大祓祝詞の話。

大祓祝詞の話。島田正路著。

原文と訳。

六月晦大祓みなつきつごもりおおはらへ十二月之しはすこれに准ならふ

集侍うごなはれる、親王みこ、諸王おほきみ、諸臣まえつきみ、百官人達もものつかさびと諸もろもろ聞召せと宜のる。

天皇すめらが朝廷みかどに仕へ奉る、比ひ礼れ挂かくる伴男とものを、手た襁すき挂かくる伴男、靭ゆき負ふ伴男、釼たち?はく伴男、伴男の八十伴男を始めて、官つかさ々に仕え奉る人達の、過ち犯しけむ雑々くさぐさの罪を、今年の六月晦の大祓に、祓ひ清め給ふ事を、諸もろもろ聞召せと宜る。

高天原に神留まります。皇親神漏岐神漏美すめらあかむつかむろぎかむろみの命以ちて、八百万の神等を神集つどひに集つどひ賜ひ、神議はかりに議りたまひて、我皇御孫すめみま命は、豊葦原の水穂国を、安国と平けく知しめせと事こと依よさし奉まつりき。

斯く依よさし奉りし国くに中ちに、荒ぶる神等をば、神問はしに問はし賜ひ、神拂ひに拂ひ賜ひて、言問ひし磐いは根ね樹き根ね立たち、草の片かき葉はをも言止めて、天の磐座いはくら放ち、天の八重雲を嚴いづの千ち別わききに千別きて、天降し依し奉りき。

斯く依し奉りし四方の国中と、大倭日高見おおやまとひだかみ国を、安国と定め奉りて、下津磐根に宮柱太ふと敷しき立て、高天原に千木高知りて、皇御孫すめみま命の瑞みづの御殿みあらかへ奉りて、天の御み蔭かげ、日の御蔭と隠かくりまして、安国と平けく知しらしめさむ。

国中くぬちに成り出でむ、天益人等あめのますひとが、過ち犯しけむ雑々くさぐさの罪事は、天津罪とは、畦あ放ち、溝みぞ埋うめ、樋ひ放ち、頻しき蒔き、串刺し、生剥ぎ、逆さか剥ぎ、屎くそ戸へ、幾許ここだくの罪を天津罪と宣りわけて、

国津罪とは、生膚いきはだ断たち、死しに膚はだ断ち、白人しらひと胡こ久美くみ、己おのが母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪、畜けもの犯せる罪、昆虫はふむしの災、高津神の災、高津鳥の災、畜仆たほし、蠢まじ物ものせる罪、幾許ここだくの罪出でむ。

斯く出でば、天津宮事以ちて、大中臣、天津金木を、本打切り、末打断ちて、千ち座くらの置座おきくらに置足らはして、

天津菅すが麻そを、本刈断ち、末刈切りて、八針に取辟さきて、天津祝詞の太祝詞ふとのりと事を宣れ。

斯く宣らば、天津神は、天の磐いわ門とを押し披ひらきて、天の八重雲を、嚴いづの千別きに千別きて聞し召さむ。国津神は、高山の末、短ひき山の末に上りまして、高山のいほり、短山のいほりを撥かき分けて聞し召さむ。

斯く聞しめしてば、皇御孫すめみま命の朝廷みかどを始めて、天下あめのした四方の国には罪と云ふ罪は在らじと、科しな戸どの風の、天の八重雲を吹き放つ事の如く、朝あしたのみ霧夕ゆうべのみ霧を、朝風夕風の吹き掃ふ事の如く、大津つ辺べに居る大船を、舳へ解き放ち、艫とも解き放ちて、大海原おおわだのはらに押し放つ事の如く、彼方おちかたの繁木が本を、焼鎌の敏と鎌かまもて、打ち拂ふ事の如く、遺のこる罪はあらじと、祓ひ給ひ清め給ふ事を、高山の末、短山の末より、さくな垂だりに落ち、沸たきつ速川の瀬に坐ます、瀬織津せおりつ姫と云ふ神、大海原に持ち出でなむ。

斯く持ち出で往いなば、荒塩の塩の八百道やほぢの八塩道の、塩の八百会あいに坐す、速開津はやあきつ姫と云う神、持ちかか呑みてむ。斯くかか呑みてば、気吹戸いぶきどに坐す気吹戸主と云ふ神、根国底国ねのくにそこのくにに気吹き放ちてむ。

斯く気吹き放ちてば、根国底国ねのくにそこのくにの坐す速はや佐さ須良姫と云ふ神、持ちさすらひ失うしなひてむ、斯く失ひてば、天皇すめらが朝廷みかどに仕え奉る、官々つかさつかさの人たちを始めて、天の下四方には、今日より始めて、罪と云ふ罪はあらじと、高天原に耳振立てて聞く者と、馬牽き立てて、今年の六月みなつきの晦日つもごりの夕日の降くだちの大祓に、祓ひ給ひ清め給ふ事を、諸もろもろ聞し召せと宜る。四よ国くにの卜うら部べ等、大おお川かわ道ぢに待ち退まかりて祓ひ却やれと宜る。

訳。

六月末日の大祓十二月もこれと同じ

今日の儀式にお集まりになった親王様、皇族方、諸大臣達、その他朝廷の各役人方、これより申上げる事をお聞き下さい。

天皇が主宰なさる朝廷にお仕えする言霊原理の奉持者、原理の活用による政策立案者、政策を法令化する人達、その法令をもって一般国民に接する役人達、その他大勢の役職にある者達を始めとして役所に務めるその他の人達が、政治上また日常に犯した種々の罪穢を、今年六月末の大祓によって祓い清めますから、皆謹んでお聞きなさい。

数千年乃至一万年の昔、太古と呼ばれる時代に地球上の高原地帯に於て人間の心と言葉の究極の原理を発見し、後世神漏岐かむろぎ・神漏美かむろみの命と神話で呼ばれるようになった私達日本人の大先祖に当る方が、大勢の言霊原理の自覚者を一堂に集め、相談した結果、

言霊原理を第一次的、その原理に基づいて事物に名を付けることを第二次的、その言葉に相応ふさわしい合理的な社会を第三次的な芸術として理想の社会・国家を建設する責任者(神話で邇々芸命ににぎのみことと呼ぶ)を地球上の平坦地、日本の土地に派遣し、言霊原理に則った平和な国家を創建せよ、と命令したのです。

またその日本の地に下って行ったなら、その地に以前から「我よし」の力を振う人々を正当で合理的な言葉の論理で説得し、彼等が主張する間違った論理や感情論を一切説破して、天降った聖達が自覚している心の先天構造の真理を発表し、その先天構造から現出する社会創造の政策を宣布するように委任し、命令したのでした。

この様に委任されました邇々芸命という日本の肇国者であり世界人類文明の創始者は世界の国々とこの日本の国とを平定し、人間天与の精神支柱を言霊アオウエイと確認し、その上で人類文明創造の原理として言霊アイエオウを高く掲げた政治の庁を創建し、この日本の国を世界の高天原として言霊原理の道理そのままの政治機構を打建てたのでした。

また日本朝廷の創建者邇々芸命の天津日嗣を受け嗣ぐ代々の天皇(スメラミコト)の神聖な朝廷にお仕えする人たちは政治の原理として言霊布斗麻邇を奉載し、その原理を数霊かずたまを以て正確に活用・運用することによって日本国と世界の国々を、現代の各民族の神話が「神代」と呼んでいる五千年の長い年月の間、平穏無事に治め、人類の第一精神文明の時代を創造したのです。

時は移り、人類の第一精神文明の時代は終わり、物質科学研究を目的とする人類の第二物質科学文明時代に入ります。この時代の目的追及を促進するための方便として第一精神文明の中心法則であった言霊原理は社会から隠没されました。そのため年月の経過と共に日本と世界の国々との中に於いて「生めよ殖えよ地に満てよ」と増加する人々の中に種々の罪が発生して行きます。

それらの罪の中で五十音の言霊法則を乱す形而上の罪とは畦放ち、溝埋め、樋放ち、頻しき蒔き、串刺し、生剥ぎ、逆剥ぎ、屎戸等のものであり、他人や社会に迷惑をかけ秩序を乱す形而下の罪として生膚断ち、死膚断ち、白人胡久美、己が母犯す罪、己が子犯す罪、母と子犯す罪、子と母犯す罪、獣類を犯す罪、蝗いなご大量発生の罪、不浄霊能力の罪、人を迷わす言葉の罪、獣を殺し、禁厭まじないをする罪等々の罪が発生して来るでありましょう。

そして第二物質科学文明の終末期には、世の中に人々の罪が満ち溢れ、社会の混乱が収拾つかない程に立ち至ることでしょう。

そういう事態になった時には、日本の朝廷に於ては言霊の原理に則り、第二物質文明時代の指導精神原理である天津金木音図の構造を解体して生命本然の構造に見合うよう変換し、また人間が生来付与されている大自然の心の構造である天津菅麻音図を解体して真の文明創造の原理にはならない事を確認し、その上で人類文明創造の大法である天津太祝詞音図の手法タカマハラナヤサに宣り直して見なさい。

そうするならば、第一精神文明時代にあったと同様の言霊布斗麻邇に基づく世界の政庁・法庁・教庁である御稜威みいづ耀く日本の朝廷が再び世界人類の上に創建され、その朝廷に於て政治を行う人たちは五十音言霊の秘法を宣布・活用して、世の建直しの政策を立て、次々に世界に発令・伝達する事に務めるようになり、その政治の恩恵を受ける国々の国民は、言霊原理に基づく政策を、原理を自覚できない人々にも理解することが出来る言葉に書き直した法令によって理解・得心して喜んで新しい時代の生活を楽しむ事となるでしょう。

このような新しい人類の第三文明時代が創造されて行きますと、天津日嗣天皇あまつひつぎすめらみことの朝廷を始め世界の国々には、文明創造の原理の光に包まれて罪という影はすべて消えてしまい、心の構造の原理に基づいた世界政治の政策が次々に発令され、言霊父韻の法則を見事に使い分けた判断が世の中の暗黒を吹き掃って、第二文明時代には使用されなかった天津太祝詞音図という大船の原理が世界の人々を乗せて第三文明創造の大航海に乗り出すこととなり、世界を覆っていた複雑怪奇な思想理論が言霊原理の先天と後天の明快な構造理論によって整理されて行きます。

こう言われる如く世界の人々の罪という罪は消えて無くなってしまうように日本の朝廷の政治は行われますが、そのやり方は次の様なものであります。

天津太祝詞音図の母音はアイエオウと並びます。

そのアの位にいます天津日嗣天皇から文明創造に十分な内容を持つ命令が下りますと、その位の次のイ段に位する五十音言霊図を自覚する人々(瀬せ織おり津つ姫)によって沙庭・検討され、社会への発令が決定されます。

すると次のエ段に位する役目の人々(速はや開あき津つ姫)は、時々刻々と移り変わる世界の情勢に適合するように命令の内容・発令の時期等が充分納得出来るまで検討・決定されます。

次に言霊オの段階(気い吹ぶき戸ど主)に移され、命令は一般国民が理解し易い法令・法則に書き直され、社会に発表・伝達されます。

最後の言霊ウの段階にいる世界の大衆(速はや佐さ須す良ら姫)はその人情溢れる細やかな配慮の法律の下に、新時代の生活を楽しみ、安楽な生計を営むことが出来ます。

法律は何時しかその目的を達すると忘れ去られます。そうなる前に時宜に適した次の法律が発令されることとなります。

政治の状況がこの様に澱みない時代となりますと、天津日嗣の朝廷にお仕えする官職にある人々を始めとして、世界の四方の国には、罪という罪は人類文明創造の光の中にすべて消え去りますから、高天原の朝廷の天の斑馬と言われる天津太祝詞音図を斉しく称えながら、今年の六月末日の夕日の入日の大祓の清めの言葉を皆さん、謹んでお聞きなさい。都の四方の国の大祓の儀式の責任者もそれぞれの地方にこの趣旨を持ち帰って人心の滞りない様務めなさい。

大祓祝詞の話 その一

平成十三年二月十日・会報第152号

大祓おおはらへ祝詞のりと、天津太祝詞音図あまつふとのりとおんずが何時ごろ制定されたのか、正式な記録はありません。民間に伝わる竹内文献・阿部文献によると、神武天皇に始まる神倭かむやまと王朝の前、鵜草葺不合うがやふきあえず王朝第三十八代天津太祝詞ふとのりと子ご天皇がこの祝詞を制定したと伝えられています。その時は何時か。神武天皇即位より遡ること約千年、今より三千七百年前頃と推定されます。

その後、この祝詞は年々朝廷に於いて使用され、イスラエルの王モーゼが来朝・留学した際、この祝詞の内容の骨子がモーゼに伝与された事が確められています。その証拠は大祓祝詞の中の「国津神」の内容が、旧約聖書の出挨及エジプト記・利未レビ記にその詳細な説明が載っている事であります。(お疑いまたは興味を持たれた方は是非祝詞の国津罪と旧約の出挨及記、特に利未記をお読み下さい。立所に了解されるでありましょう。)

その後、鵜草葺不合皇朝より神倭王朝に替わってからもこの祝詞は使用され、最後に六九○年頃柿本人麻呂による修辞によって今日見られるような美文となったと伝えられています。

では大祓祝詞にはどんな事が述べられているのか、を予め箇条書にまとめておく事にしましょう。

一、古事記・日本書紀に記されている邇々芸命ににぎのみことと呼ばれる人とその集団が、この日本列島に天孫てんそん降臨こうりんして、日本の国家建設を始めた時の歴史状況。

二、国を肇めるに当たって、その建設には如何なる基本方針に基づき、どんな国家体制を目指したか。

三、方針に基づき理想的精神文明の国家が建設された後、歴史の進展と共に日本国並びに世界の各地に醸成されて来る種々の矛盾、罪穢の種類とその内容の説明。

四、歴史が更に進み、人類が人類文明創造の基本方針を忘れ、社会の汚濁が頂点に達した時、その罪穢を祓い、禍因を根絶して、肇国時代そのままの永遠の調和・平安を取り戻す為の、人類が頼るべき唯一無二の処置法の開示。

五、その操作、処理の成功によってもたらされる平安・調和の時代は如何なる政治が行われるか、の説明。

言霊の会 1

大祓祝詞の話 その一 平成十三年二月十日・会報第152号

以上の内容が簡潔・明瞭に述べられています。これについての話が進んで行く内に、読者はその教示と予言の見事さに目を見張る思いがする事でありましょう。

さて前置きはこの位にして大祓の話に入りたいと思いますが、現代に生きる読者は冒頭に掲げました大祓祝詞をお読みになってどうお感じになられたでしょうか。その内容がお分かりになりましたでしょうか。「難しくて何を言っているのか、さっぱり分からない」と言う方が大方ではないか、と思います。

そのお分かりになれない理由は何か。現代人には昔の言葉が分からない為か。否、そうではありません。ほとんどすべての現代人にとって全く耳新しい言霊布斗麻邇ふとまにの原理に則り、これを土台として大祓祝詞が書かれている為であります。言霊の原理に通じませんと、大祓の内容は全く雲を掴む如くその理解は困難であります。言霊布斗麻邇の学問が世の中の常識であった昔に、大祓祝詞は書かれたものなのです。

幸いな事に私の言霊学の師、小笠原孝次氏が書きました「大祓祝詞解義」という本があります。氏はその一生を言霊布斗麻邇の復活の仕事に捧げ、昭和四十四年、言霊学解説の最初の書「古事記解義言霊百神」を世に出しました。次いで復活された言霊学を基礎に昭和四十五年、「大祓祝詞解義」(改訂再版)を刊行しました。大祓祝詞の全内容を解明し尽くした名文章であります。私が今からお話する「大祓祝詞の話」も先師のこの「大祓祝詞解義」を下敷きとして進めて行く事となります。

「そんな名文の解説書があるなら、それを再版して広めたらよいではないか」と思われるかも知れません。それで済むことなら私もこれ程楽な事はないのですが、そうもいかないのです。何故なら、先師の「大祓祝詞解義」は著者自筆のオフセット版で三十七頁の冊子です。その三十七頁に言霊原理の精髄を大祓祝詞の中に投入して、鮮やかに祝詞の謎解きをしましたので、言霊原理の理論に精通している方なら兎も角、言霊学に詳しくない方にとっては、大祓祝詞の難解さと言霊学の難しさとが相乗されて、唯ただ「難解だ」という読後感だけが残ってしまう恐れがあります。

そこで先月の会報で「古事記と言霊」のお話の三回目を終了した事でもありますから、これより改めて言霊学の復習をしながら、大祓祝詞の解説に入って行きたいと思う次第であります。今回は大祓祝詞の話の第一回でありますので、言霊の原理が大祓祝詞の全文にわたりどの様な関係にあるのか、その要点を予めお話申上げたいと思います。

大祓祝詞は全文が天津日嗣天皇(スメラミコト)の人類文明創造とそのための政治について述べています。政治と申しますと、大方の人は権力・武力・財力を基礎とした政治を思い浮かべることでしょう。過去二・三千年間の世界は常に専制・民主の如何に関係なく、この権力・財力・戦力の強権を持った政府による政治でありました。けれど各民族の神話が伝える所謂神代の時代、言霊学的に見れば、人類の第一精神文明時代に於てはそうではありませんでした。それはどんな政治なのか、と申しますと、人間の精神とは何か、を深く洞察した言霊原理による道徳の政治でありました。

かく申しますと、「道徳で国家・世界の政治が出来る筈がないではないか」と反駁する方もいるでしょう。そこで言霊の原理というものが権力・武力等の力の政治とは違って世の中を治める立派な手段となる事を、ここで確めて置こうと思います。それが人類にとってこの上ない理想の世の中であり、それによる政治が社会の安定と平和をもたらす最も確実な方法である事をお分かり頂ける筈であります。

先ず人間の魂の進化の問題を取り上げてみましょう。蝶は成虫となって大空に飛び立つまでに幼虫・蛹・成虫の三段の進化をします。人間は生まれてから死ぬまで外形は蝶ほどの変形はしませんが、心は五段階の進化をします。その進化とは人間に与えられた五つの性能を段階的に一段々々自覚して行く進化であります。その進化を人の心の住家である母音宇宙で示しますと、下から順にウオアエイの界層の自覚の進化で表わすことが出来ましょう。

人はこの世に生まれると先ず乳を吸います。生長するに従って玩具が欲しい、美しい着物が着たい、から段々よい生活がしたい、名誉がほしい、大勢の人を支配したい等、欲望が大きくなります。この様な五官感覚に基づく欲望の段階を言霊ウと呼びます。この欲望を人生の最大の関心事として一生を送る人が如何に多い事でしょうか。この行為から社会の産業・社会が成立して来ます。

人の心の進化の第二段階は言霊オであります。ここから現出する人間の行為は人が経験する幾多の行為の現象との間の関係を調べ、それを法則化する事、広く言いますと学問の事であります。現象間の関係法則を求め、個別の現象から一般の法則を求めることを事とします。精神と物質の科学はこの所産です。

第三の進化段階を言霊アと言います。これより現出するものは感情現象であり、これによって生まれ出る人間の社会的行為は芸術・宗教活動です。この進化段階の宇宙を思索することによって宗教的悟り、魂の救われ・自由を実現することが出来ます。禅ではこの次元自覚の世界を「空」と呼びます。人間精神現象がそこより生じ、またそこに帰って行く元の宇宙のことであります。仏教の言葉を借りると、進化の第一段階の人を衆生、第二を声聞、第三を縁覚と申します。縁覚とは人間の経験知識の関係の何たるかを知ることによって、その知識が現出する元の宇宙の相を自覚し、魂の一応の自由を得た境地であります。

進化の第四段階を言霊エと言います。この次元宇宙から発現する人間行為は実践智・道徳智です。人が何事かの処理を必要とする時、今までの三段階、欲望と経験知識と感情の三つをどの様にコントロールすれば最良の処置法が得られるか、の実践智の段階です。仏教修行の言葉で言えば、第三の言霊アの悟りで一応の魂の自由を得て、自らは救われた、しかし世の中には心の束縛のために苦しんでいる人が多勢いる。何とかしてそれ等の人々を導き、自由な境地に救ってあげたい、と利他の行に発心する人、これを菩薩と呼びます。自分のためにどうしたらよいか、ではなく、人のために如何にしたらよいか、を学ぶ修行です。利他の修行を通じて、やがてはその積んだ徳のおかげで将来、仏と成る事が約束される菩薩、これを仏教で因位の菩薩と言います。

ただ一人の自分を救うこと、これは比較的易しい事と言えます。けれど無限とも思える多勢の苦悩を救う事の完成は気が遠くなる程至難の業でありましょう。はっきり言って生身の身体を持つ因位の菩薩がその修行の延長上で成仏することは不可能な事なのです。

精神進化の第四段には先の因位の菩薩の自覚とは全く異なる別の精進の道があります。仏道はこれを果位の菩薩の道と呼んでいます。因位の菩薩が多勢の人々を救う事によって、長い精進の後に仏に成る事を目指す修行の道であるのに対し、果位の菩薩とは、仏である身が衆生済度の目的のために身を菩薩と変じ下生した菩薩の事です。普賢・勢至・観世音等の菩薩がこれに当ります。仏教でははっきり述べませんが、因位の菩薩が人々を多勢救う功徳を積む菩薩であるなら、果位の菩薩とは自ら具備する仏の徳によって国家・人類全体を救済する大乗中の大乗たる菩薩の事であります。

