05章 心の一つ柱を立てる

人間とは何か、その全て

ありさま、いきさま、なりさま(在ること、いること、なすこと)

イザナギ、イザナミ

イザ(去来・こころ)・ナギ(名の気)、ナミ(名の実)

アメツチのツ ・ つなぐ気と実

一つ柱は八本

イザナギの三態

人間とは何か、その全て

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【伊耶那岐(いざなぎ)の神。次に 妹伊耶那美(み)の神。 】

言霊イ。言霊㐄。

人間とは何かを問えばその答えは無限の無数の多様性となって返ってきます。既に多くの名言がありますが、他の名言に犯されないようにする領域を固める頑なさがあります。どれもこれも現象の眼、経験知識の眼で答えるからです。

どうせならそれらを一くるめにまとめて、気の効いた事を言えばいいのですが、十万年の人間歴史を一言で言えというようなものです。

言霊学では何と答えるでしょうか。

本章、心の一つ柱を立てる、の原文、

【伊耶那岐(いざなぎ)の神。次に 妹伊耶那美(み)の神。 】

を人間とは何かの答えとしてそのまま用いるのもいいし、

「吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となすイザナギからイザナミまで」

とするのもいいでしょう。

他の定義のように他人を気にしていじける事も無くそれだけで全世界と全人間界を現しているからです。

でも全然分かり易くなく説明も必要というのが欠点です。言霊学は何時になったら親しみ易くなるのでしょうか。でももともとスメラミコトの為のものですから、多少は分かりづらい方がいいのかもしれませんね。それでも実用的にもっと普及してほしいものです。

という事で、島田正路氏の定義を紹介しておきましょう。

「人間とは何ですか?と訊かれた時にタカマハラナヤサと答えればいい、それは宇宙生命、ただこの一つの宇宙が永遠に根ざしている高天原」

さて人間とは何かという質問が最初に出てこないでやっと今頃でてきました。

つまり疑問の出せる事情が揃ったということです。それ以前には好き勝手な現象を取り上げて、粋な言い回しを作って名言となっていました。言霊学は心の原理次元の話ですから、非常に抽象的ですが、取りこぼすところがありません。抽象的であるために全体が理解しやすいこともあります。

いずれにしても、 伊耶那岐(いざなぎ)の神、妹伊耶那美(み)の神がでてきて初めて人間とは何かの問いが可能となります。今まで出てきたのはは先天のウアワヲオエヱ とイ㐄の実体内容であるチイキミシリヒニで、 その代表取りまとめ役のイ㐄がここで初めて出てきたところです。全部で十七の言霊です。そのうち半母音の言霊をまとめてワでくくると十四で、それをトヨ(豊)に秘めました。

なんでもかんでも人間の成すことはこの十四(豊)の組み合わせ(組む野)で現れます。そこには善いも悪いも無く、言霊イの創造意志が「イザ」と腰を挙げると事がなるというだけのものです。鐘の音がゴーンと鳴っているのではなく、無音の音波が耳に感応同交を起こして、イザナギが「イザ」と腰を挙げたとき、勝どきの鐘に聞こえたとか、第五交響曲に聞こえるとか、もろくもはかなくも崩れ去るように聞こえるとか等々となるのです。

ところが今あげた例は鐘の音が聞こえてしまってその音の聞き方聞こえ方であって、鐘が聞こえる瞬間の姿を現していません。音波が伝わり、鼓膜を打って感応を起こしますが、身体生理の物理的な作用反作用が起きたとしてもそこで必ず音を聞くとはなりません。作用反作用の身体現象が変換されて持続していくだけです。

変換された身体現象はそれだけでは音ではありません。それは力のある限り持続変転していきます。最初の木の棒と青銅の金属製品が打ち合ったものが、空気の濃淡の震動を作って、鼓膜を打ちにきました。鼓膜の物理震動と神経組織を動かして科学物質の分泌や電気信号を発して脳へ到達しますが、木の棒の運動が伝達されてきただけです。

一連の経過を音として聞くことが必要なのに、このままではいつまで経っても物理作用の持続でしかありません。

音として聞くには出された音が音として打ち出されたことを了解しなければなりません。また鼓膜に到達した音波は音として聞かれなくてはなりません。脳内への伝達も同様です。

ここに人間としての特別な世界があります。音が打ち出される以前にも、打ち出される音波を音として聞こうとする世界です。音が在ろうと無かろうと音を聞く、聞きたい、聞くぞという音の創造世界を開示していく姿があります。

