による作用反作用でもなく、自然過程の二極化過程の発展でもなく、創造意思による人造化過程としてでてきます。

人間と言うだけで世界創造の一翼を担わされています。

この物質でも無い、生物でも無い、人間である創造剖判の過程が古事記の冒頭に示されました。

≪14。まぐわい。間の食い合い。【天地・あめつち】動きから働きへ。≫

まず、吾の眼(わたしの心)が、

先天にすでに用意されています。

そこで先天の働きがわたしに、「おさめ固め成せ」と、

汝の心の動因を発揮せよと、活動を促し誘ってきます。

これを、

【天地・あめつち・吾の眼が付いて地に成る】

といいます。

【あめつち】には無自覚な「アメツチ」、眼が覚めればあー日が昇っているなーというような、と、

【 ここを以ちて、

伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、

禊ぎ祓へたまひき。】

という、

禊ぎ祓へ = 自覚的な言霊アの眼が付いて地に成ること。

の形をとった、

自覚的なあめつち(吾の眼が付いて地に成る)があります。

【 ここを以ちて、 伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、】の段落からが自覚的な心の活動「あめつち」の始まりとなります。

≪15。まぐわい。間の食い合い。【あめ・つち】。≫

あめつち・吾(わたし)の眼が付いて地に成るですから、吾(わたし)の眼がどのようなものかは十人十色です。カレーを喰いたいから、人生の疑問を解きたいから、如何に生きるべきかから、世界平和を目指すにはどうするのかから、何から始め始めていくのかは分かりません。

しかしそこにあるのは、吾の眼です。誰もが自分の欲望を持ち、疑問を持ち、皆と仲よくして喜びを得ようとしていますが、どうしても我良しの主張と正当化を達成しようとしています。一応形の上ではいじめ喧嘩戦争が起きないように自省された表現となっていきますが、持ち出した自分の主張の所有者は自分であるとの獲得意識の中で動いています。

社会的に立派な意見をのたまう時でも同じで、犬の小便みたいに自分のつばをつけて印を残しています。こんな観察をしていると、個人とか個性とか自我とか言っているよりは、生きていくには個を超えたより大きな魂を感じてしまいます。

それは一定の意図の上に載った歴史という魂のように見えます。もしここで、未来のよい方向、みんなが努力する獲得目標のようなものとして感じると神さんの話になるでしょう。そこでは悪いこと、意気消沈することの無いようにとあっち側の力が設定されていきます。

一方、戦争殺戮悪いことも歴史の魂の当然の過程としてとりあげ、これからの世界の喜びの種になっているものとして再度肯定する取り方もあるでしょう。

悪いことが起きたのも当然の過程として、そのような意図が生じる社会、世界、精神意識を見ることが出来るようになるならば、意思を持った人間として神の力を借りなくても、自分達で新しい形を見つけていくことができるでしょう。

その心の方法論は古事記であることが分かっていますから、後は各人が習得していくことが重要になるでしょう。そのような世界の物質的基盤はできつつあります。車なんかは五年に一度一家に一台無料であげてもいいだけの生産台数があります。もし車の生産を管理する神さんがいれば、きっとそうするでしょう。

-----------------------

≪アメ≫

人は先天のアメ(天、アのメ)、吾(ア)(わたし)の眼(め・意識)、から始めます。

アのメから始めることは無生物物質も生物も同じです。物質には作用反作用、引力等自然の先天の力が働きます。

生物界には自ら動く動因があります。自然の過程方向をとって無自覚に動きます。決められた先天の動きに従います。

人間には意識の眼があり、それによって物を働かすことで自分を現します。先天に与えられた意識の眼でもって物質世界を働きをもって創造していきます。それ以前は生物次元、無生物次元のことです。よく云われる「人間も自然の一部、動物の一種」などは、今生きている人間の次元として比較するものではありません。

物質の潜在先天作用が現れ、生物の先天の自然活動が現れ、人間の先天の意識の働きが現れます。そして人間世界においてのみ自覚された労働創造があらわれます。

○ 吾の眼(私の意識)が、先天に既に用意されている。

≪ツチ≫

物質世界も生物世界もそれぞれ反作用、反動等を受けますが自然の決められた内に収まります。生物の合目的に見える行為もその行為内での選択を観察できますが、行為そのものを選択する自由はありません。