人間精神の進化の最上の第五段は言霊イの自覚段階です。この次元宇宙より発現する人間の性能は意志または生命意志と呼ばれるものです。この意志というものは、自らは現象として現われることはありませんが、その見えない働きである八つの父韻が、今まで述べて来ました言霊ウオアエの四次元宇宙に働きかけ、それぞれの宇宙より合計三十二(4×8)の現象子音を現出させます。と同時に、現出した現象を言霊の結合という方法で表現する(日本語)という分文明創造の根本土台となる性能の次元でもあります。

人間は如何なる境地を開拓し、心を進化させようとも、それだけで進化を自覚した事にはなり得ません。その進化した境地の内容を言葉によって表現し得て初めて自覚の証明が得られます。仏教の得度・済度の度という字は渡すこと、即ち登りつめた境地を言葉に渡す(度)事によって表現するの意であります。

そして人間精神の最高の進化段階は生命意志を構成する五十個の言霊によって組み立てられ、それ以外のものは存在しません。それ故にこの言霊イの次元の自覚の境地は言霊五十音の結合によって事物の実相を表現する言葉、即ち日本語によってのみ表現・自覚の完成が可能なのであります。

太古の日本がアオウエイ五十音言霊の原理によって作られた大和言葉を日常使用する国家として、その国名を日(霊)の本と呼ばれた所以であります。

以上、人間精神の五段階の進化を言霊原理によって説明いたしました。心の進化の最終段階である言霊イの自覚の方法は、古事記の「禊祓」に示されています。即ち言霊原理によってのみ精神の最高自覚は完成されます。これ以外の自覚の道はありません。

この禊祓の言霊原理に基づいた大祓の祝詞でありますから、聖書ヨハネ伝に「初めに言葉あり、言葉は神と共にあり、言葉は神なり」と示される生命の言葉として人類文明創造の原動力となることをお分かり頂けると思います。

大祓祝詞の話 二 の1

大祓の儀式は宮中に於いてどの様に行われていたか、と申しますと、大宝元年(七○一)の大宝立礼の神祓会に「凡そ六月みなつき、十二月晦日しはすつごもりの大祓は東西(大和、河内)の文部祓刀を上たてまつり、祓詞を読む。百官男女を裁所に衆集し、中臣祓詞を宜り、卜うら部べ解除はらへを為す」と記されていて、また延喜格(九○七)にては、この時「御み麻あさ」「荒あら世よ、和にぎ世よ」「壺つぼ」等の「御み贖あか」の儀式が行われ、その時、宜陽殿の南頭に於いて奏せられる宜命が大祓祝詞である、と言われています。

宮中に於ける先の儀式がどの様なものか、筆者現在その資料を持ち合わせていません。今はただ、先の文章の中の主な語句について分かっている事のみを次に記して御参考に供します。

律令――律令とは律と令。わが王朝時代に於ける法典。律は罪人を罰する法、令は細大の制度を規定したもの。

格きゃく――のり、おきて。規則。特に王朝時代律令を執行するため時勢に応じて発せられたもの。

荒あら世よ――六月祓の時、御贖物のために神祓官から奉るあらたえの衣。

和にぎ世よ――六月及び十二月のみそかに行われる宮廷の儀式に、天皇の身長を量る竹、または節折の贖物として奉る服、すなわち和妙の称。

あがもの――罪をあがなう料として祓はらへの時に供えるもの。

節よ折おり――昔、宮中で六月・十二月のみそかに、荒節・和節の竹の杖でもって、天皇・皇后・皇太子の丈の寸法を量って行う祓。

荒妙――織目の粗い布。

和にぎ妙たえ――織りの細かい栲たえ(絹布類の総称)

さて唯今から大祓祝詞の現代語による説明に入りたいと思います。大祓祝詞は文章の一節々々を切らずに書いてありますので、何処までが一節なのか、意味が分かりませんと節の区切りもはっきりしません。そこで一節々々を前もって区切り、書いて行く事にいたします。

集うご侍なはれる、親王みこ、諸王おほきみ、諸臣まえつきみ、百官人達もものつかさびと諸もろもろ聞召せと宣る。天皇すめらが朝廷みかどに仕へ奉る、比礼挂ひれかくるくる伴ともの男を、手襁挂たすきかくる伴男、靱ゆき負ふ伴男、剱たち?はく伴男、伴男の八十伴男を始めて、官つかさ々に仕え奉る人達の、過ち犯しけむ雑々くさぐさの罪を、今年の六月みなつき晦つごもりの大祓に、祓ひ清め給ふ事を、諸もろもろ聞召せと宜る。

以上が大祓祝詞の序文に当ります。この序文から解釈・説明を始めることになりますが、ここでお断りして置かねばならない事があります。先月、大祓祝詞の話を始めようとしましたら、会員のYさんが、現在の各神社で称えていらっしゃる「大祓詞おおはらへのことば」(神社本應蔵版)を筆者に持って来て下さいました。その文章を読みましたところ、上述の大祓祝詞の序文が全部削除されてしまっているのです。「大祓詞」の文章が大祓祝詞だと思っている方には、誠に奇妙と思われるでしょうから、この事についての事情をお話申し上げることにいたします。

本来、大祓祝詞は先にもお話いたしましたように、天津日嗣天皇が日本国家建設の方針、世界の将来に対する予見、並びに世界の人々の中に起るであろう罪穢の修祓の方法等を国民に教示した、天皇の国民に対する宣言であります。それ故、大祓祝詞を読む大中臣(総理大臣)は天皇の前で、天皇を背にして立ち、文武百官を前にして「天皇の宣言はこの様なものですよ」という様に読んだものであります。

それが現在では、神社神道や新興の宗派神道に於いては、神官が神の方を向いて、神に奏上する形式で祝詞を称えるようになりました。祝詞を称える人の向きが百八十度逆転しました。これは今より二千年以前、人類文明創造の原器であった言霊布斗麻邇の原理が隠されて以来、それに代わる神社神道が創設され、神道が礼拝の形式を外国伝来の儒教・仏教を真似た事から始まったためであります。

日本の古神道では、神である言霊アオウエイの天の御柱を心中に斎いつく(五い作つくる)事を目的として、神を拝おがむ(おろがむ)事はありませんでした。言霊原理を神として、伊勢神宮の御祭神として祭って以来、神を対象とする新興の形式が始まったのであります。そのため、信仰の形式としては大祓祝詞の序文は全く適当ではありません。そこでスッパリと削除という事になったのでありましょう。

祝詞の文章の説明に入ります。「集うご侍なはれる、親王みこ、諸王おほきみ、諸臣まえつきみ、百官人達もものつかさびと諸聞召せと宣る。」

集侍はれる、とは「此処に参集なられた」の意。

親王みことは、大宝令で、天皇の兄弟・姉妹及び皇子・皇女の称号。明治憲法では、皇子以下皇玄孫までの男子の称号。

諸王おほきみとは親王以外の皇族(九条家本延喜式)の意。

百官ももつかさとは大勢の官職にある人の意。

文全体で「此処にお集まりになった親王初め皇族方、またお役人の方々、お聞きください」という事になります。

「天皇すめらが朝廷みかどに仕へ奉る、比礼挂ひれかくるくる伴ともの男を、手襁挂たすきかくる伴男、靱ゆき負ふ伴男、剱たち?はく伴男、伴男の八十伴男を始めて、官つかさ々に仕え奉る人達の、……」

この文章は、天皇が政治を知らしめす朝廷に、役人として務めている人々の四種類の役職について述べる所であります。その四種類とは第一に比礼挂ひれかくるくる、第二に手襁挂たすきかくる、第三に靱ゆき負ふ、第四に剱たち?はく、のそれぞれの伴男であります。文章を読んだだけでは、現代人には全く何の事だかお分かりにならないでしょうが、言霊学の立場で見ると明瞭に理解出来ます。それぞれを次に説明していきます。

今まで幾度となくお話して来た事でありますが、人の心は五段階の次元宇宙を住家としています。五段階即ち五重の層を住家としますので、人間の住む所を五重いへ、つまり家いえと言う訳です。この世に生まれた赤ちゃんが付与されている人間性能はアオウエイの五母音の重畳で表わされます。この五母音の縦の並びが、天皇(スメラミコト)の人類文明創造の政(マツリゴト)の場合はアイエオウ(天津太祝詞音図)と表わされます。天皇の知らしめす政庁の役職の仕組みも人間性能と同様五段階となっています。この五段階の役職の内容から見ますと比礼挂くる伴男以下の役職が理解されて来ます。

大祓祝詞の序文には天皇の政庁の役職として比礼挂くる伴男以下四伴男が書かれています。政庁の仕組みが五段階だ、と申し上げましたから、四伴男では一段が欠けることになります。その一段とは何か、と申しますと、そこが天皇御自身のいらっしゃる政(マツリゴト)の座という事となります。政庁の役職の言霊的順序は天津太祝詞音図のアイエオウの縦の並びで表わされます。この五母音の並びに従って天皇と四伴男との仕組みを上より並べますと、天皇(ア)、比礼挂くる伴男(イ)、手襁挂くる伴男(エ)、靱負ふ伴男(オ)、剱?く伴男(ウ)となります。五段階の役職の内容について次に説明して行きます。

天皇(スメラミコト)言霊ア

大祓祝詞に示される日本朝廷の政治の実際のやり方を述べましたのが、古事記神代の巻の伊耶那岐の大神の「禊祓」であります。その「身禊」の章の冒頭の文章を引用しますと、「ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、『吾はいな醜しこめ醜めき穢きたなき国に到りてありけり。かれ吾は御身おほみまの祓はらへせむ』とのりたまひて、竺紫つくしの橘たちばなの小門をどの阿あ波わ岐ぎ原はらに到りまして、禊ぎ祓へたまひき。」とあります。

この文章の伊耶那岐の大神とは、単に生命意志の主体である伊耶那岐の神ではなく、主体である伊耶那岐の神と客体である伊耶那美の神とが一体となった宇宙身・世界身としての伊耶那岐の大神である、と申し上げました。また文章の中の「御身おほみま」とは、単に伊耶那岐の大神の精神的身体というのではなく、伊耶那岐の神の領域である黄泉よもつ国即ち外国で生産される種々の精神的産物を見聞し、経験してしまった伊耶那岐の神の身体という意味でありました。

禊祓とは単に伊耶那岐の大神自身の祓いというのではなく、伊耶那岐の大神の心を心とし、外国産の文化の経験をわが身体としての禊祓でありました。それは言霊布斗麻邇の原理に則る人類文明創造の行為であります。

大祓祝詞にあります天皇の政庁に於ける地位は先の古事記の禊祓の文章によって明らかに示されます。「御身おほみまの祓ひせん」とは、あたかも母親が赤ちゃんを抱き、自らの身体と同様に育むように、外国文化を摂取し、育てることです。大祓祝詞に於ける天皇は国民という子を抱く母親の如き慈愛を以って見そなわします。これを天皇の大御心と言います。即ち朝廷の五段階アイエオウの次元機構の中の言霊アが天皇の地位であります。言霊アの天皇の下に、イエオウの四次元の役職が置かれるのであります。

比礼挂ひれかくるくる伴ともの男を、言霊イ

比礼とは霊顕ひれとも書きます。霊である言霊が眼で見て顕れるようにしたもの、の意で、神代文字、麻ま邇に名なの事です。「挂かく」とは掲げるの意。「比礼挂くる」とは五十音言霊図、または言霊原理によって世間の生産物、文化を検討するの意となります。世界の文化といいましても、ウオアエの四段階の別があります。

言霊ウに属する人間性能より産出される現象の構造・時所位は天津金木音図に参照してその実相が調べられます。以下、言霊オの文化には赤珠音図が、言霊アに属する文化には宝音図が、そして言霊エの文化現象には天津太祝詞音図が適用され、検討が行われます。比礼挂くる伴男とは以上の如く、政治の鏡である五十音言霊図を掲げ、この鏡に則り諸文化現象を検討し、その実相を見定める役職の事であります。

手襁挂たすきかくる伴男、言霊エ

手襁とはまた手次たすきとも書き、古代手の指を次々に折ったり、伸ばしたりして数を数えることであります。伊勢五十鈴宮は五十音言霊をお祭りする宮であり、奈良の石上(五十神いそのかみ)神宮は五十の言霊を操作・活用する五十の手法を奉る宮であります。その石上神宮に昔から伝わる「一二三四五六七八九十と数えて、これに玉を結べ」という言葉があります。五十音の言霊の動きを数で示す時、この数を数かず霊たまと呼びます。

この数による動き方を手の指の動きで示しますことを手襁たすき(手次)と言ったのでした。でありますから、比礼挂くる伴男が、各地で生産されて来る諸文化を、五十音図に照らしてその実相を明らかにしたものを、次にどの様に摂取し、社会一般の福祉にどうしたら役立たせることが出来るか、の言霊原理の活用によって、即ち手の指を折り伸ばしすることによって見定め、決定する役職が手襁挂くる伴男であります。即ち言霊エの実践智の仕事です。

靱ゆき負ふ伴男、言霊オ

靱ゆきとは矢を入れて背負う道具です。矢は人に向って飛んで行くもので、人の言葉の言葉、言霊に譬えられます。比礼挂くる伴男、手襁挂くる伴男によって、言霊原理に基づいて国民に発布される命令が決定されますと、それをそのまま言霊理論としてではなく、国民に理解され易い比喩・表徴または種々の概念的な言葉による法律・法則として国民に伝える役職のことであります。これは言霊オの働きです。

大祓祝詞の話 二 の2

剱たち?はく伴男、言霊ウ

靱ゆき負ふ伴男の靱が実際の矢の容物ではなく言葉の表徴であったように、ここの釼も武器としての太刀ではなく、霊的な判断力である霊釼または節刀の意味であります。靱負ふ伴男によって宣布された社会の法律・法則を人間社会の中で国民に接することによって現実に執行する役職の事であります。

国の中の集団または御仁に法律を執行する場合、それぞれ事情が異なり、同じ状況のものなど何一つありません。それら対応する執行者のその時、その場の適切な判断が不可欠です。釼たちとはその場の判断力の事を指す言葉であります。法律が一般社会に直接に触れる場での仕事でありますから、言霊ウの役職と言われます。

太古の天皇の知らしめす朝廷の政治機構を表わす天津太祝詞音図の五母音、アイエオウにおいて、最上段のアを天津日嗣天皇の座とした時の、天皇の下に従う比礼挂くる伴男、手襁挂くる伴男、靱負ふ伴男、剱?く伴男の四伴男の役職の内容は以下の如くであります。この四伴男の役職の内容を頭に入れて置いて頂いて、大祓祝詞を読んで行きますと、最後に出て参ります「祓戸四柱の神」と同様の内容を持ち、しかも古代の政治がいかに国民大衆の気質にぴったり適合していたか、がお分かり頂けることとなりましょう。次の文章の解釈に移ります。

「官つかさ々に仕え奉る人達の、過ち犯しけむ雑々くさぐさの罪を、今年の六月みなつき晦つごもりの大祓に、祓ひ清め給ふ事を、諸聞召せと宜る。」

この文章は単に何気なく読みますと、それだけで分かったように思われます。これより前の文章から続いて「天皇を始め、四伴男やその他の役人達の、過ちを犯した事から作るいろいろな罪を、今年の六月末日の大祓の儀式に於いて、祓い清めるから、その事について皆さんお聞きなさい」という意味に受取れるでありましょう。

けれど大祓祝詞の序文を、現代人が常識に従って先の如く受取ってしまいますと、古代から数千年続いて来ました大祓の本来の意味は全くお分かりにならないで終わることになります。それはどういう事なのか、と申しますと、文章の中に出て来る「罪」に関する解釈に問題があります。

現在単に「罪」といえば、人を殺したり、物を盗んだり、だましたりする事と思います。大祓に後章出て来る天津罪、国津罪の中の国津罪と呼ばれる罪には現代同様、そういう罪も勿論含まれます。しかし大祓が本来その祓いの主たる対象とする天津罪と呼ばれる罪にはそのようなものではないのであります。ではどんな罪なのか、次に説明いたします。

太古に於いて、官職にある人も人間でありますから、いろいろな罪を作ることもあったでありましょう。他人に不快な思いをさせたり、喧嘩をして人を傷付けたり、詐欺・横領の罪などもあった事でしょう。けれど官人としてもっと大きな罪は職務上の罪であります。

太古より日本の朝廷の政治の最重要事は世界または日本の文明の創造の中枢機関としての仕事であります。世界あるいは日本の各地に於いて産出・発明されてくる思想・信条・主張・主義・陳情・訴訟等を受け付け、それらの事柄の事情を充分に生かし、歴史創造上の材料として吸収・消化することが出来たか、どうか、が最も重大な事であります。

この作業が十中九まで達成されても、残された十分の一の積み残しは政治の禍根となり、世情不安の元となります。政治にたずさわる人にとって、この事がもっとも留意すべきことでありましょう。大祓の儀式の主な目的はこの罪の払拭にあったのであります。これらの罪穢の詳細は後章述べられる事となります。

以上で大祓祝詞の序文の説明を終わり、大祓の本論に入って参ります。

高天原に神かむ留つきまります。皇親神漏岐神漏美すめらあかむつかむろぎかむろみの命以ちて、八百万の神等を神集つどへ賜ひ、神議はかりに議りたまひて、我皇御孫命あがすめみまのみことは、豊葦原とよあしはらの水みず穂ほ国を、安国やすくにと平けく知しらしめせと事依ことよさし奉まつりき。斯く依よさし奉りし国中くぬちに、荒ぶる神をば、神問はし賜ひ、神拂はらひに拂ひ賜ひて、言こと問ひし磐いわ根樹ねき根立ねたち、草の片かき葉はをも言止めて、天の磐いは座くら放ち、天の八重雲を嚴いづの千ち別わきに千別きて、天降あまくだし依し奉りき。

大祓祝詞の話を始めるに当たり、序文の次に、祝詞の全体を五つの節に区切りました。先の文章がその第一節の天孫降臨によって日本国家の建設をはじめた折の国土の歴史的情況を述べた箇所であります。

文章を区切って説明していきます。

「高天原に神かむ留つきまります。皇親神漏岐神漏美すめらがむつかむろぎかむろみの命以ちて」

神話の文章通りに訳しますと、「高天原神界にいらっしゃる、天皇の大元の創造親神、神かむ漏ろ岐ぎ・神かむ漏ろ美みの神の命令によって、…」となります。この高天原を地球上の地理の問題にしますと、多分印度ヒマラヤ、チベット、その他アフガニスタン、パキスタン等の高原地帯が考えられます。また高天原を言霊学によって形而上の精神領域といたしますと、頭脳の中枢にあって、天名あな十七言霊によって構成されている心の先天構造のこととも解釈できます。大祓祝詞の作者はこれ等形而上、形而下の内容を双方組み合わせた意味に使ったと推察されます。その推察の理由は解説が進むにつれて御理解頂けると思います。

神かむ漏ろ岐ぎ・神かむ漏ろ美みの神かむ漏ろろは神か室むろ即ち神の家の意です。

家いえは五重いえで五階層の重畳を意味し、

神漏岐は言霊アオウエイの主体を表わす五母音を、

神漏美は言霊ワヲウヱヰの客体を表わす五半母音を指示しています。

そして縦に並ぶ五つの母音はその中の言霊イが他のアオウエ四母音を統轄しておりますので、

神漏岐は言霊イである伊耶那岐の神に当ります。

同様に神漏美は言霊ヰである伊耶那美に当ります。

伊耶那岐の神(伊耶那美の神)は言霊並びに言霊原理の神でもあります。

そこで「高天原に神留まります。皇親神漏岐神漏美の命以ちて」とは「太古に於いて、アジアの高原地帯に大勢の聖(霊知り)達が集まり、人間の心の先天構造はどの様な働きをしているか、研究を進め、終に人間の精神構造を形成する言霊布斗麻邇の原理を発見・完成させました。そしてその原理の自覚者の命令によって…」という意味である事が分かります。

「八百万の神等を神集つどへ賜ひ、神議はかりに議りたまひて」

日本の神道では神様の数をよく八百万やほよろずと表わします。辞書では極めて多い数のこと、とあります。言霊学では心を構成する言霊数五十、その典型的な運用・整理法五十、計百の原理といいます。しかし五十の言霊の幾つかを五十通りの組み合わせ方で物事の現象を表現しますと、八百万どころか、無数の真実が現われて来ます。そこで八百万の神と申します。かくて「八百万の神等を神集へに集へ賜ひ、……」とは、言霊原理の自覚者(神漏岐神漏美)の命令で、言霊原理の諸法則のすべてを含めて検討した結果として」の意となります。

「我皇御孫命あがすめみまのみことは、豊葦原とよあしはらの水みず穂ほ国を、安国やすくにと平けく知しらしめせと事依ことよさし奉まつりき」

皇孫命を邇々芸ににぎの命と呼びます。皇孫と邇々芸とは同様の意味だと申しますと、不審に思われる方もいらっしゃる事でしょう。神道で皇祖というと天照大神の事です。その子は天の忍穂耳の命、そのまた子が邇々芸の命となり、邇々芸命は天照大神の孫に当ります。祖おやから見て孫は第三次的な生命です。邇々芸とは「二の二の芸術」という事で、これも第三次的な芸わざの意です。

