る <無い>とは何か論

<無い>の定義。。<無い>とは何か論。

金が無い、結婚相手が無い、感情が無い、等は有る無しの対象がなかったり、有る事象を否定したり、無いとしているだけのものです。このブログで語っている無いこと自体の現象となった様態です。ここではそれには手を付けず、無い、ということ自体を問題にしていますのでお間違えないように。現象を現象で語るのはどのような問題であり、比較と自己主張だけですから、ここで扱うことではありません。

ついでに、<無い>というのは充実した表象であり、そのまま充実した内を持った言葉です。

まず定義みたいなものを出しておきましょう。

<無い>というのは一つの<無い>という現象の表現です。ですので<無い>という現象が前提されていますので、その<無い>というものを解明すればいいのです。その際注意しなくてはならないのは、<無い>を考えることをあるものの存在が<無い>と考えてしまわないことです。もしそうしてしまうとまず、そのものの存在を考えたうえに、その反対の事象を置換したり、付加したりして、より多くの観念をつぎ込むことになります。あるという観念より<無い>という観念の方が豊かになってしまいます。

<無い>というのが現象の表現だと分かれば、後はその現象をうまく扱うだけです。ここでは<無い>という現象を<無い>自身にそのまま語らせる為に、<無い>の先天世界からのそれ自身の発生を辿ります。

哲学の問題としてもあまり語られませんが、五千年以上前に既に古代大和人たちが解決してしまった問題です。彼ら同様にうまく真似できるかどうかです。みなさんもどうぞ真似てみてください。真似るというからには真似元があるわけですが、それはとりもなおさず古事記の神代の巻です。

<無い>の定義として一応次のように言っておきます。<無い>は実体内容は現象化されないイ段だけで構成されているものの、創造意思、起爆力、動因、先天の見立て力やその働きや何か、等のことをそのまま顕在化させたものです。

<無い>という言葉の裏には豊かな表象をかくしていますが、実在として現れてきません。それにもかかわらず名(な)を与えて<無(な)い>と表現できる、その構造を明かせばいいのです。

実体内容はなく現象としては説明できませんが、そのイ段の内包され包含された内容は幾らでも語ることができるようになる、当面は<無い>というものです。簡単に言えば、< ない >と名付けられた< ない >とは何かを説明して、< ない >を創造して見せればいいのです。

ウオエア段は現象子音を産むが、イ段は先天の活動によって産み出された意図が物象化されず、どんなものにも結びついていける架け橋だけのもので、ウオエア段を統括しつつその現れに対して名を与える役目だけをもっています。

<無い>はナとイ、<無し>はナとシで構成されています。そこで、

無い( ナイ)とは、名( ナ)を与える役目だけを持つイ段(イ)ということ、

無し( ナシ)とは、名( ナ)を与える役目だけを持つイ段(イ)の活動が静かに収まっていること、になります。

そのことから実体内容、実相、気、実、等中身は無くとも名付けられるものがあるというのが<無い>ということになります。

そこで今度は、何故無いことを、ない、というか。

古代の大和人は精神や物質事象が無いことを無しといいました。何故どのように無しと名付け、無しといえば無いことを意味することが数千年の間続くことができたのでしょうか。その理由を問う為<無い>、ない、の< な >とはどういうものか見てみましょう。

中華式にブと読むとかムと読むとか持ち込まないでください。あちらでは<無い>を意味する言葉はころころ変わっていたでしょうが、大和では古代から現代まで一貫して五千年以上も前からナイという発音でした。しかしムという発音が残っているのはそれなりに理由があるかもしれません。無(ム)は「象形、人が飾りを持って舞う様を象る。「舞」の原字。音を仮借したもの。」とありますが、舞ならば神がかりの舞のことでしょうし中央部分は飾りではなく、人の魂が離脱して昇って無くなることかもしれません。ついでにムの言霊はアワナミの神で示されイメージを言葉に結んでいく身、体、音、側です。

