06章-0 己の心の成立・前半

06章-0 己の心の成立・前半

「06章 己の心の成立」の概略と流れ

心は作られる=心は作る

己の心の成立

オノコロ島の段落の構成

己の心の締まりの成立 オノレのココロの領域 (前半)

自我は無い島 先天構造の働き

心の主体側の働き 自我・自己の成立

心の主体内創造活動 自己内の主体と客体

心の客観領域の創造 一般性の創造 (後半)

観念世界創造への反省。 一般性に個別性を宣(の)せる

心の現象創造のための十四領域 己の心の地場領域

原文の逐次解説

八尋殿。

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「06章 己の心の成立」の概略と流れ

これまでに十七の言霊神が出てきました。

この十七は全体が幾つになるか分からないなかで、十七つまで分析し数えあげたものではありません。

そんなことはこれまでの宗教、哲学、思想等がやってきたもので、現代においてもまだ続いていますが、言霊学とは違うものです。

自然の物質の元素の数が決まっているように、心を構成する先天の要素として十七しかないものです。

これに対して好き勝手に研究分析の成果として、研究結果や分析を追加したり別の方式にしたりすることはこれからも起きていきますが、いずれの考えにしろ十七の先天から出てきた無自覚な思想です。

古事記のフトマニ言霊学ではここまででは未だ後天現象を語っていません。先天の十七神だけが語られています。そしてこれの活動によってこれから現象が生まれようとするところです。今までは比喩暗示として後天現象の形を借りて説明されています。

先天の言霊神が十七しかないように、その言霊神の組み合わせで出来てくる後天現象神も三十二しかありません。これは五十音図を見てもらい、両端の母音半母音行及びイ段を除くと三十二の子音が残っていることに対応しています。

ここで注意してもらうことは、発音発声音の違いの五十音図の事を指しているのではなく、心の意識の単位要素の事を指して言っています。

心は複雑ですが単位要素にしてみると、ウアワヲオエヱの母音とチイキミシリヒニの父韻とイ㐄の親韻によって囲まれた中に三十二の子音だけしかありません。それで計四十九になりますが、意識には運用のための物象表記に宣(の)ることが必要で、これが言霊ンとなり、計五十の言霊神です。

古事記の冒頭五十神にぴったり対応しています。

ですので五十音といってもウが母音側と半母音側にある五十音図です。ウの同一性の理由は01章で述べてあります。

つまり自分の心は五十の要素を作って五十の組み合わせを以てはたらかすことです。

自分の心(自我といいたければ自我)はまず初めはありません。誰にも本来自我などありません。

肉体物質的にも精神意識的にも自己・自我は本人の知らない内に作られました。

心は作られる=心は作る

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今まで心の原理論として心のことを語ってきましたが、実は、心はまだできていません。

この6章になってようやく心を成立させようとします。

つまり、心など無い、自我など無かったためにそれを成立させる段階に至りました。

今まで心のようなことを語っていましたがそれは、心が始まる以前の心の先天についてでした。

無いのに在るといったり在るのに無いといったりですが、前承する上昇循環を上から見たり下から見たりしているためです。同じようなことが、全体として見たり個別として見たり現象として見たりしておこります。イマの瞬間を見るときと同じように切り出し固定化しなければ、全体の流れに乗っていられると思います。

全体の流れとは十七の先天言霊を一つの全体とすることです。

意識における実体世界が主体側の言霊ウアオエ、客体側が(ウ)ワヲヱで、働きが言霊チイキミシリヒニ、働きの現れを実体に宣(の)せる言霊イ㐄があって十七で一つの固まりですが、実体として現れてくる元となるのが言霊イ㐄の創造意志を基盤としたウオアエの御柱というわけです。

全体の流れとか一つの固まりとかで何をいっているのかといえば、創造主体であるおのれの心が出てくる用意ができたということです。オノコロ島といいます。おのれの心の島を縮めたものです。

書き出すとどうしても分析になってしまい、それをそのまま固定化してバラバラに持ち出していくようになり、初めに戻れなくなってしまいます。分析だ総合だと気にしなければ、そのままで無自覚ではありますが、統合された意識がいつも運用されています。古事記はそれの自覚的に運用する道付けを示すものです。ただし案内板の道標を要所要所あちこちに置くのではなく、道標を示すことがそのまま常に前承して循環しながら上昇する道という方法となっています。

心の作られ方も同様です。

心も自我も初めから在るのではありません。心が世界を作るためにその心は作られました。

幸せのもと、元気のもと、ほんの少しだけ指先を動かすもとも心です。

では心のもとは何でしょう、というのが本章の主題です。

実は心とは何かという問題は一万年前に既に解決済みです。その次に現在までの研究課題である物とは何かが続いています。したがって今後は、心と物の統一とは何かが課題となるものです。

言い換えれば精神とは何かは解決済みであり、物質とは何かもほほ解決に近づきました。

そして今からは物につく精神をどうしようかというのが課題です。

しかしその前に出てくるのが、神の意志による世界の改善、愛の心で地上に天国を造ろうという思いがおきてきます。終末が来たり次元が上昇したり異星人による調和社会というのもあります。

それらの全ては無力な夢想ですが、夢想している力に頼ることを説明し、現実化できる夢想に転換する方法としての心の運用を得なくてはなりません。こうして精神文明と物質文明が完成へ近づきます。

物質を研究して原爆水爆の力を開放することができました。今後の心の研究はそれを遥かに凌ぐ成果をえることでしょう。スメラミコトの仕事場となる世界朝廷はすぐそこまできています。

以下引用です。

言霊 無門関 三十三、非心非仏

馬祖和尚は、ある時、僧に問うた「仏とはどういうものですか」、「それは心でもない、所謂仏といわれている仏でもないものだよ」。

もし、この意味が分かったのなら禅は卒業だ。

この仏は経文に書かれていない仏、説かれない仏の意味。つまり生命のことを指しているけれど、じゃあ、生命って何だということになると言霊の学問でないと説明できない。

道を説くときは物事の三分の一を説け、詩人に逢うても最後の一文は言うな、分からないことは生命と言うな。

公案三十の「即心即仏」とどう違うか、生命が仏といっても、心といっても、どちらも当っている。

仏は人間の心が尽きたところにある、心とは何ぞやとなると、考えに考えたけれど分からない、その心。だから心といってもいいし、心じゃないといってもいい。

蛙にキセルの脂を飲ませた、蛙は猛烈に苦しんで胃を裏返して水で洗って呑み込む。それと同じに、仏が生命か、そうじゃないかは、心があるか、ないかではない。

だけど、心がなければ分からない、仏とはそういうものだ。

ここまで引用でした。

己の心の成立

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この項目はオノコロ島の段落の文章の解説です。

心が作られ働きだすまでの過程で、と同時に心が造り働くときの行程です。

原文は以下のように細かく区切ります。

ですが常にことが起きる瞬間のできごとです。

瞬間と言っていますが、私が何か意識を向け、イザっと立ち上がるその瞬間のことです。(言霊ウ)

私の意識が何かに向かない限り起きません。(言霊アワ)

