01章 意識の主(ぬし)

01章 意識の主(ぬし)

意識の主(ぬし) ・ 造化三神

神とは

いつ始まるか、どこが中心か

螺旋循環と働き

言霊

言霊(コトタマ) ウ ・ 天の御中主の神

言霊 ウ 太初

五十音図のいろいろ

五十音図の意味

五十音図の見方・御中主はどこにいるか

母音行の配置

-------------------------------------------

意識の主(ぬし) ・ 造化三神

------------

【天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかあま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、

天の御中主(みなかぬし)の神。 次に、

高御産巣日(たかみむすび)の神。次に、

神産巣日(かみむすび)の神。

この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。】

天の御中主(みなかぬし)の神。

---------------

私の意識が動き始める時、心の働く場に最初に現れてくるこものは、動くものがあってそれが動いていく心の宇宙の主(ぬし)となっているものです。

心はこの心の宇宙の主からでてこの主に帰ってきます。

わたしから出てわたしに帰ってくる、ということです。

初めの姿はいつどこで何がどのようにという具体的な形をまだ取りませんが、確かにわたしの吾の芽(天・あめ)がそこにあって、それが芽生えたものとなっています。

【天(あめ)の】は、心の始めのことです。具体的でなく経験したものではないので、【天の】・先天のとなっています。天上界とか心霊界にいることを指すのではなく、心の始まりの有り方と生き方の原初の姿を示します。うずき、うごめき、うごく、その初めです。「うごく」と言ってしまえばそこに形が出来てしまいますが、その切っ掛けとなり始動を感じる胎動のようなもので、そこに今後の全体が含まれているというその主です。

天地・あめつちの吾の眼では、予兆が察気されますが何がなんだか分けの分からないものです。しかし、その中に動くものの感触を得ます。現実の実感に向った表現なら、五感の感触を得ることになるでしょうが、ここではそこまで到達する以前の世界です。

宗教のように、【天】に既に主が含まれいて、天を創造しているのならわざわざ天の御中主ということもないと思いますが、古事記は人の意識構造を反映したものです。例えば「こんにちは」と言おうとする時、頭脳内では発音される以前に意識の流れの中で「こんにちは」という言葉が既に駆け回っていて、この方にはこういう言い方で、あの人には今日の様子からしてこういった言い方で、というように、実際に発音される「こんにちは」以前に心の中に「こんにちは」が形成されていきます。それが実際の発音となって相手に聞かれ自分で聞いて確認していきます。

この一連の過程には既に多くの次元の違う経過を通過していく意識がありますが、つねにそれを主導しているのが【主】です。この経過がこれから始まる五十の神々に当てはめられているのです。確認して了解するまでは【主】は常について廻ります。

それは、私の意識でありながら私の意識の先天です。

そのような一見矛盾したことが可能となるには、【あめつちのはじめの時】という今が、【高天原】という此処でイマココの同一地点というか軸というか同じ柱を共有して働くからです。

天の御中主という神(実は各人、わたくしのこと)が主であって、その主が働くことを示すために【天の】とあります。

その天の中に、内容と働きを示す言葉が隠されています。

【御中主】、ミナカ主は、心の中の主、実(み)に名(な)付けられた火(か)のように明らかな内容の主、身・実を見る中心の主と訳されるでしょう。天の中に見る内容と働き、及び主体と客体同時に

含まれています。それを扱いどうにかしてどうにかする、そしてどうにかなりどうにかなった「主」というわけです。

何かを見たもの、思い至ったもの、考えついたものが、取りもなおさず、その人の【主】となっていきます。またそのようにさせたものが主でもあります。古事記はこの説明に今後の五十神を費やしていきます。その初めが天の御中主というわけです。その経過の主であり、経過を導く主であり、その実体と働きです。

