言霊腹母音 2

10。腹母音。半母音と母音。腹母音と父韻 ➀。

試してください。

ウオアエイと母音の発声音を出すたびに腹の緊張位置は変化していきます。ウの腹の緊張する位置でオアエイ、あるいはオの腹の緊張を保持したままでウアエイを出してみてください。その他同様。おかしなヘンテコな母音ができます。

ということは腹を除いて胸声帯横隔膜で発声することはできますが、声は出ていても、声と舌の位置からは日本語の発音の真似はできても心のこもった大和の日本語になっていないということになります。

それでも時間が経てば外国人の場合なら自国式の腹母音が矯正され、日本人もビックリするような上手に話す外国人も沢山でてきています。外国人が日本語の学習中の時とまるで日本人みたいといわれるようになったときを比べると、本当に態度も日本人のようになっています。

彼らの自国で築いた習慣、常識、意識が変わったわけではありません。それでも子供の魂いつまでもの自国での態度、習慣の違いによる戸惑いを超えた大和の意識が付加されているように思えます。

何故そんなことが起きるのかといえば大和の腹母音の習得ということになるでしょう。誰かにこの問題を明らかにしてもらいたいものです。

腹母音の位置だけ変えてもアイウエオの変化はあるかといえばそんなことはできません。呼気が伴っていないからです。しかし実際には腹母音の位置を確認するのもむずかしいものです。呼吸による胸の上下に邪魔されます。

しかしここに、音が出ていないのに母音に対応している腹があるのです。アの音がでた時のアの腹、ウの音がでた時のウの腹等が音に先立って先天的に実在していることを発見しました。それが前回に紹介した葡匐(はらば)ひて哭(な)きたまふ、つまり腹這い、腹-映え、腹がこころに映えることでした。

そこで今回はその腹がこころに映える様子についてです。

古事記はここに泣沢女(なきさわめ)の神という父韻の働きを持ったものがあることを示しています。同様に泣沢女(なきさわめ)という男神は心の領域で小豆島(あずきじま)またの名を大野手比売(おおのでひめ)という説明があります。これを参考にしますと、こうなります。

まず、用語からいくと、

小豆-あずき、は明らかに続く気・言霊ということです。間違わないでください、豆の小豆がそうだというのではありませんよ。古事記で用いられている当て漢字の読解です。

大野手比売(おおのでひめ)とは大いなる(大)横に平らに展開している(野)働き(手)を秘めている(比売)の意です。ひめと言ってもお姫様ではなく秘め隠されていることです。

音として発音されていないのに泣沢女(鳴き騒ぐ)ものとして在り続け、一度鳴き始めたら鳴きっ放しのものが腹の中に有るということで、その在り方をよく見ると明らかに続く気であり、後にアイウエオ母音の各横の段に成っていくものとしてあるが今は先天の中に隠されているということです。

引用です。

「 お寺の鐘がゴーンと鳴ります。

人は普通、鐘がその音を出して、人の耳がそれを聞いていると考えています。

正確に言えばそうではありません。

実際には鐘は無音の振動の音波を出しているだけです。

では何故人間の耳にゴーンと聞こえるのでしょうか。

種明かしをすれば、その仕掛人が人間の根本智性の韻である八つの父韻の働きです。

音波という大自然界の無音の音が、人間の創造智性である八つの父韻のリズムと感応同交(シンクロナイズ)する時、初めてゴーンという現象音となって聞えるのです。

ゴーンという音を創り出す智性のヒビキは飽くまで主体である人間の側の活動なのであり、客体側のものでありません。

鐘の音を聞くという事ばかりではなく、空の七色の虹を見るのも、小川のせせらぎを聞くのも同様にその創造の主体は人間の側にあるという事であります。

八つの父韻の音図上の確認の締まりを泣沢女の神という理由を御理解願えたでありましょうか。」

以上。

重要な引用です。

鐘が鳴っているのではありません。鼓膜が聴いているのでもありません。それらは物理の作用反作用、電気信号の交換、電荷の移動でしかありません。その内容は科学による解明に任せられています。というより科学思想の独占場です。

この鐘の例では無言の音波無音の振動と聴覚鼓膜の関係のように思えますが、心の音はそれらの事実の上にさらに心が乗った上で展開されていきます。心が物質あるいは物質的なものあるいは物質的な象徴を介在媒介されなくては現せないという、単なる物理上の制約にあるというだけのことです。

ですので心の問題は科学のいう事は全部受けいれます。しかし科学のいう事はどこまで行っても単なる物理作用交換の解説を出る事も無いのです。心の物理面を明かす事はできても心にまでは到達できません。

ではここでいわれているこころと、母音を発する心とは何でしょう。横隔膜、声帯はどれだけ解剖しても心は現れてきませんが、またそれらなくしては心を表現できません。

アという音アという字はインクのしみドットの輝き空気の濃淡です。それに心が乗るといいますがそれは外国の、大和日本語以外の言葉には言えますが大和日本語には該当しません。

勿論今の日本語は外国語と同様なシステムで作られた言葉が大量に混じっていますから、古代から伝わってきた大和の日本語のことで、日本語の元になっている大和言葉の事です。

心が乗るというと当然降りるもあるわけで、乗り物があってそれとは別のものが付いたり離れたりしていくのが外国の言葉です。ところが、大和の日本語はどのような言語学上の法則をもっしても説明も類似性も見いだせないでお手上げ状態であるのが本当のところです。

その理由は簡単です。

他の言葉はものを示す為に作られています。お金同様こっちの紙は百円、こっちの紙は千円と、そう書き込まれているからそういう約束になっているだけというものです。大和の日本語は約束事が言葉の上に乗っているのではなく、こころそのものが言葉という表現に成っているのです。もともとまるで違うものでした。

その実在の人間的な根拠を腹の緊張の無限性に見つけそれが腹-映えて心になるというところまできました。腹-映えの形跡は人として多かれ少なかれ見いだせるもので、外国語においいても同様です。しかしここで古代大和の聖人達は物凄い事を始めたのです。

約束事を沢山作ってこれはこうだあれはああだこう言うのだということを一切切り捨てました。数字の⒈の後に幾ら0が付いている紙幣であろうとヤギに与えればウメェーーです。付け加えた規則そういった構成に成っている言葉の体系を一切放棄したのです。

その代わりアという時はアの心が現れるからアと言い、エと言う時はエの心持ちがあるからエという前代未聞の言葉の体系をつくりました。それが大和の言葉であり、その続きである日本語であり、言葉の不思議を感じ心が言葉に成っている事を確認できる大和言葉です。

ものを示すのでなく、心を直接示すのです。今更こんな事をいわれてもピントきませんが、大和言葉を受け継いだ日本人はもともと次元空間が違う言語空間に住んで、社会、関係、生産を営んでいる人たちなのです。これは国民という事ではなく、大和の日本語を使用している人という意味です。

さて母音と心です。腹の緊張の永続が発見されましたが、それそのものは心ではありません。声帯を共にすれば声や母音もでますが心と繋がったものではありません。簡単に言えば母音が発声されても心の表現ではないということです。

ここから大和言葉の大和言葉としての構築が始まります。他国語のように意味内容を与え物事を示すという方法を取りませんでした。

つまり発声された音が主人公となり、発音現象から始めることをしませんでした。現在の言語学のように発音現象から類似分析作用整理等をしなかったということです。

何故そんなことが言えるのかというと古事記に書いてあるからです。その段落は次のようになっています。

【 かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。】

ここは伊耶那美が死んだという解釈ですが、そのように解釈させる千年間が必要であったというだけでその意味では正解ですが、これからはそれで済ますわけにはいきません。葬(をさ)めは字面からすれば千年間分の効果が出るおっかない字から選ばれていますが、ひらがな発音に戻せば、おさめる、着物をタンスにおさめる税金をおさめるで決して死を意味しているのではありません。

引用。

「出雲とは出る雲と書きます。大空の中にむくむくと湧き出る雲と言えば、心の先天構造の中に人間の根本智性である父韻が思い出されます。

伯伎の国と言えば母なる気(木)で、アオウエイ五母音を指します。聖書で謂う生命の樹のことです。

比婆(ひば)とは霊(ひ)の葉で言霊、特に言霊子音を言います。子音は光の言葉とも言われます。

伊耶那岐の命と伊耶那美の命は協力して三十二の子音言霊を生み、子種がなくなり、高天原での仕事をやり終えた伊耶那美の命は何処に葬られているか、と申しますと、父韻と母音で作られている三十二個の子音の中に隠されて葬られているよ、という意味であります。子音言霊が高天原から去って行った伊耶那美の神の忘れ形見または名残のもの、という事です。」

「伊耶那美の命はいなくなって客観世界の黄泉国へ行ってしまった、では伊耶那美の命は何処にいるのか、岐の命と美の命が共同して創った子音、伯伎(ははき)は五母音、出雲は湧いて出て来る父韻を指します、その境、「カ」でもうしますと「キ」と「ア」、「kia」、それは「カ」。Kiaのkとaの境にいますよ、ということです。」

引用ここまで。

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11。腹母音。こころの神代(かみよ)。呼気とこころ。半母音と母音。腹母音と父韻 ➁。

