「言霊」島田正路氏の著書の写し  1

1)言霊の発見と変遷

言霊とは

五十音の区分

母音

半母音

父韻

親韻

子音

再び父韻について

次元の相違と父韻

四つの五十音図

「言霊」 島田正路 著

はしがき

これから言霊(ことたま)の話をしましょう。皆さんが小学校で習ったアイウエオ五十音図が、なぜ右の行の母音が上かアイウエオの順で並び、横の上段がアカサタナハマヤラワの順で並んでいるのかご存じでしょうか。これはある時代に単に偶然にこの順序で並べられたものが、そのまま習慣になったというのではありません。どうしてもこの順序で並べなければならない理由があるのです。この理由を、そして現代の日本人が使っている日本語の源泉である大和言葉の一音一音の持つ意味を深く探って行くと、究極においてこれからお話しようとする言霊に行き着くのです。

ある言語学者は、「古代の日本人はことたまの存在を信じていました。人間が発した言葉には、その内容を実現する働きがこもっていると思っていました」と言っています。この場合のことたまとは言葉の魂という意味でありましょう。わたしがお話しする言霊とは、言語学者気いうことたまの意味を包含しながら、もっともっと深い意味内容をもったものです。

普通言葉とは、何らかの思考、意識、状況を他人に伝達する手段ぐらいにしか考えられていません。けれどもよく考えてみると、人間は口から発音する以前、頭で考えている時も、実は言葉で考えてるのです。心の動きとは言葉の動きと言ってもよいでしょう。その心の動きを深く深く探っていきますと五十音の言霊に行き着く事になります。端的に言って、言霊とは、人間の精神を構成している根本要素ということができましょう。

「これは何だろう」という思考が始まった瞬間、人間の意識は必ず考える側の主体と考えられる側の客体とに分かれます。この時考える側の主体が捨象され、考えられる側の客体の内容か抽象化、法則化されますと一般に科学が成立します。物質科学は長い間かかって”物”とは何であるかの疑問に取り組み、今世紀に入ってその全貌をほとんど解明するところまで進歩しました。物質の究極単子である諸元素の発見と、それら元素の先験構造の内容である電子、原子核、またその核内構造の解明です。そして核内エネルギーの解放に成功したのです。

この科学への態度とは全く逆に、考えられる側の客体を捨象し、考える側の主体すなわち、人間とは、人間の心とは何であるか、を追求していって、その人間精神生命の先天、後天の究極の構造を明らかにして時、その最終的な要素が言霊と呼ばれているものなんです。

心の根源要素が五十個あります。その五十の要素のそれぞれにアイウエオ五十音を当てはめました。そしてそれを「アイウエオ五十音言霊」と申します。

元素とか原子核内素粒子(核子)が物質宇宙の究極存在だとするならば、五十音言霊はわれわれ人間精神宇宙の究極存在であるということができましょう。言霊とは言語学者のいうような”言葉の魂”の意味ではなく、人間の心と言葉を構成している根本の言葉であり同時に「たましい」であるものということです。全ての大和言葉のものの名前はこの言霊の法則から命名されたものなのです。

話を変えて現代世界の人類が直面している物心両面の状況を考えてみましょう。物質科学の進歩は人類に驚異の繁栄と便利さをもたらしました。と同時にもしその使用運用をひとつ誤れば、世界人類全体の破滅といういまだかつてない危機の可能性も現出しました。

第二次大戦以降国際緊張はやむ時なく、繁栄の裏にひそむ破錠が常に人類をおびやかしています。このような世界の危機状況に対蹠するには従来の哲学、道徳、宗教はあまりにも無力です。物質文明の急速な進歩向上に反比例するように、人類の精神文化の水平線は明らかに低下しています。高度に発達した物質分化の巨大な機械のハンドルをにぎっているのは、いまだ精神的には錬金術の水準にした達していない、道徳的には幼稚な人間なのです。物質文明と精神文化の完全な跛行状態といえます。

ある精神主義者は物質科学の進歩追求をこの段階でストップさせるべきだと主張します。

しかしそれは歴史を逆行させることで、不可能でしょう。要は現代のごとく高度に発展した物質科学を人類の真の福祉に役立つようにコントロールすることが可能となるよう、人間精神の高揚自覚ができるかどうかが問題なのです。現代の科学文明を完全に包摂してコントロールできる人間精神とは、現代科学と少なくとも同じ程度の精密な詳細な内容を備えた精神の先験、後天の構造原理でなくてはなりません。と同時に現代の”科学する心”をその構図の中に合理的に組み入れることのできる精神原理であることが要求されるでしょう。このことが可能となったとき初めて人間社会の営みである物と心の分化の両輪が調和の廻転運行を開始できることとなります。

言霊の話は日本語の成立の起源と深い関係を持っています。言葉がどのようにできたかがはっきりしてきますと、日本の歴史の発見に明るい光を投げかけることにもなりましょう。これからお話しする言霊の原理が、以上の日本と世界の課題に明快な解決策を提供することができるものと思っています。

この本を読んで言霊の意味に興味をもたれた方は、ぜひ個自分の心の内容に立ち入り言霊の存在を確認して頂きたいものです。そのことによってわれわれ日本人の話す日本語の持つ素晴らしい内容と、人間の心の霊妙としか言いようのない構造に気付かれることでしょう。と同時に、人間とは何であるか、日本人とは、という問題に明確な回答を手にされることとなりましょう。