それに反して人間は、アの眼、意識の眼の働きによって、自らを相手に付けて相手の地に成り出る働きをすることができます。

人には≪ツ≫、つく、付く、働きがあるため、この≪ツ≫、付く、を運用していくことができます。この付くというのは運用働きとその元のことですので、それ自身が自分であらわれることができません。

片や、アの眼の主体側の意図がないと≪ツ≫の存在もなく、一方では、付く相手である≪チ≫が無いと自分を表現できません。

「天地(てんち)不二、神人合一。天(あめ)は地(つち)なり、地(つち)は天(あめ)なり、不二(ふじ)なり、アメツチなり、神は人なり、人は神なり、一体なり、神人なり。」

ひふみ神示はこう述べています。(古事記理解の参考書になります。)

ですのでアメツチを天地として中華式に天と地に分けてしまうと意味をなさなくなります。ところが、吾というのは当初は先天の実在ですので、そのままでは顕在現象しません。

○目覚めて日を見るとき、この言霊ブログは何を書いているのかと疑問に思うとき、自分にはかくかくしかじかの意見があると主張する時、あいつを殴ってやろう、アラブ世界の戦い無くしたいがどうしよう、等々、吾(わたし)の眼が対象に付いて出てくるわけです。

どうしても、吾の眼が先に出てきます。

この吾の眼をみんなが上手い具合に運用できればいいのです。

そこでどうしても分けることが起きるというややこしい関係になります。

それというのも、分けると分けた両者を結ぶ物が必要となります。単なる生物界のように、選択の余地がなく決まった自然過程の内にあるならば、結ぶものも問題なくそれが自然過程となっています。

≪選択されて剖判している≫

しかし、人の世界で剖判することには既にそこに選択されて剖判していることが内包されているから、結ぶ過程も正しく選択されなければなりません。

朝起きて光が眼に入り、もう朝か、となりますが光を感じて「朝か」と言う以前にそれだけの選択された状況の中にいます。つまり「朝か」と言うだけが剖判の現れではありません。

≪16。まぐわい。間の食い合い。ウ<の剖判。ア<も剖判。≫

≪選択されて剖判している≫

選択されて剖判していることも、それなりの構造をもっています。

別の言い方をすれば、

「今現在という瞬間」が過去からきて未来へ向かう今の瞬間の構造があります。

「もう朝か」という時にはその時の認識する状況がありますからそれを例にとれば、

「過去-今」の既得知識と「今-未来」の選択智慧が、ウ<ア・ワの「過去-今全体」から剖判してきます。

「もう朝か」と言ってしまうと各人の認識判断現象を創造してしまったことですから、その実体を造ってしまったところから始めなくてはなりません。一厘を除く大部分の人がしていることです。平俗に言えば、自分の感じから出発し、自分の思いから出発し、自分の考えから、したいからやりたいから出発することです。

この全く当たり前なことが何故駄目なのでしょうか。それは今現在のような社会、世界しか造れていないからです。よい面も悪い面も豊饒な面も貧弱なことも、しごく当たり前なことから出発した帰結としてあります。

フトマニ言霊学はこれらを当然のこととして受け入れつつ、そのまま次の次元へと転換しようとします。

ウ<ア・ワの「過去-今全体」、眼が覚めて意識が朦朧としているが、わたしがいる相手がある、何かがあるという混沌とした、「もう朝か」と状況を規定する以前の、あるというだけが確実な時処位が存在しています。これが先天の未だ規定されていないが確実にある出発点、吾の眼(あめ・天)、です。

確実な出発点があっても、連続した剖判が起きていかないと事は成就しません。吾の眼は付かねばならず、そして地に成らねばなりません。(つち・地)

こうして付いて地になったものが、各人の現れです。「もう朝か」であり、「まぶしい」であり、「腹減った」であり、「急げ」であり、それぞれ各人の現象創造となります。

これが吾の眼を無視した当たり前な九割九分九厘の出発です。

本来なら、各人がそれぞれどのように言って対処するのかは現象と成って現すので、それ以前には、後天現象と成る全ての時処位が ウ<ア・ワの「過去-今全体」として含まれた先天実在としてあります。それは全宇宙世界と繋がっているといってもいいでしょう。

ですのでどこからどのように「もう朝か」という現象を産むのかは本人も知らず分かっていません。がしかしそれなりの過去人生経験の範囲がありますから、そこから行動規範と過去知識記憶概念が出てきて、本人のウ<ア・ワの「過去-今全体」を表現しようとしていきます。