意識に向かってもその答えが返って来なければ何も分かりません。(言霊オヲ)

そして答えが返ってきても答えを受け入れ実践しなければ何も動きのません。(言霊エヱ)

それらを全て統轄しているのが私達の心である言霊イ㐄の伊耶那岐の神伊耶那美の神です。

私達のこころは主体的に活動していきますので、自我=おのずからの我と呼ばれます。(言霊チイキミシリヒニ・イ㐄)

しかし、自我それ自体は自らを表すことはできません。自我を表すものに宣(の)ることが必要です。

それが先天の自我の構造である天津神十七神です。

ではどのように先天十七神が心にのり、こころが十七神を現すのでしょうか。

それがオノコロ島の段落です。

心の成立は心の先天構造の解析から始まります。

現代では先天というと、可能性だとか潜在的なものとかで置き換えられてしまいそうですが、可能も潜在も在ったものの先天を指しているのに対して、先天構造は在り在った在るだろうものの全体を取り上げて示しています。

オノコロ島の段落の構成。

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オノコロ島の構成は次のようになっています。

己の心の締まりの成立 オノレのココロの領域

自我は無い島 先天構造の働き

心の主体側の働き 自我・自己の成立

心の主体内創造活動 自己内の主体と客体

心の客観領域の創造 一般性の創造

観念世界創造への反省。 一般性に個別性を宣(の)せる

心の現象創造のための十四領域 己の心の地場領域

以下、おのれの心の成立の原文に意訳を添えます。

原文。 己の心の締まりの成立。 オノレのココロの領域

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・ 自我は無い島 先天構造の働き

【 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、

【 「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。

【 かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、これ淤能碁呂島(おのろご)なり。

【 その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。

・心の主体側の働き 自我・自己の成立

【 ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、

【 「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、

【 「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。

【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。

・心の主体内創造活動 自己内の主体と客体

【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。

【 かく期(ちぎ)りて、すなはち詔りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、約(ちぎ)り竟(を)へて廻りたまふ時に、

【 伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とのりたまひき。

・心の客観領域の創造 一般性の創造

【 おのもおのものりたまひ竟(を)へて後に、その妹に告りたまひしく、「女人(おみな)先だち言へるはふさはず」とのりたまひき。

【 然れども隠処(くみど)に興(おこ)して子水蛭子(みこひるこ)を生みたまひき。この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去(や)りつ。

【 次に淡島を生みたまひき。こも子の例(かず)に入らず。

【 ここに二柱の神議(はか)りたまひて、

【 「今、吾が生める子ふさわず。なほうべ天つ神の御所(みもと)に白(まを)さな」とのりたまひて、すなはち共に参(ま)ゐ上がりて、天つ神の命を請ひたまひき。

【 ここに天つ神の命以ちて、太卜(ふとまに)に卜(うら)へてのりたまひしく、「女(おみな)の先立ち言ひしに因りてふさはず、また還り降りて改め言へ」とのりたまひき。

・観念世界創造への反省。 一般性に個別性を宣(の)せる

【 かれここに降りまして、更にその天の御柱を往き廻りたまふこと、先の如くなりき。

【 ここに伊耶那岐の命、まづ「あなにやし、えをとめを」とのりたまひ、後に妹伊耶那美の命、「あなにやし、えをとこを」とのりたまひき。かくのりたまひ竟へて、御合いまして、

・心の現象創造のための十四領域 己の心の地場領域

心の先天構造

【 子淡路の穂の狭別の島を生みたまひき。 次に

【 伊予の二名(ふたな)の島を生みたまひき。この島は身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ伊予の国を愛比売(えひめ)といひ、讃岐の国を飯依比古(いいよりひこ)といひ、粟(あわ)の国を、大宜都比売(おほげつひめ)といひ、土左(とさ)の国を建依別(たけよりわけ)といふ。次に

【 隠岐(おき)の三子(みつご)の島を生みたまひき。またの名は天の忍許呂別(おしころわけ)。次に

【 筑紫(つくし)の島を生みたまひき。この島も身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ筑紫の国を白日別(しらひわけ)といひ、豊(とよ)の国を豊日別(とよひわけ)といひ、肥(ひ)の国を建日向日豊久士比泥別(たけひわけひとわくじひわけ)といひ、熊曽(くまそ)の国を建日別といふ。次に

【 伊岐(いき)の島を生みたまひき。またの名は天比登都柱(あめひとつはしら)といふ。次に

言霊後天要素

【 津(つ)島を生みたまひき。またの名は天(あめ)の狭手依比売(さでよりひめ)といふ。次に

【 佐渡(さど)の島を生みたまひき。次に

【 大倭豊秋津(おほやまととよあきつ)島を生みたまひき。またの名は天(あま)つ御虚空豊秋津根別(もそらとよあきつねわけ)といふ。

【 かれこの八島のまづ生まれしに因りて、大八島国(おほやしまくに)といふ。

言霊整理運用

【 然ありて後還ります時に、

【 吉備(きび)の児島(こじま)を生みたまひき。またの名は建日方別(たけひかたわけ)といふ。次に

【 小豆島(あづきしま)を生みたまひき。またの名は大野手比売(おほのてひめ)といふ。次に

【 大島(おほしま)を生みたまひき。またの名は大多麻流別(おほたまるわけ)といふ。次に

【 女島(ひめしま)を生みたまひき。またの名は天一根(あめひとつね)といふ。次に

【 知珂(ちか)の島を生みたまひき。またの名は天の忍男(おしを)。次に

【 両児(ふたご)の島を生みたまひき。またの名は天の両屋(ふたや)といふ。 】

・自我は無いが自我が作る

【ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、 】

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『人間の心の先天構造である十七の言霊が活動を開始して 』

「人間の心の根源要素は上記の十七しかなくその実体のあり方と生き方の全体が働きを始めて 」

命(みこと)もちてとありますが、ここでは命を下す主体が天津神ということです。しかしそれをそのまま受け入れますと天津神の物語となってしまい、心の原理論になりません。

そこで注意してみると、天津「神」が「命」をもちてというように、「神」という実体の話ではなく、「諸々の命をもちて」と、働き、活動の話しに変換しているのだよということに気付きます。

前には働きが実体に宣(の)ると言ってきましたが、働きは働きに働きかけるので、その現れが実体になります。

冒頭の先天十七神(天津神)は「神」として紹介された後、在るだけのなにもしない「神」から働きのある「命」へと転換して、働きを自らの身体に現すようになります。

そこで先天の「命」が働きかける、相手の働きが必要となります。

ここで先天というのは、どこにいるのか分からない神とは違って各人の心の先天です。各人の心に在る天津神が働き始めることで、十七神の先天構造体となっています。

その先天構造が「吾の眼を付けて智に成る(あめつち)」という形で活動が始まります。

この「吾の眼」の内容が、欲望、知識、感情、選択の意識活動となって現れ、言語活動として言霊ウオアエ次元世界に表現されます。それらの活動の根底にあるのが言霊イの創造意志活動です。