言霊原理の運用である言霊エの神は天照大神です。

その原理の第二次的産物は言霊即ち言葉がそのまま物事の実相を表わす大和言葉です。

次にその大和言葉の実相そのままの人間社会を作る政治活動は第三次的な芸術という事になります。

言霊原理から数えて、原理に則る文明社会建設の政治は第三次的な芸術という事が出来ましょう。皇孫邇々芸命とは、その第三次的である言霊原理がそのまま社会の実相として表われた社会・国家の建設者の名なのであります。

「豊葦原の水穂の国」の事を従来の国語学は「豊かに葦が繁り、稲の瑞みづ穂ほが実る国」即ちこの日本国と解釈します。しかし初めからその様に解釈したのでは、日本の国を肇めた意義は全く理解されません。

日本の国家を肇め、文明を創造して行くには、肇国・建設のための大前提があるのです。その前提となる言霊布斗麻邇の原理を実現する芸術作品としての国家の建設が日本肇国の精神なのです。その意味はこの国家の創始者である邇々芸命の名にも示されます。

そして豊葦原の水穂の国とはその大前提となる目的の形而上的な内容を示した言葉なのであります。 豊葦原の豊とよの字は太古の人名や土地名に多く見られます。豊とは十四の事で十四個の言霊アイエオウ・ワ・チキミヒリニイシを指します。この十四個言霊は人の心の先天構造を構成する十七言霊の中の代表言霊十四個の意味です。また東洋史思考構造を表わす 数霊八を示す図形、と西洋的思考構造を表わす 数霊六を示す図形、その双方を統轄することが出来る世界で唯一の思考原理を持つ国家である事を示すために8+6=14の数霊を表わす言葉でもあるのです。

豊葦原の葦原とは、その世界唯一のトヨの原理の言霊図上の説明であります(図参照)。大祓を行う朝廷の政治の原則を示す天津太祝詞五十音言霊図を右に掲げました。古代の日本の政治は、この音図に於けるア段(天皇の大慈悲の大御心)とイ段(言霊原理)を政治の方針の中核として成立します。その事を示すために音図の中の言霊アと言霊シを結んで名と致します。そこで建国の大方針が豊葦原と示されます。原とは図示された場という事です。

天津太祝詞音図 (略)

水みず穂ほの国の水穂とは陰陽(水火)と解釈出来ます。原理方針(隠)と出来上がった社会形態(陽)とが完全に一致している、事を示します。

国くにとは組くんで似にせるの意、または区く切って似せるの意でもあります。一般なるものを、言葉に組み、または区切って、特殊なものと限定した事を意味します。日本国と言えば他の国とは区別した日本国家の意であります。

また水穂は瑞みづ穂ほと書く場合があります。言霊図の中のそれぞれの言霊(イの音ね)が瑞々しく実り、生き生きと生気が満ちている国とも解釈出来ます。

以上の意味を踏まえますと、「豊葦原の水穂国を、安国と平けく知らしめて知らしめせと事依し奉りき。」とは「精神の先天構造の法則に基づいて言霊の生気漲る国となるにふさわしい処へ降りて行って、その土地を平和に治めなさい、と皇孫邇々芸命に委任なさいました」と解釈することが出来ます。

以上の邇々芸命の天孫降臨の事を古事記は次の様に伝えています。

「天照大御神……この豊葦原の水穂の国は、汝なんじの知らさむ国なりとことよさしたまふ。かれ命のまにまに天あま降もりますべし。」また「ここは?そ肉じしの韓から国を笠沙之前かささのみさきに求まぎ通りて詔りたまはく、此地ここは朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり、かれ此地ぞ甚いと吉よき地と詔りたまひて、底津石根に宮柱太しり、高天原に氷木高しりてましましき。」

かく古事記が伝えますように、世界の屋根といわれるヒマラヤ、アフガニスタン、チベット等の高原地帯から、人間精神の究極原理を自覚・保持した霊知りの集団が、その原理に基づいた精神文明豊かな国家の建設を目指して、この日本列島に天降って来たのであります。(現在の古事記の神話は「?肉の韓国を笠沙之前に求ぎ通りて……」の箇所を書き替えております。ご注意下さい。)

大祓祝詞の話 三の1

斯かく依よさし奉まつりし国中くぬちに、荒あらぶる神等をば、神問はしに問はし賜ひ、神佛ひに佛ひて賜ひて、言問ひし磐いわ根ね樹き根ね立たち、草の片かき葉はをも言止めて、天の磐いは座くら放ち、天の八重雲を嚴いづの千ち別わきに千別きて、天降あめふりし依よさし奉まつりき。

邇々芸命と呼ばれる聖ひじりの集団の所謂天孫降臨が何時頃の事であったのか、ははっきりとは分かっていません。多分、数千年乃至一万年位前の事と推定されます。また、この集団が自覚・保持して日本国肇国の精神の基礎となった布斗麻邇言霊学は何時その確立に成功したか、これもはっきりとは分かりませんが、天孫降臨以前、数千年の永い間の研究により降臨の時より前に完成された事は事実でありましょう。

では、言霊布斗麻邇の学を自覚・保持した聖の集団が高天原と呼ばれる地球の高原地帯から、政治を行うのに適した平地に降って来る以前の日本や世界の状況はどうだったのでしょうか。人類が「人の心とは何か」の究極の答えを出したのが言霊の学の完成でありますから、それ以前の人間社会の状況は決して平和豊潤なものではなかった事が推測されます。

古事記はこの様子を「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国は、いたくさやぎてありけり」と表現しています。人間の欲望と感情の赴おもむくままの生活、または、力の強い者が力により統率する社会が展開していたものと推察されます。または高天原に於て布斗麻邇の原理が完成される以前の、不完全な生命理論を持って降って行った人たちの統率する矛盾に満ちた社会が存在したのでありましょう。

「人間とは何か」の解明された真理を保持した集団の降臨があって、人類ははじめて人類文明創造という意図を持った歴史の第一歩を踏み出す事が出来たと言えるのでありましょう。

「斯かく依よさし奉まつりし国中くぬちに、荒あらぶる神等をば、神問はしに問はし賜ひ、神佛ひに佛ひて賜ひて」

神漏岐・神漏美である言霊原理の完成・自覚者が、皇孫邇々芸命と呼ばれる聖の集団に安らかな良き国を建てよと委任した国土の中には、荒ぶる神の行いをする人達が満ちていました。荒ぶる、の語源はアラの音図で示される思想を運用・活用するという事です。言霊学上、言霊ウである五官感覚に基づく欲望性能を人間の五種の性能の中心に置いた心の構造を示す五十音言霊図を天津金木音図といいます。(あいうえおの五十音図)

この音図で示される思想の内容が上段のアからラまでの展開で表わされる事からアラ(荒)の音図と呼ばれます。また、「ふる」とは運用・活用するの意でありますので、この性能を中心に置いた行為を身上とする思想の持主を「荒ぶる神」と言うのであります。

即ち自らの持つ腕力、武力、金力、権力等を自負して社会の生存競争を勝ち抜いて行おうとする思想・主義の持主のことであります。古事記の神話で言うならば、天孫降臨以前にこの国を治めていた須佐之男命の霊統をひく大国主神、事代主神、建御名方神等の神々を指します。

降臨した聖の集団は、従来そこにいた所謂荒ぶる神達と戦争をしたのではありません。荒ぶる神の生存競争の権力闘争思想と、聖の集団の自覚する生命本然の精神構造に根ざした言霊布斗麻邇の原理による政治と、どちらが人間の住む社会を統治する方法として適当であるか、をお互いに討議したのであります。

この作業を古事記は「言こと向むけ」と呼んでいます。「神問はしに問はし賜ひ、神佛ひに佛ひて賜ひて」とは以上のような討論があり、その結果、権力闘争思想より生命本具の原理である言霊の原理の方が、民衆の統治の手段として比較にならぬ程合理的である事を在来の荒ぶる神達が認め、統治の実権を降臨の聖の集団に明渡したという事になります。この統治の実権の譲渡を古事記は「国譲くにゆずり」といいます。

「言問ひし磐いわ根ね樹き根ね立たち」の「言問ひし」とは先に述べた討論を仕掛けた事を言います。天孫の側から仕掛けたのか、荒ぶる神からかはどちらとも取れますが、結果としてお互いの討議となった事に変わりありません。

「磐いは根ね」とは昔の東洋思想の五行・五大の思想のことであります。磐根は五葉音いはねに通じます。人間本具の心の構造の要素の中で、言霊学で謂うなら大自然である五母音宇宙のみに拘泥して、文明創造に関しての人間の主体の智恵を示す八つの父韻については言及することが少ない思考・主義のことであります。

「樹き根ね」の樹は気で感情論の事と受取られます。天孫降臨以前に行われていた土着信仰に根ざしたものの考え方の事でありましょう。

「磐根樹根立」の「立」は断ちの謎です。その時以前に各地各所で実際に行われていた五行思想や感情論・信仰思想等を、討議の末に、それ等は生命の本義に沿わない不完全な考え方だ、と否定して、それ等の実行実践を了解の上で廃止し、世の中から一掃したことであります。

「草の片かき葉はをも言止めて」の「草」は「種々くさぐさ」の意。

「片葉」は「書いた言葉」という事。言霊原理に基づいて作られた神代神名かな文字でない概念的思考の文字の事です。

また延いては、それ等の文字で綴られた種々の思想の書物でありましょう。それらの言葉、文字、思想の一切を人間社会から一掃し、使用を停止させたのでした。

(註一)。かくて旧約聖書にある如く、「全地は一つの言葉、一つの音のみなりき」(創世記)の精神生命の原理の言葉で統一された世界が誕生したのであります。

「天の磐いは座くら放ち」の磐座は五十い葉は倉くらの意で、五十音言霊を組織して入れた倉、即ち言霊原理の事となります。天の磐座とありますので、原理の中の天津磐境いはさかである言霊で構成された精神の先天構造の原理であるとも取れます。

「放ち」とは世の中に向って発表し、流布したの意。そこで「天の磐座放ち」とは「弱肉強食の混乱した生存競争社会の中に向って、人間生命本具の言霊によって構成された精神の先天構造の原理を開示・発表して、社会統一の政治の光を掲げた」の意となります。

「天の八重雲を嚴いづの千ち別わきに千別きて、天降あめふりし依よさし奉まつりき。」の

「天の八重雲」とは「先天構造の中の八段に重なった雲」の意。雲とは天空にむくむく涌き出るもの、の意で人間天与の根本智性のリズム、即ち八つの父韻、または父韻の働きによって生まれる三十二の子音の並びの事であります(図参照)。

「嚴の」とは「清浄な」または「おごそかで権威のある」の意です。

「千別き」とは「道ち別わき」の意で、利害、真偽、美醜、善悪または当・不当をはっきり区別することです。天孫降臨以前の日本や世界の生存競争社会にも種々のルールがあった事でしょう。このような弱肉強食の社会のルールを言霊を以って表示すると金木音図となります。その父韻の並びはキシチニヒミイリとなります。現在学校で使われている五十音図であります。

この精神構造は天孫降臨以前の大国主命の社会と同じであり、この社会制度の原理を出雲八重垣(古事記)と呼びます(図参照)。

[註一] かく言うと、現代の読者は、極めて強制的に、また強権的な言語、文字、思想の統制と受け取られるかも知れません。けれど決してそうではありません。各地域、民族の言語・思想の内容の特徴を見極め、それを摂取して、更に大きな合理的な文化の担い手である言語ないし文明の中に了解の下に統合して行くならば、何の抵抗もなく受け入れられるでありましょう。または、「一つの言葉、一つの音」とは、各地の言語はそのままに、麻邇の言葉、文字を公式の用にのみ限定して世界の正式の言語として制定した、とも考えられます。

「嚴の千別きに千別きて」とは前の出雲八重垣の原理で治められている世の中に、天の八重雲の生命本来の調和をもたらす統治の方法を投入して、その善悪・当否を次々と立て別けて行く事であります。弱肉強食の暗黒の社会に、光明輝く天の八重雲の叡智の統治の光が投入されるならば、暗黒は瞬時にして消滅の運命をたどることとなります。この手順を「嚴の千別き」といいます。

天の八重雲出雲八重垣

人間の長い歴史創造の過程で、人類の生命を脅かす世の中が現出した時、それを平安・調和の社会に転換させる方法は常に唯一つしかありません。それが「天の八重雲を嚴の千別きに千別き」する事であります。

社会文明創造の精神手順を「チキミヒリニイシ」の時置師の並びに組み替えることであります。この精神操作は大祓祝詞の後章「天津金木を本打ち切り末打ち断ちて…」と大祓祝詞の根本原理として再び同様の事が述べられる事となります。

以上の文章の解説をまとめて書きますと、次ぎの様になります。

「以上述べましたように統治の委任されました国土の中で、従来からの統治をしておりました弱肉強食の権力政治を方針としておりました人達に、その様な維持のやり方で今後もやって行ってよいのか、と疑問を投げかけ、

また間違った方針を討論によって改めさせ、その討論によって従来行われていた自然主義や感情論などの不完全・不合理な主義による政治のやり方を断念させ、

またそれぞれの地方の生命の根本法則に基づかない言語や文字や文化をも納得の上で廃止させ、それに代わって人間の精神生命の先天構造に則った言霊布斗麻邇の法則を世の中に発表・開示し、社会の隅々にまで行き渡らせ、

布斗麻邇による政治の大方針であるタカマハラナヤサの時置師を適用して、その時までの世の中の混乱の原因となっていた金木思想のカサタナハマヤラの政治の不適当である事を明らかに人々に納得出来るように道理を説くよう、委任された道の実行に取り掛かったのであります。」

大祓祝詞の次の文章に入ります。

大祓祝詞の話 三の2

大祓祝詞の次の文章に入ります。

斯く依し奉りし四方の国中と、大おお倭やまと日ひ高たか見み国を、安国と定め奉りて、下津磐根に宮柱太ふと敷しき立て、高天原に千木高知りて、皇御孫すめみま命との瑞みづの御殿みあらかへ奉りて、天の御み蔭かげ、日の御み蔭かげとかく隠りまして、安国と平けく知しめさむ。

以上の如く人の心と言葉の究極の真理である五十音言霊布斗麻邇の原理を自覚・保持して、この地球上を生命本具の合理性に叶った、平和な国土とするよう委任を受けた邇々芸命霊知りの集団は、高天原と呼ばれた高原地帯から何処に降りて来たのでしょうか。

前にも書きましたように、古事記に「ここは?そ肉じしの韓から国を笠沙之前かささのみさきに求まぎ通りて…」と書いてある事から、朝鮮半島を通って九州に来たという事になるでありましょう。

その経路については、種々異論のある処でありましょうが、聖の集団が「此地ここは朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり、かれ此地ぞ甚いと吉よき地…」とありますように、世界統治の中心地となる終着点と決定しましたのは、まぎれもなくこの日本列島でありました。以下、大祓の文章を小別けして解釈して参ります。

「斯く依し奉りし四方の国中と、大おお倭やまと日ひ高たか見み国を、安国と定め奉りて」

祝詞の文章はここから新しい章に入ります。今までで、祝詞の序文に続いて第一章の天孫降臨の時の日本と世界の歴史的な状況と降臨する聖の集団との交渉について述べられました。これからは第二章の日本国肇国の目的とその根本原理について述べられることとなります。

「倭やまと」は「大和」とも書きます。平和で合理的な調和がとれている、の意です。

「日高見」の日は霊ひで言霊または言霊原理のこと。

「高見」は国家の政治の原則として高く掲げるの意。

「大倭日高見国」全体では、生命本具の法則に基づく言霊原理を統治の指標として高く掲げ、世界全体がそれを手本に仰ぎ見る事によって、大調和が保たれている中心となる国、といった意味であります。

この事から「四方の国中と」の四方の国とは全世界の国々という事になります。天孫降臨した邇々芸命聖の集団が日本列島を本拠として世界の統治に乗り出し、遂に言霊布斗麻邇の原理に基づいて全世界の平和をもたらし、人類の第一精神文明時代を築き挙げた事を簡単な文章で表現したものであります。

では、その精神文明時代の政治を担当する人の心構えはどんなものであったのでしょうか。それが次に取り上げられます。

「下津磐根に宮柱太ふと敷しき立て、高天原に千木高知りて」

大自然の生物としての人が生来さすがっている人間性能、即ち生まれたばかりの赤ちゃんの精神性能を表わした五十音言霊図を天津菅すが麻そといいます。清々すがすがしい心の衣という意味であります。この音図の母音の縦の並びは上よりアオウエイとなります。

「下津磐根」の「下津」とは、この母音の並びの一番下である言霊イ段となります。このイの段に「磐根」即ち五十葉音の五十音言霊が展開し、存在しています。古代に於ける布斗麻邇の原理による政治の要諦は、先ず「人間とは何か」の最初の認識である人間天与の精神構造を表わす天津菅麻音図の自覚から始まります。

人の心を言霊イの次元で見る時、そこにはアオウエイ五十音言霊が存在するだけで、これより多くも少なくもなく、また、ほかの何者も存在しません。人間の心は五十個の言霊によって構成されます。仏法を求めて旅する三蔵法師の供をする孫悟空は阿弥陀様の掌(たなごころ)に乗せられ、それから外へは行く事ができません。

掌とは田たの名なの心こころ、また田とは五十音図の事であります。それが人間の心の土台です。この土台の上に人間の文明創造の営みが展開されます。

「宮柱太敷き立て」の宮柱とは、神の家(御屋みや)の柱、即ち人間が人間としての自覚の内容を表わす五母音を柱と見立てた事であります(図参照)。人間はこの五母音の柱によって一切の物事を判断することによって生きています。

「太敷き立て」の「太」とは布斗麻邇即ち五十音言霊の原理という事。

「敷き」は磯城しき(五十城)の意で五十音言霊の事。

「宮柱太敷き立て」の全部で「五十個の言霊を土台として、その上に五十音言霊の原理の自覚による人間の判断力を柱として立て」の意味となります。

アオウエイの五母音の縦の並びを古神道は天の御柱、伊勢神宮本殿下に建つ「御量柱みはかりばしら」と呼んで表徴しています。また神道五部書には「一心の霊台、諸神変通の本基」などと説明しています。人間の自覚された根本的判断力の事であります。

次に「高天原に千木高知りて」であります。「下津磐根」が古代政治の土台認識であり、「高天原に千木高知りて」はその政治の方法の最終結論です。高天原の名称は五十音言霊図の上段の父韻がタカマハラナヤサと並ぶ天津太祝詞音図を語源としています。

古代政治の要諦は天津菅麻の人間認識を土台とし、その上に文明創造の政庁の組織を天津太祝詞が示す如くに作れ、というのであります。

伊勢神宮の本殿の屋根の棟に鰹木かつおぎ(内宮は十本、外宮は九本)が棟に対して直角に並びます。そしてその棟の両端にそれぞれ二本の木が立ち上がっています(図参照)。内宮は内削そぎ、外宮は外削ぎです。これを千木ちぎと呼びます。千木は道木の意であり、道理の気とも受け取られます。

鰹木は数かず招おきの意です。両端の千木の道理の気が動きますと、その間の鰹木で示された数の根源の智性である父韻が活動して現象子音を生み出します。また千木は「契ちぎり」の意でもあります。両端の千木が父韻によって結ばれて現象子音を生みます。伊勢神宮の祭神天照大神は日本並びに世界の文明創造、即ち言霊エの神です。その精神構造の父韻の並びはタカマハラナヤサです。その活動によって生じる子音とは世界の文明の創造の事となります。

前の道理を「下津磐根に宮柱太敷き立て、高天原に千木高知りて」というのです。人間が生来持って生まれた天津菅麻音図を土台として、人間の最高の営みである文明創造の政治の庁の組織を制定するとき、先の序文で示されましたアイエオウの天津太祝詞音図に従った朝廷の役職の五段の順番が出来上がります。

即ち、天皇(スメラミコト)ア、比礼挂ひれかくるくる伴ともの男を・イ、手襁挂たすきかくる伴男・エ、靱ゆき負ふ伴男・オ、剱たち?はく伴男・ウの五段階のことであります。

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大祓祝詞の話 三の3

「皇御孫すめみま命との瑞みづの御殿みあらかへ奉りて、天の御み蔭かげ、日の御み蔭かげとかく隠りまして、安国と平けく知しめさむ。」

皇御孫命の瑞の御殿へ奉りて、と言いますと「皇孫邇々芸命の美しい御殿に奉仕する」と解釈して当然です。しかし大祓はこの解釈は適当ではありません。形而上的・精神的な意味を言っているのです。「殿あらか」とは、昔、言霊五十音を粘土盤の上に神代文字で刻み、それを焼いて瓦かわらとしました。「言ことばは神なり」でありますので、明らかに神を顕わすの意で「あらか」と呼びました。

また甕みかとも甕神みかがみ(御鏡)ともいいました。即ち五十音言霊布斗麻邇の原理のことです。言霊原理に仕つかえるとは原理を最高の規範とし政治を行うの意であります。

皇御孫命すめみまとは、ここでは単に天孫降臨した邇々芸命というのではなく、言霊原理から数えて二の二即ち三次的な芸術である社会建設を行う代々の天皇の意と取った方が適当でありましょう。

「天の御蔭、日の御蔭とかく隠りまして」の「天の御蔭」は言霊、「日の御蔭」は数かず霊たまと考えるとよく理解できます。

「かく隠りまして」とは「書き繰る」の謎であります。五十音言霊は伊勢五十鈴宮にお祭りしてあります。その五十音言霊を操作する方法五十は、奈良の石上いそのかみ(五十いその神かみ)神宮に数霊の作用を示す「日文(一二三ひふみ)として奉られています。