<な>とは何かのヒントは伊耶那岐、妹伊耶那美に含まれている<な>と、古事記の「鳥の石楠船の神、またの名は天の鳥船」が言霊ナであることを参考にすればいいのです。おまけに、ナに振り漢字を当てはめてると、名(な)、菜(な)、魚(な)、成(な)る、鳴(な)る、泣(な)く、馴(な)れ、萎(な)え、治(なお)る、流(なが)る……等となり、そこにある<な>から共通項を選べ分析すればよいでしょう。

鳥(とり)の石楠船(いはくすふね)の神、またの名は天(あめ)の鳥船(とりふね)・言霊ナ。

言霊ナ

神名を構成する言葉の一つ一つについて調べてみます。

鳥とは十理(とり)の意です。主体である天之御柱と客体である国之御柱の間に、これを結ぶチイキミシリヒニの八つの父韻が入ります。この主客を結ぶ八つの父韻は主客がどのように結ばれるか、を判断する最も基本的なものです。

父韻は主客を行き来して飛びますので、空飛ぶ鳥に譬えられます。

次に石楠です。石は五十葉で、人の心の全体を構成する言霊五十音図のことを示します。

楠(くす)は組(く)み澄(す)ます意。五十音を組んで言葉として澄ますの意です。

船(ふね)とは人を乗せて此岸から彼岸に渡すもので、人から人へ心を渡す言葉の譬えに使われます。

上に解釈したものをまとめた鳥の石楠船の神とは実際にはどういう意味になるのでしょうか。

主と客の間を八つの父韻が取り結ぶ十理(とり)の原理による判断によって(鳥[とり]の)、五十音言霊(石[いは])の中から適当な言霊を組み合わせ、言葉とし、その内容を確定した(楠[くす])言葉(船[ふね])の内容(神)といった意味となりましょう。こう申上げても何だかはっきりとはお分かりにはならないかも知れません。そこで鳥の石楠船の神以前の言霊の動きを続けてみましょう。

発声され空中を飛んだ言葉(神名[かな])は人の耳に入り、復誦され(ノネ)、掻き回され、検討され、煮詰められ(カマ)、「この言葉はこういう意味のものだったのか」と判断されます。

その了解された意味・内容が名(言霊ナ)であります。昔より「名は体をあらわす」と言われます。

言葉が名となった事で内容は確定し、私と貴方との間の現象(子)が了解された事となります。

言霊ナは言霊コの内容という事です。それが鳥の石楠船の神です。

八父韻の原則によって五十音の言霊の中から選ばれた言霊を組み合わせた言葉の内容ということです。

神名(かな)として耳孔を叩いた言葉が種々に検討され、神名(かな)が真名(まな)となって確認された言葉の内容ということなのであります。

鳥の石楠船の神のまたの名を天の鳥船といいます。先天の活動によって生み出された意図が十理の原理によって五十音図の上で内容が確定されたもの、の意であります。

以上は引用でした。ついで、

伊耶那岐は、いざなう、なの、き。

伊耶那美は、いざなわれる、なの、み。

漢字を当てはめれば、誘う名の気、誘われる名の身、となります。

これらから総合すれば、<無い>とは内容の気が実とならず、名を付ける働きだけとしてでてきたものと言えるでしょう。

こうして、<無い>と言いながらその内容は幾らでも言い足すことができるようになるわけです。

これは言葉の実相と精神の動きが同一なので、他の言語と違い、大和言葉は変化のしようがないのです。

そこで<無い>という大本は、無限の宇宙がそれ自体の内容の芽を萌え出そうとする瞬間に名付けられるものがないでもあり、現象として色んな形で出て来るけれど、現象それ自体が動いているわけでなく、その動因だけがはっきりしていることでもあります。

