や 腹母音。

腹母音。はじめに。

母音とは何かをもっと近くから見てみようとするものです。

【かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、

御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は

(8) 泣沢女(なきさわめ)の神。

かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。】

この段落にある腹這いて泣くを、母音の発音を腹に持ち越した時の腹との関係としてそれを観ることから始めます。

伊耶那岐の命(各人一人一人の人間の主体的な精神行為をすること)は葡匐(はらび)=腹這いてまでして大和の心の言葉を探求していったのです。

葡匐(はらび)=はらぱい=腹映えで、倒れて腹這いになったのではなく、心と腹の関係を追求していたことを示しています。 腹具合と心の関係を這いつくばって研究したということです。腹這いはこころの探求の様子をべつの方面から明かしたものです。

昔から腹を心の在り処としてきました。現代の科学知識はそういったことを笑いますが経験知識は普遍です。(感情と腹の動きを追った番組を見たことがあります。感情と内蔵の関係を見せていました。)

腹から声を出すという譬喩はありますが、腹に声帯はありませんから音声はでません。声は出ませんが、横隔膜声帯の動きと通じて、腹斜筋、腹直筋、丹田、みぞおち、腹部位、さらには背骨、背中の筋肉、足の踏ん張り等々、が互いに連絡関連していてそれらは腹の動きに現れてでてきます。

古代人はこれを見逃しませんでした。

そこで前大和語の雑多な言葉を、おそらく他の民族の言葉もかき集めて、分類に着していきましたが、音と表現を前にしてそれらの整理の原則としたものは、現代の言語学者のように客観的に説明することではなく、その規則や制約でも無く、音素の比較や音韻律動でも無く、心のあり方でした。

大和言葉以外の全世界の言語は、心を音を借りて表現したものですが、大和言葉は心が音であり音が心である唯一の言語です。

前時代の大和での言葉も他の言葉と同様に音を借りてこころをしめしていました。

ところがここに古代大和の聖人が出現して、こころを言葉で直接表現する方法はないかと、探し始めたのです。音を借りた表現では、大袈裟に言えば、音に意味を込める人の数だけ、言葉の解釈ができてしまいます。

古代大和の聖人はそこから起きる幾多の問題を解決して、全人類が言葉を直接表明してそれが直接こころの表明となる、そうした言語体系を目指しました。

ところが、その研究の成果は、単なる言語創造に留まらず、こころそのものの構造までも解明してしまったのです。そのことによってこころの動きが分かってしまうということは、こころによって行動することが分かるということです。

行動の現れは、文化文明歴史創造となり、世界史の行方までもが、明かされてしまったのです。

こんなことを言うと笑われますが、あなたが笑った後に口にする言葉は、古代大和の聖人たちが創った人造の言語に沿って笑いの内容を喋っているのです。

これは単にこころの動きを見てこうだと何かを定めたのではなく、こころそのものを言葉で定めることを創造したのです。そうすると、こころの動きがこころそのもので定められていき、こころの表明である歴史もこころの動きそのもので定められることが分かってきました。

歴史分野はここでは検討されませんが、こころの動きを敷衍していくと、こうこうこうなると、古代の聖人たちは分かっていました。

こころの動きと、こころの現れである言語の動き、言語による創造行為、人の創造行為である生活社会、文明歴史、これらが全て同じ原理原則でもって動いていることが分かったのです。

こんなことは現代までのどんな偉人も哲学者も神でさえも教えてくれない事柄です。古代大和の聖人はその秘密をスメラミコトが継承するようにしました。継承は時と共に形骸化し忘れ混ぜられ混乱無化していきます。

歴史のこころの動きが分かっていたといっても、数千年単位で考えられることです。主体である人間のすることに個々の場面からする逸脱はいつでもあり、崩壊消滅は常のことです。

それに対して古代大和は万全の措置を施していました。

そして、世界史とはここから始まるのです。ユダヤの役目を定めたり、精神安定の為に宗教を創造させたり、指導精神原理が失われないように、大和言葉を一民族にのみ与えておき、その民に原理の象徴を与え、数千年後に解明させるようにしておきました。古事記はその流れの中で書かれたもので、皇統紀だけを抜き出して書いたものではありません。

ということで、皆さんは自覚しようとしまいと、その流れの中にいます。

さて、 この腹這いの段落は現象子音が発生した後のことですが、ここでは母音の発生に該当させます。

ここで【葡匐(はらば)ひて】といっています。

謎解きをすれば、腹-映えのことで、腹の緊張が心に映えてくるということです。

哭(な)きたまふは勿論鳴く、発音することで、腹の内部の緊張に合った心の同調を求めて心と腹の映えてくる音との関係を研究検討をしたということです。

古代人はどのような言葉が使われようと、

感情を現す時には感情の腹、

知識を経験を問題としている時には知識の腹、

五感感覚での欲望を充足させる表現の時には欲望の腹、

困ったことどうするかの選択を使用としている時には選択の腹、

意思決定し行為をしていこうとする時には創造意思の腹の、五つの腹筋の違いを認めたのです。

そこで発音される音との関係を探していくと、五つの母音が対応していることも発見しました。ここで母音と心の事象との対応が見つかった時、同時にその両者を介在させるものも発見したのです。心の感情事象の腹での腹筋の変化がアの母音の発音事象と同じであることと同時に、両者はアからアへ結ばれていく過程が見えたのです。

この結ぶ働きを父韻といいます。泣沢女(なきさわめ)のことで、そこで見いだされた腹の緊張を起こし同時に心の同調映えを起こすものが有るということで、橋渡しというようなものです。

泣沢女(なきさわめ)は悲しみを現す女ではありません。腹と心の同調反映具合を起こす為に鳴き発声して音と心の一致を求めている父韻のことです。(男か女か気にしたければ男ですよ。主体側のこころの動きを男、毘古などとしていますので。女の方に泣くことが多いので泣く-鳴くにかこつけて「女」という字で現しただけです。)

こうして、母音の発声と心の事象は母音の次元で一致していくことが確認されたのです。

心の母音事象は全て一般的、無限性、全体的、等が特徴です。母音の発音と同じ鳴きやまないことです。

例えばパソコンの画面を見て字を読んでいますが、字を読んで納得する一瞬手前の文字と対面したその瞬間瞬間の連続を構成している始まりの時間があります。

字は瞬時に読まれ納得されてしまいますが、この視覚でさえも数秒の何十分の一単位での時間の流れがあって、その初発を形成しているのは全体性です。古代人はここに言語の発生の根拠を見いだしたのです。

前大和の言語や外国の言葉では、心の事象と発音の関係が検討されず、たんに指示事象と意味内容事象とが当てはめられただけものとしてそのまま発展してしまいました。

古代大和人はここで、心の事象に対応する発音事象の対応を追求していったのです。

心の事象は全世界が五次元になっていることを見抜き、それに全く五母音が対応していることを見いたのです。

そこから他の外国語のようにものを指示する言葉ができていったのではなく、指示する言葉がものとなっている、世界唯一の言語の基礎ができていきました。、

そんなことが可能かどうか不安と期待に満ちた日々を過ごしてきたことでしょう。

そんな一端が

(3) 波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。

(4) 次に波邇夜須毘売(ひめ)の神。

という名前で残されています。

ハニ=言葉粘土板、ヤス=安らかに安定正確で安心できる、音と文字。

ここから全く新しい体系で、心を表現できる言葉が全人類の為に用意されていったのです。

こころの次元が五次元だというと、現代はいろいろと次元に関して知識があるのでああだこうだと言われますが、日本語を創った大和の聖人が五次元だと言っているのですから間違いがありません。

もし、次元世界に文句を付けたい方は、まず自分の話している大和-日本語を捨てて自分の言語体系を創ってからにしてもらいましょう。

意識は進歩発展していき、間違いは訂正されると言う時も同じです。人のこころを解明し、言語を創造し、歴史を創造できた人はスメラミコトを以外にどこにもいません。その為にユダヤはスメラミコトから選ばれた神選民族としましたが、スメラミコトは天孫となっているのです。

このように権威を借りても、わたしの書くことが正しいということとはまた別問題です。これは山頂にこころを打ち立てた者以外は、どんぐりということになるでしょう。

つづく。

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2。腹母音。呼気とこころ。母音と宇宙世界。

赤ちゃんが最初に発する言葉は何かと、『こども語辞書』 ( http://baby.goo.ne.jp/kodomogo/index.php )を見たら思っていた以上に多数の語が上がっている。どちらかというと母親の教え込む言葉の順位みたいでもあるし、親の希望の現れかもしれない。一番関心を引いた項目は「話した順番で傾向をしらべるで」、全体という欄にある平均発話順序が、言葉の意味不明ながら、一番「うー」、二番「あわわわ」、三番「ばばば」になっていることでした。

1-母音。

母音は子音頭によるTYKMSRHNによるブロックがありませんので、息の続く限り同じ音がでてきます。古事記に、『 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。』とあります。成りは鳴りのことで、鳴り発音することですが、

伊耶那岐の場合は、意思主体意識が成り、発動して鳴り鳴り発音するで、

伊耶那美の場合は、受け入れ受動態勢が成り、待ちっ放しの成り成りです。

岐はどこかで主体側の鳴り続けを止めなければならず、美はどこかで開けっ放しを閉めなければなりません。

それまでは両者とも、鳴り止まないのです。これがまぐあいの前提です。

2-母音の世界。

母音の世界は、出たものは出てくる、有るものは有りつづける、選んだもの、禁止されたものはそのままの状態が続くというものです。それらは力が弱まり、無くなり、外力、作用を受けたりして形が変わったりするまで同じことが続きます。

母音の世界は主体の活動がつづく限り同じ世界がつづきます。

3-母音の発語。

世界中で母音の種類は多くありますが、赤ちゃんの最初に発する言葉以前の発音は動物の唸りみたいで分けの分からないものです。その始めは単音のうーとかあーですが、発語と一緒に手足や表情をみていると何らかの意志と伝達と創造と自己了解とかがあるようにみえます。そのにこやかな顔を見ていたりすると、つまりここに心があるようにみえます。わたしたちは確かにここに心の世界が動いていることを感じますが、分けが分かりません。

4-母音世界の心での反映。

ですので母音の世界が心に反映するときには、こういった母音世界がそのまま映ります。

それらを反映した言葉も、母音世界、母音世界の心への反映、心の母音世界の言葉での表現というように元の母音世界を反映、表現したものとなります。

例えばここで言うことは赤ちゃんの笑いの、その様子を分析して、少し笑っているとか声を出しているとか何が嬉しいのかといって概念を探すことではありません。喜怒哀楽様々ありますけれど、それらの相違を挙げるのではなく、そこから受け取る持続を自分が持つことに関することです。

音楽で言われる基底音、トーン、主題といった個別分野がそこに乗っているものです。

子音の場合は気道が塞がれますので塞がれた分だけの反圧が腹にきます。そこから子音特有の反圧の意識が発生しますが、母音は出っぱなし出しっぱなしです。腹に蓄えるものが無く子音が産まれることがありません。あるだけあるありっぱなしの世界になりそのような心持ちになります。

5-母音世界の産まれる様子。主体側。

一言で母音世界といっても観点の移動によって様々ですのでここでは発生時を取り上げます。言語学は発生してしまった発音現象となった発音とか発語を整理分析していきますが、ここではそれらになる以前の母音世界です。単音の発生の段階にまで戻ります。変化変形を分析することではありません。

この世に産まれる母音世界はよく見て、自分の意識がかかわっている、今ここ、という時点を設定しその観点からすると、

今というのは、持続の一点を切り取っただけですのでスナップ写真としては止まっていますが、現実は流れの中にいます。そこで、流れと今との関係があり、それぞれが母音と対応指定行きます。

一、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の関係、

二、産まれようとしてあったものが今ある、といういわば、 過去-今の関係、

三、それら二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、 今-全体の関係、

四、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の関係、の四態があります。

そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造能動意志が今の全てを貫いています。今の持続。このそれぞれ次元の違う五つの今があるのです。

単に今という時にはこの五つの全体を指しますが、時場所によってどれかの次元をむしりとって、他のことを忘れ今としているのです。

例えば今と言った途端に今でなくなるとか、時間などなく今があるだけとか、言われますが、前者は二、の過去-今の関係、後者は四、今-未来のことをいっています。それぞれ全部正解ですが、大いに忘れ物があります。