前回の引用は現象子音の発生後の解説でしたが、ここではそれを母音の発生に当てはめようとしています。

出雲の国は父韻、伯伎(ははき)の国は母音、堺なる比婆(ひば)の山は言霊子音でした。

出雲の国という地名はうまい具合に千年間利用されてきただけです。ここでは腹の緊張が発声音と結び付く心の動力因となっているものがあり、そのことを指します。

そしてこれが父韻と呼ばれるものの仕業なのです。

発声をしないで声を出す準備だけをしてみてください。アーーと言う恰好だけをしてみて、無音の口を開くと同時にあるいは口を開く以前に、腹において腹母音のアの緊張が産まれています。アの声は無くてもアの腹母音が活動して働きの態勢を整えています。そのまま無言のアッアッアッをしてみると実際出雲の雲がむくむく湧き出るような腹を感じます。

伯伎(ははき)の国、子音発生のときは母音のことでしたがここではここではその母音の発声を探っていますから、腹母音、腹の緊張の五つの変化持続、無限実在ということになりそうです。

そうすると、比婆(ひば)の山は横隔膜、胸、声帯等の動きが現象となります。声はその結果です。どうりで言語学でいくら舌口腔声帯などを分析しても心は一向に出てきたことがないはずです。

繰り返しますが、この出雲の国の働きが無ければ、腹の緊張は単なる生理的なもの、発声される音は心のない声帯の振動でしかありません。しかしそれは心が直接に言葉となっている大和言葉の物理的条件となるもので、それを操作するのが父韻となります。

わたしとあなたという二人がいるだけでは子供はできません。心だけでは言葉にならず、そこに発声器官の全体が加わっても言葉にはなりません。音は音でどこまで行っても音です。心と発声とが別々です。出雲の国の働きで出来たものでないからです。

出雲の国というだけでは抽象的過ぎます。どなたかに助けて欲しいところですが、しっかりしろ。

出雲=イ+ズ+モ。伊耶那岐の神(言霊イ)+頬那芸(つらなぎ)の神(言霊ス)+木の神名は久久能智(くくのち)の神(言霊モ)の組み合わせで出来ています。

精神活動の行くぞ生きる命のイの大本、伊耶那岐のイ+言霊スは静止の姿、動作のない状態+久久能智とは久しく久しく能(よ)く智を持ち続けるの意で全部で、心の創造意思が動作のない状態でありながら萌えいずる内部振動中ということになります。

そこで古代大和の聖人達はその振動を整理分析しました。発音以前に実在する腹母音の分類分析と人の心の現れを比較しました。腹の内部の響きと実際の心の現れとが研究されたことでしょう。

勿論、社会生活上はそんなことはやっていられませんから、通じあえるような了解ごと共通の約束事の中に留まっています。これが大和の日本語以外の世界中の言葉です。契約事を大事にする西洋のこころの元があります。裏を返せば言葉に心がないので共通の契約後とで縛りつけておこうという必然になるものです。

大和の言葉はここに父韻という心の韻(ひびき)の実在を発見して構成されています。この心の響きに対応する相手が腹になります。響きはものの在り方として感ぜられますが物ではありません。

鐘がゴーンと鳴りました。実は力の作用反作用で空気振動の濃淡が出来ただけです。植物や昆虫には音は聞こえません。ところがこんなテレビを見たことがあります。枝にいる昆虫が交尾相手を呼び込むのに腹足を使って振動を起こしどこにいるか分からない相手にここにくるように伝えているというのです。実験ではその周波数を真似て発しているとお見合い相手が隣の木から一端地に降りて発信元にまで来ました。残念なことにそこにあったのは器械でしたけど。(余話)

ここにどうしてもわたしたちにある感受能力、共感感応同交をもたらす性能を設定せざるを得ません。

動物の物理的な力の交換伝達作用の中にあるだけならば、科学によってそれらは証明されていきます。脳内科学もそのうちの一つです。心を現す脳のメカニズムも明かされるでしょうけれど、心を現す言葉の秘密を明かすに至らないでしょう。言葉の電気信号を集めてもこころにはなりません。

頭には思考の流れがあり概念記憶が出たり入ったりしているのにそんなものに腹母音などあるのかと思われます。

しかし思考というのは記憶知識の頭脳内での概念操作の分野に属するもので、創造されていた言葉によって現象(この場合は過去現象)を操作するだけのものですから、言葉の発生とは関係ありません。(それよりも記憶概念が腹に産まれるのじゃないかと見ていく方が良いかと思えます。)

ウの腹。

五感感覚で与えられる心の腹での対応が声ではウの腹にあります。五感での知覚の特徴はそれを使用して自分のものとすることでその欲望を充足することです。

見る聞く嗅ぐ等の五感感覚の取得時の腹の緊張を探ると全部同じで、声になった時のウの位置緊張と同じであることが古代に発見されました。

五感感覚の知覚を得る直前の腹を観察してみてください。感覚を得て何々であってどうしたいという知識や選択の判断が出てくるその前の時空のことです。

駅にいくまでにいろいろのものを見聞きし匂いを嗅ぎますがそれらが何であるかという判断をする前の腹です。その時はウの腹で歩いています。

オの腹。

駅に着くといつもと違って人込みが出来ています。あれは何だと疑問が起きます。画面を見ていると難しい漢字がでてきて読めません。これは何だと疑問がおきます。その時状況に合わせて腹が動きます。疑問が出ている時はオの腹でオを発音しているときと同じ腹になっています。

エの腹。

事故があったのでいつもの乗り換えが出来ないことが分かりました。そうすると今度はもっとも上手な目的地への到達方法を選ぼうとします。あの線ならあそこで降りて、この線ならここで乗り換えてと智恵の選択になります。その時にはエの発音をするときと同じ腹が構えられています。

アの腹。

またそこに何らかの感情情動がおきるときにはどのような感情になるにせよ、アと発するときと同じアの腹が見いだせます。

イの腹。

おや時間だ、出かけなくてはよし行こうという場合など意志をもって自らを制するときに見いだせるのは、イを発音したと同じイの腹です。

これらは腹の感応同交が母音と同じ韻(ひびき)を持つということで、同じ音現象になることではありません。音現象を決定する心の奥のひびきとでもいうものでしょうか。

人の腹はこうして全ての事象に対応できることになり、発音の基盤ができました。つまり全ての事象は五つの心が対応した母音で現せることになりました。

( これが後にインド中国に伝わって五大五行となった実体です。それを元にインド中国では概念として発展させました。また、聖書でいう生命の樹であり、エデンの園から流れ出て(イ)四つの源流となる(ウオアエ)河の実体です。竹内文書参照。

今後この意見が常識となる前にもっと上手に解説することが出来れば今のうちならノーベル賞ぐらいとれると思えますが、元気な方どうぞ挑戦してみてください。)

とうとう母音の心が現れました。でもたったのそれだけのものです。こういうことをイメージしてください。新品のピカピカの靴が手に入りました。靴底もピカピカで道路もぴかぴかです。さてこの靴を履いて歩けるでしょうか。ツルツル滑って歩けません。その人の全体重を受け取り反作用を与える負荷、抵抗が無いとまともに歩けないのです。

同じように腹母音があり、その心との対応があるといっても対応を受け取るものが無ければ腹母音は実現しないのです。この対応を受け取る側が半母音です。言語学でいう弱い摩擦音が有る無しをいうのではありません。

では世界にある母音の多くは何なのでしょう。大和の言葉を除くそれらは言語学の対象で、音韻とか口腔とか舌の位置とか脳内の反応部位との関係とかで整理されていきます。大和言葉もその物理的な現れの中では分析の対象になりますが、こころを現す言語としてでなく音に心を足し算したものとしてです。研究者の学者の頭数だけ足し算の要素が加わっていきます。

いくらやっても心は見つからず現れない物事を客観方向へ客観方向へと向かう学問になっていきます。速須佐之男命答へ白さく、「僕(あ)は妣(はは)の国根の堅洲国に罷(まか)らむとおもふがからに哭く」とまをしたまひき。

心の世界の片半分=堅洲国(かたすくに)。

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12。腹母音。こころの神代(かみよ)。呼気とこころ。半母音。

先天-母音-能動。

ア。高御産巣日の神

イ。伊耶那岐神

ウ。天の御中主の神

エ。国の常立の神

オ。天の常立の神

先天-半母音-受動。

ぅ-ワ。神産巣日の神

ぅ-ヰ。伊耶那美神

ぅ-ウ。天の御中主の神

ぅ-ヱ。豊雲野の神

ぅ-ヲ。宇摩志阿斯訶備比古遅の神

先天-父韻-実行因。

T-チ。宇比地邇神

Y-イ。妹須比地邇神

K-キ。角杙神

M-ミ。妹生杙神

S-シ。意富斗能地神

R-リ。妹大斗乃弁神

H-ヒ。於母陀流神

N-ニ。妹阿夜訶志古泥神

後天-子音-現象。

大事忍男の神 言霊 タ

石土毘古の神 言霊 ト

石巣比売の神 言霊 ヨ

大戸日別の神 言霊 ツ

天の吹男の神 言霊 テ

大屋毘古の神 言霊 ヤ

風木津別の忍男の神 言霊 ユ

大綿津見の神 言霊 エ

速秋津日子の神 言霊 ケ

妹速秋津比売の神 言霊 メ

沫那芸の神 言霊 ク

沫那美の神 言霊 ム

頬那芸の神 言霊 ス

頬那美の神 言霊 ル

水分の神 言霊 ソ

国の水分の神 言霊 セ

久比奢母智の神 言霊 ホ

国の久比奢母智の神 言霊 ヘ

風の神名は志那津比古の神 言霊 フ

木の神名は久久能智の神 言霊 モ

山の神名は大山津見の神 言霊 ハ

野の神名は鹿屋野比売の神 言霊 ヌ

天の狭土の神 言霊 ラ

国の狭土の神 言霊 サ

天の狭霧の神 言霊 ロ

国の狭霧の神 言霊 レ

天の闇戸の神 言霊 ノ

国の闇戸の神 言霊 ネ

大戸或子の神 言霊 カ

大戸或女の神 言霊 マ

鳥の石楠船の神 言霊 ナ

大宣都比売の神 言霊 コ

火の夜芸速男の神 言霊 ン

古事記に出てくる母音半母音の順序

ウアワ-ヲオエヱ-イヰ

古事記に出てくる子音の順位

たと-ヨ-つて-ヤユエ-けめ、くむするそせほへ、ふもはぬ、らさろれのねかまなこん

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こんな風に図示してもなにを理解していいのか分からないと思います。

