[運用 07] 泣沢女(なきさわめ)(大野手比売)の神

泣沢女(なきさわめ)(大野手比売)の神

かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。

伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、

伊耶那岐の命はその時まで高天原での創造の協同者であった伊耶那美の命を失ってしまいましたので、「わが愛する妻の伊耶那美の命を子の一木に易えてしまった」と嘆(なげ)きました。岐美二神は共同で三十二の子音を生みました。その三十二の子音を表音神代文字火の夜芸速男の神・言霊ンに表わしました。妻神を失い、その代りに一連の神代文字(一木)に変えたという事であります。

御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、

五十個の言霊とその表音文字が出揃い、今はその言霊の整理・検討が行なわれているところです。その整理に当る伊耶那岐の命の行動を、妻神を失った伊耶那岐の命の悲しむ姿の謎で表わしています。御枕方と御足方とは美の命の身体をもって五十音図(菅曽音図)に譬えた表現です。人が横になった姿を五十音図に譬えたのですから、御枕方とは音図に向って一番右(頭の方)はアオウエイの五母音となります。反対に御足方とは音図の向って最左でワヲウヱヰ五半母音のことです。そこで「御枕方に葡匐ひ御足方に葡匐ひ」とは五十音図の母音の列と半母音の列との間を行ったり、来たりすることとなります。「哭きたまふ」とは、声を出して泣くという事から「鳴く」即ち発声してみるの意となります。

御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。

香山(かぐやま)とは言霊を一つ一つ粘土板に刻み、素焼にした埴(はに)を集めたもの、即ち香山とは「火の迦具土」と「金山」を一つにした名称。畝尾とは一段高い畝(うね)が続いている処。母音から半母音に連なる表音文字の繋がりの事。その畝尾は五十音図では五本あります。「その木のもと」とありますから、五母音の一番下イからヰに至る文字の連なりの事となります。涙はその一番下の畝尾に下って来ます。一番下のイからヰに至る文字の連なりは父韻チイキミシリヒニの八韻です。この父韻が鳴りますと、その韻は母音に作用して現象子音を生みます。父韻は泣き(鳴き)騒ぐ神です。そこで名を泣沢女(なきさわめ)の神と呼びます。泣くのは男より女に多い事から神名に泣沢女の神と女の文字がついたのでありましょう。

小豆島(あづきじま)またの名は大野手比売(おおのでひめ)

泣沢女の神の座。また五十音言霊の音図上の整理・確認の作業の中で、八つの父韻の締めくくりの区分を小豆島(あづきじま)と言います。明らかに(あ)続いている(づ)言霊(き)の区分の意です。大野手比売(おおのでひめ)とは大いなる(大)横に平らに展開している(野)働き(手)を秘めている(比売)の意です。八父韻は横に一列に展開しています。

菅曽音図の一番下の列、言霊イとヰとの間に展開している八つの父韻に泣沢女の神と名付けた事について今一つ説明を加えましょう。法華経の第二十五章の「観音普門品」に「梵音海潮音勝彼世間音」(ぼんおんかいちょうおんしょうひせけんおん)という言葉があります。梵音と海潮音とは彼(か)の世間で一般に使われている言葉に優(まさ)る言葉である、の意です。その梵音とは宇宙の音、即ちアオウエイの五母音の事です。また海潮音とは寄せては返す海の波の音の事で、即ちこれが言霊学で謂う八つの父韻の事です。宇宙には何の音もありません。無音です。もっと的確に言えば宇宙には無音の音が満ちているという事です。何故ならそこに人間の根本智性である八父韻の刺激が加わると、無限に現象の音を出すからです。八つの父韻は無音の母音宇宙を刺激する音ですから、泣き(鳴)騒ぐ音という事となります。父韻が先ず鳴き騒ぐ事によって、その刺激で宇宙の母音から現象音(世間音)が鳴り響き出します。梵音(母音)と海潮音(父韻)は人間の心の先天構造の音であり、その働きによって後天の現象音が現出して来ます。「勝彼世間音」と言われる所以であります。

お寺の鐘がゴーンと鳴ります。人は普通、鐘がその音を出して、人の耳がそれを聞いていると考えています。正確に言えばそうではありません。実際には鐘は無音の振動の音波を出しているだけです。では何故人間の耳にゴーンと聞こえるのでしょうか。種明かしをすれば、その仕掛人が人間の根本智性の韻である八つの父韻の働きです。音波という大自然界の無音の音が、人間の創造智性である八つの父韻のリズムと感応同交(シンクロナイズ)する時、初めてゴーンという現象音となって聞えるのです。ゴーンという音を創り出す智性のヒビキは飽くまで主体である人間の側の活動なのであり、客体側のものでありません。鐘の音を聞くという事ばかりではなく、空の七色の虹を見るのも、小川のせせらぎを聞くのも同様にその創造の主体は人間の側にあるという事であります。八つの父韻の音図上の確認の締まりを泣沢女の神という理由を御理解願えたでありましょうか。

かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。

出雲とは出る雲と書きます。大空の中にむくむくと湧き出る雲と言えば、心の先天構造の中に人間の根本智性である父韻が思い出されます。伯伎の国と言えば母なる気(木)で、アオウエイ五母音を指します。聖書で謂う生命の樹のことです。比婆(ひば)とは霊(ひ)の葉で言霊、特に言霊子音を言います。子音は光の言葉とも言われます。

伊耶那岐の命と伊耶那美の命は協力して三十二の子音言霊を生み、子種がなくなり、高天原での仕事をやり終えた伊耶那美の命は何処に葬られているか、と申しますと、父韻と母音で作られている三十二個の子音の中に隠されて葬られているよ、という意味であります。子音言霊が高天原から去って行った伊耶那美の神の忘れ形見または名残のもの、という事です。