それは同時に、音波が鼓膜に到達したとき、音を聞いた、音を聞いている、聞くのだという、自身を聞く行為へと方向づける創造意志行為が存在しています。これらの創造世界を開示していく在り方は、音波の有る無しに係わらず常に人の性能の中に秘められています。そしてこれが働かなければ、音波を音として聴くことができないのです。

ここで言う、創造意志の世界が言霊イ㐄で、現象としてはそのものが現れることはないが、それなくしては現象も生まれないというものです。

ですので人間とは何かはこの言霊イ㐄の宇宙世界ということになります。タカマハラナヤサもアメツチもイザナギイザナミも、言霊イ㐄の捉え方時点の相違で、同じことを言っています。幾多の名言のように現象の話はしていないということです。

ありさま、いきさま、なりさま(在ること、いること、なすこと)

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まるでありもしないことを在るように話しているようです。そんなことは私の書き方が悪いのであって、読んで自証し理解するのに何の差し障りにもならないことを祈っています。

ということでさらに進みます。

自分を方向づける先天の意志行為についてです。創造意志の言霊イ㐄が出てくることで何でもが始まります。物理力の移動による作用反作用の起因する世界が、意識においてもあります。

在るだけの物理世界と違って、意識世界では意志の作用がありますので、意識にあることと、そのあることに働きかけることと、働きかけて出てくる事の世界があります。

それは五十音図表では、母音の有る事の世界、父韻の働きかける世界、その結果出てくる子音現象の世界に分けることができます。そして働きかけることにおいて全ての要素が現れます。働きかける大本がイザナギ・イザナミで、働きかけ方がタカマハラナヤサで、それによって吾の眼が着いて智になることになります。

これらの要素の大本となって要素を生かしその上に乗って要素を結びつけ、新たな現象を生んでいく起因となっているのが親韻とよばれるイザナギ・イザナミです。

誰もが次のような経験をしていることと思います。夢の中で物に追いかけられることです。あるいは現実に物がせまって見えてくることです。まじまじと見つめることです。物は単なる木偶の坊であるにも係わらず、強制力を持って自らを承認するようにせまってきます。

芸術家はじっと目を凝らして見つめ物に囚われてしまう経験を意識的に得ようとします。

これらの意味するところがイザナギです。

イザナギは言霊イの心の占有する座の名の気です。その座のアリサマ、イキサマ、ナリサマのそれぞれの現れがイザナミの心の名の実となっています。(イザは去来と書くと 、過去から未来へ行ったり来たりでころころ変わるもの、つまり心という意味であった。)

言霊イ㐄が出て、先天構造が全部そろいました。

自然の元素の世界も数が限られていますが、人間意識の元素も、母音半母音のウアワヲオエヱ、父韻のチイキミシリヒニ、親韻のイ㐄で、たったの十七です。

この先天元素の組み合わせで人間の意識の現象ができていきますが、働きかけられる元となる母音の数と父韻の数が限られています。その限られた母音に父韻が働きかけるわけで、結局単位要素となるのは8×4の三十二の現象子音となって現れます。

世界の言語、日本語にもさらなる母音子音があるではないかということですが、自然界の無数の現象も元を辿れば百いくつかの元素です。無数の意識の現れも元をただせば十七の先天母音父韻と三十二の子音だけです。

世界に散らばる現象となった音韻の違いを勘定しているのではありません。

意識の芽の要素、つまり瞬間のイマココの元素構造の数を取り上げています。イマココはイマココの瞬間にしかなく、その分析した要素に在り方である母音のウアオエ、働き方である父韻のチイキミシリヒニ、父母の両者の根源世界の支柱を支えているイ㐄があって、それらの働き(古事記ではマグアイという)で三十二の子音要素しかできてこないのです。

くどい繰り返しになります。つまりこうして人間は十七の先天に動かされ、三十二の現象要素を手にして、世界に向かうのです。猫が猫じゃらしに反応するように、人間もその多様性を中に入って覗いてみれば、随分とすっきりしたものです。

( しかし、人はこうして多様性と多様性の優劣闘争競争を起こしていますから、呑気なことは言って居られません。鶴の一声でこの闘争社会を終わらせる絶対権威を持つことが言霊学の使命です。それには全世界の宗教や哲学の依って立つ基盤の種明かしが遂行されなければなりません。