祝詞の序文にありますように「天の御蔭」は「比礼挂くる伴男」の役職であり、「日の御蔭」は「手襁挂くる伴男」の役目となります。五十音言霊を整理・運用する操作の動きが数霊という事なのです。

また、次の様にも言う事が出来ましょう。天の御蔭、日の御蔭の蔭を影かげと書けば「光り」のこととなります。すると、天の光は言霊、言霊は霊でありますから、言霊の動きは「霊駆ひかり」で、霊の動き、即ち日の御蔭となります。「天の御蔭、日の御蔭とかく隠りまして」とは「言霊を数霊とを書き繰って」の意となります。

以上、大祓祝詞の第二章である「日本国肇国の目的と統治の方法」の文章の解釈は次の如くまとめる事が出来ます。

「天孫降臨以来、統治の委任を受けました邇々芸命とその子孫である代々の天津日嗣天皇は、従来の生存競争の世を支配していた人達を言霊布斗麻邇の原理を以って言向けやわし、次第に全世界と、その中心となる言霊原理を国体とする日本の国とを平和な国に建設して行ったのであります。これが人類の第一精神文明時代の始まりでありました。

その統治の方法といいますのは、人間性を重んじ、人間天与の性能を示す天津菅麻音図の自覚を土台とし、その土台の上に人間の判断力の自覚であるアオウエイ五母音の柱を心中に打立て、この人間性の土台と判断力を運用することによって、更に世界統治の規範(鏡)となる天津太祝詞音図の自覚に入ること、これが天津日嗣天皇の心構えであります。

この天皇の自覚の内容を自らの心と仰ぎ、朝廷に仕える役職にある人達は言霊と数霊の法則に従って政治を行い、世界を平和に治めて行ったのでした。」

天孫降臨と呼ばれている邇々芸命集団の日本建国と全世界の「一つの言葉」としての統一の時期を約八千年前としましょう。その時から言霊布斗麻邇の原理に則る人類の第一精神文明の時代が始まりました。世界は天津日嗣天皇の高遠・厳粛な人類歴史創造の経綸の下に精神文化の花咲く素晴らしい時代が続きました。その時代は約五千年間続いたのであります。

今より三千年乃至四千年程前、人類の第一精神文明は爛熟期を迎え、人々は自らの内なる精神内の真理に根差した平和な文明の時代を謳歌すると同時に、漸く自らの外なる物質の世界の真理に関心を向けようとする新しい兆きざしが見え始めたのであります。それは「生めよ、殖やせよ、地に満てよ」の地球上の人口の増加、それに伴う食糧増産、産業経済、交通の発達等が要望された結果でありましょうか。

その要望に言霊ウ(五官感覚に基づく欲望)と言霊オ(現象間の関係を方式化する研究・経験知)の問題として取り上げられる事となります。人間が自らの外に向ける関心と外なる真理の探究、即ち物質科学の研究は物事を分析・破壊することから始める学問です。そして、この物質文明が急速に発育する基礎となる土壌は生存競争の社会であります。

以上の如き人類社会の精神微候を察知した大倭日高見国(日本)の朝廷では重要な会議が何回も開かれた事でしょう。その結果、朝廷に於いて人類文化創造の方針を大きく転換する決定がなされたのであります。それは人類の第一精神文明時代より物質文明時代への転換であります。

その転換の方針を最も確実に実現する為の手段として、第一精神文明時代を創造した基礎原理である五十音言霊布斗麻邇の学問を人類社会の表面から隠没させ、人々の表面意識より忘却させることであります。

その結果、精神の五次元性能の共生・調和は失われ、言霊ウとオのみの他の性能との協調からの逸脱・独走が始まります。それは聖書の所謂「禁断の木の実を食べた」事であり、経験知と欲望の自我意識が生まれることともなります。

天孫降臨以前にそうであった如き、地球上に弱肉強食の生存競争社会が現出するでありましょう。そして、人類の第二の文明である物質科学はその泥沼の如き混乱の社会の中から進歩・発展して来るに違いありません。

物質科学文明創造のための方便として、精神文明の原器である言霊原理を一定期間社会から忘却させるという朝廷の決定は、一種の「賭」であったでありましょう。その事によって人類はどれ程の困難に遭遇するか計り知りません。しかし、この決定は単なる賭ではありません。「人の心とは何か」を熟知し、「神ともなり獣ともなる」人間の業を知り尽くしている霊知りの集団が決断した「人類の第二の物質科学文明を最短期間に完成させる」ための最良の方法であったのです。

言霊原理の社会からの隠没を近い将来に実行する事が決定した頃、日本朝廷に於いて、先ず大祓祝詞の作成が行われたのであります。鵜草葺不合王朝三十八代、天津太祝詞子天皇の時と伝えられます。次に精神文明の成果の日本より外国への輸出が抑制され、終に中止されました。今から三千年程以前のことと推定されます。

この政策が実行されるに従って、予想された如く世界人類の中に種々の悪徳による罪穢が醸成されて来ました。人類はその第二の物質科学文明の時代に突入して行ったのであります。大祓祝詞の文章は、その発生した来た人類の罪の内容の説明である第三章に入ります。

大祓祝詞の話 四の1

大祓祝詞の第三章に入ります。この章は前章で述べましたように、人類の第一精神文明時代から第二の物質科学文明時代に入り、その目的である物質科学文明を創造する為の方便として、弱肉強食の生存競争社会を現出させた結果、社会に起って来る種々の罪穢について説明する章であります。先ずこの章の全文を載せます。

国中くぬちに成り出でむ、天益人あめのますひと等が、過ち犯しけむ雑々くさぐさの罪事は、天津罪とは、畦あ放はなち、溝みぞ埋うめ、樋ひ放ち、頻しき蒔まき、串くし刺さし、生いき剥はぎ、逆剥ぎ、屎くそ戸ど、幾許ここだくの罪を天津罪と宣りわけて、国津罪とは、生膚いきはだ断たち、死膚しにはだ断たち、白人しらひと胡こ久美くみ、己が母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪、畜けもの犯せる罪、昆虫はふむしの災、高津神の災、高津鳥の災、畜仆たほし、蠢まじ物ものせる罪、幾許ここだくの罪出でむ。

以上が大祓祝詞の罪についての文章の全貌です。読んで直ぐに分かることですが、祝詞は人類の中に現われて来た罪穢を天津罪と国津罪に区別して述べています。先ず、この天津罪と国津罪の相違についてお話し、次にそれぞれの罪の内容の説明に入ることといたします。

天津罪を辞書で見ると「須佐之男命が天上で犯したいろいろの罪。畦放・溝埋・樋放・頻蒔・串刺・生剥・逆剥・屎戸等」とあり、国津罪には「わが上古の罪過の一。高天原に起原を有する天津罪に対するもので、生膚断、死膚断など十三種ある」と説明されています。神話の中での説明としたら、これで間に合いましょうが、現実の社会の中でどの様な内容の罪なのか、はっきりしません。その解釈には言霊学が必要となります。以前、天津神と国津神の相違について説明した事があります。

天津神とは人間精神の最上次元に位する清浄無垢な高天原を構成する神、言い替えますと、高天原精神界を結界している五十音言霊を示す神名。またその五十音の動きを顕わす五十の神名の合計、即ち古事記言霊百神の事であります。(以上の言霊百神で構成される言霊五十音図を上下にとった百音図の構造の部分々々を表示する神名、例えば天の児こ産やね命、思金おもひかねの命、布ふ刀と玉だまの命、天の雨受売うずめの命、天の手た力ちから男をの命等々含めることもあります。)

以上の天津神の意味を念頭に置きますと、天津罪の内容がはっきり理解されて来ます。即ち高天原精神界を構成する言霊五十音の配列またはその運用を狂わす事、それが天津罪であります。キリスト教で謂う「原罪」がこれに当ります。

神話での説明「須佐之男命が天上が犯した罪」、これを説明しますと、須佐之男命が姉神、天照大神の精神原理である五十音言霊の原理に飽き足らず、物質の原理を求めて、精神の五十音言霊図表を荒らした罪の内容であることがよくお分かり頂けると思います。

五十音の言霊そのものは人間精神を構成している究極の要素であり、人間なら誰しも平等に付与されていて、これを穢したり、乱したり出来るものではありません。言霊自体は善悪、美醜、正誤、損得の外にあるものです。それを穢し乱すとは、人間精神の構造を表わす五十音言霊図の構造やその動かし方を乱し、穢す事であります。この言霊構造とその運用を乱す事によって人間社会の中に混乱と不安が生じて来ます。これが天津罪であります。

天津罪に対して国津罪とは、言霊構造とその運用法という精神最奥の原理に関係なく、人間が平常の日々の生活の中で犯す、謂わば自我の欲望、利害、感情等の赴くままに他人や社会の秩序を乱し、不利益を与える普通一般で見られる所の罪業の事であります。

例えて言えば、人を殺したり、傷付けたり、盗んだり、だましたり、姦淫したり、嘘をついたりする罪の事であります。謂わば現在の刑法で罪の対象となる罪の事です。

以上、天津罪と国津罪に相違についてお話して来ました。では天津罪と国津罪とは全く関係ないか、と言うとそうでもありません。キリスト教で原罪とは人間がこの世に生を受けて生まれた時から背負っている罪と言いますように、天津罪とは人間の心の営みが行われる精神の領域の拠って立つ土台である社会の精神土壌全体の調和を根本から混乱させている罪という事なのであります。

人間精神または社会精神の土台を乱す罪が天津罪であり、その不安定、不調和な土台の上にあるが故に、助長された自我主張が惹き起こす表面的な罪が国津罪という事が出来ます。

さて、次は天津罪の中の個々の罪について説明して参ります。大祓祝詞には畦あ放はなち、溝みぞ埋うめ、樋ひ放ち、頻しき蒔まき、串くし刺さし、生いき剥はぎ、逆剥ぎ、屎くそ戸どの八つの罪が説かれています。

畦あ放はなち――

古事記の神話では、天照大神は営田みつくだを耕していらっしゃいます。また神かむ衣みそを織っていらっしゃいます。田も衣も縦横に線を引いた形である所から、五十音言霊図表に基づいて言霊を運用し、人類の歴史を創造して行く事を表徴しています。天津罪の「畦放ち」とは五十音図表の言霊を仕切っている線、即ち畦を取り去ることを言います。五十音図の言霊の縦の配列は五つの次元の相違を、横の配列は八つの父韻による実相変化の律を表わしますから、その仕切りである畦あぜを取り払う事とは文明創造の営みの秩序を破壊することと受け取られます。

溝みぞ埋うめ――

溝とは水を流すため地面を細長く掘ったものを謂います。五十音言霊表の運用を潤す生命の流れの通り路を埋めて言霊の気の働きを妨害すること、と思われます。

樋ひ放ち――

樋ひとは水を導いて送る長い管、またはせき止めた水の出口に設けた戸で、開閉して水を出入りさせるもの、の事と辞書にあります。人間の生命の流れは母音より八つの父韻を通り半母音に向って流れます。アよりワ、イよりヰ、エよりヱ、オよりヲ、ウよりウに流れ、それぞれ歴史を創造します。その流れの緩急が程よく行けば社会は常に平穏無事でありますが、母音より半母音への流れ路が取り払われ、また緩急の調節が出来なくなると、社会の進歩は急変または停滞することとなります。これが樋放ちであります。

頻しき蒔まき――

穀物の種子を播いた上に重ねてまた種子を播き、穀物の生長を害すること、と辞書にあります。天照大神の営田は音図向って右から左へア・タカマハラナヤサ・ワの順で種子が播かれます。その事で物事は始めより終わりに向って滞る事なく遂行されます。それが例えば、タから始まり、タカマまで来た時、マに表徴される事態が既にほとんど完了してるのに、その過程の百パーセントの完了に執着して、マ・マ・マと何時までもその段階の行為を繰り返し、先に進まないような事態に陥る状態を指している事でありましょう。

串くし刺さし――

人間の文明創造活動を言霊によって示す言霊五十音図表は縦五列、横十列の言霊の並びがあります。縦に次元の順序、即ち位置師を、横に実相の移り変わりの変化のリズム、即ち時置師、処置師の働きを示します。この縦横の順序や変化の推移を示す言霊の並びを、あたかも団子に串を刺すように固定してしまい、社会がその時処位に応じて、自由に新しい文化を作って行く事が出来ないよう規制してしまう事、これを串刺しと言います。信仰や信条、または社会的哲学、倫理学、経済学等の経験的知識に基づいて制定された道徳や国家体制、憲法、法律等は往々にしてこの串刺しという天津罪を犯す事となります。近代に於ける世界の共産体制の崩壊などもこの串刺しによる国家社会の硬直化がその原因と考えられます。

生いき剥はぎ――

生命活動を表わす五十音図表の中の縦の五母音の中の一つ乃至二つの並びを剥ぐように抹殺してしまう事。即ち生命活動として当然具備されている性能を何らかの理由の下に無視してしまう事。これが生剥です。例えば近代共産体制にあって「宗教は阿片なり」の教義の下に言霊アに属する信仰性能を否定してしまった等がこれに当ります。人間の生きた生来の性能活動を社会から抹殺する罪であります。

逆剥ぎ――

逆剥は性さか剥ぎであります。性さかとは現象の実相を決める八父韻の働きの事です。逆剥とはこの八つの父韻の並びの中から一つ乃至二つのものを無視・抹殺する罪のことであります。例えば信仰行為に於いてタカラハサナヤマと並ぶ父韻の並びの中から、信仰に於いて最も必要である筈の主体性の確立を表わす言霊タの自覚を抹殺し、教祖の教えをそのまま暗記させ、教団の利益にのみ奉仕させるよう洗脳する行為等がそれに当りましょう。最近の宗教団体による詐欺行為などはその典型であります。また近年の教育にみられる「偏差値」による受験勉強なども逆剥ぎの傾向が充分窺えます。双方共、信仰または教育の真の目的を成就する手順の中の何らかを無視した事の結果であります。

屎くそ戸ど――

古事記神話に「大嘗にへ聞こしめす殿に屎まき散らし」とあります。屎とは組む素で五十音図表を構成しているそれぞれの言霊のこと。五十音図の縦横の並びの順序の如何を考えず、バラバラにして播き散らしてしまう罪であります。須佐之男命が高天原に於ける天照大神と月読命との三貴子の協調体制から離脱し、高天原の精神構造を表わす天津太祝詞音図の組織をバラバラにして、自らが求めようとしている物質世界の法則を探ろうとして、その構成に躍起になった様子、即ち「須佐之男命、依さしたまへる国を知らさずて、八拳須心前やつひげむなさきに至るまで啼きいさちき」がこの罪に当ります。

以上、大祓祝詞の天津罪の一つ一つについて説明して来ました。御理解頂けたでありましょうか。この天津罪について一つ付け加えておきたい事があります。天津罪といわれるそれぞれの罪の内容は、ここ千年、二千年の歴史の中では、それが悪い事だと思われず、当然の如く行われてきた事なのであります。

「大道廃れて仁義あり」と言われます。「大道」と呼ばれた言霊布斗麻邇の原理が社会の表面から隠没した後、人間社会の政治・道徳の判断をするに当り、人間天与の判断能力(言霊エ)を忘れ、その代用品として各国家の法律とか「何々すべし」「何々すべからず」の規則によって善悪の判断をせざるを得なくなりました。

そして、その代用品である、第二、第三次的な規則による人間行為の規制の世の中が長く続く事によって、人々はその規則以外に善悪判断の基準はないものと思い込んでしまいました。第二、第三次的規準でありますから、人々は時によってその定められた自らの法律を社会全体が遵守できない事態も起ることとなります。「超法規的措置」という言葉が使われます。

この時、人々は「何が良い事か、悪い事か」の判断が分からなくなります。この様に現代の人々の何が良く、何が悪いかが分からなくさせる原因となるもの、それが天津罪という罪なのだ、という事が出来るのです。「人間とはそも何物ぞ」という根本原理である言霊布斗麻邇の学問が復活して、ここに初めて天津罪の内容が明らかとなりました。

大祓祝詞の話 四の2

次に国津罪の説明に移ります。国津罪として大祓祝詞には、生膚いきはだ断たち、死膚しにはだ断たち、白人しらひと、胡こ久美くみ、己が母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪、畜けもの犯せる罪、昆虫はふむしの災、高津神の災、高津鳥の災、畜仆けものたはし、蠢まじ物ものせる罪、幾許ここだくの罪出でむ。の十三の罪が挙げられています。

これらの国津罪について大祓はただ十三の罪を列記するだけで、罪の内容については何一つ説明しておりません。しかし、前に述べましたように、旧約聖書の中の特に利未記レビきにはそれぞれの内容の懇切な解説が載っています。

大祓祝詞と聖書の利未記という想像もつかぬ地球の正反対の側に位置する国の出来事の記載が、まるで判で押した如く一致している事は、太古の世界の歴史を再編成する大きな手掛かりになる事は間違いありません。時には大祓と利未記を対比させながら国津罪を説明して行きます。

生膚いきはだ断たち、死膚しにはだ断たち――

生きている人、また死んだ人の肉体を傷つける事の罪と解されます。モーゼの十戒に「汝、殺すなかれ」と書かれています。(出エジプト記)

白人しらひと――

辞書にしろなまずのある人。一説に今の白子の類、とあり、通説はないようであります。それが旧約聖書の十三章を見ると、その説明が詳しく乗っていて、癩病患者であることが分かります。大祓とモーゼの五書の関係を知る上で参考となりますので、此処で引用します。

「エホバ、モーゼとアロンに告つげて言ひたまはく 人その身の皮に腫あるひは癬できものあるひは光る処あらんにもし之がその身の皮にあること癩病の患処のごとくならばその人を祭司アロンまたは祭司たるアロンの子等に携へいたるべし また祭司は肉の皮のその患処を観るべしその患処の毛もしく白くなり且その患処身の皮よりも深く見えなば是癩病の患処なり祭司かれを見て汚けがれたる者となすべし…」(利未記十三章一~三)

胡こ久美くみ――

贅肉あまじしの意で「いぼ」または「瘤」の意、と辞書にあります。聖書に「エホバ汚れたる者」と定めています。

己が母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪――

この様な近親相姦の罪について大祓はただ四つの事柄を続けて挙げているに過ぎませんが、旧約聖書には詳しく説明されています。その一部を載せます。

「汝等凡すべてその骨肉の親に近づきて之と淫するなかれ我はヱホバなり 汝の母と淫するなかれ是汝の父を辱はじかしむるなればなり彼は汝の母なれば汝これと淫するなかれ 汝の父の妻と淫するなかれ是汝の父を辱はじかしむるなればなり……」(利未記十八章六~八)この説明から直ちにギリシャ神話のエヂプス・コンプレックスを思い出す方もありましょう。

畜けもの犯せる罪――

大祓のこの罪を利未記には「汝獣畜けものと交合して之によりて己が身を汚すこと勿れまた女たる者は獣畜の前に立たちて之と接まじはること勿れ是憎しむべき事なり」(十八章二三)

「男をと子こもし獣畜と交合しなばかならず誅ころさるべし汝らまたその獣畜を殺すべし婦人をんなもし獣畜けものに近づきこれと交まじはらばその婦人と獣畜を殺すべし是等はともに必ず誅さるべしその血は自己に帰せん」(二十章十五~十六)

昆虫はふむしの災――

先師小笠原孝次氏は蝗の災であろうと解しました。利未記には「凡ての人を汚すところの匍は行ふ物ものに捫さはれる者……」(二十二章五)と記されています。匍行物が何であるか、今のところ分かっていません。

高津神の災――

高津神と言うと、直ぐに思いつくのは天津神の事であります。天津神とは先に述べましたが、清浄無垢な高天原神界にある神を、即ち五十音言霊の事を言いますが、高津神とはそういう清浄な神界ではない、種々の因縁によって常に流転して止むことのない、まだ浄化されない霊の世界の魂のことであります。

高津鳥の災――

鳥とは人と人との間を行き来して飛ぶ言霊のことであります。古事記の「天の鳥船」といえば、人の言葉を構成している五十音言霊のそれぞれの内容の事であります。高津鳥とは清浄な言霊の自覚の裏付けのない、偏頗へんぱな経験知識に基づいた主張・主義の言葉を指します。

この言葉も人と人との間を飛び交って人を迷わせ、世間を騒がせる原因となります。偽宗教者、狂信者、政治的煽動等の言動はすべてこの類のものであります。

畜仆けものたはし――

牛馬豚等の四足動物を殺し、食用とすることを言うのでしょう。太古日本人は獣肉は食さないと聞いています。古書「ウエツフミ」には獣肉を食べると血が粘ねばる、と書いてあるそうです。

蠢まじ物ものせる罪――

蠢まじとは辞書に「あやしい術で人を呪い害を加えること。まじなって人を病ましめ、苦しめ、死なせること」とあります。一般に「まじない」の事であります。

利未記に「憑鬼くちよせ者または卜筮師うらないしも恃たかみこれに従う人あらば我わが面かほををその人にむけ之をその民の中に絶つべし」(二十章六)

また申命記には「汝らの中間うちにその男子むすこ女子むすめをして火の中を通らしむる者あるべからずまた卜筮うらないする者邪法を行なふ者禁厭まじないする者魔術を使ふ者 法印を結ぶ者憑鬼くちよせする者巫覡かんなぎの業をなす者死者に詢とふことをする者あるべからず 凡て是等の事を為す者はヱホバこれを憎みたまふ」(十八章十~十二)とあります。