今と言った途端に今でなくなるというのは、子供のわがままを忘れています。欲望の実現は、今頂戴すぐ頂戴ですが、それをいっている間をとおして常に今です。欲望に対して今と今言ったからもう今じゃないなどとは通じないのです。

時間など無く永遠の今があるなどというのは、自分の使う記憶概念の言葉が過去から出てきて未来のない不毛な言葉ということを見れば、時間があることも分かると思います。

またこういうのもありました。「今を個人の意志とは無関係に変化する事態と定義」したひとがいます。これはそこに書いて悪通り創造意志が無いというのですから、今も無いことになります。

さて、以上は主体側から見たものですが、ここに母音世界は産む側の世界、主体側、見る側、動く側の世界ができてきます。つまり、鳴るという行為、動き、動詞の働きに対して、その現れができます。

古事記では「命」との後に「神」が出てきますがその関係と同じです。別に言えば、働きとその現れということになります。「神」という時には、必ずその前に命の働きがきます。「男の命」も同じ表現です。

ですので、神だ神だと言っても、何の働きも無い絵空事になり、何も示せないのです。これは神を主語として神が何何したと言い直さなけばならないはめになります。言い替えれば神はなんだこうだと勝手に神の属性を当てはめてもよいことになり、解釈も勝手気ままになってもよいことになります。

古事記はこういった人間精神の構造からくる間違いを最初から指摘していますが、気付く人が少ないです。「天地の初発の時高天原に・成りませる・」といって、どの文章も同じ構造です。

そして、その後で、鳴る側と鳴りを受ける側が現われます。

6-母音世界が産まれたことが収まる様子。客体側。

前項の産まれる様子はそのまま産まれたことが収まる様態となります。

前項の母音世界の産む側の世界、主体側、見る側、動く側の世界はそのまま産まれる側、客体側、見られる側、の世界となります。

一、産まれようとしているものが今産まれた、いわば、 今-今となった関係、

二、産まれようとしてあったものが今あった、といういわば、 過去-今となった関係、

三、それら二態が一挙に俯瞰された状態、いわば、 今-全体となった関係、

四、そして、今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来となった関係、の四態があり、

そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造受動意志が今の全てを貫いています。今の持続。

まぐあい。

5-6の一二三四はそれぞれ対応しています。この両者が合わないと主体側の意図の実現はありません。鳴り鳴り鳴りで、何がどのようになっているのかが、客体側の形として現われないと成り余れるというわけです。

7-前記の対応した母音世界は心に昇ってきます。

前記の対応した世界がまぐあいに成功すればそこに成果、子、が産まれます。出来ごととして内容が確定します。

一、産まれようとしているものが今産まれる、この世界は後に言霊ウ、五感感覚による欲望充足、となって産業経済の世界となります。

二、産まれようとしてあったものが今ある、この世界は後に言霊オ、経験記憶概念知識、となって科学技術の経験の蓄積の世界となります。

三、それら二態が一挙に俯瞰される状態とがあります。この世界は後に言霊ア、感情の世界となります。芸術宗教となり、前記を超えた悟りなどになります。

四、そしてそれらの上にさらに今あるものがこれから動こうとしている、この世界は後に言霊エ、按配選択となり、道徳、政治、実践行為へと向かいます。

8-対応する半母音。

以上のそれぞれ収まる四つの世界が言霊ウ-ウ、言霊オ-ヲ、言霊ア-ワ、言霊エ-ヱとなって対応象徴されます。ウオアエに対応した半母音の世界となります。

ここでは言霊ウは共通です。産まれようとしているものが今産まれるのですから、産まれようとしている欲望は産まれる欲望と同じです。

言霊オ-ヲの場合は知識概念記憶の世界ですから、産まれようとしてあったものが今産まれますが過去の経験概念記憶とは一応別の今の知識という形で産まれます。

全体を見渡す言霊アは、ウオの次元を率いることはできても、エの次元までは決定できません。ア-ワは一般的抽象的という形になります。

言霊エ-ヱの場合は今が按配され選択されて未来へ向かう形になります。

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3。腹母音。母音が現われる為に。

9-母音世界と心の架け橋。

さて母音世界が心に昇ってくるといいましても、その実在の根拠がいります。

それが呼気を感じる心意気です。呼気は肺口から息となって出ていくだけのものではありません。呼気の流通のコントロールはそれぞれの民族のそれぞれの言葉の違いとなっているものです。

多くの場合は単に生理的な吸気と排気が声帯を震わすというだけの理解です。

ここに古代大和の聖人は驚異的な全世界的な全人類的な大発見をしたのです。五千年前以上のことでした。

呼気の流れを心に合わし、心の内容を呼気を発声し発音するという形で表現することを見つけました。それが呼気と心の一致になり、そしてこの心と呼気による発音の一致を実現したのです。

つまり発音することがそのまま心の内容を現すことになったのです。

前回の?º5-6の項目で「今」の五次元を紹介しました。

一、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の関係、

二、産まれようとし てあったものが今ある、といういわば、 過去-今の関係、

三、それら二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、 今-全体の関係、

四、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の関係、の四態があります。

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造能動意志が今の全てを貫いています。今の持続。このそれぞれ次元の違う五つの今があるのです。

この五次元の今が、主体側(うおあえい)あ行、客体側(うをわヱヰ)わ行の母音行に対応していきます。

そして主客間あ行わ行(あわ路)の両者を結ぶこころの架け橋があります。

例えば、われわれは画面を見ていますが、見る主体と、見られる客体画面と、その両者を結ぶ視覚とか空間距離とか眼鏡とか頭脳内了解とかが仲介しています。この三者が揃うと見る見たという現象結果がでてきます。

この見る仕方に古代大和は八種類の違いを発見したのです。あ-わの両端の中間に八種があり、あ行わ行で10、中間の8×5で40、の全部で五十音、アイウエオ五十音図ということになります。

こころの動きは無数にあるように見えますが、突き詰めると八つしかありません。神代の巻きにはしょっちゅう「八」がでてきますが、全てこころの動きの八種を指します。

画面を見る八種。見ると一言で言いますが実は以下の八種をごちゃごちゃにしていっているだけです。

チ。1。スイッチを入れたり画面を変えたりする時の初動を見る時で、全体を見ているだけで個別的なものの判別以前の時。パッと見る。

イ。2。相対的な画面が持続して眺められているだけで、個別的な判別をしていない時。ボーッと見る。

キ。3。画面の存在を認識するが、その内容のなんたるかを自分に引き寄せる時。どれどれと見る。

ミ。4。引き寄せる時にそれと自分が、結ばれる力動因が発動している時。なになにと見る。

シ。5。自分の中に静め込もうとする時。よしよしと見る。

リ。6。自分の内部が拡がっていくように見る時。へぇーーと見る。

ヒ。7。自分の外部輪郭が輝くように見る。わぁーーと見る。

ニ。8。自分が煮詰まり何かが抽出されるように見る。うぅーんと見る。 (チイキミシリヒニ、はブログ『言霊辞典、要素編』を参照。)

この八種が実在の五次元の今と結ばれると「見る」というそれぞれの現象になるのです。

おい、ほんとかよ、ともう一度今読んだところを読み替えそうと、段落探しのために顔を上げて画面を見ようとするとします。

そこでは3、4、の引き寄せ、結ばれる律動が、過去-今を確かめようと見るということが起きます。

( キ。3。画面の存在を認識するが、その内容のなんたるかを自分に引き寄せる時。どれどれと見る。

ミ。4。引き寄せる時にそれと自分が、結ばれる力動因が発動している時。なになにと見る。

と、

二、産まれようとし てあったものが今ある、といういわば、 過去-今の関係、

が結ばれる。)

この瞬間の時間の流れの中にも脳内意識は働いているので、全ての過程は記憶され、過去概念の形成へと向かっています。

そこで、なになにと見て、自分の内部か外部かで納得了解すれば、ヒ-7、ニ-8の段階を通過することになります。

面白いことに、「今」の五次元に関しては、次元をわざと混ぜ込んだ、質問集として禅問答がありますが、この八種を扱う問答集は仏教の教えを超えているのでありません。(昔、仏陀が大和に勉強に来ましたが、教えを受けられませんでした。竹内文書。)

さらに凄いことにはこの原理を用いて大和の言語体系を創造して、そこから社会を創造していきました。心の動きと一致した社会は政治の動きとなって旧約にも言葉は一つであったとある通り大和言葉による世界語の地位を得、世界の統治もスメラミコトによって行われていました。

これらのことはどの人類も成し得ず未だに手付けられずにいます。

これが全世界に散らばる各種分野での日本文化、日本語との関連性共通性です。今までは日本が世界から学んだものとして扱われてきましたが、歴史的に時間的に疑問をもたれている関連共通事項があり解決できませんでした。実は歴史をさらに遡ることにより古代大和からの逆輸入であることがわかるようになりました。そしてことに歴史の始めの動きに関しては大和日(霊)の本が発信地となっています。ことにユダヤとの関係も大和から発進したとする立場で全ては解決されていきます。

そこでわれわれ大和の日本語を話す人たちは元々が、世界歴史のなかで特別な次元にいることになりますが、世界歴史の運用はスメラミコトの経綸の元にあるとだけ言っておき、詳細はそれぞれの分野の方が実証されるでしょう。

さて世界との架け橋が発見されたことをわれわれは追体験しなければなりません。

全分野においてなされなければなりませんが、大和の日本語を知らないと理解できません。単なる学問知識なら翻訳で伝えられますが、こころの運用も含まれる全世界を運用理解するには言霊学が必要となります。

大和の日本語以外の構造では、母音-半母音を結んでの輪、環、和を創る構造がありません。そのため経験知識を利用することが得意と成りました。しかし現代では経験の整理では追いつかないことだらけです。

これを導くには三種の神器の使用法が公開されなければなりません。三種の神器はその精神機能を発揮すれば世界を運用していくものとなるのですが、理解者がまだ出現しません。その為の二千年間も寝かされた秘密が古事記の神代の巻きの内容です。

10-呼気と心。

心と母音の世界に架け橋を見いだしました。それはこころの運用ともなり、言葉の発音ともなり、政治の運用ともなり、世界の運用ともなるものであります。

それは主体側の意思、自らをいざない、相手側をいざなわせる、実在の呼気とその圧力、ひびき(韻)となる律動です。

古代大和において目前の精神と物質の実在世界をみたときに、実在世界が心に反映されることを知りました。もちろんいつでもどこでも同じですが。

腹減った何か喰いたいと感じたときとか、日の出日の入りの場所が毎日どうしてずれていくのかと疑問を持つときとか、太陽の輝きの有り難さを感嘆するときとか、今日はどこに行こうかとか、様々な実在世界に関与しようとするときそれぞれの呼気があり、それぞれの発音があることに気づいたのです。日の出を見る時どの民族もイーだとか、ウーだとかはででこないのです。

そこで古代の聖人たちは寄り集まり研究を続けました。一代二代どころか数世紀に渡った追求だったでしょう。

その後のその数千年間言い伝えられた様子と思われるものが古事記に残っています。

天の岩屋戸の章です。ここでは八百万の事物と精神の収拾をして、聖人が集まり、その整理をまず、常世の長鳴鳥(常なる世界の鳴き止まない母音)を集めて鳴かしめてとあるように、まず母音を分析整理していきました。常世の四つの心の世界、長鳴は母音がいつまでも鳴り合わないこと、鳥は十の理で四つの母音世界を十の理(父韻のこと)で解することです。

事物と発音の関係を究理していくうちに、まずイシコリドメの命に鏡を造らせます。イシコリドメは意思を凝り留めるということで、意思精神意識がものに関わり合うときの形を見る為の規範(鏡)を造ったということです。(堅石と金山)

この規範(鏡)が心(意思)の発現と一致するまでに何べんも何べんも研究し直されたことでしょう。(鋳鉄の譬喩で)