こちらの書く方は分かった積りで恰好をつけて書いています。

つもりでやってるので真実に達しません。

思いつきの考え閃きがでてきて、それに疑問を持って自分なりに答えていきます。

そんな量が増えれば何らかの結果現象もでてきて、またその現象に囚われてしまいます。

分野は違ってもこんなことばかりです。

考えとか自己主張とかの成れの果てです。

自分の考えなど持たないようにしたいけど、知識の奴隷となるとこうなってしまいます。

菅直人にこうしろああしろこうして欲しいああして欲しいといろいろ注文がついています。

注文の総体をまとめてもまだ足りないはずです。

それでも言い出した本人達は真面目で最良の忠告提言をしている積りになっています。

政府側もできる限り出来るだけという限界を最大の努力と勘違いしてやっているつもりです。

さらに注文提言した者どうしで喧嘩さえあります。

ですので全てがバラバラです。

全ての提言意見、施政者の間違いは自分の考えを述べるところからきます。

被災者と被災の外にいる者たち全体の「いたく歓びて貴い結果」を得ていく生命生活意思行為を見つけようとしないからです。

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13-1-1。言霊ウの発生。母音以前。はじめに。

心とその現れを捕らえようとするものですが、歴史を生きてきた人の数だけ心があるのに、どうするつもりかというと次のようになります。

物質界にはやはり無数の形態の物質があります。しかしその元素の数は固定していて放射性元素を除けば百弱しかありません。これが全物質界の元です。

古代において心の元素、心の要素を探した大和の聖人たちが見つけたのは、あいうえお五十音の五十個の心の形でした。日本には多くの文字が残されていますが、その全てが48~50の様々な字体で表現されています。五十音図、いろは、日文(ヒフミ)、カタカムナ、蜂の比礼等そのどれもこれもが五十の言葉の表記に納まっています。

大和の聖人による心を分析して分かったこの心の要素は五十個という発見があるため、古代文字の数がどこで発見されも同じとなっているのです。たったの五十の心の要素の組み合わせで億兆八百万の心の現れとなっています。

そして古事記というあんちょこによれば、心の表記を冒頭の五十神で現しました。これの意味するところは、心の表現はどの文字表記を使用しても五十(神)あれば足りるという事で、心は五十(神)の要素しかないということです。無数の物質の形があってもその元素数は固定されているのと同じです。

以上のことは数千年前に発見され継承されてきたことをオウム返しにいっているだけです。実際に各人が自分の心を分析して心の五十個を見つければいいのですが、不可能ですし、その為の助っ人として神代の巻が用意されていますから、これを頼ることしかできません。

こころを見て、心の元となるものがある、要素があると思うことは普通でしょう。何億と増える人間、動物の元が男と女の二要素しかないのが見つかりますし、目前の八百万の事象を見聞きしても、その元素の数は知れたものじゃないかと思われたことでしょう。

物事を示すのに息を出して声帯を震わすことを覚え、いろんな音を出してみることができます。しかし、出てくる音を出す前に、バリヤー(子音頭)を作って子音となるか、バリヤー無しでそのまま音が出てくる母音かの、二つしかないことも分かったでしょう。バリヤーとなる口の構造からしてもその変化の数も知れたものです。( と、今だからこんなことも言えますが、当時のことは想像もできませんし、現在の音韻学はもっと細かいです。)

しかし問題は重箱の隅をつつけば幾らでも出てきますが、要素が少ないとか多いとかではありません。重要なことは次のことです。

それは、心の要素が五十あるとか元が二つとかでもなく、何ということでしょう、たった一つのことから始まるという真実を発見したことです。それが「吾の目が付いて地に成る(あめつち)」で、意識が事象に向かってそれを意識して名指ししようという、全ての言葉の活動に共通なことがあることの発見です。

何ということはありません。ものに意識が向かない限り言葉も無いし、意識がものに向くためにものの意識を表現するということでした。

この始めの一つのことが全ての始まりです。日本書紀は卵の比喩から始め、古事記はあめ(天、吾の目)の呪示から始められています。

この始めの一つのことは一見すると、ものを見聞き感じる始めのことと同じですが、意図的な吾の目が活動しないかぎり言葉とは成りません。それでも感情は喚起されるじゃないかというでしょうが、言葉にならない感情は幕の向こうで劇が進行しているようなもので、何が何だか分かりません。

古事記を解説することが主眼のひつく(ひふみ)神示というのがありますが、そこでは○チョンといっています。実態的には○チョンで、主体活動からは○にチョンを入れるといっています。しかし、シンボルを使った比喩は分かってしまえば無能無力です。 実体内容を表明しきれません。

この一つの意識が向くか向かないかで世界があるか無いかになります。

人が生きることは心の活動から見ていくことが主要な関心事で、宇宙世界はその線に沿って生まれその線から人と関係していきます。客観物となった動きは科学が解明する役目で、生きている世界は心によって動きます。

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13-1-2。言霊ウの発生。母音以前。腹映え。

言霊ウ(天の御中主の神)を見る上で、大事なものは主体の意識の動きです。ウは母音として発音されますが、それは現象となったものですから、口腔による空気振動と耳の生理的な鼓膜の振動等の物質の作用反作用です。生理生物的な物質関係を見るなら、その前に、あいうえおになる材料、成立事情、環境、生理条件等があります。

物理的となったもの、ウと発音されたものは、物質現象ですが、そのあったものを指してそれは何かと問うと、答えは時と場所と回答者の心持ちに応じて無数にでてきます。通常の世界では意見考え主張とかいう形で、その中で仲よくなったり喧嘩したりしてますが、要するに誰もが元素を見いだしていないからできる、猿芝居なのです。悪い言い回しをしましたが、それこそが現代を形成してきた大本でもあります。

私たちは物質的な形を作りそれを介在させないと、自分と他との関係を築けません。その最も強力な仲介者が言葉です。従って言葉を了解しなくてはならないのですが、その現れは空気振動やインクや光点の集合した点滅等の物理現象です。当然音声が分析されますが幾ら整理分析したところで、音(おん)の分析でしかありません。

言葉の心を見ようとするときには、そこに意味や精神、心を見いだすために内容というものを見つけて心を載せていきます。しかしそれでは、船に荷物を積むのと変わりがありません。荷物を変えたり到着地を変えたりするだけで、単なる物質の移動というだけのことですが、意味内容というものを最初に設定してありますから、意味内容と心とが一緒に伝わっているように解釈してしまいます。

これでは、船でも飛行機でも小包でも手渡しでも、英語でも仏語でもよいことになって、心の内容とそれを運ぶ物とが別々のものとなります。

今は日本語で書いて読んでいますから内容と書き手の心とが近い物と感じることができますが、翻訳物で読むことになれば一旦内容を酌み取りに行ってから、日本語の意味内容から作者の心を窺うようになります。要するに表現をもたらし媒介してくれた物質の形は何でもいいことになってしまいます。

しかし、世界で唯一の大和言葉においてだけはそのようなことはありません。例えば食べる前のみかんを手にして、御中主の神のみなかぬしをゆっくり、み・な・か・ぬ・し・というように発音してみると、みかんの実の中身の主の味とか甘さおいしさが、自分とつながっていいるのが感じられるでしょう。繋がりをさらに言えばみかんと自分がヌーっと縫い合わされたものが、静かに手のひらに鎮座しているみかんを感じるでしょ。

わたしたちもあったものとしての古事記とその隠されている真実である内容がここに与えられています。これをそのまま解説しますと、通常世界での喧々諤々に参加していくことになります。古事記の神は言葉の元素だなどといっても、分かっている人たちには内々で通じ合えますが、その人たちにおいてもそれぞれの解説は別別になっていきます。

言葉は共通して使用しているのに、その言葉に与えた自分の説明しか通用させようとしません。結局、知っていることの世界、勉強して得た知識の世界にいる限り、世界戦争に加担しているのです。ここはでんぐり返ししていかねばなりません。

そのでんぐり返しの顕著な例が空観を掴む悟りの修行です。ふとまにコトタマ学では悟りを掴むことは単なる始めの条件に過ぎません。一生かけて悟りごっこなどしている暇はありません。

では悟りを得られなければ始められないのかといえば、もちろんそうもいえるでしょうが、それでは悟れば言葉が理解できたのかといえは全くゼロです。どの聖人開祖教祖も言葉の一つも創造した人はいません。逆に神の心持ちを伝えるだけです。

悟るだけでも大変なことですが、古代大和の聖人は心の内容を解明して、言葉の体系を創って人間に与え歴史を創らせました。今までの宗教者は誰も歴史を創った人はいませんというより、古代大和の聖人の命をうけて精神的な支えになるようにされていました(竹内文献)。

つまりそこから始めるように後々の暗示としておいたのです。宗教の構造にある、アッラー、阿弥陀、アーメン、あまてらす、太陽神ラー等の「ア」にヒミツを閉じ込めておいたのです。そこで古事記も「あめつち」の「あ」から始まっています。

