アメツチ 『古事記神代の巻 の読み方』  4。

アメツチ 『古事記神代の巻 の読み方』 4。

11-1。天の御中主の神。成る神。

神は存在するかしないか、よく聞く質問です。普通に質問されていて、古い質問のようですが、地球の歴史、宇宙の歴史からすれば、質問の歴史など瞬きの一瞬にも相当しないくらい全く新しい質問です。

おもしろいことに、全ての質問は存在してしまっている神、成ってしまって存在してしまっている神について問われています。というのも人間以前に神がいて、自然以前にもいて、宇宙以前にもいるとしているからです。

自分を生んだ両親はいるか、というようなものです。

それでも質問が出るというのは、自分の存在の目的に疑問があったり、結果としての存在に原因が見いだせなかったり、調和や秩序が不明であったり、極小極大に対応しきれなくなったり、するときに自然にでてきます。

しかし、存在してしまって成ってしまっている神ではなく、神は成るか成らないか、成っていく神はいるかいないか、という質問はありません。

何故なら、答えは一つしかなく、神は成るからです。

古事記には「成る」神のことが書いてあります。

それに反して、在る神、在った神は黄泉国にいる神について言及されています。

「神が存在するかしないか」というのは、黄泉国にいる神に関して言われていることになります。

こうして、実のところ、問いは二つ在るのです。

存在成ってしまっている神はいるかいないか、と、神は存在するか否か、と

存在していく成っていく神はいるかいないか、神は成るか否か、です。

前者が普通に問われている、神は存在するかどうか、の問題で、

後者が、古事記で扱われている問題です。古事記の場合は前者の問題の発生場所まで、発生の仕方まで書かれていて、心の動きの中で当然生じる問題として位置づけられています。

個人にしろ人類にしろ、その成長に合わせてしか、神という言葉を発しないのです。経験、体験による概念はいくらでも積み上がっていきますが、その大きくなる全体が同時に神さんの上限です。宇宙を創ったと五十年前に言われた宇宙は数十億光年広さしかありませんでした。今は百何十億光年になって、ビッグバンの外の世界も探すようになっています。神さんの領域も日々成り成りて行くのです。

人はこうした分かりきったことには答えたくないのか、正しく答えると都合が悪いのか、どんちゃん騒ぎの楽しみは大事にとっておきたいのか、いずれにしてもまじめな簡単すぎる質問には答えたくないようです。

というこで、この千年以上の知性の歴史では答えがあってもわざと読み過ごしていきました。ですので神は有るとか無いとか、こういうものだああいうものだ、と答えをつつき合うみんなの楽しみはまだまだ続きます。「それでも地球は回っている」。

神は存在するとかしないとかではなく、成るのであるとすると、神を否定していると早とちりする人もいます。日本では神を語る人の原典は古事記と日本書紀で、自然の神格化等といって、肯定しているのか否定しているのか分けの分からない意見が近代の傾向となっています。

そこに感覚的な経験体験がくっついてきて、知的にどうしても実在を証明できないまま、それでも私の神様だとなるか、皆の者従えとなるか、とかになって、自証の檻の中から、努力目標、生きる規範としてメッセージを送りつけるだけです。と同時に今までの文献をその方向で読むようにしていきます。

ところが古事記は全くそんなことはなく、「成る」神を形成証明して、最後には「子(三貴子)」であるとします。子とは父母から生まれた貴い(ウズの)現象です。冒頭の「成る」から三貴子までが神の全貌で、神はそのように生まれるのですから、それが分析了解でき、自分で総合創造してみて、他者と確認し合えばそれでいいのです。

それができても、時代の知性がありますから、ガリレオがいくら真実を述べても受けいれられないばかりか、無期刑(直後に軟禁に減刑)になることもあります。古事記のふとまに言霊学を日月神示という古事記を説明した文献があって、そのファン達が集まる2チャンネルで紹介したことがありますが、今のところは聞く耳を持たず、自宅軟禁にされたといった感じでした。

奇跡的なことに、古事記は心の動きを記した原理教科書であり、(神を産む方法論でもあり)その物証が書物として残っているのが秘されています。皇室の賢処にあるそうですが、公開されるかどうかは分かりません。公開されたら、魚の研究や息子にビオラを弾かせたりして、そんな呑気なことはやっていられなくなるでしょう。

「その人は、人類の支柱であり、

人民のためにはいかなる個人的希望をも犠牲にしなければならない。

われらが至高の王は完全無欠の権化でなければならない。」 (シオン賢者の議定書)

そして後は、人知を超えた存在は人間だけしか認識していないことを、神に伝えればいいことになります。人の得る神秘体験は多いに助けになるでしょう。

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参考引用「古事記伝」より。

「三貴子は、書紀の一書に「曰2吾欲1レ生御宙之珍子1(あれアメノシタしらさんウズのミコをウマンとノリたまいて)」とあり、訓注に「珍は『うず』と読む」と書いた後にこの三貴子の誕生が語られているし、神武の巻にも「珍彦は『うずびこ』と読む」とある。また大殿祭の祝詞に「皇我宇都御子皇御孫之命(スメラわがウヅノミコすめみまのミコト)」とあるのも考え合わせて、「ミバシラのうずのミコ」と読む。玉編では珍の字に「貴である」との註があり、字の読みとしてもおかしくはない。

この「うず」は、師(賀茂真淵)の説で「高く厳(いつく)しいことである」という。【今の世の言葉で、人の容貌を「うず高き」というのもよく合っている。】他にも万葉巻六【二十五丁】(973)に「天皇朕、宇頭乃御手以(スメラわがウヅのみてもち)」、またいろいろな祝詞に「宇豆乃幣帛(うづのミテグラ)」などの例がある。【出雲国風土記には、須佐之男命のことを「伊弉奈枳(いざなぎ)の麻奈子(まなご)」と言い、出雲国造の神賀詞にも「日眞名子(ひまなご)」とあるので、貴子は「まなご」とも読めそうだが、やはり前掲の読みが良い。】この部分の調子は万葉巻二【十一丁】(95)の「吾者毛也安見兒得有(われはもや、ヤスミコえたり)」という歌に似ているので、得は「えたり」と読む」

○「成」を「なりませる」と読むべきことは、この伝の一之巻で述べた。【訓法のこと】ところで、「なる」と言うのに、三通りある。

一つはそれまでなかったものが生まれ出ることである。【人の誕生もこれである。】神が「成坐(なります)」というのは、この意味だ。

二つには、あるものが変わって他のものに変化する。豊玉比賣命が「産坐時化2八尋和邇1(みこウミマスときにヤヒロのワニにナリ)」のたぐいである。

三つには、何かの事業をなし終えたときに「成る」と言う。「国難成(クニなりガタケン)」の「成る」である。

【この三つの違いによって、漢国には生成変化などとそれぞれに字を使い分けるが、皇国の古い書物では、訓が同じ字は通用させて、さほど字の意味にこだわらない。ここの「成」も文字の意味とは若干異なり、書紀に「所生神(なりませるカミ)」とある字の意味である。○木草の実が「なる」、万葉などで「産業(なりわい)」を「なる」と言うのは、上記の三つとは違うのか、あるいは三つの意味から派生したのか、よく分からない。】

「天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、 天の御中主(みなかぬし)の神。」

11-2。天の御中主の神。

存在の問い方が二つあり、一つは存在しているもの存在してしまっているものについて、一つは存在しつつあるもの存在していくものに対する問いで、前者は神は存在するかしないかというように、最初に神の存在を前提しておいて問いかけるもの、他方はどのように存在しているくかを辿る問いかけです。

問いの相手が神とかいう分けの分からないものなので、うまい具合に問いが成り立っているようにみえます。しかし同じ構造で現実の事象に問いを当てはめてみればばかばかしくも滑稽となるものです。既に言いましたが、神は存在しているかを、私を生んだ両親は存在しているかに、私はブログを書いている読んでることに対して私は書いているかとか読んでいるかとかに言い換えて、同じ構文の作文を創ってみてください。

神の存在を問うことは、両親の生存や神の生存を問うことではないでしょう。神や霊のことは分かってないから疑問が出ると言われるかもしれません。しかし分からない範囲で、記憶にある範囲で、使用できる手持ちの概念の範囲で「神」といって、その他の「神」と比較をしているのです。つまり分かっていないのではなく、幾らでも分かっている分の手持ちはあるのです。

一方、体験経験豊富な事実を元に分かっていると称する人もいます。これらの人たちは他の人に分からすことを知りません。自分だけには有効な方法まで持っていますが、みんなの為に証明することができません。祈れ祀れ、魂を磨け行ぜよ求めよ、としか言うことができず、他者において自分のことを示すことが分かりません。

問いが二つ在るといってもこれは心の動きのそれぞれの段階から脇に抜け出したもので、元をたどれば同じところから出発しています。

その出だしが、天の御中主の神といわれます。

二つの問われ方の内一つ目は最初に問いの中で神といって、在るに関する知識が周りを巡っています。神は存在しているという規定ですから、その存在を問題にする時になったならば、答えはありったけの規定できるものを提供していけば良いのです。概念知識の多少が了解の元となっていますから、疑問と新知識に翻弄されていきます。

この問いに対する否定である、神は存在しないという答えも同じで、在ると設定された神を無いというだけです。神という言葉を受けいれておいて、その言葉を否定していきます。

一方、成り成っていく神についてならば、成りゆく姿を追うことになり、固定した規定を当てはめることはできません。そこで自他ともに確認了承して、納得し合う形で、ひとまず共有の了解をしていきます。

ここ後者においても、成りゆくものに既に神と言ってしまっていますが、成りゆく姿を追いますから、最初から規定されたものはありません。成っていく始めの姿を指したもので、○でも○チョンの記号でも構いません。

前者で「神は存在するか」、と言う問い方を古事記の冒頭に当てはめると本文が変化します。

『 天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかあま)原(はら)に天の御中主(みなかぬし)の神は存在したか ?』になります

しかし、「神は成るか」では分言のままです。

『 天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかあま)原(はら)に成りませる神の名(みな)は 、 天の御中主(みなかぬし)の神か?。』

この精神意識の全貌が、前者の構造は後に黄泉国で展開され、後者は禊祓えのところで展開されます。そして後者は必然的に前者を踏襲しなければなりません。

最初に、存在の問い方が二つ在ると書いてしまいました。現象を取り上げた問い方は無数に在るのに何故二つかと、反感を持った方もいることでしょう。しかし心の運用の原理からすればそんなに多くはありません。最初に書いた二つというのは知識疑問の扱いの二つです。

さらに感情情緒、宗教的な神秘体験経験、芸術感情、夢か正夢といったもの、決断選択判断をくだす時、片目をつぶって相手を促すとか、それに、ひっちゃかめっちゃか問いにならない問い、等の知的な範疇でとらえられな問いがあるといったところでしょう。

古事記の冒頭に在る通り、ことの始まりから見ていけば、問うことが始まりであるわけではありません。

第一の問いは問うことから始まり、第二は問わなくてもことは始まります。

天地は「あめつち」と読み、アの主体の目が付いて地に成る、ことを指したものです。物事は主体側の意識が相手対象に付くことから始まることを言っています。疑問がなければ始まらないのではありません。

スイッチを入れてブログを読むわけですが、内容に対する疑問は後から出てくるのです。疑問に成る以前にブログがあり、読む人の意識があります。両者とその媒体が全部そろっていて、疑問の対象となるブログになり、読んで疑問を持つブログになります。疑問を生じる胚子が両方にあったことになります。

この全体が天の御中主の神、○です。

ですので、疑問を提出して解決することから始めなくても、自分の意識が感じ事を思い相手対象を得たというだけで、始めの時は出来ていきます。神とは?という疑問を出してから始めるのではなく、神と言った時には後に出てくる疑問もその中あります。

こうして、今度はこれを古事記に沿って原理から始めればいいことになります。

11-3。天の御中主の神。 世界は一つの言葉であった。

2012年 2月9日の朝日新聞朝刊「科学」欄に、以下のような記事が載っていました。

<< 朝日新聞からの引用開始 >>

語順のルーツは日本語風

大昔、言語の語順は日本語風だった--そんな分析をノーベル物理学賞を受賞した米

国のマレー・ゲルマン博士らが米科学アカデミー紀要に発表した。主語(S)・述語

(V)・目的語(O)の語順を持つ英語などが世界で幅をきかせているが、実はSOV(主語-目的語-述語)

の語順がより古く、基本的といえるという。

最近の研究によると、5万年ほど前に私たちの祖先は突然、洗練された道具を使った

り、絵画など芸術活動をしたりするようになった。そのころ人類は、複雑な言語を使い

始め、抽象的な思考ができるようになったからではないかと考えられている。

そうした「最初の言語」がどんな語順を持っていたのかを推定するため、ゲルマン博

士らは世界2135の言語について、生物学で使われる系統樹の手法なども応用して、さま

ざまな語順を詳細に検討した。

その結果、単一の言語の祖先が存在するとすると、それは日本語と同じSOVの語順

を持っているはずだと結論づけた。また、英語や中国語と同じSVOの語順は、SOV

の語順が変化してできたもので、さらにVSOやVOSの語順にも変化していったとし

た。

1969年にノーベル賞を受賞したゲルマン博士は、物質を作る最も基本的な粒子で

あるクォークを提唱したことで知られるが、言語学にも詳しい。(小坪遊)