また自分の行為側から見ていけば、自分足らしめるものがないということで、そのことが発動してあらゆる縁を造る事ができるということでもあります。

<無い>とは何か論。<無い>の存在論。目次だけ。。。。

古事記の神代の巻は人の心の原理論ですからどのような問題にも当てはめられます。

そこで<無い>に関してはどんなものになるのかなと思い、当てはめてみました。

同じことが繰り返されていますが、言霊の幸わいを真似てみました。全項目に同じことが起きますが、途中までにします。

実際にこれを文章にするのは次回に。もちろんうまくいくかどうかは保証しません。

今回は古事記の神代の巻、淤能碁呂島(おのごろ)の段落を参照にしてみます。

オノゴロ島で自己意識の領域が成立しますが、それを<無い>の成立にしてみようというものです。

<無い>の存在論、、、目次。

➀ おのれの心の見立て。

( A) 【ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、】

--先天の十七神とそれが後天現象となる十七の実在。

----淡路の穂の狭別の領域。全体の予兆。(主客以前)

----伊豫の二名の領域。主客へ。(主の発生、客の発生)

----隠岐の三子の領域。概念理性と実践理性。(隠れた概念行為と実践行為)

----竺紫の領域。力動因の内容。(原律の発現)

----伊岐の島またはあめひとつはしらの領域。見立ての力動因。(統一された心)

( B) 【 伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、】

--先天の十七神とそれが後天現象となる十七の実在。

----淡路の穂の狭別の領域。全体の予兆。(主客以前)

----伊豫の二名の領域。主客へ。(主の発生、客の発生)

----隠岐の三子の領域。概念理性と実践理性。(隠れた概念行為と実践行為)

----竺紫の領域。力動因の内容。(原律の発現)

----伊岐の島またはあめひとつはしらの領域。見立ての力動因。(統一された心)

( C) 【「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、】

--先天の十七神とそれが後天現象となる十七の実在。

----淡路の穂の狭別の領域。全体の予兆。(主客以前)

----伊豫の二名の領域。主客へ。(主の発生、客の発生)

----隠岐の三子の領域。概念理性と実践理性。(隠れた概念行為と実践行為)

----竺紫の領域。力動因の内容。(原律の発現)

----伊岐の島またはあめひとつはしらの領域。見立ての力動因。(統一された心)

( D) 【天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。】

--先天の十七神とそれが後天現象となる十七の実在。

----淡路の穂の狭別の領域。全体の予兆。(主客以前)

----伊豫の二名の領域。主客へ。(主の発生、客の発生)

----隠岐の三子の領域。概念理性と実践理性。(隠れた概念行為と実践行為)

----竺紫の領域。力動因の内容。(原律の発現)

----伊岐の島またはあめひとつはしらの領域。見立ての力動因。(統一された心)

( E) 【かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、】

--先天の十七神とそれが後天現象となる十七の実在。

----淡路の穂の狭別の領域。全体の予兆。(主客以前)

----伊豫の二名の領域。主客へ。(主の発生、客の発生)

----隠岐の三子の領域。概念理性と実践理性。(隠れた概念行為と実践行為)

----竺紫の領域。力動因の内容。(原律の発現)

----伊岐の島またはあめひとつはしらの領域。見立ての力動因。(統一された心)

( F) 【その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、】

--先天の十七神とそれが後天現象となる十七の実在。

----淡路の穂の狭別の領域。全体の予兆。(主客以前)

----伊豫の二名の領域。主客へ。(主の発生、客の発生)

----隠岐の三子の領域。概念理性と実践理性。(隠れた概念行為と実践行為)

----竺紫の領域。力動因の内容。(原律の発現)

----伊岐の島またはあめひとつはしらの領域。見立ての力動因。(統一された心)

( G) 【塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、】

--先天の十七神とそれが後天現象となる十七の実在。

----淡路の穂の狭別の領域。全体の予兆。(主客以前)

----伊豫の二名の領域。主客へ。(主の発生、客の発生)

----隠岐の三子の領域。概念理性と実践理性。(隠れた概念行為と実践行為)

----竺紫の領域。力動因の内容。(原律の発現)

----伊岐の島またはあめひとつはしらの領域。見立ての力動因。(統一された心)

( H) 【引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は】

--先天の十七神とそれが後天現象となる十七の実在。

----淡路の穂の狭別の領域。全体の予兆。(主客以前)

