②-3 隠岐の三つ子島。知識と智恵。過去と未来

隠岐の三つ子島。

次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、

葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、

宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神(言霊ヲ)。次に

天の常立(とこたち)の神(言霊オ)。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。

次に成りませる神の名は、

国の常立(とこたち)の神(言霊エ)。次に

豊雲野(とよくも)の神(言霊ヱ)。この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。

-----

瞬時における今現在の在り方(吾の眼を付けて智となす)は、まず天の御中主で表徴される、現にあってそれが混沌一体となってただ有るという存続している在り方があります(ウ)。次いで、その全体が自分に有るという意識を得ると同時に、自己の息吹の開花したものという主体側の思いと(アの高御産巣日)、それの存続の対象化されている相手客体側(ワの神産巣日)の面前にいるという二者に分かれます。

二者に分かれたそれぞれは現に存続しているというその時間性を与えられ、今いる現在を軸として、過去から今へ、と今から未来へ、という二方面が出てきます。アワの時点で主客の二面性が与えられているのでそれを受け継ぎ、ここでも(過去-今・今-未来)それぞれ二面性を現わします。

過去が今に結び付く宇摩志阿斯訶備比古遅の神言霊ヲ、知識概念の主体能動側として出てくる。

過去に今を結び付ける天の常立(とこたち)の神言霊オ、知識概念の客体受動側として出てくる。

今を未来に結び付ける国の常立(とこたち)の神言霊エ、選択按配の主体能動側として出てくる。

未来が今に結び付く豊雲野(とよくも)の神言霊ヱ、選択案配の客体受動側として出てくる。

この四者に剖判します。すると新たにここに、瞬時における全体の同時存在と存続の四者が加わり、言霊で言うと、ウアワヲオエヱが出てきます。

隠岐の三つ子島

初めの時高天原に隠れていた吾の眼が付きました。するとミナカヌシが成り、御中主の実の中に隠れているのがあらわれ主客(タカムスビ、カミムスビ)になり、蓋を開けて中を見るとやはり、アシカビヒコジ、アマ・クニのトコタチ、トヨクモの四神が隠れていました。というのもこの項目の意識の領域は、隠岐の三つ子島と名付けられていて、隠岐とは隠れている意識のことだからです。

意識の運用で最も重要な隠れている(隠)気(岐)の領域である三段目になる言霊(三つ子)ということです。ウの今ある世界、オの過去から現在に持ち来たらせた世界、現在を未来に配置する世界です。これで過去現在未来の時の流れの意識が、常に今現在を軸として立ち上がります(中今)。

この隠れた意識運用の三つ子が後に、桃の子三つ、三柱の綿津見、三貴子、三種の神器となっていきます。

ーーーーー

言霊アの働きはオ、エに剖判します。タカミムスビ < アメノトコタチとクニノトコタチ

言霊ワの実体はヲとヱに剖判します。カミムスビ < ウマシアシカビヒコジとトヨクモノ

言霊アは自己の息吹が全開して自分の働きそのものを存続させようとする主体側の動きでした。主体の動きは時の経過の中に置かれますからそこに前後(過去・未来)を見る眼が生まれます。

主体側の過去未来。

天の常立は、吾の眼(アメ)を常にある過去(トコタチ)へ向けます。

国の常立は、吾の眼を組(ク)んで似(ニ)せて常にあるように立たせよう(トコタチ)とします。

客体側の過去未来。

宇摩志阿斯訶備比古遅は、どこまでも過去に繋げられるものへ延びていく知識概念の実体のこと。

豊雲野は、たなびく雲・意識を導いて豊かな道理(トヨ)を用いて組み立て(クモ)、意識領域の規範図(ノ)の選択案配が対象化されたもの。

-----

次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、

これは意識活動の始めの状態を述べています。個別的にも現象をまだ産み出せていません。しかし、一般抽象性としては空虚な了解の仕方の範囲内にいます。

国若くは、意識によって具体的に個別的にこうこうと形をはめられず大体一般性のみ、ということを指し、

浮かべる脂は、概念規定を示す準備が出来ていないこと、

水母なす漂える時には、暗い気(クラゲ)の大まかな有る無しの世界の了解があるだけの時、

葦牙のごと萌えあがるものによりては、過去から、下から、空無から突き上げるように現われてくる、

成りませるは、自分の身に主体的な係わりが無くとも相手側から勝手に知らんうちに、という自身は受動的な立場のうちに得ること、

自我は無い。

ここまでの要点は、自我とか主体とかから見てという観点からは、自我も主体もまずは無いということです。

主客の剖判の無い渾然一体とした始まりがありました。次いでそこに主体側と客体側の二方面へ出て行く蓋を開ける方向がありました。中にはこれから明かされる具体性を個別性を持った意識が秘められています。