漢語で虚飾された表現は排除し、自由に読むようにと序文にあります。漢字の意味だけを探っていては古事記の秘密は了解できません。まず大和の平仮名にしてから該当する漢字があればそれを探します。御中主は、実の中心の主、実を中を見る中心である主というように読めますが、漢字で表記された意味がそのまま当てはまるのではなく、平仮名の大和の日本語を探すことが必要です。ですので御中主というときの御を「み」と読んで、ミと呼ばれるもの全てのミが取り込まれますので、解説に御、実、身、見、等とあってもそれらの漢語の示す固有の意味だけに捕らわれません。大和においてそれら全てがミと言われ、名付けられる元の意識を探るものです。

前章に見たごとく「今」は、今を含むいくつ かに分類できてもバラバラに活動しているのではなく、今が今あって、その今は過去から来たもので、同時に未来へも切っ先を向けていて、そしてそれらが全体となっている、こういう一つの全体形となった実体と働きの「今」です。【主】も、【御中主】もそのような形で現れます。

今後展開されていきますが、今の時点では、この実体と働きは分離剖判しておらず、「みの中の主」として一者としてあります。

古事記では心を思ったときの今の最初の意識を、天の御中主(神)と太安万侶によって表現されました。

(注。現時点の「初発の時」では、最初の意識といっても具体的な何々の意識ということではなく、「天の」、先天の、ということです。)

ですので、そういったような名前の宇宙創造の主宰神がどこかにいたわけではありません。歴史上では、各地域、各民族にそのような主宰神がいて、新興宗教などによってさらに増え続けています。そこでは主宰神が複数いるのに、信者には一者しかないものであるとそれぞれが主張しています。それを信仰の自由として認めようと認めまいと、問題はそういった現象にあるのではありません。

それらを分類したりどこかの一者を創造主としようとしまいと、主宰者である者を打ち立てる心持ちは誰でも世界共通です。この心持ちを、先天の実の内容の中心の主として、誰もが各自の心中に立てています。信者は敬う神をそれぞれ立てていますが、実は、自分の実となる中心の主である自分自身を立てているので、それを借り物の神さんに託したり、混同したりしています。

そこから、それぞれ勝手な一者をむりやり主張していがみ合ったり、和睦したり共同しあうよりも、各人が自分の心を省みれば、どのような主張であれそこに自分の一者をまず立てていることに気付きます。教えられた神であれ、自分で気付いた神であれ、得た知識によるどのような神であれ、得ようとしている智慧がどうであれ、常に各人の、自分の意識が動き始める時、心の働く場に最初に現れてくるものに、各人の心の宇宙の主(ぬし)となっているものがあります。

それを外に見て神と拝むか、心の内に見て自分を立てるかの違いです。

その見たものを安万侶は天の御中主と名付けたのですから、神を設定しようとしまいと、神を考え思う時には、それ以前にわれわれ各人は心の主である天の御中主を所有し共にしているのです。その心の持ち主とはわれわれ一人一人のことですから、つまり神とはわれわれ各人のことです。

神とは

-----

とはいっても現代から考える神についての考えとは違っていると思えます。ではどちらにせよ、意識の働きの元にまで戻ったらどうなるのかといえば、古事記の冒頭のように成らざるを得ません。本来古事記の主張では「神」という文字は消失されて読まれるものです。何故「神」という名前を見つけて付けたかといえば、スメラミコトの世界歴史運用上の理由によりますので、歴史編を参照してください。

古代より自らにそして皆に明らかに見られるものをカミと呼んでいて、外部にあるものへの拝跪の心持ちはありませんでした。

ゴロゴロ雷さんがおっかなくてというのも、稲妻による生命の危険ということも自身の内に危険な威力を感じ受け取るからですが、自然の威力と、それを感じ取る自分と、感じた威力を外物にしてしまう自分とはそれぞれ違います。そして遂には外物化されたものの威力を賦与してそこから威圧を得ることとも違います。

