ほ 三種の神器の使用法。1

三種の神器の使用法。1

八咫鏡(やたのかがみ)

「コトタマ学とは」第二百二十号 平成十八年十月号。

http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama/lecture/no220/no220.htm

より引用。

三種の神器

三種の神器の第三番目は「八咫鏡(やたのかがみ)」であります。鏡というのは姿や顔を映して見る道具です。精神的な内容として考えますと、心の善悪・正邪・美醜や物事の正誤・当否等々をたちどころに判定する基準になるものを意味しています。八咫鏡の咫はアタといって、太古の尺度の名前です。アタとは人間の人差し指と中指を開いた広さだそうです(図参照)。この咫を八つ集めた大きさの八辺形の鏡という意味です。

三種の神器の第一である剣には、精神的にいうと二つの働き(双刃)があることをお話しました。その一つは分析(太刀=たち)であり、もう一つは総合(連気=つるぎ)であります。人間の心をとことん断ち切って分析していき、もうこれ以上切ることが出来ない所まできた時、究極の要素として五十個の言霊を手にしました。一つ一つの要素の内容とその名前をはっきりと把握することが出来ました。そのそれぞれを表わしたのが、三種の神器の第二の曲玉でありました。

次に分析して得た五十個の言霊を剣(連気)の力で総合していくことになります。この総合の過程の操作にもちょうど五十の手段があって、ついに人間精神として理想の組織を持った構造図が完成することになります。この五十音の言霊で組織された人間精神の実践智の構造を昔の人は「天津太祝詞(音図)」と呼びました(図a参照)。

さらにこの構造を創造意志の働きである八つの父韻を中心に並べ替えて八角形の構造に収めたもの(その過程は煩雑を避けて省略します)、それが八咫鏡と呼ばれるものです(図b参照)。

人間の心を隅から隅まで分析して、その要素の性質内容をすべて明らかにした上で、その五十個の要素を理想の構造に組み立てた人間の行動の基準なのですから、この鏡に照らし合わせれば、人間がやること、これからやろうとしていることが適当かどうか、すぐに分かってしまいます。これは当然のことといえましょう。

以上、日本皇室の宝物とされています三種の神器―剣・曲玉・鏡―についてお話しました。それは天与の判断力、心の要素の全部、人間の心の鏡の構造という人間にとって最も大切なものを器物として表徴しているものであります。単にそれは皇室の宝というだけでなく、人間が人間としての種を続ける限り、人間精神の宝であることをお分かりいただけたのではないでしょうか。 三種の神器が人間の心の基本法則を暗示していることを知って、その眼で世界の宗教書をみますと、キリスト教の聖書や仏教のお経の中に同様の三種の宝のことが書いてあるのに気付きます。そのことに簡単に触れておきましょう。

例えば旧約聖書の中にユダヤの「三種の神宝」としてアロンの杖・黄金のマナ壷・モーゼの十戒石があったと伝えられています。この三種の神宝を木の箱に入れ、箱に棒をつけて人が担ぎ、民族の先頭に立ってヨルダン川を渡ったという故事が書かれています(このことが日本に伝わり、神社のお神輿を担ぐことの先例となったのだという話もあります)。三種の神器と神宝とを比べてみますと、草薙の剣がアロンの杖に、曲玉が黄金のマナ壷に、鏡がモーゼの十戒石に相当することになります。

仏教では観普賢菩薩行法経というお経の中に「象の頭の上に三化人あり、一は金輪(こんりん)を把(と)り、一は摩尼珠(まにしゅ)を持ち、一は金剛杵(こんごうしゅ)を把れり」と書かれています。金輪が鏡に、摩尼珠が曲玉に、金剛杵が剣に当たりましょう。その他仏説に閻魔大王の浄瑠璃(じょうはり)の鏡が説かれています。この鏡は亡者の生前の善悪の業が立ちどころに映し出されるといわれます。これで三種の神器の精神的な意味についての説明を終えようと思いますが、実際の三種の神器は第十代崇神天皇の時、宮中より移され、諸処を廻り、最終的に現在の伊勢の皇太神宮に祭られました。その経過は「日本書紀」に詳しく書かれています。その後、神器のうちの草薙剣は第十二代景行天皇の時、日本武尊の東征に関係して現在の名古屋の熱田神宮に祭られ、今日に到っています。宮中にある三種の神器はイミテーションということになります。