<< 朝日新聞からの引用、終わり >>

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SOV(主語-目的語-述語)の語順が、現代のインドヨーロッパ諸語の最古期には共通であったようで、それをさらに探ると、単一の言語(祖語)に行き着くかもしれないというものです。聖書で言う世界は一つの言葉であった、が真実らしいことになります。語順が同じだから一つの祖語があるというのは短絡して言っているのですが、竹内文書に記載されているという古代文字が数十種類あるといいます。古代大和の聖人が世界中にばらまいたのかもしれません。

宇宙の始まりが一粒のビッグバンといわれ、生物の始めが宇宙から飛来したDNA といい、人の始めも単体の精子と卵子です。歴史には過去の宇宙世界の足跡が全部刻まれていますから、私たちの見聞きする意識、考えの始めも単体の一点が時間空間次元として刻まれていると言えるかもしれません。

天の御中主の神とはそういったものになりそうです。宇宙を人間思考は最大であり根源であり究極のものとして考えていますから、天の御中主の神も宇宙の主宰神とか宇宙そのものとかになっていました。古代の宇宙は視野の届く範囲で想像できたもので、137億光年前のビッグバンなどは知りませんが、現代的に天の御中主の神というときには、ビッグバンとか137億とかが言われるでしょう。

しかしこれらは単に宇宙を人間の外に見たものです。あるいは文献には天の御中主の神にはその後の記載がないため、創造神とも中空神とも言われるそうです。これなどは記載がないことを知性で補ったつもりになれるものですが、その知性と働きはどこからきているのかというと、やはり天の御中主の神が創ったということになるのでしょうか。

それならそのまま賜物をもらっていくと、知性や意識にもそれぞれ世界があることに気づきます。夢と空想で拡げることも出来れば、科学思考を拡げて行くこともできるでしょう。天の御中主の神を大本の始まりとすると、そういった思考の賜物をもらい、自分の思考の大本に当てはめてみます。

自分の思考中では、何十億年前のDNAの付着した隕石の飛来とか、137億光年とか言うことが出来ますが、そんな長い間生きてきた人はいませんから、意識の中での出来事になります。意識の中での137億光年の出来事とは何でしょう。しかも数十年前の意識の中では45億光年とか65億光年とか言われていました。

億光年単位でスイスイ変化してもどこからも文句もでないばかりか、正確精密になったようなことさえ言われています。意識はその時その場のことしか知らなかったのですから、「後」を向くことしか知らない御蔭です。

後を向いてしまいますと、自分の全ては過去になります。そこで後を向きながら現在にいるという器用なことができるのが、これまた人の意識です。しかし、これはどのように保証されているのでしょうか。数十年前には一番遠い星の光を見つけたと超大発見が報道されました。その時は46億光年でした。現代は進歩して百億光年以上の数字が提出されていますが、未来から見れるとすれば、現代は退歩していて百億光年という数字が出せるだけでした。

しかし、ここに太古の過去にしろ現代にしろ宇宙の始まりがあるという思想に支えられていれば、その思想はいつの時代にも通用していきます。過去であり現代を支えるものです。その共通な何者かである意識がわれわれの頭脳にはあるのです。

これが天の御中主の神と呼ばれるものです。

11-4。天の御中主の神とは。その1、2。

さて今後は、記載のスタイルを変えていこうと思います。私のまずい文章は毎回後回しにして、まず、私の頼りにしている引用を載せることにします。そうすれば無理やり私の文章などにつき合わなくても、理解が出来ていくことでしょう。

出典は島田正路氏に拠ります。

http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/

●●●ここから●●●

引用 1。

高天原

この章の中の高天原とは簡単に心の宇宙の何もない広々とした領域の事です。透き通っていて清らかな大きい心の宇宙の事であります。「古事記と言霊」では、この他に高天原という言葉に二通りの内容がある事を述べておりますが、この事についてはその都度説明することにして話を更に先に進めます。

成りませる神の名(みな)は、

この文章をそのまま読みますと、生れて来た神の名前はという事になります。これだけでは単なる神様のおとぎ話で終りますが、古事記の神話が言霊学の教科書だという事が分かった今は、「成りませる」は同時に「鳴りませる」と天の御中主の神という神名が指月の指として指し示している言霊の音として受け取ることも出来ます。

天の御中主(あめのみなかぬし)の神

言霊ウ。天の御中主の神という神名のそのままの意味は心の宇宙の(天の)真中にいる(御中)主人公である(主)神という事になります。そしてその神名が指し示す言霊はウと言霊学で記されます。「あゝ、そうか」と簡単に受け取ってしまえば、それで事は終りとなります。けれど私がこうお話しますと、聞いて下さった人の中には「宇宙の中心にいる主人公の神」とはどんな神なのか、またそれが言霊ウである理由、言霊ウでなければならない理由は何なのか、という疑問を持つ方が必ずいらっしゃいます。そして質問される方も多いのです。そこで今回の講座では、今まで簡単にお話して来たこの二つの事柄について詳細に説明させて頂く事といたします。と申しますのも、この聞き流してしまえばそれで何事もないように思える事柄が、実は言霊布斗麻邇の学を勉強する上で最も重要な事を示唆しているからであります。それは何か。

言霊学といいますのは、人の心を内にかえり見て、心の構造とその動きを研究し、学ぶ学問であります。眼前に展開する宇宙を研究する天文学や宇宙物理学等に於いては、そこに起る種々の現象を観察し、それ等多数の現象間の関連性を求め、そこに働いている法則を発見して行きます。更にその法則によってはまとめる事の出来ない他の現象を発見した時には、今まで正当と思われていた研究の基礎法則を御破算にして、今までの法則と新しい発見とが共に成立することが出来る新しい見地とその法則を発見しようと努力する事となります。そういう努力を弛(たゆ)まず積み上げて行く事によってその学問は一歩々々完成に近づいて行く事となります。

それ等の学問の初心者は先ずその学問の教科書を読み、先輩から指導を受け、種々の観察や実験によってその時までに発見された学問の成果が真実である事を学び、その上で自らもその学問の研究者として心新たにして新しい発見を目指して観察を続けます。その目的とは、今までの法則・学理では捕捉し、統合することが出来ない新現象の発見です。研究の対象を自らの外に見る学問研究は以上のようにして行われます。

上に述べました客観世界の研究方法に対して、主観世界である精神界の構造とその動きの究極の学問である言霊学の勉学方法は如何にあるべきでありましょうか。詳しく説明させて頂きます。

初めて言霊学に接する初心者の方は、当会発行の言霊学の書籍と会報を読んで頂き、また御理解し難い箇所については先輩の方に質問して言霊学の理論について大体の御理解を得て頂き度いと思います。ここまでは客観世界の学問の勉学と異なることはありません。客観世界の学問はこの理論の上での理解でその十中八九までは学問をマスターした事になると考えられます。けれど百パーセント内なる心の学問である言霊学では、これからが本番なのです。客観世界の学問では、従来の学問の成果をマスターすれば、次は自分なりにその学問の新しい分野への挑戦・探究が始まるでしょう。しかし言霊学のこれより本番となる勉強は全くそれと相違します。言霊学の勉学の対象は人間の心の内でありますから、勉学者にとって勉学の対象とは勉学者本人の心の内だけという事になります。他人の心の内を探っても、その真相を完全に把握することは出来ません。頼りに出来るのは自分自身の心だけです。

更に言霊学の勉学には客観世界研究の学問の手法を適用することが出来ない大きな理由があります。客体についての学問は眼前の現象の観察から始まります。ところが言霊学の始まりは、古事記の文章に見られますように「天地の初発の時……」と書き出しが人間の五官感覚では全然捉えることが出来ない、人間の心の先天構造の記述から始まっている事です。これは丁度物理学・化学の初心者にいきなり原子物理学という物質の先験構造の問題を出すようなもので、勉学者にとっては「とりつく島もない」問題だ、という事が出来ます。勉学者が初めに戸惑うのも無理はありません。

この様な事を理解しようとして、初心者がそれまでの学問のように「古事記にこう書いてあるが、何故だ」という疑問を起こして、今まで自分が勉強して来た経験知識を総動員して理解しようとする事は殆ど無意味に近い事なのです。何故なら、現代の原子物理学は人類が「物とは何か」の疑問を起こし、数千年という歳月をかけ、数えることも出来ない大勢の科学研究者の血のにじむような研究努力の結果もたらされた成果であるように、古事記の神話に呪示される言霊学の記述も、科学研究と同様の多数の人が長い年月をかけ試行錯誤の結果、約八千年乃至一万年前に完成した人間の心の一切を解明した学問であるからです。若し現代人がこの言霊学の命題に「何故」の疑問を起こし、自分なりの結論を出そうとしたら、その人の一生はおろか、数千年の歳月を要することとなりましょう。

科学研究の「何故」の疑問が通用しないとしたら、どんな勉強方法があるのでしょうか。さいわい心とは何時も自分の中にあるものです。自分から離れません。ですから人がそれを意識するとしないとに関らず、生れた時から現在まで心の現象の数限りない経験を持っています。そしてそれ等経験を記憶として所有しています。それ等の経験は、科学の観察の機械や材料とは違い、何時も何処でもついて廻っています。言霊学の本を読むに当り、その記述の幾分かは理解できる筈です。また理解には学問の先輩に聞くことも出来ます。そして言霊学というのが人間の心の先天と後天の構造とその働きを解明した学問であるという事が分かったら、また分からない部分はそのままにして置いて、次に申上げる事を始める事であります。

言霊学の勉学者が自分の習い覚えた経験知識を土台として言霊学の書物の内容を解釈・理解することが出来ないとしたら、残る方法は唯一つしかありません。それは古事記の神話が呪示している言霊学の書の内容を心の鏡として、その鏡に自らの心の構造を映して行く事です。勿論初心者は言霊学の内容が真理であるか、否か、を確かめた訳ではありません。けれどそれが真か偽かかは別に、假に真実だとした上で、それを鏡として自らの心を顧みる事とするのです。ではどのように自分の心を見るのか、と申しますと、譬えば次のようにするのです。

古事記の神話は先にお話しましたように「天地の初発の時……」と始まります。としたら勉学者は自らの心に問うのです。「自分は天地の初発の時、と古事記が言っている心の宇宙(天地)を知っているか。またその何も存在しない心の宇宙に今、此処で何かが始まろうとする瞬間の時を『これだ』と把むことが出来るか」と。自分自身それは分かっている、と思う時はそれでよし、はっきり自覚出来ないと思われた時は、その事について如何にしたらよいか考えることとなります。

この様にして古事記の神話とその言霊学の解説書を鏡として自らの心を見つめ、分かった所、分からない所を区別しながら古事記神話の文章を先に進めて行き、分からぬ所は質問し、分かった所についても話し合いすることによって、自分自身の心が神話が呪示する構造の如き構造と動きをしている事が確認されて行きます。古事記神話に示される言霊学が確かに人間精神の全構造とその動きを解明しているのだ、という事を、生きた人である自分自身の心の実相を以て証明することとなります。

そんな廻りくどい方法で古事記神話の内容を理解するとしたら、どんな長い年月が必要となるのか、と戸惑う方もあろうかと思います。確かにこの方法で即座に言霊学全体をマスターするという訳には行きません。早い人で二・三年、遅い人では更に数年を要する事でしょう。けれど自らの心の全貌を隈なく知るという大事業の達成としてはそんなに長い年月とは言えないのではないでしょうか。先に示しました自分の従来積み重ねて来た経験知識で言霊学を理解しようとするならば、一生かかっても理解達成不可能である事と比べるなら、尚更の事であります。

ここで「自分自身の心を見る」という事について、もう一つ説明を加えさせて頂きましょう。この事は古事記の始まりの文章「天地の初発の時」にも関係する事なのでありますが、現代人は自らの心を見るという時、自らの心中に起って来た事を自らの経験知識を通して見、またそれを解釈することに馴れて、その現象をそのまま、即ち実相を見ることが出来なくなっています。例えば、他人の前で自分の事を飾って話す癖のある人が、反省して「自分を飾らず正直にしなければ」と心中に強く思ったとします。しかし或る時また嘘を言ってしまいました。「また癖が出てしまった。あんなに正直になろうと努力して来たのに」と後悔します。こうしてこの人は後悔の連続となります。癖を直そうとする自分が本当の自分で、自分を飾り嘘をつくのは「たまたま」癖が出てしまったのだ、と思います。「私という人間は嘘つきなのだ」とは決して思わず、思おうともしません。他人から「貴方は嘘つきだ」と言われたら、きっとその人を恨み憎む事でしょう。「自分は嘘つきだ」または「嘘をつく事がある」と率直に認めない限り、嘘つきは治りません。この「嘘つきだ」と率直に自分で認めること、これを「実相を見る」と言います。