神・カミ・というのは明らかに見るという心の動きから出てきた言葉ですから、自分が明らかに見ているところに神の出番はないのです。神を得体の知れないものにまつりあげたのは二・三千年前のことで、それ以前は火を見る(カ・ミ)というように、明らかに見るものに用いてい ました。雷を感じ、風力によろけ、喜びに歓喜しても、自分に明らかに感じられ受け入れられている時には、自分の思い感じ考えることが「カミ」、自分の火を見る、でした。風力には到底太刀打ちできないことを感じ受け入れる時、その感じていることは全く明瞭です。

神という言葉は永遠のように扱われていますが、人間世界のあっち側の神という意味で使われ出したのは、三千年くらい前からのことでしょう。

それ以前もカミという言葉は使われていましたが、自分の心に明らかに見るということでした。わけの分からない外部の対象を畏怖したことから拝跪するようになったあっち側の存在ではありませんでした。

自然にある優れたものが神とか、八百万の神とかも、初めからあったものではなく、それが初めとなったものではなく、返って意識の逆転によってそうされたものです。

神を拝むものとしたのは三千年くらい前のことでしょう。初めから拝む神としてあったのではありません。

例えばそこで疑問を持ち、原因や理由を探り出すと、自分にあるものが対象化され外の事物に物象となって結ばれます。そして自分にある同じカミが、自分から離れ外物となります。そこで一旦外物として成り立ち固定されば自分の外にカミができます。各人の持った疑問に合わせて外物が作られていき、これが現代の神となります。という具合にある時期から意識の反転が起きました。

神が現れたり、神体験をしたり交信したりといったことが言われていますが、これを神がいる証拠にする前に、それらの体験がその人に明らかに見られていることが重要で、せっかくの体験を外部の神と結びつけるのは速すぎます。というのもせっかく得られたものを往々既得の記憶概念や勉強して知った知識に結んでしまうからです。

いつ始まるか、どこが中心か

-------------

天の御中主にしろエホバにしろ、そういった神さんがいるとなると、何時からいるのかと質問できなくなります。何しろ神さんですから宇宙を創った時からいるのか、その前に何もしないで過ごした時があるのか分かりません。もし分かったようなことを言えば、その他の宗教の大元である創造主たちが自分を主張し始めます。宇宙を分配して領分を決めるわけにはいかず、宗教戦争などという手っとり早い方法もとられたことがあります。近年では宗教者会議などといって各自の持ち分だけは確保しようとしているようです。

それぞれ始まりは設定できるようですが、終りは設定されずに時のながれに任されているようです。

そこで古事記は創造主たちに世界の初めを知らせる義務を負います。

「最初がある」とすると、その「ある」ものはどこからきたかという疑問が出てきます。神さんの場合には宇宙永劫にあると設定され、それ以上は思考停止を要求され、受け入れ承認を求められられます。科学や客観思想では「ある」という実在には生々流転や起承転結、帰納演繹、弁証法等が適応されますので、「ある」の原因やその出来た理由を語れます。ところが同じ「ある」でも神の実在となるとそれへの原因経過結果を語ることが押さえられ、「ある」という実証場面を越えていきます。

神さんがいるとなるとその神さんが中心になります。無限の宇宙を統括する神さんになりますが、無限の宇宙を設定すると宇宙には中心がありませんから、何処でも、その指す場所が中心です。勝手に何処でもが中心では神さんに都合が悪いので、神さんのいるところが中心となるようにされます。

ところで神さんを中心とし、神さんをもって初めとしても、その神さんを思う各人には、後発後天的な知識です。ある時に神さんの概念知識を得たり神体験をしたりしたものですから、その人の成長した過程での塵芥を巻き込んでいて始原の神に埃が被っています。ですので同じ神さんを語っても各人の語り口は塵スモッグの向こう側を語ることになります。

神体験をしている方はそれに関してははっきりしたことを言えますが、体験の外のことは塵スモッグの屈折した朦朧とした光を見るようにしか語れません。ましてや学んで知識をもっている場合にはそのまま飲み込み消化することさえしていきます。