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上記ホームページには八咫鏡(やたのかがみ)が図示されてます。ここにコピーできないので各自見に行ってください。

古代、世界の聖人達が大和の国目指して人間精神の宝を求めようとやって来たといいます。

現在では既に公開はされていますが使用法が分かりません。

言霊の鏡。

わたしも自分の鏡を持ちたいと造ってみました。使用法はこれから考えます。

図示の方法を知りませんので文章で書きます。

八咫鏡(やたのかがみ)同様に同心円状のものです。

現象を産み出したいという実用さに基づくものです。

六つの同心円からなります。

(1)中心に来るのは現象となるものです。火の迦具土の神 または「子」と書かれています。

(2)その「子」の廻りを三十二個の花弁が取り囲みます。

一つ一つの花弁にはそれぞれ、

「タトヨツテヤユエケメクムスルソセホヘフモハヌラサロレノネカマナコ」、古事記の大事忍男の神から大宣都比売の神 までが入る。

(3)その三十二の花弁の円を囲んで客体側である「ウヲヱワ」(半母音)がそれぞれ四分の一づつを締めて取り巻き、

(4)同様に主体側の「うおえあ(母音)」が来ます。。

(5)その廻りを八つに分けられた枠内に父韻の八つ「チキミヒリニイシ」がそれぞれ入って囲み

(6)最後に、創造意志となるイザナギ、イザナミの「イ、ヰ」が半分づつを締める。「イ」は主体、主題、問題となっているもので、○チョンの「ス」を引きずっています。

読み方はやたの鏡と違って外から内へ向かいます。イから始まって内へ向かい三十二の言霊全部を通過して「子」の現象が出て来るという予定です。

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三種の神器の使用法。その1。

まず、神器の説明ですが、器物は精神の物象化したもので、精神の意味を表現した物ですから、眺め隠し持つだけでは不要なものとなるだけです。そうなれば宝としての価値はあっても心の価値は無くなります。

「三種の神器の使用法」というのは、将来の新ブログの名前にしようかと思っているものです。せっかくの人類の宝物である精神規範が、すでに民間に流出しているのですから、五千年の歴史を創った大本について皆がもっと知るようになり、今後の世界の為にした方がよいように思います。

天皇でさえ見られない宝物としての神器は、天皇家のものですから別に観る必要も無いでしょう。それよりも、天皇家よりも、もしかしたら、いち早く三種の神器を解読できるかもしれないという可能性がある、そんな特別な歓びがまだ消滅していないことを確認できそうだ、ということの方が面白そうです。

とはいっても、まだ理解したわけではないので、今回は将来の為の準備というものになります。

まずは、言霊学上の解説を引用しておきます。

古事記の解釈には多くの人たちが参加していますが、言霊学からする本物の解釈に参列する人がまだ少ないようです。意見交換もなく、自証するのもあやふやですが、精一杯やってみます。

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以下引用

剣(つるぎ)

古代の日本の刀は両刃でした(図参照)。それを太刀(たち)または剣(つるぎ)といいます。剣は精神の何を表しているのでしょうか。剣によって表わされるのは、人間が生まれた時から授かっている判断力のことなのです。物事を理解しようとする場合、言い換えますと物事を分かろうとする場合、そのものを分析すなわち分けなければなりません。分析すなわち分けなければ永久に分かりません。分けるから分かるのです。日本語はよく出来ているではありませんか。この分析する・分ける働きを表徴する器物を太刀と呼びます。太刀は「断ち」に通じます。

物事を分析すると、そのものの細部については、はっきりしてきます。例えば映画について考えてみましょう。まずその映画の物語の筋はうまく出来ていたか。役者の演技は上手だったか。色彩は良かったか。音響効果はどうか等々が分析されます。しかしそれだけで映画を理解したことにはなりません。細部の部分部分が理解されたならば、今度は再び部分部分を総合して元の姿に返して初めて全体としてそのものが理解されたことになります。この映画は全体として良い作品か、否かの判断が出来ます。この総合する働きを「剣(つるぎ・連気)」と呼ぶわけです。現在でも一緒に何かすることを「つるむ」といいます。

右に説明しましたように、分析(太刀)と総合(剣)の両方の働きを表わして古代の剣は図で見るように両刃でありました。これに対して物事を断ち切るだけの働きの剣は刀(片名)と呼ばれました。