そして少しずつ形を整えていきました。玉祖の命は物事経験記憶事物の連続連関(言霊オとなる)、天の児屋の命は感情情緒喜怒哀楽の心(言霊アとなる)、天の手力の男は実践行為の選択按配(言霊エとなる)、そして天の宇受売の命は五感感覚からする欲望(言霊ウとなる)の整理が成り、最後に完璧な創造原理となる鏡である天照ができました。

古事記の神代の巻は精神の原理を扱ったものですから、実を言うと、岩屋戸でこうこうこう言っているというのは呼気と心の関係だけでなくすべてのことに当てはまるのです。このネタをばらす前に上を読んでいくと本当のように感じてしまったことと思われます。このように神代の巻の適用はすばらしいものなのです。

後は皆さん各自でどんな問題にでも神代の巻を開いて該当させればいいだけです。

そこでわたしの場合は呼気と心の関係になります。

こころの神代(かみよ)シリーズです。例によってどこまでいくか分かりません。そして神代というのは人を超えたあちら側の世界ではなく、心がこの世とかみ合う様子をいうものです。

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4。腹母音。呼気とこころ。母音の成立。

母音をチャクラに結びつけたり、松果体や太陽神経叢、丹田、経絡に響かしたり、音霊と称して姓名判断に利用したりしているようです。それらを援護擁護する為に科学的な理論や機器なども利用されています。感じる人が感じるだけでなく事実としてもあると言いたいのでしょう。

母音は子音と違って塞がれる気道がないので、腹への反圧がかかりません。脳腹丹田に響くと言うのは声帯の響きから来るのでしょう。母音の響きを腹部へ誘導することはできますが、子音のように腹から心持ちが産まれるようには思えません。

母音の特徴は鳴りっぱなし有りっぱなしです。出しっぱなし出っぱなしの母音を心に結びつけるのは難しいことです。チャクラや気を鳴りっぱなしで有りっぱなしの状態を説明しなければなりません。ところが多くの書きものには経験的な気や響きのことが主になっていて、母音のようなあればあったで続いていく世界とは違います。

小さな声にしろ大きな声にしろ、あーー、と言うとその声は弱まり微弱になるとはいえ地球の裏まで宇宙の果てまで際限なく鳴り続いていきます。その逆は宇宙から来る生命体からの微弱なサインを捕えようというのもあります。

数千年前に生きていた人を照らした太陽光線は今も宇宙を旅して今日明日にもあなたの視覚を叩くかもしれません。そこで共感同調し波長が合えば釈迦の顔やマリアの顔を見ることができます。あるいは現代では神と呼ばれている人の声を聴いたりすることもできるでしょう。

ただしこれらのことは多くの経験談にあるような現象とするには人の五感は弱々し過ぎます。そこで言えることは母音世界の母韻(音ではない)との共感同交があるのではないかということになります。韻(響き)の共感同交があったことを元にして、後は経験者が勝手に頭の中で造り上げた話が多くなっているようです。

それにしてもどのような人の廻りにも数千年数億年の地球、宇宙の歴史がまといついているということになります。そして不思議なことに人にはそのような韻(ひびき)と同調する性能があります。またその性能が発揮できないと人としての形を成しません。古事記は共感同交する性能を伊耶那岐の命といっています。

みこと(命)というのは人の働き、性能、それらを表現した言葉ということで、その実践行為をしていく人のことです。命をもって行なうです。

神というのは人の行う行為の原理原則やそうしたものとしての実在、ひいてはそれらを奉り揚げたものです。ですので神は簡単に持ち上げられ拝む対象になり、拝む(愚か者がおろがむ)ものとなります。

奉り揚げられるものがまずあったとする設定にすると、あーーの世界は神の世界となり、地上の経験感情と結ばれれば立派な〇〇神の誕生ですが、話しが飛びすぎですので戻ります。

話が宇宙とか千億年とかで始まっていますが、もちろん日常の何の変哲もない今ここのできごとに生きていることと同じ意味合いです。

鳴りっ放しの母音はいつかどこかでそして今ここで、主体側の韻と協調できる出会いの状態にあります。アーーという声をここで聞くか、電話さきで聞くか、録音して明日聞くか、旅行先で聞くかいずれにしろアーーは宇宙に充満しているのです。

これが母音世界の特徴で、もしここに主体側の共感同交がなければ、宇宙に充満している母音アーーはいつまでも宇宙の迷子でいます。これからも何十億年と彷徨していきます。

ですので母音世界とはこういったことが充満している宇宙全体と同じことになりますから、そこから母音の心を導き出すのは大変なことです。チャクラだとか丹田に結びつける人は宇宙世界と結ばれていることも説明しなければならないのです。今まで見聞きしてきた説明は単なる関心興味からでたもので恣意的なものばかりです。そこにある種の意図を繋げ、経験の因縁を全面に押し出して作られているようです。

そういったことは個人の意見主張ならお話として聞くことはできますが、わたしにはそれはちょっと無理にみえ、単なるちょっとした経験事実のからの逸脱のように感じます。

わたしはもう少しつつましく行こうと思います。

母音世界が宇宙に充満していて宇宙と同じだけの大きさを持っていることが分かりました。今までは、発音された母音を見ていましたがこういうこともいえます。

一億年前に恐竜の歯をキラリと照らした太陽光線は微弱ではあるが、いまでも宇宙をさまよっています。恒星だけが何億年かけて地球を訪れるのではありません。宇宙世界の全てが同じです。言い替えれば客観とは母音世界と同様であるということです。

母音は聴覚にかかわるものですが、母音の客観世界は人の性能の全部に対応しています。聴覚がなければ空気の濃淡しか存在せず、人の各種の性能がなければ宇宙世界も物質の作用反作用でしかありません。それを知る主体側の受容体制が整っていなければ何もないのと変わりません。

わたしの人生は宇宙地球の歴史何十億年に対して、日本の歴史の一万年に対して、たったの数十年で、地球の人々数十億人、日本の人口一億人に対してたったの一人です。それでも自分がいなければ何もないのです。わたしのいない相手は相手ではありません。

母音世界、客観世界はただ有る、有りっ放しの世界です。きりの無い大世界宇宙です。このことをそのまま受け取りますとこういうことになります。

母音世界、客観世界宇宙はそのものとしては決して現象にならないということで、そのままいつまでも続く先天性の普遍の実在ということです。わたしがいなければ世界宇宙はそのまま迷子となってさまよいます。

恐竜の朝日に輝いたキラリとした獰猛な恐ろしい歯は、わたしがここで見なければ存在せずさらに次の宇宙ヘと向かうでしょう。しかし通常は経験事実としても起こりません。三日前のことでも忘れてしまえば何も無いのです。それらがあるように思え事実として有ると言わせるのは記憶概念です。

記憶は手に掴むことも匂いを嗅ぐこともできません。それなのに有る在ったと頑固に主張することができます。記憶違いにしろ本当であるにしろそれを保証するのが五感感覚と知識となったものを了解している自分の感情です。自己感情の了解が喜怒哀楽として表現されますがその大本は自分と相手対象が全体として了解納得し合っているということにあります。その為にいろいろな自分の中にも主張の違いからお気に入りを選択して頑固な主張と成るわけです。

前述の総体が宇宙であり、この世であることになります。人の世界には先天的にこうしたことがあります。そのことを人の誕生自分の誕生に該当させると、世界宇宙から新しい世界宇宙ができるということで、そのまま先天の普遍な実在となります。赤ちゃんであるわたしは最初から宇宙として産まれてくるのです。

各人が先天的に宇宙であることなしには、あるいは、各人がそれぞれ世界宇宙そのものであるので、この世とかかわることができるのです。わたしの生と宇宙の生とは同じ土俵に産まれたものなのです。

こうして私自身の生も本来ただ有る有りっ放しです。いろいろと偉い人たちが人生のあり方生きる目的とかを講釈していますが、まずはわたしたちは全部の世界を持っているところから全部の世界を持ったまま産まれてきたということに注意を向けるべきでしょう。

個人があるから世界があるといっているのはありません。世界は個人的な世界である言っているのではありません。誰もガンジス川の砂の一粒も生んだことはありません。全ては先天的にあります。その先天性とはわたしでありあなたであるのです。もしあなたに差し支えなければ、あなたを神といい、わたしを神もいいます。世界創造の主なのですから。

アーーだとか母音だとか客観世界だとか先天だとか分けの分からないことを言っています。この分けの分からないことが人の活動基盤となります。最初から分けの分かったことから始めると、それはその人の恣意的な意図的な興味関心からでただけの、要するにそれだけの、あーそうかというだけのものとなってしまいます。論争に依って高みへ昇るのだというのもありますが、二つ三つの観点が増えるだけのものです。

さて、わけの分からないわたしと相手の世界をどうしようというのでしょうか。わたしのこころはどこにあるのでしょうか。

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5。腹母音。呼気とこころ。先天の半母音。腹と心。言語発生の根拠。

先天の半母音。

心を表す言葉づかいに腹や胸を用いたものが多くみられます。現代科学によって腹や胸じゃなく頭だよといわれても訂正される気配はありません。何故でしょう。

言葉はどこから出てくるでしょうか。もちろん口からです。気道を通って呼気がでてきます。では呼気はどこからくるのでしょう。胸、肺からです。解剖の知識が無ければお腹からと答えることもできます。何故なら実際にお腹が動くからです。

これらは物理的な動きや肉体的な感じであらわされることができます。

では言葉の内容はどこから来るのでしょうか。

言葉の意味は、言葉が示すものはどこからくるのでしょうか。

視覚等の五感感覚や概念記憶等の頭脳の働きからきます。

一方の呼気音声は胸、腹なのに片方の意味内容は頭脳の中からでは話が通じていないのではないかと思われます。

片や頭の中の働きで、片や生理肉体のはたらきで、どちらも片方だけでは何も現れません。

はたしてこの両者の関係はどのように結ばれているのかが問題です。

言葉が心を表すとしても、言葉は片や呼気であり片や脳髄の中です。生理学によって脳髄が呼気を統制しているのが分かっていても、心の中にあるもの心の内容が呼気とどう関連しているのかは分かっていません。

ここは脳科学でも大脳生理学でもないことたま学の話です。ここまでのことをそのまま延長しますと生理的な言語学、肉体の言語学みたいなものになっていきます。

ここから先は心と言霊のことになりますから科学的な思考も納得させるように経験に逆らわずにいきます。しかし霊魂だとか言葉の魂だとかの概念だけのものは出てきません。

世界には多くの言葉があります。いずれも心の内容を現すものです。心を表す言葉がその呼気は胸と腹から、言葉の意図は頭脳からと二方面から出てきます。通常もっぱら頭の方面しか考えていないようですが、頭だけあっても言葉は出てきませんので、この両者がお互いに納得し合っている構造を通して働きあっていることを探さなくてはなりません。

もちろん沈思黙考で概念の運用だけということも可能ですが、そうなるとお話が出来なくなります。

頭の中で独り言をしているのだから、腹胸等は関係ないという方もいますが、その頭の中にあるのは、出来上がっていた借り物の言語体系です。今はその出来方を追求しているところです。

言葉の使い方をみても分かる通り腹、胸を借りた言葉と心に関する表現から、何かそこに重大なことが隠されています。そして実際に昔からいわれている通り心は胸と腹の中にあるのかもしれません。腸が煮えくり返るなんて言うことになれば心は腸にもあることになるかもしれません。

そこで大昔のように大脳生理学など知らず実際に感じられ確認できる心から出発してみましょう。腹に含み、胸に蓄えられる心があるとして、それを心の腹とします。

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何もしていない時何も感じない時考えていない時、こころは静かです。何も感じていないのですから静かで当然です。そこでは腹も動かず腹があるのかさえ気付きません。

心の活動が開始されました。その途端に多くのものが動き始めます。じっくり探ってみてください。

腹の腹圧が高まります。

気管支が緊張します。

声帯も閉じたような動きを見せます。

五感感覚の何れかが何かを求め得ようとピーンと張り詰めます。

注意が集中されていきます。

すると大脳がうごめくというか準備の為に待機しているのを知らせるのというか、大脳のある空間が意識されてきます。

そして時が動き、流れるのを待つような気がしています。

これらはどれがどうだと分離して分けられるものではなく一つの全体性を形作っています。始めの始めは何だか分かりません。全体の一塊のようです。薄ぼんやりと、自己の存在があると感じるだけのようです。