これらは神さんを自分の外にあるものとして立てているとそうなります。しかし、その同じ神さんを自分の内に立てておくところから始めると事情が変わります。

形の上ではあちら側にいる神さんを立てることと、自分に立てることとは同じ神さんです。何教でも何宗でも宗派宗教でなくとも構いません。

ここで見ることは、何処を中心として何処で何時始まるかです。

吾の眼を自分の世界とし、吾の眼を中心とし、吾の眼で始めると、神さんと自分とが同一の時点にいることに気付きます。

螺旋循環と働き

--------

神と同じ時点に立つ自分がいます。

しかしそれでは動きがありません。

神と同じ動きをしなくてはなりません。

ここで神と同じ動きや働きをするとはどういうことになるかが問題となります。

神の「働きがある」とすると、その実体をめぐって、「神がいる」と同様のそれぞれの見解が出てきてしまいます。またそれらと自分との乖離も見えるようになります。そうなったとしても、神さんが上に立っていればそれに従い信仰という形で拝みます。

「ある」に向う態度ならある程度形を見出せますが、では神さんの働きに対してはどのようにするかは、はっきりしません。働きは神さんの専管領域みたいになってしまっていますから、神さんを出し抜くことはできません。喜びを共にすることになりそうです。

ここは神学でもなく宗教の教義を解説する場でもありません。近い将来に、世界神庭会議、世界宗教者会議において諸々の宗教の成り立ちと道理の正しいことが、神道の言霊学において明かされるでしょうからその時を待つとして、神の働きの内容をもっと引き寄せて見てみましょう。

宗教では神と同じ働きをすることが、目標として掲げられますが、掲げている目標は人の努力目標として時の経過の中に委ねられています。ですのでイマココにおいての納得する終結を得ることができません。初発の働きは見出されても、納得して終わることの了解がとれません。

それは、現象として、あるもの、あるいは、いるもの、というところから出発してしまうため、そのものの宇宙の関心事をまず打ち立ててしまうからです。ですのでその働きは関心事の獲得という形をとっていき、その(上昇する)経過が問題となります。

ところがそのような思惟構造にあっても、経過というものは、一部の区域の拡大されたものでしかなく、全体を現わしません。おうおうこれが神の願う行為だと思い込んでいきます。それに評価が加わりますと、直線的に事が進展する過程が設定されてしまいます。例えば見るという単純な行為も、主体側の意識の眼を相手対象に向けて、相手対象を納得了解するという自分から相手対象を巡り自分に循環することによって意識が成立しています。このように人の思考も行為もぐるぐる周りの螺旋上昇循環です。

始まりであるのに先天が含まれ、進展上昇するのに常に出発点を従えています。このように前承する上昇循環を可能にするにはイマココにおける循環が考えられます。

つまり、常にイマの時間とココの場所が含まれるのですから、思惟思考においてもそうでなければなりません。

思惟においてそうなれば、当然その表現である言葉も同じでなければなりません。

言霊

-----

そこで現実に沿ったことを、その通りに表現するにはどうするかになります。

人の表現の代表的なものに言語がありますが、ここではイマココの上昇循環を表現する言葉が追求されます。

それが、言霊です。

現代に取り上げられている言霊は言葉の魂として、言葉の威光や霊力、良いとか悪いとか言われる言葉というように、言葉の現象となっているものを指しています。ですので、言霊の読み方は言葉の魂でコト・ダマと濁ります。

しかし古来言われてきた古事記でいう言霊は、「コト・タマ」で濁りません。

それは、言の形容として霊を付け加えたり意味を付加訂正していけば、コトダマと濁っていき、解釈説明の時代と処による変遷変化に対応していきますが、コトタマと濁らないで読む本来の古事記のコトタマでは、コトの現れとタマ(霊)の内容が一致したものですから、霊(タマ)の内容とその現れは言(コト)として表現されていきます。