従って、先天のまず働きかける相手は言霊イ㐄の 伊耶那岐と伊耶那美の「命」となります。 伊耶那岐と伊耶那美の「神」ではありません。

神と命の違い。

同じ意識上のものでも、出来上がった存在とその存在の原理原則の形を取るものを、神と呼び、

存在の在り方動き活動や原理原則を表現していく言葉などを、命と呼びます。

例えば、

この文章の読者は、読書という働きをしている実行者としては、命という人間ですが、

読んでいるという働きの確認された人間としての存在は、「神」ということです。

また、文章の内容からする立場からいえば、読んで了解された概念知識等、及び記憶として存在とそれらを保障している原則原理判断が在り、それらは神と呼ばれます。一方、内容を判断していく行為を促す為に働いている諸々の知性は「命」ということになるでしょう。

先天十七神の構造も初めにウアオエの言霊実体神が記され、次いでチイキミシリヒニの父韻の働き神が記され、そしてイ㐄のイザナギという統合神によって事が成就していきます。では実体神と働き神とに分かれる以前はというと、それが冒頭の「成りませる神」から出てきます。

そして、これらを統一的に実践行為者として人間に見ていくときに、人間も命と言われるようになります。ひふみ神示という書には「ミコトは一つ」として「口と心と行と、三つ揃うたまことを命(み こと)という」と解説しています。母音と父韻で子音を創造するということですが、内容は徐々に明かされます。

ですので、天津神がどこか天上にいるのではなく、「吾の眼を付ける」という心の行為が始まるときに立ち現れてくるのです。

この心の行為の上に天津神が現れて、自らの働きに感応同交する自らの心を打ち立てるようにしていきます。その最初のあらわれが自らの心となります。おのれの心の締まり、オノコロ島が作られます。

【 伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、 】

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『先天十七の言霊が揃うことで動き出し、二柱がイザと立ち上がり』

「イザと立ち上がる前に先天の実在と働きが揃うことで、心のギ・ミの命の働きを喚起して」

重要な注意。古事記による心の原理論では、心の主体(自我や主観や自分とかいうこと)の前に先天構造を提起しているということです。ですが、可能性とか潜在とか呼ばれる物が現象化するという、在った物の現象化ではないということは前段に既に述べました。

ずらずらっと「神」名が出てきたところで突如として「命(みこと)」になりました。

最後に伊耶那岐「イの名の気」の‘イ’と伊耶那美は「イの名の身」の‘ヰ’がいざと立ち上がりますと心が活動します。

‘イ’は現象を起こさせる方、‘ヰ’は現象を起こされる方ということになります。

物質界という立場では風が吹いても鉄骨は揺れませんが草木はなびきます。

ものが在って在るだけなら何でもありません。ものがあるといい、こころがあるといい、世界があるといい、神があるといいますが、在るのでしょうけれど在るのか無いのかは人間の意識がなければ分かりません。意識が働き知性が働いて有る無しも分かります。有る無しの実体に関しては人間知性の働きで現象を感知します。ここで知性というのは、概念知識で分かるものの他に、欲望感覚、情感感覚、選択の道徳意識、及び超知性と呼ばれる創造感知も含まれます。

確かに人間がいなくても、物があることや宇宙世界も存在しているのでしょうけれど、どこからきて、どうここにいて、どういうことでどうなるのかは、人間知性がなくては分かりませんし、知性の介入がなければ分からないことは分かりません。この知性の意識を代表しているのが命(みこと)です。

ミコト(命)は実体に付き、感応し合って動かし、動いたことを確認して名を付けます。まずその初めは、

【 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、 】とあるように、実体(神)がその働きをあらわし、現れがギミのミコトの感応を起こし、ギミの「神」とします。

相変わらず分かりづらい言い方で申し訳ないのですが、ギミのミコトというのは自分のことで、自分は自分の考え思いで自分を主体として何かを初めているようにみえますが、元をただせばそんなものはありません。肉体的に精神的に自分は自分で作っているというものは何も無いのです。自分が主体で自我から始まるというのは、不正で単なる思い込みで、逸脱で強制された信じ込みで、無いものを在るとしていることですが、全くそれで普通の意識の出発の仕方です。

そこには間違った思い込み、不正確な知識による誤解、誇張霧の無い拡大解釈、信心にまでなった一粒の知識として、間違ったものとして問い正される謂われなど本来は無いのです。間違っていようと逸脱していようとその人の知性となっているし、そのように育て育って当たり前の意識に成ってきたのです。

例えば、日本国家の「君が代」も「君」の意味を知っている人はいません。以下引用。

君が代と申しますと、君は天皇のことを指すのであろうと思われるでしょうが、語源から入らないと分かりません。伊耶那岐のキ、伊耶那美のミです。

伊耶那岐、伊耶那美の原則を実行に移して、世界の政治の頂点に立った時、それを「君=キミ」と申します。この君がどういうことをするからキミなのか、ということを言葉で言い表したのが、それが君が代の歌なのです。

それは胸がスカッーとするほど素晴らしいことです。今の学者や新聞が云々しているようなそういうものではないのです。日本の古代はこういうようなウとオで固められた考え方を遥かに超越した世界でした。

人類の発展のためには通らなければならない、致し方がないな、まっ良かろうと、見下ろしている方の考え方、それをお分かりにならなれば成る程、日本という国は奥が深いんだなとお分かりになられます。

ここまで引用。

というように「キミ」の真実を知らないで国歌にまでなっているのがあるかと思えば、それを元にそれぞれの主張を掲げて喧嘩までしているのです。相手の主張が間違っている訂正しろなどと言ったところがケリのつく話ではありません。間違った意識正しい意識という規範の無いままででの知性の受け渡しです。

しかしこれは私の心であるキミの「神」の外に在る天津神の働きではありません。各自の持っている先天の当たり前の働きの成せる技が自分の心であるキミの神に働きかけることとなります。

ではこの神様はどういう働きをしてくるのか。誤解であろうと、誇張であろうと、不正であろうと、もちろん正しいという思い込みであろうと、どのように当然のように自我となっていってしまうのでしょうか。

つまり、自分に確認して自分の意識による名前付けによって、自分が世間に流布している働きを追ってみましょう。

世間に流布させることと自我の成立が同じ所から始まる様子を見てみましょう。

【 「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、】

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『まだ現象となっていない先天十七の要素を用いて確固たる現象を創造しなさい、と』

「創造された現象(子)の世界からの見方だが、ここでは先天の構造要素があるだけで現象がまだない。そこで不安定な先天構造要素の国(クニ・組んで似せる)を人間世界で安定した組み合わせにして造ることが求められる。」

【 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、 】とあるように、天津「神」が、諸々の「命」を以てナギの「命」に働きかけ、ナギの「神」に 詔りたまうという、神-命-命-神の流れが明確に記載されています。

「この漂(ただよ)へる」と言いますが、秩序なく浮遊するでも渾沌としたでもいいのですが、なぜそのようなことが言えるのでしょうか。掃除もしないでゴミ散らかり放題捨て放題の室内や道路を見ても、別にそのように感じ思わなければ、あるがままの状態です。