生理的な自然発声のアを、意識的意図的な人間的な発声である「あ」に作り替えたことが、古代大和の聖人達がなし遂げた人類の遺産です。そして「あ」を発声することは誰にでもでき、つまり誰にでも悟れる種を蒔いておきました。「あ」は世界語として流布させたのです。

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13-1-3。言霊ウの発生。母音以前。腹映え。

【かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、

御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は

(8) 泣沢女(なきさわめ)の神。

かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。】

この段落にある「腹這いて泣く」を、母音の発音を腹に持ち越した時の、腹との関係としてそれを観ることから始めます。

ここでいう伊耶那岐の命(各人一人一人の人間の主体的な精神行為をすること)は、葡匐(はらび)=腹這いてまでして大和の心の言葉を探求していったことです。自分の心の表記表現を探していくといっても、その材料は自分の意識しかありません。心の中を腹這いしたということになります。

頭のてっぺんから爪先までと記してあります。宗教的なおまじないのような行為にうけとることではなく、また、仏像のお顔と言いますがそういった顔だけ選択されたものではなく、爪先までの全部が相手対象です。

今「全部が相手対象」といいましたが、始めにあたって「全部が相手対象」になることはないのです。まだ分かっていないもの知らないものの固まりなのにどうして、全部などと言えるのでしょうか。御枕(みまくら)から御足(みあと)、最初から最後までなどという見当もつかないのが普通です。

ところがそれが普通の場面で普通に可能で、普通に行っているというのが、古事記で示されているのです。誰でもか普通に日常的にです。もし概念知識、記憶によって相手対象を見ていけば、分からないことだらけ、知りたいことだらけ、知ってもきりがない知った後にまた出てくる疑問だらけです。曰く科学の進歩、知識の進歩です。がしかし、人には誰でも相手対象を難なくその場でピンから錐まで見通す力があります。

それが感情情感の目(あ・吾の目)で、霊能でもなんでもない普通の普遍的な力能です。さらにこの感じの目は後生大事にされ、増えも減りもせず、知識の増減に関わらず判断の基礎ともなることができます。その吾の目を得ることを古事記は哭(な、鳴)くで示しました。

神名で言えば、「次に投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神の名は、

(30) 飽咋の大人(あき・く・ひ・のうし)の神」です。明らかに組まれているひ(こころ)のことで、その時点でのその人によって明らかに組み込まれているその人の心の全体が現れるということです。

知識があろうと無かろうとその時の吾がでてくるのです。知識は後から付け加えて変身していきますが、感情はそうはいきません。その時の全体が示されます。第一印象にその後の知識が加えられても、第一印象からまるで逃れられないというのはよくあります。

その成り成りていく己の心の姿を神名を借りて、理想的な心の完成までを暗に託したのが古事記です。当初の始まり状態では古事記と聞いても感情の起こらない無機質な「天地の初発の時」という表現です。そこに書かれたものとしてしか見なければ、神話として読んでも皇統紀として読んでも冷たいお話に過ぎません。

そこに一度自分の目を持ち込みわけの分からない卵を抱き抱えると、たちまち生きた胎動を持った卵=吾の目になります。どこまで行くかどこまでできるか誰も分かりませんが、最後に到達した時の卵=吾の目がどうなるかは本人だけが知ることになるでしょう。

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葡匐(はらび)=はらぱい=腹映えで、倒れて腹這いになったのではなく、心と腹の反映関係を追求していたことを示しています。 腹具合と心の関係を這いつくばって研究したということです。腹這いはこころの探求の様子をべつの方面から明かしたものです。

昔から腹を心の在り処としてきました。現代の科学知識はそういったことを笑いますが経験知識は普遍です。感情の変化と鼓動、胃の変調、胸の痛み等日常感じるものもあれば、見えない内臓の変化もあり病気になることもあります。

腹から声を出すという譬喩はありますが、腹に声帯はありませんから音声はでません。声は出ませんが、横隔膜-声帯の動きと通じて、腹斜筋、腹直筋、丹田、みぞおち、腹部位、さらには背骨、背中の筋肉、足の踏ん張り等々、が互いに連絡関連していてそれらは腹の動きに現れてでてきます。

古代人は心の動きと連動するこのことを見逃しませんでした。

そこで前大和語の雑多な言葉を、おそらく他の民族の言葉もかき集めて、分類していきましたが、音と表現を前にしてそれらの整理の原則としたものは、現代の言語学者のように客観的に説明することではなく、その規則や制約でも無く、音素の比較や音韻律動でも無く、心のあり方でした。

大和言葉以外の全世界の言語は、心を音を借りて表現したものですが、大和言葉は心が音であり音が心である、そのようなぴったり不離な関係を持った唯一の言語です。

まずは、前時代の大和での言葉も他の言葉と同様に音を借りてこころを示していったことでしょう。

ところがここに古代大和の聖人が出現して、こころを言葉で直接表現する方法はないかと、探し始めたのです。音を借りた表現では、音に意味を込める人の数だけ、言葉の解釈ができてしまいます。また権力をもって言葉の内容を定めることもできます。

古代大和の聖人はそこから起きる幾多の問題を解決して、全人類が言葉を直接表明してそれが直接こころの表明となる、そうした言語体系を目指しました。そして、その研究が明らかになりました。

ものを見て聞いて感じてそのものに名を付けた時、心に感じたことがそのままものの実体内容を示している、つまり、「こと」がそのまま「たましい(こころ)」の表現である言語体系を創ったのです。それをコトタマといいます。言霊のように魂に濁点を付けず濁りがない、コトを現すと同時に心を現すコトとタマが和した言葉となりました。

ところが、その研究の成果は、単なる言語創造に留まらず、こころそのものの構造までも解明してしまったのです。そのことによってこころの動きが分かってしまうということは、こころによって行動することが分かるということです。

行動が分かり、その行動の現れは文化文明歴史創造となり、世界史の行方までもが、明かされてしまったのです。

こんなことを言うと笑われますが、われわれが笑った後に口にする言葉は、古代大和の聖人たちが創った人造の言語に沿って笑いの内容を喋っているのです。だから各人は喋ったことに意味を感じていられ他の人たちに通じていると思うことができるのです。われわれの異議の唱え方の次元もその方法も古代の聖人にはお見通しなのです。

これは単にこころの動きを見てこうだと何かを定めたのではなく、こころそのものを言葉で定めることを創造したのです。そうすると、こころの動きがこころそのもので定められていき、こころの表明である歴史もこころの動きそのもので定められることが分かってきました。

歴史分野はここでは検討されませんが、こころの動きを敷衍していくと、こうこうこうなると、古代の聖人たちは分かっていました。

こころの動きと、こころの現れである言語の動き、言語による創造行為、人の創造行為である生活社会、文明歴史、これらが全て同じ原理原則でもって動いていることが分かったのです。

こんなことは現代までのどんな偉人も哲学者も神でさえも教えてくれない事柄です。古代大和の聖人はその秘密をスメラミコトが継承するようにしました。しかし、継承は内容が時と共に形骸化し忘れ混ぜられ混乱無化していきます。

歴史のこころの動きが分かっていたといっても、数千年単位で考えられることです。主体である人間のすることに個々の場面からする逸脱はいつでもあり、崩壊消滅は常のことです。

それに対して古代大和は万全の措置を施していました。

そして、意識的な世界史はここから始まるのです。物質社会の豊かさのためユダヤの役目を定めたり、精神安定の為にあちこちで宗教を創造させたり、大元の指導精神原理が失われないように、大和言葉を一民族にのみ与えておきいつでも比較できるようにさせ、その民に原理の象徴暗喩を与え、数千年後に解明させるようにしておきました。古事記はその流れの中で書かれたもので、皇統紀を伝えるためだけに抜き出して書いたものではありません。

全部が一つの和の世界に向かうように作られています。ということで、われわれは自覚しようとしまいと、その古代の大和の聖人の決めた意識的に作られた流れの中にいます。

さて、 この古事記の腹這いの段落は古事記の中では現象子音が発生した後のことですが、ここでは母音の発生に該当させます。

ここで【葡匐(はらば)ひて】といっています。

謎解きをすれば、腹-映えのことで、腹の緊張が心に映えてくるということです。

哭(な)きたまふは勿論鳴く、発声発音することで、腹の内部の緊張に合った心の同調を求めて心と腹の映えてくる音との関係を研究検討をしたということです。

発音が起きるためには、身体的生理的な条件と意識的な条件が必要です。ここで生理的な条件の方からだけ見ていくと、母音とはなにかの生理条件とそこからくる発音の流れが出てきます。

科学的な経験的な実験によって検証できる知識の集積と、今まで持っていた過去知識の出番となります。母音となにかという疑問は母音について知っていることを出すということです。

しかしここでは意識の始め、母音の始めを問うているのですから、始めを問う意識しか持っていないはずです。確かに既に母音についての何らかの概念知識はあります。しかし、その概念知識によって問いが引き起こされているのかもしれませんが、ここでは問いの中にある知識を明らかにしようというのではありません。

わたしたちの始めは「あめつちの初発の時高天原に成りませる神の名は」でした。つまりここでいう母音という名前しか知らないものが「成る」ことを問うているのです。

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13-1-4。言霊ウの発生。母音以前。腹映え。

何も知らないのに、あるいは言葉だけしか知らないのに、人は問い疑問を持つことができます。「古事記の言霊学」なんて言われても、当初は言われた言葉だけからしかイメージが浮かびません。古事記・言霊・学・等の知っているものからイメージを形成して関心があれば疑問を持つし、共感反感できる言葉となっていればそれなりの対応があります。