前にお伝えした事でありますが、鵜草葺不合王朝六十九代神足別豊鋤天皇の時、ユダヤ王モーゼ来朝、その帰国するに当り天皇モーゼに詔みことのりして曰く「汝モーゼ汝一人より外に神なしと知れ」と竹内古文書に記されています。

この勅語にありますように、五十音言霊学は「人とは神であり、同時に人である人」なのだと教えています。その神であるべき人が我でもなく神でもない怪しい、卑しいものに自らの運命について教えを請う事など「以ての外」の事でありましょう。人としての尊厳を汚す行為であります。易を説明する「易経」の中にも「易を知るものは占わず」と警めています。

以上でモーゼの五書と関連させた大祓祝詞の国津罪の説明を終えることといたしますが、ここで付け加えて申し上げたい事があります。大祓が国津罪の一つ一つを簡単に列挙しただけなのに対し、旧約聖書は神ヱホバの言葉として詳細に説明しています。「大祓に於ける人間の罪の内容は旧約聖書をご覧下さい」と言わんばかりの関連性が窺えます。

にも拘らず旧約聖書には大祓の天津罪に関する記事は何一つ見出し得ない事であります。と言う事は、鵜草葺不合朝の神足別豊鋤天皇はモーゼに天津罪に関する事を何も教えなかった、と解するべきなのでありましょう。

竹内古文書には「鵜草葺不合うがやふきあえず王朝五十八代御中主幸玉みなかぬしこうぎょく天皇の時、支那王伏ふ義ぎ来朝、之に天津金木を教う」とあります。しかし伏義に教えたのは言霊原理の天津金木そのものではなく、天津金木の原理を陰陽概念と数に置き換えた法則を伝えたのです。伏義はこれに則り易を興しました。

同様、「鵜草葺不合王朝六十九代神足別豊鋤天皇の時、ユダヤ王モーゼ来朝、天皇これに天津金木を教う」とありますが、ここでもモーゼに教えたのは天津金木そのものではなく、金木原理をヘブライ語と数霊の法則に置き換えたものを伝えたに違いありません。それが世に謂われるユダヤの「カバラ」なのであります。

旧約聖書の五書に大祓の天津罪に関しての記述がない事は以上の理由にあると考えられます。

人間には天与の五つの性能があります。アイウエオ五母音で表わします。その五つの性能の一つ一つを中心に置いた音図として、矢張り五種類の五十音図が作られます。天津あまつ菅すが麻そ(イ)、天津太ふと祝詞のりと(エ)、宝(ア)、赤あか珠たま(オ)、天津金かな木ぎ(ウ)の五種類です。

これ等の音図は人間天与の性能表現の実相に従って同じ五十個の言霊をそれぞれ並べたものでありますから、五つの音図の中のどれ一つを知っても、思索によって外の四つの音図の構造を推定し得る可能性がありましょう。

神足別豊鋤天皇はその辺の消息を熟知した上で、モーゼには天津金木そのものではなく、ヘブライ語と数霊の法則に脚色・変化させて教え、その法則によって以後三千年にわたる世界人類の物質科学文明創造とその成果を手段とする世界の再統一の事業を委託したのでした。

民族特有の言語の法則という特殊なものに置換えたユダヤのカバラの原理でありますから、これを如何に操作し、想像を逞しくしても元の人類共通の精神原理布斗麻邇には到達不可能な事であります。

ユダヤによる人類の第二物質科学文明成就の暁、その事業の手段である弱肉強食の生存競争の社会が遭遇する人類社会滅亡の危機を回避するただ一つの方策・原理である言霊布斗麻邇が大本教祖の謂う「九分九厘の一厘」の仕組となる皇祖皇宗の深謀遠慮を、大祓祝詞のこの天津罪、国津罪の説明の章に明らかに見ることが出来るのであります。

さて三千年の昔、皇祖皇宗の公こう謀ぼによる第一精神文明より第二の物質科学文明創造の時代に転換が行われて、物質科学文明の発達の基盤となる生存競争社会は時と共に弱肉強食の相を濃くして行きました。それにつれて競争社会の中に現れる人間の罪穢も深く大きくなって行きました。

物質科学文明は私達の眼前にある如く、その絢爛けんらんたる姿を現わしました。正に完成間近を思わせます。と同時にその文明の培養土壌である競争社会の行き着く果として、地球大気の汚染、地球温暖化、人類の精神荒廃は人類全体の生存をも脅かす大罪となって現われて来ました。

今こそ人類全体に蔓延した罪穢を、人類全体が自らの罪穢であると自覚し、自らの罪の払拭に取り組まないならば、三千年の長い間幾多の犠牲を払って築き上げた物質科学文明社会も、人類全体の生命と共に消滅しなければならぬ事態を迎えました。

折も折、この人類が罪穢を罪穢として自覚させる「人間とは何か」を示す鏡であり、その罪穢の祓いを予告した大祓祝詞の基礎原理である言霊布斗麻邇が二千年の闇を破り、不死鳥の如くこの世の中に太古の第一精神文明時代の姿そのままに甦って来ました。

この原理によって予告された大祓の内容はすべて解明され、眼前の地球人類の危機を回避させるいとも現実的で人類に許されたただ一つの大祓の実行方法が人類自らのものとなったのであります。

「大祓祝詞の話」はこれより大祓の眼目である、その人類の罪穢の修祓の方法の開示である第四章に入ります。先ずその方法を示す第四章の文章を掲げます。」

「天津宮みや事ごと以ちて、大中臣、天津金木を、本打切り、末打断ちて、千ち座くらの置おき座くらに置足らはして、天津菅すが麻そを、本刈断ち、末刈切りて、八針に取とり辟さきて、天津祝詞の太祝詞事ふとのりとごとを宣のれ。」

大祓祝詞の話 五の1

人類の第二物質科学文明時代が始まり、その文明創造促進のための方便として作り出された生存競争社会の中に現われて来ました人々の罪穢が、人類全体の生存の危機をもたらす事となった現在、危機回避の唯一の手段である大祓の方法の開示を披露する祝詞の第四章に入ります。

大祓といわれますから、罪穢を祓うためには、今日地鎮祭や開所式などで見られますように、神前に供えてある幣(ぬさ)を持ち、神主さんが参集した人々の前に立ち、その幣を左右に振ってお浄めをする事と思われるかもしれません。

または人々の心の中の罪穢を調べ、良い内容はそのままに、悪い内容は悔い改めさせて罪穢を無くすというキリスト教の懺悔の如き方法と思われる方もいらっしゃるかも知れません。

罪穢の祓いといえば以上のような事が常識であると今日では思われています。けれど日本の布斗麻邇の原理に則った罪穢の祓いは今日の常識とは全く違ったものなのであります。

現在、私達の眼前に展開している人類社会存続の危機を転換して、第一、第二と続いた人類文明を更に飛躍させて人類の第三文明時代の創造を実現させる唯一の方法である大祓でありますから、これよりその大祓の内容を出来る限り詳細に説明して参りたいと思います。

先ずはその大祓の修祓の方法を字句を追って説明し、次にその精神的内容の説明に入ります。

斯かく出いでば

弱肉強食の生存競争の世の中が進み、その果はてにこの地球上が人間の住むに耐えない程生命の危険が増大した時には、の意であります。

天あま津つ宮みや事ごと以もちて

天津はこの場合政治を司る朝廷の、の意でありましょう。宮事の宮とは霊み屋やの意で、言霊の家即ち五十音言霊図を言います。天津宮事以ちて、の全部で「人類文明を創造する政庁である朝廷に於いては、政治の根本原理である五十音言霊の原理を操作・運用することによって」の意となります。

大中なか臣とみ

大祓の行事の最高責任者は政治の中心におられる天皇です。大祓の行事の対象となる人は宮中のお役人であり、また国民・民衆であります。大中臣とは天皇と役人・民衆の中間にあって、天皇の司る大祓の儀の代行者として取り仕切る人、今の行政府の総理大臣に当る役の事であります。

天あま津つ金かな木ぎを、本打切り、末打断ちて、

この文章の解釈が従来は最も困難であった箇処であります。天津金木の内容が不明であったためであります。言霊学が復活して天津金木が言霊五十音図の事であることが判明し、この文章の意味も明らかになりました。

天津金木とは音図に向って最右端の母音の縦の並びがアイウエオとなり、横の十言霊がア・カサタナハマヤラ・ワと並ぶ五十音図の事であります。現代の学童が学校で教わる五十音図のことであり、言霊学によれば人間の言霊ウの次元から発現する人間性能である五官感覚に基づく欲望現象を人間に与えられた五性能の一番中心に置いた時の人間の心の構造を五十音の言霊で表わした音図のことであります。

この天津金木音図を「本打切り、末打断ちて」とあります。音図に向って右の母音から物事は出発し、八つの現象子音の実相の変化を経過して、最後に向って左の半母音に至ってその物事は終結します。

でありますから、「天津金木を、本打切り」といえば音図の本である五母音の縦の並びを音図全体から切り離してしまうという意味であります。「末打断ちて」とは天津金木音図の半母音の縦の並びを切り離してしまう事となります。

千ち座くらの置おき座ざに置き足たらはして

千座とは道ちの倉くらの意です。生命の道理の構造と言った意味であります。「置き足らして」とは、生命の道理に合うようにすべてを置いて見て、という事、即ち「天津金木音図で示される人間の欲望を中心とした五十音図の中で、母音と半母音の列を切り離し、その母音と半母音の列と、中間に展開しているカサタナハマヤラの八行とを、生命の道理を示す構造の上に当てはめて置いて見て」という事であります。この作業が実際にはどの様なものか、は後程説明いたします。

天あま津つ菅すが麻そを、本刈断ち、末刈切りて

天津菅麻とは天津菅麻音図の事で、人が生まれたばかりの天与の心の構造を表わす五十音言霊図の事であります。菅麻とは「すがすがしい衣も」の意で、生まれたばかりの赤ちゃんの心の衣の事です。「本刈断ち、本刈切りて」とは金木の時と同様に天津菅麻音図の母音、半母音の列を音図から切り離してしまう事であります。

八や針はりに取とり辟つきて

天津菅麻音図の両端の母音・半母音の列を音図から切り離し、残った縦の八つの現象音の列を一列ごとに裂いてばらばらにしてしまって、という事であります。

天あま津つ祝のり詞との太ふと祝詞事のりとごとを宜のれ。

天津太祝詞音図に示されている如く、即ち母音の縦の列アイエオウ、音図の一番上の横の列アタカマハラナヤサワの精神構造が示す行法によって天津金木、天津菅麻の精神を宜りなおしてみよ、というわけであります。

以上が三千年にわたる生存競争時代を通して積もりに積もった人類のコンプレックスである罪穢を修祓する大祓祝詞の謂う方法であります。

この大祓祝詞が天津太祝詞子天皇によって制定されて以来、約四千年近い間、宮中に於いて六月と十二月の末に年に二回、天皇の御前に宮中に奉仕するすべての役職にある者を集め、大中臣がこの祝詞を称え、天下に向って宣言して今日に至ったのでありますが、制定された当時は兎も角、生存競争が熾烈となったここ二・三千年間に於いては祝詞を称える行事は続いていましたが、実際に大祓の修祓が実行された事は一度としてなかったのであります。

宣言はあっても実行なし、即ち「今にやるぞ、時が来たならば大祓が行われるぞ」と年に二回、宮中に於いて宣言されながら唯の一度として実行されなかったのがこの大祓祝詞の罪穢の修祓なのであります。

それは何故か、大祓祝詞の罪穢の祓いの方法を真に必要とする人類文明上の「時」が来なかったためであります。と共に日本人の大先祖であります皇祖皇宗の歴史創造の経綸上、この大祓の実行を必要とする迄の期間、大祓の真の意味を明らかにする根本原理であるアイエオウ五十音言霊の原理が宮中の天皇を初め、日本人・世界人類の意識の表面から全く忘却されてしまったからでもあります。

この期間、人々は大祓祝詞の意味を知る事なく過ぎたのであります。そして大祓の精神内容を呪示・表徴する神官による鹿爪らしい演戯・狂言様の仕草の儀式が行われて来ました。それは実際に大祓の実行を必要とする時が来るまで、大祓の精神内容を後世に伝える為の手段・演戯に過ぎないものであります。

聞く所によりますと、過去千年にわたり皇室・宮中の罪穢の修祓を委任されて来た阿倍の清明に始まる土御門神道の大祓の行事の中には、祝詞の「八針に取辟きて」の所で種々の色に染め分けられた布を八つに「ピーッ」と音を立てて裂く仕事が行われているそうです。

その様な仕草によって大祓の行法の真の意味を呪示・表徴したものと考えられます。けれどそれは時が来たならば大祓の真法の精神内容を後世に伝える手段なのであって、布を八針に引き裂いたからと言って罪穢が消え失せるものでない事は勿論の事でありましょう。

二十一世紀を迎え人類が第一精神文明、第二物質科学文明に次ぐ第三の文明を創造すべき時が来ました。第一精神文明の基礎原理であったアイエオウの五十音言霊布斗麻邇が昔あったそのままの姿で復活しました。その事によって大祓祝詞の精神内容も手にとる如く分かって来ました。

「来るぞ、来るぞ」と四千年近い間、予言されてきた大祓祝詞の全人類の罪穢を祓う大いなる力を実行に移す時となったのであります。言霊原理に則り、その行法の内容を説明して参ります。

西暦でいう二十世紀、二千年の間に積もり積もった人類の罪穢を祓う方法の開示であり、大祓祝詞の最も重要な箇処でありますから、分かり易く一行か二行の文章で力強く表現出来ればこれに越した事はありません。現にこの手段開示の祝詞の文章は「斯く出でば……」から「天津祝詞の太祝詞事を宜れ」と美文でもって簡単に説明しています。

しかし、この美文を現代人が容易に理解する為の説明はそう簡単には参りません。その一字一句の説明の段となりますと、人間の精神の精密な部分々々の内容を網羅した膨大な組織にわたっているものだからであります。そうでありますからご面倒でも少々難解で長い説明にお付き合い願う事となります。

先ず大祓の対象となる天津金木と天津菅麻の説明から始めます。図を御参照下さい。天津金木音図は先にお話しましたように、人間の持つ五つの性能の中の言霊ウの次元より発現する五官感覚に基づく欲望性能を五つの性能の中心に置いた精神構造を表わした五十音言霊図です。

即ち独走を始めた須佐之男命の音図なのです。人類が第二の物質科学文明創造の時代に突入して、外国では三千年前、日本では二千年前、精神文明の中心原理であった言霊布斗麻邇を政治の面に適用することを停止してしまった事で、時を経るに従い、弱肉強食の生存競争が熾烈となって来ました。人間の欲望性能が他の人間性能すべてを欲望達成の手段としてしまい、その世相は現代まで続いています。

この二・三千年間は言霊ウの性能が他の人間性能との協調を捨て、独走した世間相を現出させました。「勝てば官軍」「力の強い者勝ち」の世の中となりました。天津金木は今日までの社会を表徴する最も適切な音図という事が出来ます。

古文書に「天皇モーゼに天津金木を教える」とありますように、金木音図の言葉の横の並び「カサタナハマヤラ」は、その自覚に立つものは「百戦闘うも危うからず」(孫子)とある如く、絶対無敵の戦法の所有者となります。

旧約聖書に、エホバ神の「我は戦いの神、嫉みの神、仇を報ずる神」の宣言が見られるのも、ユダヤ民族が天津金木に依るカバラの原理の所持者なるが故であります。この様に天津金木という音図は一にも二にも戦いの音図であり、この音図だけを新入学の小学生に教える現代日本はまだ欲望と戦いの戦場としての日本と言う事が出来ます。

天津金木

ワラヤマハナタサカア

ヰ イ

ウ ウ

ヱ エ

ヲ オ

天津菅麻

ワ ア

ヲ オ

ウ ウ

ヱ エ

ヰニリミイヒシキチイ

天津太祝詞

ワサヤナラハマカタア

ヰ イ

ヱ エ

ヲ オ

ウ ウ

大祓祝詞の話 五の2

次に天津菅麻音図について説明しましょう。

菅すが麻そとはすがすがしい心の衣の意味で、先に書きました如く生まれたばかりの赤ちゃんが天与に持っている心の構造であり、まだ人工的なものが混じっていない大自然の心という事が出来ます。

その五母音は天である言霊アを上に、地である言霊イを下に、その間にやがて人為の性能が加わるであろうと言霊オ・ウ・エが中に入る事となり、縦にアオウエイが並ぶ事は御理解頂けることと思います。菅麻音図を図でご覧下さい。

母音イと半母音ヰとの間にチキシヒイミリニの八つの父韻が並べてあります。言霊イ・ヰは人間の創造意志であり、八つの父韻はその意志の働きの振動ともいうべきもので、その父韻が母音アオウエの四次元の宇宙実在に働きかけて現象である子音を生みます。

ところが生まれたばかりの赤ちゃんは創造意志を持ってはいますが、まだその創造活動をほとんど発動はしていません。人為的活動をしていません。

そこでこの図に書き表した父韻の並びは父韻の作用の四音チキシヒを右に、反作用のイミリニを左に並べました。実は与えられてはいますが、活動していないのですから、その並びはどう書いても構わない事になります。全く菅麻音図とは大自然の中の人という生物の心の構造図なのです。

人間のすべての営みの現象はこの菅麻音図にある五十音言霊によって構成されますから、菅麻音図とは人間生命の一切を創造する親神である伊耶那岐の神の音図と呼ばれます。それは人間の営みの善悪、美醜、真偽、得失がそこから生まれて来ますが、この音図はこれから全く超越した次元であります。

以上天津金木、天津菅麻の両音図について説明しました。

次に天津金木を取上げて「千座の置座に置き足らはして」があり、天津菅麻の下に「八針に取辟きて」が書かれておりますが、これは大祓祝詞を最終的にこの文章に修飾したと伝えられます柿本人麻呂が祝詞の文章を称え易い美文調にする為に、詩的表現を用いましたので、その正確な内容から言えば「天津金木を、本打切り、末打断ちて、天津菅麻を、本刈断ち、末刈切りて、千座の置座に置き足らはして、八針に取辟きて、天津祝詞の太祝詞事を宜れ。」となるのであります。「千座の……」と「八針の……」の操作が金木と菅麻の双方の音図に掛かるのでなければ、大祓の修祓の意味が通らない事に依ります。

さて、これより大祓の精神内容に立入ることといたしますが、先ず気が付きます事は、方便として現出させた生存競争の時代の特徴である「我良し」の心の根本となる天津金木音図が修祓の対象となる事は容易に理解できる事でありますが、人間の心の営みのすべての根源法則である伊耶那岐の神の音図である天津菅麻が修祓の対象となる事は中々理解し難い事であります。大祓祝詞の文章だけからでは理解不可能に近い事です。

大祓祝詞全体の内容が古事記神代の巻によって呪示された言霊布斗麻邇の原理の復活によって初めて解明されました如く、大祓の天津菅麻の修祓の理由も、古事記の「身禊」の章における「禊祓」の手順の克明な開示に照合する時、初めて明らかに理解されるのであります。と同時に古事記の言霊原理による「禊祓」によって大祓の修祓が明白に浮かび上がって参ります。(「古事記と言霊」の「身禊」その二参照)。

古事記神代の巻の「身禊」の章は、言霊百神の中の七十四番目の伊耶那岐の大神より百番目の須佐男命までの二十七の神名によって、大祓の修祓の方法を詳細に述べています。

今、大祓祝詞が述べる天津金木、天津菅麻を天津太祝詞に宜り直す方法は、古事記の禊祓では「大禍津日神、八十禍津日神より神直日神、大直日神、伊豆能売」にかけての手順で心行くまで明白に説明されています。その古事記が示す内容によって大祓の修祓の意味を明らかにしましょう。

大祓も古事記の禊祓も、世の中に現われて来る種々の罪穢を、国家や朝廷が定めた規則に照らし合わせて、その善悪、美醜、真偽、得失等を調べ、それによって裁判の如く判定を下すという事ではありません。では調べないのか、と申しますとそうではありません。

綿密に調べ、社会に現出して来る一切の物事の実相を明らかにします。ただ違いますのは、調べた事をそのまま論あげつらうのではなく、その物事が国家・社会の歴史の流れの中にあってどの様な時処位を持っているのか、その物事を社会の文化・文明の中に吸収する時、どの様な変化をするか、を見極め、更に物事の責任者にどう説明し、命令すれば進んで納得し、生甲斐を感じてくれる事が出来るか、が勘案され、その結論が当事者に至上命令として発表されるのです。

如何なる善悪も、美醜も、真偽も、得失も、一切を捨てることなく、国家・社会・人類の文明創造の材料として摂取され、善悪・美醜……を超えた彼方に新しい歴史生命として甦えらせるのです。

コンプレックスである罪穢は歴史創造の中に吸収され、新しい生命となって生まれ変わるのです。これが大祓の修祓の方法であり、古事記禊祓の手順であります。

この時、大祓祝詞の謂う天津金木は、その「我良し」の生存競争の自我意識は新しい産業・経済・学問の社会創造の流れに汲み上げられる事によって自我は消失し、その才能が社会建設の奉仕精神として生まれ変わるでしょう。

では言霊が存在する言霊イの次元の構造を示す天津菅麻音図はどうなるのでしょうか。言霊原理はこの時、大祓実行のための基本原理であることに違いはありません。けれど基本原理であるが故に、行法の全面に主張される事はなくなります。