確かに初期にありがちな不明瞭さからくる混乱というのがあるにしても、秩序的でないとどうして思うのでしょうか。

ここでは先天十七神の構造が紹介されたただけであり、その活動が始まりますよというだけのことです。

それなのに浮遊し漂えると何故言うことができるのか。言うからにはそれだけの判断規範が、初歩的にしろ確定的にしろ、あることになります。

ここの文章は、 「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」 ですから、漂えるを 「修理(おさ)め固め成せ」 と対比しています。「漂える」には「固成」が含まれています。

いったいこの言葉は誰が発してどこから来たものでしょうか。

天津神と答えることができますが、十七神いるどの神さんですか。

どの神さんがどこからどのようにこの言葉を発するのでしょうか。

今はまだ心の先天の時点で、これといった現象として現れているものは無いのです。

ですのでこの言葉自体が影形の無い「漂える」ものです。その影も形も無い漂える「言葉」とも言えないものがあると設定されているわけです。経験反省的にもそういった形を自分の事の始まりに感じることができます。(が、ここの話は先天ですので。)

それを隠喩で吾の芽(ア・メ、天)としたのです。

実際これ以前の在り方を勘繰っても、想話になってしまいきりの無い話になります。「漂える」先天状態があるとそのまま認めるしかありません。そうすると「漂える」にたいする「修理固め成せ」も、そのまま心の性向として認める以外なくなります。心は 「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」の方向へ必ず向かっていきます。

「この漂(ただよ)へる」、というのはそれを判定できる規範があるからです。

「国を」、国はク・ニで組んで似せる事の呪示で、判定できる規範に似せるということです。

「修理(おさ)め」、完成として現れてこないものを確認すること。

「固め」、は事も心も流動的ですがそれに形を与えないことには秩序を持った実体を見ることができません。

「成せ」、成し遂げよですが、心において成すことは名をなしてあるものとして固定することです。名を付けることで社会建設の上で組(く)んで似(に)せ合う国をお互いに造り合うことができます。

ここでは「国」を自分の心に組(く)んで似(に)せると読むことが肝心なことです。心にある規範が心の相手対象を見た時、不明瞭無秩序な「漂える」国と見えそれを規範に沿った秩序に「修理め固め成せ」というようにこころが働きます。

ひふみ神示は開口一番に「ふじははれたりにほんばれ」と書かれていて、漢語を当てはめて読めば、不似は晴れたり二本晴れというように、主客の一致した認知を喜ぶ内容と成っています。

こうして先天の規範を元に組んで似せるクニを建設していきますが、この時点での文化文明の建設に必要な手段が必要となります。建設への心意気は先天規範として在っても、形に現れ動かすにはそれ自体が形とならなければなりません。

心の、意識の形に現す手段とは、言葉です。

先天の言葉とはどういうものか、その実体と働きが次にきます。

ここで前もって注意しておきますが、心にある計画予定規範を現実に適用しつつ創造していく事を思い易いですが、そういった訂正や改良変化しつつ事を成すのは、現実物質世界の立場からの見方で、古事記のフトマニ言霊学ではそこにあるそれ以前の、主客の意識の構造を取り上げていきます。

そこでは主体側が係わったそのままの世界が「漂える」から「固成」、「不似」から「二本晴れ」という、瞬間の時の流れに沿って過程が存在しています。それは主体の働きに直接対応答える形を取っていきますので、現象として確認されつつ訂正変更を加える以前の世界をまず創造していくものです。

そのためには、心の主体側と心の相手対象を取り結ぶ橋渡しが無いと、物は物に働きは働きに関わり合うことができません。それが言葉であり、言葉の発生になります。以下に述べます。

注意。直接現象を造ることではなく、現象を造る主客の構造実体をまず造ること。言葉を発生して意志を通じ合うには、頭脳内の言葉のイメージを物象化して物質に載せ、それを相手に渡して頭脳内で逆方向に解読されていく過程が必要となる。

しかし、それは頭脳内での現象化で、後の第十八番目の神以降で説明されます。

ここでは創造主体に先天を載せて、先天の主体意識の領域を造ろうとしています。その後に頭脳内に宣(の)った現象がおきてきます。

言葉の発生。

この項目はそのまま言葉の発生とその先天構造の話になっていくことが続いてます。

主体側が相手対象と係わり、個という主体を確立していくと同時に、一般性によって伝達可能な社会的な言葉になり、社会的な言葉に固が宣(の)っていく経過ともなります。

主体側の立場からまず見ていかれ、主体による現象が出来たところで、客体物質の立場からの話が始まります。その項目は「黄泉の国」の項目と重なります。

本稿は言語論ではないので触れませんが、客体物質の立場からの言語の発生については途中放棄した論考に少し記述があります。

「 古事記の秘密とはあめつちの言霊学 」 項目 「 や 腹母音 」

https://sites.google.com/site/ametutinokagami/ya-1

【天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。】

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『矛は両刃の剣で、舌を出した形をしていて言葉を発っせよということ。』

「まず主体の働きとなるものを準備する。言葉の発声器官である口は何故顔の中央にあるかについては誰も解答できないように、舌を動かして言葉を発するのは天の沼矛から来たものであり、それは、沼(ぬ)は言葉を縫うことに通じ、矛(舌)で貫くことで霊凝(ほこ)を得る(十七神を舌に載せる)ことになります。」

元々国土造成の話ではなく心の内部の事ですから、沼矛という武器や用具を与えられたわけではありません。心を現す話ですから、その先天の心の客体物質側の用具のことです。舌と舌にまつわる発声器官のことです。ここでも働きはあっても実体が無ければ働きは現れないので、心における「修理固成」を遂行する用具としての舌をまず準備させます。

発声器官である舌から発音される音声へ、そして音韻による言語へと進む言語論もあります。その場合には音韻の違いによる意味内容の違いは手段が違い音声が違うというだけのことです。

しかし、言霊学では音声そのものが心の内容となっている言語体系の「固成」を目指しています。

従ってそれは単音要素がそれぞれ意味を持つ大和の日本語でしか現れることができません。そして今はその完璧さが形成される途上経過が描写されているところで、単音が発声表現される上で先天の構造を物象である先天の舌という形で取り込んでいるところです。声帯や舌があっても、舌の働きがなければ発声鳴き声はできますが、心を発音することはできません。ここで舌というときには、口、声帯、気管支、肺、腹、腹筋等も含まれてきますので、そちらの方向へ目を向ければ生理の研究も必要となるでしょう。

しかしそれは物質の立場に立つ方向となりますので、心の働きの立場、心の主体側から見ていくことが必要とされます。最初に天津神が「命」をもちてということでしたから、人間の心の主体側もそれに相当するギミの「命」が登場しました。

「命」同士の掛け合いの上で形として客体となるのが天の沼矛ということです。人間側にそれに相当するのが舌になります。(この時点では現実的に人間の舌の動きのことはまだ指しておらず、舌の個々の動きが心の相手対象の個々の事象を指し示すのはまだ後のことです。)

ここでは舌は私のものであるのに、天津神から与えられます。また実体(沼矛・舌)と働き(言依さしたまひき・実行せよ)の両者も同時に与えられます。自分の肉体も精神も自分で作ったものでなく両親から与えられるようなものです。ただし心は主体という柱の上で常に実行されていき、物質の作用反作用とならず、主体柱内の螺旋循環となっていきます。