人はそれを実体として自分の所有物として扱いますから、自分の物を自分で喋って何が悪い式に、自己主張をしていきます。

いろいろと長い文章になっていますが、始めの一言を喋る以前の瞬間の出来事ですので、喋ってしまった言葉については何も述べていません。

この瞬間的な出来事の中に、過去-今の経験記憶概念知識の世界が整理運用されて、その人の「今」の言霊オの世界が表層に現れます。

それでも過去が昇ってきただけでは何も起きず頭の中だけの電気回路をうろうろしているようなものです。これを行動規範として実際に発語発声なり身を処する実践行為に仕上げなくてはなりません。

そこで、次に登場するのが、言霊エの世界、選択按配の世界です。

古事記では冒頭にあるように「次に、次に」と表記してあるだけですか、実際には、元に戻って剖判し次に、また元に戻って剖判し次に、と言う意味で、常に前に戻って剖判を次に次にと循環していきます。

言霊学を学んだ始めの頃は、ウのア・ワへの剖判が頭の中にこびりつき、アもオ・エに循環剖判することを忘れがちです。

ウが、<ア・ワの「過去-今全体」に剖判し、この「今全体」の、

アが、<オ・エの「過去-今」と「今-未来」に剖判します。

こうして剖判の御蔭で、朦朧とした目覚めに状況の認識が起きて(オ)、それを用いることの選別の実践智が出てきます。アの全体状況認識は、アの剖判によりオとエで個別了解、実践への準備となっていきます。

しかし、それでもまだ現象を創造してしまって「もう朝か」と言ったのではありません。「もう朝か」という言葉を使う選択をしたところまで来ているだけで、実際に発音するにはまた別の要素が必要となります。

というのも、黙って起きるか、もそもそ起きるか、「よーし」と言うか、「もう朝か」というか、それらが頭の中で瞬間的に決まってはいても、まだ現象化していませんし、頭の中のものを物象として表徴していく過程があります。

元に戻って「動き」を見てみます。

(ウ) 物質、無生物界も動きます。作用-反作用で、動くときに動くだけです。今-今の動き。自分で自覚的に動くことは決してありません。

(オ) 生物は自分で動きます。植物も動物も過去から携えた動因を現在において示します。過去-今の動き。自分で自覚的に動いているように見えることもありますが、過去からの決まり決まった性能に則っていくだけです。

(ア) 上記二者を一挙に見ることがあります。噴火、爆破、昆虫の変態、開花等の過去-今-全体の動きがあります。悟りや芸術的な開花や、神霊との交流など一挙に全体を了解し、宇宙の自覚をすることがあります。しかしここでは過去-今現在の自覚までが明確になっていきますが、今-未来への自覚はありません。その代わりに努力目標とか信仰教義の遂行とかが取って代わります。

フトマニ言霊学、古神道を創造した心道では、

(エ) 人間は自分で造ったもので動きます。人間において始めて未来を選択する自覚を持った今-未来の動きが出てきます。未来創造の為に自覚的に精神的物理的な物象を創造し、その運用の上に自覚された今-未来を乗せていきます。

(注。無生物とか生物とか言っていますが、そのもののことをいっているのではなく、それらを反映した人間側、私の意識をいっています。ですので、そこから自分の意識を無生物界に持ち込み入り込ませると、無生物界に自意識があるように見てしまうこともあります。)

≪17。まぐわい。間の食い合い。剖判の剖判。≫

前回の、

ウが、<ア・ワの「過去-今全体」に剖判し、この「今全体」の、

アが、<オ・エの「過去-今」と「今-未来」に剖判します

の詳細は次のようになります。

ウ-<ア・ワの剖判は、ア・ワがそれぞれ、

ウ-ア-<オ・エ、主体能動働き側への剖判、と

ウ-ワ-<ヲ・ヱ、客体受動実体側への剖判、へとなる。

まず、

(○-ウ)

○にチョンが入る。(吾の眼が入る、あめ)

【天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、

(1) 【 天の御中主(みなかぬし)の神(言霊ウ)。次に

---------------------------------------

(○-ウ<ア・ワ) 主体側能動働き側と客体側受動実体側に剖判。

ウの、今-今の統体が剖判して、<ア・ワとなる。

(1) 【 天の御中主(みなかぬし)の神(言霊ウ)。今-今が、

(2) 【 高御産巣日(たかみむすび)の神(言霊ア)。能動働き側の、今-全体

と、

(3) 【 神産巣日(かみむすび)の神(言霊ワ)。受動実体側の、全体-今に剖判。

------------------------------------------

そして、客体側受動実体側のワが、ヲ・ヱに剖判。

(○-ウ-ワ<ヲ・ヱ)