前号でお話しましたように、現代人は実相である太陽を直接見ないで、月である経験知識やその概念に太陽の光を当て、その反射光によって物事を見ます。ですから物事を見る人の表現が十人十色とならざるを得ません。どうしたら物事の実相を常に見ることが出来るようになれるのでしょうか。それは古事記の「天地」または「天地の初発の時」を頭の中の理論的想像でなく、実際にそれを心中に内観し、直観し、実感する事に関係しています。

先に「天地の初発の時」即ち心の宇宙の中に何かが起ろうとする時とは「今」であり、場所としては「此処」である、とお話しました。今、と思う瞬間、今は次の今に移り変り、果しがありません。「今」は頭に画く事は出来ても、実際にこれを捕捉し、自覚することは仲々困難です。「今」を捉え得ないのですから、その今から見る物事の実相も仲々捉え得ない事となります。昔からその「今」を「これ」と捉えることが正当な宗教の目的であったと言えます。この「今」を古神道では中今と呼び、禅では「一念普(あま)ねく観ず無量劫、無量劫の事即ち今の如し」と言って、通常私達が言う「今」とは違うのだ、と区別しています。

そこで従来の宗教信仰の修行の手法を例にとって、「天地」また「天地の初発の時」即ち中今を自覚する方法を明らかにすることにします。

人はこの世に生れ、長ずるに従って種々の経験を積み、知識を身につけます(図参照)。更にその集められた経験知識の有機的構造を自我と意識します。するとその自我意識は自らの内容である経験知識でもって人や物事を判断し、批判し、それが真実だと思い込むようになります。このように物事に対する自我主張が強くなればなる程、見ている<真実>は真の姿からかけ離れたものになって行く事となるのです。実は人間は生れた時から物事の真実を見る「眼(まなこ)」を授かっているのであり、自我意識の経験知識は、その真実を見る<眼>にかける色眼鏡となるので、経験知識を増せば増す毎に、真実の<眼>にかける色眼鏡の数が増すことになります。物事の真相、実相の把握は困難となります。

この事に気付いた時、人はどうしたら真相を有りの侭に見る事が出来るようになるのでしょうか。それは簡単な事です。色眼鏡を外せばよいのです。習い覚えた経験知識を捨てればよい事です。しかし人間は一度覚えたものを捨て去ることは出来ません。出来なく造られています。ではどうすればよいか。今まで頼って来た経験知識の影響を少なくすることです。その影響を少なくする方法を宗教信仰が教えてくれます。

宗教が教える本来の自分に帰る道に二通り有ります。自力と他力です。先ず自力の方法から説明しましょう。

自力信仰の代表的なものに仏教禅宗があります。「父母未生以前の本来の面目」を求めること、即ち自分が生れた時から父母より受け継いだ性格、生れた後に身につけた経験知識を反省によって識別し、そのそれぞれの知識・性格を本来の自分ではないもの、と心の中で「ノー」と否定して行く修行です。身に付いた知識や性癖等は仲々離れて行くものではありません。それを毎日坐禅により、また日常の座臥に根気よく自己問答を繰返しながら否定して行きます。一度覚えた知識は忘れ去られるものではありません。しかし「今まで私はお前を頼みに生きて来た。しかしこれからは私自身が私の主人公でなければならないと知った。今までお世話になった。これからは私が必要とする時は声をかけるから、呼ばないのに私の頭を占領して私の口を無断で使うことはしないでくれ」と知識や性癖に語りかける事によって、それ等が勝手に出しゃばる事が少なくなって来ます。

この様な努力、反省を弛まなく続けて行き、ついにどんな知識や性癖も本人自身がそれを欲しない限り、勝手に頭脳を占領し、我物顔には動く事がなくなります。知識がなくなったのではありません。知識・癖が自己本体(これを禅では天真仏と呼びます)の従者、または道具としての位置に収まる時、それ等知識や癖によって構成されていた自我意識が自然に消えている事に気付きます。すると、本来生れた時から心の住家であった心の宇宙と自身との間の障壁が消え、自己の心の本体が宇宙そのものである事が自覚されます。この宇宙が即我であるその宇宙を禅は「空」と呼びます。自分が持っていたもの、見聞きしたもの、すべてが空であったと知ります。これを「色即是空」といいます。人は自分の本来である宇宙の目で物を見、宇宙の耳で物を聞く事となります。

この空なる目で物を見る時、物事は真実の姿を現前させます。万人が万人に同じように見える物事の実相を顕現します。これを「諸法実相」と仏教は呼んでいます。人々は真正面から物事を見、聞く事が出来ます。人の心はどんなに動いても、宇宙は動きません。動かない宇宙の目で見れば、自分が今動こうとする瞬間を目の当り知ることが出来ます。何故なら従来の私とは現象の私でした。動いている者が一瞬の今・此処を把握することは難しい事です。それが動かない宇宙である私からは動き出す瞬間を知る事は容易な事となります。「現在心不可得」ではなくなります。

次に他力の行を説明しましょう。自分自身が集め身につけた沢山の経験知識を心の中で識別し、これと問答することなど難しくて到底出来ないと思う方には、親鸞上人が「易行」と呼ぶ他力信仰の方がよいかも知れません。他力信仰といえば、浄土真宗の念仏か、またはキリスト教マタイ伝に説かれる信仰が代表的なものです。家の人や他人に対する自分の行いの矛盾を感じ、絶望を感じた時、自分自身が自己を反省し、自身を変えようと努力するのは自力信仰です。反対に、自分を変えることなど到底出来る業ではないと思い、この悪性の自分を助けてくれと仏にすがり、念仏するのは他力信仰です。念仏はしないでも、「この悪性の、自分でさえどうにもならないこの身を、生れてから今日までよくぞ大過なく生かさせて頂きました。有難う御座いました」と自分を包み育んで下さっている大きな力を感じて、それに掌を合わせ感謝の心を捧げる事、これも他力です。どんなに苦しい事、つらい事があっても「今・此処」に生きている事がどんなに有り難い事かを思い、自分のクヨクヨと心配する心を抑え、何事も自分を包み育てて下さる御力におまかせして心配しないで、感謝の心で暮らそうとする事、これが他力です。

「有難い」とは英語の「サンキュー」とは違います。「サンキュー」は自分に何かの利益を与えてくれた人に言う言葉です。「有難い」とは本来「今・此処に生きる事自体が有り得ない程の奇跡だ」の意味です。ですからつらくても苦しくても「有難い」という事です。「有難い」という言葉は人間の言葉ではなく、人を包み慈(いつく)しんで下さる大きな力に属す言葉なのです。ですから「有難い」と思う心は生命の光で満たされ、その気持ちで物事に向かえば、その物事は実相を顕現してくれます。「有難い」と思う時、人は時間・空間を超えた「今」にいる事となります。「有難い」と思う時、人は人の目から宇宙の目に移って見ている事となります。

以上、人が常なる今を自覚し、物事の実相そのままに見る事が出来る立場に立つための宗教信仰の自力と他力とについて簡単に説明しました。自力と他力とはこの様に修行の方法は違っても、行き着く観点は全く同じです。共に従来の「我」とは違う観点に立ち、広い広い心の宇宙を心とし、自らの生きる「今」を自覚し、その観点から物事の実相を見ることが出来るようになります。

説明をもう一つ付け加えておく事にしましょう。人が自らの修行によって自覚した、自らを包み慈しんでくださる大いなる力に対し「神」または「仏」という名で呼ぶとしたら、その大いなるものは宗教信仰の対象となる神・仏として崇敬されることとなります。これに言霊アと名付ける時は、言霊学が成立します。神または仏と命名すれば、人はそれに対して「有難いもの、とてつもなく大きいもの、何とも温かいもの、そして近づき得ないもの」という感じを持ち、これ以上は知的探究は及ばないもの、と思う事となります。これに対して言霊アと命名すれば、その言霊アの内臓する内容である言霊五十音の原理(言霊イ)と、その原理によって創造される人類文明の歴史に於ける日本人の聖の祖先、皇祖皇宗の御経綸という事に触れる機会を与えられる事となります。

これまで言霊学勉学についての二つの命題の中の、如何にして今・此処の中今を把握するか、物事の実相を見る方法を説明して来ました。もう一つの命題、天の御中主の神と五十音のウを結び付けたのは何故か、について説明しましょう。古事記の神話には天の御中主の神に始まり、五十番目の火の夜芸速男(ひのやぎはやを)の神まで、言霊五十音を指し示す神名が登場します。これ等五十神と五十音を如何にして結びつけたか、は一切その理由を述べておりません。言霊学成立上の大先輩である山越明将氏、小笠原孝次氏の著書にもその結び付きの理由は記されておらず、唯「天の御中主の神・言霊ウ……」と五十神と五十音が如何にも当然と言うが如く結ばれています。言霊学の学徒である私・著者もこれを踏襲いたしました。考えても見て下さい。五十神と五十音の結び付きは全部で幾通りあるか、まさに天文学的数字となる事でしょう。この作業を人間一代や二代で始めから終りまで再検討することなど不可能事に属します。多分私達日本人の祖先は遥か遠い昔、大勢の人が長い年月をかけて、物事の空相と実相の単位と五十音との結び付きに関して探究し、討論し、その結論として完成したのに違いありません。その正当性を証明する唯一の方法があります。言霊五十音の一つ一つをお分かり頂けた時の話ですが、その言霊を結び付けた日本語の単語を御覧になり、その言葉がその物事の意味・内容(実相)を見事に表現して誤る事がない、という事実であります。以上の事から古事記編纂以来、日本の皇室の中に、神話の五十神と日本語五十音との結び付きを記した記録が現存しており、言霊学復興を始められた明治天皇以来の諸先輩はその記録をそのまま踏襲したものと推察されます。(163号)

11-4。天の御中主の神とは。その2。

引用 2。

第一章 天地の初発の時

古事記の神話は「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかまはら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。……」と始まります。この「天地のはじめ」を前文でお伝えしましたように「眼前に展開している大宇宙が大昔、何かの活動を始めた時」と、天体物理学や天文学が考える「宇宙の始め」と解釈しますと、「コトタマ学」の「コ」の字も現われては来ません。ここでは眼の鱗(うろこ)を剥(は)がして、「心の内面の広い広い宇宙」なのだ、とお分かり下さい。この心の宇宙の「はじめ」となりますと、何もない心の中に「何かが起ころうとする時、」ということになります。「何かが起ころうとする時」とは何時だ、と考えると、それは「今」だ、という答えが出て来ます。よくよく考えてみますと、人間は常に「今、今、今……」に生きているということになります。そうすると、そこは何処だ、と言えば、「此処」だ、ということになりましょう。人間は常に「今、此処」に生きています。西洋の哲学者スピノザはこの「今」のことを「永遠の今」と呼びました。

「若者は明日に希望を馳(は)せ、老人は昔に生きる」と言うじゃないか、と反論するかも知れません。けれど若者が明日の希望を夢見るのは矢張り今であり、老人が昔を懐かしむのも今なのです。そうと理屈としては分かるけれど、心中にしっくり行かない方も多いことと思います。何故なのでしょうか。

仏教の禅に「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という言葉があります。過去の心は既に過ぎ去ったもので、「これだ」と掴むことは出来ない。現在の心といっても、次から次へと移り変わってしまうから、これも掴むことは出来ない。未来心とはまだ来ない日の心なぞ尚更掴むことは出来ない。どれもこれも空々漠々、確かにこれだ、ということが出来ない、ということです。その常に移り動いている心からは、止まっていて、動かないものも、動いているように見えて、動かないものを、これだ、と指定することは出来ません。要は自分が動いているから、すべてのものが動いて見えるのです。

若し何らかの工夫の上で、永遠に動かぬ今に立つことが出来るならば、その今・此処の中に、自分に関係する過去の一切のことが今・此処にぎっしりと詰まっており、その過去一切のものを活用して、今の一点に於て自分の責任で、自分の思うままに、将来への創造の第一歩を自由に踏み出す事が出来るでしょう。矢張り禅の言葉に「一念普(あまね)く観ず無量劫(むりょうごう)、無量劫の事即(すなわち)今の如し」とあります。簡単なようでいて、「今・此処」を掴むことは宗教修行の一生をかけた目的となっています。