目次。「言霊」

言霊の発見と変遷

言霊とは

五十音の区分

母音

半母音

父韻

親音

子音

再び父韻について

次元の相違と父韻

四つの五十音図

事物に名を付けること

言霊による宇宙とは

言霊原理の発見、隠没、復活

言霊と古事記

言霊と仏教典

言霊と聖書

言霊を自覚確認する方法について

言霊子音の自覚について

言霊原理による創造について

古事記と日本書紀

濁音と半濁音

神代文字

二部。言霊学随想

日文。ひぶみ

俳句と和歌

宗教について

仏教へ

キリスト教へ

漢方医学者と自然農法者へ

ピタゴラスの定理

あとがき

言霊の発見と変遷。 言霊の発見と変遷。

今をさかのぼること少なくとも五千年以前、おそらくアジアのどこかの高原地帯において賢人のグループが集まり、人間の心とはいったい何であるかの研究が続けられていました。そして長い研究の結果、人間の心の全構造とそれを構成している最小単元を解明することに成功したのです。それは言葉という人間精神の究極の構造原理でり同時に言葉の原理でもありました。

人間が人間という種を保持している限り決して変わることのない永久不滅の原理法則です。

時かきてこれらの賢人(これを聖=霊知・ひし・りという)の中から選ばれた一団が住み心地のよい気候温暖な低地に下りてきて、この精神と言葉の原理に基づいて人間の文明社会を造り出そうと活動が始まりました。そのグループが最終的に定住地とした場所ははっきりということができます。この日本列島です。

この列島に居を定めた聖の一団はまずその持っている言霊の原理に則って事物の名前を付けました。と同時に原理の図形化を基礎として各種の文字を作りました。いわむる神代文字です。次にその命名した名前のごとく事物を操作伝達する社会の建設に取りかかりました。政治の始まりです。人間精神の真理そのものである言葉がそのまま通用し誤らない社会、人間の理想社会が建設され永く続きました。この真理の言葉、言霊の原理とその運用法は次第に世界中に伝えられていきました。この人間社会の理想精神文明の創造の時代を各民族の神話は”神代”として今に伝えています。中国における尭(ぎょう)・舜(しゅん)帝の鼓腹撃壌の善政、儒教で伝える白法・結縄の政治の時代、(追加注、白は昔「申す」と読み、言葉の事、仏教には白法隠没・びゃくほうおんもつ・がある。)、ギリシャ神話の中のタイタン族の支配の時代等々の伝説は、単なる伝説ではなく、実際に精神の究極の原理である言霊の法則に基づいて政治が行なわれ、精神文化の栄えていた時代のあったことを伝えているのです。時代が下って言霊の原理が一時隠没する時か来た時、人はこの原理を神として祀りました。人が人であることの根本理法でありますから、言霊を神と祀ることは当然といえるかもしれません。それゆえ、言霊の原理による理想社会の続いていた時代を神話では神代と呼ぶのです。

易に可図・洛書と呼ぶ数の理があります(図表参照)(追加注。 わたしの写本しようとしている『 島田正路氏著書、「言霊」』の写本が既にありました。

紹介しておきます。図表もちゃんと載っています。

「 島田正路氏の言霊学 」

http://www5.ocn.ne.jp/~mistoshi/NewFiles/untitled_folder/001.html )。

これについて中国の古典に「河は黄河、洛は洛水、古昔伏義は黄河よりいでたる神馬の文に則り八卦を畫し、禹

は洛水を治めて神亀を獲、その背文に因りて洪範を作れりとの伝説あるをいう。しかれどもこの事実の真否は今これを詳にするにあたわず」とあります。

言霊の原理を理解しますと、可図といい洛書と呼ばれるものが明らかに言霊の法則の一部を数の理でもって表したものであることが分かります。そこで言霊の原理の隠没の時代のために、神馬とか神亀などと謎めいた言葉で神話を美化したのだということが了解されるのです。言霊の原理が世界中に通用していた期間、世界は精神文化の華咲く理想の時代であったのです。

この精神の根本である言霊の原理が、その時の為政者らの明らかなある意図によって、ある期間、隠滅される時がきました。今から三千年ほど前のことです。爾来世界は次第に弱肉強食、権力至上の時代にはいります。その意図とは何であったのでしょうか。精神と反対の、人間のもう一つの面である物質文明の急速な進歩を促すための方策であったのでしょう。精神的に満足している鼓腹撃壌の社会には物質科学の研究は急速には進歩しません。他よりも強く豊かで権力を持ちたいと思う競争が物質文明を促進します。この状態は三千年を経た今日まで続き、物質の研究は頂点に達した感があります。この期間人類の精神的荒廃に一定の歯止めとなるよう、韻没する言霊の原理に代えて、人間精神の拠り所として、言霊原理を比喩的に形どっ多種の宗教が創始されました。