まずは過去にあるものが今を目指して突き上げてきます。記憶とか思い出、概念知識等が勝手にでてきます。この範囲は自己の経験や間接的に聞き及んだものや、過去の誰かとの共有するものとか、(霊の世界での肌触りとか)になります。

いずれにしても自分から積極的に係わらなくても向こう側の言いなりという形です。

葦牙(アシカビ、吾止火霊)。

葦牙と書いてアシカビと読ませていますが、意識の次元で読み直すと。

吾止火霊と当て漢字を施せば、吾の意識として静止している歴史上の全過去が明らかに火のごとく、まるで各人の霊のごとく出現してくるもの。つまり、記憶となった概念や知識、また甦ってくる記憶等がその人にまとい付いて何処とも無くまるで自分の物のように沸いて出てくるもの。

葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名。

記憶も知識も概念も自分があたかも得たように喋っていますが、自分で創造したものは何もありません。主体意識とか自我意識とかいうことも元に戻れば、どこにも自分で作ったものは無く全て頂き物です。

萌え騰がるものに関しては人は手の施しようがなく受動的で、本人には知られず本人の意思にはお構いなく、勝手にあらわれてきては居すわります。

従って自分の知情意はおのれの知らないところで形成され、自分というものは全く他人によって作られたものです。そこで主体がそれを受け入れると自我が目覚めます。ここは自分とは他人が先か自我が先かと終りの無い問題となりますが、拠り所となる時系列に立つ位置取り次元が混乱していると、そのまま終わりも見えません。

-----

過去-今全体のなりさま。こころの客観実在の受動側が宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に

過去-今全体のいとなみ。こころの構造、経験、主体能動側が 天の常立(とこたち)の神 。

今-未来へのいとなみ。心の選択実在が国の常立(とこたち)の神 (こころの構造、選択、主体側)。次に

今-未来のなりさま。心の選択実在が豊雲野(とよくも)の神(こころの構造、選択 客体側)。

-----

三つ子で四神

さて、三つ子なのに何故四神かを明かさなくてはなりません。これも前項で述べたように、数字の順位が増えて二から三になることではなく、意識の三番目の領域にある四神のことです。

と同時に四神の各神々は、 宇摩志阿斯訶備比古遅なら、

(一)、御中主の現にあり有り続ける性能から生まれたので言霊ウの世界を隠し持ち

(二)、ウの剖判した神産巣日客体側から生まれたので言霊ワの世界を隠し持ち

(三)、ヒコジ自身は言霊ワそのものとしての世界に生まれてきました

(四)、またヒコジは言霊ワの剖判から生まれていますから、その一半を言霊ヱと共にしています。と言っても剖判と言う言葉に対する一半ということで量的に半々ではなく、それ自体独自でありながら同一時点において共通の接点を持っているということです。

時の流れで今の時点に過去現在未来が重なった接点にあることを思ってもらえればいいと思います。

一本の意識の柱に基底部分で繋がった重層構造です。

主体側の天の常立ち以下も同様です。

-----

主が先か客が先か

次に、主客という言葉が出てくると普通は主体側が初めにきますが、ここでは入れ替わっています。宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神は言霊ヲで受動側、半母音側が先に記載されています。能動側の働きは相手となる実在領域がなければ、働きかけられず、また実在は実在同士の作用反作用の物理力の交流がなければ、働きを示せないからです。

次に天の常立(とこたち)の神(言霊オ)、母音能動側です。実は大雑把に言えば主体などありません、そして大雑把に言えば主体しかありません。

というのも主客の剖判以前が設定されているからです。イマココという意識の中今には一瞬時に過去現在未来への全体が秘められていますが、次元として説き開くと古事記の冒頭のようなことになります。

卵が先か鶏が先かみたいな問題ですが、意識の次元が変われば変わるものです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、

国(くに)稚(わか)く、

国を作った話はまだ出てこないのに国がでてきます。

領土を持った固有の土地ではなく意識内の領域でのことにしてください。隠岐(隠れた気)を探しましょう。

前段で主体の意識の領域が出来ましたからそれを引き継いでいます。前承する言霊循環。

国はクニで、組(ク)んで似(二)せる、区(ク)切って似(二)せるです。主客の剖判の領域が出来ましたから、主体意志の確認をすることとなります。なんだこれはと吾の眼がより現象に近づいていきます。