常に前に前に進むことが善だと信じ、その結果「まだ、まだ」と現状に半分不足・不満の念を残す現代人が、比較的容易に今・此処の心を確保する方法をお伝えいたしましょう。それは何時、如何なる時にあっても、「今、自分が置かれている状況は、自分にとってすべて必要だから起こっていることなのだ。だから私は希望はどうあれ、これ等の状況一切を有り難く受け入れ、感謝の心で迎えよう」と心を空っぽにしてこれに対します。すると案外、素直に自分の置かれた状況を冷静に受け止めることが出来るのを感じます。そうしたら、自分を取り巻く状況の真実がはっきり見えて来るものです。それによって対応する手段が心の中に次々に浮かんで来ましょう。この方法はどんなに大きな事件についても活用可能です。何故なら人々の心の本体は広い広い宇宙そのものなのであり、その宇宙の内蔵精神は愛であり、慈悲であり、人々は誰もがこの宇宙の心を心として生きていますから、感謝の念で物事を見ますと、物事の状況(実相)をよく把握することが可能となるからです。ある先輩から聞いた話ですが、愛という字は「受ける」の字の中に「必ず」という字が入って出来ています。愛とは人それぞれの本体である宇宙(これを言霊アと呼ぶのですが)が持つ基本の心なのでありますから。

大きな鏡の前に立ってみて下さい。貴方はその鏡に映ずる容姿と、人としての経験、社会的財産、等々が御自分のすべてだ、と思っていらっしゃるのではないでしょうか。若しそうだとしたら、それは大変な間違いです。人の心は、眼前に見る客観宇宙と同じ広さの、内観される心の宇宙を本体とし、鏡で見る自我は、その宇宙本体から一瞬々々現出する現象の自我に過ぎません。私達が今まで「自分」と思っていたのは、自我の本体ではなく、現われ出た現象の自我に過ぎないものなのです。人がこの世に生きているということは、言霊の学問を学んで行く間に、素晴らしく大規模で現代人が夢にも思えない程精妙な生命が人類という大きな使命を持ったものの一員として、限りない生命を生き貫いて行くのだということを認識なさることとなるでありましょう。

神話の初めの「天地のはじめ」を解説するのに、風呂敷を広げすぎたかも知れません。でもお話する私自身としては、人という生物がこの地球という素晴らしい天体の中で、今後人類が辿(たど)るであろう栄光の歴史をお伝えしようとして、これでも慎重に筆を動かしているつもりなのです。言霊学とは、現代の原子物理学や、人間の遺伝子の学問と同様の厳密な法則を備えており、これを正しく操作・活用するならば、この地球上を環境的に、政治的、経済的に、また芸術的に真実の楽園たらしめることなど朝飯前の如く考えられ、心中ワクワクとしながら筆を執っているのであります。

古事記の文章を先に進めます。

「高天原に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。」

神話の中で高天原という言葉は種々の意味に使われています。しかし此処に出る高天原は、神話が始まって間もない時で、まだ何も分かっていないことでありますので、「広い広い心の宇宙の何も起こっていない処」の意と解釈するのが妥当と思われます。「成りませる神の名は、」の「成る」を文章通り神様の名前と解釈しますと、「成る」の字が妥当となり、言霊の教科書だから、と考えますと、「鳴る」の字が当てはまると思います。次に「天の御中主の神」の意味を考えてみましょう。「天の」は「心の宇宙の」の意であることは容易に分かります。次が問題です。「御中主」とは、文字通りにとりますと、「まん中にいる主人公」の意となります。何もない宇宙の中に何かの意識とまでは行かない、かすかな何か分からないものが出現しようとしました。そして宇宙は広い広いものですから、その何処に位置しましても、初めて生れ出た処が宇宙の中心と言って間違いではありません。としますと、「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神」の全部を、意識で捉えることが出来ない先天の心の動きとして表現しますと「何もない広い広い心の宇宙のまん中に、初めて何かが起ころうとする、目には見えない心の芽が生まれる宇宙」ということになります。やがてはこれが人間の自我意識に育つこととなる芽であります。そしてこの「天の御中主の神」という神名に、宮中賢所秘蔵の言霊原理の記録は「言霊ウ」と名付けたのであります。言霊ウに漢字を附しますと「有(う)」、「生(う)」、「産(う)」、疼(うずく)、蠢(うごめく)等となります。

古事記神話の冒頭の文章をもう一度書いてみます。「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神」です。これが直ちに「広い、何もない宇宙の真中に、初めて何かが起ころうとする、そしてそれはやがて自我という意識に育って行く、その元の宇宙」となる、とどうして言うことが出来るのか。まるでこじつけではないか、と思われる方もいらっしゃるかも知れません。そのことについて少々申上げることにしましょう。仏教の禅に「指月の指」という言葉があります。「あれがお月様だよ」と指差す指のことです。いくら指を凝視しても何も分かりません。指の指し示す方向をずっと見て、その方角の彼方にある真理に気が付くことです。その指し示している方向にある自らの心の真相を見つけることが肝要なのです。古事記の神名はその案内役なのです。昔、呑み屋の客が酒を呑んで、「マダム、今日のはつけにしておいてくれ」と言います。貸しておいてくれ、という事です。マダムは帳面に酒代と名前と日付を書き込みました。月末までには精算するのが普通でした。そしてその帳面の表に「記」と書いてありました。記で「つけ」と読んだのです。古事記という字を改めて読んでみて下さい。「こじつけ」となるではありませんか。但し、ただの「こじつけ」ではありません。古事記の編者太安万侶が、言霊学の真理を遥か後世の日本人に伝えるために仕組んだ、一世一代の後世の子孫に仕掛けた真剣勝負の賭(かけ)であったのです。人類の生命を賭けて、子孫に向って切った大見得であったのです。その意味で、古事記神話の神名はすべて指月の指であり、更に古事記神話全体が指月の指である、と申すことが出来ます。

もう一つ気が付いたことを申し添えることとしましょう。「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、……」とありますように、撰者太安万侶は神話を読む人に「天地の初発」とは「人間の心の、何も起こっていない宇宙から、今・此処に何かが始まろうとする時なのだ」ということを知っている、という前提で文章を説き起こしています。でありますから筆者自身もこれからは、安万侶氏の意に添って解説を進めて行こうと思います。「人の心の真実の本体は精神宇宙そのものなのだ」ということの自覚・自証を伴いませんと、今後の解説は単なる情報「あっ、そういうものなのか」に終わってしまうことでしょう。然しそれを越えて、自らの自覚・自証を伴った理解を確立なさる時、その学問は、それ自体が社会を、日本を、そして世界を動かす精神的原動力となって人類の第三文明時代の創造の行動の鏡となることでしょう。耳学問から実践のエネルギーの発動へ、関心のある方は御質問をお寄せ下さい。一問一答の中に光を見出して頂き度く存じます。(216号)

11-4。天の御中主の神とは。その3。

引用者はよく、引用された文を見てもらえれば分かる通り、などといいます。

そんなことを本気で信じて言っているのなら世界は仏陀、とキリストの教えの二大潮流のなかで幸せに暮らしているはずです。馬鹿らしい戦争など起こしなさんな、という教えに皆が賛同しているはずです。ところがその後の教祖たちは一つの真実を広めるためといっては、分派と派閥を無数に作り、互いに殺戮を繰り返していきました。

こうしてみると引用文など全く意味がないように見えます。つまりわたしはわたしで、読む人は読む人で、時間と共にあれこれ変えながら、喋ったその場でころころ変わっていきます。引用する人の数だけ戦争、論争の種が蒔かれていることになります。

しかし心があり、その心の原理があり、心の原理を解説したものがあります。心は皆にあり、心の原理である古事記の冒頭があり、安心して心を預けられる引用された解説があり、それが今回から変化したスタイル通りです。引用された解説までは安心して勉強して取り入れるべきものですが、その後の私の書くものは駄文ですから、飛ばしても構いません。

何時までこんなことが続くのか分かりませんが、世界に唯一の例外として、人のころころ変わる心の過程を決まった数の単位要素の言葉をたったの一回使用していくだけで、心の動きを表現説き明かした心の原理としての文章が奇蹟的に大和日本にはあります。(奇蹟的というのもわたしの解釈ですから余計な論争の種がまた蒔かれたということになります。)

日文(ひふみ文)と呼ばれ、いろは歌と呼ばれるものです。同じことを言葉の単位要素としてでなく、神という暗喩表徴を借りて呪示の形で、言葉の単位要素の数だけ使用して、心の過程を示した古事記の冒頭です。ずらずらと出てくる神名は、心が現れ出てくるまでの過程を神を用いて示したものです。よく自然の威力神格化だとか、言いますが、その人に自然現象や自然の威力を数え上げてもらえれば、百や二百はすらすら出てきて、どんなものだと威張るでしょうが、古事記には五十しかありません。

それが心の運用規範であるあいうえお五十音図であり、いろは歌であり、ひふみ祝詞でもあります。だらだらと繰り返される二千年間の引用を解説したものではありません。しかし、こちらが立てばあちらが立たずというところですが、原理の原文は残っていても、一般には解説不能になっています。

その他補うものとして、形象、伝承、民話、象徴、等の形で多くのものが残され、中でも神道、皇室全体がその暗喩象徴となっています。天皇とはあいうえお五十音図のことといっても間違いないのですが、それを解明するのは容易ではありません。しかしよくぞ何から何まで残して下さったという思いになります。そして、最高の賜物は大和の日本語そのものなのですです。

古事記冒頭の五十神、ひふみ文はあいうえお五十に対応していて、この五十でもって、心の動き、言葉の発生を説明しており、人の意識行為の原論を構成しています。

この意識の動きの原理規範となっているのが、五十音図で、古事記の冒頭の神で、ひふみ文です。古代大和の聖人たちによって発見され、スメラミコトによって運用され、古神道、天皇家によって保持されてきました。

心の動き。

これが人類の秘密としてこの数千年間天皇家に依頼されて保持された世界の秘宝です。

その意識の始まりに古事記は天の御中主の神をもってきて、言霊ウを配当しました。

(注意。古事記の冒頭を本来の古代からの読み方であるふとまに言霊学からとらえようとするものですので、高級心霊とか天上霊界とか交信見神とかの話はありません。)

11-4。天の御中主の神とは。その4。

古代ギリシャにおいて哲学に入る門には「汝自身を知れ」と書かれていました。これを私がここにいることを前提にしますと、神と比較したり、自分の分際をわきまえるとかになります。何故なら自分がいるところから出発していて、他のものは自分の対象になっているからです。これが西洋哲学の始まりでした。

自分がいて自分の対象が外にあります。別に普通の当たり前のことですが、古代大和は自分を自分の心の内に置きました。心を自分の内側に置きましたから、心にあることも全て外側に解決を求めず心の内に求めました。つまり神だとか霊だとか言うときも、どこか知らない天上の神だとか霊だとかではなく、心の内にいる何者かを指していました。

汝自身を知れというときにも、自分の中にいる自分自身をさしています。

天の御中主の神というときも同様です。この神さんについて言うことは無数に蓄積されてきましたが、元をたどれば日本書紀にも、古事記にも何も記されていません。名前があるだけで、その名前に当てられた漢字や読み、前後にある言葉などからイメージして、これまでの天の御中主の神像を創ってきたのです。 最高位にしようと最低位にしようと中空にしようと、概念操作に過ぎません。

神を祀りあげて気持ちよくなったり儲かったり、神とお話ができたりしても、天の御中主の神が説明されることはありません。個人的な経験によって自分には説明できる材料ぐらいは手にできますが、群盲象を撫でるです。

それでも知識経験が増えて豊かになると取れるかもしれません。しかし、そのように見えるのは自分がそのような経験現象に出会っているときだけです。それ以外はイメージであり、思いであり、推測憶測でしかなく、他者の経験現象などは自分を否定するものとして無視することもあります。

そして何よりもその経験が無いときやその前後のこと等には、何も説明できる言葉を持ちません。「私としては、個人的には」といって自分に引っ込んでいきます。要するに私としては経験した、私としては分かっているということも、私としては分からない見当もつかないも、全て同じことになります。そもそも本体本源がわかっていないのですから、後は内容に関係なく言い張る強さ、自覚のない自信だけが残ります。

天の御中主の神がいるのなら、経験があろうと無かろうと、現象が起きようと起きまいと、個人的であろうと他者的であろう、その本源本体そのものをとらえることが必要でしょう。本源本体そのものをとらえない限り、余計な知識と経験積み重なるだけとなるでしょう。

進歩していく知識の集積は本体本源を無視して現象だけを追っていきます。つまりまるで役立たないということです。前進が無能無力なら退歩するしかありません。そして本源を掴むとは退歩していくときに成功すると言われます。そのようにしようと努力してみましょう。

11-4。天の御中主の神とは。その5。

本源に戻るように退歩していくわけですが、天の御中主の神に関してなら、まず今までの知識を脱ぎ捨てることになるでしょうけれど、この神さんについて知りたいのですから神名はそのまま残るでしょう。文献やら歴史的な事情やまだ読んでない書物などは脇に置いときましょう。

そこには残された名前がありますが、どういうものかと思い煩うことはありません。

しかしこれではまるっきり赤ん坊です。「パパパパパパ、ママママママ」と繰り返し教えられているようなものです。もしここで「ジェズクリモイズ」などと教えられたらその通り覚えるのでしょうか。