その太古の時、スメラミコトが釈迦やモーゼ、キリスト、孔子らに教えた教え、現在までの意識を形成させ依託してあった事を説明し、転換の方法を与えなくてはなりません。)

イザナギ、イザナミ

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イ・ザ・ナ・ギ の根本理解を目指したいところです。

根源世界の支柱となっている言霊イのイザナギが、ある世界働く世界成る世界の統轄者であるというだけなら何にも面白いところはありません。自分は居て働いて何かを創るというだけのことです。

居て働いて何かを創る、その生存を意識させるものが必要です。イザナギ自身は創造意志の世界を領有していますが、その発展展開する姿を得る他に、イザナギ自身の展開の原理が必要でしょう。

それが意識的な歓喜の獲得です。

あなたはいい男(女)だね、相手を見て自己を立てることから始まります。

イザナギは歓喜を得るために自己を展開して、欲望世界では充足を求め、知識世界では知る楽しみを求め、選択世界では得る喜びに浸ること、感情世界では所属させる所有感を得ようとしていきます。

それらはイザナギによる自覚的には歓喜の追及となり、無自覚的には与えられる喜びとなります。

このイザナギの原動力たるいい男(女)だね、という一言がなければ事は動きません。

では突然やってくる不幸や不利に対応するときに、どこにいい男(女)だねがあるのかといえば、私達が話しているのはイマココの瞬間の事で、現象となった世界ではないことを思いだしてもらいたいと思います。

現象としてのプラスマイナスや善し悪しの判断に至る以前の事の瞬間を反省してもらえれば、いい男(女)だねと言うことさえ消えてしまうような、何らかの依頼を受け取らざるを得ない意識の存在があります。ですのでこれをどうしても受け取り自己の物とするのに、各次元での確認をしていくと歓喜の受け取り表出となってそのイマココを成り立たせていきます。

歓喜という言葉使いが大げさで理解しずらいかもしれません。しかし、一瞬の心を説明している百神の名前の中にも、自らの不安や疑問を示す名前があります。父韻ではオモダルの顔に満ち満ちてにっこりするとか、アヤカシコネの怪しくも賢し音を得るとか、闇の戸を開けるとか、大いに惑うとかの名前があり、心の歓喜を得るに至るそれぞれの段階に現れてくる自分自身を説明してくれています。

そして最後に子音を得ることは、輝きを得ることで表現されてもいます。

動物の顔つきを読み取ることはできませんが、食い物に食らいついたりする時には一瞬放心したような満足感を表すようにもみえます。また金魚や鳥などが餌を瞬間に選り分けますが、食えないものを吐き出す時など、これは食えないと確認了解しているようにもみえます。

これは動物を介して人がそのように解釈させられているのでしょうが、と同時に人にはそのように解釈する動因があるということになります。その起因し目指すところは、自己安全を保全し自分の確認了解判断が正当であることに満足することになるでしょう。

人は意識が発達してしまい意識に頼って選別するようになってしまったので、子供などは瞬時に危険があることや食べられないことなどを判定する能力がありません。

しかし後に意識を用いて意識の届く限りの広大な領域に掛かり合うことができます。

その時にもいつも、確認に伴う自己承認による安心感、およびその所得への喜びが、いい男(女)だねという形で事の原動因となっています。

イザ(去来・こころ)・ナギ(名の気)、ナミ(名の実)

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言霊イのイザナギがうまく説明できればいいのですが、大和の日本語を話す人なら了解できるといっても、この世が相変わらず闘争社会であることを許しているのですから、理解しているなどと言う人がいても大したことがないのは確かなことです。せいぜい凡百のアイデアの中で一等賞をとるというだけでしょう。

それならば国民のことはいつも気にかけていますと、黙って居るのも一つの手です。しかしそんな態度で国や国民を表していても、世界情勢は一向に改善されません。返って世界朝廷のスメラミコトとは関係しないよという態度に見られます。

産業経済界、スポーツ、科学技術、交通通商の世界は既に一つで、それぞれの分野で統轄者や一番になろうと戦いが繰り返されています。

武力戦力によって世界一になったところで、世界を統率することができなくなっているのは、為政者自身が知るところです。そこで危うい均衡をもとに双方とも発展していこうとなります。そんなことなら何の使用法もない軍隊など早いところ廃止すればいいのですが、発展しつつここまで来たものを廃止しきれないというところです。多くの他の分野と変わるところはありません。