----伊豫の二名の領域。主客へ。(主の発生、客の発生)

----隠岐の三子の領域。概念理性と実践理性。(隠れた概念行為と実践行為)

----竺紫の領域。力動因の内容。(原律の発現)

----伊岐の島またはあめひとつはしらの領域。見立ての力動因。(統一された心)

( I) 【これ淤能碁呂島(おのごろ)なり。】

--先天の十七神とそれが後天現象となる十七の実在。

----淡路の穂の狭別の領域。全体の予兆。(主客以前)

----伊豫の二名の領域。主客へ。(主の発生、客の発生)

----隠岐の三子の領域。概念理性と実践理性。(隠れた概念行為と実践行為)

----竺紫の領域。力動因の内容。(原律の発現)

----伊岐の島またはあめひとつはしらの領域。見立ての力動因。(統一された心)

( J) 【その島に天降(あも)りまして、】

--先天の十七神とそれが後天現象となる十七の実在。

----淡路の穂の狭別の領域。全体の予兆。(主客以前)

----伊豫の二名の領域。主客へ。(主の発生、客の発生)

----隠岐の三子の領域。概念理性と実践理性。(隠れた概念行為と実践行為)

----竺紫の領域。力動因の内容。(原律の発現)

----伊岐の島またはあめひとつはしらの領域。見立ての力動因。(統一された心)

( K) 【天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。】

--先天の十七神とそれが後天現象となる十七の実在。

----淡路の穂の狭別の領域。全体の予兆。(主客以前)

----伊豫の二名の領域。主客へ。(主の発生、客の発生)

----隠岐の三子の領域。概念理性と実践理性。(隠れた概念行為と実践行為)

----竺紫の領域。力動因の内容。(原律の発現)

----伊岐の島またはあめひとつはしらの領域。見立ての力動因。(統一された心)

( L) 【「 抽象一般領域の必然的な生成 」。蛭子。淡島。】

--先天の十七神とそれが後天現象となる十七の実在。

----淡路の穂の狭別の領域。全体の予兆。(主客以前)

----伊豫の二名の領域。主客へ。(主の発生、客の発生)

----隠岐の三子の領域。概念理性と実践理性。(隠れた概念行為と実践行為)

----竺紫の領域。力動因の内容。(原律の発現)

----伊岐の島またはあめひとつはしらの領域。見立ての力動因。(統一された心)

( M) 【現象領域。】

--先天の十七神とそれが後天現象となる十七の実在。

----淡路の穂の狭別の領域。全体の予兆。(主客以前)

----伊豫の二名の領域。主客へ。(主の発生、客の発生)

----隠岐の三子の領域。概念理性と実践理性。(隠れた概念行為と実践行為)

----竺紫の領域。力動因の内容。(原律の発現)

----伊岐の島またはあめひとつはしらの領域。見立ての力動因。(統一された心)

( N ) 現象要素の創生。

津島――――――タトヨツテヤユエケメ

--先天の十七神とそれが後天現象となる十七の実在。

----淡路の穂の狭別の領域。全体の予兆。(主客以前)

----伊豫の二名の領域。主客へ。(主の発生、客の発生)

----隠岐の三子の領域。概念理性と実践理性。(隠れた概念行為と実践行為)

----竺紫の領域。力動因の内容。(原律の発現)

----伊岐の島またはあめひとつはしらの領域。見立ての力動因。(統一された心)

佐渡島―――――クムスルソセホヘ

--先天の十七神とそれが後天現象となる十七の実在。

----淡路の穂の狭別の領域。全体の予兆。(主客以前)

----伊豫の二名の領域。主客へ。(主の発生、客の発生)

----隠岐の三子の領域。概念理性と実践理性。(隠れた概念行為と実践行為)

----竺紫の領域。力動因の内容。(原律の発現)

----伊岐の島またはあめひとつはしらの領域。見立ての力動因。(統一された心)

大倭豊秋津島――フモハヌ・ラサロレノネカマナコ

--先天の十七神とそれが後天現象となる十七の実在。

----淡路の穂の狭別の領域。全体の予兆。(主客以前)