赤ん坊ならそうなるでしょう。育ってみたら母国語はフランス語みたいになるでしょう。日本語環境で育った私たちなら、天の御中主がジェズクリモイズになろうとしても、脇に置いてある知識記憶概念がそうは許しません。無視したつもりでも必ず頭をもたげます。自分の知識概念が意義なり同意なりを申し立てます。

与えられた言葉は必ずふるいにかけられます。たとえ分からず理解できなくても、音楽や雑音のように聞いても、感覚を打ったあとの判断があります。あれは音楽だった音だった、意味は分からないけど日本語だった外国語かもしれないなどと、判断が続きます。

つまりここには先天の判断規範が頭脳内に形成されているのです。天の御中主、ジェズクリモイズを見て聞いて発音して自分で了解して分かるなり分からないなり関心ないなりの判断が続くには、言葉が判断規範を訪ねてその判断があったことを示しています。

ではここで元に戻って本源にたどり着くというのはどうなるのでしょうか。余計な知識の荷物を降ろしたつもりが、そうではなくまたぞろぞろと後についてきているのです。それは天の御中主の神という言葉を聞いたからこうなりました。

御中主の神を頭脳内の判断規範が判定を示したから、それはミナカヌシノカミというように分かりました。あるいは何だか分かりませんでした。

つまりここでは天の御中主の神よりも前に、言葉の判断規範があったことになります。

神さんより前に神さんを判断する言語規範があるなどというと、神さんを信奉する人たちは目くじらを立てて言うでしょう。

概念言語となった神ならそういうことだが、神自体は前々から存在しているのだ。

では、言語を使わないで神と言ってもらいましょうか。と言うこともできます。

こんどは、心の中にいる感謝と愛の心は神そのものだ。宇宙の神秘だ。とかいう概念知識が不要というお話になるでしょう。

それも感じる心がある人間がいるからです。そうなると今度はさらに自然や法則や原理などが出てきます。法則や神の意志が元々あったのだ、となります。

神さんの名前など後から付けたものだと分かっていても、なかなか承知しないでしょう。

しかし神さんの名前もやたらと付けたわけではありません。意味のあるようにあるいは暗喩象徴するように付けられました。意味ある言葉の体系がまずあってそれに従いましたということになります。神さんが言葉を創ったというのなら別ですが、神さんの名前はここでもやはり後からできました。

神の言葉を、神の霊感によって記されたものが聖書といわれていますが、神は「神の言葉」を与え、言葉の体系構造とその意味を与えたこととは別です。人に息を吹き込んでアダムを創る以前に既に多くの名付けられるものを創造しています。その始めが天地ですが、その天地と名付けられる言葉はどこからきたかというと、はっきりしません。

光も同じで、光あれと言いたまいて光ありきで、光以前に光という言葉があったとも取れます。あるいは光という言葉と共に光があった(ヨハネ伝)とも取れます。これは神がいると同時にあるいは神の存在以前に、神の心を表すものとして言葉があったように取れます。

光の現象はもちろん光という言葉以前からありました。しかし、今言った文章に注意してください。一見本当のように聞こえます。人間がいる以前から光はあるから、言葉以前に光があるのは当たり前のように思えます。ところが。

ではヨハネ伝の言葉を見てください。

「太初に言(ロゴス)あり、言は神とともにあり、言は神なりき。この言はよろず太初に神とともにあり、萬のものこれによりて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あり。この生命は人の光なりき」

創世記では。

神は言われた。

「光あれ」

こうして光があった。

神は光を見て善しとされた。

解釈を展開しても信仰を展開しても、理性的に知的に両者を了解するのは、信仰は理性じゃないからそれでいいとしても、困難を感じます。

現代までの人たちに宗教哲学者も信仰者も含め、太初に言葉ありき、が解決できないのは、理性か信仰かで了解しようとすることが、それだけでは足りないからです。どちらの領域にいる人ももう分かっていることで解説はできると、言い張る人はいます。

しかしそんなことより、この二千年間は謎が解けないように分からないように、わざと言葉を選んで残しておいたとしておいたほうが、ヨハネやキリスト、モーゼの意に適っているでしょう。

理性や信仰で充分語り合うことが満たされたとき、その両者からの見方を超える解説が出てくるというものです。

信仰、宗教は未来に獲得すべき目標だけを打ち立てる以上はしませんが、そのことは世界に浸透して世界人類の目標という感情が蔓延しています。一方理性によって極大宇宙から極小物質の構造まで研究しつくされ、新生命の合成、脳内意識の物理的解明までできるようになっています。

つまりこの片方だけを持ち寄って、太初に言葉ありきを語り合っています。この段階にいる限り、数千年前に提出された教えを解くことはできません。この両者の解は全面的に受けいれられ消化され血肉となって、全く別の次元のゼロから始められないことには、将来にいけません。

それは、いのち、(イの道)から見る事です。

11-4。天の御中主の神とは。その6。

神を語っても信仰で語れば知性を満足させません。知性は信じることに不用といいます。

同様に知性で神を語るとそれは概念だとなって、信仰の信心が無い、感情が無いとされます。

問題はこの二者しか知らない状態が数千年続いてしまったことです。両者を止揚する意識は誰にも持てるはずなのにあるはずが無いと、両者とも主張していることです。知性概念を表現することと、信仰感情を表現すること、その両者は同じ処から出てきています。言葉は神なり、とヨハネは言いました。

これを説明する両者は全く違う事を言いますが、説明しようとする心とそれを表現する言葉は生きているいのちが発する言葉から出てきます。両者とも皆が誰でも分かるようにと心を砕いて自らのいのちの言葉を述べていきます。両者が話会っても結論に行き着くことはなく、両者の良心のままそれぞれ背を向け合ってしまいます。

古事記はここでこう言います。皆さん、まず、「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に行きましょう、」、というのはどうですか、と。

それは、こういうことです。

竺紫(つくし)とは尽(つ)くしの意です。各人の心を尽くしてやってみましょう。

つくすというのは自信を持って良心的に行うだけでは充分ではありません。

日向(ひむか)とは日に向うという意で、日(ひ)は霊(ひ)で言霊、日向で言霊原理に基づく、の意となります。

両者共に明るい日に向かうように納得でき、光の賜物を得るようにするためです。

それにはそれぞれがもっている、橘(たちばな)を見直すことになります。

橘(たちばな)は性(たち)の名(な)の葉(は)で、それぞれの性質(たち)に縛られた各自の立場(たち)に拠った言葉、名(な)の葉(は)、使いを止めて、それらの穢れを洗い直し、両者とも了解できる、橘・たちばな・たち(性質、立場)のは(言葉)な(名付け方)を習得しましょう。

そのような心地よい小門(おど・音・言葉)の門に辿りつくことが必要とされます。

その為には四方が阿波岐(あはぎ)に囲まれた言葉の原に立つことです。

阿波岐原(あはぎはら)は、ア・ワ・イ・ヰに四方を囲まれた言霊音韻図で、イ・ヰが詰まってギとしてあるので、阿波岐(あはぎ、アワイヰ)という。

いかがですか、ということになります。

ヨハネはこれを「言葉は神なり」と言ったので、普通に喋っている言葉や、あるいは、人が聞いた神の言葉を「言葉は神なり」と言ったのではありません。それらは現象として人間に通用している、人に交信された言葉で、人の理解了解の上で受けいれられた言葉です。

ヨハネと古事記のふとまにでいう言葉は、いわば言葉の出所となっている言葉のことで、それだから「萬のものこれによりて成り」となるものです。

四隅がア・ワ・イ・ヰの原(五十音図)は普通に使用しているあいうえお五十音図のイ段が一番下に来て、並びがアオウエイになります。(後述)

これは理性で考えられた言葉使いではなく、信仰によって得られた言葉使いでもありません。それらの元となるいのちの言葉です。

「太初に言(ロゴス)あり、言は神とともにあり、言は神なりき。この言はよろず太初に神とともにあり、萬のものこれによりて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あり。この生命は人の光なりき」

いのちの言葉の規範はヨハネ、キリスト、安万侶、あなた、わたし、だれであろうと同じです。世界の多言語からすれば考えられず、異なった言語を話すのに何故同じというのかおかしく思えますが、それは現象としてみれば、同じ日本語でも同じ世代でも通じないで喧嘩も起きます。いのちの言葉はそういった現象を追うものではなく、現象の元となる先天の言葉をいいます。

その構造を示したのが神の名を借りて象徴的に示したのが古事記の冒頭で、古代においてもその噂は世界をかけめぐっていました。

(モーゼ、キリスト、仏陀は古代大和に来て、勉強したという記録が竹内文書にあります。)

竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)という、心を尽くして日に向かう立場の言葉の咲き誇れる音(会話)の地盤であるアワギ原という意識の規範で、今後を築こうというものです。これを「神の言葉」といって神さんの話した言葉というのとは違います。心霊が伝えたとか神が話したとかいう現象の言葉ではなく、その大元を言います。言霊といいますが、普通に通用している言霊という理解の元となるもので、いわば言霊といわれるその元となる言霊のことです。

例えば普通に言霊といって言葉に宿る霊的な力を思っていますが、その言霊に力を与えそれを知り自他と交流するもので、各自の持っている自分で自分のいのちを見聞き知る力のことですので、言霊が持っている力とかどこかにある霊的な力とか言うものではありません。考えることもなく信じることもなく、普通に誰でもが持っているけど、気づかず自覚の無いまま過ごしているもののことです。

考えて知るどこかにある霊的な言葉ではないので、信仰の対象として立てるものでもありません。自分が自分を、いのちがいのちを知るのです。

そこで古事記の天の御中主の神ではっきりしていることは、天の御中主の神と言われる以前に人の心を現す言葉の体系があったということです。この大和言葉の規範を元に神名が創られていきました。

引用には、天の御中主の神は言霊ウとあります。何故、へとかメとかハジメとかアマとかにならないのでしょうか。言葉が神なのです。人間はしゃべっている時に言葉を使いますが、しゃべる前、考えている時、思う時も全て言葉で考え、思っております。言葉が全てなのです。

天の御中主の神を言霊ウとしました。それはいのちの何かが天の御中主の神であり、いのちの何かが言霊ウなのです。ゼロが三つで千、二つで百というように約束で決められた言語体系と物象の体系があります。そこでは法律が変われば全てがころっと変わります。しかし、大和言葉の日本語の体系は世界で根本が唯一変化しません。

神(カミ)を御中主ゴッドとか御中主デューとか御中主シンとかに言い換えて通用することはできます。それらは指示された言葉の対象を理解するだけで、実体内容を示すには説明が要ります。御中主ゴッドで通じますが心に響きません。英語圏ならゴッドはより近いので、心への響き方は違うでしょうけれど、ゴッドから出るイメージの広がりは、カミというより格段に大きいでしょう。絶対神とか絶対善とかから出るイメージに載せれば、広がりを持ったゴッドになっていきます。ということはその反対が貧弱ということです。つまり固定した核のような種、実を持ったものを持たないのです。

そこで御中主ゴッドになれば多いにイメージが拡がることになりますが、中心の核が失われていきます。御中主シンとしてシンに神という漢語を配当してもそうなります。

しかし、御中主のカミとしてカミの漢語の神を配当しあくまでカミと読む大和言葉の内にいるときには事情が異なります。

古事記では、「迦微」(かみ)という漢字を配当してあります。宣長は「迦微」に神の字を当てたのは、よく当たっている、と非常に関心しています。

絶対を創造する非常におっかない「神」のイメージに対して、大和言葉の「迦微」(かみ、神)は、微小、微妙、顕微鏡等の微で表現されています。

加 言葉を重ねて人を強いる・・待て!待て! やめろ!やめろ!

迦 「しんにゅう」は「ゆく」「すすむ」「うごき」を表す・・行け!行け! すすめ!すすめ!