ワの、全体-今の総体が剖判して、<ヲ・ヱとなる。

(3) 【 神産巣日(かみむすび)の神(言霊ワ)。

(4) 【 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神(言霊ヲ)。

(7) 【 豊雲野(とよくも)の神(言霊ヱ)。

<ヲは、実体側の「過去-今」となり、ヱは実体側の「今-未来」になる。

-------------------------------------------

先天実体の準備ができると、主体能動働き側が、オ・エに剖判。

(○-ウ-ア<オ・エ)

アの、過去-今-全体ガ剖判して<オ・エとなる。

(2) 【 高御産巣日(たかみむすび)の神(言霊ア)。

(5) 【 天の常立(とこたち)の神(言霊オ)。

(6) 【 国の常立(とこたち)の神(言霊エ)。

<オは、 能動働き側の「過去-今」となり、エは能動働き側の「今-未来」になる。

--------------------------

次に父韻が作用して現象がうまれて、子を生じる。

(ヲ)が(オ)より先にあるのは、当初の第一循環目で、能動側が働きかけ自分を現す先天実在としてまずあるということで、顕現した実体世界のことではありません。その後実在となって後天世界を形作り、そこにものがあるとして出発していくようになります。

----------------------------

今回は、へんてこな記号使った表記をしてみました。

図の描き方を知らないのでこうなってしまいました。

≪18。まぐわい。間の食い合い。今という現象へ。≫

「今」という現象を産む時の五つの次元層。

○ 「今」という現象を産む時の今-今。

・欲しい、したい、やりたいの、欲望意識で子現象を産む、そしてその発達した姿は、五感感覚の欲望実現、経済産業社会となり、それを意識でとらえて、言霊ウ次元世界という。その剖判の姿は、自らを対象とするウ-ウ、今-今となる。

始めも終わりも自覚がない。

大部分の人間の、大部分の日常生活、これまでの歴史社会建設、世界中にある欲から発する問題が起きる元凶、富と悲惨、物神崇拝、歴史創造と強い者勝ちの戦いの原動力。

○ 「今」という現象を産む時の過去-今。

・知識意識で子現象を産む、そして過去知識による疑問の実現、知識概念、科学思想となり、それを意識でとらえて、言霊オ次元世界という。その剖判の姿は、自らの過去概念を対象とするオ-ヲ、過去-今となる。

始めも終わりも自覚がない。

始めの自覚が無いため、自分の考えがそのまま主張となり、自分の所有物となり、自分の創造した知識になると勘違いしていく、知識量による、弱肉強食、科学的な整合性による合理性しか信じられない非人格的感情無しの物質世界建設の原動力。

○ 「今」という現象を産む時の過去-今-全体。

・感情意識で子現象を産む、そして感情情感の発露を実現し、宗教、芸術表現となり、それを意識でとらえて、言霊ア次元世界という。その剖判の姿は、全面的に過去と今を対象とするア-ワ、過去-今-全体となる。

始めの自覚はあるが終わりの自覚がない。

自己経験が世界であるとの自覚がある。この世の原初の過去から今現在に至るまでの、自分と他の人間の生存の繋がりは自覚して確証ができている。しかし残念ながら過去の自証に向う眼しか持てないので、自分の表現と行為を未来に立てることができないで、基本的な要求や人の道としてしまう。確たる未来を語れず予言、約束、運命に変えてしまう。

○ 「今」という現象を産む時の今-未来。

・選択意識で子現象を産む、そして按配配列の選択を実現し、道徳、政治の実践智慧の社会となり、それを意識でとらえて、言霊エ次元世界という。その剖判の姿は、自らを未来に対置し対象とするエ-ヱ、今-未来となる。

他者への自覚、他利、がある。

○ 「今」という現象を産む時

・意思(私と先天の統一された)の、「かくなせなさねばならぬ」という絶対至上命令で子現象を産む、そして自由精神意思による創造実現、自覚的な和の実践行為社会となり、それを意識でとらえて、言霊イ次元世界という。その剖判の姿は、自他の未来を対象とするイ-ヰ、過去-今-未来となる。