似せるものはどこにあるかといえば先天の吾の眼、先天の私の意識にあります。しかも影も形もない先天にあります。そんなことは全く不可能にみえます。しかし種に花が備わっているように、性の生殖衝動に子供の誕生が備わっているように、先天の意識構造の中にある国に国を似せ、似せて治め固め創造するのです。

初めは国稚(わか)く、もやもやで、初期の単純幼稚なもので、

浮かべる脂(あぶら)の如くして、揺れ動き安定せず地に着いておらず、と、直訳しても全般的な様子は分かっても意味が通じません。つまりここまででは言霊ウアワしか出てきていませんから、それが示す様子ということになります。一般性は全体を語りますが、さっぱりまるで地に足が着いていません。確定されたものがなく浮遊しているとみられます。そしてそのことは、

水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、水母・クラゲ(暗気)のように、似せたといっても安定した構成体ではないままの動きをしているので、そのような時ということです。ここは前段階までの言霊の性質を語ったものでもあります。例えば欲望の言霊ウならば、欲望があるといっても具体的でなく、腹が減って何か喰いたいといっても何々を食べたいという具体性が無いままで、喰いたい食いたいというようなものです。しかし、

葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、勝手に出てきては繁殖する葦のように、その増殖力によって出てくるものがあります。ここの意味は、ウアワは五感欲望感覚や情緒感情と繋がっているので、それを接点として(あるいは引きずって)その上に載って出てくるものがあります。

04 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の読みに注意してください。前神からでてきたことを示すヒントが読みにあります。ウマシ(ウ間止)とアシ(ア止)カビのヒコジ(霊の子の地)と読め、言霊ウの止まった世界と言霊アの止まった世界を明らかな霊として生まれるその霊の子の地となり、造化三神による出来上がった世界から生まれる意になっています。

ここは人の主体意識に因らないまま主体側に与えられる何かが有ることを指しています。つまり主体は受動側にあることを示しています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に

天の常立(とこたち)の神。

この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。

宇摩志(ウマシ)

ウマシは、言霊ウ間止・死で、ウの言霊世界の動きの間が止まったもの、ウはあってあり続けるものなのに、剖判して意識の相手対象が了解されるようになると、ここまでの次元では対象は止まったままになっています。ウは欲望世界を示すようになりますが、欲望が出てあるということはそれが留まってあるということになります。欲望とあってあり続けるだけですから、止まった後には欲望から発した世界の思い出の萌芽の片々記憶がわずかに残ります。欲望は止まり死に欲望の記憶となりました。

阿斯(アシ)

アシは、言霊ア止・死、ウマシ同様、アの言霊世界が止まったままになり、アは全体を鳥瞰したものの内容を明らかにするのに視点が固定してしまう。アの鳥瞰する視点は留まり死にアの記憶となりました。

訶備(カビ)

ウ次元ア次元の動きが無くなり記憶として意識の中に新しい領域が生まれました。カビは、明らかな(カ)霊(ヒ)、ウ・アの止まったままの世界を 明らかな内容としてしまうの意で、今度は記憶として出てきてしまうことです。

比古遅(ヒコジ)

ヒコジは、霊子地。止まったままの世界から出てくるもの(記憶)を明らかな霊の内容(ヒ)として、それで現象(コ)を産むことのできる下地(ジ)。つまり記憶と記憶から出てくるもので、そのものとして納得してしまう世界で、出てきてもそこに留まるのを 本分として過去の記憶同士の連結を目指してしまい、未来への創造の働きがないことになります。言霊ヲとなります。

ウマシ・アシカビ・ヒコジと繋げ手、一つの言葉としますと更に意が加わります。

ウマシアシカビヒコジ以前の世界には原理構造的にウとアの言霊世界しかないため、記憶の出所は言霊ウとアの世界からしかありません。つまり、記憶には欲望と感情がまといついていて、スナップ写真のように切り取られ動きの止められた姿を生み出す下地となります。単なる記憶でしかないのに、感情情緒に囲まれてしまっているので、記憶に疑問や否定されますとその記憶の持ち主までもが否定されたかのような思いが萌えでてきます。

それが葦の芽が萌えあがるように出てくる継ぎはぎだらけの記憶ということになります。

止められた動きに意識が対応するには、

一、それに結びつき実となって結実する客体側の実体、と (宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ))、

