11 存在論。存在とは時間の持続。

存在とは時間の持続。

0) 存在のあめつち

これからの世界文明を創造していく指針たろうとする言霊学ならば、まずは思想の世界であめつちの言霊学が最高の眺望を持った道理であることを、内外に示せなければならないでしょう。

規範となる言霊学存在論があるとしても、それを書くにしろ読むにしろ、吾の眼の付け方による智を形成するのは、私たち一人一人次第です。

これから「存在」という抽象的な言葉を扱うのですが、その始めを何かしらの存在現象をイメージしてしまうと、既に同義反復の罠に落ちます。

あめつちの言霊学では次元上昇する言霊循環の中に置き換えます。

それでも理性にとってはことの始めを掴まないと納得しないでしょうから、存在の初めの時を問題とします。

とはいっても、理性が初めを問題とすることができるだけの発達を遂げた上での問題の仕方と、それ以前の理性が問題とされるが、理性的に語られなくてはならない時の問題の仕方とは違います。理性発生以前の語りと以降の語りがあります。

存在についても同様です。

存在とは何かの始めの内容は、既に現象となって現われているものを整理することのできる理性発生以降と、発生以前だが理性的に語らざるを得ない強制力を持つ存在と言わしめる先天の規範(カテゴリー、道理等)があります。

当初の先天の存在規範は、無意識で始められ、後に意識的に運用されるものとなります。

つまり、気付かれない無い存在が有り、その無い存在を有りとするとする、理性以前の統合体があります。ここでは既に有ると無いということがいわれていますが、有る無しも一つの有るものから進化したものです。有るか無いか分からないもの、有るか無いかが分かっているものは、規範です。

古代ではこの規範をフトマニといいました。(古事記の冒頭そのもののことです。)

無意識、意識的に係わらずそこに規範がなければ始められませんから、有るというのも無いというのも、両者の主張をもたらす原理が規範として横たわり隠れています。

存在論の内容は原理規範です。始めの段階では論として進められたものではなく、先天世界に展開されているものです。

先天世界の規範が存在論の内容を成し、それが存在論となって存在の実在を規定するようになって、時間論の内容となります。

どういう形にせよ、意識の形をとらない前意識にせよ意識の形をとるにせよ、私の思いを何らかの対象に向けてそれを確認することになります。

ただしこの始めの段階では、現象となった私の思いではなく、また、意識された対象でもなく、確認された主客でもなく、そのようにしか成り得ない意識原理規範に、始めは無意識で、載っているということです。

要するにそれらは意識現象では捕らえられず規定できないので「神」と名付けられたりしました。それにもかかわらず、心が働き意識が表面に出てくるにはその「神」の座の一連の居間を通過しなくてはならないし、それによってでしか自己の表明とその交流を実現できません。

一連の居間とはフトマニのことです。二十・フトの居間・マを似・ニ・せて言葉という表象を用いて通過することです。

こうして意識の活動であるにもかかわらず、前もって通過せざるを得ない居間(今)の形が存在となり、その形の変化が時間となって意識されてきます。

その時の最初に現われる場所は頭脳内であり、そこにあらわれるのは存在という(先天)規範です。

1) 存在の言霊ウ

当初の規範は先天内でのことですから形も名文もありません。しかしそれはあり、それに則らねばならず、そのように流通して、そして了解されていきます。自他ともに規則としての強制力に身を委ね、依頼され、強制します。

始めての存在として現われるものは、自らの存在を誘いながら誘われ自他との存在を存在しているということで現わします。

しかし、まず当初の存在は存在しているかいないかも分からないものですが、存在していると言われるものが、個々の現象として現われないので、それらが存在しているというのは存在規範としてあるというだけです。

例えば睡眠や不動の時、自分を取り巻く物理作用は存在し続けます。生理作用も反応してありつづけます。そこでの物理や生理反応は有っても、理性や知性意識で捕らえたものではなく、知識の規範で有るということが分かっているだけのものです。知識として捕らえられると分かった後のことで、今この時点でのことではありません。