微 かすか こっそり ひそか ・・動作などが小さく行われる事 何ごともないかのようだ

絶対におっかないでかい偉いイメージのものが大和では微で表現されて、宣長を唸らせるのは、唸る本人に心が向いているからです。「悪いもの、奇(あや)しいものなども、世に優れてかしこむべき存在は神と言う」といっている通り、己の心のかしこむ心持ちを言うからです。

現代的に言えば「すごーい」という驚嘆の端緒の出所に見つかります。

驚嘆して「すごーい」というのは現象です。外国の神はこれを追って行きました。大和の「迦微」(かみ)はその実感している出所に生成した心を捕らえました。

端緒の出所ですから、それはそれは小さな粒(実、み)です。しかし、自分の心にカッと輝いた明らかな実(み)でした。カ・ミの誕生です。とうとうカ・ミが誕生しました。これは元を辿れば外国の神も同じでしょう。

この端緒のカを古事記に探しますと、あめつち、アの目が付いて地に成る、が見つかり、冒頭の一句と一致します。

アという自分の意識の目が対象相手と結ばれた事を指すことになります。

そうすると、神というのは何の神何の神と八百万どころでなく八兆八京が神になります。

そしてそれを一言で現したのが天の御中主の神です。

さて、その天の御中主の神は言霊ウが配当されています。ここを探ってみましょう。

11-4。天の御中主の神とは。その7。

八百万八兆億の神を一言で現したのが天の御中主の神で、無限の宇宙のどこにでもいる、宇宙は無限だからどこにいてもそこが中心となる、無限とここの一点を同時に現した神さんです。時間的にも空間的にも無限の中の一点ですからいつでもどこでもそこが中心です。昔は今中と言いました。

そこでここからは意識において無限と一点、今中、を発音として表出させることが問題となります。現在私たちにはあいうえお五十音と神名との対応が与えられています。古代において数百年間の努力の末に見いだしたものでしょう。それを追体験するというのも容易なことではありません。

有り難く頂くといっても数千年間既に大和の思考に反した生き方が一般的になって染み込んでいますから、それでうまくいくのかと心配です。

さらには世界初の真理の書をお気に入りで聞きかじっただけで、あったものとして信仰するような態度では、物になるはずも無いのです。

しかしここで問題になっているのは、自然に言葉が出来ていく過程ではなく意識的自覚的に言葉を形成していく過程です。意識的自覚的な過程が同時に自然の心の動きに則っているなら問題の緒は一挙に見つかるかもしれません。

天の御中主の神は言霊ウとありますから、これを受けいれて、無限と一点を同時に満たす意識が発音されればウとなり、発音しようと発音に向かえばウになるだろうことになり、発音されることがイメージされればウに形成されるだろうし、ウの意識の条件が揃えばウが出てくる前提が形成されるようになるでしょう。

身体的な条件は絶対的な力を持っていますから、それに逆らうことなく取り入れて、自覚的に無限とここの一点を両立させる意識を発語として生成する自覚性に沿うならば、外的身体肉体的な先天の生理条件のもと、自らの生理を無限とここの一点を両立させる意識に従わせることになります。

天の御中主の神という神の名は後から出来たものですけれど、それの意識内容は言葉がなくても先にあったということはありません。意識内容が先に合ってもそれを表現する言葉を持たなければ、内容などは現れないからです。

しかし、ここにある感情感覚としては説明の言葉を持たなくても現れることができます。感情感覚を言い表せないもどかしさは日常的なことです。また五感感覚からの欲望が起こることには言葉が無くても生理的肉体的な実感があり対応はできます。しかし、感情的にも欲望的にも自らを説明しようとすれば言葉が不可欠になりますので、言葉が無い場合には他者との交流はできないでしょう。

「 天地の初発(はじめ)の時、高天原に成りませる神の名(みな)は、天(あめ)の御中主(みなかぬし)の神。」 その言霊をウという。

さあここから言霊と古事記の神たちの話が始まるのですが、本当の事を言うと、私の次元では始まらないのです。今までは聞きかじったことを解釈して自分なりの意見などをくっつけてきました。しかし前回にも言った通り元に戻るというのはそういったことに捕らわれないことです。知識など投げ捨てるわけです。

端緒に付いたのに、始められるか始められないかそこが問題です。

12-1。天の御中主の神とは言霊ウ。

「 天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、」の「天地」は「あ・め・つ・ち」と読み、

アの目が付いて地に成る、ことで、

わたし(我、吾、あ)の意識の目(め)が相手対象に付(つ)いて地(ち)に現象として成る、

ことの象徴表現であり、こころの動きの原理を現したものです。

この一文は人の意識行為の全てに当てはまります。テレビを見るとき、腹が減ったとき、さっきなんと言ったか思い出すとき、全て意識行為の原理的な表現です。

そのことを現象として在ると見ていけば分かりやすく、見て聞いて思って考えてという心の動きが、対象を見いだして相手を感知認識することになります。

ところが、その同じ構造が先天の意識活動にも在るという発見こそが、大和を世界から峻別する元となりました。

そしてその発見を自覚して現実社会生活に運用適用する方法を得て、世界を建設していきました。その、発現としての世界の人間歴史と精神がここ大和から始まったのです。

ということは大和による意図的な合目的的な世界歴史のことを言いますので、火の発見とか、石器の形状とかを云々する歴史のことではありません。

普通の当たり前の歴史は、石器や大坂城の石組を見て、誰かが(who)何時(when)何処で(where)何を(what)し、次に何故か(why)に至って、歴史の行き着く処は何処か、そして最後に将来の設計図を予知予測と付き合わせます。

しかし落ち着いて見ると、石器や大坂城の石組は過去にあった事で、現に見ているのはここにいるわたし、あなたです。また博物館にある石器が将来包丁になるかピストルに成るか、石垣がコンクリートになるか鉄骨になるか、そんな変化はまだ見られないので、将来の姿は実在していません。

いずれにしても、今ここにいるわれわれ各人のそれぞれの心が、過去はこうだ、未来はこうなるだろう、こうなったはずだと言っているだけです。言うからにはそれなりの過去知識と研究の成果があって、それらが充分に活用されているのですが、そこにあるのはものに対する記憶概念知識であって、その物を創造した意図目的ではありません。

意図目的は非常に見えにくいものです。はいどうぞと渡されたケーキが爆弾であるか健康成長を祝うしるしか、おいしいものを食べてもらいたいのか毒入りか、判別は難しい。石器にしても石垣にしても、何のためですこのためですと簡単に言う事ができない。こうですああですは後に仕入れた概念知識によって言わされたことで、その上に5Wが乗っています。

そのものを創った本人を差し置いて、歴史の知識と称するものがでかい顔をしているだけです。そこには創った本人の血も涙も温かみもありません。結局誰でもいいから工作人、労働者がいればいいというだけです。どんな人間がそこにいようと人の心は現れず、石の冷たさと科学的な知識が出てくるだけです。

もちろんそれらは重要な情報を提供するものです。過去の人と話が出来るわけがないのですが、そこにあった意志を等閑に付す事はできません。自分がそこで働いていたとしてみてください。自分に当てはめてみれば自分が鞭打たれ血を流して石垣を積んだことに、敵の攻撃を防ぐためなんて言うことはできないでしょう。自分の意志をくみ取ってもらえなければそれはとても哀しい事です。

ブログを読むことだって同じです。学校での国語の勉強みたいに先生の教え方は誰が読んでも構わないと言う態度です。書かれた事の内容の話しはしますが、読む方の生徒は一人一人感情考え感じ方が違うのです。それにとうとう現代はタブレット画面を与えておけばいいという時代にまでなりました。誰でもいいから読め、になってしまいました。

そして私たちは今ここのブログではそういった歴史の原初の、心と意識の初めの時点にいて、それを天の御中主の神、言霊ウという歴史の賜物を持っています。天の御中主の神とは何かと実体を指す言葉は持っています。それは言霊ウである。皇室の賢処に秘された書物があってそこに書いてある。既に民間にも流れ、言霊学では解説されている。

もしそれだけのことなら、石垣に染み込んだ汗を無視しています。天の御中主の神は言霊ウだというだけなら、誰でもよい、主体のない、意図も意志も見えない、単なる過去知識です。

自分が知ったとき、その時の知識が全てですが、知識概念は過去に向いていますから、過去の言い種も全てそこに含まれてしまいます。そこで自分に都合のよいことが次々と重ね合わされ、知らないことでも知っていたこととして後尾に連なってきます。こうして過去からの体系が自分のものになりますが、その初めの自分は小さなものでした。

始めて彼女を見た、始めて聖書を古事記を日月神示読んだ、始めてホノルル空港に着いた、始めてキーボード叩いた、あるいは、始めてこの世に生まれた、始めてパンダを見た、等々、日常生活はこれらの始めの総体で成り立っています。

この初めという総体は各人の世界全体宇宙となっています。

そこでこの初めてから、その初めてだけを取り上げるとどうなるか。例えば、初めてカレーラーメンを食べた時、そこには記憶知識によって選ばれたカレーラーメンがありましたが、知識は過去に創られていたものですから、一切消去します。ラーメンと名付けられ物が無くなります。

丼の中に湯気を上げている物が入っているのを見ます。匂いがしている。口に入れれば味がある。これは知的概念的な部分を取り去っても何かが残っていることを示したものです。味覚とか触覚とか嗅覚とか視覚ですが、それらを表現する概念を捨ててありますから、何の表現もありません。

ここには物理的生理生物的な反応作用があるだけです。そこから先は何も動くものがなく、自然過程の作用の連続が続きます。

つまりここには人の関わる歴史が生まれていないのです。つまり見るだけでは、大坂城の石垣にも、ピラミッドにも歴史はないということです。人は大部分の事物と自分との歴史的関係を結ばずに事を済ましていきます。

しかしそこに別の関係が現れていることがあります。感情です。この感情情感や威圧感、その他等はその初めの的時に生まれても、感情情感として生きていくことができます。つまり言葉として表現しなくてもいいし、できないこともあります。もちろんその場の感動を一言喋ろうとすれば過去概念のお世話にならなくてはなりません。

また、注意を集中することや意志を現すことも言葉なく行為することがあります。ここでも自身を現そうとするには言葉が必要になりますが、訓練された体験のコントロールなら一見、条件反射のような身体運動になることもあります。

さて今ここで示されているのは初めという総体です。記憶知識は元々過去のものですから、出番でないからまだ裾にいます。大事な記憶知識を脇に置いただけで、各人の成していることは一挙に惨めなすれっからし一文無しになった感じです。古事記には神とよく出てきますが、神に関する記憶を取り去ると、おやおや何が残りますか。

ところが同じ神という言葉でも、豊かな世界宇宙全体が在るという人もいます。あるいは生きる根本エネルギーが有るという人もいます。知識を持った人の貧しさと体験を持った人の豊かさという対比です。

12-2。天の御中主の神とは言霊ウ。

物を見る初め、考える初め、ブログを書く初め、幼稚園に行く初め、食べ始め、天地の初め、初めのことを考えるのは結構難しい。しち面倒くさいことなど考えず、ホイホイスイスイと行動をすればなんでもない。

初めがあって、次があって、その次を通して、その後の全部があるのですから、初めというのはすごいものです。初めがあって今があるといっても、今は初めと全く関係ないように見えることもあります。

古事記では「 天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。」が初めですが、

「日月神示」には、次のような記述が見られる。

「あめのみなかぬしのそのまえに、あめゆづるひ、あめのさぎり、くにゆづるつき、くにのさぎりのみこと(天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊)あるぞ。○チョンの○チョンの○チョンであるぞ」

この長い神名は「先代旧事本紀」からとられたものです。

ところが竹内文書によるとさらに、そのさらに前があります。

01元無極躰主王 大御神(モトフミクライノミノヌシ_オオミカミ)

02中未分主 大神尊(ナカナシワカレヌシ_オオカミ)

03天地分主尊 大神(アメツチワカレヌシノ_オオカミ)

04天地分大底主 大神(アメツチワカシオオソコヌシ_オオカミ)

05天一天柱主 大神躰光神 天皇(アメハジメアメハシラノシ_オホカミ_ミヒカリノカミ_スミラミコト)

06国万造主 大神身光 天皇(クニヨロズツクリノシ_オホカミ_ミヒカリノ_スミラミコト)

07-1天御光 太陽貴王日 大御神大光日 天神(アメノミヒカリ_オホヒナカキオヒ_オホミカミオホヒカリヒ_アマツカミ)

07-2天御光 太陰貴王女 大神(アメノミヒカリ_オホインナカキオ_メオホカミ)

天地開闢の神のそのまた前の前の、といった感じで幾らでも戻っていきます。物理学が量子物理学となって、分子原子となって細分され、さらに素粒子へそれを崩壊させてその元へ迫ってとうとう半物質暗黒物質なるものまで想定されていきました。

こころを按配する古代には、パソコンのファンの音がうるさいと気にしながら画面の点滅に気を取られることもなく考えることができたので、心の細分化も構造の追求もその保存保持運用もおもいきりできたのでしょう。心と精神構造は既に解決してしまっていました。

しかし、保存保持には物質の形をとらないと可能ではなく、伝承口伝えも言葉という物象が必要となっているので、どうしても精神=物質の形を創るには問題がでてきます。そこで古代大和の聖人たちが創造したのが、精神=物質を限りなく同じものとなるように真似て似せる言語体系を創ることでした。

言葉、その表現がそのまま物質を現すような革命的な言語の体系を目指しました。それが大和言葉で日本語の元となっているものです。古代ではフトマニといっていました。フトマニは占うというこことして古事記にも出てきますが、占いというのはこちらとあちら側の二つの何か(問いと答え)を、物を使って両者間に真似て似せたものを創ることです。

それは心と言葉が限りなく同じだというところから来ています。フトマニのフは二つ、こちらとあちら、心と言葉、占いの問いと答え等の主体と客体、フーと相手に息を吹きかけるときの、ほこりを吹き払うときのフで、わたしの心が相手対象側と同じになる心持ち。