意識の最初の表現、最初の意識そのものは何として現れるかです。

例えば、人の成長の上ではこういうことがあります。

『こども語辞書』 ( http://baby.goo.ne.jp/kodomogo/index.php )を見たら思っていた以上に多数の語が上がっている。どちらかというと母親の教え込む言葉の順位みたいでもあるし、親の希望の現れかもしれない。一番関心を引いた項目は「話した順番で傾向をしらべる」で、全体という欄にある平均発話順序が、言葉の意味不明ながら、一番「うー」、二番「あわわわ」、三番「ばばば」になっていることでした。

これは自然の統計上のことです。

前もって古事記の言霊(コトタマ)である冒頭の三神と言霊の対応を挙げておくと、

天の御中主の神 言霊 ウ

高御産巣日の神 言霊 ア

神産巣日の神 言霊 ワ

になっています。

では意識の最初、最初の意識の現れはどうなるでしょうか。

言霊(コトタマ) ウ ・ 天の御中主の神

------------------

意識の最初、最初の意識の現れは言霊ウとして現れ、天の御中主と太安万侶によって古事記に記録されました。これは単音の言葉の発音が五十とか七十幾つとかあるので、その数に合わせて神の数を用意したというのではありません。それでは発音が増減すれば神さんの数も増減していきます。

古事記の言霊学は心のあり方を現わすものです。そして心の単位要素は五十であると古代のスメラミコトが見抜き、五十の言霊を心のあり方の五十に対応させました。

五十しか心のあり方がない、そんなバカなと思うこともありますが、この五十とは吾の眼が付いて智となるイマココの一瞬の五十です。あれやこれやこんなものもあるという、心の現象のことではありません。

無数の現象、個別的個性的な現象を起こさせる原理となっている今の瞬間を、五十に分類整理してそれぞれに言霊を配当したものです。

無数の心のあり方を創造する一瞬のあり方を五十としたものであり、一瞬が生まれるまでに五十の過程を経ていきます。一瞬というものの形が五十もあり、その一つ一つに対応する瞬間の表現が言霊です。いわば瞬間と呼ばれるものには五十の違った表現となるそれぞれの次元があるということになります。

あいうえお五十音図というものがありますが、実はアイウエオ五十音を一周すると、そこに瞬間が生まれるというものです。ただし、五十音図は発音の音図ですの、言霊五十音図とはことなります。つまり発音五十音図をもって言霊五十音図とするのではありません。

正確に一瞬が生まれる順序は次の通りです。

ウ・アワ・ヲオ・エヱ・チイキミシリヒニ・イヰ(17)

タトヨツテヤユエケメ(10)

クムスルソセホヘ(8)

フモハヌ・ラサロレノネカマナコ(14)

ン(1)

計五十で、ウがンとなったときにイマココの瞬間が誕生します。

この構造を示したものが古事記の冒頭の五十神で、古事記とはアイウエオ(正確には上記)五十音図のことで、それを伝承保持してきたスメラミコトとはアイウエオ五十音図のことで、大和日本国とはアイウエオ五十音図のことであり、世界歴史とはスメラミコトの始めたアイウエオ五十音図に則ったもので、人の心とはアイウエオ五十音図です。

それらを称して言霊学といわれますが古代は天津磐境のフトマニと言われていました。そのフトマニ言霊学の原理教科書が古事記です。古事記は大和の日本語が分かる人しか理解できないようになっていますので、敗戦後皇室による古事記の放棄による機会を戴いて大いに言霊学としての読み方が一般にも普及してほしいものです。

(注意。ここでの見解は現在の公式見解・授業で教える内容と違っています。)

ですので発音された言葉は、この瞬間の五十に整理分類できるそれぞれの顔をしめしたもので、一瞬における五十の心の形のそれぞれを言葉として現わしたものです。言葉を並べ良い言葉神威のある言葉を作るのが言霊の道ではなく、一瞬にある五十のそれぞれの顔かたちを現わすのが言霊の真意です。