日本の伊勢神宮を中心とする神道、中国の儒教、印度の仏教、イエスのキリスト教、その他マホメットの教え等々であります。

「大道頽れて仁義あり」とは中国の言葉です。これは左記の消息をよく伝えています。 仁義とは儒教が教える人間として守るべき最も尊い道徳です。人間精神の究極の原理である言霊の大道が隠没し、頽れたために、儒教の仁義が興ったのです。孔子は尭・舜の治世を渇仰した人でした。覇道権力の政治の期間が三千年続いた現代に至って、その仁義の道徳も見えなくなるほど人類社会の精神的荒廃はひどくなりました。人類の存続さえ危惧される時代です。この問題に処していくに現代の宗教や道徳は蟷?の斧ほどの力しかないでしょう。

この時三千年の暗黒を破って、まさに不死鳥のごとく言霊の原理が蘇ってきたのです。確固とした方策として三千年の権力闘争を基調とした物質文明を産み、各宗教を創成した「言霊」が、神というベールを脱いで私達の手の届く所に顕れてきました。西暦二千年を控えた一九八六年とはこういう時代なのです。

以上言霊の発見から現代までの変遷の歴史をごく大雑把に書いてみました。たぶん大部分の識者は荒唐無稽の空想事と笑い飛ばすことでしょう。無理もありません。この世の中のことに処して一本の筋を通すことほど難しいことはないと覚えるのが物知りの常識となった、この三千年の来の暗闇に浸りきってしまっている現代人なのですから。しかしこれから説明する「言霊」の原理を、一点の妥協も許さずご自分の心の中に分け入って探求していただくならば、その空想と笑ったことが直ちにいとも厳粛な”事実”となって一つひとつ心の底から焼きつくごとく認識されてくるでしょう。

さあ、これから言霊の紹介と説明に入ることにしましょう。

言霊とは 言霊五十神。

神名と言霊言霊とは

人間が考えたり、しゃべったり、やったりする時、全て言葉によっています。言葉に出さずただ考えている時でさえ、実は頭の中を無言の言葉がかけめぐっています。言葉がない時、人間の精神活動は全く無為です。言葉なくして人間の分化も文明もありません。言葉はそれぞれ究極的には五十個の単音の組み合わせで成り立っています。とすると、その五十個の単音の一つひとつは何なのでしょうか。一見その一音一音には何の意味もなくただ人間の口が偶然に出し得る発音でしかないように思われます。そしてその個々の組合せでできている種々の言葉、事物の名前等も偶然と習慣で決定された社会の約束事ぐらいにしか思われてないかもしれません。

しかし、事実はどうなのでしょうか。

科学者は長い年月をかけて物質世界の謎の解明に挑み、物とは何であるのか、を解明してきました。そしてわたしたちが手に触れ、目で見える物質の、これ以上分割できない究極要素として水素とか酸素とかの元素を発見し、それぞれに名をつけました。さらに近代の原子物理学はそれら元素の内容に踏み入り、そき先天構造内容である電子、原子核またその内容である陽子、中性子等々の諸核子を発見しました。物質の根本構造が完全に解明される日もそう遠いことではないでしょう。

今、人間が、以上の物質科学とは正反対の方向、すなわち考える人間の精神の主体のほうこうにどこまでもどこまでも顧み踏み入って、もうこれ以上分析することのできない根底のところまで進んだらどうでしょうか。その時人間はその究極点に至ってちょうど五十個の人間精神の根源要素に逢着します。人間が人間である限りその生命現象はこの五十個の根本要素の範疇領域をはみ出すこともなく、またこの五十個以下であることも決してあり得ません。

遠い昔、日本人の祖先はこのことを発見し、この五十個の根源要素に五十の清音の単音を当てはめて命名しました。それぞれの根源要素は人間生命活動そのものであり、霊(タマ)であります。それに言葉としての単音を名付けましたので、これを言霊=コトタマと申します。現代の言語学者がいう言霊が、言葉の魂、すなわち言の霊であるのに対して、ここで取り上げる言霊はあくまで言と霊の一体となったもの、すなわちコトタマであります。

日本の昔からある言葉すなわち大和言葉は、一つひとつの事実の実相をこの生命の本源の言霊を結合し表現することによって制定されたのでした。例えば科学において、水が水素二原子と酸素一原子の化合によって成り立っているためH2O k記号で示されるのと同じように、一つひとつの事物の実相を、言霊の結び合わせによって名を付けました。

言霊の一つひとつが精神生命現象の確定した明白な部分部分でありますので、その結合である事物の名前は、何らの議論の余地なくその事物の実相そのままを表現します。すべての事物の名前を付ける基本の言葉でありますゆえ、言霊のことを「言葉の言葉」ということができます。また人間精神とは五十個の言霊の総合でありますので、その五十個の言霊を順序よく並べることによって人間精神のぜんこうぞうを表示することができます。アイウエオ五十音図とは五十個の言霊の配列によって示された人間精神の構造図なのであります。

五十音の区分

五十音言霊はどのような構造で精神生命を構成しているのでしょうか。まず生命を構成している根源の内容によって五十音を区別します。母音、半母音、父韻、(親韻)、子音ならびに ン 音です。母音はアイウエオの五母音、半母音はワヰウヱヲ、父韻はキシチニヒミイリの八音、その他に子音三十二が加わります。( ン 音については後の項で半母音の中のウとの関連とあわせて説明することにします。)

この内母音、半母音、父韻の計十七音が生命の先天部分です。すなわち頭脳の中で確かに何かの発想が動いてはいるが、まだ精神的実際現象としては現れていない間の構造と機能です。それに対して、初めて現実相として現象した後天の最小要素が三十二個の子音であります。