トは十、心の全部のことで相手対象側に全体が動き働きかけること、この働きかけ働きかけられる関係の現れが言葉として、真似られ真似て出来たのがフト真似(マニ)です。心が言葉に真似られ、言葉が対象に真似られ、対象が言葉となって、言葉が心に載ってくる全部の循環を指して言います。

相手対象と言葉が何処までも近い真似られた言葉を使用しているということで、後々にその言葉には何らかの力、霊が有るとされました。実はそのように大和の聖人たちが言葉を創ったのです。それは五十の単音でした。つまり心の要素は五十しかないということです。物質の元素も限られているようなものです。

物質とは何かで、元へ元へと戻っていく現代物理の世界のように、古代には、精神と心がありその心は何処から来ているのか、と元へ元へと戻っていきました。

現代において究極の物質に到達しつつありますが、古代においては究極の心に到達してしまっていました。これは現代の心理学者や深層心理や脳科学者をもってしても、いまだに成し得ないものです。

心の構造の完璧な表現が古事記の神代の巻ですが、到底そうは見えないところが難点というかわざとそうしました。さらには書き残越された多くの書物があり、それぞれの著者によって、解釈を挿入してしまいますので、いろいろと差異がでてきます。古文献の相違はその多くが神代、つまり、意識(神で表徴した先天部分)を扱ったものに集中しています。

事象事跡を扱う物質世界とは違って各人の心で確認していくものだからです。最終的には古事記の冒頭を心の原理として天皇が確認しましたが、古事記外の文献に違いがあっても冒頭の形成過程とその後の拡散もかなり自由だったようです。

古事記の冒頭は心の原理ですから、朝廷の運営にも、朝廷内の各部署の運用にも使用され、それぞれの責任者による解釈が混入していきました。冒頭が心の原理であることはスメラミコトだけが知るものとして隠されていましたから、暗喩呪示としてもらいられた神の名前も自由に使用できたようです。こうして神代(心)を扱う多くの文献が残されました。

心が初めて成るその実体を神として、まず天の御中主の神を創りましたが、引用のように他の文献では、それ以前を、あるいは以前の以前をあげています。これは意識が元は何かと探すときには当然起きることです。父母の以前その前前と際限なく元へ戻ります。アフリカまで行くか三葉虫か単細胞か、お気に入りの気が済むまで続けられます。

このきりがない循環することを避けるため古事記は次のように発現しました。曰く「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時」です。この一言で同じことのくり返しとなる無駄な思考を回避しました。つまり、

あ・め・つ・ち=アの目が付いて地になる、で、

わたし(我、吾、あ)の意識の目(め)が相手対象に付(つ)いて地(ち)に現象として成る、を現し、

ア(吾)の意識が相手に向かう限り対象にしていけることを言い現しました。

ア(吾)の意識は時空、時代、環境、興味関心によってそれぞれ勝手に変化しますから、その目のつき方に従うということです。ですので前の前の前のということも、それぞれ関心なり、事実なりの取り入れ方により、吾の目が付いて地に成る、ということになります。

そこで古事記は天の御中主の神が最初ですから、それ以前の神は関心に応じて対応すればいいことになります。ただし吾の目に含まれていることが条件で、吾の目に入りきらないものは、古事記と関係ありません。

神と名をつけているから関係あるように見えますが、その神を客観事物としてしてしまった場合には、全てが古事記の真意から外れます。

例えば農耕用の石器があってもその石器自体は吾の意識とそれを解説する古事記とは関係しませんし、天照す大御神を太陽としたり、月読みの命を月の神としたり、石土毘古の神を岩や土の男神としてしまう場合には、物理事象の研究分野になります。当然、天の御中主の神を創造神とするなら、大工として働いてもらうことになります。

自然諸力の神格化というのは非常に怪しげな表現で、科学の進歩で多くの神は殺されたニンマリする科学者もあります。同様なことは科学者でなくても古事記を研究するひとも、古文献を研究する人にもいます。

こういったのは神という言葉は使用してませんが、科学的と称する規定された意見を神格化しているので、よくある抽象性や観念性を与えられた神と同様に客観概念を自分の外に投影した神と同じで、それを崇拝しているのです。つまり、アの目が形を変えただけで同じ構造です。

次回はなんとか天の御中主の神に挑戦してみたいものです。

12-3。天の御中主の神とは言霊ウ。

感覚を受け取るだけなら動物と同じ生理的物理的自然の過程を経るだけです。人も生物ですから、生物的自然過程で了解するものです。従ってこの過程に関わるものは全て自然の客観的な視点からの科学思考の対象になりえます。

ア(吾)の目で見ることは、これらを生物と同様の自然過程をベースとしていますが、根本的に違い、意志と意図の介入の元に行われます。見たから見えたというだけなら、光と眼球の問題ですが、見ようとする意志があるとないでは、全く違いここから人間の問題が起きてきます。

ここで注意してもらいたいのは、意志と意図のある介入から人間の問題となるといっても、あれば人間的、無ければ人間じゃない、などと有る無しを言っているのではありません。

簡単な見るという行為も、反復共通性の原理を求める科学思考ではなく、フトマニ言霊学ではその本人の心の内だけの問題です。他人の心の中に同じ生物的物理的な過程を探っても、自分の真相は把握できません。外的な科学的法則が見いだされることでしょうが、当人のこころは置いてきぼりです。

また、ふとまに言霊学が人の心の内だけを対象にしているからといって、人はそれぞれ別別だから、法則はなくバラバラというのではありません。それどころか、心の原理という法則が古代大和において八千から一万年前前後には発見され、社会政治に応用されていました。

このバラバラ個人でありながら原理原則で統一されている言語体系をもって、社会政治を運用しているのが世界で唯一の大和の日本です。もちろん現代は復元不可能なほど壊れ去っていますが、古事記の冒頭とそれによって創られた神道や皇室や文化、行事が残っている限り再生の道はあります。

客観的な社会条件と大和を理解できる主体側の世界変革の意志の条件がそろい、その働きが軌道に乗り次第変革再生の道は開けます。外的な条件に強制されるだけでなく、主体側自分側に頼りになる力能を自覚することが必要で、それを訓練して獲得しなければなりません。

そこで、意志の目が付いて見ること、それが自我意識に育っていく事を見てみたい。

仏教では生々流転、成住壊空、という生命の原則があるといいます。世界そのものの生滅変化を現したようで、お釈迦様が言ったかどうかは確認していません。変化して流れ散り、また再生するというのが主眼となっていて、事の創造生成はないがしろにされている感があります。

これからここでは、天の御中主の神を生んで喜びを分かち合おうとするのに、仏教式の寂滅を主にするのはふさわしくないようです。

古事記は生む喜びを得るのが主体ですのでその方向から扱ってみます。天の御中主の神は初めの初めの神さんで、その始まりに挑戦しようというものです。

・ 天の御中主の神。言霊ウ。

始まってしまえば現象となりますが、出来た現象を始めるものがあります。現象を成り立たせる先天構造があります。

先天の構造があっても人の意志意図がなければことは起きませんが、意志があっても働きかけの実践が有効でなければ、何も起きません。

ここにある意志意図と現象をおこす先天の構造と働きかけの全体があって事が起きますが、その事の起きる前の全体を含んだ実体を天の御中主の神と名付けました。

「 天の」は先天の、まずある心の宇宙の、ということで、「御中主」はその心の宇宙の現す意識の中心にあって、自身が活動のおおもととなる、「神」はそういう実体ということで、世界宇宙とそれを意識する主体となる働きかけの主人公本人としての実体、となります。

このようなわたしという意識体が、自分のことを指して言う場合はどうなるかです。ことの初めですが始まってしまった初めではなく、始まろうとしている初めです。

その初めは始まろうと言う意識があるが、始まってしまった相手を意識する処まで言っていません。これから行こうとするところで、どのような実践行為になるか選択は決定されていません。このようなとき、自らを名付けるとなんと言うかというのが問題です。

天の御中主の神というかたちで始まりの姿を説明しても、その初めの姿を言語を使用する自覚体である人間はなんと言えば良いのかです。これは世界の人々が端緒の姿をとるときに単一の言葉があるという発見が元となっています。

現代のバラバラな世界の言語状況からは不可能な疑問に見えますが、それをなし遂げてしまったのが古代大和でした。宣伝文句みたいなことばかり言わないでやってみましょう。

とは言うものの非常に難しい追体験です。実際には不可能です。と、早くも白旗をあげておきます。本来なら日本語の言葉の要素五十に対して一つ一つ、言葉の自覚の形をあげるべきです。

わたしたちに残されているのは古事記の神の名を借りた、意識の自覚体の暗示呪示です。意識が初めの端緒にあるとき、その端緒の自覚体を神名では天の御中主の神といいますが、発音発語でなんと言うかは自分でやってみないと分かりません。

自分の心の宇宙の最初の姿をとって自分が中心となって、世界に対する主人公であるときの発語は何になるかです。

現在この日本に古事記が与えられていると同時に、古事記の冒頭の神五十神をあいうえおの言葉の要素に対応させたものがあります。公開はされていませんが皇室の賢処に保管されています。写しが民間に流出していますが、了解できる人がほんの少数ですので、誰も知らないのと同じ状況です。皇室にいる保管者も何の関心も示していないようです。

わたしたちのここでやっていることは、単に対応しているといって神名と言葉を写しているだけですから、何の意味も持ちません。私の今までの態度も写すだけのことでした。天の御中主の神は言霊ウだというだけで、あっちにあった記述をこっちに移動しただけです。

12-4。天の御中主の神とは言霊ウ。

人の意識を天の御中主の神の中に見るとき、何をさして人というのでしょうか。

この切りとり方受けいれ方によって、喧々諤々になり締まりが付かないことがおきますが、喧々諤々も知識概念次元での話ですので、人を知識概念記憶を持つ者としたときのことになります。

それに対しては、人は欲望をもって始まるや、感情情緒畏敬を根源とするとか、実践行為の選択こそが人と言えるものとなる、とかがあるでしょう。要するに何を指して、何を以て人とするかの出だしが曖昧です。

古事記のいうところは、そのように何かをもって始めるのではなく

「 天地の初発(はじめ)の時、高天原に成りませる神の名(みな)は、天(あめ)の御中主(みなかぬし)の神。」 その言霊をウという。

ですから、

あ(吾、わたし)の目(芽、め)が付こうとするとき、高天原という意識領域に出来てくる何ものかから始めます。その時の目(意識)が欲望であるか、概念知識であるか、感情であるかは人それぞれですから、それらの全てを含みます。何かを以て始まるというのではなく、あめつち、アの目が付いて地に成る時、成り出てくると言う始まり方です。

問題は「天地・あめつち」の「あめ(天)・アの目(メ)」で、それがツーと相手対象に付くことですが、アメツチの初めの時ですから、ツーと相手に付いてしまう以前にあるアの目です。それを天の御中主の神、言霊ウと言っているわけです。では、何時まで初発(はじめ)にこだわっているのかというと、始めしかないから始めのことしか語ることができない、終わりまで始めを語り通す、という始めを語ることになります。

このことはよく言われるような、終わりが始めとなってまた始まる、という円環のことではなく、始めの連続しかないので終わりはないといってもいいものです。終わりというのは始まりを実体として切り取ったスナップショットになったものですから、どの始めでもスナップ写真にしてしまえばそこで終わりという姿が現れます。

ぐるっと廻って始めに戻るには、始めがあって、途中経過があって、起承転結なり生々流転なり、輪廻カルマ、ゆく河の流れは絶えずして、諸行無常、色即是空空即是色みたいになって、なにか寂しい隠滅に向かう様子が見られます。古事記のように終わり(三貴子)に、どこにも歓喜を現すものが見えません。

確かに生物の一生と取ればそのように見えます。一方、少年老い易く学なり難しや、一寸の光陰軽んずべからずや、散る花を見る等の心境になるには、終わりに近づかないとなれないと言うように切り取られたスナップ写真にはそれぞれの場所での、言い回しがあります。

そうすると、このブログでも百神を一巡すると言っていますが、本当はどの時点においても天の御中主の神しかいません。後の神々はそれぞれのスナップ写真です。どの場所のスナップ写真でも、天の御中主の神ですが、名前が違うのはその場その時の神であり、次になるための神であるからです。わたしは何処でもわたしですが、赤ん坊であったり青年であったり中年になり老人になれるようなものです。

ということは、ここにいつでも、スナップ写真に成れる、スナップショットに成る構造があるわけです。これが神道で言われている造化三神です。

造化三神は国土造成の特別な神でもなんでもなく、光と光の変化欠如による影を創る、始めと始めの変化によって差異になる終わりを創る、心の構造を指したものです。哲学風に言えば時間、空間論の原理、存在論の原理です。