それは心の力動因が動いて活動を始め自らを明らかにしようと、自己表現の為にうごめいているのです。そこで一たびこころの力動因が作用し始めますと、頭は頭、腹は腹に分かれていきます。

何かを考え感じようとする意識は頭に向かい、何かを語り感じたものを知らせようとする意識は腹にむかいます。

何かを発声発語しようとする時、薄らぼんやりある自己存在感のようなもの出来ていきます。そこでは、 腹は頭を招き、頭は腹を招いています。しかしこの両者の招き合いを実現する動因がいります。

そこで頭への方向が強調されると独り言をしているといわれ、腹への方向を強調されると喋りたいものがあるといわれることになります。

実際はこの両者は結ばれてでてきます。

これが腹の緊張、腹圧で、呼気の肺活量から来る声帯の振動です。

声帯の振動は口腔を通して脳に伝えられます。

こうして脳と腹を声帯の振動が往復します。

では脳にあるこころ、脳の心の動きはどこに伝えられどのように分かるのでしょうか。

それは不思議なことに腹に伝えられます。

声帯の振動は腹と脳を往復しますが、その振動に乗って脳内のこころが腹に降りてきます。

そして脳内に起きた心の在り方は、腹との共感同交を起こし腹の緊張となるのです。

この場合は単なる緊張ではなく、言葉を発する為の緊張となります。

話される言葉はごまんとありますから、その脳の動きが詳細に伝えられるというのではなく、心の在り方の次元段階を示すものとして腹に伝えられます。それは五つの腹の緊張によって表現されます。つまり脳内の全部のできごとは腹では五つの単純化した次元層で現されます。

前に「今」の五次元を紹介しましたが、それをまた繰り返しましょう。

『一、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の関係、

二、産まれようとし てあったものが今ある、といういわば、 過去-今の関係、

三、それら二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、 今-全体の関係、

四、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の関係、の四態があります。

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造能動意志が今の全てを貫いています。今の持続。このそれぞれ次元の違う五つの今があるのです。』

これは発語される以前の頭の中に緊張が走った時の腹へ向かう関係です。当然逆の腹による受け取りの五次元も含まれています。

ついでそこに、発音器官の介在によって言葉が出来て、脳内のできごとは全て言葉で表現されることができるようになるのです。

ここで脳内のできごとをうけた腹と発音器官が一致していかないと、脳内の心と発音とがバラバラになってしまいます。

古代大和の聖人たちはこれを繋ぎ止める世界最深奥の秘密を発見したのでした。それがみとのまぐあいというものです。何ということはないセックスすることと同じ構造であることを発見したのです。

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脳が働き心が活動をするとは要するに日常生活をすることですが、大和の聖人たちはごちゃごちゃ無限に分類できる人の感情と実在行為を腹の緊張に対応させて整理しました。( 全く考えもつかない必殺技です。)

そうすると人とはどのようなことをしていても全てが五つの腹の緊張に還元できることを見つけました。

その五つとは、脳内の心が送ってくる信号をまとめると、

五感感覚の次元、これは、今-今の関係へ。そして後に言霊う。

知識記憶概念の次元、これは、 過去-今の関係へ。そして後に言霊お。

感情情緒の次元、これは、今-全体の関係へ。そして後に言霊あ。

按配選択の智恵の次元、これは、今-未来の関係へ。そして後に言霊え。

意思創造力発現の次元、これは、今の持続の関係へ。そして後に言霊い。

の五つになりました。

見たい、食べたい、聞きたい、知りたい等欲望の充足を求める心は、何時でも頭の中のこころの動因が、同じ腹の緊張位置にあり、同じ声帯の緊張を伴っていました。

知識記憶に関すること、情緒喜怒哀楽に関すること、選択按配に関すること等、同じ緊張内におさまっていったのです。

もちろんこの整理研究当時はまだ大和の言葉はできていません。雑多な混じり合った状態だったでしょう。しかし、長年の自分の腹を見つめる結果を突き合わすと一定の枠内に収まってきました。

と同時に雑多な発音も安定した枠内に落着かすことができたのです。そこで見つけた、発音も五つしかありませんでした。そしてその対応も完成させて行きました。

五感感覚の次元、それに対応する発音は、ウ、であることを見つけました。

知識記憶概念の次元、それに対応する発音は、オ、であることを見つけました。

感情情緒の次元、それに対応する発音は、ア、であることを見つけました。

按配選択の智恵の次元、それに対応する発音は、エ、であることを見つけました。

意思創造力発現の次元、それに対応する発音は、イ、であることを見つけました。

こうして、心の全事象世界が五つであることが分かりました。この五つの上に全ての人の心が乗っていれば全員が通じあえるわけですが、心の個別化がまだできていません。

心の次元層の分類ができて、どの次元の話になるのかはわかるようになりましたが、まだ声にはなっていません。

こころのうごめきが心の腹に伝えられ、心の腹圧が高まります。こうして、心にあるものは心の腹圧となって腹や胸に蓄えられ、感じられていきますが、心が動いているというだけで、どのようなものかははっきりしません。

そこで、心は心の腹圧が気道を通して上がり動因となり、一方舌口蓋を変化させて声、言葉となって現れる道筋を見いだしました。ところが心は物質でなく目に見えませんし、自分の心を確かめ相互に確認了解するには物質の形になり、現象となった形をとらねばなりません

それが言葉です。言葉の出所が物質と結びついていることはその表現は物質の条件運動に従うということです。手紙を書いてわたしは元気ですと表現する時、毛筆で書くのと、パソコンで書くのと、喋るのと、それぞれかかる時間が違い、考えながら造った文と意識が流れ出てできた同じ文と、突然出てきた同じ文とでもそのできた時間は違います。

瞬間ともいえる短時間からなにをぐずぐずしているのかという長時間まで色々で、頭内での意識の経過も様々です。経験したことを表現するのに超人的な例が多くありますが、ここでは心と言葉の物質方面がむすばれる原理を扱っいます。

心の腹圧はどの国の言葉でも感じられていて、その現れは気道声帯を通り口蓋、舌の変化する使用法によって違いがあります。複数の言語があることに関して旧約聖書には言葉は一つであったとありますがその意味するところは、近い将来普遍的に理解されるでしょう。

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6。腹母音。母音と半母音。「ウ」の発生。

非常に分かりづらい又くどい話が続いているようです。今回もその一環となりそうです。わけの分からない母音、客観世界とか宇宙とかで支離滅裂のようで、今回はそれに半母音が加わります。

すっきりすんなり綺麗で正しく書かれているのは古事記の神代の巻ですが、漢字の当て字ですから誰にも分からないようになっています。それでも時と共に本当のことが解明されていきます。早くみんなと一緒に古事記の謎を解きたいものです。

母音とはどういうものか探っているところです。呼気の流れが邪魔されずそのまま出てきて鳴りっ放しですが、その母音が実在世界の何に対応しているかです。あるいは実在世界のどこから母音が出てきたのかです。

母音は沢山ありますが、沢山の母音を実際に一音で現すことができませんが象徴的に現すことはできます。それが象徴として現された天の御中主の神(言霊ウ)です。布斗麻邇御璽(ふとまにのみたま) という図に示されている〇に・(ちょん)が入っている図です。同じ天の御中主でも言霊ウの働きをしてる時は四重まる(ウオアエのこと)に・(ちょん)が入っています。

母音世界は客観世界と同様に鳴りっ放し在りっ放しの時空共に無限の世界です。しかしここに人が出てきますと人の肉体上の制約制限から有限界が生じてきます。あーーの発生が無限に続くといっても身体の受容限界を越えればそこまでどまりです。その後は機器のお世話、科学技術のお世話にならなくてはなりません。

ここに人間の機器を使ってでも無限に到達しようとする意志と常なる制限を受けいれる精神世界があります。結局母音世界の心にも片や無限片や有限のこころもちがこもってきます。言い替えれば人も自分も外の世界も無限であることに気が付いたということは、無限という限界を納得したということです。

無限という有限に行き着くことは日常生活上でも普通のことです。感じ考え思い付くだけのことをして無限のことをした、もっと上手にいえばあらゆることあらゆる手だてを尽くしたといいますが、その人の有限をしめすものです。

おそらく、ここに母音が発生します。

実在客観世界は無限の物理的な力の作用反作用の世界でそれ自体独自なものですが、ここに人がかかわり始めるやいなや、物質世界の無限の自然な世界が人の性能によってそれぞれ有限のかかわりとなります。

しかしこれは有限な人がかかわり合うからというだけではありません。無限持続の時空にかかわる人間側に相手と同じ無限の時空が実在していなければ何のかかわりもできないのです。人が無限でなければ客観無限世界にかかわれない、同じ土俵に立てないと言うことです。

この土俵が母音なのです。では実際に母音のなにがどのようにか。

最初は母音世界全体です。何々の母音という判別できる以前の総体としての一塊です。

その全体を象徴して全母音世界である天の御中主の神、言霊ウと名付けました。

ウオアエイと分離された母音の一つのウではありません。全世界の象徴である言霊ウです。五母音の内の一つとなったウの発生はまだ後々のことになります。世界の無限を象徴する言霊ウのことで、その無限を有限とする言霊ウの天の御中主の神(ここでは一人二役)ではありません。

世界の無限を象徴する言霊ウが産まれました。とはいっても象徴を話しているだけで勝手ないい加減なことを言っていることとなんら変わりません。問題は人間側に実在する無限の実在を示すことです。

象徴がウだからといってもこれは「う」という発音をまだ示していません。言霊ウはこの世の世界宇宙に意識の兆しというか人がかかわることを始めるや否や人の精神宇宙に目覚める無限への感情です。実際の場面に注意していくと、まず物事の意識の始めの兆しに現れるものです。

例えば実験してみれば、一秒の何十分の一秒以下の時間に視覚ならば視覚に現れ固定される以前の世界のことです。視覚を移動して次のものを見る時の見たという以前のできごとになります。そのときにはそこに有るものは何であるのか判断を下し与える以前の世界があります。ぞれを引き延ばすと、そこに何々がどういう状態で何故あってそのあるものの性質はこういうものでという後からつけ加わる固定され規定される全ての時空が含まれている状態です。

朝日の昇るのを見てその感動の瞬間に発声される声の直前に確かにある母音世界のことです。この状態は後に人の性能の五つの次元に対応していきすが、当面の今は一塊の全体世界です。古代大和ではそれを言霊ウと名付けたのでした。

何故これが母音のウになっていているのか。

まず何故母音であるのかといえば、意識のかかわる兆しのその直前の時点で現れるものは何々であるとの規定され固定された対象とはなっていません。ただありあるだけのもので、古代大和においてモーゼが来朝のおりにスメラミコトが与えた言葉とされる=我は、有りて有る者なり(出3:14)のもとです。八咫鏡(やたのかがみ)の裏側に書いてあるらしい。

モーゼにおいて宗教用に解させるために与えられましたが、本来は人の心は宇宙と同等であることを示したものです。宗教用に解された現代からすれば神の立場から神は宇宙のことであることを示したものですが、古代大和では神などという概念は必要ありませんでしたから人とは宇宙のことこの世界のこと、もし言いたければ神とは人のこと、といった意味でした。自分とは宇宙だということです。

ここは無限とか有限とか変な言い方になっています。相変わらず説明がまずい。

イメージを利用すれば三角形、△、や根元の繋がった松葉や双葉、<、などになります。言葉ではそれは神代の巻の淡(アワ)路の穂の狭(さき、先)別の島という表現です。アワというのが離れた松葉の二辺の先っぽが頂点から拡がる二辺で、穂が三角形の頂点や松葉の元の部分です。先っ穂が人の了解した有限と無限です。

この先っ穂を言霊で表現すると言霊アと言霊ワであり、二辺が交わって元の部分で同一となっているのが言霊ウの宇宙です。この言霊ウの世界は二つに分かれる以前の意識の兆しが心に昇ってきた時のことをいいます。

在りっぱなしの世界が心の在りっぱなしの世界と同調共感した様子を兆しとか兆しの始めとか言いましたが、実際の流れは兆しの連続持続です。兆しだけがあるのならその後に出るものはありません。それだけのものです。