----伊豫の二名の領域。主客へ。(主の発生、客の発生)

----隠岐の三子の領域。概念理性と実践理性。(隠れた概念行為と実践行為)

----竺紫の領域。力動因の内容。(原律の発現)

----伊岐の島またはあめひとつはしらの領域。見立ての力動因。(統一された心)

(O ) 現象要素の整理、運用。

津島――――――タトヨツテヤユエケメ

佐渡島―――――クムスルソセホヘ

大倭豊秋津島――フモハヌ・ラサロレノネカマナコ

(P ) 現象要素の表現。

津島――――――タトヨツテヤユエケメ

佐渡島―――――クムスルソセホヘ

大倭豊秋津島――フモハヌ・ラサロレノネカマナコ

( Q) 客観領域。

( ) 客体の自立化。黄泉。

( ) 言戸渡し

( R) 実践主体領域の確立

吉備の児島

小豆島

大島

姫島

知訶島

両児島

(S ) 「 自己意識の反省」。

吉備の児島

小豆島

大島

姫島

知訶島

両児島

(T)禊。

吉備の児島

小豆島

大島

姫島

知訶島

両児島

(U ) 「 存在となったもの 」。三貴子。

吉備の児島

小豆島

大島

姫島

知訶島

両児島

➁ イ次元の考え方

(A) 治め固め成す歓びの心を得る。

(B) フトマニ言霊学の原理規範

(C) 原理規範を影から説明する

(D) 原理規範を助け現象を創造する

変な目次と思うでしょう。本当は一つ一つの項目に神代の巻の百神が入り込みますから、その数は鼠算式に莫大なものとなります。どこからみても起承転結、正反合のようにはなりません。

わたしの前々からの夢は何かの項目に関してそれをやってみたいことですが、実現はまだまだです。

<無い>とは何か論。<無い>の存在論。A>B>C>D>。

( A) 【ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、】

<無い>というからには、<無い>事が分からなくてはなりません。

あちら側にある<無い>事 ➀ が、こちら側で<無い> ➁ と、分かる ➂ 、➀➁➂の三角構造が全部整わないと<無い>と分かりません。

➀のあちら側に有る<無い>は無いと分かった時には、何々の実在として無いということになりますから、その時には人の心の相手側対象となるなになにであるという規定を受けます。

・それは、まず五感感覚からの欲望次元のこととそれから発する全世界宇宙の体系となり、(言霊ウの次元)

・ついで過去経験概念記憶からする全知識理性次元のこととそれから発する全世界宇宙の体系となり、(言霊オの次元)

・ついで、情緒感情の次元とそれから発する芸術、宗教へと発展する全世界宇宙の体系となり、(言霊アの次元)

・ついで、行為実践選択の智恵の出てくる次元の政治、道徳、利他の行いへと発展する全世界宇宙の体系となります。(言霊エの次元)

・➀の後に分かる<無い>といわれる内容はこの四つの人間次元の何れかに属しています。これらを統括しているのが創造する力動因の実在であり、それが現れる時に自分を名乗ることになります。

後に実在として現れるものが無いので<無い>という言い方ができるわけですが、ここでは後の実在に対する了解がなければそれを指して<無い>とはいえません。

そこで、<無い>とは何か論、<無い>の存在論の始まりはこれら➀➁➂の統体が、こちらの認識了解理性に働きかけるか、引き寄せなびきいざなうことがなければなりません。

無いものを無いと了解する前に、了解される<無い>ものの先天的な実在世界が必要となります。こうして<無い>の統体的な先天世界ができました。

( いつまでも繰り返してこんなことを書かなくてもいいのですが、急激な過渡期を渡っている時にはよく起きることです。その都度終りの積りですがなかなかそうは行かないのでまた書きます。古事記を文字通り受け取らないことです。字の通りに受け取って解釈するようにはできていないのです。神話の形をとっただけですから、どの文章においてもその文字の意味を直接捜しても見つかりません。次にくる伊耶那岐、美の命というのも全く同様です。そんな神はどこにもいないのです。天照も同じことです。そんな神さんはいません。しかし、フトマニ言霊学から見ていくと人の心の原理として常に必ずいるものなのです。自然の威力の神格化だとか、どこどこに有る何々の意だろうとかいうのはもう止めた方がいいです。世界の動きが激しくなってきました。各人確固とした古事記の原理を身に付けるようにしたいものです。)