この存在規範としてあるだけのものは、個々の現象として存在すると言わない変わりに、後の自分を表明する全ての事の主(ぬし)の位置を占めます。どのような主張になるにせよその元々の種がそこに蒔かれています。

ですのでその主張は有るか無いかの始まりを決定します。それは同時に有るか無いかの持続をも采配しています。

どのような存在論も、まずこの始めの有るか無いかの存在の規範の受け取り方に応じて、決定に従います。

決定に従うといっても、本人の意思において決するのではありません。何故なら、この初めの次元では自身であることも他者がいることも、対象を了解してことも、何もかも分かってはいません。自分自身の判断とその判断材料を識別するに至っていないからです。

存在するということに関しては、自分の判断規範と自分が判断させられる規範との分離了解がはっきりしていないので、他者を存在を確認できていていないからです。

ただ方向としては、自他の剖判分離に向うことの意識運用で、自分が内容を表明するその主であるということだけです。これは宏大無辺な意識の運用世界で起きることです。それがどこでどんな場所や位置で起きた、正しくない間違った偏狭なものであろうと、当初の始めの時には比較対象を持つものがありません。ですので、始めは全面的な自分の主張として出てきてしまいます。

古事記では初めの神名に「主ぬし」と入っています。これは無限の宇宙の中でどの時点においても、そこにいることになればその時処位の主・中心になれるということです。それが典型的に現われ出てくるのが五感感覚による欲望世界です。無限の宇宙には中心が無く任意の点が中心となり得ます。このありさまが丁度、五感の欲望を中心とする意識世界に該当しています。

この状態を存在の言霊ウといいます。

つまり、存在の仕方には、あいうえお五十音図と同じ五十の存在の仕方があります。今、存在の仕方と言って存在と口にしました。この場合の存在は何も個々の存在を指しているわけではありませんが、具体性は無いものの全ての存在となるだろうものを指しています。

吾の眼である、私の意識になる存在と言えるだけのものを持つ規範としての存在です。

「0 あめつち」の吾の眼を付けて智と成す存在の言霊あめつちです。これは後に五十の存在の言霊が循環した時に、先天の言霊スといわれるようになります。

認識の出発点として言霊スを先天として設けます。この先天のスの存在を確認したのがウです。更に五感の意識次元にまで降りてくれば、欲望の言霊ウとなり、文明創造社会では経済産業活動の存在となっていきます。

ここは存在論ですから、確認以前の存在の言霊スの存在が存在の言霊ウとなりました。

この存在の言霊ウの特徴は、現有性で、現に有るものが有るとされるか無いかのどちらかです。と同時に有るにしろ無いにしろ現有性を持続として現わします。

有る時には有るという持続、無い時には無いという持続になり、要するに有るという時には有る持続を表現していて、無いという時には無い持続を表現しています。

この特徴を五十音図で示すと、母音側ウと半母音側ウとが同じ形で表現されています。欲望は有る時だけが欲望になり、経済産業活動も得ようとする時だけがそうなります。

ここで前もって五十音図について。

これは五十の言葉の要素、音素を配置したのではありません。内訳は、左右に能動実在の母音行と受動実在の半母音行を並べ、活動意志の表現となるイ段の配列によって、つまり意志の発動による配置の変動である父韻の働きによって、異なった種類の音図となります。その異なり方は、主客の両母音行に挟まれた空間に子音として表現されます。

2) 存在の言霊ア

さて、存在の言霊ウのそこでは、自分が自分の何かの存在を表明する主であることを了解しなければ、事は何も起きず終了します。存在に関しては有るか無いか分からないことが有ったとなります。

分からないことが有ったの「有った」は、自分に向けられたもので、この時点で自分に有るものは先天の規範だけですから、有る無しの内容ではなく、有る無しの判断だけはできる規範としてあります。

