02- 言霊学の歴史

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「古事記と言霊」講座 その二- <第百六十一号>平成十三年十一月号

ここに二つの冊子があります。一冊は謄写版刷りで、表題は「言霊」。口述者は山腰明将氏、筆記者は小笠原孝次氏による講演の記録書であります。奥付に昭和十五年六月十五日発行とあり、今より六十六年前発行の書であります。

もう一冊は昭和四十四年六月一日発行、著者小笠原孝次氏。表題は「古事記解義言霊百神」二百七十八頁、東洋出版社(東京・神田)発行とあります。著者の小笠原孝次氏は私(島田)の言霊学の師であり、昭和五十七年(一九八二)に逝去されました。山腰明将氏は小笠原孝次氏の言霊学の師でありました。昭和二十六年、事故により不慮の死を遂げられたのであります。

第四回目の「古事記と言霊」講座の本論に入る前に、右の二冊の書が成立する過程についてお話し、神倭朝第十代崇神天皇の御代より約二千年の間、人類の潜在意識の底に隠されていた人間精神の秘宝がどの様にして再び人間社会に復活して来たか、をお伝えしたいと思います。この話の大半は先師、小笠原孝次氏が私に時折内輪話として話された事を綴ったものであります。

山腰明将氏の「言霊」は昭和十五年三月二日より週一回、全部で十回にわたり、場所は東京築地の当時の海軍将校のクラブ、水交社に於て、日本の皇族方、陸海軍の大将・元帥、政府高官、情報局長、警視総監等日本国の上層部の人々を前にして行った「言霊」と題した山腰明将氏の講演の記録を綴った書であります。筆記者は私の先師、小笠原孝次氏でありました。

当時日本は三年間にわたり隣国支那(中国)と戦争状態にあり、その上外交・軍事・経済的にアメリカ、イギリス、オランダ三国より圧迫を受け、このまま推移すれば一触即発世界を相手の戦争に突入必至の緊迫した国状にありました。昔なら鎌倉時代の元冦の時の如く所謂神風を祈る所でしょうが、近代戦ではそれもならず、せめて精神的に神風となり、それによって日本国民の勇気を奮い立たせるものはないか、と捜していた所、陸軍の軍人で山腰明将氏という者が、明治天皇より始まった「わが日本肇国の根本原理、アイウエオ五十音言霊布斗麻邇」の学問を研究しているそうだ、という事を知り、急遽「話を聞いてみよう」という事となり、講演会開催となった、という事であります。

山腰氏の「言霊」を読みますと、日本語の一音一音の音声と音意から成る音韻学という学問の立場から、古事記の神話の解釈に入り、神名の一つ一つを五十音の一音一音と結んだ言霊の解釈を進めている事が理解できます。けれど音韻学という耳馴れない直感的な学問を土台とした説明であります為に、初めて聞く人達にとって、言霊というものが日本語の語源となり、その事が皇室の三種の神器の学問であり、日本肇国の原理であるのか、の理解を十分に得られたであろうか、という疑問が残ることは否めないように思われます。言霊とは人間の心を内に顧みて、その究極に存在する心の最小要素であるとの発見に到っていない事であります。それ故、第二次世界大戦を間近に感じている日本の上層部の人達に、言霊原理によって人類の第三文明時代の建設に到る歴史の筋道を明示するに至らなかった事は誠に残念であったと申せましょう。

にもかかわらず、「言霊」の講演記録に見られる山腰氏の話し振りは誠に確信に満ちたものであり、大勢の日本の上層部の人々を前にして少しも臆することなく堂々たる態度であった事が窺えるのであります。この山腰氏の言霊学――日本肇国の原理、三種の神器の学――を披露する堂々たる確信の根拠は何だったのでしょうか。それは山腰氏の永年の言霊学研究の真摯さから来た事は勿論でありましょうが、その研究を推進させたバック・グラウンドの力も否定出来ないものがあったと推察されるのです。そのバック・グラウンドとは言霊学復活の歴史であります。

言霊原理隠没の二千年の暗黒時代に、最初にその原理の存在を知り、復活の仕事を始められたのは明治天皇とその奥様、昭憲皇太后であります。この事について先師、小笠原氏が遺した記事がありますので紹介しましょう。先師の主催する「第三文明会」の第百回を記念して、言霊布斗麻邇復活に関係・尽力した物故者の慰霊祭が東京銀座のレストラン八眞茂登で行われました。昭和四十八年四月二十八日の事であります。その慰霊祭で述べられた文章の一部であります。――