普通はそこで直ちに個人的な反応が出てきて、その個人なりの言葉が出てきますが、ここで行うことは、その言葉の出所を探すということです。現象となった言葉があればその前の直感閃き、イメージもありますが、それらを形作る言葉の元が何処にあるかを探しているところです。

伊耶那岐は、古代の大和の聖人は、自分の腹の動きに注意を向けました。

そこで、古代人はどのような言葉が使われようと、

・ 感情を現す時には感情の腹、

・ 知識を経験を問題としている時には知識の腹、

・ 五感感覚での欲望を充足させる表現の時には欲望の腹、

・ 困ったことどうするかの選択を使用としている時には選択の腹、

・ 意思決定し行為をしていこうとする時には創造意思の腹、

この五つの腹の違いを認めたのです。

現象としては腹筋、腹圧-反圧、胸中の呼気と声帯への反応が様々になることでしょう。

その収集整理分類は一代限りでは不可能でしょう。さらに帰納演繹を通して取捨選択し形を付けるまでには数世代が必要でしょう。

ここでの導きの糸は各人が持ち寄った各人の心です。心の世界で処理されていきました。「心の世界で処理」なんて言うとどういうことかと思うでしょう。それに対して、こうだこうだこういうことじゃないのかというような、現象を分析するような回答は一切しないことが重要であったと思われます。

心の世界で処理とは何だというとき、その時の心に持った疑問に回答することではなく、疑問が起きている腹の状態を見たのです。そこで、いろいろな疑問が集められました。疑問の内容ではなく、疑問を持ったときの腹を検討したのです。

そうすると面白いことに、どのような疑問があろうと疑問の内容に関係なく、疑問を持つという腹具合が共通していることに気付いたのでした。

おそらくそこから疑問の腹が固定され、それに応じた声帯の運用が生まれ、そして発声が生まれていきました。

そこで、疑問を持つことと同じ腹状態を作る発声を探ると、疑問を持つということは「オ」の発声をしている時と同じ腹具合であることが発見されました。

こうしてついに主体的に「オ」を発声をしてみると、「オ」の腹具合と疑問を持つことの腹具合の一致が分かり、意識を「オ」の発声に向けると、疑問を出すことにもなることを見いだしたのです。詳細は後ほど。

自分の廻り、宇宙世界の全事象と発音される音との関係を探していくと、心の状態と五つの母音が対応していることも発見しました。ここで母音と心の事象との対応が見つかった時、同時にその両者を介在させるものも発見したのです。

心の感情事象の腹での腹筋の変化が、アの母音の発音事象と同じであることと同時に、両者はアからア(ワ)へ結ばれていく過程が見えたのです。疑問の心はオからヲへ。

この結ぶ働きを父韻といいます。それが泣沢女(なきさわめ)のことで、そこで見いだされた腹の緊張を起こし同時に心を同調させ心の発声に映えを起こすものが有るということで、橋渡しというようなものを見つけました。

パソコンの画面を見ている時には、光点と視覚の関係ではなく光点と視覚を隔てる空間を結ぶ何ものかがあります。この何ものかによって、誰にとっても同じドットの集合でしかないのに、異なった意味合いをもたらせる何ものかです。これは現象ではなく現象の喚起動因といったものでしょう。

それを、泣沢女(なきさわめ)といいます。泣沢女は普通言われる悲しみを現す女ではありません。腹と心の同調反映具合を起こす為に鳴き発声して音と心の一致を求めている父韻のことです。(男神か女神か気にしたければ男です。主体側のこころの動きを男、毘古などとしていますので。女の方に泣くことが多いので泣く-鳴くにかこつけて「女」という字で現しただけです。古事記の男女神の区別は枝葉末節な関心事で、主体側か客体側かをいいます。)

こうして、母音の発声と心の事象は母音の次元で一致していくことが確認されたのです。その為には腹這いというほどの激しい研究訓練、数世代何百年の時間が費やされたことでしょう。その成果が我々の日本語で、言葉は神が与えたのではなく、超超努力した血の結晶です。

心の母音事象は全て一般的、無限性、全体的、等が特徴です。母音の発音と同じ鳴きやまないことです。

例えばパソコンの画面を見て字を読んでいますが、字を読んで納得する一瞬手前の文字と対面したその瞬間瞬間の連続を構成している始まりの時間があります。

字は瞬時に読まれ納得されてしまいますが、この視覚でさえも数秒の何十分の一単位での時間の流れがあって、その初発を形成しているのは全体性です。古代人はここに言語の発生の根拠を見いだしたのです。疑問の「お」で見た通り、疑問の内容に関係なく、疑問を持つ心が「お」と同じ全体性を持っています。

前大和の言語や外国の言葉では、心の事象と発音の関係が検討されず、たんに指示事象と意味内容事象とが当てはめられただけものとしてそのまま発展してしまいました。

古代大和人はここで、心の事象に対応する発音事象の対応を追求していったのです。

心の事象は全世界が五次元になっていることを見抜き、それに全く丁度五母音だけが対応していることを見い出したのです。

そこから他の外国語のようにものを指示する言葉ができていったのではなく、指示する言葉が内容実体となっている、世界唯一の言語の基礎ができていきました。、

そんなことが可能かどうか不安と期待に満ちた日々を過ごしてきたことでしょう。

そんな一端が

(3) 波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。

(4) 次に波邇夜須毘売(ひめ)の神。

という名前で残されています。

ハニ=言葉の粘土板、ヤス=安らかに安定正確で安心できる、音と文字。

ここから全く新しい体系で、心を表現できる言葉が全人類の為に用意されていったのです。

こころの次元が五次元だというと、現代はいろいろと次元に関して知識があるのでああだこうだと言われますが、日本語を創った大和の聖人が心は五次元だと言っているのですから間違いがありません。霊界、宇宙神の何次元というのは、同じ言葉使いになっているというだけで、人の心を現したものではありません。

もし、次元世界に文句を付けたい方は、まず自分の話している大和-日本語を捨てて自分の言語体系を創ってからにしてもらいましょう。ただし人間の心を超えて宇宙は十次元だ、その霊界は十二次元だというような荒唐無稽な次元話には付き合えません。

意識は進歩発展していき、間違いは訂正されると言う時も同じです。現象を現象で説明しようとしてもきりがないのです。人のこころを解明し、言語を創造し、歴史を創造できた人は古代大和のスメラミコトを以外にどこにもいません。

人の意図と意志が関わらない歴史は生物的な作用反作用、物質的な自然な変化です。古代大和の聖人の歴史意志を現すその為に、ユダヤはスメラミコトから選ばれた神選民族とし指定され、スメラミコトは天孫となっているのです。

この元となる原理がフトマニといわれます。心の創造と言葉の創造と社会歴史の創造とは同じフトマニ原理が適応されているのです。この十三章は言葉の発生を扱います。まずは一般的なことを記しました。

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13-2-1。腹母音。呼気とこころ。母音と宇宙世界。

赤ちゃんが最初に発する言葉は何かと、『こども語辞書』 ( http://baby.goo.ne.jp/kodomogo/index.php )を見たら思っていた以上に多数の語が上がっている。どちらかというと母親の教え込む言葉の順位みたいでもあるし、親の希望の現れかもしれない。一番関心を引いた項目は「話した順番で傾向をしらべる」で、全体という欄にある平均発話順序が、言葉の意味不明ながら、一番「うー」、二番「あわわわ」、三番「ばばば」になっていることでした。

母音についてです。古事記の「まぐあい」の段落を利用します。

「 ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、

「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。

ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、

「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。」

1-母音以前。

古事記にある通り、伊耶那岐の命の主体的な問いかけ行為がまずあって、美の命が応答します。美はそこにありますが自分が何であるかは、知らずにいて、知ることのできる範囲は伊耶那岐の命の問いかけの範囲内で答えるのです。

そこで、問いかけがあっても問いかけられる相手対象が無いときと、問いかけられても答えるものが無いときがあります。

それを問いかけがある以前の姿として見ているのが母音です。発声音韻学で声となったものを整理分析するのではなく、心の持ち方の分析が問題です。この段階では比喩のように聞こえますが、吾(あ)の目という先天的な全体の始まりがあるわけです。

問いかける主体側の母音側と受け取る客体側の半母音があることになります。

母音は子音頭によるTYKMSRHNその他による遮るものがありませんので、息の続く限り同じ音がでてきます。

古事記に、『 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。』とあります。成りは鳴りのことで、鳴り発音することですが、

伊耶那岐の場合は、意思主体意識が成り、発動して鳴り鳴りて終わり無く発音し続けることで、

伊耶那美の場合は、受け入れ受動態勢が成り、待ちっ放しの終わり無い状態が成り成りです。

岐はどこかで主体側の鳴り続けを止めなければならず、美はどこかで開けっ放しを閉めなければなりません。

それまでは両者とも、成り鳴り止まないのです。これがまぐあいの前提です。

2-客体側の母音の世界。

鳴り止まない母音の世界は、出たものは出てくる、有るものは有りつづける、選んだもの、禁止されたものはそのままの状態が続くというものです。それらは力が弱まり、無くなり、外力、作用を受けたりして形が変わったりするまで同じことが続きます。

客体側の母音の世界は主体の活動がつづく限り同じ世界がつづきます。

最近では毎年毎月新発見があるような星空宇宙世界も、一つ一つの発見が続いて、その発見によって宇宙が進化しているわけではありません。

対象相手となっている純粋な客体宇宙は、それ自身の運動をしていきますが、人の目の関心事に応じて一つ一つ姿を現していくのです。関心事が閉じられた範囲内でその時の宇宙の姿となっていきます。同じことは好きな人にも好きな食べ物にも、主体側のかかわり伊耶那岐のかかわり全体に当てはまります。