分からないけど有るんじゃないのとか、無いとは思うけど有るかもしれない、等という展開をすることにもなるでしょう。

こういった有るでも、無しでもいいのですが、この世界が持続していくことで、有るか無いかに気付いた途端に、有るに対して無い、無いに対して有るという橋渡しができてしまいます。

当初の存在は有るか無いかも分からないもので、言霊ウの次元では有っても有るとはいえず無くても無いとはいえず、有る場合には単に有るというだけものが持続していますが、誰が何故どのように持続させているのかは分かりません。

しかし、その存在と持続をあらわすものいなければならないのですが、いるいないの意識で捕らえられません。

しかしそこには、有るという規範なり構造なり原理なり創造者なり神なりが、自分を有るとせずまた、無いとせず、主客の剖判をしていないものとして前提とされたのです。

有る場合には有ることがはっきりしているのに現象しておらず、明らかなのに実(身)が見えないもののことを、古代ではカミ、火のようにはっきり有ることは見える(カ)が実・身(ミ)でないものとしました。火の実、火としての身、カミです。

つまり、存在論の初めの存在を言霊ウの次元で確認しておきながら、存在実体を示すことができず、そのようなものでありながら他者ではないので自身のこととしたいものの、自他の剖判を意識できていないものを設定しました。それを剖判していない自己の内に確認したものが神であり、また同時に自己とは神であることの確認となりました。

無辺の宇宙に自分の意識を立てたものですから、どこに立てようと如何に偏狭なものであろうとそれを自己の意識の中心とすることができました。まるで欲望です。

ところが、自己中心の欲望が持続しその存在が自己に意識されますと、自己と他者に分かれます。

自分を欲望としての存在に留めておくならば自他との剖判はありません。欲望の対象や相手が有るじゃないかと思われますが、よく見れば欲望の相手対象は自分の欲望そのものではありません。欲望の消費(持続)をしている場合には、持続そのものが欲望です。

ですのでそこで欲望の消費が行なわれている場合には欲望の持続を示していて、ですので、欲望の対象を感じ思っていることとはちがいます。

しかし欲望の持続は欲望の対象を感じさせます。ここで対象を感じ取るや否や、自己自身と相手対象との剖判を得ます。欲望の消費を意識化しますと、欲望とは自分のことであったものが、欲望の対象があるとの新たな意識が加わり、欲望の消費とは違う意識、欲望を対象化する自覚が生じてきます。

そこでの対象の意識は欲望ではなく、情感や情緒の全体的な価値判断を伴うものへと変わります。というのも、欲望は有るか無いかあり続けるか続かないかだけのもので、その場限りにおいて存在しています。そこであり続けていると、有るという自分が別に意識されてきます。

つまり、欲望の自覚化とその判断の自覚化が産まれます。

それは欲望を得て充足するのではなく、欲望の消費を目指すのでもありません。全く異なった次元世界です。全く異なってはいますが、産まれた母体の性質を受け継ぎます。

それが、欲望という自他未剖判であるために欲望であるものから、欲望が感情の内容と成り、情緒の内容へと変化変態します。

この変態変化は言霊ウの欲望の有る無し、持続するしない、主・中心であるかないか、の世界から出たもので、それらの未剖判から分かれ出たものです。欲望の有る無しという時には剖判しているじゃないかと思われますが、これは主体意識の欲望に出てきたことをいうので、主体意識上の欲望と主体とは剖判していません。それどころか、剖判は欲望の自覚の意識した時に始めて確認されるものです。

この状態が言霊アの始まりです。

この変化した段階では、欲望が感情情緒の内容へと次元の変化を伴いますので、自覚の内容は感情の判断となっていきます。欲望の全体がそれを持った自分と自分の意識している欲望へと剖判します。

こうして欲望している自分と欲望の対象となっているものへの剖判が起きますと、欲望が持続しているならば、欲望そのものへ直接にではなく、経験の記憶を介して感情として確認されようとします。