「(明治天皇、昭憲皇太后)宮中賢所と皇太后が一条(藤原)家からもたらした文献に基づいて言霊言の葉の誠の道の研究に志された最初の人である。『天地も動かすばかり言の葉の誠の道をきわめてしかな』『白雲のよそに求むな世の人の誠の道ぞ敷島の道』(御製)、『敷島の大和言葉をたて貫きに織る賎機の音のさやけさ』『人並みに踏むとはすれど言の葉の道の広きに惑ひぬるかな』(御歌)」

上の簡単な文章を先師から聞いた言葉で補足しましょう。一条家からもたらした文献とは、皇太后が一条家より御興入れの際、嫁入り道具の中にあった和歌三十一文字を作る心得を書いた古書の中に言霊布斗麻邇に関する文献が含まれていたといいます。昔の三十一文字の作法は単に叙事・抒情を三十一文字に表現するだけでなく、その歌の中に言霊の法則を詠み込む事によって言霊学の勉学の一手段ともしました。そういう歌は古今和歌集までは容易に発見することが出来ます。新古今和歌集には見出せません。明治天皇御夫婦のお歌の中の「言の葉の誠の道」「敷島の道」とは単に和歌の事ではなく、アイウエオ五十音言霊の学(まなび)のことを言っているのであります。「たて貫きに」とは縦横に、の意です。賎機とは倭文(しず)機の意で、織物の一種。麻などでしまを織り出したもの。あやぬの、の事と辞書にあります。日本独特の模様だそうであります。

天皇、皇后両陛下の言霊学研究のお相手を勤めたのが山腰弘道氏なる皇后付の書道家でありました。この山腰氏については明治時代に発行された紳士録(現代人名辞典)に載っておりますので、そのまま次に引用します。

「山腰弘道君――君は書道奨励家なり。旧尾州藩士山腰喜明氏の長男にして、安政三年八月朔日を以て名古屋に生る。九才、藩主の近侍となり、傍ら藩黌明倫堂に於て漢学を修め又、武術を講じ、書道を村井鍬蔵氏に学ぶ。尋ねて京都江戸の間に奔走し、藩主国老の秘密公用を勤め、明治初年勤皇の故を以て賞禄を賜う。同四年英学を修め、翌年名古屋県庁に出仕す。後浜松、三重、奈良、島根各県に歴任し、同二十一年挙家東京に移り公共事業に尽し、二十三年大日本選書奨励会を設立し毎年上野公園博物館管轄館に展覧会を開き、その第四回後、皇后陛下、皇太子殿下行啓の節御説明の重任に当たる。同四十三年皇太子、同妃殿下御同列行啓を辱うし多年斯道の興隆に力め熱誠を以て稱せらる。夫人を美志子と呼び、長男利通、三男明将、四男道文の三子家に在り、次男朝克養子繁次郎は分家す。利道氏の婦を八重子と云う。政久、愛子、久徳の三孫あり(牛込区若宮町二○電話番町四○二二)」(この紳士録は会員I氏持参)

明治天皇の崩御と共に明治は終わり、その言霊学研究の流れは大正天皇には伝わらず、民間に流出し、その正統は弘道氏の二男山腰明将氏に受け継がれました。その他皇室の血統といわれる大石凝真澄氏の言霊学研究も今の世に遺されています。私が敢えて「正統」と申上げる理由は次に拠ります。言霊学の原典は皇典古事記(日本書紀)であります。その古事記は冒頭より神様の名前がヅラヅラと何十、何百と現れてきます。その神名の中で、最初の五十神が五十個の言霊を指し示す「指月の指」(謎)なのでありますが、五十の神名のどれがアイウエオ五十音言霊の正音を示しているのか、は人間個人の思惟、直観更には霊能、神懸りを以てしても到底解明不可能のものなのであります。にも拘わらず山腰明将氏、それに続く小笠原孝次氏の著書にも寸分違わず、しかも何の説明もなく五十の神名が五十音の一つ一つと結び合わされています。この事実より推察して古事記神名と五十音言霊との結び付きは、少くとも古事記編纂の時より明治の時まで宮中賢所に記録として秘蔵されていた事は確かだと言う事です。言霊学とは古事記神話を唯一の原典とし、その神話の神名と五十音言霊との結び付きを宮中賢所の保存記録を出発点とする学問研究を正統と呼ぶ所以であります。

山腰明将氏については私の先師、小笠原孝次氏の簡単な文章が手許にありますので、これを掲げます。

「(山腰明将)陸軍少佐。父君春道氏(弘道氏の間違いと思われる)は書道神代文字研究を以て明治天皇に仕え、大石凝真澄氏と親交あり、明治朝廷で研究された言霊学を子息明将氏に伝えた。筆者(小笠原氏)は神政竜神会脱会後山腰氏より言霊の指導を受け、戦時中同氏の明生会に属して同門の高橋健助、小川栄一、斎藤直繁の三氏等と啓蒙遊説に奔走した。昭和二十六年山腰氏不遇の裡に逝去。筆者が発憤、その遺鉢を継いで研鑚三十余年今日に到っている。」