主体の関わりが与えられるために相手対象が出てくるのです。主体側は能動の側に立っていますが、客体側は能動側の手が加わるまでは、未知未定の世界です。それでも客観世界があるじゃないかといわれますが、誰かが手をいれてくれるのを待っているだけの世界で、古事記の言葉で言えば「子の一木(このひとつけ)」で、一連の現象となっている世界です。吾(あ)の目が付いて地に成る以前のことで、心を扱う以前のことです。

しかし、主体側の能動的な動きは、意図的意志の現れとなって発動しますが、実は主体側自身には何も手持ちが無いのです。各人は誰もが自分で自分の意志のもと、行動をして考えていると思っていますが、その元を正すと自我も無く自分のものというものも無いのです。有るように思われているのは記憶概念、経験概念で、それらの過去知識をあれこれしているのです。

つまり主体というのはそういったことを無限に受けいれることができる宇宙と同等な客体なのです。これが私という元の姿で、その宇宙全体性を持っているのが人間なのです。別の言葉で言えば人間とはまず母音なのです。

3-母音の発語。

宇宙が客観母音であり、人間が母音であるなら、人間はそれを真似て発語しようとします。

世界中で母音の種類は多くありますが、赤ちゃんの最初に発する言葉以前の発音は動物の唸りみたいで分けの分からないものです。その始めは単音のうーとかあーですが、発語と一緒に手足や表情をみていると何らかの意志と伝達と創造と自己了解とかがあるようにみえます。そのにこやかな顔を見ていたりすると、つまりここに心があるようにみえます。わたしたちは確かにここに心の世界が動いていることを感じますが、分けが分かりません。

手足の運動を発語の用に見ることもあるようですが、言葉以前の位置づけでしょう。赤ちゃんの行為は全く自分勝手で自発的です。赤ちゃん自身で心身共に丸く収まっていて自分自身で完結しています。そこが可愛い赤ちゃんの全世界に対する強みです。しかしそこには宇宙と同等な客体という性格は無く、その自己完結性を躾けや教育で、過去概念を植えつけつつ宇宙の全体性を持つ人に変化させてゆきます。

そのためには赤ちゃんは共通の母音性を持つ人として、自己完結性を全分野で否定されていきます。つまり発声発語、手足の動き身体の動きに名前が与えられ、まるまる自分を現すものからの脱皮を迫られます。当初の手足のバタバタとウアアーババは赤ちゃんの自己表現でしたが、大人はそれらを一つ一つ否定していきます。

それによって赤ちゃん側も単なる自己表現だけだったものから、相手に通用する自己他者、自他表現にでんぐり返しをしていきます。大人は赤ちゃんを笑わしているつもりですが、赤ちゃん内では自己完結した手足の生理運動だったものから、でんぐり返しをして、大人の反応を引き出し自分を満足させるように仕向けているのです。こうして赤ちゃんも主体性を持って、大人をもてあそぶことを覚え、自他との社会的な運動へと変換脱皮していることになります。

4-母音世界の心での反映。

ですので母音の世界が心に反映するときには、こういった母音世界がそのまま映ります。赤ん坊をあやす母親は子の話すわけの分からない言葉を受け取りくりかえしています。当初は赤ん坊が母親に言葉を教えています。

それらを反映した言葉も、母音世界、母音世界の心への反映、心の母音世界の言葉での表現というように元の母音世界を反映、表現したものとなります。大人はまるまる自分である赤んぼうにはかないません。

例えばここで言うことは赤ちゃんの笑いの、その様子を分析して、少し笑っているとか声を出しているとか何が嬉しいのかといって概念を探すことではありません。喜怒哀楽様々ありますけれど、それらの相違を挙げるのではなく、そこから受け取る持続を自分が持つことに関することです。

しかし、音楽で言われる基底音、トーン、主題を赤ちゃんに任すことはできません。社会生活の個別分野がそこに乗ってきます。子音分野の強制です。

子音の場合は気道が塞がれますので塞がれた分だけの反圧が腹にきます。そこから子音特有の反圧の意識が発生しますが、母音は出っぱなし出しっぱなしです。腹に蓄えるものが無く子音が産まれることがありません。あるだけあるありっぱなしの世界になり母音とはそのような心持ちになります。

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13-2-2。腹母音。今とは。母音と宇宙世界。

5-母音世界の産まれる様子。主体側。今とは。

一言で母音世界といっても観点の移動によって様々ですのでここでは発生時を取り上げます。言語学は発生してしまった発音現象となった発音とか発語を整理分析していきますが、ここではそれらになる以前の母音世界です。単音の発生の段階にまで戻ります。変化変形を分析することではありません。

この世に産まれる母音世界をよく見て、自分の意識がかかわっている「今ここ」、という時点を設定しその観点からすると、次のようなことが見えます。

「今」というのは、持続の一点を切り取っただけですのでスナップ写真としては止まっていますが、現実は流れの中にいます。そこで、流れと今との関係があり、それぞれが母音と対応していきます。

一、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の関係、(後にウ)

二、産まれようとしてあったものが今ある、といういわば、 過去-今の関係、(後にオ)

三、それら二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、 今-全体の関係、(後にア)

四、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の関係、(後にエ)、の四態があります。

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造能動意志が今の全てを貫いています。今の持続。(後にイ)

このそれぞれ次元の違う五つの主体側から見られた今があるのです。それに応じた客体側から見られた今があり、それは次項で。

「今」というのはこの五つの主体側の実相の変化をいいます。

単に今という時にはこの五つの全体を指しますが、時場所好みによってどれかの次元をむしりとって、他のことを忘れ観念となった今としているのです。

そこで前述の腹を付き合わせてみます。

・ 五感感覚での欲望を充足させる表現の時には欲望の腹、 今-今の腹、(後にウ)

・ 知識を経験を問題としている時には知識の腹、過去-今の腹、(後にオ)

・ 感情を現す時には感情の腹、今-全体の腹、(後にア)

・ これからどうするかの選択をしようとしている時には選択の腹、今-未来の腹、(後にエ)、

・ 意思決定し行為をしていこうとする時には創造意思の腹、今の持続。(後にイ)

この五つの腹の違いがありました。それぞれの心の持ちかたで、腹に来る腹圧、反圧が違ってきますが、同一次元にあるときは、深刻な疑問と軽い疑問を持つときとは同じ反圧で、強く決意するときと軽く決めたというときもその重要さにかかわらず同じ腹圧です。

そして後に、これらの腹の反圧が作用しての声帯の開き方も、八百万の事象があるにもかかわらず、原理要素は八つしかないのが発見されました。母音だけでは子音ができず、子音によって現象が起きます。父韻の項で後述。

例えば今と言った途端に今でなくなるとか、時間などなく今があるだけとか、言われますが、今というものがあってその観念のことをいっています。それぞれ全部正解ですが、言うことが観念ですから現実の心の動きからすると大いに忘れ物があります。

今と言った途端に今でなくなるというのは、子供のわがままを忘れています。欲望の実現は、今頂戴、すぐ頂戴ですが、それをいっている間を通して常に今です。腹減った腹減ったと言い続けている間中今です。欲望に対して今と今言ったからもう今じゃないなどとは通じないのです。

時間など無く永遠の今がある、などというのは、自分の使う記憶概念の言葉が過去から出てきた未来のない不毛な言葉ということを見れば、時間はあることも分かると思います。

またこういうのもありました。「今を、個人の意志とは無関係に変化する事態と定義」したひとがいます。これはそこに書いてある通り創造意志が無いというのですから、それでは今も無いことになります。

さて、以上は主体側から見たものですが、ここに母音世界は産む側の世界の主体側、見る側、動く側の世界ができてきます。つまり、鳴るという行為、動き、動詞の働きに対して、その現れができます。

古事記では「神」という言葉の後に「命」が出てきますがその関係と同じです。別に言えば、働きとその現れということになります。「神」という時には、必ずその前に命の働きがきます。「男の命」も同じ表現です。

ですので、神だ神だと言っても、その実体を捕らえただけでは何の働きも無い絵空事になり、何も示せないのです。これは神を主語として神が何何したと言い直さなけばならないはめになります。言い替えれば神はなんだこうだと勝手に神の属性を当てはめてもよいことになり、解釈も勝手気ままになってもよいことになります。なぜなら実体内容を捕らえても、働きかける動因がないからです。

古事記はこういった人間精神の構造からくる間違いを最初から指摘していますが、気付く人が少ないです。「天地の初発の時高天原に・成りませる・」といって、どの文章も同じ構造です。主体側の意識の働きかけによる成るなのです。

そして、その後で、成る側、鳴りを受ける側が現われます。

6-母音世界が産まれたことが収まる様子。客体側。

前項の産まれる様子はそのまま産まれたことが収まる様態となります。

前項の母音世界の産む側の世界、主体側、見る側、動く側の世界はそのまま産まれる側、客体側、見られる側、の世界となって現れます。

客体側の「今」の様相は今の固定された関係として現れ、関係を受けるものとして待ち受け、待ちぼうけの中断を客体側の「今」といいます。「成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)」がれることが客体側の今となっていきます。

ですので、「今がある」というのは上記の五態に応じて、「今があった」五態がでてきます。

一、産まれようとしているものが(今産まれる)今産まれた、いわば、 今-今となった関係、(後にウ)

二、産まれようとしてあったものが(今ある)今あった、といういわば、 過去-今となった関係、(後にオ)

三、それら二態が一挙に俯瞰された状態、いわば、 (今あるあった)今-全体となった関係、(後にア)