剣でもって人間の天与の判断力を表現したのは日本ばかりではありません。世界の宗教書には多くみることが出来ます。新約聖書の中に「われ地に平和を投ぜんために来れりと思うな。平和にあらず、返って剣を投ぜんために来れり」というイエス・キリストの言葉があります。「私はただ世の中を平和にするために来たのではない。人々に正しい判断力とは何かを知ってもらうために来たのです」という意味であります。

仏教の禅宗には「両頭を截断すれば、一剣天に倚(よ)って寒し」などという格好のいい言葉があります。「あれか、これか、ああしたらよいか、こうしたらよいか、という経験知の迷いをすっぱりと捨て去ってしまうと、物事の正邪善悪を即座に決定することが出来る人間天与の判断力が精神宇宙を貫いて立っているのを自ら感じることが出来るのだ」という意味でありましょう。

このように、剣とは人間の判断力のことを表わしています。そして古代の日本人はその判断力の精神構造まではっきりと自覚していたのです。それが先に「心の先天構造」の項で説明した天津磐境(あまついはさか)と呼ばれる言霊十七個で構成された、人間誰しもが与えられている頭脳の思考構造です。ウ―アワ―オエヱヲ―ヒチシキミリイニ―イヰの十七個の言霊の構造のことです。

以上、三種の神器の内の剣の意味についてお話してきました。三種の神器の草薙の剣などというと、何か神話のおおとぎ話のようで、現代人にとっては遠い世の中のことぐらいにしか思われないでしょうが、しかしそういう器物で表されたものが実は読者自身の生まれながらに持っている判断力の構造を表徴したものなのだと知ったなら、それは身近なものとなってくるのではないでしょうか。

人が判断するとはどういうことなのか、と三種の神器の剣は現代人に無言の問いかけをしているのです。単なる宮中の儀式の道具なのではありません。大昔の霊知りの天皇は、この天与の判断力を見事に行使出来る人だったのです。

--------以上 http://www.futomani.jp/ 言霊百神 からの引用-------

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三種の神器の使用法。その2。

まずは、曲玉(まがたま)の言霊学上の解説を引用しておきます。その2。

以下引用----------------------------------------

曲玉(まがたま)

三種の神器の第二は「八坂の曲玉(やさかのまがたま)」です。曲玉とは丸い玉でなく、玉に尾が生えたように巴形になったものをいいます(図参照)。八坂の曲玉は玉の真中に穴を開け、幾つもの玉を集めて紐を通して数珠(じゅず)(ロザリオ)にしたものです。曲玉とは、またそれを数珠にしたことは、何を表徴しているのでしょうか。

一瞬一瞬千差万別に移り変わる人間の複雑な心の現象を、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と表徴される人間の判断力で切り、分析していきますと、最終的には人間の心というものは五十個の要素から成り立っていることが分かって来ました。そのそれぞれに、アイウエオ五十音の単音を当てはめて言霊(ことたま)と呼びました。それをまた麻邇(まに)とも呼びます。五十個の要素のうち、現象としては決して現われることのない心の先天構造の要素が十七個、現象として現れた最小の後天の要素が三十三個であり、合計で五十個というわけです。人の心をいくら分析しても、この五十個より多くも少なくもなり得ません。

この五十個の言霊は口から発音される音(言葉)の最小要素であると同時に、心の内容の要素の単位でもありますから、この世の一切のものの単位ということが出来ます。日本語でこれを麻邇と呼びますが、この名は世界共通語であり、キリスト教でマナ、仏教では摩尼(まに)、ヒンズー教ではマヌと呼んでいます。

八坂曲玉は言霊を表わす五十個の玉の真中に穴を開け、紐を通して数珠(ロザリオ)としました。心を剣で分けていくと、結局五十個の麻邇を得ることになり、心の宇宙とはこの五十個の麻邇ですべてなのだということを表わしているのです。八坂という名が冠されているのは、現象として現われた三十三個の言霊がすべて八つの性質(八つの父韻)に裏付けられていることを表現しているのです。八坂の坂は性質である性(さが)を示した言葉です。

また単に玉といわないで巴形の曲玉としたのは、現象というものは一瞬も一定の状態に留まることがなく、次から次へと変化するものであることを表現しようとしたからです。○丸では回っても動くように見えません。そのために上図の曲玉を用いたのでした。巴形の図形は玉が動き、ころがる姿を表わしています。