兆しだけでそれだけのものというのは、単に概念で言われているだけです。何故ならそのものとして現象になって現れていないのですから、五感の対象でも無く経験知識の対象でもなく記憶としてあったものでもありません。

しかしそのような兆しをもたらしその後に意識の対象となって、現象して五感、感覚の対象となるものです。現象としては無いけれどその元となってあるあるもの、これを先天の実在といいます。

意識の対象となったものではないけれどその始めの兆しを示しているもの、生まれ出てくるうごめきの動く動因として実在しているものです。

母音の響きをチャクラや丹田に伝えるのは発音された音声の現象したものの世界ですから、ここではその逆に母音を発生させる方向を取らねばなりません。あるいは最初から発声があってそれに自己表出とか指示表出とかをくっつけるのがありますが、母音の発生の根拠を示していませんので、実在の根拠を探す必要があります。

探すものはこの実在の根拠となるものが鳴りっ放し在りっ放しの無限、きりがないこと、いくらでもあることの人間性能への反映です。実在とは言っても実体現象となる以前のもので、自己表出され指示表出されるもの以前のことです。表出されるものが有るということになるとそれは既に現象となったものです。現象から始めると混乱しか起こりません。

自分の感じる心、思う心を松葉の根元に戻さねばなりません。このなになにしっ放しの無限となっている根元が母音です。全ての産まれる元となるものです。

しかしこれを発声に取ると声帯や胸や横隔膜からは母音はでてきません。確かに出てくるのは声で母音となって発声されますが声は肺活量によって途切れます。

ではどこに鳴りっ放しがあるのかというと、腹に在ります。

声は声帯と横隔膜だけで発声させるのではなく腹が働いています。この腹を注意して見てください。肺の呼気は直ぐに終りがきて、発声ができなくなります。そのときの腹を見てください。

声が終わっても腹の緊張は続き腹圧に変化がありません。声はと切れ肺ははあはあ言って大きく胸が動いているのに腹は静かなものです。同じ緊張が持続しています。それどころかこの腹の緊張の持続によって同じ母音の継続が可能となっています。あるいは声を出さずとも腹の緊張腹圧は緊張させっ放しにすることができます。

この腹から母音が産まれます。

腹の重要性は全ての分野で言われていますが、結果現象を産むことは経験的に分かってはいても先天のこころの動因がここにあることを明確に示すことが必要です。胸横隔膜を使って発声となる以前の人間側の実在世界がここにあります。ぜひ腹の緊張持続する無限世界を味わってみてください。

呼吸に応じて腹は上下し、声を出そうが出すまいが、腹に緊張が産まれない時には人は何もしていません。そしてひとたびこころの緊張が腹に生じたならば、腹は世界を相手に世界に向かい世界を受けいれる腹となっていきます。

こころの先天の領域は腹に在り、この腹のうごめきが揺すり揺すられその動きがいざなわれると心の兆しが産まれます。

古事記をみてみます。

【かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらば)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。】

この段落は現象子音が発生した後のことですがここでは母音の発生に該当させます。ここで【葡匐(はらば)ひて】といっています。腹-這いで謎解きをすれば、腹-映えのことで、腹の緊張が心に映えてくるということです。哭(な)きたまふは勿論鳴く、発音することで、腹の内部の緊張に合った心の同調を求めて心と腹の映えてくる音との関係を研究検討をしたということです。

そこで見いだしたのは腹の緊張を起こし心の同調映えを起こすものが有るということで、それを泣沢女(なきさわめ)といいますが、悲しみを現す女ではありません。腹と心の同調反映具合を起こす為に鳴き発声して音と心の一致を求めている父韻のことです。(男か女か気にしたければ男ですよ。女の方に泣くことが多いので泣く-鳴くにかこつけて「女」という字で現しただけです。)

さて母音の発声を求めて実際の発声器官を越えて腹にまできました。腹の緊張にみられる無限性が母音の無限性に対応しているのです。

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7。腹母音。「片手の音」。半母音。呼気とこころ。こころの神代(かみよ)。

今回は受動側から見たものです。半母音。

白隠が修行者たちを前にしてこう言った。

「隻手声あり、その声を聞け」 (大意:両手を打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がしたのか。)

実際にやってみれば出来ませんが、音にこだわるならば指を鳴らせば音は簡単にでます。両手でなく片手を床なり腿なり適当な対象と合わせれば音がでます。また両手を叩いて音を出した後に記憶に残して片手で音を出しているつもりにもなれます。

数十年前におぎゃーといった自分の泣き声は非常に微弱になっているとはいえ未だに宇宙をさまよっています。人の足を踏んでしまい痛いと言われて顔を見つめあったときの運命の初恋の声はいまでも聞こえます。

頓智や物理学や記憶などで答えればそれぞれなるほどとなります。それらに知識の釉薬や仏教の専門用語を塗れば結構な文章になるでしょう。

感性とか心で聴けとか、色眼鏡の判断を捨て分別を捨てこだわりを捨てて聞け、なんていうところが坊さんたちの解答らしい。勿論分別を捨てた判断解答をするということ自体はどうなる、とつつかれますからそこは以心伝心無音を聞くという風に逃れていきます。まあ、頭の中ではその積りになれますから安心もできますが。

白隠さんがどんな積りでどういったかは知りませんが、半母音からの解答です。

この問題は両手というのはわたしとあなた、主体と客体、見る側とみられる側、分別する方とされる方、等々対になっているものならなんでもいいのです。対、陰陽、表裏になっているけれどこだわりがあろうと囚われ偏りがあろうとあるまいと、現象としてそれらを見てしまわないということです。

わたしとあなたが抱き合っています。あなたは座を外していなくなりました。わたしは一人であなたを抱いています。握手する練習をしているでもテレビを見ているでもどんな日常行為でも同じです。こっちとあっちで一つの円環= 和ができていることなら、その状態の如何にかかわらず成立する問題です。

その片方だけの声を聞けというのですから、こだわり分別を捨てる心で聞く感性で聞くなんて言い出したら駄目ピシャリと叩かれます。聞くというのが一つの自分と対象との行って帰る環状の上に乗っているものだからです。

問いでは主客の和が成立していないのです。輪が成立していないのに聞いてみろというので、本当は聞く側と聞かれる側があるのですが聞く側の主体行為のことはこのシリーズの始めから述べてきていますので、まだ残っている聞かれる側と主客を仲介する力動リズムのうち聞かれる側=半母音を取り上げます。

両手があっても手が勝手に打ち合うわけではありません。意志の介在があります。この意志の介在があれば膝を打つ頬を叩いて音を出すでも構わないのですが、その時は質問が手を使わないで頬を叩けみたいになるので、白隠さんはそうしなかっただけです。同じ構造の問題です。

今までは母音も半母音も父韻もごちゃごちゃにした形で書いていました。これからはそうもいきません。(本当は分かっちゃいないのでうまくかけないだけですが。)

心の構造の見取り図。

〇原理=先天言霊元素が十七+後天言霊元素が三十三+運用元素が五十。計百。これが古事記の冒頭百神です。

心は心の先天、後天、運用によって現れてきます。それぞれ、

・心の先天。--先天言霊元素が十七+後天言霊元素が三十三+運用元素が五十。計百。

・心の後天。--先天言霊元素が十七+後天言霊元素が三十三+運用元素が五十。計百。

・心の運用。--先天言霊元素が十七+後天言霊元素が三十三+運用元素が五十。計百。

先天言霊元素の構成は母音+半母音+父韻の十七。

各言霊元素が現れるたびに百の行程の重層的な上昇螺旋構造をつくる。

原理の五十の元素はいわゆる五十音図のことです。何のことだかそう簡単には解けないものなのです。というより解こうしている間は多くの人たちの努力にもかかわらず駄目な努力の一つとなるものです。せいぜい見解の相違の一つとなって埋もれるものでしょう。

それを脱するには自己責任みたいなやり方を放棄することですが、これは時の流れに逆らうことでもあるのでそう簡単にいきそうもありません。そのノウハウは宗教芸術分野の人たちがよく持っているので、早く個人趣味の檻の中から出てもっと世界に伝えるものがあるというメッセージの発信が必要でしょう。(話が逸れています。)

さて心の宇宙があることは誰でも知っていることですが、心は多義多様といいながら、心は一つという平板な見方で、返って心の外の霊界などというものを設定してその段階次元霊位などに気をとられている始末です。心の階層、仕組みを分析はしても心にある次元世界を見ようとしていません。

とは言っても心は一つのように見えます。心は一つにまとまっていながらその現れ方はあっちこっちに飛びバラバラにもなります。心理学で潜在意識深層心理などと言われても半分は信じられていません。深層であるどころか目前眼前に出ているものです。

心理学ではあるかないかを問題としている深層、潜在ですが、言霊学では最初からあるものを問題にしている先天です。前回腹母音を見てきましたが、心理学でならあるかないを探しに行きますが、言霊学では心の始まりと共にあるものですので、探し見付けることではなくそれが心に成り行く姿を追います。

動きの兆しが始まるやいなや全体が分裂以前の卵のようにあらわれます。瞑った眼を開ければすぐに目前にあるものを了解しますが、それでも納得するまでにかかる数分の一秒間の時間の流れがあります。これを百の神の名を使って説明したのが古事記の冒頭でそれを原理として言語にしたのが大和の日本語で、それを統治に適応したのが古代朝廷で、それを人類に適応したのが経綸といわれるこの世界史です。

ですので眼を開いた瞬間の解明は世界史の運用と同じ意味合いを持つものなのです。いずれも心の運用に関するもので、こころは神代の巻の原理通りで、古代においてスメラミコトが世界運用の基としたばかりでなく、現在の世界の動きを決めていたものです。( ここから先の話はまだ後で。参照。http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/3rd_cvil.htm )

片手で打つ音を聞けと白隠さんがいいました。音という現象、出来上がった現象、分別を捨てろという現象、感性心で聞くという現象に囚われれば全部アウトです。現象は主客、自他、わたしとあなただけでは成り立たずその両者間を行き交うものがいります。この三者を造化三神と言っています。

両手でも片手でも指でも膝でも頬でもなんでも構いませんが音を出すという現象は音を出さす側と出される側とその両者を取り持つ意思行為があります。実例を揚げるとさらにこんがらかるし、哲学思想では主客論で既にこんがらかっているし、キリスト教では三位一体で首まではねるし、世界-内-存在などといって日常語の価値の無い用法が持ち上げられるし、どうしようか困ります。

肝心の禅の方からは以心伝心だと言ったきり寝る以上のことはしないし、これからどうなるのか心配ですが、考えてみればそれで数千年が過ぎていたのですから文句を言い出すことは不遜であるとも思えます。

わたしとあなたがいるから目と目があって握手をしたのです。あなたがいなくて片手が無ければ差し出した手を掴んでくれる人がいません。

しかし、何故手を差し出す行為ができるのでしょうか。テレビが故障しているのに何故リモコンのスイッチを入れればオンになることを知っているのでしょうか。盛り合わせの寿司を御馳走しましょうといわれ何故とっさに大好物のイカがあるか気になるのでしょうか。

人の五感が働く時、記憶が出てくる時、按配選択をしようとするときその相手対象が無いのに主体側は自らの行為を遂行しようとします。その時の相手対象が無い自分のこころもちが答です。白隠の問題は聴覚ですからそのときの心持ちで聞いた音が答になります。

しかし実際には自他との往来はありませんから、心持ちで聞いたと言うことも無く、あるのは先天的に自分が得ることのできる相手対象のことになります。

この得ることのできる相手対象(客観、客体、あなた等相手対象をさす言葉)はその人自身、つまり自分自身にあるものだけしか自分の相手対象としません。自分の中に無いものは自分の相手にならないのです。握手を知らない人は相手がいても握手ができないのです。

そのときの先天的な自分全体の受け取ることのできる統体が解答です。

先天の半母音といいます。

これは自分の中に先天的に客観的に成り立っているものです。主体的な母音側が見つけることができるのはそれに応じた自分の中にある客体側の半母音ということです。

そこで主体側の動きがまだ始まらないときには、統体としての宇宙の無、空があるだけになります。勿論この空は空即是色となっていきます。

重要なことは客観的な半母音側が自分の中に成り立っていることです。

しかし仏教では(どの宗教でも)空が色になる構造を教えません。何故どのように空が色になるのか。その原動力となるものが父韻と呼ばれるものです。

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8。腹母音。呼気とこころ。ぅ(w)+母音。国=クニ=組んで似せる。