自利他利への大いなるみいずの内にある。

--------------------------------

「今」の表記。

今を現すのに一本の線を引いて真ん中に今現在と書き、左右に過去、未来を置きます。

人が常に生きているように、常に生きて活動している今はどのように現せるでしょうか。

そもそも今を現し現したという時点で、もう過去になっていて今の話ができません。上記の今の五次元層も、未来という言葉を使って書いていますが、全て過去になった表記です。それなのに何故未来といったり、未来といわれて納得してしまうのでしょうか。

それは今を語る振りを納得しているからです。未来と言ったからといって未来などなく、過去と言っても過去などありません。今今しかないのです。それが納得できるのは、書かれて読まれているものを実体として、各自が読んで納得していく働きの中に取り込んでいくからです。

つまりわたしにしろ誰にしろ書き物では書いたものの働きは、読み手の頭脳に移されているので、読み手の、受動側の働きに任されます。

これは大きく言えば書かれた実体と読まれる働きの合一体を各自が造るという、剖判の逆の動きを実行していくことです。

ですので、書き手の意図に反しようと読み手は自由に読み進むことができます。

と、ここまでは実体と働きが別々の場合です。つまり書き手が下手なため駄文でしか表現できない為に起きます。ウとオ次元での文章ということです。

ア次元の文章となれば違います。

例えば、御来光を見ようと数時間苦労した後に、その場面に立ち会いそれぞれが異なった表現をします。ここでは、各自の表現が違っていますが、それを聞いた人たちの心持ちは同じところへ導かれます。

こうしたバラバラを司ったり、合一を司ったりしていくのが、父韻の働きで、(先天)実体を実体足らしめます。

今の様相を、その時の意識の持ち方によって、

ウ) 今-今

オ) 過去-今

ア) 過去+今-全体

エ) 今-未来

なり、

ウ)・・・・・・・・・・今=今

オ)過去・・・→・・・今

ア)過去・・+・・・・今全体

エ)・・・・・・・・・・・・今・・・・・未来

で、書き表していますが、それらはいずれも顕現していない先天実在の形としてあります。

(あまり書き方にこだわるのは止めましょう。そもそも今の五次元層などといっても、四つでしか表現していなし、イの次元層は意思、意図をしめしますが、それ自身は表記できません。惑わして済みません。父韻が加わる前に先天の実在世界があることを示したつもりです。)

以上のウオアエの実在世界に意思のイが加わって、人の世界ができています。

吾の眼は以上の世界よりなりますが、吾の眼が付くときにはどれかが選択されて地に成ります。

今という一瞬があるだけですが、その実体化は複雑です。

普通の始まり方。ウ・オの次元。

選択させられて自分が喋らされているにも拘らず、喋った内容は自分の意見だ自分の所有物だと言い張ることになります。

吾(わたし)の眼が付いて地に成る(あめつち)の吾の眼が付くには剖判が必要です。

生きる意思が現れてくるには、それを現す形の上に乗らねばなりません。そうでないと自分に意思があるということも示せません。何だか心の中には複雑な経緯があるのだけど隠れています。

そこで人も生物の成長する細胞分裂、木々の双葉等に習って剖判の道を取りました。

生物では自分の体軀を大きくすること、動いて生きる範囲を拡げること、子を生んで種を維持すること等になっていきます。

人ではさらに意思と意識を与えられています。これは自分で造ったものの上に自分を乗せて生きる範囲を拡げることと共に、創造の喜びを得ることを目指すようになっています。

これらは物という形を創造して、自分の意思を物の形で似せることでしか現せません。そこで最初の原初の形は、意思の現れは言語でしょう。

「14。まぐわい。間の食い合い。動きから働きへ。実体世界側。」が剖判しています。今度は、剖判をさせた上でむすび合わすものの登場です。

明日何をしたらいいか分からない。そこでわたし(吾)の眼が登場し自分と自分の成す対象が分かれます。そうだ、カレーを食べよう。わたしとカレーが分かれ、対象がでてきます。そこで次は食べ方となります。

カレーを食べるは簡単な例ですが、いじめの現場を例にするにはそう簡単にはいきませんが、心の原理は同じです。いじめる方もいじめられる方も、いじめの相手が無かった時がありました。それと同じ条件を見つける、あるいは条件を変えるのです。先生、校長、教育委員、父兄が第三者の立場で采配を振るっても変わりません。

だれか一人がいじめられる側に立って、わたしも一緒にいじめなくてはならないといじめる者に頼めばいいのです。いじめたい側の欲望を実現する条件を、いじめたいという欲望を非難したり抹殺したりしようとしないで、そのまま受け入れ解決できる道もあるでしょう。