( B) 【 伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、】

前項(A)は<無い>とされる世界の先天的な予備的な地震のような地鳴りの始まりの世界です。

そのような世界があっても現象として現れたものではなく、人の意識に認識されたものではありません。

まずは予兆として自らを示し揺すり動かねばなりません。

ここでは物質が物質と反応関わり合うような、意識がつつかれる以前の動きの中にあります。

この動く働きが人に伝わらない限り、あるいは物として自分が表現されない限り、そしてこの両者間に関わりがない限り、<無い>という発見には至らないのです。

物としてそこに何があろうと、人の意識行為が介在しなければ何も産まれません。しかしこの介在行為も人側の一方通行、あるいは物が有るだけで人が見向きもしなければ両者の会合はありません。この両者の一方づつを伊耶那岐、妹伊耶那美で暗喩してます。いざ、実体内容の気を誘い、その相手も、実体内容の身を誘われるということになります。

こうして将来結ばれるであろう両者が立ちましたが、その間を行き交うものが必要です。例えば視力、聴力があって、相手の物や音を見たり聴いたりするのではありません。その中間には必ず物質的な介在が仲介の役目をしています。視力聴力が相手に運ばれ結ばれるには、空気や光がなければ到達了解できません。

この仲介の仕方は人側の実在力能因によりますが、先天的な要因側からは自らをはっきりさせて欲しいことになります。ですので相手をいざなうという表現にしました。

( C) 【「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、】

原理原則次元の話なので、<無い>とは何かの<無い>という言葉があまりでてきませんが、意味は通じていると思います。ちなみにどこでも構いませんから<無い>というのをぶち込んでみてください。

将来の<無い>となる相手がわも、有るのか無いのかどういう風に有る無しなのかそれをどう有る無しできるのか、今のところは一切不明です。

そこで、無いなら<無い>ではっきりしろと啖呵を切る前段階の材料を提供するわけです。

前段階の材料というのは人間的なことですから、人に係わるすべてのものです。<無い>とか無いの実在とか何々論とか書いていると、概念観念だけを扱っているような感じですが、<無い>という現象表現はそれだけではないのはもちろんのことです。人の<無い>の表現に含まれる全てのものが前段階の材料というわけです。

それは言霊学の用語法でいえば、ウオアエのどのどのような次元にいて自らを成していくのか、その実像をこちら側とあちら側共に示せということです。

よく将来とか未来とか書かれていますが、<無い>と気付き分かるのはほんの一瞬前のことですから、ここでいう将来とか未来とかも、百分の一秒単位のほんの少しの後から起きてくる意識段階を言っているだけです。ついでに言えばここまでではまだ<無い>という意識も起きていない前段階のことです。オノゴロ島はおのれの心の島ということで、この段階ではまだおのれの心の領域はできていないのですから。

人は普通 思うとか感じるとかするとそれがそのまま自分の心とか思うとかいうことにします。そのままそこに自分の思い考え心と気持ち等が現れ自分の思いと感じたことを表現したとします。こうして書くことも話し合うことも自分が考えたこと感じたことを表現しているとします。しかしそれはただ自分に属するそういった現象や表現があるということで、その成り立ちまでも自分のものとはいえません。

( D) 【天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。】

このあちら側に有るものとこちら側に有るものをどうしても関係付けないと、あるとかないとかの判断ができません。テレビを見るということでも、テレビと見る人の視覚が有るだけでは見ることになりません。途中に無数の介在物と介在する行為があります。