わたしの相手のあなた、陽の相手の陰、主体の相手の客体、等々自分の片半分が半母音となりますが、どのようにして片割れを自分の相手と了解するのでしょうか。

現象を追うと、路傍の石を拾う、画面のスイッチを入れる、字を書く、明日の予定を考える、カレーを食べる、等々何でも全ての自分のする行為の相手は物体物質と掛かり合うこと、概念知識と掛かり合うこと、感情情緒と掛かり合うこと、どうしようか迷い選択すること、意思決定にかかわり合うことです。

現象は自分ではありません。画面の文字は自分ではなく、路傍の石もカレーも書いた文字も自分ではありません。感じたもの生理感覚も麻酔剤みたいなものを使えば感覚はなくなります。考えた思想概念もそれは言葉という借り物に乗っているものです。現象は概念も含め自分以外の客観物です。唯一説明解説される以前の喜怒哀楽の感情が自分のものと言えるものかもしれませんが、はっきりいうと言葉概念が使用されますから自分から離れしまい、それかといって黙って感じているだけなら、誰も知ることがありません。

ところがこの客観物がまるで自分のもの、あるいは自分自身であるとして扱われます。自分が創造した物に限らず拾った石も、食べたカレーも、感動も何もかも自分自身の五感感覚で得たもので自分のものになり、自分の考え思いで得たもので自分の考え自分の思いになり、その他等々となります。

全く普通な当然な日常的なことです。いったい何を考えることがあるのかというくらいにあたりまえのことだけです。

当たり前のことを書いたり説明したりするとこういった分けの分からない書き方になります。すみません。ついでに図示します。

主体ア+(+という能動の律動)+客体ぅ(w)ア = アワの主体-客体。

主体イ+(+という能動の律動)+客体ぅ(w)イ = イヰの主体-客体。

主体ウ+(+という能動の律動)+客体ぅ(w)ウ = ウウの主体-客体。

主体エ+(+という能動の律動)+客体ぅ(w)エ = エヱの主体-客体。

主体オ+(+という能動の律動)+客体ぅ(w)オ = オヲの主体-客体。

わたし+(食べるという行為)+カレーライス = カレーを食べたわたし-食べられたカレー

注意してください。これは現象としてみたもので、ここで扱っている先天の母音-半母音の関係ではありません。

惑わしたついでに。

まず鳥居の原型を見てください。『大神神社(三輪神社)』

( http://small-life.com/archives/10/04/1120.php )

主体アと客体ワの両柱を渡る能動の律動がしめ縄です。

この中をくぐっていくのがアワの主体客体によってできた現象です。

最後にどうしても見てもらうのが、アイウエオ五十音図です。

母音行、半母音行、各律動のしめ縄列が五つです。

以上が先天の半母音を説明する前提です。ごちゃごちゃと書くということは、どうせこの後の説明もうまく出来ないだろうということですから、期待などしないで、各自の追体験をしてみてください。

何かをしていく時には自分の心が主体となって相手対象に向かうのですが、そこで相手対象を得た時のことです。

スイッチを入れて画面の文字を見た時、たった一つの主体の行為と見えても、これだけでも既に多くの連続した主体的な行動の流れがあります。一つ一つ区切って書き出せば百年経っても書き出せないくらいのものです。

この一つ一つ区切ってあることを古事記では国=クニ=組んで似せる、区切って似せる、といいます。組んで似せるのは、まず主体の意図に似せるのです。それには相手対象がいります。そして両者間を行き交う行動因が必要です。これが三位一体となっていくのがクニになります。

主体側の意思意図が無ければ何も起きませんが、主体側が意図を持つということ自体は主体が自分と自分の対象を分別したことです。この分別は直ちに起きますがそれ以前の統体があることになりここから始まったことになります。

国という言葉の使用頻度は多いですけど、そのどれもが主体の心の領域を組んで似せて実現すると読み替えられます。国の古事記の意味は決して日本の国とか何々地方とかの国土のことではありません。そのように読まさせられているのですからそれはそれで今暫くは仕方のないことですが。

もちろん後段では話が進んで言って国土の意味にもなりますが、それでも原則となっている主体の心を組んで似せるという意味が貫徹しています。ですので地名とか場所とか探すのも捜し当てた歓びがあるでしょうが、二次的なことです。心と切り離された場所探しならもう意味はないことでしょう。精々名前の由来ぐらいは考察されてもいいのではないでしょうか。

組んで似せる相手側を半母音と言います。ここで半母音側を現象したものとして扱ってしまいますと、主客、主体客体、主観と客勧、思考と存在等々の存在論の勇み足、はみ出しの見本となっていきますので注意してください。

というより面白いことに、必然のように人ははみ出していく、間違えていくというのが伊耶那岐やスサノオの動きで示されますので、意気消沈することもありませんが。

人とはまず間違うということが古事記では立派に保証されているのです。

妹伊耶那美が先に話しかけ、蛭子を産んで世界に広めたことからこの世を始めています。これは国を造ろうと言って最初の結果です。これは複数集団の主体達の交流言葉の流通の基礎基盤の話をしているのです。主体が彼の意思に沿って組んで似せるには社会性を一般性を無視できません。この社会性の創造のことです。

このように人の世界はまず個々の主体にとっての「生みし子良からず」を基盤として形成されていきます。つまりこれが自他ともに共通となる一般共通性となり、それをとおして話が通用するものとなっていきます。共通の国、組んで似せられたクニの中にいることになり、個々の主体が活躍する場所にもなります。

古事記は完璧な心の原論ですからその先天の根拠も明かされています。

主客の別の分別が出来た後にまず出てきた神が、

「次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。【 言霊 ヲ】」

と説明されています。

主体が自他との分別を知った後には、国=組んで似せることがアヤフヤな時に意識の中で用意されているのは半母音側の言霊ヲと言っています。人はまずこの範囲内で自らのこころの構築が始まります。

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以下引用。

言霊 母音・半母音

次に母音、半母音、母音と言いますのは人間の心の心棒というか、天の御柱といわれる主体的な心の支えとして判断力の基になしているアオウエイという五つの母音の畳なわりが、いわゆる人間の心の判断力が五母音。

それに対して自分に客観的なワヰウヱヲの半五母音が成立しております。私と貴方というものが出会えば、必然的にそこに目配せなりなんなりが交わされます。交わされることによって貴方と私の間に現象が生まれます。

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この心の住み家である精神の主体の構造を、古神道言霊学は天の御柱(あめのみはしら)と呼びます。目に見えるわけでもなく、普通そんな自覚もありませんが、この天の御柱が人間の中にスックと立っているのです。人間はこの天与の天の御柱でもって人生のすべての問題を判断して生きていくのです。

(この人間の生れたままの天与の心の構造を、言霊五十音で表わしたものを天津菅麻(あまつすがそ)音図と呼びます。心のすがすがしい衣という意味です。「古事記」の神話の神様でいいますと、伊耶那岐(いざなぎ)の神様の音図ということになります。その他、人間の心の持ち方によって色々な五十音図が考えられます。)

こうした心の現象を生み出す元の宇宙、心の住み家の宇宙を器物として形として表徴したのが伊勢神宮の内・外宮の正殿の床下に祭られてある「心の御柱」なのです。。

-----引用ここまで。-------------------

伊勢の最奥義となっている心の御柱とはひとの心のことで、人類の心のことです。いつまでも日本の神道に留めておく理由はもう無いのですが、まだ暫くはこのままでしょう。伊勢の御柱は地球人類の心ですからいつまでも日本だ日本だといっている時代ではないのです。これはまだちょっと速すぎる言い方ですが、大和の日本からその方向へ言い出さないことには、世界は動きません。

宇宙の動きはオノゴロ(おのれのこころの)島の領域で人の心となれる天の御柱と八尋殿を打ち立てました。このうち、御柱はこころの世界の実在性の一般化を模したもので、八尋殿はこころの世界の動きを模したものとなり、これらが心の動きとなって現象創造行為、言葉の創造となっていくものです。

鳥居とか五十音図とか古事記の神代の巻きとかを全部ひとまとめにすると一本の柱、伊勢の御柱になります。

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次回は先天の半母音。

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9。腹母音。こころの神代(かみよ)。呼気とこころ。腹にある半母音。ぅ(w)+母音。

言霊学上の半母音のワ行についてです。

発音された現象によって言葉の分析をしているのではなく、発音にいたる創生過程を求めているので現象が終着で始発ではありません。あくまで主体的な心が天の橋立を渡って相手を得ていくことに半母音が顔を出します。

言霊学上で半母音が問題になるのは、母音と同様に半母音の普遍の実在性に関してです。

半母音を分かりやすいように書き直すとこうなります。

先天・半母音・受動。

発音上の記載。

ぅ(w)+ア=ワ。(神産巣日の神)

ぅ(w)+イ=ヰ。(伊耶那美神)

ぅ(w)+ウ=ウ。(天の御中主の神)

ぅ(w)+エ=ヱ。(豊雲野の神)

ぅ(w)+オ=ヲ。(宇摩志阿斯訶備比古遅の神)

この接近音、ぅ(w)=う、もまた母音だということが重要なことです。他の母音でなく他の子音頭でなく ぅ(w)=う を用いて五十音図の最終行が作られました。

何故でしょう。

主体側の意識が自分の中で結びつくには自分の中に主体側に対応したものがあることが不可欠です。

さらに頭脳内において直ちに意識の起動が立ち挙がらなければ行動の用意が出来ません。この主体側に対応して主体を現すものが客体、ワ行の半母音です。

自分の欲望の充足、考え思い着いた事、どうするかの選択等が自分のものとしてそのまま出てくる構図の大本が ぅ(w) の半母音にあります。

注意して上の二つの文章を読むと、はじめに主体側に対応する半母音とあり、次には半母音から主側が出てくると取れる書き方です。鶏と卵みたいなものとなっています。

さらに混乱させれば、ワヰウヱヲを半母音と読んでいますが、ワヰウヱヲそのものが半母音であるのではありません。

最初にも言ったように発音上の問題ではなく心の在り方を取り上げています。アイウエオもワヰウヱヲも単独に実在はするけれど現象として扱うものではないということです。母音も半母音も現象を現象足らしめますがそれ自体が現象となるのではありません。子供現象が出来ても子供は両親のどちらでもないみたいなものです。

子供現象に対しては、母音半母音側はそれぞれ純粋に独立していて主体-母音側、客体-半母音側で隠れたままです。古事記では、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき、となっています。

また主体-母音側、客体-半母音側の対応は古事記に、然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ、とあって主体側の働きかけにだけ応じるけれど一本の柱内に両者がいる関係です。この柱を平面にしたのが五十音図になっていきます。

五十音図上で書き現した場合にはワの最終行になるためそれを半母音といっています。ですので音韻言語上でのワ行半母音とは違います。

心の言霊学上は神名で説明されていて、神産巣日(カミムスビ)の神と呼ばれ、かみ合い(カミ)結ばれる(ムス)霊(ヒ)で現されています。結ばれる主体客体の関係を言います。

自分の中にこの相手対象となるカミムスビが無ければ一切の創造現象が起きてきません。主体の意識の相手である自分の中のカミムスビは、自分の直接の対象であって直接自分に得る対象である事が必要なため全面的に自分の中にウ、ぅ(w)、であることになるのです。つまり半母音頭は ぅ(w)、になるのです。

自分自身の直接の自分の目標、自分が発して発したものを得る相手がウです。何となく後を振り向いて何かを見ているのか何かがあると感じているのか向こうに動くものがあるようにボヤーと感じているその目覚めの始めがウの状態で、心の相手の向こうに何かがあるということが、ぅ(w)、の半母音となります。そこでは心が心の相手を見るなり欲するなり感じるなりするのですから、ぅ(w)-ウの場合は、心と心の相手は同じこととなります。