ですので、自我も自己もなく天津神からあたえられるものでありながら、そこに立ち上がるのは主体柱の生育となります。

この主体柱の内で天津神は常に「諸々の命」を発していき、主体柱の私達はそのみことのりのみをきいていくことになります。

つまりどこにも主体も自我も無いのですが、その事自体が主体となり自我となっていくのです。

天津神の「命」を出来上がっている自我で聞いてしまうと、最初から事が載りません。

次に主体側の動き、「命(みこと)」の検討に入ります。

天津神の「命」が宣(の)り、それを主体柱においてそれだけを取り入れることで、私の心においても主体と客体の不似の対比が解消されて自分のものとなっていきます。

その様子が次にきます。

【かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、】

---------------------------

『先天構造が頭脳に載ることで、心の先天の実体と働き、主と客の両者が先天の働きから受ける力動によって頭脳内の働きへと変態します。その後頭脳の働きになり、ギミの命が立ち上がります。』

「次いで主体の働く場所を準備する。先天構造が頭脳に宣(の)る働きを科学的にも神学的にもまだ解決されていませんが、構造的には十七神の生成順による説明ができます。(言霊循環の神秘) ここでの二柱はタカミとカミムスビの神の位置と同じですが、前承する言霊上昇循環によって先天構造を全て得ています。」

「二柱の神、天の浮橋に立たして」とは言霊イとヰが主体と客体とを結ぶ天の浮橋の両端に立って、の意であります。天の浮橋の「天の」とは「先天」の意。

橋は今来た道の終端に位置するそれ自体新しい道の端になっているものです。橋は渡らないと橋にならず渡り終わらないと向こうの道の端になりません。橋はあるものとして見られるものではなく、渡るものです。ところが古事記には渡るというより「立たして」という表現が用いられています。

ここに至る前段までの全部が「立たして」に係わります。先天十七神が働きを始めて、先天の道の終端に橋の端を見つけました。人間の心で言い換えれば、先天の十七神たちが、心の主体の十七神達と出会うところです。

この主体の十七の橋を渡って向こう側の端に到達しますと、今来た先天の道でもなく、渡ったばかりの橋自体でもなく、新たな場所にある向こう側の道の端に立つのです。こうして元の場所から全然別の反対側の端に立つことになります。

橋は遠くから見ますと一つの全体ですが「天の浮橋」は橋板がたったの十枚で出来ていて、両端にギミが立ちイ㐄を受け持ち、残りの中央にチイキミシリヒニの八つの渡り方を持つ八枚という構成です。

今までにウアオエの母音世界とウワヲヱの半母音世界、それにイ㐄の親韻とイの展開するチイキミシリヒニが揃っています。

両端に立つイ㐄が母音半母音になってそれぞれウアオエ、ウワヲヱを支え展開し、また同時にイが橋板を敷き延べて渡れるように展開しています。イメージできる物象として鳥居があります。鳥居は結界の象徴で理解されていますが実はこの天の浮橋のことです。鳥居を潜って拝殿に行きますと、鈴があります。鈴は横から見れば口を開いて言葉を発する形をしています。次に沼矛(鈴)を振る話しになります。

タ・タして。

橋を渡ると言わず「立たして」と言っていますが、実際に欄干にもたれて立っていることではなく立つことでもありません。「立たして」は「タ・タして」ということで、闘う・タタかうと同じ意味合いです。闘うにはあるもの可能なもの使えるものなら何でも手にして、自分の全体を相手にぶつけ(渡し)ていきます。それと同じように此処にいる「イ」の主体側がその主体性の全体を渡して(ぶつけて)、客体側の㐄に行き着くことです。その内容が次段にきます。

つまり、ウアオエ・チイキミシリヒニ・イの主体の全体を㐄の客体と掛け合わすことです。

しかし鳥居の下も橋の下も空間でそこに生まれたものはありません。

橋を渡って向こう側へ到達しますと新しい道になりますが、母音父韻の掛け合わせの結果は、橋の向こう側、拝殿の前にある口である鈴を振ることで起きます。

【その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、】

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『働きが始動します。先天から頭脳内の舌に降りてきますが同時に、父韻によって実体母音世界を突き刺す(沼・ぬ)ことで、母音世界を全部引き受け入れ(掻き入れ)ることでもあります。』

「そして主体自体の働きが始まる。私の意識が時処位を得ようとし、実際には舌を使って音を色々に出してみて自分の意識に似た音を掻き回して探します。イの言霊をチイキミシリヒニに展開してアオウエ次元に差し込み掻き回して子音を得ようと㐄に渡る道を探します。」

矛は舌の形で口を動かすことで、沼(ぬ)は言葉を縫うでした。縦方向では布を縫うのも、徒競走で抜き去るところを見るのも難しく、濡れるのも横に拡がるからよく分かります。

このように「ぬ」矛の「ぬ」は横の意味で、横に並んだ橋板八枚全体、父韻チイキミシリヒニ、のことです。

これの縫い込む相手が主体の母音側世界になります。どのように縫うかといえば「指し下ろす」ようにです。さすは指す刺す挿す注すように直線的に相手に向かう動きを示します。相手は主体の母音世界であるウアオエで、各次元世界に、ウのチイキミシリヒニ、アのチイキミシリヒニ、オのチイキミシリヒニ、エのチイキミシリヒニ、を創造します。いわば先天の子音ということですが、現象となる子音(三十二)はまだこの後になります。

これは後に、チイキミシリヒニ(TYKMSRHN)に母音(uaoe)が付いて、子音(T+a=Ta・た、Y+a=Ya・や、等々三十二子音)ができる元となります。

鳥居。

チイキミシリヒニは父韻の働きでそれ自体は姿を持ちません。

鳥居の横の構造だけをみますと、笠木、島木、貫と並びます。天に「笠木」と称する頭にかぶる笠の形を借りて天からの先天の木(気・霊)が「島木」にへばり付いています。先天の霊(言霊神)が自己領域である自分の島に宣(の)って自分の締まり(島)を作ります。そしてその先天が働くことを現しているのか「貫」です。「島木」と「貫」の間には空間があり額束(がくつか)の在るものと無いものがありますが、この左右が父韻の主体側、チキシヒと客体側イミリニに分かれています。

「額束」は「書かれたたば」で父韻と母音の働きで現象表記となったものが現れてくるという意味で、それを書かれた文字で象徴しています。子音の出現を示しますが、鳥居を形作る時点ではまだ子音は出てきません。

つまり、父韻と母音の働きだけでは現象子音は出来ず、奥に進んで鈴(口のこと)を鳴らし動かさなければならないというわけです。

こうしてみると古事記の進行通りに鳥居も出来ていることが分かります。(唯一神明造りの伊勢神宮は建物全体が古事記の冒頭百神の成り出る通りに出来ているので唯一、神を明かす造りと呼ばれています。)