以下それぞれの音の生命の内容を簡単に説明しましょう。

母音

晴れた日の夜空をじっと見上げていると沢山の星が瞬いているのが見えます。さらに見上げていますと、それらの星が浮かんでいる広い広い考えも及ばないほど広い宇宙が眼に迫っていて畏怖の念にうたれることでしょう。これが物質的な外界の宇宙です。今度はその場で目を閉じて思いを自分の心の中に向けてみましょう。ここにもいろいろな思い、意識、欲望、記憶、感嘆、道徳観等々が、ちょうど夜空に星が浮かんでいるように現れては消えて行く心の内面の広い広い宇宙が存在していることに気付かれることでしょう。これが精神的宇宙です。さらにこの心の宇宙に起こる自分の精神現象を見つめていきますと、この精神宇宙というのは単純な唯一の領域の構造ではなく、五つの別個の拡がりの積み重なりであることと、そしてその重なり方が単に五つの段階の並列と言うのではなく、一つの段階が完結した時、その点から次の段階が始まり、またその段階が完結した時点で次の段階が始まる、というように各次元段階の五層の重層という構造を持っていることが分かってきます。このような心の宇宙を母音で表し、また五つつのそれぞれの次元空間をウオアエイの五母音で表します。

五母音を実際に発音してみて下さい。どの音も息の続く限り同じ音が続き、変わることがありません。もちろんこの五つの宇宙は、そこからそれぞれの空間特有の精神現象が現れてきますが、その宇宙自体は決して現象とはならない先天性の永劫不変の実存です。

しからば五つの母音で表される宇宙とはそれぞれどんな空間なのでしょうか。

言霊 ウ オ ア エ イ。

言霊 ウ

人間が母親の胎内から生まれ出て産声を上げ次にすることはお乳を呑むことです。赤ちゃんは教えられることなく乳房をすいます。これは生来人間に備わった欲望本能です。これは人間の最も幼稚な機能であると同時に最も初発的な働きでもあります。この欲望の根拠ともなっている根源の宇宙を言霊 ウ といいます。眼耳鼻舌身と仏教でいう五感認識も結局この次元に入りましょう。赤ん坊が次第に成長して大人となり、美味なものがほしい、肩書がほしい、大臣になりたいと思うその欲望も言霊 ウ次元のものです。この次元の内容をよく表現する漢字を挙げますと、生、有、産等が考えられます。産業活動はこの次元に属します。

言霊 オ

赤ん坊から次第に成長し、物心かついてくると、人間は自分のしたこと、見たことを振り返って考えて、それはどんなものをどんな順序で繰り返せば同じような結果を手にすることができるのかを記憶するようになります。この記憶とその整理の働きの根本宇宙を言霊 オ というのです。この機能の高度に発達したものが一般に学問科学といわれているものです。抽象的概念による経験事項の把握表現の世界です。この言霊オの意味を漢字で拾うと、尾、緒、等が挙げられましょう。

「余韻か尾を引く」、とか「生命の玉の緒」などの言葉があります。過ぎ去ったものの記憶の働きとか関連とかいう意味です。

言霊 ア

人間は喜怒哀楽の感情を繊細に表現します。

この感情の世界は、欲望の世界とも記憶の世界とも様相を異にした世界です。この根源の宇宙を言霊 ア といいます。

「ああ」は感嘆の言葉であり、阿弥陀、アーメン、アラー等のアは国際的にも共通した感情音です。

この言霊アの次元から宗教、芸術活動が出てくるのです。

言霊 エ

以上の三つの宇宙から現れる心の現象は、それぞれ勝手に自己主張をします。欲望、記憶、感情は時には相剋し、時には協調します。心の葛藤が起こります。この時、この葛藤しているものをどのようにまとまった行動にするかの選択に迫られます。感情の赴くままにするか、純粋に過去の記憶の通りに動くか、欲望を先にするか、その按配をどうするかの選択の機能の根源宇宙が言霊エであります。

”エ”らぶ現象がでてくる根源の世界です。

ともするとこの機能は言霊オである記憶・整理の世界と混同しがちでありますのでご注意下さい。

言霊エの世界は社会的に見れば道徳とか政治の根本機能が発言する宇宙であります。

言霊 イ

この次元は他の四つの次元(言霊ウ、オ、ア、エ)に根底において力動を与え、統合し、その現象を言葉にして表現する人間意志の根本宇宙です。人間生命の根源である創造意志の実体となる世界です。この言霊イ次元は最も理解がむずかしいところでありますがのちほどもっと詳しく説明されるでしょう。人間に生きる根源意志があって初めて他の四次元が現象を産むのであります。この言霊イに漢字を当てはめると、生、胃、位、居、意等が適当でしょう。

以上で母音の五つの次元を最も幼稚な次元から高位な次元へとその内容を感嘆に説明しました。この五つの宇宙がそれぞれに特有の無言、無音の力動で充満し、しかもそれ自体は決して現象として現れることのない実在です。人間の精神機能はこの五つのせかいにおいて働き、この五つ以外の世界は存在しません。人間の心はこのウオアエイ五次元の重畳を住家とします。それゆえ人の住む所を大和言葉で五重(いえ)、すなわち、家、というわけです。