つまり、持続している欲望は持続しているというだけで、時間の変化を受けその変化する欲望の存在を記憶していきます。

こうして欲望の変化を自らに保障するためには、変化全体を保障する接待的な眼が必要となり、それが対象への感情となります。感情は全体的な眼を持っていますから、欲望の変化も対象への変化も、自分の感情の範囲内にあるものとして捕らえることができます。また感情を結び付けることで、同じ感情の範囲内に噛み合わせておくこともできます。

噛み合わせて自分の範囲内で確認できる状態の言霊アとなります。

3) 存在の言霊ワ

というのも、自分の欲望を補償しようとするからです。欲望は自分の宇宙の中心として立てられていますから、それを持続させるには自分と相手対象に分かれた後も、自分の宇宙世界の持続として確立されていることを願っているからです。

また、欲望の範囲内が自分のことで、その範囲を出ることができません。

そのため感情は欲望の全体を保障するように働きます。

欲望を立てた時には宇宙の中心として自分自身がいましたが、ここでは自分の感情内のことが自分であると、縮こまってしまいました。自分の感情以外は自分でないことになりました。

そのことは取りも直さず、主体である自分の働きと、働きかけられる客体への二者の剖判を意味します。存在の言霊ウの次元では剖判していないために、欲望している者と欲望している物とは同じことでした。ところが存在の言霊アの次元では、自分自身に自分を見る意識が立ち、自分を働きとして動かす動因を感じてしまっています。

それは意志と呼ばれるものですが、そしてまた意志は自分の意志と呼ばれるものですが、実を言うと自分のものではありません。自分の意志で自分を意志することはまだ後のことです。ここでは欲望が自分の意志で欲望されたものでないように、意志として自分に登り自分を取り込み采配を振るいますが、自分の意志でしたことではありません。

それにもかかわらず、意志の相手対象を意識することができます。また、そのように意識されることがなければ、相手対象の世界が成り立ちません。感情もこの時点では意志によって自由に創造されるものではないけれど、自分の意志による感情のように思えるのは、自分という主体が載った感情を引き受けているからです。

あるいは、相手対象の意識を載せるのに、自分という主体意識を利用させられるように、宇宙世界の中心から依頼されているように感じるからです。この依頼は、一つには自分を成る事の主人公としてもらえると同時に、自分の成る働きの主人公としての用具立ての持ち主にしてもらうものです。

こうして、剖判した存在の言霊ウは、その主体側の意識を言霊アとして、客体側の意識を言霊ワとして受け取り、それぞれ能動主体と受動客体となり、高天原の頭脳中枢に治まります。言霊ワの受動客体といっても、所謂物質としての客観物ではありません。頭脳の中で主体意識に対応してその姿を現わしてくる、能動主体の顕現物です。

ここで物・物質といいますが、頭脳中枢内にトンカチが収められるわけではありません。物質という意識です。それが相手対象になっている物象に戻され、さらに相手対象になっている物象が心象に戻されて、そして心象がウアワによって可能となっている先天規範に則るようになっていて、私たちの意識(吾の眼・アメ)があらわれます。

存在の言霊ワは剖判していないウの次元では、意識するものと意識されるものとが同じですから、アの主体とかワの客体とかの別はありません。しかしひとたび、自分を意識する主体が目覚めるや、自分の意識する対象があることを知るのです。

知った先の対象は相手となるもの対象物です。

この対象物は後に意識によって徐々に、先天規範から心象へ、物象へ、物質へと現物物質に近づきます。

その前に及び一つ一つの過程で、相手対象を意識すると、それの存在の在り方と成り方と生き方が気になってきます。

相手対象を意識してしまうと、それがそこに有るものという意識ができてしまいます。

そこに有るものは、まず、そこに有ったものとしての扱いを受けます。(オ)

ついで有るもの有るだろうものとして扱われます。(エ)