以上、三種の神器の第二の曲玉が示す人間の精神上の意味について説明してきましたが、この人間の心の究極の要素に因んで日本の皇室の立太子の儀式についてお話しましょう。

立太子式の一つの行事として壷切(つぼきり)の儀というのがあります。皇太子として立つ人は、立太子式に際して天皇から「壷切りの太刀(たち)」を授かります。壷切りとは壷を切ることではなく、壷の封印を切って中に入っているものを見ることです。壷の中には何が入っているのでしょうか。

壷の中には、アイウエオ五十音を一音ずつ粘土板に刻んで焼いた素焼の板が入っています。その五十枚の素焼の板を見る、それが皇太子として立つ徴(しるし)となることを意味するのです。

古代の天皇(スメラミコトといいました)は人間の精神の構造を明らかにした言霊の原理を知った人でありました。霊知り(聖)です。人間の心のすべてを言霊の原理によって把握して、その上で政治を行っていたのです。古代の精神文明の時代がそうでした。それが今から約二千年前、第十代崇神天皇の時、言霊の原理は世の中の表面から隠されてしまい、それ以後の世の中は言霊の自覚のない天皇の時代となったのです。言霊の原理は政治との縁を全く切られてしまったのでした。

しかし時が来たならば、天皇(すめらみこと)となる人は古代にそうであったように、御自身が霊知りのスメラミコトに返り、言霊の原理を自覚して道徳の政治を行うようにとの教えを遺すために、立太子の儀式の形式として壷切りの儀を定めたのです。皇太子として立つ人は壷の中を見て、そこにあるアイウエオ五十音の学を勉強し、天皇となる時の準備をすべしという黙示なのであります。

--------以上 http://www.futomani.jp/ 言霊百神 からの引用-------

勾玉は、曲玉であり、禍玉でもあります。ビー玉のように真丸い玉にするのが目的です。

ひとの心は赤ちゃん時代の真丸い心から曲、禍玉へと変化し進化発展してきました。大人になっても丸い輪を創って和することが出来ますよというのが古事記の主張です。

頸飾り装飾品として見れば、類似品は世界のあちこちにあるでしょう。しかしこれを精神上の品物としたのは大和のこころだけです。

何時までも品物の鑑定みたいなことをしていないで、宝物としての価値を気にする方は、どうせ観ることなど出来ないものなのですから、そんなことは放っておいて、早くその使用法を獲得するようにしたいと思いませんか。

もちろん神器の使用法が分かったらどうするのか、などと問われても困りますが。

各人それなりの世界史上の位置づけはしたくなりそうじゃないですか。

天の岩戸物語は、天の安河の川上にある堅い岩を取り、鉱山の鉄を採り、鍛冶師の天津麻羅を探し、伊斯許理度売命に命じて八咫鏡(やたのかがみ)を作らせた、玉祖命に命じて、八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)を作らせた、となっています。

急がずじっくり行こう、などといっても何も分かっていないのですから、やったところで観念をいじ繰り回すだけのことです。

知識を増やしても分からない人は分かっていなし、分かろうとしても分からないのです。

禍玉をいくら集めてもビー玉にはなりません。

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三種の神器の使用法。その3。

まずは、言霊学上の「八咫鏡(やたのかがみ)」 の解説を引用しておきます。

以下引用--------------------------------------

三種の神器の第三番目は「八咫鏡(やたのかがみ)」であります。鏡というのは姿や顔を映して見る道具です。精神的な内容として考えますと、心の善悪・正邪・美醜や物事の正誤・当否等々をたちどころに判定する基準になるものを意味しています。八咫鏡の咫はアタといって、太古の尺度の名前です。アタとは人間の人差し指と中指を開いた広さだそうです(図参照)。この咫を八つ集めた大きさの八辺形の鏡という意味です。

三種の神器の第一である剣には、精神的にいうと二つの働き(双刃)があることをお話しました。その一つは分析(太刀=たち)であり、もう一つは総合(連気=つるぎ)であります。人間の心をとことん断ち切って分析していき、もうこれ以上切ることが出来ない所まできた時、究極の要素として五十個の言霊を手にしました。一つ一つの要素の内容とその名前をはっきりと把握することが出来ました。そのそれぞれを表わしたのが、三種の神器の第二の曲玉でありました。