半母音

ウオアエイ五母音が精神宇宙の主観方面の極限に自覚される純粋の主体であるのに対し、ウヲワヱヰの半母音は同じく精神宇宙において客観の方面に局限された純粋の客体ということができます。母音も半母音も精神の先天的なもので、現象を現象足らしめながら自体は決して現象界に現れることはありません。母音と半母音とは自と他、主体と客体、出発点と目的点、吾と汝という関係です。例えば アとワ とは吾と我(古代大和言葉では吾をア、我をワと呼びました)、そして二者の交渉で種々の現象を産み出しますが、吾も汝も共に純粋の主体と純粋の客体として自らは決して現れないのです。

あまり概念的説明に傾くと理解が難しくなります。例を引きましょう。朝が来て目が覚めた時を創造して下さい。初めは目が覚めて明るさを感じるものの、眠りの気分が半分残っている状態です。意識の内部でぼーっとしながも何かが目覚め出したといった状態、何かが”ある”、または何かが動くといった状態、これが言霊ウであるといったらよいでしょう。

目が覚めた瞬間は何もない状態、その次に何か心の奥で動き出した状態、この流れを図で示しますと左のように嘉久子とができましょう。(図は省略。以下同じ。)それゆえ、ウの字に漢字を当てはめるとすると、有、生、産、動などが適当でしょう。

京都の大徳寺の一室に「梅花破雪香」(梅花雪を破って香ばし)の軸が掛かっていくのを感心して見たことがあります。冬の白雪一面何も見えないところに春の息吹の初発の気であるウの芽まは目として咲く花、その花を大和と言葉ではウメと名付けました。

心の奥に何かが動きしたとう状態から意識がさらに目覚めてきます。すると前に何やらあるなぁ、と感じてきます。前に何かあると感じると同時にそれを見ている自分の存在に気が付きます。前にあるものがまだなんであるかは分からない。けれど何かがある。と同時にそれを見ている自分の存在に気が付く状態となります。心の中に何やら動くものが、ここで主と客に分裂するのです。この間の消息は次のように図に描くことができましょう。

はっきりしたわけではないけれど、一つのウという心の宇宙が見るものと見られるものに分かれた時、見る側が言霊アであり、見られる方が言霊ワであります。このようにそこに何かあると思う時、事物は必ず主体と客体に分かれます。これが人間の宿命です。このことは全く当たり前のようにおもわれるかも知れませんが、実は人間生命の創造活動の最初の重要な法則であるのです。事物が主と客とに”分かれる”ということは、それが何であるかが”わかる”すなわち人間が理解することと同じ意味であるかです。

中国の老子の言葉はこの消息を「一二を生じ、二三を生じ、さん万物を生ず」と数理で示しています。

再び大徳寺の話に戻りましょう。「梅花破雪香」の軸の掛かった部屋の隣の部屋にそれと同じ書体で「余座聴松風」の軸が掛けてありました。また関心しました。「余座に松風を聴く」とは何を表徴した詩なのでしょうか。「余座」とは次の座ということです。何に体して次というのかというと、心の宇宙に何かあると感じる初め、言霊ウの次ということで、それは主と客に分かれる時のことです。末の葉は根元から二つに分かれています。松葉の形です。「松風を聴く」とはこの主と客に分かれていることを極めて詩的に表現したのです。いつの時代にか大徳寺に偉い坊さんが居て、座禅によって人間生命が創造を始める最初の精神構造を悟って、それを詩の文章に表現したのでしょう。

意識の目覚めがさらに進んだとしましょう。はて前にあるものはいったい何であろう、と考えます。この時記憶が呼び覚まされるのです。この記憶を呼ぶ主体が言霊オであり、その結果「ああ、あれでよかったのか」と呼び覚まされた対象が言霊ヲであります。次にきょう起きてから何をしようかなと考えてきます。いろいろなことが実行可能です。そのうち、きょうは、よし、これをすることにするか、の選択的決定をします。

この選択の主体が言霊エであり、選択される純粋客体が言霊ヱであります。以上で母音ウオアエと半母音ヲワヱが出揃いました。これまでのことを図で示しますと次のようになります。人間の意識の目覚めはこの順で行なわれます。

父韻。

母音・半母音のうち残ったのは言霊イとヰです。前にも言霊イ・ヰの理解はなかなか難しいと申しました。なぜなら、これが、「現象が起こる」ということが実際にはどういうことなのか、という事実認識の根本に関係しているからです。誇張でも何でもなく、過去数千年の間、各宗教、哲学その他種々の精神探求が真理の究極の目標とし、しかもいまだ解明することができないでいる、人間精神の最終の命題であるからなのです。いまその課題を言霊イ・ヰの立場から説明していきましょう。

ここに一本の木が立っています。この立っている、ということはどういうことなのでしょうか。立っていると見ている人がいなければ立っているか否かが分かりません。また木が物として存在しなければ見ることができません。現象があるというのはこのように見る主体と見られる客体双方に関係します。現象の認識は単に物があることを見る、五感認識言霊ウばかりとは限りません。体験認識の体系化である言霊オの次元、感情界のアの次元、事物の選択に関する道徳、政治等々の高度の次元にも起こります。