縁の下の力持ちの役に甘んじる事となります。古事記禊祓に於いて創造意志である言霊イの言霊原理の大禍津日おほまがつひ神として規制され、その隠れた役目に甘んじる事によって大直日(言霊ウ)、神直日(言霊オ)、伊豆能売(言霊エ)の絶対真理への道が切り拓かれることとなります。(以上の自我意識の葛藤の消失による人類文化の創造の精神内容は大祓の次の章で詳説されます。)

この処の消息をもう少し説明します。

言霊布斗麻邇の原理が復活し、この原理によって禊祓をしようとする時、この言霊原理を鏡として社会の種々の物事を新しい歴史創造の材料として吸収しようとする時、ともすると「言霊原理に拠れば、この様にするのは当然だ」と、原理の説明とそれによる説得に終始し勝ちとなります。

これは言霊原理の存在を認めた者には当然のように思われますが、古事記禊祓ははっきりとこのやり方を否定します。言霊原理を鏡としないではありません。鏡とした上で、更にこれを禊祓の方法として腹の中に呑み込み、その上で物事の現在から新しい歴史創造の役に立つ生命を吹き込む言葉を与えて生かして行くのです。

言霊原理を振りかざす事は「大禍津日」の「大禍おほまが」に当ります。その大禍を心の中に秘めて、新生の言葉を与えて「津日」即ち日である言葉の示す真理の結果(日)に渡す(津)言葉(至上命令)を発動すること、これが古事記の禊祓であり、大祓の天津太祝詞事、即ちタカマハラナヤサの天皇(スメラミコト)の御み稜い威づなのです。

そこで「斯く出でば……」から「天津祝詞の太祝詞事を宜れ」までのこの章の全訳を書いてみましょう。

人類社会の罪穢が積もりに積もって、社会崩壊の危機が迫った時には、政治の庁である日本の朝廷に於いて、天皇の政治の代行者である大中臣は、生存競争社会の基本精神構造である天津金木音図の中から、

主体を表わす「我良し」の観念の母音の列アイウエオを切り離し、

利害・得失のみを追及する目的としてのワヰウヱヲ半母音を切り離して、

母音と半母音の間に挟まれた、物事が初めから目的に行き着くまでの現象の経過を表わす八つの子音の並びを列毎に切り裂いて、

歴史創造の自由な発想の原点に帰り、

人間生命の道理に基づく天津太祝詞のタカマハラナヤサの禊祓の手順に改めて宜り直すこと、

また時代転換のために甦った来た天津菅麻である言霊原理を歴史創造の基本法則に据えながらも、

縁の下の力持ちの役目に留め、大禍津日より伊豆能売への発想の転換を成就されて、

そこから涌いて来るタカマハラナヤサの御稜威の光の下に、

社会の一切の物事を人類文明創造の材料として摂取し、

これに新しい生命を与えて歴史を推進させ、その創造の光の中に罪穢が必然的に消滅して行くよう務めなさい。

これが天津祝詞の太祝詞事であります。

以上、四千年程前、人類歴史の将来に備えて制定されました大祓祝詞の罪穢の修祓について説明いたしました。四千年の昔に、現代の人類が迎えるであろう社会崩壊の危機を予言し、更に弱肉強食の天津金木思想を人間生命本具の平和の社会に転換し、その時に復活して来る言霊布斗麻邇の原理の運用に誤りなきよう大祓祝詞と古事記による言霊の原理を遺して下さった私達日本人の先祖の深謀と遠慮に心より感謝の念を禁じ得ません。

外国に於いては三千年前、日本では二千年前、言霊の原理の世の中の政治への適用が停止されました。神話の謂う言霊原理とその活用である天照大神の岩戸隠れとなりました。太陽である天照大神(言霊イ・エ)は隠れ、日の光の反射光である月読命(ア・オ)と独走の須佐之男命(ウ・オ)の二つのみの世界となりました。

日である天照大神が隠れ、その代役を果たしたのは月の光の月読命の宗教・哲学・芸術活動でありました。月読命と須佐之男命はこの三千年間、それぞれの分野に拠って産業発展と環境問題、戦争と平和等の社会問題で事毎に対立して来ました。

ところが、その対立の構図は、生存競争時代の精神構造を言霊を以って表わす天津金木音図それ自体に見る事が出来ます。(図参照)。

金木音図を縦横で半分ずつに仕切り、その向って右の上の列を見ると、アカサタナとなり、これは「明あかき悟さとりの田たを成なせ」と読めます。

これは正しく宗教の心を表わします。即ち大自然の心である菅麻音図に帰ろうとする心です。また、その中心に言霊スが入ります。音図の向って右半分を主基田すきたと呼びます。

音図の向って左半分の上段はハマヤラワとなり、これは「端はをまとめて八つに並ならべて和わせ」と読めます。これは正しく物質科学探究の心です。音の左半分の真中に言霊ユがはいります。そこでこの音図の半分を悠紀田ゆきたと呼びます。

宮中に於いては毎年新嘗祭にいなめさいに、また、天皇一代に一度の即位の時の大嘗祭に主基・悠紀の田を定め、そこから獲れる新米の稲穂を天皇自ら主基田の月読命と悠紀田の須佐男命に言霊を表わす稲穂(イの名なの穂ほ)を献じて、ここ三千年の月読と須佐男の対立の構図が実は皇祖皇宗の物質科学探究のための言霊学による経綸なのである事を告げ、「物質科学文明成就の暁には天皇自ら言霊布斗麻邇の原理を以って、三千年の月読・須佐男の対立に終止符を打ち、第三の文明時代建設を親裁するぞ」との予告なのです。

この行事も大祓祝詞と同様、物質科学文明時代の終わりに当り、人類の危機を転換する方法の予告であり、同時にその実行法の呪示と言う事が出来ます。

大祓祝詞の話 六の1

修祓

前号にて大祓祝詞が予言・宣布して来た人類の罪穢の大祓の精神的内容について解説いたしました。その修祓とは、人々の犯す罪穢の一つ一つを対象としてその内容を明らかにし、その上で宗教が従来行って来たように「汝等悔い改めよ」と改心・懺悔させる事によって罪穢を祓う事ではなく、世の中の人々の心の中に鬱積する種々のコンプレックスを歴史創造の中に取り込み、これに心の光、即ち言霊の光の言葉(霊葉ひば)による新しい生命を与えて、罪穢を消滅させて行くことだとお話しました。謂わばその大祓の内容のキーワードは「創造の光」でありました。御理解頂けたでありましょうか。

今号では、初めにその御理解を更に深めるため、大祓祝詞の大祓の内容を言霊原理そのものの立場から、人類歴史創造の言霊の光の言葉が何故人々の罪穢を消滅させる事が可能となるか、お話申上げてみたいと思います。その「何故可能か」を最終的に御理解頂くために、言霊の基礎原理・法則をいくつかの予備知識として取り上げることといたします。

第一に「時」とは何かという事です。現代人は過去・現在・未来と時は流れて行くと思っています。これが常識でしょう。しかしその時の中に生き、生活を営む人はただ時の中を流れて行くというだけでは説明できないことがあります。

人間は「今」に生きています。今以外に生きてはいません。「若者は未来に羽ばたく」と言い、「老人は過去に生きる」と言います。が、未来に羽ばたこうと希望を燃やすのは未来に於いてではなく、今です。老人が過ぎし良き時代を回顧するのも今なのです。人間の生命は今に生きていなす。

人間の心の最奥の単位である言霊は、イ次元の間にある「今」に存在します。これを「永遠の今」と呼んでいます。ですから図を御覧下さい。時を現わす図は(イ)となりますが、実際には(ロ)図なのです。煎じ詰めると、一切のものは「今」に備わっているという事が出来ます。この消息を禅は「一念普く観ず無量劫、無量劫の事即ち今の如し」と言っています。過去数千年、数百、千、万年…人類の経験はすべての人間の心の中に詰まっており、必要次第で現在意識に蘇えって来ます。

(イ)

(ロ)

過去

未来

イの間

言霊の会 1

大祓祝詞の話 その六 平成十三年七月十日・会報第157号

過去ばかりではありません。心の今の中に人間の将来の全ての可能性も詰まっています。一つの希望・計画の成功・不成功も「今」の中に見ることが出来ます。以上の事を言霊学原理に示される如く展開・活用するならば「今」に備わる人間の一切の記憶・意識を赤珠音図の父韻キチミヒシニイリの順に並べれば、人類の将来相とその予言が掌たなごころを示すが如く明らかになるに違いありません。以上の如く、今とは言霊イ次元の道(いのち)の間(ま)なのであり、人間の一切が存在する間なのです。

第二として、大祓の修祓の対象として取り上げられている天津金木について話を進めます。神話で謂う天照大神の岩戸隠れ以来、歴史的事実としては神倭朝十代崇神天皇による天皇と三種の神器との同床共殿の廃止以来、世界は須佐之男命の言霊ウの五官感覚に基づく欲望性能が他の現象界である言霊オアエの三次元領域をも支配する天津金木の社会一色の世界となりました。

言霊オ(学問)、言霊ア(宗教・芸術)、言霊エ(政治・道徳)の天与の三性能は、言霊オの欲望を達成する為の手段としてのみの存在となりました。言霊ウは他の三次元と協調して働くべき人間性能であるべきものが、今や完全に言霊ウの独走により他の三性能は言霊ウの傘下に入ってしまった観があります。

その状態が既に西欧に於いては三千年、日本に於いては二千年間続いています。この様な社会相を変革して、第一精神文明と第二物質科学文明との協調による人類の第三文明の時代を切り拓く為に先ず注目すべき仕事は、独走し、更に他の人間性能を支配している言霊ウの天津金木思想の修祓でなければならないでしょう。

天津金木が大祓されれば、必然的に人間の他の三性能言霊オアエも五次元並列の平等の関係を取り戻す事となります。大祓祝詞がその修祓の最初に天津金木を挙げたのも以上の理由であったからでありましょう。

大祓祝詞が制定された四千年近い昔に、日本人の大先祖である皇祖皇宗はこの事情を予見し、大祓祝詞を制定し、その修祓の第一に天津金木の名を挙げました事は、言霊布斗麻邇の原理による世界人類の歴史創造の御経綸が如何に素晴らしいものであるか、頭が下がる思いがいたします。

言霊の会 2

大祓祝詞の話 その六 平成十三年七月十日・会報第157号

第三に申上げたいのは、大祓の対象として挙げられている天津菅麻についてであります。天津菅麻五十音言霊図とは言霊原理の構造の基礎となる人間に与えられた五十音言霊という素材を生まれた時の、まだ人間知性が働き出る以前の不確かな状態で並べた音図であります。

この音図を出発点として人間の言霊ウオアエ各次元の精神活動の音図が完成されて来ます。すべてを生み出す根本の言霊図でありますから、創造神伊耶那岐命の音図とも呼ばれます。これは伊耶那岐の大神が言霊原理の最終結論を成就する行法である「禊祓」を始めるに当り、その行為の基礎とし、拠り所とした「竺紫つくしの日ひ向むかの橘たちばなの小門をとの阿あ波は岐ぎ原はら」の事であります。

伊耶那岐の大神は禊祓を開始するに当り、先ず対象となる一切のものをこの菅麻音図上に照らし合わせて、その時処位・実相を見極め、その見極めた内容を更に自らの内面性真理である建たけ御雷みかづちの男をの神という音図上に置き足らわして一切のものに新しい生命を与えて行き、その実行方法の誤りない事を極める事によって、言霊原理の総結論である三貴子みはしらのうずみこを手にしたのであります。

以上でお分かり頂けると思いますが、古事記の禊祓に於て天津菅麻は、その禊祓の実行以前の準備作業として物事の実相や時処位を決定する用を果たす基礎の役目となります。

禊祓の実行は更に建御雷の男の神という八咫鏡完成以前の、謂わば伊耶那岐の大神の内面にのみ自覚された建御雷の男の神、即ち仮初の言霊原理の鏡に参照して行われるのであります。

大祓祝詞が大祓の対象として天津菅麻を取り上げますのは、その音図が禊祓の準備段階に於ける必要を述べ、その音図に照合された物事の実相、時処位の見極めが直ちに善悪、美醜、真偽、得失の裁定・判断に直結されて、それが禊祓であると思われることを否定したかったからに他なりません。

禊祓も大祓も一定の原理に基づく諸事物の善悪……の裁判なのではなく、一切を文明創造の光の中に抱擁することによって罪穢・コンプレックスを解消させることだからであります。

第四として大祓の対象になる罪穢の善悪(エ)、美醜(ア)、真偽(オ)、得失(ウ)の相違とは何かについて考えてみましょう。

言霊の会 3

三十年以上昔、大祓祝詞の話 その六 平成十三年七月十日・会報第157号

私が言霊学の先師、小笠原孝次氏の門を叩いて間もなく、私は先師に「この世に神というものがあるとする時、何故人間に悪があるのですか。神があるなら、世の中にこれ程多くの悪がなくて社会文明を創造して行く事が出来ないものでしょうか。」師は言いました。

「お答えしましょう。その前に貴方に一つ質問します。悪とは何ですか。明瞭に言って下さい。」

私は言いました。「例えば人を殺すことです。」「戦争で敵兵を大勢殺して勲章を貰った人がいます。どういう事でしょう。」「私利私欲で人を殺すこと、これは悪です。」

「戦争で自国の利益を守るために宣戦を布告し、何万、何十万の人々を殺し、戦いに勝ち、大英雄と讃えられた大統領がいます。殺さなければ我が身が殺される場合もあります。これについてはどう思いますか。」問答をしている間に、私は何だか分からなくなって来ました。勢い込んだ口振りが当惑に変わりました。その時、師は次の様に教えてくれたのでした。

「本来悪は無いものなのです。謂わば光に対する影のようなものです。

影ばかり見ている人には影があたかも実在するもののように思われるでしょう。

けれど影は本来ないものです。

光が当れば瞬間に消えてしまいます。

影が何処かへ行ってしまったのではありません。

悪も本来無いものです。

心の光が当れば、その瞬間に消えてしまいます。

何処かへ移動していなくなった訳ではありません。

ですから悪は本来存在しません。

強いて言うならば、悪は善が何であるか、を人間が分かるためにのみ仮に存在する、という事が出来るでしょう。」

この教えを聞いている間に、私の心は深い感動に包まれて行きました。師は善悪についてのみ話をされました。けれど美醜・真偽・得失の相違についてもほぼ同様のことが言い得る事に気が付いたのであります。先師のこの教えはそれ以来、私の脳裏に留まり、「古事記と言霊」に於ける「禊祓」並びに本講大祓祝詞の「太祝詞事を宜れ。」の内容解明に決定的な判断の基礎となったのであります。

言霊の会 4

大祓祝詞の話 その六 平成十三年七月十日・会報第157号

先師が教えてくれた「光と影」の内容を、言霊原理による人類文明創造を呪示する古事記「禊祓」の章では、事細やかに「大禍津日、八十禍津日……大直日・神直日・伊豆能売から綿津見三神・筒の男の三神」の処で説いております。その間の消息を此処で簡単に復習して、大祓の眼目を言霊学によって説明する準備の第五といたします。

古事記の禊祓に於いて黄泉よもつ国の文化を人類文明創造の材料として摂取する場合、

道の長乳歯の神より飽咋の大人の神までの五神の働きで黄泉国の文化の実相が詳細に調べられ(「古事記と言霊」参照)、

次に奥疎の神より辺津甲斐弁羅の神までの六神の働きで、摂取される黄泉国の文化の現状と、摂取された後にどの様に変わる事になるか、が調べられます。

次にその様に変わらせる事を可能にする方法が求められます。

そこに現われるのが八十禍津日の神と大禍津日の神の二神です。この二神の働きは共に文化創造に欠く事が出来ない基礎原理ではあるが、飽くまで基礎原理であり、縁の下の力持ちの役目に留まる事が確認されます。

この二神の内容が禊祓または大祓の重要な眼目の部分となりますので、簡単に説明します(図参照)略。

黄泉国

影の世界

無自覚

短山

高天原

光の世界

自覚

高山

五十音言霊図を上下に型どった百音図から両側の母音と半母音を除いた間の八十音は、物事の現象に関係する音です。

この八十音は上下が中間の横線を境として対称となります。この上下対称の音図は何を意味するか、と申しますと、そこから古事記の八十禍津日の神の内容が浮かび上がって来ます。

横線を境に対称となる一音一音は同じ音であり、同じ実相を表わし、姿としては何ら変わるわけではありません。では何故上下に別れるのか、といいますと、上は光の世界であり、下は影の世界であるからです。

光の中の上段は高天原天国であり、言霊原理自覚の世界であり、大祓で高山たかやまと呼ばれる領域です。それに引替え、光のない下段は黄泉国地獄であり、言霊原理無自覚の世界、大祓で短山ひきやまと呼ばれる領域です。

大祓祝詞の話 六の2

同じ音、同じ姿でありながら、どうしてこうも違うものとなるのでしょうか。実の所、この世の姿は唯一つ図の上段の姿以外には何もないのです。それが違ったものになるのは、人類が禁断の実を食べ、天照大神が岩戸隠れして以来、人々は自らの心の光の自覚を失い、光の言葉を忘れてしまったからです。

言霊の会 5

大祓祝詞の話 その六 平成十三年七月十日・会報第157号

概念という便利そうな観念に基づく言葉を喋るようになり、その言葉で構成された見地から物事を見る時、物事の光の当らぬ影ばかりを見ることとなり、当然物事の実相を明らかに見る事が不可能となります。「葦の髄から天井のぞく」業ごうを背負わされてしまったのであります。

では、どうしたら闇の中に閉ざされたものを光の世界に導くことが出来るのでしょうか。古事記の禊祓を更に辿って行く事とします。

八十禍津日の神の働きで人間の心の光と影の対称のからくりが明らかにされました。この対称が明示されても、それだけで影から光の世界へ行けるものではありません。

また大おほ禍まが津つ日ひの神の所で説明されているように、言霊原理(菅麻音図)を土台とする言霊法則を学べば光の世界は開ける、と分かっても、すべての人々にその原理の自覚を促す事が出来る訳ではありません。

それが為に、八や十そ禍まが津つ日ひも大禍津日も「禍」として直接にそれによって光の世界に導く事は不可であると規制され、八十禍津日も大禍津日も禊祓を行う基礎原理であるに留められます。

そして禊祓成就の真法として神かむ直なお日び(オ)・大おほ直なお日び(ウ)・伊豆能売いづのめ(エ)の三神が登場します。

闇から光へ導くために八十禍・大禍は基礎原理に過ぎないから駄目であり、津日即ち日に渡されます。

日は霊で言霊であり、光の言葉の事です。その光の言葉に渡す方法が神直日・大直日・伊豆能売の三神であります。

そしてこれ等三神ならば黄泉国の文化一切を高天原の光の世界へ導く事が出来るのだ、との確認が底・中・上の三綿津見の神によって出来上がり、

そこで日に渡す実際の光の言葉の配列が底筒男(エ・テケメヘレネエセ・ヱ)、中筒男(ウ・ツクムフルヌユス・ウ)、上筒男(オ・トコモホロノヨソ・ヲ)の三神であり、

その光の言葉配列成就による禊祓を行う基礎原理の結論が、天照大神・須佐之男命・月読命の三貴子(みはしらのうずみこ)であります。

以上の事でお分かり頂ける事と思いますが、世の中の事物を闇から光の世界(高天原の創造世界)に引上げる方法は、それらの事物を光の言葉、即ち言霊原理(言霊イ)に基づいた言霊操作の智恵(言霊エ)より出る言葉を与える事なのであります。

世の中の言霊ウ・オ・エ次元に展開する物事を、その姿を何ら破壊することなく、そのままの姿で影から光の世界、黄泉国より高天原へ引上げ、物事が実際に存在する真実・実相の世界の歴史創造の材料として生かし、新しい生命に蘇えらせる唯一の道が光の言葉「霊葉」なのです。

言霊の会 6

大祓祝詞の話 その六 平成十三年七月十日・会報第157号

少々難しい話が続きました。右の禊祓の方法を後世に伝えるために、天神様と尊ばれる菅原道真が作ったと伝えられるおとぎ噺ばなし「桃太郎」についてお話しましょう。

「昔々、おじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。……」と噺は始まります。このおじいさんとは伊耶那岐の命のこと、おばあさんは伊耶那美の命と言います。

おじいさんとおばあさんが合わさって一人になった姿を伊耶那岐大神と言います(古事記「身禊」の章参照)。

おじいさんは山に柴刈りに行きました。山とは八父韻原理 ■のこと。

柴は霊葉、現象子音言霊のことです。

先にお話しました心の光と影の処で、影の世界から光の世界へ物事を引上げる唯一の道は言霊原理に基づいた現象子音(霊葉)の事と申しました。

おばあさんは川へ洗濯に行きました。川とはアからワ、エからヱ……と流れる竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原の川の瀬、即ち伊耶那岐大神が禊祓をした川の中つ瀬の事です。

洗濯とは勿論、伊耶那岐大神の人類文化創造の「禊祓」を謂います。

川上から大きな桃が流れて来ました。桃は百もの事で、言霊百神の古事記の原理の事。

この原理がおじいさんの柴、即ち霊葉である現象子音言霊の配列(綿津見・筒男)の確認によって完成され、言霊百神の原理が完成し、その中からこの原理を運用・活用する言霊エの完成体である桃太郎が誕生します。