前に、天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊(あめゆづるひ、あめのさぎり、くにゆづるつき、くにのさぎりのみこと)という長たらしい名前の神さんを出しましたが、この仮名で読む部分の「ゆずる」に注目してください。神名全体は陰陽作用反作用主体客体能動受動をまとめて表現したものです。ここでの「ゆずる」は「揺する揺すられる」の象徴暗示で、ことの成り出る始めの胎動をいったものです。

意識の始まり以前に意識に登ってくるものをよく表解しているでしょう。これがアの目の始めとなって、高天原という意識場に成ると、天の御中主の神という自分の意識の主人公である自分という意識も開けてくるのです。自分とか自我とかを最初からあるものとして扱うことが多いですが、実はその一歩手前があります。(ここはおのごろ島の段落で述べられます。)

また日月(ヒフミ、ひつく) 神示や竹内文書でいう御中主の神以前にも在ったものという実体として神がいますが、それをスナップ写真を固定するのではなく、あ(吾)の意識が御中主の神の先天性に向いたときに出てくるものです。古事記の冒頭のようにあめつち(吾の目が付いて地になる)の初発の時といっておけば足りることです。

ちなみに日月神示の表現では以下のようになり、

「ひふみの火水とは結ぞ、中心の神、表面に世に満つことぞ、ひらき睦び、中心に火集ひ、ひらく水。神の名二つ、カミと神世に出づ。」

中華式では、一、二を生じ、二、三を生ず、三は万物を生ずる、となっています。

ですので当初の吾(あ)の目が付いて地に成る時には、自分の吾(あ)の目という全体があります。こうだああだとあるものとして自分を表出して当然のよう見えますが、その大事な過程の前段が隠れているのです。その隠れた処を見ないままに自分だわたしだと言っているわけです。

閃きから言葉として出てくるまでの時間は0,1秒に満たない短時間ですから、通常は気づきません。そこを得ようと禅でも今の自分の本当の姿を求めて、我を忘れて今に成りきろうとしていきます。心の我を切り取って真の心の出てくる処、今今今、に到達しようとしています。

12-5。天の御中主の神とは言霊ウ。

では、始めの連続はどのようにフトマニ言霊学=古事記の冒頭では保証されていくのでしょうか。

スナップ写真として取ってしまえばそこで断絶がおきますが、そのまま続けるのはどうなっているのでしょうか。

これは始めの神である天の御中主の神が続いて、(2) 高御産巣日(たかみむすび)の神、次に、(3) 神産巣日(かみむすび)の神へとなっていく構造はどうなっているかというものでもあります。また、あ・め・の・み・な・か・・・・とどうして続くのかということにもなります。

あるいは、一万年の人間の歴史や137億光年の宇宙の歴史として、何故意識していけるかということでもあります。

簡単に言えば、記憶に残るからです。

前段の始めが記憶として残り、終わりの形を創ります。このまま仕舞い込まれれば終わりですが、今の問題は、あ・め・の・み・・・・という連続はどうしてかということです。あ・め・・・・でも、神名でも、歴史でも、宇宙でも、このブログでも、読むことでも、連続していく場合にはその意識は同じ構造をもっています。前段の記憶が次段の元となってつながっていきます。

大雑把に追ってみましょう。

一つの単語でも文章でも発音したり読んだりするには時間はかかりませんが、いずれも文頭語頭は既に過去になっており、それでも全体として一つであることが了解できます。記憶があるからだというのは分かりますが、語と語が何故意味あるものとして繋がっているのか分かりません。記憶があって繋がっているだけでは、分かるようで分からない回答です。

文章を書く場合などにはよく書き直されたり、破棄されたり、主張や意見が自分でも反対になったり、途中で止まって出てこなかったり迷い込んだりします。早い話目茶苦茶で、こうなるものがああなったというような文章を、わたしも多く書きます。

どちらかというとこれらの場合には記憶が足りないというより、次の場面のことが全段階の記憶を押し退けて自分を主張して、書き始めの意見が途中で別の方向へさまよったり、新しい牽引車になったりしています。これらの方向転換短絡無視等が何故平気で起きてしまうのでしょうか。同じ主題を扱っていながら、途中からぶっ飛ぶこともあります。

これでも始めの連続しかなく、 終わりが記憶を通して始めとなってまた始まる、という円環を創っているのでしょうか。

前もって記憶が出てくる形を探っておくと、既にある手持ちの記憶が自分を主張している場合には、全て同じことでしょう。途中から新しい意見がでてきたように感じて、文章の方向が転換しても忘れていた手持ちの記憶が入れ代わりを主張しているだけなら、新しいことを考え創造したのではありません。在った記憶の再出現です。

ここにある記憶が在った、記憶が在るというものが続いてでてくる場合と、一方、語や単語が繋がり新しい言葉となるときには、そこに在る記憶が出てくるのではなく、記憶に成って行くものが出てきます。「記憶に在る」と「記憶に成る」との違いがあるように思えます。

普通は一応自分の考えを書いているつもりで、そのため何かの異論や反対に遭うと自己否定感を伴うことがあります。感情を害され、自己所有が侵害されたようにも感じます。ところが実際には、過去概念記憶の再構築に過ぎませんから、自分で新たに創造したものなのはないのです。このように真似をしただけのものでも、自分が考えたものだ自分のものだという思いとの乖離が普通に発生してしまう構造がどこかにあります。

まず、語頭あるいは文頭の一語が発音され聞かれ確認されて記憶されました。そして次です。次も発音されてしまえばもう繋がったものです。しかし、その間があります。ここを突いてみたい。繋がった現象が起こる以前に現象としてこうだと言う以前の姿です。

何故そんなことをするのかといえば、本当に自分で考えているのかみるためです。出来合いの記憶概念の再構築でないものを得たいからです。しかし注意しなければならないのは、自分の考えといっても、使用する言葉は一万年も前の大和言葉からきた日本語を使わざるを得ません。新しい現代的な単語があったとしても構文が一万年も前のものに依存していますから、はたした自分の考えとはどこまでのものかは分からないでしょう。

何処までが自分の考えた物か分からないけれど、各人はそれぞれ自分の考えだと主張できます。これも共通したことで別に新しいことを考えた物ではないが、自分の頭に到来して自分が喋ったというだけで自分のものとなっていく、何らかの構造がやはりどこかにあるでしょう。

何か文例を提出してみたいのですが、ということで、これをそのまま使ってみましょうか。

今、「何か文例を提出してみたい」と書き、そのまま使うと書きました。この文章には主語がありません。主語が無ければ文章じゃないという外国語からすればバッテンですが、この日本語には主語がありませんが、充分に通用しています。

日本語には主語が有りませんが別に必要とせずに通しています。自分にとっては書いているわたしは明白ですし、読者にはわたしが書いていることが明白です。主語を必要としないと見えない外国人にはそうはいきません。

何故主語が無くても通じるかといえば(あるいは何故通じなく疑問が出るかと言えば)、わたしと(吾・あ)とあなた方(我・わ)が同じ土俵に載っているからです。ここは言葉の連続の問題ですから前の言葉と後の言葉が同じ土俵にあるということです。

文例では「何か文例を提出して見たい」の文頭「何か」とその後が同じ土俵上にあるということです。結果としてはこれが表現される文になりますが、「何か」と表現された後の言葉は未明ですから同じ土俵に上がることは出来ません。単語で扱えばこうなりますが、単語の要素からみても同じです。「何か」は「な・に・か」で「な」と言ったときには「・に・か」はまだ未明です。

これが何でもなく普通に話せるには、何か別のことが必要になります。それを一応記憶であるとしていましたが、記憶があったところで、次の語なり単語なりが出てきて繋がる保証があるわけではありません。つまり記憶という土俵上で次のものを繋げる糊が必要となります。

これは人の意識内のことですから、糊は比喩で、糊のように接着力を持つものとは、人の意志意図が相手対象に向かうということになるでしょう。ここでまた思い出してください。あめつちのアの目が付いていくことになるでしょう。

アの目は原初の全体的なものですから、「な・に・か」、あるいは、「何か・文例を」の語頭の次が記憶の最初に発音された「名」「何か」という土俵に乗ったことになります。しかし、それは「に」「文例を」として乗ったのではありません。接続したかしないかはまだ確認されていないからです。「に」と発音されるものかどうかも決まっていないのです。単に次の全体が乗ったというだけです。

次の全体というのは宇宙世界全体のことです。結果から言えば「に」が発音されるのですが、そんなことはまだ分かっていないのですから、そこにあるものとは、その人の宇宙全体です。もしそうでなければ、とんでもない方向へ間違うこともできないわけです。「な」の次は「に」と限ったことではないのですから、次に出てくるものは宇宙世界全体の中のどれか一つということですから。

そこで頭脳内では記憶の土俵に載っている「な」と次にくるものの、時空次元が同一でしかも連絡の付くものが探されます。連絡が付いても前後の調和が必要ですので曖昧さの無い次が求められています。

そこで調和するものが見つかってもそこで終わるのかまだ続くのかをはっきりさせなくてはなりません。つまり三番目が必要かどうかが判断されます。その判断というのは、「な・に」と二つくっついたものが、明らかにいいたい意図意志に合致しているかが検討されるということです。

こうして全てにゴーサインが出れば頭脳は「な」の次に「に」を選択して取り入れ「なに」を形成して記憶の土壌に新たな形となった「なに」をおきます。そしてまた一からやり直していき「何か」という単語が創られます。

それを単語単位でいえば、「何か」「文例を」「提出して」「みたい」のそれぞれが、共通の世界宇宙の土俵の上で、関連、連続性をみられ、時処位の同一が求められ、調和が確認され、さらなる次の準備が必要か検討され、当初の意図に明らかに合致するものが、選択されていくというわけです。

ですので頭脳内では超超高速で一つの言葉の要素と宇宙全世界が繰り返し繰り返し混ぜ合わされていくことになります。

以上の事を一応、始めの連続、としておきましょう。

次はこの始めの連続の範囲内で、天の御中主の神が続いて、(2) 高御産巣日(たかみむすび)の神、次に、(3) 神産巣日(かみむすび)の神へとなっていく構造をみたいと思います。

さらに、言霊ウとなることについても、探りたいと思います。

12-6。天の御中主の神とは言霊ウ。

前回は単語、文章次元での連続をみました。

今回は、(1)天の御中主の神が続いて、(2) 高御産巣日(たかみむすび)の神、次に、(3) 神産巣日(かみむすび)の神へとなっていく構造です。

古事記には独神(ひとりがみ)とありますから、神の連続を語るには抵抗があるかもしれません。もともと神は何らかの実体という意味合いを持ちますから、続いていると見るのはおかしいといえるかもしれません。八百万とも言われ一つ一つ個々別々じゃないのかといわれそうです。しかしわたしは小学生、中学生、高校生であり赤子、少年、青年、中年、老人であってもわたしです。

それぞれ個別であるが連続している姿を現すのに、古事記はそれに対して命(みこと)という別名が用意されています。オノゴロ島の段落ですぐ出てきて、伊耶那岐は神と記された後、次の文には命で登場します。

このミコトについては、ひつく神示では上手いこと説明があります。いわく、「口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ。」というものです。これは現象を言ったものですから、ここでは本質内容が捕らえられれば、自然に現象も説明されるでしょうから口心行のことは触れません。

まずミコトと神の違いを見てみましょう。

ミコトは、自らの上位次元へ行為する人、行為行動の内容を表現した言葉で、行為主体の動きを切り取った意味合いが強く、 神は、その行為行動を導き照らす原理原則や法則としての存在となっているものの意が強い。

命である行為主体は意図目的とそれを完遂する力能と一応見渡された対象があって、心によって動きます。一方神である意図目的原則法則は行為する主体側の指針となりますが、自ら働きかけることは無く動くときは命をもって動きます。

神も命も精神的な次元を上下できます。仏教でいえば修業中の菩薩は如来仏陀という行動指針の元に修業を積んでいますが、日常のわたしたちも朝になれば学校へ会社へ行かねばならないという神の掟の元に早起きをしているわけです。自分の精神次元の上昇か勉学か生活費稼ぎかテーマはいろいろですが、同じあ(吾)の目を地につけて自らが成そうとする構造は同じでしょう。

目的に到達するまでの姿はそれぞれ変化していきますが、一貫して原則原理に従っています。では、天の御中主の神という一神が終点に到達した姿は何に成るかといえば、三貴子と呼ばれる、

(48) 天照らす大御神。

(49) 月読(つくよみ)の命。

(50) 建速須佐の男の命。

に成り食べて考えて行動するという人の性能を象徴したものとなります。ですので三貴子としては一体の神ですが、それぞれの役割がある別々の神となっています。

ここまでに到達する途中のも同様に、天の御中主の神の自己変化したそれぞれの時空場面での神となっています。

さて、天の御中主の神を言霊ウとすることに取り掛かります。今までの論理は言霊ウにも当てはまります。言霊ウは五十音図では一つの単音ですが、端緒のウとして全五十音を含んだウでもあります。

次回へ続きます。