次に分析して得た五十個の言霊を剣(連気)の力で総合していくことになります。この総合の過程の操作にもちょうど五十の手段があって、ついに人間精神として理想の組織を持った構造図が完成することになります。この五十音の言霊で組織された人間精神の実践智の構造を昔の人は「天津太祝詞(音図)」と呼びました(図a参照)。

さらにこの構造を創造意志の働きである八つの父韻を中心に並べ替えて八角形の構造に収めたもの(その過程は煩雑を避けて省略します)、それが八咫鏡と呼ばれるものです(図b参照)。

人間の心を隅から隅まで分析して、その要素の性質内容をすべて明らかにした上で、その五十個の要素を理想の構造に組み立てた人間の行動の基準なのですから、この鏡に照らし合わせれば、人間がやること、これからやろうとしていることが適当かどうか、すぐに分かってしまいます。これは当然のことといえましょう。

以上、日本皇室の宝物とされています三種の神器―剣・曲玉・鏡―についてお話しました。それは天与の判断力、心の要素の全部、人間の心の鏡の構造という人間にとって最も大切なものを器物として表徴しているものであります。単にそれは皇室の宝というだけでなく、人間が人間としての種を続ける限り、人間精神の宝であることをお分かりいただけたのではないでしょうか。 三種の神器が人間の心の基本法則を暗示していることを知って、その眼で世界の宗教書をみますと、キリスト教の聖書や仏教のお経の中に同様の三種の宝のことが書いてあるのに気付きます。そのことに簡単に触れておきましょう。

例えば旧約聖書の中にユダヤの「三種の神宝」としてアロンの杖・黄金のマナ壷・モーゼの十戒石があったと伝えられています。この三種の神宝を木の箱に入れ、箱に棒をつけて人が担ぎ、民族の先頭に立ってヨルダン川を渡ったという故事が書かれています(このことが日本に伝わり、神社のお神輿を担ぐことの先例となったのだという話もあります)。三種の神器と神宝とを比べてみますと、草薙の剣がアロンの杖に、曲玉が黄金のマナ壷に、鏡がモーゼの十戒石に相当することになります。

仏教では観普賢菩薩行法経というお経の中に「象の頭の上に三化人あり、一は金輪(こんりん)を把(と)り、一は摩尼珠(まにしゅ)を持ち、一は金剛杵(こんごうしゅ)を把れり」と書かれています。金輪が鏡に、摩尼珠が曲玉に、金剛杵が剣に当たりましょう。その他仏説に閻魔大王の浄瑠璃(じょうはり)の鏡が説かれています。この鏡は亡者の生前の善悪の業が立ちどころに映し出されるといわれます。これで三種の神器の精神的な意味についての説明を終えようと思いますが、実際の三種の神器は第十代崇神天皇の時、宮中より移され、諸処を廻り、最終的に現在の伊勢の皇太神宮に祭られました。その経過は「日本書紀」に詳しく書かれています。その後、神器のうちの草薙剣は第十二代景行天皇の時、日本武尊の東征に関係して現在の名古屋の熱田神宮に祭られ、今日に到っています。宮中にある三種の神器はイミテーションということになります。

--------以上 http://www.futomani.jp/ 言霊百神 からの引用-------

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ミステリーなことをわざわざ拡げることもないのですが、歴史経過として「鏡」もその流れの中にありますので、調べられたものとして結果が記されているサイトがあります。