桃の原理の総結論である三貴子の中の桃太郎(長子)である天照大神のことです。

桃太郎(言霊エ)は犬(イ)、猿(ウ)、雉(オ)、熊(ア)を家来とし、おじいさん(岐)とおばあさん(美)の作った岐美(黍)団子を持って鬼が島を征伐します。

鬼とは言霊オの似、即ち黄泉国の文化のことであります。めでたし、めでたし。

言霊の会 7

大祓祝詞の話 その六 平成十三年七月十日・会報第157号

大祓祝詞の「天津祝詞の太祝詞事を宜れ」という事を現代に生きる人が実行する場合、現実にどんな事を成し、またどんな事が起るのか、を説明するに当り、その予備知識を五乃至六箇条にわたり準備をして来ました。

これ等の予備知識を心に留めながら、この現実の社会に起って来る一切の出来事を摂取・処理して、人類文明創造のための材料として新しい生命を与える言霊原理に基づく現象子音で綴られた言葉を発して、一瞬の今・今・今の此処に於いて業縁の闇の世界から光の高天原の世界に引上げる事によって罪穢を消し去って行く方法如何を改めて述べて見ましょう。

「天津宮事以ちて」

天皇(スメラミコト)が人類文明創造の政治を行うに当って……

「大中臣、天津金木を、本打切り、末打断ちて」

天皇の代行者である大中臣は、ここ三千年間、他の人間性能との協調を拒否し、独走して他の性能(アオエ)すべてを自らの言霊ウである欲望達成のための手段として来た天津金木思想の内容とその手段(カサタナハマヤラ)を大中臣の心の中にすべて理解して、……

「千ち座くらの置おき座くらに置き足らわして」

大中臣の心中に自覚している言霊によって構成された生命の原理(五十音言霊図)に照らし合わせて、眼前の出来事の内容、並びにその出来事が起って来た歴史過程等を、今・此処の一瞬に働く八父韻ア・カサタナハマヤラ・ワの配列に於いて把握し、――

「天津菅麻を、本刈断ち、末刈切りて、八針に取辟さきて」

物事を処理するに当り、どの様な方法をとるかを決定する心の構造の原因である菅麻音図の母音と半母音を除いた後の八つの父韻の道理に基づいた、物事を対象として外に見る対処の思考方法を一切御破算にし、白紙に戻し……

「天津祝詞の太祝詞事を宜れ」

その上で、天皇御自身と全世界が一つの身体であるとの自覚の立場に立ち、眼前の世界で起っている出来事がすべて天皇御自身の過去身が「そうなれ」と命じた所の結果であり(ア・カタマハサナヤラ・ワ)、天皇御自身の責任であると受け止め、その結果の全内容を材料として、

言霊の会 8

大祓祝詞の話 その六 平成十三年七月十日・会報第157号

天皇の大御心の内容である天津太祝詞音図に基づく歴史創造の方法ア・タカマハラナヤサ・ワから発する言霊子音の光の言葉で、それに新しい生命を賦与し、実行の叶う手順を示しながら「かくせよ」の命令を発令する事であります。

その天皇の大御心の言葉は、眼前の出来事を一瞬々々、その場で影から光へ、破壊から創造へ、混乱を調和に、悲観を歓喜に、暗黒世界を光明世界に変え、世の中の罪穢は一瞬々々歴史創造の中に消えて行く事になります。

以上、「天津宮事以ちて……天津祝詞の太祝詞事を宜のれ」の大祓操作の言霊原理による説明を申上げました。

言霊五十音は今・此処「中今」に存在します。その言霊五十音を一瞬の次元イの間に於いて操作する天津宮事の政治は、歴史の中に起る種々の出来事の時処位並びにそれが起ってきた由来のすべてを言霊図によって把握し、摂取して、それ等を材料としてスメラミコトの歴史創造の法則、ア・タカマハラナヤサ・ワの天津太祝詞の順序に置き換える光の言葉・現象子音の言葉の命令を下す事によって皇祖皇宗御経綸の歴史を創造し、その創造の瞬間々々としての光の中に、過去のコンプレックスである罪穢は必然的に消滅して行く事になります(図参照)。

タカマハラナヤサ

カタマハサナヤラ

高天原黄泉国

言霊自覚 言霊無自

覚実の世界虚の世界

光の世界 影の世界

高山 短山

今・此処

大祓祝詞の話 七の1

先月号において大祓祝詞の眼目とも言うべき「天津祝詞の太祝詞事を宜れ。」の文章の言霊原理による説明が完了しました。大祓祝詞の罪穢の修祓とは個々人の行為の善悪の判定・裁判のことではなく、世の中に集積される罪穢を人類文明創造の材料として摂取し、言霊原理に基づく光の言葉、即ちタカマハラナヤサの歴史創造の行為の中に取り込んで行き、影を光に、悲歎を歓喜に、混乱を調和に転換し、皇祖皇宗の人類歴史創造の経綸を推進して行く事でありました。

「天津祝詞の太祝詞事を宜れ。」の意味が以上の如く解明され、御理解頂きますと、その個所に続く大祓祝詞の文章は一貫した筋が通ったものとして理解する事が可能となって来ます。先ず大祓祝詞の解釈を次に進めることにしましょう。

斯く宜らば、天津神は、天あめの磐いは門とを押し披ひらきて、天の八重雲を嚴いづの千ち別わきに千別きて聞きこしし召めさむ。国津神は、高山の末、短山の末に上りまして、高山のいほり、短ひき山のいほりを溌かき分けて聞し召さむ。

斯く宜らば――

大祓とは天皇(スメラミコト)の人類歴史創造の光の中に影である罪穢を自然消滅させることであると宣言されると、いう事であります。

天津神――

先に天津罪とは人間頭脳内の言葉の原理、即ち言霊原理の秩序を乱す形而上の罪であり、国津罪とは個人や人間社会の秩序を乱す個人的な形而下の罪であると言いました。天津神とはその天津罪に対応する言葉で、言霊の原理を自覚して、その原理・法則を活用して社会の政治を司り、人類社会の歴史創造に直接携わる人のことであります。

天あめの磐いは門とを押し披ひらきて――

磐門は五十い葉は戸とのことであります。五十音言霊の原理・布斗麻邇は長年月の間、社会意識の底に隠されていました。神倭朝第十代崇神天皇による三種の神器と天皇との同床共殿(床を同じくし殿を共にする)制度の廃止の事実であります。

この決定以来、日本の朝廷の政治は言霊布斗麻邇の原理に頼ることのない、弱肉強食社会に於ける権力政治に移行することになりました。その結果、わが国伝統の精神原理は日本人の潜在意識の底に隠れ、生存競争社会が現出し、その社会土壌の中から人類世界の第二の物質科学文明が花咲いたのであります。

言霊の会 1

大祓祝詞の話 その七 平成十三年八月十日・会報第158号

この人間生活に便利な科学文明は誠に結構な物質的恩恵を与えてくれる半面、この生存競争社会を人類生命存続の危機という想像もつかない運命の中に人々を叩き込むことになりました。正に人類文明転換の時であります。

この時に当り、数千年来朝廷に於いて称えられ、予言されて来た大祓祝詞の「天津祝詞の太祝詞事を宜れ。」の大宣言に応えて、天津神が立ち上がることとなります。

即ち法華経の「従地涌出の菩薩」の譬えの如く、復活した言霊布斗麻邇の原理を学び、これを活用して人類の第二文明時代を第三の生命文明時代へ転換する偉業に携わる人々が世の中に輩出し、その結果、この地球上に大昔にそうであった如く天津日嗣天皇(スメラミコト)の人類文明創造の朝廷が成立し、精神と物質双方の究極の真理を供えた平和にして豊潤な社会が建設されて行くこととなります。

天の八重雲を嚴いづの千ち別わきに千別きて聞きこし召めさむ――

天の八重雲については祝詞の初めの所で説明しました。それは天津太祝詞音図の八父韻の並び、タカマハラナヤサの順序が示す生命の調和をもたらす根本原理の事であります。

「天の」は先天構造の意。

八重雲はそのタカマハラナヤサの先天構造から現出する生命調和の法則のことであります。

「嚴の千別きに千別きて」とは御稜威(嚴)の道理(千)を諸々に黄泉国の文化それぞれの上に投入して、生命調和の道に摂取して行く事であります。

「千別け」とはそれぞれの内容を生命の道理の構造の中に取り込んで行く事、と言った意味です。

「聞し召さむ」とは、天皇の宣言を聞いて、その内容を理解して、その趣旨の沿った行為でお答えするの意であります。

短山

黄泉国

無自覚

国津神は――

高山

高天原

自覚

天津神が五十音言霊の原理を活用することによって朝廷の政治を行う人であるのに対し、国津神とは天津神の行う政治の下に、その恩恵を受ける国民の事であります。

高山の末、短ひき山の末に上がりまして――

短山のルビに「みじかやま」と書いてある古い祝詞の文章に出会う事がありますが、意味は変わりません。

言霊の会 2

大祓祝詞の話 その七 平成十三年八月十日・会報第158号

高山・短山の事は先月号にて触れましたが、ここで再び説明することとしましょう。言霊原理の結論である天津神籬ひもろぎ、天津太祝詞図の母音は上よりアイエオウと並びます。この並びを上下にとった百音図を作りますと、上下の中央の横の線を境に言霊図は全く対称形となります(①参照)。

この百音図を昔、百敷の大宮と呼びました。この百音図を構成する対称の上下の音はいずれも同じ音であり、実相も同じでありますが、その状況は全く違って来ます。上は光の世界、下は影の世界、上は高天原、下は黄泉国、上は言霊自覚の世界、下は無自覚の世界であります。

こうお話してもお分かり難いかもしれませんので、仏教の六道輪廻の教えを例に引きましょう(②図参照)略。この図は人間の心の進化の順序、下からウオアエイを上段にとりました。

仏教ではその進化を衆生(ウ)、声聞(オ)、縁覚(ア)、菩薩(エ)、仏陀(イ)と教えます。下段はそれと対称的に上から人間(ウ)、修羅(オ)、畜生(ア)、餓鬼(エ)、地獄(イ)と示されます。

上段は仏教自覚の世界で、下段は無自覚の世界、上下対称のそれぞれは行為の内容は似ていますが、境涯は全く極楽と地獄の違いとなります。(ア)の項を例にとりましょう。

上段の(ア)は縁覚の悟りの次元です。心の一切の束縛から離れ、心の自由を得た初地の仏の自覚の境涯です。ところが、

下段の(ア)は畜生界であります。自由に振舞うこと畜生の如く、大小便を垂れ流し自由、善悪の識別もなく傍若無人の行動となります。

他の(イ)(エ)(オ)(ウ)の諸次元についても同様な事が言えます。自覚の有無、光の有無が想像もつかない相違をもたらす事をご理解いただけるでありましょうか。人間とはその心掛けによって神ともなり、また獣にもなるとはこの事を言うのであります。またこの人間の分際を知り尽くした皇祖皇宗の人類歴史創造の経綸の御苦心も窺い知ることが出来るというものでありましょう。

「高山の末、短山の末に上がりまして」の高山の末は言霊ア、短山の末も言霊アであります。言霊アの境地に視点を置くと物事の実相を最もよく見ることが出来ます。

高山のいほり、短ひき山のいほりを溌かき分けて聞し召さむ。――

「高山のいほり、短山のいほり」とは五百理いほりの意で、五(アイエオウ)を基本原理として組み立てた百音図の法則の事であります。

言霊の会 3

大祓祝詞の話 その七 平成十三年八月十日・会報第158号

そこで高山のいほりとは、百音図の中の上段の原理、短山のいほりとは下段の原理という事となります。

「溌き分けて」とは、「書き分け」の謎です。上段の法則と下段の法則とを書き分けるとは如何なる事なのでしょうか。上段は言霊原理自覚・活用の高天原の世界の原理であり、政治を行う方の物の見方、即ち言霊原理そのものの世界の事です。下段は言霊原理を自覚せず、黄泉国の物の考え方、即ち概念的知識を基本とした考えを以て生活を営む人々の集まり方であります。

政治を行う場合、朝廷の政庁に於いて、言霊原理に則り「かく為せ」の方針が決定されましても、その上段の決定をそのまま国民に示しましたのでは、言霊原理を自覚しない国民の側はその内容・方針・目的が理解出来ません。そこで「書き分け」が必要となって来ます。

言霊原理から見た真実の宣言を、国民全体が理解し、喜んで受け入れ、実行出来るよう、世間的な言葉即ち概念的な言葉に書き直して発令されます。これが書き分けであります。、

こうする事によって天皇(スメラミコト)の政治が広く国民の生活に適合し、国民は喜んでこれに従う事となります。即ち「聞しめさむ」となる訳であります。概念的、経験的な知識による言葉から発想された方針や計画がそのまま概念的な言葉を以て発表される時、その政治を受ける側の経験知識との齟齬・誤解が生じ、混乱が生じます。

光が当らぬ影の領域の政治に付きまとう混乱・騒擾はすべてここに起因します。けれど言霊原理に則った光の言葉を書き分けた概念的な言葉の宣言には誤解を生む余地はありません。「光と影」として前号で詳しく説明いたしました。

大祓の文章を先に進めます。

斯く聞しめしてば、皇御孫命すめみまのみことの朝廷みかどを始めて、天下あめのした四よ方もつの国には罪と云ふ罪は在あらじと、科しな戸どの風の、天の八重やえ雲ぐもを吹き放つ事の如く、朝あしたのみ霧夕ゆうべのみ霧を、朝風夕風の吹き掃はらふ事の如く、大おほ津つ辺べに居る大船を、舳へ解き放ち、艫とも解き放ちて、大海原おほわたのはらに押し放つ事の如く、彼方おちかたの繁木が本を、焼鎌の敏鎌もて、打ち拂はらふ事の如く、遺る罪はあらじと、祓ひ給ひ清め給ふ事を、――

言霊の会 4

大祓祝詞の話 その七 平成十三年八月十日・会報第158号

斯く聞しめしてば、――

大祓祝詞の眼目である「天津祝詞の太祝詞事を宜れ」が実行され、天津神である朝廷に於いて政治を執り行う人達は復活した言霊の原理を以て黄泉国の文化の上に投入し、そのすべてを人類歴史創造の糧とし、吸収して行く事によって大祓の宣言の趣旨にお答えし、国津神である一般国民は朝廷の言霊原理による新しい政治が国民に理解出来るよう、その内容を平易な文章に書き直された法令によって納得し、従う事になるならば、……という意味であります。

皇御孫命すめみまのみことの朝廷みかどを始めて、天下あめのした四よ方もつの国には罪と云ふ罪は在あらじと、――

数千年にわたり朝廷に於いて、六月と十二月の年二回、予言されて来た大祓の宣言が実行に移されることになりますと、天孫降臨と神話に謳われます言霊原理の自覚・保持者、霊知りの邇々芸命の集団がこの日本に国を肇めて以来の天皇の政庁を始めとして、全世界の国々には、長い間に溜まっていた諸種のコンプレックスである罪は消え去ります。

そして三千年にわたる暗黒の時代とは全く違った新しい文明時代の幕が切って落とされる事となります。では大祓が毎年宣言・予言され、その基礎原理である言霊の原理が社会の表面から淫没していた長い歴史の時代は、日本の朝廷はその間如何なる経過・変遷を経て来たのか、を振り返ってみましょう。それについて恰好の先師の文章がありますので、敬意を表し此処に引用することとします。

『その昔、行われた天孫降臨は、世界の高天原地方から生命の主体の原理を把握した覚者神人の団体が、平地に降って、合理的な国家社会を地上に創設した事であった。その人類最初にして然も永劫不変、天壌無窮、万世一系の道義社会の責任者、指導者、経営者が天津日嗣天皇として、全人類に祝福された伝統を、その間必要な或る時期には天の岩戸隠れ、入涅槃の過程を辿りながら、また時に当面の経綸の企図方針に応じて、幾度か皇朝の変革維新を行いながら、三種の神器であるその原理そのものの伝統は、今日まで連綿として悠久一万年に亘る歴史を経過しつつ、高天原日本のうちに継承保全して来た。これが皇御孫命の朝廷の歴史を通じての真姿である。

大祓祝詞の話 七の2

天皇が毎年行って来た新嘗祭及び大祓の「御贖みあらかの儀」は一代に一度行われた即位式大嘗祭の儀を小規模に繰り返す式典であって、「御麻」「節折よおり」「壺」等の儀がある。この祭典に執行されるすべての仕草(動作)と、これに用いられるすべての器物は、悉くこの不変不滅、恒常普遍の伝統の原理を形と動作を以て示し現わした黙示であり、呪事呪物である。

すなわち此の仕草と器物は文章(言葉)を以て示された大祓祝詞に内臓されている原理と一体をなすものであり、また言霊五十音布斗麻邇であるこの原理を同じように呪文を以て黙示してある古事記、日本書紀の内容ともまた同一の意義を有するものである。

呪文呪事を呪文呪事と知ってその謎を釈いて、その真態を現わす時、神道とは唯一の系列の布斗麻邇三種の神器の原理であることを知る。

崇神朝に於ける三種の神器の同床共殿廃止以来、正法が隠没している像法末法の二千年間に於ける天皇の最も重大な仕事は、斯くの如き黙示(呪文、呪事、呪物)として示されている原理の意義を式典の形を以て継続保持することにあった。

それはやがて再びこの原理の実体を以て、いずれ新しく創造される人類の第二の文明である科学をその原理の中に綜合摂取し、またその像法末法の間に発生した罪穢すなわち社会内容の矛盾撞着を贖い修祓するための人間性の不滅の原理を、祭典の形りで今日まで保存する事であった。

二千年の経過の後、今日世界に罪穢が横溢充満し、矛盾混乱が頂点に達して、再び新たな天孫降臨すなわち天の岩戸開きが必然である歴史的な時期がいよいよ廻って来た。

宮中や神宮に於ける呪事である儀式祭典の動作は猿芝居だと評されている。その本物ではない芝居の仕草だけを、中実わきまえずに、よい年寄達が衣冠ものものしく、鹿爪らしく勿体ぶって、何時までも繰り返し演じているだけで事が済む時代ではない。

「五串立て御酒おへまつる神主のうずの玉影見ればとぼしも」と古歌は揶揄やゆしている。呪文呪事の謎を釈き、芝居の型を黙示本来の生粋の姿である言霊に還元して、以て言葉と文字で示す申す神の顕示たらしめて世界に開明する時である。

言霊の会 6

大祓祝詞の話 その七 平成十三年八月十日・会報第158号

全人類の精神的な至宝であり、凡そ人間たる以上、民族人種の区別なく、誰でもが持って生まれているが故に、人類の共通普遍の財産である三種の神器、言霊布斗麻邇を把握運営する責任者は、尠すくなくとも過去三千年、祖先の努力と守護によって原理の連綿たる伝統を保持して来た天孫民族日本人である。

この時この日本人が蹶起して、今日までの岩戸隠れの時代のものとしての朝廷あるいは政府とは、その存在と意義と使命を異にする世界の高天原日の本の政庁、法庁、教庁を新たに復元建設し、この原理の内容をみずから聞召し自覚し、全世界に普く釈き明かして、比類なく優秀なこの道理を以て、劫末澆世の極に到っている人類社会を大祓する時、歴史の此処にその三千年にわたる自然生活(天津菅麻)、生存競争(天津金木)の渾沌が整理されて、人類文明は永劫不変の調和を実現する新しい時代に向って、輝かしい第一歩を踏み出すこととなる。』

(小笠原孝次氏著「大祓祝詞解儀」二十八~九頁)

長く先師の文章を引用いたしましたが、祝詞の「斯く聞しめしてば」とは、この引用した文章が示す如く、皇御孫の朝廷が一万年にわたる変遷の歴史の末に、大昔に在ったと同様の政治の機構と内容を整え、世界人類の第三文明時代建設に向って機能し始める事を意味しています。祝詞の此処より以下の文章は、その本来の天皇の政庁・教庁が活動を開始する時には次の如くになるぞ、という事を述べることとなります。

科しな戸どの風の、天の八重やえ雲ぐもを吹き放つ事の如く、――

古事記上つ巻「子生み」の章に風の神、名は志し那な都ど毘ひ古この神とあります。言霊フのことです。心の先天構造の内容(志)のすべて(那)を言葉(都・霊屋子みやこ)とする働き(毘古ひこ)の事であります。

人間頭脳内で心の先天構造(十七言霊・天名あな)が活動を起こし、それが先ず何なのか、イメージが形成され(未鳴まな)、次にその未鳴に言葉が結び合わされ(真名まな)、次に口腔にて発音され(神名かな)、現実の言葉となって空中を飛びます。この様に人間頭脳内の正系の働きによって発音・自覚された言葉によって天津日嗣天皇の人類文明創造の政治の訓令(天の八重雲)が全世界に向って発表され(吹き放つ)、各地に滞りなく伝えられるように、という意味です。

言霊の会 7

大祓祝詞の話 その七 平成十三年八月十日・会報第158号

朝あしたのみ霧夕ゆうべのみ霧を、朝風夕風の吹き掃はらふ事の如く、――

高天原の言霊布斗麻邇の原理に則った実相そのままを表わす言葉ではなく、黄泉国の個人々々の経験知識の言葉による社会には必然的に歪が生じ、世の中全体が霧に包まれた如くに真実の相が把握できなくなります。そこに陰陽(朝夕)の塩盈みつ珠、塩乾ひる珠(父韻)の操作宜しき政治の運用によってその霧を吹き掃い、明るい実相に満ちた世の中を実現することのように、の意であります。