そこでは仕方なく国意識を持ちますが、その実そんなことは一番遅れた人間のやることだという感じは既に、共有が拡大しています。現状は変わるのにいつまで経っても、政治が世界の人を結びつけることに邪魔をしています。

政治組織なんていうもの作ってしまったためあるものを維持していかなくてはならないからです。

何故なら廃止した後の方策については何も頭にないからです。

せいぜい神の元で一致しましょう、とぐらいしかいうものがありません。それも何の未来も示せないし、現状に争いがあるから存在理由があるというように、非常な負を背負った存在理由付けです。教義や予言が実現してしまうことに恐怖さえ持っているようにみえます。

しかし、どこにも世界をまとめる思想が無いというのは、間違えで古事記の上巻という人間思想の原理は一万年前から既にあります。それを隠してしまった為に現在までは、理解し使えるスメラミコトがいないだけです。理解のヒントは日本語そのものにあり、日本文化、皇室、神社に秘められています。言霊学そのものも、皇室の賢所に秘蔵されていた書物から流出してきたものです。

現代のスメラミコト達の子孫は敗戦時に古事記を放棄してしまったために、古事記系統のスメラミコトとしては何の関係もなく、また世界朝廷などに関心もありません。古代世界においてスメラミコトの世界行幸・御幸(ぎょうこう・みゆき)のお蔭で世界文化と大和との関連があちこちでみられますが、後の世からするこじつけとか影響されたものとか言う位置づけです。

古きを知って新しきを知っても、新しきを作ることにはならないので、新しきことの創造には新しい規範が必要で、その新しい規範についてはまるで手が出ないというところが現状です。

世界は呻いているというのは誰もが感じているところまで来ています。全世界のうめきと苦しみは数時間で伝わっていますが、なにも打つ手はありません。

個人的にも社会的にも国家的にも国際的にも、何でそんなことをして放って置くのかという事件ばかりです。どの地位の人も階層の人も自分の領域に囚われていて、他との大和(だいわ)には関心がありません。

どの政治組織も、宗教組織も、世界歴史の大和を作ったはずのスメラミコトの子孫達も、フトマニ言霊原理による世界統治に無関心のようです。

これから世界朝廷のスメラミコトを排出しようという大和日本においてもこんな調子です。自己の領域を保持するだけの未来のない思想しかありません。フトマニ言霊学は全部の心の問題、思想問題、宗教問題に解答をもたらせなければならないのですが、あまりにも範囲が広いため共有した原理の元で分業をしなければならないでしょう。

そこで何から始めなくてはならないかとなれば、イザナギとイザナミを共有することから始めようということになります。

アメツチのツ ・ つなぐ気と実

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引用です。

『君が代』

「君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりて苔のむすまで」の原典は、醍醐天皇の延喜五年(905年)紀貫之(きのつらゆき)等に撰上された勅撰和歌集の初めである「古今和歌集」巻七の中の「賀の歌」の巻頭の歌(よみ人知らず)である。

両者の違いは賀の歌が「わが君は……」と始まるのに対し、君が代は「君が代は……」と始まる事で、その他は相違ない。

先ずは言霊学に基づいて歌の意味を解説しよう。

「君が代は」または「わが君は」の君とは何か、伊耶那岐(キ)・伊耶那美(ミ)の岐(キ)美(ミ)である。

言霊イとヰである。岐美二神は人間一切の機能を統轄し、人類全体の文明を創造する。その全能の原理を継承・自覚し、それを政治に活用する責任者が天津日嗣天皇(スメラミコト)である。

「千代に八千代に」とは、数字にこだわれば千年も幾千年も続く、の意永遠という事。言霊布斗麻邇に基づく人類文明創造の経綸の世は永遠に続くという事。

「さざれ石の」、さざれ石とは細かい石のこと。この指すところは世界全国各地に於いて言挙げ、即ち主張される意見・論点・アイディア・学問等のすべてのこと。

創造の生命(言霊イ)が静まっている(言霊シ)。それぞれは小さい主張(さざれ石)からも知れないが、その総量が人類文明創造という大目的の下に統一されるならば、すべての生命は生かされる。

天津日嗣天皇(スメラミコト)のスメラとは統べる、統一するの意であり、何を統一するかと言えば、全世界から主張される言葉、それには個々に生命が籠っている御言(ミコト)である。

「いわおとなりて」の「いわお」は「五十葉(いわほ)」で五十音言霊の意であり、「なりて」とは五十音言霊の原理即ち八咫の鏡に懸けられて文明創造上の時処位を得ることを指している。