http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/099yata.htm

鏡の模写と裏側の文字について書いてあります。

しかし言霊学以外のどのサイトを見ても、神器は象徴光臨降神のアンテナ、シンボル、天体観測や測量用具、本物偽物、としてしか書いてない。

一万円札で何故ものが買えるのか、数字を記した単なる印刷物でしかないけれど、あれやこれやと言い出すと上記と同じようになる。

鏡、札束、器物は人間の精神的な原理・法則を表したものなのに、人間精神を忘れるとこういうことになる。

見学出来ない宝物についてはこれで終わりにして、三種の神器の精神内容を見ていき、その使用法の端緒ぐらいは知りたい。

天の岩戸の物語は、天照という判断規範が出現する物語です。前にも一度挑戦したことがありましたが、うまくいきませんでした。

天照はすでに判断規範ですが、物語には天照というかがみに鏡を向わせるようなことが書いてあります。気になります。

もう一度やり直すことになるでしょう。

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三種の神器の使用法。その4。

まず、象徴について。

象徴というのは、あやふやなあぶなかしいものです。

一つの象徴を巡って意見が分かれ喧嘩が起こります。

一つの主題を巡って象徴が分かれ喧嘩が起こります。

象徴と象徴がお互いに譲らず喧嘩が起こります。

象徴の為に生命を落とし、象徴の為に殺人をしてきました。

象徴をどんな言葉に置き換えても、同じことです。

神のもと、皆が仲良く暮らしましょうと、勧誘から始まり、戦争まで行きます。

象徴などというものはこんなものです。

憲法に象徴という言葉が出てきますが、物ならいざしらず、人間を象徴としてしまっています。その象徴が象徴によって象徴になるのです。これまた、象徴をどんな言葉に置き換えても、同じことです。

ということで行き着くところは、こころの構造に象徴に拝跪する性質があることになります。

これからは象徴表現でなく、象徴が実体を表し、実体が象徴となる両者の統合された表現の世界にならねばなりません。

世界のどの言語も象徴表現ですから、いくらやっても理想は実現しません。象徴と実体はバラバラです。

そこで唯一の人類的、世界的、歴史的例外が大和言葉ですが、こういったことは宣伝と取られるので止めておきましょう。もちろんどうせ、言う本人も知らず、聞く方も理解できないのですから、今のところは何をいっても同じです。

大和日本語以外に象徴-実体を統一する言語構造を持ったものは無いのですから、今後の世界運用は大和日本語を使用する人からしかでてきません。そのために皆さんの協力が必要です。

おいおい、象徴があやしいのじゃなくて、お前の方があやしい、ですか。

もし少し歴史の運行を見ていましょう。

さてここおいては、三種の神器を象徴としないで、精神実体とする方向を取ります。

「三種の神器という器物は人間の精神的な原理・法則を表したものということが出来ます。」

古事記冒頭で百神がでてきたところで、伊耶那岐は大いに喜びます。

この喜び方は、三権分立のような、三貴子という形で成立させています。

そこで、三種の神器と三貴子との語呂合わせをしてみようというわけです。

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三種の神器の使用法。その5。

・つるぎ(剣)・・第一である剣には、精神的にいうと二つの働き(双刃)があることをお話しました。その一つは分析(太刀=たち)であり、もう一つは総合(連気=つるぎ)であります。分析する・分ける働きを表徴する器物を太刀と呼びます。太刀は「断ち」に通じます。

・ まがたま(曲玉)・・人間の心をとことん断ち切って分析していき、もうこれ以上切ることが出来ない所まできた時、究極の要素として五十個の言霊を手にしました。一つ一つの要素の内容とその名前をはっきりと把握することが出来ました。

そのそれぞれを表わしたのが、三種の神器の第二の曲玉でありました。言霊を表す。心を剣で分けていくと、結局五十個の麻邇を得ることになり、心の宇宙とはこの五十個の麻邇ですべてなのだということを表わしているのです。

・やたのかがみ(八咫鏡)・・次に分析して得た五十個の言霊を剣(連気)の力で総合していくことになります。この総合の過程の操作にもちょうど五十の手段があって、ついに人間精神として理想の組織を持った構造図が完成することになります。

この五十音の言霊で組織された人間精神の実践智の構造を昔の人は「天津太祝詞(音図)」と呼びました。

さらにこの構造を創造意志の働きである八つの父韻を中心に並べ替えて八角形の構造に収めたもの(その過程は煩雑を避けて省略します)、それが八咫鏡と呼ばれるものです。

以上は引用ですが、最後にある「その過程は煩雑を避けて省略します」の蓋を開けてみたいものです。

古事記は百神の紹介の後、三柱の貴子の分担を決めます。それをこころの精神分野として表現してますと、

高天の原は、精神意識を照らしだす分野、

夜(よ)の食国(おすくに)は、隠れてる記憶意識の分野、

海原(うなばら、ウの五十音図の原)は、今出てくる現意識の分野、

の、三つのこころの分野となります。

夜(よ)の食国(おすくに)は、

夜(よ)は、眠っているもの全てを指す。その眠ってるもの(記憶)を起こして、食する(ものを見る、聞く、知る、食べるといったことは、すべて他の物を身のうちに受け入れることだから、見す、聞こす、知らす、食(お)すなどの語を、相通わせて用いる。宣長)分野のことで、記憶概念を作り、知識等を表現する、またその表現された世界。