大おほ津つ辺べに居る大船を、舳へ解き放ち、艫とも解き放ちて、大海原おほわたのはらに押し放つ事の如く、――

大津辺とは港のこと。大船の舳とは舟の船首、艫とは船尾のことです。では船は何を表すかと言いますと、仏教で謂う大乗・小乗、即ち人の心を乗せる乗物の事であります。伊勢神宮の御神体である八咫鏡を乗せている船形の台、これを御み船ふね代しろと呼びます。

大船とありますので、大乗の乗物の事で、祝詞の大船は大船中の大船である人間精神最高の構造を示す天津太祝詞音図のことであります。地球人類を乗せて、物心共に豊かで調和のとれた世界歴史創造の海を航海するべきこの精神の大船は、ここ二・三千年の間、船首も船尾も港の岸壁に繋がれて海に乗り出す事がありませんでした。

天照大神は岩戸深く隠れてしまいました。代って須佐之男命(八拳剣)と月読命(九拳剣)という船がわがもの顔に大海原を往き来していたのです。

大船である五十音図の船首とは五母音の並びの事であり、船尾とは半母音の並びの事です。御承知の如く須佐之男命の八拳剣の判断力は主体を表わす母音の並びと、客体を表わす半母音の並びの双方の自覚を欠きます。

月読命の九拳剣の判断力は主体である母音の自覚はありますが、客体である半母音の自覚がありません。、

須佐之男命の物質科学は主体を捨象し、客体を抽象して、主体と客体との間の現象だけを追及します。

月読命である宗教・芸術は主体の自覚はありますが、客体についての決定的結論は出す事が出来ません。宗教・芸術が世界人類全体の問題に結論を示すことが出来ずにいるのも、この理由からです。

この暗黒の二・三千年間、船首が真直でない、船尾の舵がしっかりしていない船が歴史創造の海を右往左往していたという事が出来ます。人類生存の危機が迫って来たのも当然であります。

言霊の会 8

大祓祝詞の話 その七 平成十三年八月十日・会報第158号

この時、天照大神の天津太祝詞音図である十拳剣という完璧な判断力を備えた大船中の大船を、舳先の綱も艫綱も解いて、いよいよ世界人類六十億人を乗せて第三文明時代の大海原に出航させる事となるのです。日本の古歌はこの事を次のように称えております。

なかきよの とおのねふりの みなめさめ

なみのりふねの おとのよきかな

彼方おちかたの繁木が本を、焼鎌の敏鎌もて、打ち拂はらふ事の如く、遺る罪はあらじと、――

「彼方の繁木が本」とは並んで生えている木の枝が無数に分かれて茂り、何処が幹でどこが枝だか見当がつかなくなった状態の事です。茶の木は枝の先の茶の葉を摘み易くするために、枝先を円形に切り揃えます。そのため枝は四方八方に枝を分け、枝と本との区別がつかなくなります。 茶の木林などと呼びますが、これは複雑な哲学理論が入り組んで、論と結論の区別がつかない事に譬えられています。

この元も先も分からない枝を、「焼鎌の敏鎌」即ち鋭い鎌でもって、混み合っている枝をバサバサ斬り拂ってしまうように、個人の経験に基づく哲学理論のアイマイさを斬り拂ってスッキリと論・結論をはっきりさせてしまえば、という意味であります。

「焼鎌の敏鎌」という鋭い鎌(カマ)とは、古事記子音創生の順序、タトヨツテヤユエケメ、クムスルソセホヘ、フモハヌ、ラサロレノネカマナコのカマに当ります。この「カマ」とは、人間の心が言葉となり、空中を飛び、人の耳の中に入り、復唱され(ノネ)、それが何を意味するか、心中に煮詰められます。

その上でその内容(ナ)が明らかになり、結果(コ)が確定され、言葉としての現象が終結します。カマとは釜で、煮詰める道具でもあります。言葉の内容を煮詰める釜(カマ)、複雑な枝を斬り拂う鎌(カマ)、そこに言葉発生の正系の順序を経た言葉が、複雑な黄泉国の経験知の言葉を判別して行く厳正な作用を汲み取る事が出来ましょう。

以上のように、皇御孫命の文明創造の政庁の言霊原理に則った政治の布告が、その内容の実相そのままに世界の人々に伝わり、何の疑念もなく人々が第三文明時代建設の使命に喜び勇んで発進して行く事と

言霊の会 9

大祓祝詞の話 その七 平成十三年八月十日・会報第158号

なるならば、人々の心中にわだかまる一切の罪穢は消えてしまう事になりますから、の意であります。

そうなりますと、朝廷の政治の布告が作成され、人々に伝えられ、結果がどの様になって行くか、第三文明時代の政治状況が次に明確に述べられます。大祓祝詞の総結論であります。

高山の末、短ひき山の末より、さくな垂だりに落ち、沸たきつ速川の瀬に座ます、瀬せ織おり津つ姫と云ふ神、大海原おおわだのばらに持ち出でなむ。斯く持ち出で往なば、荒塩の塩の八百道やほぢの八塩道の、塩の八や百お会あいに座す、速はや開あき津つ姫と云う神、持ちかか呑みてむ。斯くかか呑みてば、気い吹ぶき戸どに座す気吹戸主と云ふ神、根国底国ねのくにそこのくにに気吹き放ちてむ。斯く気吹き放ちてば、根国底国の座す速はや佐す須さ良ら姫と云ふ神、持ちさすらひ失ひてむ。

以上、柿本人麻呂 の美辞麗句の詩的表現によって新しい四人の神名が出て来ました。これが第三文明建設時代に於ける政治の内容を示したものなのだとは読んだだけでは到底理解し難いことでありますが、解説を進めて行く事にしましょう。

大祓祝詞の話 八の1

アイウエオの五十音言霊布斗麻邇の原理が昔あったと同様の姿で復活し、天津日嗣天皇の世界の法庁・教庁・政庁がこれまた太古にあった如く新しく創設され、この政庁の言霊原理に基づく人類の第三文明の創造が開始され、その歴史創造の中に長い間溜まりに溜まった人類の罪穢が消滅して行きます。

その有様は「日本人の大祖先が神鳴り(雷鳴)と喩えました人間の言語の先天構造を正確に自覚した頭脳から発する朝廷の文明創造の指令が世界の各地に行き渡り、緩急宜しきを得た政策が世界の暗雲を吹掃うように、また天津太祝詞の大乗の精神法則が世界人類を包み込んで、新しい歴史創造の大海に乗り出して行くように、言霊原理による正しい判断によって世界の複雑怪奇な混乱の自己主張の論理が一掃されてしまうように、世界を覆いつくした罪穢が残らず払われてしまいます。

ではこの様な新しい時代の政治とは如何なるものなのでしょうか。その状況が大祓祝詞の最終結論として次に述べられる事となります。この結論を示す大祓の文章は前月号の末尾に掲げましたので、その文章について詳しく解説して参ります。

高山の末、短ひき山の末より、さくな垂だりに落ち、――

柿本人麻呂特有の美文調に心奪われて読んでしまいますと、その文章に隠された言霊学の意味を見逃し兼ねません。天津太祝詞音図を上下にとった百音図(図参照)の母音は上よりアイエオウ、ウオエイアの十音となります。

上の五音の属する領域が高山、下の五音が短山に属します。その高山の末は言霊ア、短山の末もアです。その言霊アとは天津日嗣天皇(スメラミコト)の座であります。

天皇からその慈眼で見る世界人類のすべてを大御宝(おおみたから)または大御田た族からといい、天皇は人類と一体であり、この一体となった時の天皇を御身(おほみま)と呼びます。

天皇の坐おます座より「さくな垂りに落ち」とはどういう事か、と申しますと、辞書は「さかさ落としに流れ落ちる」とあります。状況だけから解釈すればその通りでありましょうが、これに言霊の意を付け加えますと、「咲く名足りに落つ」となります。咲くとは心の表面にいっぱい言葉として表現されることです。

言霊の会 1

大祓祝詞の話 完 平成十三年九月十日・会報第159号

「な」とは名で、物事の内容を意味します。「垂り」は「足り」の意で「十分に」という事です。「さくな垂りに落ち」全部で「心の内容が十分に言葉として表現されて下に伝えられ」という意味となります。

沸たきつ速川の瀬に座ます、瀬せ織おり津つ姫と云ふ神、――

言霊原理に基づく世界の文明創造の政治は、天皇を頂点とする百敷の大宮である朝廷から一瞬の懈怠げたい・逡巡しゅんじゅんもなく諸種の指令が発せられます。その指令が「さくな垂り」に発令され、速川の瀬となって流れ下るように実行に移されます。

瀬とは音図に向って最右の母音より計画が八つの父韻の意図のままに実行・実施され、最左の列である半母音で結果が出て指令は目的を達します。その実行の行為がアイエオウと順順に下に向って伝達されて行きます。ア段の天皇の座から発せられる指令が先ず直ぐ下のイ段に下る所にいる神が瀬織津姫というわけであります。」

この瀬せ織おり津つ姫(言霊イ)に続いて速はや開あき津つ姫(エ)、気い吹ぶき戸ど主ぬし神(オ)、速はや佐さ須す良ら姫(ウ)と四柱の神々が出現します。神道で祓戸四柱の神と呼ぶ神であります。

天皇(ア)より指令が天津太祝詞音図の母音の順序アイエオウと下達されて行く状況がこれから詳しく述べられる事となります。

かく申しますと、この四柱の神の内容と順序が、祝詞の一番初めに出ました「比ひ礼れ挂かくる伴男(イ)、手襁たすき挂くる伴男(エ)、靭ゆき負おう伴男(オ)、釼たち?はく伴男(ウ)と対応している事にお気付きの方もいらっしゃいましょう。

祓戸四柱の神とは天皇より発令・下達される指令が朝廷の四つの役職を経過して、実際の国民の中で如何様に実施されて行くか、即ち言霊布斗麻邇の原理による新時代の政治の内容が述べられているのであります。祓戸四柱の神と呼ばれる社会の罪穢の祓いとは、新時代に於ける文明創造の政治そのものである事が結論づけられて行きます。

瀬織津姫の瀬を織るとは音図に向って右の母音より左の半母音に向って流れる八父韻の生命の流れ、言い換えますと、五十音図の母音の並びを空間に、母音から半母音に向う父韻の並びを時間にとり、空間と時間の交差する彩(音図・心の衣)を織り成して行く働き、これが瀬を織るという事になります。言霊原理に則って人間の生命活動は五つの音図に作成されます。

言霊の会 2

大祓祝詞の話 完 平成十三年九月十日・会報第159号

天津菅麻(イ)・天津太祝詞(エ)・宝(ア)・赤珠(オ)・天津金木(ウ)の五つであります。

大祓祝詞の眼目はイアオウを中心に据えた四つの音図を検討して(大祓祝詞の文章には天津金木と天津菅麻の二つだけしか記されませんが)、それを材料として人類文明を創造するために天津太祝詞音図に宜り直すことであります。天皇から発せられる指令は先ず、瀬織津姫神(比礼挂くる伴男)の所で音図に照らして如何なる内容かが検討されます。

大海原おおわだのばらに持ち出でなむ。――

音図上の検討が終了しますと、一般社会への発令が決定します。社会へ広く発令することを「大海原に持ち出でなむ」と表現したのであります。何故その様な表現を選んだのか、と申しますと、それは人麻呂特有の美文調「荒塩の塩の八百道の八塩道の、塩の八や百は会あいに座す……」という文章に続けるためであります。即ち「大海原に持ち出でなむ」から「海の塩」の言葉を引き出そうとした訳です。

斯く持ち出で往なば、――

天皇の命令が言霊原理に則って沙庭され、検討されて、庶民社会に発令することが定まりますと、という事です。すると事はその次の段階である速開津姫神の所へ廻されます。祝詞の初めにある「手襁挂くる伴男」の仕事が始まります。

荒塩の塩の八百道やほぢの八塩道の、塩の八や百お会あいに座す、速はや開あき津つ姫と云う神、――

速はや開あき津つ姫神とは速く(速)明らかに(開)目的に達する(津)能力を秘めている(姫)役割(神)と謂った意味であります。

音図上で検討された天皇の意図即ち社会の現状を文明創造推進のためどの様な変革を実施すればよいか、そのためにどの様な手段・手順をとったらよいか、が検討・確定されます。瀬織津姫で決まった原則を、その実現のための方法が定められる段階の仕事です。それは言霊エの速開津姫神(手襁挂くる伴男)の仕事という事が出来ます。

では速開津姫神がいる「荒塩の塩の八百道の八塩道の塩の八百会」とはどんな処なのでしょうか。どんな処と言っても、地球上の場所ではなく、精神的な場の事です。「荒塩の……」は人麻呂の美辞でありま

すが、この言葉の中核となるのが「塩」の一字です。

言霊の会 3

大祓祝詞の話 完 平成十三年九月十日・会報第159号

塩しほを四し穂ほと取れば、イエアオウ五母音の中のエアオウの四音、即ち実際に世の中を構成する四つの次元の事となります。この四つが世の中の世の語源となります。

塩を機と取りますと、適当な機会という意味です。天皇からの指令が瀬織津姫の働きで音図上で検討されますが、ここまでは原則的な形式にとどまります。この決定を流動している世の中の最も適当なチャンスを捉え、状勢を変革し、文明創造を推進するか、は言霊エ(叡智)の働きです。言霊学でいえば、四つの母音に対する八つの父韻の働きかけの機会を常に見極めている事が要求されます。

どんなよい政策も、その施行のチャンスを逃したら、またその時の情勢判断を誤ったら、何の効果も挙げられません。「荒塩の塩の八百道の八塩道」即ち複雑に流動する世の中の状勢の中で「ここぞ」という一瞬に社会全体の実相を捕捉し、そこに適当な施策を実行する実践智(言霊エ)の能力、これが速開津姫神の働きです。

持ちかか呑みてむ。――

「成る程」「よし今だ」「チャンスは此処だ」と自ら納得することです。言霊エの能力はこの様に機(潮時しほどき)を自らが納得出来る程に機敏であることが必要とされます。天皇の座から発せられ、瀬織津姫の処で言霊図に基づいて検討された指令が、此処速開津姫神の処で社会の流動する現状とマッチする様、そして変革・創造の確実な気運となるよう計画が練られます。

斯くかか呑みてば、気い吹ぶき戸どに座す気吹戸主と云ふ神、――

速開津姫の処で時機・状況に則した指令の言葉が発せられますと、次に気吹戸主の処へ下されます。気吹戸とは心(気)が言葉として発音される(吹)処にある戸、平たく言えば人間の咽喉のどの事です。咽喉の働きで言葉が外界に飛び出して行きます。

気吹戸とは息吹が飛び出る門とであり、また咽喉のどとは宜のる門とで同じ意味となります。言葉が飛び出ることを、祝詞の初めには矢が弓から飛び出る事に喩えられて、靭負う伴男(オ)と呼ばれています。この社会に向って発せられる言葉は、瀬織津姫・速開津姫の働きで言霊原理に則った指令が、気吹戸主の処で一般社会の国民に理解出来るような法律、道徳、訓示の言葉に組み替えられて発表されます。

大祓祝詞の話 八の2。完。 平成十三年九月十日・会報第159号

前号に説明されました「高山のいほり、短山のいほりを揆き分けて」の作業が行われ、国民に伝えられます。

根国底国ねのくにそこのくにに気吹き放ちてむ。――

根国底国ねのくにそこのくにとは太祝詞音図の並び母音アイエオウの最下段であるウ段のことです。

言霊原理によって正確に検討された天皇の指令が、一般国民に通用する言葉に書き直されて、最下段(ウ次元)の大衆社会に発表されます。気吹戸放つとは発表・伝達されるの意であります。

斯く気吹き放ちてば、根国底国の座す速はや佐す須さ良ら姫と云ふ神、――

根国底国にいる速佐須良姫とは政治上の恩恵を受ける一般大衆のことです。世の中が変わって第三文明時代となっても、この次元に属する人々の実相は変わることはありません。

速佐須良姫とは「さすらう」「放浪」「流転」の意味であります。

私の先師の言葉を借りますと『曠劫よりこのかた常に没して出離の期なしと観ず(教行信証)と親鸞は云ったが、神を知らず、仏に遭はず、天津日嗣の経綸を知らず、世界に対する自己の位置と意義を知らず、みずから輪廻を解脱する力なく、またみずからが輪廻していることの自覚のない大衆の境涯が速佐須良姫である。』

ではこのような一般大衆(速佐須良姫)に朝廷の指令をどのように伝え、自ら進んで遵守させるか、といいますと、祝詞の初めに出て来ました朝廷の役割の最下段(言霊ウ)にいる釼?く伴男が働く事となります。釼と言いますと、精神的には判断力の表徴であります。けれど政治的には釼は権力に通じます。天皇からの指令が最終的に下りて来て、一般大衆に接する処に釼?く伴男がいます。

指令がどの様に伝えられ、守らせるか、は釼?く伴男の判断に委ねられます。そして人々はその適切なお役人の判断によって喜んで法律に従い、協力するようになります。けれど大衆の中にはどうしても趣旨を理解せず、抜け道を考えたり、反抗する者も出ることでしょう。

その場合の釼はやむを得ず権力の行使という形で現われます。即ち罰則が適用される事となります。

第二文明時代の政庁は、その頂点より人民に接する役人まで、すべてが権力構造という事が出来ます。

けれど新時代の政庁の構造は頂点より最下段に到るまで公平無私の慈悲の政治です。

言霊の会 5

大祓祝詞の話 完 平成十三年九月十日・会報第159号

それでも私欲のため反抗する人にのみ権力の行使となります。権力と言われるものの意義が最小限に留とどめられます。

持ちさすらひ失ひてむ。――

一般大衆は何事にも熱し易く冷め易いと謂われます。何時の時代にも変わることはありません。天皇からの指令が社会の平和と福祉をもたらし、大衆は幸福の日を過ごし、鼓腹撃壌の歌を唄いますが、何時の間にかその幸福な日常に馴れ、終に忘れてしまいます。

政治を行う人々の日夜の労苦など少しも考えません。全く心許なく薄情の様に見えますが、良き政治の下ではそれでよいのであります。人々が一つの法令のもたらす好結果に馴れ、マンネリ化が始まろうとする時には、また新しい指令が下りて社会の雰囲気を一新することになるからです。

かくて政治の渋滞は起こることなく、一般大衆は世の中に何事も起こらない事に安心して暮らし、政治とその政治の立案・施行者の存在すら余り関心を持たぬ事となるわけであります。大衆が政治に関心を持つ事こそ非常事態の証拠というべきかも知れません。

以上、新しい時代の政治の様相について大祓祝詞の結論の文章を解説いたしました。現代という第二物質科学文明時代の終わりに当たる国際・国内双方の政治のエゴむき出しの緊迫した状況に比べて、今、申し上げました来るべき新時代の繊細にして鷹揚な政治状況は考えただけで楽しくなるではありませんか。

大祓祝詞の骨子となる部分は此処で終り、祝詞は一気に終章に向います。その文章を次に掲げます。

斯く失ひてば、天皇すめらが朝廷みかどに仕え奉まつる、官々つかさつかさの人たちを始めて、天の下四よ方もつには、今日より始めて、罪と云ふ罪はあらじと、高天原に耳振立てて聞く者と、馬牽ひき立てて、今年の六月みなつきの晦日つもごりの夕日の降くだちの大祓に、祓ひ給ひ清め給ふ事を、諸もろもろ聞し召せと宜る。四よ国くにの卜うら部べ等、大川道に持ち退まかりて祓ひ劫やれと宜る。

天皇(スメラミコト)が主宰する朝廷で仕事をする文武百官が、それぞれの心中の高天原に於いて耳振り立てて聞くべきもの、と言えば、アイエオウ五十音言霊音図、布斗麻邇の原理であります。これを天の

斑馬(ぶちこま、まだらこま)と呼びます。

言霊の会 6

大祓祝詞の話 完 平成十三年九月十日・会報第159号

百敷の大宮と呼ばれる天皇の朝廷の政治とは、天の斑馬という天津太祝詞音図上の政策決定に始まり、それを時宜に適した民衆の理解し易い言葉に書き分け、政策を隅々まで浸透させ、それぞれの地域から世界全体まで人類文明創造を推進さすことに終わります。

「馬牽き立てて」とは、二千年前の崇神天皇による言霊原理の隠没以前に於いては、六月と十二月の大祓の儀式の式場で斑馬である太祝詞音図の縦の各行を「タチテトツ・ン、カキケコク・ン、マミメモム・ン……」と言葉に出して朗誦し、百官に聞かせた事を言っています。 竹内古文献にその記事が載っていると聞いています。

「夕日の降くだち」とは夕日が傾く時の意。

「四よ国くにの卜うら部べ」とは朝廷のある都より見て四方にある国の意。卜部とは大祓の儀式を司る役人の事であります。

以上、長い間大祓祝詞の解説をして来ました。祝詞に使われる用語が言霊原理に照らしませんと意義不詳のものが多く、その一つ一つに註釈を加えながらの解説でありますので、思わず八ヶ月を要することとなりました。その長い期間のお話となりました事で、読者の皆様には大祓祝詞全体の文章が一貫した筋道の通ったものとして御理解頂けなかったのではないか、と思います。そこで大祓の文章を現代人に理解できる言葉で、文章の途中で何らの用語の註釈を加えることなく、お伝えしようと思います。平易な言葉にするため文章が簡単となり、時には奇異に感じる方もあるかと思いますが、祝詞の内容には変わりがない事を申上げておきます。

完。