「苔のむすまで」の苔とは子気(こけ)即ち子音である現象の気、言い換えると「世界文明創造という現象が産出(むす)されて行く事となるまで」の意である。

総括すると

「言霊イとヰの世界文明創造原理の自覚者である天津日嗣スメラミコトの御代に於ては千代に八千代に次の如き政治が行われるであろう。即ち世界各地に於いて言挙げされる種々の文化が言霊五十音の鏡に懸けられて、各々その処を得しめられ、それぞれに世界人類の文明を創っていくための役目を与えられ、その時処位に応じた文化の花を咲かせて行く。天津日嗣の経綸とはかかるものなのである。」

昭和天皇の昭和21年一月の天皇の神聖放棄の宣言は「君が代」の真意義である言霊原理も、またその象徴器物である、三種の神器の神話をも否定してしまったから、現在の天皇位は名実共に言霊原理とは無関係の地位となった。仏教で謂う末法時代であり「君が代」の真意義とも、天津日嗣スメラミコトの高御座(たかみくら)とも関係がなくなった。今は正しく天皇空位時代である。

政府が「君が代」を国歌なりと法制化しても、またその「君が代」の君を如何に言葉尻を合わせようと苦心しても、喜ぶのは戦前の懐古主義者か右翼の一部の人以外にはいないであろう。

大部分の国民の心は「醒めている」のである。何故なら、日本国民の心の奥底にある何かが「君が代」の歌の真意義と現在の天皇位との間に矛盾と戸惑いを感じているからである。

然しながら、「君が代」制定の意義が全くないわけではない。私達日本人が日常使っている日本語の中に秘められた言霊の原理を謳歌する「君が代」の意義と現天皇位の内容との断層は近い将来、皇室と日本国民との間の認識の中枢に地辷り(ぢすべり)的変動を惹き起こす切っ掛けをもたらす事になるかも知れない。

その大揺れの彼方に日本天皇が新たに日本伝統の天津日嗣天皇(スメラミコト)として立ち上がる日が来る事を期待することができる。

天津日嗣の世界文明創造の経綸とは、三千年以前よりこの事をも視野に入れた言霊原理に基づく遠大にして微密な計画なのである。

以上引用でした。

「君が代」の「君」とは何か、伊耶那岐(キ)・伊耶那美(ミ)の岐(キ)美(ミ)であることを知らずにいるのに深刻な論争や中傷がおきています。

国内においてもこの様ですから、外国人や外国が理解できなくて当然のことです。誤った考え思い込み恣意的な解釈悪意のある方向を取ること等々は、喧嘩相手の論争ネタにすることはありません。

どちらの立場に立つにせよ、どちらもキ・ミが代において自分を立てているのですから、速くその無自覚状態から抜け出せばいいのです。

説得話し合いでは当面の火を鎮火するだけで、火元が常にくすぶっています。

一つ柱は八本

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火元はキ・ミ(君)のイザナギ・イザナミで、自分のことです。自分のことをあなた自身のことを差し置いてキミとは天皇のことだという人はいません。そんなことをしたら天皇は人間でなくなってしまいます。キミは天皇だとする人達がどちらの側につく偽よ、共通の間違いを盛り上げ合っていることになります。

私達はキミから始まって八つに開くしかできません。どれほど自分が気に入ったことを言おうとも八つの拡がり以上のことはいえません。そのようなことを古代のスメラミコトが発見して人類に与え歴史をつくったのですが、誤解誤認で事がより速く豊かに発達していくことを見抜いたために、わざとその手助けをしてくれたのです。

簡単に正しいことを見抜いて確認する事だけなら、確実ですが非常に静かな進歩を得るだけでしょう。そこでスメラミコトは世界歴史に躍動を与えるために、言語を統一する変りにばらばらに乱しました。通じ合えば安心して動きが緩慢になります。しかし、乱れは人を鼓舞しますが、落胆も起こし意気消沈をもたらしますから、それを保証し担保しておく機構として宗教をそれぞれの地域に合うように創造させました。

スメラミコトはこれらの事を準備しておいて数千年の歴史を待ったのです。

人間は誰でもキミを持っているから、誰でもがキミを自覚し成ることで、歓喜の「キミが世」が来るとしたのです。

そのキミの開き方が八通りあり、その働きを父韻といいます。

分析すれば八つになりますが、なぜ八つなのかは分析すればそうなるという自己矛盾した言い方しかありません。しかしこの分析は瞬間を分析したものですから全てに当てはまります。