全ての人の行為はそれぞれの瞬間を通して行なわれますので、この五十の連鎖の循環の形をとります。例えばいま「形」と言いましたが、形のカにおいて五十、タにおいて五十、チにおいて五十の循環を通してカタチというので、カタチ(形)という言葉ができる以前に古事記のコトタマの世界があります。古事記は冒頭の五十神で最初の一循環を説明していて、その初めが、カの御中主で五十の神を経過した後に、タの御中主から始まる五十を通過し、チの御中主で五十の神々を通過してチを完成すると同時に形・カタチも完成します。

ウから始まってンになって初めのカを作り、それをウとして五十を経過してタというンになり、ついで、前二者をウとしてンにまで行ったときにチがカタに付いてカタチとなります。

この五十の循環が人の意識のそれぞれの場所、次元で起こり、意識の中であるいは発声においてそして人の行為においても前承する上昇循環をなしていきます。

つまり、瞬間でありながら経過であり、現象となるものがそれぞれ各時点において五十の循環を繰り返して進行していきます。(00章の「今とは何か」参照)

これが前承する上昇循環という瞬間の出来事です。

その初めが、「言霊(コトタマ) ウ ・ 天の御中主の神」というわけで、心の始まる一瞬のその始まりの姿を示します。

「言霊(コトタマ) ウ ・ 天の御中主の神」は、瞬間の初めの五十分の一で、五十を通過した後に御中主となると同時に、各時点においてもそれぞれの御中主でもあります。

そのような循環を言葉にするのはややこしくなるので、説明上は直線的に進行するように語られます。

注意しなければならないのは、わたしたちは安万侶の記載から逆算して検証していくので、それ以上のことはほぼ不可能なことです。

安万侶にしても意思疎通をもたらすやまと言葉の体系は既に存在していて、それを用いて一万年の歴史を書き記したのだし、安万侶が大和言葉の体系を創造したのではありません。

古事記では言霊ウを天の御中主の神としていますが、これも言霊五十音を神名を使用して現わすようになったのは何時からかは分かりません。五十音言霊の神名の的確さから言えば、スメラミコトの教育用に一万年前からあったのかもしれず(壺切りの儀式に痕跡があるようです)、神武天皇の創作であるかもしれず、安万侶の知る歴史時代に創られたのかもしれず、また、安万侶の古事記の言霊学を隠没する上での創作であったもしれません。

いずれにしても人類はこれから言霊学の解明に向いますし、われわれ各個人は安万侶の指示に従って、まず自証していかねばなりません。誰もが持っている意識運用上のことですから、何も特別な知識は要りません。

さて、意識の初めである御中主・言霊ウです。循環から見ますから、御中主は先天の始めであり、後天現象の初めでもあります。天のと書いて先天であることを強調しています。

言霊 ウ 太初

---------

新約聖書ヨハネ伝の冒頭に

「太初(はじめ)に言(ことば)あり。

言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。

この言は太初に神とともに在り、

萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。

之に生命あり。この生命は人の光なりき。」

とあります。

ここでいう「言・ことば」とはこんにちは、まずい、雨だというような現象の言葉ではなく、それらの現象を押し出す言霊のことをいいます。その言霊が神だということです。

瞬間を構成して心を現わす言霊は五十しかありませんから、神は五十ですが、前項に書いた通り一つの神の成立に五十の神を経過します。しかし、こうしたやり方を敷衍していきますと数(数霊)でもって事を表現するようになり内容が薄れていきます。

御中主は初めの神で、その成立にも五十を要します。初めが成立するのに前提となる五十が必要では自己矛盾ですが、これが前承する上昇循環、言霊循環の原理があるために可能となります。「言は神なりき」というのはこの言霊循環の原理を指しています。(ひふみ神示という書物には、神も従わねばならぬ、というようにあります)

そこで実際に五十の神を使用して御中主を説明してしまえばいいのですが、これから解説しようとするのが、当の五十神ですから、それは不可能なことです。しかし、解説される五十神は御中主が成立する順番通りになっていますから、全体を終了するときには最初のものが了解される構造となっています。つまり、前記のウがンになるときに御中主が成立します。

だからといって途中では御中主が成立しないのかといえばそういうことではなく、どの時点においても独立した一者として存在していきます。これは以下のどの神においても共通です。