海原(うなばら)は、

ウの原、言霊ウと名付けられる原、世界、分野のこと。現象と取れば物質世界、現象させる現象させたいと取れば欲望の世界。色と、色を造りたい世界。

高天原は、それらを照らし導く精神意識、導かれて自らが出現するこころの世界。

一つのことを了解する時、例えば、このブログの読者の中には、こいつは何を書いているか、と思っている方がいるかもしれません。そこで、こいつは何を考えているのか、という疑問が出るとします。その完璧な了解は、「三はしらの貴子(うずみこ)」になるということです。

では何が「三はしらの貴子」になるのかといえば、自分の中の「伊耶那岐の命」です。こいつは、あさっての方向を、地球の将来を、どこかの本からの盗作を、禍を撒き散らす方法を、等々を考えているのだろう、という時、実はそれは、自分の中の伊耶那岐を白状しているのです。

相手のことを忖度したつもりですが、その実、「 すなはちその御頸珠(みくびたま)の玉(たま)の緒ももゆらに取りゆらかして、天照らす大御神に賜ひて」、とあるがごとく、自分の前提判断材料(御頸珠、豊宇気毘売)を自分に用意して、天照すとしているのです。

自分の用意したものが自分に関心があれば、自分の感情が起きます。これが起爆剤(あめつち、アの芽が付いて地に成る)となって、自分を知りたいと言う欲望を起こし、天の宇受売の裸踊りを自分に施し、自分のお気に入りの方向を付けます。(ここは、天の岩戸の段落でいつかやるでしょう。)

今書いたのは、自覚的な過程としての三貴子ではなく、誰でものこころの内で瞬時に起きている過程です。結果としては自分の感じ、自分の考えとして、自分のものと主張しているだけのものです。無自覚的にやっていながら、自分のものだという主張が起こるところのものです。

ですので、ある一つの出来ごと世界を判断すると言うのは、

この時、伊耶那岐の命という自分のこころを表出するには、物象判断材料である、その御頸珠(みくびたま)の玉(たま)(御倉板挙(みくらたな)の神といふ。)の緒ももゆらに取りゆらかして、天照らす大御神という自分の判断規範に照らすために、自分の眼前に並べに賜ひてとなります。

ここで、棚に並んだ材料の処置が始まります。

・ 高天の原、精神意識を照らしだす分野、全体的に並べ与えられた材料の整理分析が始まり、剣で切り出し、要素をはっきりさせます。

・ 夜(よ)の食国(おすくに)、隠れてる記憶意識の分野、過去-今との関係を調べます。今までとの関係関連を調べ、過去を残りなく引き上げる規範を探します。

その行為の精神を月読(つくよみ)といいます。

つく(付く)・よみ(読み)で天照の規範に付き付随して、事象を読み込み解説了解することです。がしかし、夜(よ)の記憶概念知識で表出しますので、実相をそのものを表現出来ません。またもっぱら過去経験を扱いますので、再追試可能な実現方法しか提出できません。自ら輝いていくことができず、陽の光に付き(月)従うというものです。

・ 海原(うなばら)、今出てくる現意識の分野。記憶による経験の範囲で付き従った薄ぼんやりした月光ですので、ここまででは要素がバラバラにならんでいます。新しい経験、見方が加われば加わったで、次々と限りなく新規追加かが続いていきます。

建速須佐の男の命は、雨後の竹が早く(たけはや)のことで、雨が降るたび、新しい条件が出る、新しい環境に成る、新しい状況に変わるたびに竹が早々と、竹が速く、須佐(すさ)ましい勢いで伸びる、ということです。

あっちこっちから、独自だという主張を、ウの原(五十音図の原)に整然と貫き並べ直します。

・このウのはら(原、ハのラ、言葉の羅列状態)は、ツクヨミとは違って、常に現状現実として今の主張としてでてきます。このウの原を総体としてウの原五十音図に並べ直します。