この時点での「画きたまひ」は個別要素次元の子音三十二個を掻き回すことではありません。

いわば先天の子音の実在領域を確保するものです。予定を描く、下絵を画くように現れ出てくる子音の出所次元を準備します。

ウのチイキミシリヒニからタユクムスルフヌ、アのチイキミシリヒニからタヤカマサラハナ、オのチイキミシリヒニからトヨコモソロホノ、エのチイキミシリヒニからテエケメセヘネの各単音が出てきます。

どのようにかは次の段落になります。

【塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、】

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『塩は四穂(霊・しほ)で四つのウアオエ言霊母音、潮時の機(しほ)を掴む適宜な父韻の働きのことでもあり(汝は地の塩なり)、四母音次元を八父韻で掻き回し心と発音の一致を探します。こをろこをろは子を降ろす現象を降ろす生む。』

「母音世界はありっ放し鳴りっ放しで一般性共通性を示します。そこに機と個別性を持ち込むのが八父韻です。これによって心の現れが確保されていきますが母音の一般性を基盤としています。四母音に対して八父韻が絡み合い三十二の子音が出来てきます。」

前段では、

その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、で、

「ぬ」の横全部(チイキミシリヒニ)、

今度は、

塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、で、

塩・四穂・四つの実在世界・四つの言霊宇宙の、

こをろこをろ、心の子を降ろす個々の子を降ろすで

個々別々の子を生む降ろす、心の個々の単位要素としての現象子音を降ろす、になります。

前段が、横一列「段」単位で、心の次元世界を現すのに対して、

今回の「塩」の段は、次元を構成する一つ一つの個々の現象の事を指します。

八を含んだ四つの次元世界が確認されるのに対して、横単位の各八の個別性が確認されて三十二になります。

こうして心の四つの次元世界に在るそれぞれ八つの個性の出現が、この先天の過程を経過することで保障されます。つまり三十二の個性ある子音が出てくることが出来るようになりました。

次に、先天の三十二の個別要素を現実の子音として生むことになりますが、その前に主体的に自己創造とする経過が確認されます。というのもここまでは自我自身の主体性による行為ではありません。自我などなく作られたものでした。

それを自分のもの、行為とするための、転換、無自覚さからの脱皮変態が行なわれます。それによって先天の天津神による作られた自分が、自分が作る自分へと変換されます。

(この変換はイマココの瞬間に行なわれていきます。)

言葉の発生の三段階。

その成果が次段です。先天の活動は先天内において後天現象を生めないからです。おかしな言い方ですが、1) 先天が作った自我の形を借りないことには、先天は自身を現せないのです。この同じ経過は、言葉を生むときにも適用され、2) 先天の言葉はイメージとして示されなくてはならず、3) イメージは物象を伴って現実の発音(行為)とならざるを得ないのです。

この三段階を統轄しているのがイザナギによって名付けられた「名」です。

つまり目前の寿司を喰いたいと思っても、その思いを手の動きや口を開くことに変換しないと食えないように、先天の思いも何かに託されて宣(の)る事が必要です。それが言葉ですが、先天から現実の発音に至るまでには少なくとも脳内では上記の三段の経過変態を経ていきます。それが「心」という領域で行なわれます。

言葉は発生するだけでなく整理運用され交通し合うようにならなくてはなりませんから、このあと心を十四の領域に分けて古事記は説明してくれています。

現実の「名」を読む聞く見ること等は物理的な条件の元にありますがそれ相当の時間を経過して認識確認されていきます。しかし頭脳内のイメージ段階ではその速さは現実とは比較にならないほど速く駆け回っています。イメージを構成している言葉は早すぎて掴めないながら、きちんと次々に口から出る言葉を制御しています。さらにイメージ内の言葉を全世界全経験事実から集めている、イメージを作る言葉があります。これはとても手に負えるものではないのですが、時たまふとした調子に全体が一挙に出てくることもあります。モーツァルトは交響曲を既に脳内でごく短い時間の内に聞いてしまい、それを書き写しているだけという手紙

を遺しています。古代のスメラミコト集団はおそらくそのような能力に長けていて、人の先天世界の構造を受け取ることが出来たのかもしれません。

いずれにしろこうして、人が使用できる現実の言葉の発声に脱皮変態を経つつ近づいてきます。

続いて先天の塩(四穂)から主体が関与できる塩の創造へ向かいます。

【引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、】

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『島は締まり・領域。先天構造が心の領域に移され心の働く場が確保されます。』

「先天の宇宙が全て乗りうつらねば心の働きもありません。宇宙は今ある姿とこれからある姿も含まれますから、言葉による対応もそれに応じていきます。これからあるだろう名付けられるだろう物事も同じ次元同じ範疇の中で表現されるためには、母音世界の一般性を基盤として表現されます。」

「引き上げたまひし時に、」

前段にある「沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)し」に対する「引き上げ」ですが、おろすが子音現象をおろす産むということに対応した解になります。

引き上げ・ヒキアケは、霊(ヒ)気(キ)と吾(ア)気(ケ)で、先天の内容を私(吾)の霊(ヒ)気(キ)に宣(の)せて変換することになります。

先天の沼矛であるチイキミシリヒニを私(吾)の心におけるチイキミシリヒニにすることです。

下ろして引き上げて塩(四穂)がついてきます。

「その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩」

舌先からぽつぽつぽつと個別的になって塩が着いては落ち着いては落ちてきます。

ここに塩の落ち方に二つあることに注意してください。

1)沼矛であるチイキミシリヒニ全体を指し下ろして、ウアオエの母音にくっついて落ちてくる塩と、

2)引き上げた後にくっついて個別的にぽつりぽつりと落ちてくるものです。

これは後にまぐあいを通して生まれる一般性と個別性の違いになります。

今はどちらの場合においても生まれてくる事が出来る領域場をつくることです。

「塩の累積(つも)りて成れる島は、 」(瞬間の形成)

先天の塩から現実の味のある塩に近付き成る別の次元を指します。当初は「漂える」無定型な不安定なものでした。とはいっても人間意識の四つの次元世界は先天的にあるものですから、精神意識に取り上げる姿が不定形ということでした。そこで矛(舌)をもってその働き(チイキミシリヒニ)で先天実在世界を突ついて意識内はっきりとした四つの領域・次元世界の塩(四穂)を打ち立て、次いで、各次元世界に主体性をもたせる吾の意識を生み出し、個性・自我、主体となる単位要素の塩を産んだのです。これによって機敏な潮時を用いて瞬間の形成ができることになります。

こうして、おのれの心の島 ・ オノコロ島ができあがります。

【これ淤能碁呂島(おのごろ)なり。】

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『おのれのこころの島・己の心の締まり。』

「単に己の心があるということではなく、己の創造行為によって相手対象に対応している心の物事を得たということです。音の心の島とも読め、音の一つ一つが心の一つ一つの部分に対応していてそれぞれが独立個別の締まりをもっている。」

この論考ではよく瞬間という言い方が出てきます。前段では数十分の交響曲を瞬間とも言える時間内に全部聞いてしまうモーツァルトを引き合いに出しました。このようなことは視覚上でも起り、ある事件や事柄の瞬時の再現を経験することなどでも示されています。長い長い分けのわからない夢を見ているのも実はほんの数秒のことといいます。