これら全ての現象において純粋の主体であるアオウエと純粋き客体であるワヲウヱはどういう経緯で現象を産むのでしょうか。

例えばここに鐘があります。棒で突きます。鐘が振動して空気を震わせます。空気中に波動が起こります。しかしこの波動自体がゴーンという音を立てているわけではありません。その波動が人間の耳に入った時、初めてゴーンという音に聞こえるわけです。鐘自体は無言の波動を出しているだけです。客体である鐘の発生する波動と、主体である人間の認識知性の波動とがぶつかって、双方の波動の波長がある調和を得た時、すなわち感応した時、初めて人間は鐘がゴーンと鳴ったのだと認識するのです。同じように大空の虹はそれ自体七色を発しているわけではなく、七種の光の波動を出しているだけです。その波動が人間の知性の主体波動とシンクロナイズする時、七つの色の虹として主体の側において認識されるのです。

このように、アとワ、オとヲ、ウとウ、エとヱ、イとヰがシンクロナイズしてそれぞれに現象を産むためには、それぞれを結びつける懸け橋となるものが必要です。この役目をするのがキシチニヒミイリの八つの父韻なのです。純粋な主体と客体を結び付ける人間知性の根本韻律はこの八つより他にはありません。客体から発する波動は科学的に計測される波長を持った波動エネルギーです。それとシンクロナイズして、あらゆる現象を産み、認識する人間の主体側の原律が八つの父韻です。

先に五母音の説明のところで、言霊ウの世界から次第に次元の重畳を登り詰めて最後は言霊イに至る時この世界が生命創造意志であることをお話ししました。ここで自分の心の中を考えて見ますと、この生命創造意志の世界が他の四つの次元ウオアエの世界の現象を産む原動力であることが理解されます。欲望の世界である言霊ウも、経験知の世界の言霊オも、言霊アの人間感情も、言霊エの選択や道徳の世界も、生命の創造意志が働かない限り、何の現象も萌すことはないでしょう。欲望が起こるのも生きる意志があってです。経験を成り立たせる好奇心も、哀しいうれしいの感情も、いまここでいかなる道に進むかの選択も、すべて創造意志が縁の下の力持ちとして働いて初めて出てくるものです。

言霊イは他の四つの次元の基礎であり、原動力です。このすべての現象を起こす原動力である創造意志言霊イの実際の働きである八つの父韻が、それぞれどんな韻律で働くかは後程生命されるでしょう。それにまた”現象が産まれた”ということは実際にはどういうことなのでしょう。「赤い花が咲いた」というのは現象です。この時そのことを認識する人間が存在しなかったら、それは現象であったかどうか分かりません。また見る主体としての人間がいてもそのことに「赤い」「花」「咲いた」というそれぞれの事物に名前がつけられないならば、ただ「アーアー」というばかりで現象にはなり得ません。創造とは名を付けることです。

親音。

以上の三つのこと、すなわち、

一、現象としては現れない純粋主観と純粋客観との間の懸け橋として、母音ウオアエ、半母音ウヲワヱを結ぶ父韻キシチニヒミイリと展相して現象である子音を産み、

二、五つの母音の長として他の四音を統轄する働きをし、

三、同時に、それに名前を付ける根本の名(名の名)としての役目を果たす、

それが言霊イと言霊ヰであります。この三つの作用こそ人類文明創造の根本原動意志であります。であるからこそ、母音・半母音であり、また、父韻キシチニヒミイリとして展相する実体でもある言霊イ・ヰを、五母音のなかで特に親音と呼ぶのです。人類文明の創造主なのであります。

以上で母音・半母音・父韻・親韻と出揃っていよいよ言霊子音の誕生となるのですが、今までに人間の意識がだんだん目覚めて行く過程で説明した音の図形は次のようになるでありましょう。

ア ワ

∧ ∧

オ エ ヱ ヲ

∧ ∧ ∧ ∧

キ シ チ ニ ヒ ミ イ リ

イ ヰ

人間が眠りから目覚めて、何だか分からないが、何かが発生し動きだしたなという漠然とした意識から始まって、頭の中で形にはならない先天部分の各段階の経緯を経て、人間知性の原律である八父韻の働きかけがあり、最後に人間生命の創造意志が最底部で発動して、初めて心の現実の現象の最小要素である言霊子音が誕生する経過は以上のようなものであります。

この図形の原理が、大昔、中国に興った易経によって数理に置き換えられ、人生における現象の予知とそれに対する心構えが説かれました。それを左に示します。原理の交流の経緯やその歴史的意義などついてはのちほど詳しく説くことにいたします。

(ここに八卦図。太極図。)

ついで大和言葉命名の面白い例を申し上げましょう。先の意識の目覚めの図形で、言霊ウからア、ワ・・・・と始まり、十六番目の言霊イに至って初めて、人間創造の意志が働き現象を産みます「イザ」と意思が加わります。十六番目でイザです。それゆえ十六夜をイザヨイと呼ぶのであります。

子音。

朝、目が覚めてまだ夢うつつの状態から次第に意識がはっきりしてくるけれどまだ現実には何々と行動が起こらない期間、すなわち頭の奥で目覚めの活動が何やら活発に始まろうとする先天の部分、それが言霊ウからア・ワ・オ・ヲ・エ・ヱ・、キ・シ・チ・ニ・ヒ・ミ・イ・リ・、イ・ヰ・、という十七の言霊で示されました。