その規範が天照すとなります。

自分の為の自分の材料が揃いますが、それを並べる規範が自分自身である鏡となります。この鏡が自覚的であるか、無自覚勝手気ままであるかで、それぞれ現象か違いますが、それでも、どんなものでも、間違っていようと、おかしかろうと、自分のものとしてでてきます。

規範があってもそれを動かし操作しなければ何も起きません。

その操作運用法が天照すとなります。

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三種の神器の使用法。その6。往復、両刃というヒントがあった。

三種の神器はこうで、宝物の一つ一つのこうで、その精神的意味はこうでと、解説はできますが、では、実際の内容はどうなのかと言われれば、御免なさいわたしも分かりません、という他ありません。

私自身も自分を騙しているようで何とかしたいのです。

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とうとう、ヒントが見つかりましたので、忘れない内に書いておきます。

古代の刀は両刃です。日本刀は片刃ですから、切り下げればそれでお終いですが、両刃の場合は行って返ってきて一振りです。

つまり神器の剣は、行って返る、二回の行為を指していました。行って返って一往復、一循環の完了です。

行きは断ち切る剣で、帰りは結合するつるぎの剣です。剣(つるぎ)はつるむというように、仲間に入れて絡ませることです。

行きに断ち切りバラバラにして個々の要素になりました、ではそれをどうするのかと、バラバラを意図に沿ってつるませるのが帰りのつるぎです。こうして一振りの循環ができます。

剣をわざわざ「つるぎ」と読むようにしている所以です。

オノゴロ島の段落では沼矛(ヌぼこ)として出てきます。沼矛の「ぬ」は縫って繋げる矛の暗示です。オノゴロ島の段階では、縫い合わせる後天現象が揃っていないため、剣(たち-つるぎ)ではなく、矛となっていますが、潜在的には、たち-つるぎになり得るものとして描かれています。

ついでカグツチの段落では十掌の剣が出てきますが、もっぱら分析専用ですので御刀(みはかし)といっています。み・はか・し、で「はか」ははかる(計る、測る)の「はか」ではかって、静める、です。静める用のためのものでつるぎの機能はありません。

黄泉の国では十拳の剣を後手にふきつつ逃げてくるので、切ることも総合することもしていません。つまり、切って、斬り捨て御免、ということはしないで全部すくい上げるという伏線です。ここでも潜在的につるぎの機能を隠しています。

そして、禊祓の準備段階の衝立船戸は、刀、剣でなく「杖」を捨てています。杖は大小太い細い長い短い等々いろいろ勝手な形がある、ひょいと拾ってぽいと捨てるそういった精神機能を示しています。しかし、先天的にそなわっている、十拳の剣は保持しています(書いてありませんが、オノゴロですでに賜っているので。)。

こうして返って、禊祓によって完璧な自覚的なつるぎが創造されます。

カグツチという現象を切りますが、黄泉でそれへの執着を検討して、捨てると同時にすくい上げる方法が有りそうだと、杖を捨てて剣(きる-つるぐ)を創造する道を探します。そして禊祓によって復路が完成するのです。

これで少しは両刃の剣の意味が分かりました。

こんどは、勾玉、曲玉です。勾玉は円に尻尾の生えたものです。

その尻尾の意味は、円だとその方向が見えないため尻尾を生やしたので、方向を見る為です。方向と言うのは、八坂の勾玉というようにその名前に端的に現われています。

八坂、やさか、や・さか、八つのさが(性、性質)で、

曲がった玉、言霊、こころの要素、ということです。

こころの要素は八つのこころのさがを持っている、ということです。

剣でこころを分析切っていくと、五十の要素になりました。その五十の一つ一つが玉(言霊)です。その一つひつとにはこころの次元が反映されていて五段の次元があります。また一つ一つの玉はその動く方向動かされる方向として(さが)八つの方向があります。

こころはこの一つの玉として見ると、五つの次元の、五十の言葉の、八つの方向の、どれかとなって現われていきます。この結合、階乗、べきじょうの総合がこころの現れとなって、あっと言う間に、千万億のこころの相違となるのです。

そこで古事記に該当させますと、一振りの、往路の剣(たち)は、カグヤマまで、復路の剣(つるぎ)は金山から三貴子までで、それぞれ、五十神たす五十神です。言霊百神。

ということは、三種の神器は冒頭の百神のことになりそうです。

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●三種の神器の使用法。その7。

せっかくの宝物を手に入れようとしているのですから、もっと手応えを得たい。