太初(はじめ)に言(ことば)あり。言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。

この言は太初に神とともに在り、

萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。

原理として古事記のフトマニ言霊学が分かっても、初めの言霊が「ウ」になることがまだ解明されていません。

これは、意識の始まる以前の、ポケッーとしていた何もない状態から何かあることに気付いていく移り変わりのときの、意識に起きることを探ることになります。

仏教では因果を落としたり、空になる事を目指すようですが、言霊学ではそこからが始まりです。空を得ることがポケッーでは失礼な解かもしれませんが、ポケッーにある躍動を感じ取ることが肝心なので、ポケッーもなかなかうがった表現ではないかと思います。

問題は御中主を空・ポケッーであるということではなく、御中主を空・ポケッーにするものがいるということです。

同様に御中主を言霊ウであると指摘するだけなら、暗記してそこから引き続き起こる概念連想を引き出せばいいだけのことで、たいしたことではありません。

しかし、御中主を言霊ウとするには相当の努力が要ります。空でポケッーとした何にもない時間というのですから、何をしてもいい時で、無いところに何かを起こさせる、それによって自分に起こす力動があります。

禅の公案に犬に仏性があるかないかというのがありますが、仏性の有る無しではなく、そういった質問を聞いてしまった自分そういった質問をさせてしまった和尚、させられた和尚、質問を聞かせられた自分にある、有る無し以前の力動の感得を問題としたものです。その躍動を空として得ることが禅ですが、そんなことを得たところで一歩も動けません。この動けないということは全宗教に共通ですが、空かポケッーを感得しなければ、動けないということも得られません。

古事記のフトマニ言霊学はそれらの上に立って、そこから動きの道を始めます。

五十音図のいろいろ

-----------

天津太祝詞音図 (言霊エ中心・選択)

天照す大御神の音図

----------------

アタカマハラナヤサワ

イチキミヒリニイシ㐄

エテケメヘレネエセヱ

オトコモホロノヨソヲ

ウツクムフルヌユスウ

天津金木音図 (言霊ウ中心・欲望)

-----------------

アカサタナハマヤラワ

イキシチニヒミイリヰ

ウクスツヌフムユルウ

エケセテネヘメエレヱ

オコソトノホモヨロヲ

赤玉音図 (言霊オ中心 ・ 知識)

-------------------

アカタマハサナヤラワ

イキチミヒシニイリヰ

オコトモホソノヨロヲ

ウクツムフスヌユルウ

エケテメヘセネエレヱ

宝音図 (言霊ア衷心 ・ 感情)

--------------------

イチキリヒシニイミヰ

エテケレヘセネエメヱ

アタカラハサナヤマワ

オトコロホソノヨモヲ

ウツクルフスヌユムウ

天津管麻音図 (既得・赤ちゃんの音図・言霊イ)

----------------------

ア--------ワ

オ--------ヲ

ウ--------ウ

エ--------ヱ

イ--八父韻---ヰ

(チキシヒミリイニ)

天津管麻音図 (和久産巣日の音図)

----------------------

ア--------ワ

オ--------ヲ

ウ--------ウ

エ--------ヱ

イチキシヒミリイニヰ

阿波岐原(音図)・先天吾(あ)の音図

----------------------

ア--------ワ

----------

----------

----------

イヒチシキミリイニヰ (イとヰ で ギ)

建御雷の男の神の音図

----------------------

ア--------ワ

イ--------㐄

エテケメヘレネエセヱ

オトコモホロノヨソヲ

ウツクムフルヌユスウ

五十音図の意味

----------

古事記は人類の最高の理想的な思惟規範であるアマテラス大御神の音図の形成に導き、社会と世界を創造していこうとするものです。

ですので、先天既得の音図から自覚された理想の音図を形成するまでの行程が記されています。ただし音図としては記載がありませんから、これを解明するのは私たちの仕事です。もしかしたら皇室の賢所に秘されているものがあるかもしれません。