欲望を得る場合は欲望の内容は自分が起こした欲望を自分が自分で得ることになります。これが発展していきますと産業経済物欲実現の社会創造になっていきます。

それは今ここの現在が今ここにないと気が済まない精神世界を作っていきます。

この ぅ(w) は腹母音のウと共通ですからウの実在普遍性、鳴り止まない宇宙世界を作っています。この御蔭で主体側の宇宙世界の普遍実在は自分の姿を自分の中に直接の半母音として見いだすことができるのです。

スイッチを入れる行為が納得できるのは自分側にスイッチを入れるとスイッチが入るという普遍性が獲得されていてそれを実現できるからです。犬猫がスイッチを踏むとか赤ちゃんがスイッチを叩くとかしておきる現象とは根本的に違います。

もし人にこの半母音宇宙が無いと自らのことを自らによって了解納得が出来ません。頭脳意識内に ぅ(w)という構造が無いと、主体側の意思行為の行き着く先がありません。赤ちゃんのおしっこうんこしたい放題でニコニコした世界になります。

肉体行動五感で現れる半母音世界は頭脳内意識の半母音の動きと較べられないくらいです。五感世界で現れる半母音は非常にゆっくりで意識でも整理分析ができるほどですが、頭脳内では原子の動くスピードでことが決していきます。見ることも考えることも出来ません。しかし頭脳内半母音の構造が設定されなければ意識活動も解明されません。

この頭脳内でのスピードは脳内科学が後に明らかにするでしょうが、やはり一本の柱に主客が備わっている構造は変わりません。腹母音のウや ぅ(w)はどこにあるかといえば記憶の中にあるはずです。これは見えず分析できないことです。

しかし大和の聖人はそれを解明してしまったのです。現代の知性がいくら寄ってたかっても適いません。追体験しようにもできません。われわれはただ古事記に示されたものを受け取る以外には出来ないでしょう。

(余計な推測。神武天皇までのスメラミコトには継承されたそれらを感得する秘術があるようにおもえます。思想や方法として個人が了解するようなものをはるかに超えた精神事業です。地位を受け取ればそのままできるというようなものではありません。全く余計な推測でした。)

大和の言葉ではワ行で、その代表としてワという言葉で現しています。大和以外の国語には半母音の意味内容を持ったワはありません。ワという発音に何らかの意味を付加していくだけのものです。大和のワは自分の心の内容が向かう相手がそのままワ、ぅ(w)+ア=ワ(神産巣日の神)、になります。

こうしてその人のどの性能も、自身の中にぅ(w)、ウ、を持っている為何でもないように自然に自分の次元活動ができるのです。

この全活用がワになれる五段によるイエウオア(ぅ(w)+イ=ヰ。ぅ(w)+エ=ヱ。ぅ(w)+ウ=ウ。ぅ(w)+オ=ヲ。ぅ(w)+ア=ワ。)の言語体系が大和の日本語です。

主客の一体となった形で全人類の秘密の象徴として五尺の忌柱となって伊勢神宮に立てられています。ですので神道は日本の宗教(?)ということではなく、世界人類の精神原理として隠された形で創設されたものです。もうじき地球世界の岩戸開きが始まりますが、開かれた後には当然神道は全ての人のものになっていますから他の宗教と同じように消滅していきます。

いつまでも象徴のままで放っておいても何にもならないものです。心の発祥運用原理ですからここから発していけば何でもどんと来いというところですが、実用まではまだ遠い。皆さんの協力が必要です。

大和人も日本人も世界の人たちも同じ人で同じ性能、同じ次元世界を持っているので、これといって日本だけが偉いとか優秀とかいうものではありません。人種としての人間性能に代わりはありません。日本以外の人は残念なことに大和の言語体系を持っていないというだけのことで、いくらでも勉強して学ぶことが出来ます。(今後世界は再び大和の言葉が旧約聖書に書かれた通りになるでしょう。)

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10。腹母音。半母音と母音。腹母音と父韻 ➀。

試してください。

ウオアエイと母音の発声音を出すたびに腹の緊張位置は変化していきます。ウの腹の緊張する位置でオアエイ、あるいはオの腹の緊張を保持したままでウアエイを出してみてください。その他同様。おかしなヘンテコな母音ができます。

ということは腹を除いて胸声帯横隔膜で発声することはできますが、声は出ていても、声と舌の位置からは日本語の発音の真似はできても心のこもった大和の日本語になっていないということになります。

それでも時間が経てば外国人の場合なら自国式の腹母音が矯正され、日本人もビックリするような上手に話す外国人も沢山でてきています。外国人が日本語の学習中の時とまるで日本人みたいといわれるようになったときを比べると、本当に態度も日本人のようになっています。

彼らの自国で築いた習慣、常識、意識が変わったわけではありません。それでも子供の魂いつまでもの自国での態度、習慣の違いによる戸惑いを超えた大和の意識が付加されているように思えます。

何故そんなことが起きるのかといえば大和の腹母音の習得ということになるでしょう。誰かにこの問題を明らかにしてもらいたいものです。

腹母音の位置だけ変えてもアイウエオの変化はあるかといえばそんなことはできません。呼気が伴っていないからです。しかし実際には腹母音の位置を確認するのもむずかしいものです。呼吸による胸の上下に邪魔されます。

しかしここに、音が出ていないのに母音に対応している腹があるのです。アの音がでた時のアの腹、ウの音がでた時のウの腹等が音に先立って先天的に実在していることを発見しました。それが前回に紹介した葡匐(はらば)ひて哭(な)きたまふ、つまり腹這い、腹-映え、腹がこころに映えることでした。

そこで今回はその腹がこころに映える様子についてです。

古事記はここに泣沢女(なきさわめ)の神という父韻の働きを持ったものがあることを示しています。同様に泣沢女(なきさわめ)という男神は心の領域で小豆島(あずきじま)またの名を大野手比売(おおのでひめ)という説明があります。これを参考にしますと、こうなります。

まず、用語からいくと、

小豆-あずき、は明らかに続く気・言霊ということです。間違わないでください、豆の小豆がそうだというのではありませんよ。古事記で用いられている当て漢字の読解です。

大野手比売(おおのでひめ)とは大いなる(大)横に平らに展開している(野)働き(手)を秘めている(比売)の意です。ひめと言ってもお姫様ではなく秘め隠されていることです。

音として発音されていないのに泣沢女(鳴き騒ぐ)ものとして在り続け、一度鳴き始めたら鳴きっ放しのものが腹の中に有るということで、その在り方をよく見ると明らかに続く気であり、後にアイウエオ母音の各横の段に成っていくものとしてあるが今は先天の中に隠されているということです。

引用です。

「 お寺の鐘がゴーンと鳴ります。

人は普通、鐘がその音を出して、人の耳がそれを聞いていると考えています。

正確に言えばそうではありません。

実際には鐘は無音の振動の音波を出しているだけです。

では何故人間の耳にゴーンと聞こえるのでしょうか。

種明かしをすれば、その仕掛人が人間の根本智性の韻である八つの父韻の働きです。

音波という大自然界の無音の音が、人間の創造智性である八つの父韻のリズムと感応同交(シンクロナイズ)する時、初めてゴーンという現象音となって聞えるのです。

ゴーンという音を創り出す智性のヒビキは飽くまで主体である人間の側の活動なのであり、客体側のものでありません。

鐘の音を聞くという事ばかりではなく、空の七色の虹を見るのも、小川のせせらぎを聞くのも同様にその創造の主体は人間の側にあるという事であります。

八つの父韻の音図上の確認の締まりを泣沢女の神という理由を御理解願えたでありましょうか。」

以上。

重要な引用です。

鐘が鳴っているのではありません。鼓膜が聴いているのでもありません。それらは物理の作用反作用、電気信号の交換、電荷の移動でしかありません。その内容は科学による解明に任せられています。というより科学思想の独占場です。

この鐘の例では無言の音波無音の振動と聴覚鼓膜の関係のように思えますが、心の音はそれらの事実の上にさらに心が乗った上で展開されていきます。心が物質あるいは物質的なものあるいは物質的な象徴を介在媒介されなくては現せないという、単なる物理上の制約にあるというだけのことです。

ですので心の問題は科学のいう事は全部受けいれます。しかし科学のいう事はどこまで行っても単なる物理作用交換の解説を出る事も無いのです。心の物理面を明かす事はできても心にまでは到達できません。

ではここでいわれているこころと、母音を発する心とは何でしょう。横隔膜、声帯はどれだけ解剖しても心は現れてきませんが、またそれらなくしては心を表現できません。

アという音アという字はインクのしみドットの輝き空気の濃淡です。それに心が乗るといいますがそれは外国の、大和日本語以外の言葉には言えますが大和日本語には該当しません。

勿論今の日本語は外国語と同様なシステムで作られた言葉が大量に混じっていますから、古代から伝わってきた大和の日本語のことで、日本語の元になっている大和言葉の事です。

心が乗るというと当然降りるもあるわけで、乗り物があってそれとは別のものが付いたり離れたりしていくのが外国の言葉です。ところが、大和の日本語はどのような言語学上の法則をもっしても説明も類似性も見いだせないでお手上げ状態であるのが本当のところです。

その理由は簡単です。

他の言葉はものを示す為に作られています。お金同様こっちの紙は百円、こっちの紙は千円と、そう書き込まれているからそういう約束になっているだけというものです。大和の日本語は約束事が言葉の上に乗っているのではなく、こころそのものが言葉という表現に成っているのです。もともとまるで違うものでした。

その実在の人間的な根拠を腹の緊張の無限性に見つけそれが腹-映えて心になるというところまできました。腹-映えの形跡は人として多かれ少なかれ見いだせるもので、外国語においいても同様です。しかしここで古代大和の聖人達は物凄い事を始めたのです。

約束事を沢山作ってこれはこうだあれはああだこう言うのだということを一切切り捨てました。数字の⒈の後に幾ら0が付いている紙幣であろうとヤギに与えればウメェーーです。付け加えた規則そういった構成に成っている言葉の体系を一切放棄したのです。

その代わりアという時はアの心が現れるからアと言い、エと言う時はエの心持ちがあるからエという前代未聞の言葉の体系をつくりました。それが大和の言葉であり、その続きである日本語であり、言葉の不思議を感じ心が言葉に成っている事を確認できる大和言葉です。

ものを示すのでなく、心を直接示すのです。今更こんな事をいわれてもピントきませんが、大和言葉を受け継いだ日本人はもともと次元空間が違う言語空間に住んで、社会、関係、生産を営んでいる人たちなのです。これは国民という事ではなく、大和の日本語を使用している人という意味です。

さて母音と心です。腹の緊張の永続が発見されましたが、それそのものは心ではありません。声帯を共にすれば声や母音もでますが心と繋がったものではありません。簡単に言えば母音が発声されても心の表現ではないということです。

ここから大和言葉の大和言葉としての構築が始まります。他国語のように意味内容を与え物事を示すという方法を取りませんでした。

つまり発声された音が主人公となり、発音現象から始めることをしませんでした。現在の言語学のように発音現象から類似分析作用整理等をしなかったということです。

何故そんなことが言えるのかというと古事記に書いてあるからです。その段落は次のようになっています。

【 かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。】

ここは伊耶那美が死んだという解釈ですが、そのように解釈させる千年間が必要であったというだけでその意味では正解ですが、これからはそれで済ますわけにはいきません。葬(をさ)めは字面からすれば千年間分の効果が出るおっかない字から選ばれていますが、ひらがな発音に戻せば、おさめる、着物をタンスにおさめる税金をおさめるで決して死を意味しているのではありません。

引用。

「出雲とは出る雲と書きます。大空の中にむくむくと湧き出る雲と言えば、心の先天構造の中に人間の根本智性である父韻が思い出されます。

伯伎の国と言えば母なる気(木)で、アオウエイ五母音を指します。聖書で謂う生命の樹のことです。

比婆(ひば)とは霊(ひ)の葉で言霊、特に言霊子音を言います。子音は光の言葉とも言われます。

伊耶那岐の命と伊耶那美の命は協力して三十二の子音言霊を生み、子種がなくなり、高天原での仕事をやり終えた伊耶那美の命は何処に葬られているか、と申しますと、父韻と母音で作られている三十二個の子音の中に隠されて葬られているよ、という意味であります。子音言霊が高天原から去って行った伊耶那美の神の忘れ形見または名残のもの、という事です。」