四、そして、今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 (今ある今あるだろう)今-未来となった関係、(後にエ)

の四態があり、

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造受動意志が今の全てを貫いています。(能動受動の)今の持続。(後にイ)

まぐあい。

このように5と6の今の主体側客体側の一二三四五はそれぞれ対応しています。この両者が合わないと主体側の意図の実現はありません。鳴り鳴り鳴り・・・で、何がどのようになっているのかが、客体側の形として現われないと成り余れるというわけです。

7-前記の対応した母音世界は心に昇ってきます。

前記の対応した世界がまぐあい(和すること)に成功すればそこに成果、子、が産まれます。出来ごととして内容が確定します。やはり同様に上記の対応に沿います。

一、産まれようとしているものが今産まれる、この世界は後に言霊ウ、五感感覚による欲望充足、となって後に産業経済の世界となっていく事象を生みます。そしてその事象を反映する心の世界が産まれていきます。

二、産まれようとしてあったものが今ある、この世界は後に言霊オ、経験記憶概念知識、となって科学技術の経験の蓄積の世界となっていく事象を生みます。そしてその事象を反映する心の世界が産まれていきます。

三、それら二態が一挙に俯瞰される状態とがあります。この世界は後に言霊ア、感情の世界となっていく事象を生みます。そしてその事象を反映する心の世界が産まれていきます。芸術宗教となり、前記を超えた悟りなどになります。

四、そしてそれらの上にさらに今あるものがこれから動こうとしている、この世界は後に言霊エ、按配選択となり、道徳、政治、実践行為へと向かう世界となっていく事象を生みます。そしてその事象を反映する心の世界が産まれていきます。

五、ここは後に言霊イとなる意思の世界、そしてその事象を反映する心の世界になりますが、意思は前記四項とは違って自らの形を作りません。前記四項を借りてそれのベースとなって縁の下の力持ちになります。

ここの項目が後から出てくる蛭子、淡島の実体です。人の意識と意識の対象を前もって一般に流布しておくわけです。

8-対応する半母音。

以上のそれぞれ収まる四つの世界が言霊ウ-ウ、言霊オ-ヲ、言霊ア-ワ、言霊エ-ヱとなって対応象徴されます。ウオアエイに対応した半母音ウオアヱヰの世界となります。

ここでは言霊ウは共通です。産まれようとしているものが今産まれるのですから、産まれようとしている欲望は産まれるものと同じです。五感感覚からする欲望、今欲している欲望をそのまま実現し生むのですから母音も半母音もウとなります。

言霊オ-ヲの場合は知識概念記憶の世界ですから、産まれようとしてあったものが今産まれますが過去の経験概念記憶に今という形が載っかかっていますので、一応、別の、新しい、自分のという形をとった、今の知識という形で産まれます。

全体を見渡す言霊アは感情情緒の世界で一挙に事情を識別でき、ウオの次元を率いることはできても、エの次元での選択を知らないので未来までは決定できません。ア-ワは一般的抽象的、全体的、心眼、という形になります。

言霊エ-ヱの場合はもっぱら今が按配され選択されて未来へ向かう形になります。エはウオアの次元を全て超えて了解可能で、指針となります。エの選択次元では、その決定にはウオアの次元の程度段階が反映しますので、知識があればあるだけ、無ければないなりの判断しか出てきません。また逆に言えば、各人の判断選択はそれぞれが最上最高を主張しますが、もともと持っていた知識次元の表明に過ぎませんから、当然のことです。

そこで、最後に登場するのが言霊イ-ヰの意思、霊の世界です。後の伊耶那岐の神の段で述べられます。

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13-2-3。腹母音。母音が現われる為に。

9-母音世界と心の架け橋。

さて母音世界が心に昇ってくるといいましても、その実在の根拠がいります。

それが呼気を感じる心、意、気です。呼気は肺、口から息となって出ていくだけのものではありません。呼気の流通のコントロールはそれぞれの民族のそれぞれの言葉の違いとなっているものです。

多くの場合は単に生理的な吸気と排気が声帯を震わすというだけの理解です。

ここに古代大和の聖人は驚異的な全世界的な全人類的な大発見をしたのです。五千年前以上のことでした。

呼気の流れを心に合わし、心の内容を呼気を発声し発音するという形で表現することを見つけました。それが呼気と心の一致になり、そしてこの心と呼気による発音の一致を実現したのです。

つまり発音することがそのまま心の内容を現すことになったのです。

前項で「今」の五次元を紹介しました。

一、産まれようとしているものが(今産まれる)今産まれた、いわば、 今-今となった関係、(後にウ)=五感感覚での欲望を充足させる表現の時には欲望の腹、 今-今の腹、

二、産まれようとしてあったものが(今ある)今あった、といういわば、 過去-今となった関係、(後にオ)=知識を経験を問題としている時には知識の腹、過去-今の腹、

三、それら二態が一挙に俯瞰された状態、いわば、 (今あるあった)今-全体となった関係、(後にア)=感情を現す時には感情の腹、今-全体の腹、

四、そして、今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 (今ある今あるだろう)今-未来となった関係、(後にエ)=これからどうするかの選択をしようとしている時には選択の腹、今-未来の腹、

の四態があり、

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造受動意志が今の全てを貫いています。(能動受動の)今の持続。(後にイ)=意思決定し行為をしていこうとする時には創造意思の腹、今の持続。

ここで五十音図を思い浮かべてもらいますが、母音の並び方は、上に書いた五次元の欲望-知識-感情-選択-意思に沿って下からウオアエイになります。これは人の性能の自覚的な向上を現しています。

しかしこれは人間性能の時間的な成長を自然な流れとして見たものではありません。時間の流れにコミットする主体的な意識の過程ですので、欲望と知識次元の世界は普遍的に持つことができていますが、欲望と知識を統括して経験感情を持って人と対応するのは余程の悟りの心が要ります(ア)。

さらには全体を見通す感情の目を持ってしても、未来の選択按配はできません。悟ったという者たちはいつでもたった一人での経験感情の中から出られません。ここから先は言霊エの次元世界になります。わたしも教科書を丸写しするくらいしかできません。

さて、この五次元の今が、主体側(うおあえい)あ行、客体側(ウヲワヱヰ)わ行の母音行に対応していきます。

そして主客の間のあ行わ行(あわ路)の両者を結ぶこころの架け橋があります。主体側が客体側を訪ねて橋を渡っていくのです。

例えば、われわれは画面を見ていますが、見る主体と、見られる客体画面と、その両者を結ぶ視覚とか空間距離とか眼鏡とか頭脳内了解とかが仲介しています。この三者が揃うと見る見たという現象結果がでてきます。

ただしこの説明は物象となっている物の形で説明しています。主体側とは私の心で、客体側は心の相手対象で、橋を渡るは心の動きです。心の態度です。

それらの心の現れが物象となり、物理的な作用反作用の科学現象になっていくというだけで、このような客観世界を扱おうとするものではありません。

この橋を渡り訪ね見る心の態度の仕方に古代大和は八種類の違いを発見したのです。あ(主)-わ(客)の両端の中間に八種があり、あ行わ行の意識の実在世界と実在世界の対象が5+5で10、中間の渡る橋板が8×5で40、の全部で五十音、アイウエオ五十音図ということになります。

こころの動きは無数にあるように見えますが、突き詰めると八つ、心のあり方は五つしかありません。古事記の神代の巻きにはしょっちゅう「八」がでてきますが、全てこころの動きの八種を指します。ひふみ神示、その他の古文献にも八の象徴がよく出てきます。

この八種は母音の実在世界に対応するものではなく、こころの、動き、かかわりに関するものですが、大雑把にどういうものか示しておきます。詳細は父韻の項です。

例えば、テレビ画面を見るときならば、画面を見る見方、考え方、了解等の仕方の八種ということになります。普通、テレビを見ると一言で言いますが実は以下の八種をごちゃごちゃにしていっているだけです。

テレビを見るといっても見ている現象でなく、見ている現象を生む、見るに至らせる自分の心の宇宙が主語です。つまり自分が見るというのは、心の宇宙が自分に課した現象ですので、その元となるものを見るとして探していきます。

1(チ)。スイッチを入れたり画面を変えたりする時の初動を見る時みたいに、全体を見ているだけで個別的なものの判別以前の時。トォーッと全体を見る。自分の心の宇宙が自分をしてテレビの画面全体をみさせている。

2(イ)。全体的な画面が持続して眺められているだけで、個別的な判別をしていない時。シィーッと見る。自分の心の宇宙が持続する全体を見させている。

3(キ)。画面の存在を認識するが、その内容のなんたるかを自分に引き寄せる時。コココココレコレと見る。自分の心の宇宙の関心事に従わさせられて、画面の関心のある部分を見ている。画面の大小に関係なく画面の全体は視覚内にあっても焦点の合ってるのは関心のある部分だけ。

4(ミ)。自分の心の宇宙に引き寄せるように、心の宇宙に実が結ばれるように見る。モリモリメキメキのその端緒の自己充実していく感じを得る韻(響き)。

5(シ)。自分心の宇宙世界の中に静め込もうとする時。サッサセッセと見る。静かな状態を作りだそうして心の宇宙に取り入れるようにして見る。

6(リ)。自分の内部が拡がっていくように見る時。リャリャリャリャッーと見る。5(シ)が内部に静まる方向を取るのに対して、6(リ)は渦や水面の同心円や竜巻の中心が全体に拡がる力動因となるように見る。