意識に与えられる時間の長短の感覚はよく問題になります。要するに瞬間には様々な時間的な長さがあるということになります。

普通に喋っている時には、考え思っている内要は瞬間的に口の動きになりとはちょうど並行して同じ速さにみえます。しかし書く場合には書く方がしょっちゅう遅れることがあります。タイプを打ち始めた時など既にできている考え事が眠り込んでしまうこともあります。またタイプの上達の過程では、打つ速さに応じて、考え思う速度も変化してきます。

瞬間的に様子や状況などを了解していたりするときには、説明する言葉のほうが常に後から追っかけてきます。

これらの色々な事象を見ていると、物理的表現の速度に応じて意識もその速度を変えているように見えます。つまり、問題にしたいのは意識内の物象表現であるイメージをつくる段階では、イメージを説明する自分の言葉が常に遅れるというよりは、イメージ形成の速度に沿ったスピードのある言葉の流れがあります。ただ日常的な話し言葉の速度を遥かに超えて回転していますので、日常的には掴めません。

しかし、イメージに直接係わる仕事をしている場合には超回転している言葉の流れを捕まえていることもあります。

イメージをつくる以前の段階、先天の構造を心の意識に乗せる段階、があります。夢などの場合メチャメチャなストーリーを見ていますが夢を追っている意識にはそれなりに、メチャメチャな連続を夢の中では言葉で追っているものです。夢の中では情景も言葉で説明し、ストーリーも言葉で解釈できていて、会話さえ出てきます。数秒しか夢は見ていないといわれていますが、世代も時代も世紀も世界もすっ飛ばしていながらそれながらその長い歴史を夢の言葉で理解しています。

夢の話は今回はこの辺にしておきます。現象子音の創造のところでまた触れるかもしれません。

オノコロ島、己の心の締まり、との関連でいうならば、この段階では夢は見られず、見たとしても全く締まりの無い夢になります。

瞬間の長さ、締まりのない夢の話はオノゴロ島との関連が掴みづらいと思います。 実体としての塩の滴りは積もっていきますが、そこには積もった塩を動かす主体の働きが無く、働く領域・締まり、土俵が形成されただけで、つまり、己の心という主体性がまだないからです。

次に積り積もった主体性とその展開場、土俵が全部主体となって形成されるところです。

【その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。 】

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『自己領域内で活動の中心となる実体世界(天の御柱)と活動(八父韻)によって、発展伸長する自我の殿(宮)の核ができます。』

「先天構造が頭脳内の活動場に乗りうつり(心の高天原が完成しつつある)全部揃ったところで、自己である主体の活動規範を打ち立てます。」

以下引用です。 http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/lecture/no167/no167.htm

「 その島に天降りまして、天之御柱を見立て八尋殿を見立てたまひき。

天之御柱とは人が自らの主体である言霊母音アオウエイの次元を自覚し、確立した姿の事を言います。この主体の柱に対して客体であるワヲウヱヰの半母音の畳わりの姿を国之御柱といいます。この主体と客体との二本の柱で示される宇宙の実在の有り様に二つの場合があります。この事は先にお話した事でありますが、二本の主体・客体の柱が合一した絶対の実在として心の中心に一本となって立っている場合と、相対的に二本の柱が主体・客体の対立として立っている場合とがあります。この二本の柱は一切の現象がここより生れ、またここに帰って行く宇宙の根本実在であります。

「 八尋殿とは文字通り八つを尋ねる宮殿の意です。宮殿と申しましたのは、心を形成している典型的な法則を図形化したものだからです(図①②参照)。この二つの図形のそれぞれの八つの間に八つの父韻チイキミシリヒニが入ります。この図形は基本数である八の数理を保ちながら何処までも発展します(図③参照)。そこで八尋殿を一名弥広殿とも呼びます。

「 天之御柱(国之御柱)と八尋殿を以上の如く説明して置いて、この文章の始めにある「その島に天降りまして」の意味について考えてみましょう。「古事記と言霊」の講座が始まってから前号までの話はすべて人間の心の先天構造即ち意識で捉える事が出来ない部分の説明でありました。そして今号より後天子音を生む話に移って来たわけであります。十七個の先天言霊が活動して、現象子音である淤能碁呂島が出来ました。「その島に天降りまして」とは岐美二神が先天の立場から己れの心を形成している三十二の子音の場所である後天の立場に降って来た、という意味であります。その後天の立場から見て、先天と後天を合わせた宇宙の構造を頭の中で図形を画いて見る状態を文章にしているというわけであります。すると、此処の文章は次の様に解釈することが出来ましょう。

「 舌を使って八つの父韻チイキミシリヒニを働かせて、四つの母音エアオウの宇宙を撹き廻してみると、現象子音が生れて来ました。その音のそれぞれが自分の心を構成しているそれぞれの部分の内容を表現している事が分かって来ました。そこで今度は自分の心の部分々々の立場(淤能碁呂島)に立って全宇宙を見ると、自らの心の中心に宇宙の実在であるアオウエイ・ワヲウヱヰの柱がスックと立っている事が確認され、またその柱を中心として八つの父韻の原理に則して後天世界の構造が何処までも発展・展開している事が分って来たのでした(図④参照)。

「 天之御柱と八尋殿について世界の各宗教に於て種々説明されています。天之御柱の事を神道に於ては神道五部書に「一心之霊台、諸神変通の本基」とあり、伊勢神宮では心柱または御量柱(みはかりばしら)、また忌柱と呼んで尊ばれ、内外宮本殿床中央の真下の床下に約五尺の角の白木の柱によって象徴として安置されており、仏教に於ては単的に古い寺院にある五重塔で示されています。ここでは天之御柱と八尋殿について易経との関係をお話することにしましょう。

「 中国の易経という本の中に河図・洛書という言葉が出て来ます。その文章を引用すると「河、図を出し、洛、書を出して、聖人之に則る」とあります。この文章だけでは何の事かお分かりにならないでしょうから、説明を加えます。「河図」とは辞書に次の様にあります。「伏羲の世、黄河に現れた龍馬(りゅうめ)の背に生えている旋毛(つむじ)に象取(かたど)ったという文様のこと。」また「洛書」とは「太古、中国で禹王が洪水を治めた時、洛水から現れた神亀の背中にあったといわれる九つの文様。書経中の洪範(こうはん)九畴(ちゅう)はこれに基づいて禹が説いたものという」とあります。

「 この様に辞書の文章を引用しても尚お分りにならない事と思います。そこで河図と洛書を易経は如何に表わすかを図で示して見ます。ズバリ申上げますが、河図は天之御柱を数の図形で、洛書は八尋殿を数学の魔方陣の形で示したものなのです。

「 日本の古文献竹内歴史には「鵜草葺不合王朝五十八代御中主幸玉天皇の御宇(みよ)、伏羲(ふぎ)来る。天皇これに天津金木を教える」と記されています。天津金木とは言霊原理の中の言霊ウ(五官感覚に基づく欲望)を中心に置いた五十音図の法則の事を謂います。天皇は伏羲に天津金木音図そのものを授けず、その法則を中国の言語概念と数の原理に脚色して授けたのでした。伏羲は故国に帰り、この法則を基礎として「易」を興したと伝えられています。