「伊耶那美の命はいなくなって客観世界の黄泉国へ行ってしまった、では伊耶那美の命は何処にいるのか、岐の命と美の命が共同して創った子音、伯伎(ははき)は五母音、出雲は湧いて出て来る父韻を指します、その境、「カ」でもうしますと「キ」と「ア」、「kia」、それは「カ」。Kiaのkとaの境にいますよ、ということです。」

引用ここまで。

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11。腹母音。こころの神代(かみよ)。呼気とこころ。半母音と母音。腹母音と父韻 ➁。

前回の引用は現象子音の発生後の解説でしたが、ここではそれを母音の発生に当てはめようとしています。

出雲の国は父韻、伯伎(ははき)の国は母音、堺なる比婆(ひば)の山は言霊子音でした。

出雲の国という地名はうまい具合に千年間利用されてきただけです。ここでは腹の緊張が発声音と結び付く心の動力因となっているものがあり、そのことを指します。

そしてこれが父韻と呼ばれるものの仕業なのです。

発声をしないで声を出す準備だけをしてみてください。アーーと言う恰好だけをしてみて、無音の口を開くと同時にあるいは口を開く以前に、腹において腹母音のアの緊張が産まれています。アの声は無くてもアの腹母音が活動して働きの態勢を整えています。そのまま無言のアッアッアッをしてみると実際出雲の雲がむくむく湧き出るような腹を感じます。

伯伎(ははき)の国、子音発生のときは母音のことでしたがここではここではその母音の発声を探っていますから、腹母音、腹の緊張の五つの変化持続、無限実在ということになりそうです。

そうすると、比婆(ひば)の山は横隔膜、胸、声帯等の動きが現象となります。声はその結果です。どうりで言語学でいくら舌口腔声帯などを分析しても心は一向に出てきたことがないはずです。

繰り返しますが、この出雲の国の働きが無ければ、腹の緊張は単なる生理的なもの、発声される音は心のない声帯の振動でしかありません。しかしそれは心が直接に言葉となっている大和言葉の物理的条件となるもので、それを操作するのが父韻となります。

わたしとあなたという二人がいるだけでは子供はできません。心だけでは言葉にならず、そこに発声器官の全体が加わっても言葉にはなりません。音は音でどこまで行っても音です。心と発声とが別々です。出雲の国の働きで出来たものでないからです。

出雲の国というだけでは抽象的過ぎます。どなたかに助けて欲しいところですが、しっかりしろ。

出雲=イ+ズ+モ。伊耶那岐の神(言霊イ)+頬那芸(つらなぎ)の神(言霊ス)+木の神名は久久能智(くくのち)の神(言霊モ)の組み合わせで出来ています。

精神活動の行くぞ生きる命のイの大本、伊耶那岐のイ+言霊スは静止の姿、動作のない状態+久久能智とは久しく久しく能(よ)く智を持ち続けるの意で全部で、心の創造意思が動作のない状態でありながら萌えいずる内部振動中ということになります。

そこで古代大和の聖人達はその振動を整理分析しました。発音以前に実在する腹母音の分類分析と人の心の現れを比較しました。腹の内部の響きと実際の心の現れとが研究されたことでしょう。

勿論、社会生活上はそんなことはやっていられませんから、通じあえるような了解ごと共通の約束事の中に留まっています。これが大和の日本語以外の世界中の言葉です。契約事を大事にする西洋のこころの元があります。裏を返せば言葉に心がないので共通の契約後とで縛りつけておこうという必然になるものです。

大和の言葉はここに父韻という心の韻(ひびき)の実在を発見して構成されています。この心の響きに対応する相手が腹になります。響きはものの在り方として感ぜられますが物ではありません。

鐘がゴーンと鳴りました。実は力の作用反作用で空気振動の濃淡が出来ただけです。植物や昆虫には音は聞こえません。ところがこんなテレビを見たことがあります。枝にいる昆虫が交尾相手を呼び込むのに腹足を使って振動を起こしどこにいるか分からない相手にここにくるように伝えているというのです。実験ではその周波数を真似て発しているとお見合い相手が隣の木から一端地に降りて発信元にまで来ました。残念なことにそこにあったのは器械でしたけど。(余話)

ここにどうしてもわたしたちにある感受能力、共感感応同交をもたらす性能を設定せざるを得ません。

動物の物理的な力の交換伝達作用の中にあるだけならば、科学によってそれらは証明されていきます。脳内科学もそのうちの一つです。心を現す脳のメカニズムも明かされるでしょうけれど、心を現す言葉の秘密を明かすに至らないでしょう。言葉の電気信号を集めてもこころにはなりません。

頭には思考の流れがあり概念記憶が出たり入ったりしているのにそんなものに腹母音などあるのかと思われます。

しかし思考というのは記憶知識の頭脳内での概念操作の分野に属するもので、創造されていた言葉によって現象(この場合は過去現象)を操作するだけのものですから、言葉の発生とは関係ありません。(それよりも記憶概念が腹に産まれるのじゃないかと見ていく方が良いかと思えます。)

ウの腹。

五感感覚で与えられる心の腹での対応が声ではウの腹にあります。五感での知覚の特徴はそれを使用して自分のものとすることでその欲望を充足することです。

見る聞く嗅ぐ等の五感感覚の取得時の腹の緊張を探ると全部同じで、声になった時のウの位置緊張と同じであることが古代に発見されました。

五感感覚の知覚を得る直前の腹を観察してみてください。感覚を得て何々であってどうしたいという知識や選択の判断が出てくるその前の時空のことです。

駅にいくまでにいろいろのものを見聞きし匂いを嗅ぎますがそれらが何であるかという判断をする前の腹です。その時はウの腹で歩いています。

オの腹。

駅に着くといつもと違って人込みが出来ています。あれは何だと疑問が起きます。画面を見ていると難しい漢字がでてきて読めません。これは何だと疑問がおきます。その時状況に合わせて腹が動きます。疑問が出ている時はオの腹でオを発音しているときと同じ腹になっています。

エの腹。

事故があったのでいつもの乗り換えが出来ないことが分かりました。そうすると今度はもっとも上手な目的地への到達方法を選ぼうとします。あの線ならあそこで降りて、この線ならここで乗り換えてと智恵の選択になります。その時にはエの発音をするときと同じ腹が構えられています。

アの腹。

またそこに何らかの感情情動がおきるときにはどのような感情になるにせよ、アと発するときと同じアの腹が見いだせます。

イの腹。

おや時間だ、出かけなくてはよし行こうという場合など意志をもって自らを制するときに見いだせるのは、イを発音したと同じイの腹です。

これらは腹の感応同交が母音と同じ韻(ひびき)を持つということで、同じ音現象になることではありません。音現象を決定する心の奥のひびきとでもいうものでしょうか。

人の腹はこうして全ての事象に対応できることになり、発音の基盤ができました。つまり全ての事象は五つの心が対応した母音で現せることになりました。

( これが後にインド中国に伝わって五大五行となった実体です。それを元にインド中国では概念として発展させました。また、聖書でいう生命の樹であり、エデンの園から流れ出て(イ)四つの源流となる(ウオアエ)河の実体です。竹内文書参照。

今後この意見が常識となる前にもっと上手に解説することが出来れば今のうちならノーベル賞ぐらいとれると思えますが、元気な方どうぞ挑戦してみてください。)

とうとう母音の心が現れました。でもたったのそれだけのものです。こういうことをイメージしてください。新品のピカピカの靴が手に入りました。靴底もピカピカで道路もぴかぴかです。さてこの靴を履いて歩けるでしょうか。ツルツル滑って歩けません。その人の全体重を受け取り反作用を与える負荷、抵抗が無いとまともに歩けないのです。

同じように腹母音があり、その心との対応があるといっても対応を受け取るものが無ければ腹母音は実現しないのです。この対応を受け取る側が半母音です。言語学でいう弱い摩擦音が有る無しをいうのではありません。

では世界にある母音の多くは何なのでしょう。大和の言葉を除くそれらは言語学の対象で、音韻とか口腔とか舌の位置とか脳内の反応部位との関係とかで整理されていきます。大和言葉もその物理的な現れの中では分析の対象になりますが、こころを現す言語としてでなく音に心を足し算したものとしてです。研究者の学者の頭数だけ足し算の要素が加わっていきます。

いくらやっても心は見つからず現れない物事を客観方向へ客観方向へと向かう学問になっていきます。速須佐之男命答へ白さく、「僕(あ)は妣(はは)の国根の堅洲国に罷(まか)らむとおもふがからに哭く」とまをしたまひき。

心の世界の片半分=堅洲国(かたすくに)。

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12。腹母音。こころの神代(かみよ)。呼気とこころ。半母音。

先天-母音-能動。

ア。高御産巣日の神

イ。伊耶那岐神

ウ。天の御中主の神

エ。国の常立の神

オ。天の常立の神

先天-半母音-受動。

ぅ-ワ。神産巣日の神

ぅ-ヰ。伊耶那美神

ぅ-ウ。天の御中主の神

ぅ-ヱ。豊雲野の神

ぅ-ヲ。宇摩志阿斯訶備比古遅の神

先天-父韻-実行因。

T-チ。宇比地邇神

Y-イ。妹須比地邇神

K-キ。角杙神

M-ミ。妹生杙神

S-シ。意富斗能地神

R-リ。妹大斗乃弁神

H-ヒ。於母陀流神

N-ニ。妹阿夜訶志古泥神

後天-子音-現象。

大事忍男の神 言霊 タ

石土毘古の神 言霊 ト

石巣比売の神 言霊 ヨ

大戸日別の神 言霊 ツ

天の吹男の神 言霊 テ

大屋毘古の神 言霊 ヤ

風木津別の忍男の神 言霊 ユ

大綿津見の神 言霊 エ

速秋津日子の神 言霊 ケ

妹速秋津比売の神 言霊 メ

沫那芸の神 言霊 ク

沫那美の神 言霊 ム

頬那芸の神 言霊 ス

頬那美の神 言霊 ル

水分の神 言霊 ソ

国の水分の神 言霊 セ

久比奢母智の神 言霊 ホ

国の久比奢母智の神 言霊 ヘ

風の神名は志那津比古の神 言霊 フ

木の神名は久久能智の神 言霊 モ

山の神名は大山津見の神 言霊 ハ

野の神名は鹿屋野比売の神 言霊 ヌ

天の狭土の神 言霊 ラ

国の狭土の神 言霊 サ

天の狭霧の神 言霊 ロ

国の狭霧の神 言霊 レ

天の闇戸の神 言霊 ノ

国の闇戸の神 言霊 ネ

大戸或子の神 言霊 カ

大戸或女の神 言霊 マ

鳥の石楠船の神 言霊 ナ

大宣都比売の神 言霊 コ

火の夜芸速男の神 言霊 ン

古事記に出てくる母音半母音の順序

ウアワ-ヲオエヱ-イヰ

古事記に出てくる子音の順位

たと-ヨ-つて-ヤユエ-けめ、くむするそせほへ、ふもはぬ、らさろれのねかまなこん

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こんな風に図示してもなにを理解していいのか分からないと思います。

こちらの書く方は分かった積りで恰好をつけて書いています。

つもりでやってるので真実に達しません。

思いつきの考え閃きがでてきて、それに疑問を持って自分なりに答えていきます。

そんな量が増えれば何らかの結果現象もでてきて、またその現象に囚われてしまいます。

分野は違ってもこんなことばかりです。

考えとか自己主張とかの成れの果てです。

自分の考えなど持たないようにしたいけど、知識の奴隷となるとこうなってしまいます。

菅直人にこうしろああしろこうして欲しいああして欲しいといろいろ注文がついています。

注文の総体をまとめてもまだ足りないはずです。

それでも言い出した本人達は真面目で最良の忠告提言をしている積りになっています。

政府側もできる限り出来るだけという限界を最大の努力と勘違いしてやっているつもりです。

さらに注文提言した者どうしで喧嘩さえあります。

ですので全てがバラバラです。

全ての提言意見、施政者の間違いは自分の考えを述べるところからきます。

被災者と被災の外にいる者たち全体の「いたく歓びて貴い結果」を得ていく生命生活意思行為を見つけようとしないからです。

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