7(ヒ)。自分の外部輪郭が輝くように見る。ホッホーと見る。自分の意識内容の周辺だけが明るくなり分かるときがあり、そのように見ます。

8(ニ)。自分が煮詰まり何かが抽出されるように見る。何々ヌヌッーと見る。自分の中心に閃くというような、自分の中核が形成されるような見る。

この八種が実在の五次元の今と結ばれると「見る」というそれぞれの現象になるのです。見たい見たいは見ることで実現しますが、どのように見るかどのように見ているが、この八種になります。寝ころんで見ていてもその内実は上記八種のどれかになっていきます。

面白いことに、「今」の五次元に関しては、次元をわざと混ぜ込んだ、質問集として禅問答がありますが、この八種を扱う問答集は仏教、宗教、の教えを超えているのでありません。(昔、仏陀が大和に勉強に来ましたが、教えを受けられませんでした。竹内文書。)

古代の世界の思想や中国の考え方に、五大、五行、五要素、五元素、五大天使等があります。これらは実在世界の表徴となっていて、どれを使っても上手い具合に実在世界を五つの内に分類して説明できるようになっています。

フトマニ言霊学の五次元は、古代の五つに分ける思想の原理となっていたものですが、個々の八百万の現象が起きる原理は大和に来た諸聖人たちにも教えませんでした。というのも後の世界歴史の運用を考えてのことで、例えば小学生に相対性理論の運用法を教えるようなものでしょう。

古代において歴史の成り行きを解明してしまっていたといっても、心の、人間の、歴史のヒミツを全部白状して書き残しておくことはないのです。しかし、せっかくの宝物を忘れてもらい無化してもらっても困ります。

((以下は、括弧内のこと。その大本は古代大和の聖人が世界にばらまいたものですが、いつか証明されるでしょう。

さらに凄いことにはこの原理を用いて大和の言語体系を創造して、そこから社会を創造していきました。心の動きと一致した社会は政治の動きとなって旧約にも言葉は一つであったとある通り大和言葉による世界語の地位を得、世界の統治もスメラミコトによって行われていました。

これらのことはどの人類も成し得ず未だに手付けられずにいます。

これが全世界に散らばる各種分野での日本文化、日本語との関連性共通性です。今までは日本が世界から学んだものとして扱われてきましたが、歴史的に時間的に疑問をもたれている関連共通事項があり解決できませんでした。実は歴史をさらに遡ることにより古代大和からの逆輸入であることがわかるようになりました。そして歴史の始めの動きに関しては大和日(霊)の本が発信地となっています。ことにユダヤとの関係も大和から発進したとする立場で全ては解決されていくでしょう。

そこでわれわれ大和の日本語を話す人たちは元々が、世界歴史のなかで特別な次元にいることになりますが、世界歴史の運用はスメラミコトの経綸の手元にあるとだけ言っておき、詳細はそれぞれの分野の方が実証されるでしょう。

さて世界との架け橋が発見されたことをわれわれは追体験しなければなりません。

全分野においてなされなければなりませんが、大和の日本語を知らないと理解できません。単なる学問知識なら翻訳で伝えられますが、こころの運用も含まれる全世界を運用理解するには言霊学が必要となります。

大和の日本語以外の構造では、母音-半母音を結んでの輪、環、和を創る構造がありません。そのため経験知識を利用することが得意と成りました。しかし現代では経験の整理では追いつかないことだらけです。

これを導くには三種の神器の使用法が公開されなければなりません。三種の神器はその精神機能を発揮すれば世界を運用していくものとなるのですが、理解者がまだ出現しません。その為の二千年間も寝かされた秘密が古事記の神代の巻きの内容です。))

古代ではたったの五要素でこの世界を説明してしまいました。易、占いの世界では今でも必死で固執し続けています。

古事記にもとりあえず一般世界の説明の仕方は五つにして世界に流布したとありますから、その当時までは古代世界の記憶は伝承されていたのでしょう。(蛭子の段落。)

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13-2-4。腹母音。母音が現われる為に。

10-呼気と心。

心と母音の世界に架け橋を見いだしました。それはこころの運用ともなり、言葉の発音ともなり、政治の運用ともなり、世界の運用ともなるものであります。

それは主体側の意思、自らをいざない、相手側をいざなわせる、実在の呼気とその圧力、ひびき(韻)となる律動です。

古代大和において目前の精神と物質の実在世界をみたときに、実在世界が心に反映されることを知りました。視覚が自動的に視覚像を眼に結ぶという生理現象次元を超えて、自覚的な意識現象の解明を目指したのです。

腹減った何か喰いたいと感じたときとか、日の出日の入りの場所が毎日どうしてずれていくのかと疑問を持つときとか、太陽の輝きの有り難さを感嘆するときとか、今日はどこに行こうかとか、様々な実在世界に関与しようとするときそれぞれの呼気があり、それぞれの発音があることに気づいたのです。

日の出の輝きの素晴らしさ、夕焼けの美しさを見る時どの民族も、ウーーーだとか、エーーーだとか言って見ません。ここが解明できれば世界は一つの言語で話し合える基礎があることになります。旧約聖書には単一言語であったと述べています。

そこで古代の聖人たちは寄り集まり研究を続けました。一代二代どころか数世紀に渡った追求だったでしょう。

その後のそれを数千年間言い伝えられた様子と思われるものが古事記に残っています。

天の岩屋戸の章です。ここでは八百万の事物と精神の収拾をして、聖人が集まり、その整理をまず、常世の長鳴鳥(常なる世界の鳴き止まない母音)を集めて鳴かしめてとあるように、まず母音を分析整理していきました。常世の四つの心の世界、長鳴は母音がいつまでも鳴り合わないこと、鳥は十の理で四つの母音世界を十の理(父韻のこと)で解することです。

事物と発音の関係を究理していくうちに、まずイシコリドメの命に鏡を造らせます。イシコリドメは意思を凝り留めるということで、意思精神意識がものに関わり合うときの形を見る為の規範(鏡)を造ったということです。(堅石と金山)

この規範(鏡)が心(意思)の発現と一致するまでに何べんも何べんも研究し直されたことでしょう。(鋳鉄の譬喩で)

そして少しずつ形を整えていきました。玉祖の命は物事経験記憶事物の連続連関(言霊オとなる)、天の児屋の命は感情情緒喜怒哀楽の心(言霊アとなる)、天の手力の男は実践行為の選択按配(言霊エとなる)、そして天の宇受売の命は五感感覚からする欲望(言霊ウとなる)の整理が成り、最後に完璧な創造原理となる鏡である天照ができました。

古事記の神代の巻は精神の原理を扱ったものですから、実を言うと、岩屋戸でこうこうこう言っているというのは、呼気と心の関係だけでなくすべてのことに当てはまるのです。このネタをばらす前に上を読んでいくと本当のように感じてしまったことと思われます。このように神代の巻の適用はすばらしいものなのです。

後は皆さん各自でどんな問題にでも神代の巻を開いて該当させればいいだけです。

人は今のかかわりによって世界と関係を持ちます。世界の有り様が五態あるということは、私の世界へのかかわりも五態あることになります。私はここの世界にいるという時、朝日を見ようとするときも、その五態において見ています。日の出の燭光を見ようとする意識の始めだけを取り上げているで、爆発があってコロナが発生して携帯が通じなくなるというような、連関する知識を考えようとするものではありません。

一、産まれようとしているものが(今産まれる)今産まれた、いわば、 今-今となった関係、(後にウ)=五感感覚での欲望を充足させる表現の時には欲望の腹、 今-今の腹。燭光が現れようとしています、この人の今は、陽の光を早くみたい、あるいは始めの一条の光線が見たいからゆっくり超ゆっくり光を放って欲しいというように、自分の欲望の実現を暗い山の端に向けて、じっとその場所を見ているでしょう。

二、産まれようとしてあったものが(今ある)今あった、といういわば、 過去-今となった関係、(後にオ)=知識を経験を問題としている時には知識の腹、過去-今の腹。昨日はあそこからだった、今の季節はあの辺から昇るはず、陽光が顔に射す時には何度くらいの変化があるだろうかとかの、過去概念から来る知的疑問の解消や知識の獲得が主要なことで、光を見たいという思いや欲望とはまた違う別の意識を持っている。これはしたいやりたいとは別の次元にある。

三、それら二態が一挙に俯瞰された状態、いわば、 (今あるあった)今-全体となった関係、(後にア)=感情を現す時には感情の腹、今-全体の腹。今この場にいて自分の存在を自分に納得させる現にいる意識を保持している。燭光の見える瞬間を待っているという自己存在を自分に保証しているもので、その内容になる見たい等の欲望や疑問の観念を持つこととも違う、存在感情次元を形成している。

四、そして、今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 (今ある今あるだろう)今-未来となった関係、(後にエ)=これからどうするかの選択をしようとしている時には選択の腹、今-未来の腹。前記の自分の存在感情のあり方が納得できていると、見たいという欲望をどうするか、疑問の持ち方解決の方向はこれで良いのか、等が見えてきて、ここで燭光を見るという選択肢の中に自分がいることが了解できる。

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造受動意志が今の全てを貫いています。(能動受動の)今の持続。(後にイ)=意思決定し行為をしていこうとする時には創造意思の腹、今の持続。上記の意識を発動させ、それぞれの次元を形成するベースとなります。

このように心の実体は実は五つのうちのどれかから始まり、変化複雑化していきます。

ここでは心の五つの次元といっています。次元が違うと立場が違うので、同じ朝日を見ても次元の違う人同士では話が通じません。同じ土俵に立っているならば、こんどは量的な違いや、視角の違いが強調されていきますが、次元の違いの場合には根本的な相違が生じます。

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