そこで十六番目と十七番目のイ、ヰ の親韻の協同作業によってイザと現象創造意思が具体化されてきます。親は子を産む事となります。現実には、父である八つの父韻と、母である母音のうち言霊イを除いたウオアエ四母音の相乗で、8×4=32 の子音が生まれ出ることになります。

例えば父韻チ×母音アは チア ですが、ちちいんはあくまで実在でなく知性の律韻でありますから英語アルファベットの T で現すとよく理解できます。すなわち TxA=Ta となります。

同様に父韻ミ×母音オは MxO=Mo で子音モが生れます。こうして生れた三十二の子音はその一つ一つの子音が父と母の性質を共に受け継ぎながら、しかも父とも母とも違った独立した実相を備えています。父母の旋転から子として後天が生れたわけです。この子音は生れたばかりで無垢な赤ん坊のようなものです。後天現象の最小要素または元素です。これが複雑に結合して実際の心的現象すなわち言葉が作られていくわけです。言葉の元の単位の言葉を言霊と呼ぶのです。

意識が目覚めていく自然の様子を母音の順に記しますと、ウアオエヰとなります。これを縦に書き、父韻キシチニヒミイリを横にとって五十音図を書いてみると、母音、半母音、父韻、親韻、子音の意義が比較的容易に理解できますので、見なれないかもしれませんが下に一つの五十音図を掲げます。

ウ・・・・・・・・・・・ウ

ア・・・・・・・・・・・ワ

オ・・・・・・・・・・・ヲ

エ・・・・・・・・・・・ヱ

イキシチニヒミイリヰ

母音・半母音列

キシチニヒミイリの父韻

イヰ の親韻

再び父韻について。

主体と客体を結び付けて現象を生む人間知性の原律である父韻には八つの種類 キシチニヒミイリ があることを先にお話質した。この知性の原律とはどのようなものなのでしょうか。八父韻は二つずつ組み合わさって陰陽または正反をなし、それが四組あります。チイ・キミ・シリ・ヒニ であります。

しからばそれぞれはどんな動きをするのでしょう。実はこれを表現し理解していただくことは非常に困難なことなのです。なぜなら父韻の原律とは人間の心の最も深いところで創造意志が四つの母音に働きかける一瞬の力動なのですから。本当に理解し体験するには、自分自身の心の中で、実体験で、確認するより方法はないわけです。そうはいっても何も参考になることがなくてただ把握せよといっても無理ですから、参考例を次ぎに掲げて置きましょう。

チ 精神宇宙全体がそのまま現象発現に向かって動きだす端緒の力動韻

イ 動きだした力動が持続する韻

キ ミとは反対に体験内容を自我の方向に?き寄せようとする力動韻

ミ 精神宇宙の中に己にある自己の体験内容に思いが結びつこうとする力動韻

シ 精神宇宙にある精神内容が螺旋形の中心に静まり収まる力動韻

リ シとは反対に、ある精神内容が宇宙の拡がりに向かって螺旋状に発展拡大していく力動韻

ヒ 精神内容表現が精神宇宙の表面に完成する韻

ニ その反対に、事物の現象の種が精神宇宙の中核に煮詰まり成る韻

さらにこの八つの父韻について参考にしていただくために、私の言語学の師であった小笠原孝次氏ならびにまたその師であった山腰明将氏(共に故人)の八父韻説明を付け加えておきましょう。

小笠原氏 山腰氏

チ 創造 陽出力

イ 繁栄 飛至力

キ 収納 陰搔力

ミ 整理 旋回力

シ 調和 透指力

リ 滲透 螺婁力

ヒ 開顕 開発力

ニ 成熟 吸引力

以上八父韻それぞれについて説明を加えましたが、どれをとってもやはり概念的説明に留まってしまいます。

これ以上の立ち入った説明は、どうしたら言霊の理解を深め、体得することができるのかの方法を申し上げるところで詳しくお話することにしましょう。

次元の相違と父韻。「言霊」。

商人と学者が、または学者と芸術家が、社会的な事件などについて口角泡をとばして議論をしている光景を時々見かけます。いつまで経っても意見はすれ違ってしまい、まとまることがありません。これはどちらかが正しくて一方が間違っているためというよりか、双方の意見のよってたつ次元が異なるための場合が多いようです。

商人はウ言霊の次元に、学者はオ次元に、芸術家はア次元に、、立っていて、お互いに相手の立つ次元を理解しかねているのです。

このように、住む母音の次元を異にしますと、考え方がそして使用する言葉自体が、違ってきます。この相違を言霊からみるとどいうことになるのでしょうか。

住む母音の世界が異なりますと同時にその意見き発想目的ばかりでなく議論の進め方まで違ってきます。

この場発想の根元は母音に、目的は半母音に、あたります。

そして発想から目的に至る経過が懸け橋である八父韻で現されます。

母音に働きかけて現象を生む人間創造意志がどのような韻律の順序で発動されるかによって現されるのです。

そして母音の各次元にはそれぞれ特有の父韻の配列を持って表される目的追求の方法のリズムが具わっています。その内容の詳しい説明は後に譲ることとして、その次元特有のリズムである父韻の配列を書きますと、 次のようになります。