中国の書「易経」には「伏羲が始めて八卦を画し、文王が彖辞(てんじ)を作り、周公が爻辞(こうじ)を作り、孔子が十翼(よく)という解説書を作った」と記されています。この様な易学の発展の途上で、日本並びに世界の文明創造上の方針の転換が実施され、天津金木を含む言霊の原理は世の表面から隠没することとなりました。その結果、易の起源が日本の言霊原理であることも秘匿されました。従って易の起源は空想的な事柄に設定されたのです。そこに現れた物語が「伏羲の世、黄河に現れた龍馬の背に生えている旋毛に象取って河図(かと)の法則を考案し、また禹王が洛水から現れた神亀の背中にあったといわれる九つの文様から洪範九畴の洛書を説いた」というおとぎ話となった訳であります。

「中国文化五千年、わが国の文化二千年」という言葉が常識となった今日、日本の言霊学と中国の易経との関係を右の様に書きますと、読む人によっては「何を迷事(よまいごと)を言って」とお笑いになるかも知れません。けれど前にも述べました如く言霊学の天之御柱・八尋殿は共に物事の実相の究極単位である言霊によって組立てられているのに対し、中国の河図・洛書は実相音の指月の指あるいは概念的説明である数理によって表わされています。どちらが先で、どちらが後なのか、は自(おの)ずから明らかであります。

この一事を取ってみましても、日本国の紀元が今の歴史書の示す高々二千年なるものではなく、世人の想像も及ばない程太古より始まっている事、またその時代に行われていた国家体制が人類の精神的秘宝である言霊原理に則って行われていた事、また今より二千年前、神倭朝十代崇神天皇の御宇、皇祖皇宗の世界文明創造という遠大な計画の下に、この言霊原理が政治の原器としての役割の座から一時的に故意に隠される事になったという事実に思いを馳せる事が出来るでありましょう。

* * *

「古事記と言霊」の書には、子音創生の章の中に「思うと考えるという事」なる一節が挿入されています。これについて簡単に解説を加えることにしましょう。現代では「思う」と「考える」とはほとんど同じ事と考えられています。しかし日本語の原点である言霊学から見ると「思う」と「考える」という事は違った意味を持つ事になります。

「思う」とはその文字に見られますように田の心の事です。これだけでは言霊学との関りは分りませんが、田という字の意味を説明しますと、明瞭になって来ます。この講座が先に進み言霊五十音を使って人間の各次元の心の構造を表わす段階に入りますと、縦五音・横十音の五十音図が出来上がります。これを昔田と呼びました。それは人間の心のすべて、即ち人格全体を表わします。「思う」という人間の心の動きの内容はこの田の心という事で明らかに示されます。「思う」とは、人間の精神構造はそれを知ると否とに関らず、厳然と決まったその構造の法則が存在し、その法則から物事の結論は必然的に導き出されるという心の働きの事です。一を知っていれば十は自ずから導き出される、という哲学で謂う演繹法のことです。この心の働きは図形で表わされ、その動きの数霊は四または八であります。

「考える」の語源は「神帰(かみかえ)る」です。種々の出来事を観察し、それらの現象が出て来る共通の原因(神)を突き止める(帰る)の意です。十から元の一に帰るやり方です。これは哲学で帰納法と呼ばれます。その心の働きは図形で示され、その動きの数霊は三または六です。

この「思う」と「考える」の二つの心の動かし方は、人間の頭脳内に於ても、また人類の歴史の上でのこの三千年間は共に相容れることなく平行線をたどり、歴史創造の主導権を競い合って来ました。地球上の地域は「思う」は主として東洋に於て、「考える」は西欧に於て発展しました。今、ここに日本から第三の思考法、言霊布斗麻邇が昔の姿そのままに復活を遂げました。その数霊は五または十であり、その言霊的意味に於ても、また数霊的意味に於ても、「思う」(宗教)と「考える」(科学)の双方の心の働きを共に生かしながら人類の福祉のためにコントロールすることが出来る精神機能を発揮させる時が来た事を教えてくれます。

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八尋殿は現実の建物ではなく心の建物ですが、実際にあるのは伊勢神宮です。しかし屋根を支える柱の上に立ったお宮ではなく、御柱の上にはヤアタの鏡を宣(の)せています。

広大な宮殿という意味は意識の届く範囲のことは全て宮殿になるという、宇宙と同じ広さを持つことの出来る心の宮殿ということです。

「 その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。 」とあります。オノコロ島は塩(四穂、四つの実体宇宙世界)で基礎土台工事ができていて、四穂に対応しないものはその上に柱も八尋殿も「見立てる」ことはできません。

復習すると、 オノコロ島(おのれの心締まり領域)は、次の要素で成り立っています。

「ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、」 という、先天の活動、

「伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に」 という、先天の主客、

「詔りたまひて、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、」 という、先天の意図、

「天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。」 という、主体側の先天の受容物象となる器官、

「かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、」 という、主客の働きの場、

「その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、」 という、主体側の次元一般世界での働き、

「塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、」 という、個別的な個を産む働き、

「その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、」 という、一般的な次元世界の塩と個別的な主体の内容を現す塩の蓄積、

「これ淤能碁呂島(おのろご)なり。」 という、先天によって打ち立てられた基盤となるおのれの心の締まり、

「その島に天降(あも)りまして、」 という、先天基盤に対応する自己の主体的な基盤、

「天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。」 という、先天基盤に対応する主体自己による創造された塩(四穂)の天の御柱と八を基本とする自己の働き。

こうして始めて自己の主体と呼ばれるものが出現する準備が整います。

八尋殿は建物のイメージで出来ているので出来上がった構造物を思いやすいですが、「尋」というのはたずね拡がる父韻の働きことを指していますので、固定したものではありません。

この世の実さ実在世界がウアオエの四次元世界であるように、先天構造世界も四次元の構造を持ち、頭脳に宣(の)る実在世界もウアオエの四次元世界となります。従ってそこに見立てられるのもウアオエの四次元世界以外ではありません。それを柱のように見立てたのが「天の御柱」、ここでいう「天の」は単なる先天のということだけでなく、主体側が見立てる次元世界も四つの次元世界になるというものです。七だ八だ十次元だ十二次元だ異次元だというのは概念の戯れでしかありません。

次元世界の切り取られたスナップ写真は縦横斜めの八方向ができますが、これは場所の位置を示すもので動くものに対する動く心を示すものではありません。八尋殿も固定した家屋のイメージを押しつけますと構造図平面図になってしまい、八尋殿という拡がり発展していく心の宮殿でなくなります。

こうして心に先天構造が、次いで先天構造に天の御柱と八尋殿が打ち立てられます。

心が心を確認したことになります。

そして次に自分の心の運用がきますが、ここまででは自分の心があるという確認を得ただけで、心を運用していません。自分の心があると分かっても、自分で心をつくってはいないのです。

古事記はまぐわいの話で心の運用を語り始めます。心の作り方を知らず、はじめから間違えてさえしまいます。全く私達の心の進行と同じです。

6章-0 の 後半へ 続く。