瞬間は時の流れの一瞬ですが、その中に、時が来て(言霊オ)、時が在って(言霊ウ)、時が流れていく(言霊エ)、という時の全て(言霊ア)、が含まれています。

しかし、時が来て在って流れていき時の全体を得ても、在るというだけのもので意味がありません。このある姿全体に意味を与えるものがキ・ミ(言霊イ㐄)なのです。

しかしこの意味がないという在り方が重要なのです。というのも、キ・ミ(言霊イ㐄)にあってもそれ自体では自らを表すことができず、八つの父韻に開いて姿を示します。この時意味のないウアオエの世界が意味を持つようになります。

ウアオエに最初から意味があると衝突し意味の取り合いがおき正当性の主張し合うことがおきます。

しかし言霊は循環して作用し交通し合うので、そこでの不都合を無くすのに一般性という形をつくって意志の交流を第三者に任すわけです。自分の個別的な発現(発言)を第三者の表現に変えていくというわけです。

この第三者への変換を扱い統制して創造したのが、キ・ミのイザナギ・イザナミです。

こうして一般性の上に八父韻として自らを花開かせるのです。

さて、キ・ミといってイザナギ・イザナミの男女神二神を指しているような書き方をしてきましたが、それは今までの伝統的な間違った理解の上に立っているからです。

ギミの神々は男神でも女神でもなく、もともとそんな神がいるわけでもないというのが、古事記の主張です。もちろん認め崇め祀り祈り拝むことをしてきたとしても、世の初めからあったわけではありません。そんな神はいないということは誰でも知っていることです。いるという肯定判断に心が傾くだけで、いるという確信や確証がある人を否定しないだけです。

神さんをいるとしますと人はいることに意味を問います。創造主に自分が作られたとしながら創造主に存在の意味を問うて解決できないグルグル廻る二十日鼠になります。どうしても自分からの問いかけを忘れないまま創造主は何故いるかと問いかけてしまいます。

自分の問いかけは自分の問いかける相手対象となっている自分の意識への問いかけで、自分の問いかけが作られてきて問いをしている形成された自分とは別のものであることを、分ければいいことです。

するとこういうことになります。自分の問いかけは八つに花開き種々に展開していきますが、元に戻ると自分が自分の意識に問いかける共通した秘められた姿があります。言霊イが言霊㐄に働きかけることになりますが、ではイ㐄はどこから来たのかといえば、つまり、自分が自分の意識に働きかける力能の由来は自分以外ではありません。

そんなことはない、絶対創造神がいるからだといえば、自分の頭で絶対創造神に問いかけているあなたがいるということで、あなたの負けとなります。

もちろんここでは勝ち負け優劣を競うところではありません。

どうしても自分からの問いかけになるのに、その問いは自分で作ったものでないという、からくりを説明できればいいのです。

上に、時が来て(言霊オ)、時が在って(言霊ウ)、時が流れていく(言霊エ)、という時の全て(言霊ア)、が含まれているという書き方をしました。これを問うということに適応して問うという瞬間を示せれば、問おうとしているものは同時に、過去から集められ形成された問いで、そういった形を整えてここに現れて、問おうとしている全体となって、提起されていくものとなります。

そういった問いが在るというだけなら、意味の無いものです。そこにある全体を動かして問いを形成させているのがイ㐄の神で、イ㐄がそうした形で現れるには元々において統合されていたからです。その統合体がイザナギ大神となります。

(イザナギの大神は、禊ぎの始まるときにずっと後で登場します。これは自覚というものが原理的に後からでてくるところからきているからですが、人の通常の無自覚な意識行為上でも、常に大神(絶対創造主)としての位置を占めています。)

イザナギの三態

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イザナギは

イザナギの神

イザナギの命

イザナギの大神

の三態となります。

この三態に対応して、 それぞれの【 天の御中主(みなかぬし)の神。次に 高御産巣日(たかみむすび)の神。次に 神産巣日(かみむすび)の神。 】が出てきます。

神は、在り方、実体の一般的な表現で、大神にたいして無自覚である場合に、

命は、在り方、実体に対する、生き方、働きの一般的な表現で、

後に出てくる大神は、自覚された実体と働きの統合された在り方です。

次章 ・ 己の心の成立 へ