二、それを探す主体側の動き、(天の常立(とこたち))があります。

天の常立(とこたち)

吾の眼(私の意識)の、有(ア)るものに対する意識の眼(メ)を常に維持成立させることといった意味です。吾の眼を常に成立させるにはその要素材料が要ります。アシカビヒコジです。有るもの有ったものに結びつき、記憶の断片を関連付け整理し、吾の眼の記憶との整合性を調整し、自分の主張の常立ちを形成します。過去の事柄を現有させる力能。

この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。

この二柱の神も先天の意識性能です。

-----

次に成りませる神の名は、

国の常立(とこたち)の神。次に

豊雲野(とよくも)の神。

この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。

国の常立(とこたち)

国は組(ク)んで似(二)せるという、これから動き働き創造する主体側の力能が常に立ち上がっているという意。今の現有している事柄を選んで配分し未来に付け置き直す力能。意識によって組んで似せられた領域をクニ(国)といい、人は消極的積極的、大小の違いはあっても常に自己領域というものを確保しようとしています。領地とされた国単位の次元では、動物同様の小便や匂いによるマーキングが武力の強弱の形であらわています。

選択された吾の眼を地に付ける場合には、感情情緒もひっくるめて混ぜられていきます。領地の取り合いは動物の小便かけと変わりませんが、意識的になり知的になると愛国心にまで飛んで行きます。

豊雲野(とよくも)

ここまでの四神は、創造意識の働きの過去から今(言霊ヲオのウマシアシカビヒコジ、アメノトコタチ)、今から未来(クニノトコタチ、トヨクモノ)へ繋ぐという最も重要な心の部分を占めています。

言霊ヱの指月の指に採用された豊雲野(とよくも)の神なる神名は豊(十四〈とよ〉)を雲(組〈く〉む)野(領域・分野)の神(実体)といった意味であります。十四を組む分野の実体と言いましても意味は分かりません。説明を要します。

今までの心の先天構造を構成する言霊として現出したものは言霊ウアワオヲエヱであります。これ等の言霊の中で主体側に属するものは(ウ)アオエであり、客体側に属するものは(ウ)ワヲヱとなります。言霊ウは一者であり、主体でも客体でもないもの、或いは主体ともなり、客体ともなるものです。この様に分別しますと、まだ出て来てはいませんが、言霊イとヰも同様に区別されます。すると主体側として母音ウアオエイ、客体側として半母音ウワヲヱヰの各五個が挙げられます。主体であるアと客体であるワが感応同交して現象子音を生むということは既に説明しました。更にまだ現れてはいませんが、この次の説明として出て来ます主と客を結ぶ人間の心のリズムである八つの父韻というものがあるのですが、豊雲野の神の「雲」が示す「組む」という働きが実際には主体である母音と客体である半母音を結び組むことを意味しているという事、また母音五、半母音五の中で、半母音五を言霊ワの一音で代表させますと母音と半母音は六、それを結び組む八つの父韻八、六と八で合計十四となります。まだ説明していない言霊の要素を先取りしてお話申上げておりますので、読者にはよくお分りにならないかも知れません。これについては言霊エ・ヱの次に出て来ます言霊父韻と言霊イ・ヰの項で詳しく説明させて頂きますが、「豊」の字の示す十四とは、右に示しました母音五、半母音一、それに八父韻合計十四数のことなのであります。これを先天構造の言霊数十七の中の基本数を表わす数としています。人間の実践智の性能とは結局はこの十四の言霊をどの様に組むか、の性能の事なのであります。これは言霊学の基本となる法則であり、豊の字は日本国の古代名である豊葦原水穂国にも使われております。

国の常立の神・言霊エが人間の物事を創造して行く実践的・主体的行為の働きであるのに対し、豊雲野の神・言霊ヱは実践的智恵によって創造された各種の道徳並びにその規範に当ると言うことが出来ます。

かくして、意識の飛び出す扉(ト)の四(ヨ)つが立つ意識原野が組み立て(組む野)られました。

日本書紀にトヨクモノの別名が多くありますが、トヨとカフが共通しています。これを読み込むと、

トヨ、は十四で、十と四 (父韻と母音)

カフ、はカウで、交ウ、まじわる。

十と四とが組み合わされ(クモ)、交わるとなって、記紀とも同じことを指しています。組まれまじ合うところにあるのが、五十音図の元で、書紀には別名として、ハコク二、というのがあって、五十音図の四角形内で組むという名前になっています。

次いで、隠れているキ(隠岐)が指摘される順番となります。

-----