小笠原氏が私に話してくれた事によれば、山腰明将氏は明治天皇、皇后、父君弘道氏の言霊学研究を受け継ぎ、身は軍籍にありながら大正・昭和と研究を続け、その集めた学問資料は膨大なものであったという事です。山腰氏は常日頃門下生(小笠原氏等)に「私が研究している言霊布斗麻邇の学は元来、日本国の天皇となるお方が勉学習得すべき学問であり、時到れは天皇に復命(かえりごと)する為に勉強しておる。君達に話しても余り意味がない」と言っていたそうであります。先にお話しました昭和十五年、東京水交社に於て、日本の上層部の人々を前にして講演をした山腰氏の堂々とした話しぶりは、自らの話が天皇に復命するという使命感に満ちていたためであったのでは、と思わせるものがあります。

昭和二十六年(一九五一)山腰明将氏は自動車事故により非業の死を遂げられました。訃報に接して小笠原氏等門下生が先生の御自宅に駆けつけた時には、山腰氏が永年にわたり研究された言霊学に関する多量の資料が、これも研究者にとっては不測の事故としか言えない事件で全部焼失してしまっていたそうです。

「あの時は全く茫然自失、途方に暮れました」と先師は私に語りました。「絶望感で何もする気にならず、何日も無為に過ごしたものです。暫くして気が付きました。この日本の秘宝、新しい時代を建設する唯一の学問を山腰先生の資料と共に消滅させてはならない。言霊学復活の使命が今私に負わされたのだ、と気付きました」と。「先生が私に遺してくれたのは『言霊』の本だけです。他に頼るものは何もありません。けれど言霊学というのが、読んで字の如く言葉と霊(心)の学問であるからには、昔も今も永久に変わることのない生きた人間の心の全性能を知ることが出来るならば、古事記に示された言霊学の内容は必ず解明・自覚する可能性が開けるに違いない、と思い発憤しました。」先師はしみじみとその心境を語ってくれた事があります。先の「筆者が発憤、その遺鉢を継いで……」の先師の文章はこの事を指しているのであります。

先師の多摩川畔での坐禅が始まりました。朝早くから釣箱と弁当と傘を持って多摩川へ行き、釣箱に腰掛けて、自らの心の構造、特に一切の心象が現出してくる元の心の宇宙、禅で謂う「空」を知る修行です。毎日、毎日、降っても照っても先師の多摩川行きは止まなかったそうです。時には帰りが真夜中になる事もあったとか。一本の雨傘が雨傘にも日傘にもなり、春から夏、秋、冬とめぐり、二廻りが近づいた頃、先師は自らの心の本体が心の宇宙そのものである事を、何の理屈もなく知ることが出来たと言います。そして古事記神話の「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は……」の「天地の初発」とは、宇宙物理学や天文学で謂う所の何十、何百億年以前の宇宙、天体の始まりの事ではなく、今・此処に於ける生きた人間の心の活動が始まろうとする瞬間の消息を謎の形で述べているものなのだ、という事がはっきり分かって来たと言います。

この時以来、言霊学の研究が、天文学で謂われるところのコペルニクス的転換(太陽が地球の周りを廻るのではなく、地球が太陽の周りを廻ると知ること)を遂げることとなります。人間の心の現象を対象の客観として調べることから、現象を見る主体自体の学問とする研究が解明されて行く事となります。生きている自らの心を知る事は、とりも直さず人類そのものを知ることです。「私とは人類であり、人類とは私である」の自覚の下に、古事記の神話が示す全内容が言霊学という人間の心と言葉に関する究極の学問として解明、自覚されて行きました。昭和四十四年(一九六九)六月一日、小笠原孝次氏著「古事記解義言霊百神」が東洋出版社より発行されました。一万年前に日本人の祖先によって発見され、大成された言霊布斗麻邇の学問が、二千年前、崇神天皇によって世の表面から隠没され、千三百年前、太安万侶の謎々の古事記神話として後世に伝えられた日本伝統の心と言葉の学問が、ここに不死鳥の如く甦ったのでありました。二千年間、日本皇室独占の秘儀であった三種の神器の学問が、志あり、日本語が話せる人ならば誰しもが心の広大で精巧な殿堂に自由に入ることが出来るようになったのです。

「言霊の冊子が出来た出来たんだ。出来たんだよと大空に叫ぶ。」

古事記解義言霊百神の序文巻頭を飾る先師の喜びの言葉であります。

(次号に続く)