古事記は音図の生成発展史として読むことができます。形成史からみれば長い時間となりますが、言霊からみれば、前記の音図のいろいろはイマココの一瞬の内の言霊思惟規範の循環です。

先天の五十音図規範から始まって、理想の音図を元に各意識次元の異なる音図を明かし、その用い方の誤用を正しつつ、全体と共有される音図を形成していく過程となっています。

音図を一言で言い表せば、吾の目で目は眼球のことではなく網の目の目となります。言霊循環上の各時点次元での吾の目を平面で示したものとなります。

世界にはアルファベットの一覧表はありますが、心の一覧表となっている五十音図とは似ても似つきません。

世界のどの国にも、人の意識を正確に反映できる言語体系はありません。唯一大和の日本語だけがその資格を有しています。

アイウエオ五十音図とはそういったものです。

五十音図の見方 御中主はどこにいるか

--------------------

御中主は言霊ウと書きましたが、音図のどこにいるのでしょうか。多くの音図がありそれぞれウの位置が違います。

前もって注意しておきたいのは、ウといっても言霊ウのことで、発音されたウではありません。現象発音のウを扱っているのではなく、現象を生むであろう言霊ウを解こうとしているものです。発音が同じだから同じ表記は必要ないということとは違います。

また昔の発音はこうだったと違いを際立たせようとするのもありますが、音声の違いを探しているのではなく、心の在り方の違いが発音の違いとなってくるその心を探しているのです。

五十音の枡目は全部埋まっていなければ成りません。この五十音図は田んぼに似ており、田んぼに何が植わっているのかといえば、稲で、五十音図にもイネが植わっています。す。そのイネとは、イの音(ね)で、現象生み出すイの音が五十在るので、五十音図なっています。発音の固体数ではありません。スメラミコトが田を耕すというのはイの音を耕すことです。(大嘗祭でいわれるゆき・すきはアイウエオ五十音図を二分したときのそれぞれ中央にあります。)

音図にしますと平面で、今まで平面図のイメージしか与えられませんでしたが、古事記では多く立体のイメージで語ってくれています。

音図の両端は必ず母音行半母音行です。(主体と客体、わたしとあなたのことですが詳細は次章で。)

この両端行を両方から押し閉めていき、ピタリと戸を閉めて一本の柱にしてそこに立ててもらいます。そして残っている四十の子音を引き上げて各階に四十づつ固定していくと、五重(五十)の塔ができます。そうすると、言霊ウは柱の中にいます。

こうして五重の塔という一人の人間の心が形作られ、各階に心がそれぞれ現れてきます。各階ごとに心の現れは違っていますが、中央の心柱は共通の基盤となっています。五十音図をそのまま立体としましたが、当初の五重の塔の思想には子音現象は含まれておらず、それは心柱の各階から出た窓です。窓から顔を出すには心柱を中心にして区切られた八つの床を通らなければなりません。それは心柱から出て八つのどれかの方向を選んで、その先の窓へ到達し、現象を眺める形をとります。

五十の塔は古代にスメラミコトが仏陀に与えた五大(地水火風空・シナには五行木火土金水で)の教えが基本となっているようです。五層の塔とは心のアイウエオそのもので、それ全体を一つにまとめると、頭頂にある九つの宝輪を通して十になり、五母音(主・わたし)から五半母音(客・あなた)へ渡って世界へ羽ばたくという心の在り方を示しています。

また、各階と心柱は固定されておらず、心の次元世界を自由に行き来する事を現物の五重の塔にして示しています。

母音行の配置

---------

昔の鳥居の形は奈良の三輪神社に遺されております。二本の柱の間に注連縄を渡して五つの御幣を付けた鳥居でした。注連縄はチイキミシリヒニの八父韻、それに二本の柱のアとワで十、それで十理です。

十理の原理で以って五十葉(いは)である五十の言霊を組(く)んで澄(す)ます(楠)と五十音言霊図が出来上がり、言葉を了解すること。