ウ 欲望の次元 キシチニヒミイリ (かさたなはまやら)

オ 経験知次元 キチミヒシニイリ (かたまはさなやら)

ア 感情の次元 チキリヒシニイミ (たからはさなやま)

エ 選択の次元 チキミヒリニイシ (たかまはらなやさ)

四つの五十音図。

五十音図といいますと一般には小学校のときから教えられたアイウエオが唯一のものと思われていました。なぜ縦にアイウエオと並び、横にアカサタナハマヤラワと並べるのか、ただ教えられたからそう覚えて使っているだけです。

そもそも音図とは何なのでしょうか。巻頭序の書き出しの答は次の通りです。先にお話ししてきましたように人間の精神は全部で五十個の最小単位の要素から成立しています。

五母音、五半母音、八父韻、三十二子音です。

これで全部ですし、これ以上でもこれ以下でもありません。大昔、日本人の祖先はこのことを探求解明し、同時に、この五十音をどう配列したら、言い換えますと、人間がどのような心の持ち方、どのような精神構造であったら、理想なのであろうかということを解明したものが五十音図なのです。

この場合、心の住む次元、すなわち母音を右側に配列します。そして人間の最も行動の眼目となる次元を五母音の中心に位置させます。

例えば、商売行為の眼目には欲望であり言霊ウです。

しかし商人の世界が欲望、言霊ウであるとはいっても、商人に経験知、感情、道徳心等々がないわけではありません。

ただ商人は商売をする時、言霊ウ以外の次元はウ次元の目的を達成するための道具に使うことにとなります。

その道具に使う他の四次元の中で大切な道具ほど仲側から配列して行きます。

そうしますとウ言霊中心に生きる人の心の母音体系は、上より、アイウエオと並びます。

そしてウ次元の欲望を達成するための意志の運び方、すなわち母音と半母音とを結ぶ懸け橋である八つの父韻のの配列は、先に述べましたようにキシチニヒミイリであります。

以上のことを総合して五十音図を作製しますと下図のごとく私達が常に使っている五十音図を得ることになります。

言霊 ウ

アカサタナハマヤラワ

イキシチニヒミリヰ

ウクスツヌフムユルウ

エケセテネヘメエレヱ

オコソトノホモヨロヲ

しかしながら右の道理をそのまま進展させますと、この音図のほかにさらに四つの音図がある勘定になりましょう。

すなわち言霊オ、ア、エ、イを主眼目にした心構えを表す精神構造の音図です。詳しく言えば、

言霊オである経験知、一般に科学的探求に必要な心構えの音図、

言霊アである芸術宗教に備わった感情構造の音図、

言霊ウオアの次元の事象をどのように選択していくかという、一般に道徳、政治に必要な言霊エである心構えの音図、

さらに言霊イである、精神の深奥にあって他の四つのの次元の原動力となる人間意志そのものの音図、

これらの四種があるはずです。

この四種類の音図を簡単に書くと40頁の図15~図18のようになります。

言霊 オ

アカタマハサナヤラワ

イキチミヒシニイリヰ

オコトモホソノヨロヲ

ウクツムフスヌユルウ

エケテメヘセネエレヱ

言霊 ア

イチキリヒシニイミヰ

エテケレヘセネエメヱ

アタカラハサナヤマワ

オトコロホソノヨモヲ

ウツクルフスヌユムウ

言霊 エ

アタカマハラナヤサワ

イチキミヒリニイシヰ

エテケメヘレネエセヱ

オトコモホロノヨソヲ

ウツクムフルヌユスウ

言霊 イ

ア・・・・・・・・・・・・・ワ

オ・・・・・・・・・・・・・ヲ

ウ・・・・・・・・・・・・・ウ

エ・・・・・・・・・・・・・ヱ

イ・・・・八父韻・・・・ヰ

昔の日本人は右に図示した音図のうち、言霊オを中心としたものを赤珠音図(ア段が横にアカタマと続くため)、言霊アを中心としたものを宝音図(ア段の二番梅からタカラと配列されるため)、言霊エを中心眼目としたものを天津太祝詞音図(アマツフトノリトオンズ)、言霊イのものを天津菅麻音図(アマツスガソオンズ)、と呼んでいました。

また先に掲げた言霊ウが中心となった音図を天津金木音図(アマツカナキオンズ)と申します。現在はなぜ言霊ウを中心とした天津金木音図のみが一般に伝わり教えられているのでしょうか。

それはここ二千年ほどの間、世界の歴史は人間が持つ五つの性能の内で第一に言霊ウが独走する時代であったからです。

言霊ウが他の次元の人間性能と調和が保たれない時、招来する社会国家の世相は弱肉強食の権力思想に塗りつぶされてしまうこととなります。言霊ウを眼目とする音図こそ現代社会にとって最もぴったりした音図ということができるでしょう。

なお言霊イ中心の天津菅麻音図のみは、縦の母音、横の父韻とも、その配列が先に述べた配列法則と異なります。

それは言霊イ、すなわち人間の根本意志は他の性能の底に働いて現象を生起させますが、意志自体は現象としては現われないからです。そのため母音配列と八父韻の順序は定まりません。

生れたばかりの素朴な状態の意味でスガスガシイ麻または衣と名付けられたわけです。

「言霊」の写し 2 に続く。

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