つまり、時間意識の存在が発生します。

存在の言霊ウの次元では、有る無しの持続だけが時間でした。この段階では物としての物ではなく未剖判の物と意識の状態です。

そこで有る無しの持続を自分に保障しようとすると、相手対象というものを感情で取り込むことが行なわれるようになります。

取り込んだものが自分に合致していれば、そこに相手対象となるものの存在が発生します。

対象となる物が発生しますと、今度は逆に時間が静止し、その発生したものの発生時点を感じるようになります。

それが過去から発生する時間の流れの意識を生みます。

まず産まれたものとしてそこにあるという存在の言霊ヲと、過去から産まれてくる働きを示す存在の働きという意識になります。

4) 存在の言霊ヲ

あめつち、ウ、ア、ワで、何も無い所に有るものは有る、無いものは無いという実在の世界と、それを対象化でき感じる世界と感じられる世界とが産まれました。

そこでは一応有る無しの世界を形造る事ができますが、心象としても、物象としても、物質意識としても、未だ固有の現象を形作るまでに至っていません。

時の流れは有るようで無いようで、存在は形を取るような取らないような、過去から来たものなのか過去へ向うものなのか、未来に開くものなのか未来に凝結してしまうものなのか、浮遊する油のような状態です。ですのでそこでは、あるにしろいるにしろ成すにしろ、何らの形有る姿をあらわさず、自らの立ち位置次元を不明なままとしています。

そんな不明な立ち位置を占めているだけでも、有るものは有り無いものは無いという実在は次々に感じられてきます。主体側が何もせずにいるというだけでも、自分がいるということを感じさせる様々な五感を打つ情報が入り込んできて、自他の時の流れや存在の変化を感じられるようになります。

これは主体側の能動的な動き無しに起きていることです。安定した対象をただ眺めているだけでも、その視点の変化による時間や存在の感じ方や、雰囲気や環境への対応が絶え間なく変動していくのが分かります。押し寄せる何かの客体のようなものの勢いに、受動で受け取る以外には何も手が出せないようです。

それでもそれなりにウアワの三つの言霊で一応の形はできます。わたしとわたしのものと、他のものとの区別がつき、わたしの働きとわたしの働く相手を分け隔てることができるます。しかし大雑把な他者があるいは自身が有るか無いかというだけのもので、個別的な詳細はありません。

これまでに有るのは形の定まらないウアワの存在だけです。それぞれの時処位が現に有るというだけのもので、何時からできてどこから来て等の形の無い、水母(クラゲ、暗気)を介して次々に産まれてきたもののようです。

有るというものを感じ出すと、そこに有るという不思議な思いと同時に有ることの持続が、適宜に次々と連続して沸き上がるように連結してくるものがあります。その燃え上がり栄え上がって出てくる実体の有り様があり、その確認できる状態が言霊ヲとなります。

ここに自分より何故か、何か、有る以前のものが出てくるようになりました。

それは存在のウアワの次元では無かったことですが、アワの剖判を通してアワの自覚があるところでは常に得られるようになりました。

これもまた暗気クラゲを介して勝手に出てくるものです。つまり自覚したアの意識(吾の眼)を持ったところに、無自覚に受け取らされるものです。

その典型的な現象が記憶でしょう。不思議なことに丁度都合よくうまい具合に、根を張り連続して繋がり拡がっていく実体です。

5) 存在の言霊オ

実体の有ることを気付く主体側があるの、言霊アの働きによって客体側を得ました。実際には同時におこるものですがやはり主体側のせいにしたいものです。

しかし記憶を得る場合にはまず客体側のヲが先に来ています。

主体が相手対象のあることを確認すると、それの出所を確かめようとします。

相手がいること自体が霊妙なうまい具合の出来事(ウマシ)で、またそれに関連した事柄が丁度よく連なり(アシカビ)、出てくる働きの(ヒコ・男)地(ヂ)となります。

6) 存在の言霊エ