あっちとこっちの両者間を縫い合わす物が必要です。沼矛(ぬぼこ)のヌは縫い合わすということで、霊凝(ほこ)は意図の言霊が凝固することです。人間においてはそれは言葉です。矛は両刃の剣で舌の形をしています。

人は言葉を発していない時でも、物凄い勢いでもって言葉に依って自らを統制しています。そしてその言葉が出ることに依って自らを行動させていきます。悟りで悟った時には不立文字とかいって言葉にならないとか、大いなる感動の前には言葉を失うとかいいますが、あまりにも長大な量の情報が一挙に押し寄せていることで、ときほぐせないだけです。

有るとか無いとかたったそれだけの判断においても情報量は莫大なもので、悟りでも感動でも有る無しの判断でも同じことです。そのあっち側とこっち側を縫い合わせるわけですが、矛である舌を使用した所で縫うことはできません。ちょうど視力が良くても視界をテレビを遮るものがなく、電力も電波も届いていなければ見れないのと同じです。

舌を使って発音し言葉にするのはこころです。まずテレビを見たいという心が働かなければ見ないでしょう。見たいという心があってもテレビが同調しなければ見れないでしょう。

ではその心はどこに有るのでしょうか。

矛はホコで、別の当て漢字をすると霊凝(ほこ)になって、心の霊が凝り固まる、心が言葉(音、物象となったもの)に合わさる、縫い合わさるになります。そこに心の出てくる時空位が出現してそこまでうまく渡って行ければ心となるでしょう。

これまでずっと心を語ってきているのですが、自我というものがあってそれが判断し自己責任で行為し、というようなものとしてはこころは無いのです。これまで見てきたように心の先天構造があってその範囲内に心は囚われていて心が先天的なものを造ったわけではありません。

先天的なものはウオアエイの五重の次元構造を造っていて、分けの分からない漂える塊です。それが後に実体になるとしても、どのようなものになるか心が言と合わさり現象とならなければ形としてみえません。言葉として聞こえません。

心の霊がこちらとあちらを縫い合わせ凝り固まる霊凝・矛・(ほこ)とならなければなりません。

そこで出てくるのが矛自体の働きです。矛は両刃の剣(つるぎ)のことで、つるぎは連気(つるき)のことで、気の実体内容を連絡縫い合わせることです。片刃は太刀(たち)で判断の象徴になり、つるぎは断つ判断と総合するつるき(連気)の両方をもちます。

この主客の実体とそれが結ばれたところにここに心がでてきます

三種の神器は心の三要素を物象化したものです。八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣のことで、鏡は心の判断基準で、勾玉は心の運用の性質を現しています。

実はオノゴロ島の段落で【天の沼矛(ぬぼこ)】という時にはこの後に分化する八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣のこと全体をさしています。

<無い>とは何か論。<無い>の存在論。>E>F>G>。

( E) 【かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、】

そこでこの心が活動を始めます。心の三要素・三種の神器全体が一塊で動きます。

こころが動くのは天の浮橋の上での事です。

橋には両端があり端から端までが橋です。心はその上を動きます。こちら側の端はわたし側主体側です。あちら側の端はあなた側客体側です。橋は端まで行かないと橋の端まで行ったことになりません。

あちら側には先天的な実在ウヲワヱイの五次元世界があります。こちら側主体側には働きかける側のウオアエイの実在の先天世界があります。橋は主体が渡ります。

主体が橋を渡る時には五次元世界宇宙の全体をもっていく事はできません。

テレビを見たいという時にはその見たい欲望を満たすだけで、電波の受像システムの知識、どのメーカーを選ぶかには関心はありません。或いは別の意図、関心があるのかもしれませんが、問題となるのは、主体がいて、対象があることを取り持つ、橋を渡るという主体側の行為です。

ここでは主体側は後に<無い>という判断をするのですが、その先天性を満たす準備をしていきます。心のどの分野の何がどのように<無い>のかの先天性を形造っていきます。主体側が後に<無い>ということになりますが、既にお分かりのように絶対的に実在している先天構造の上に乗って<無い>という道を捜している形になります。心の世界には絶対無などは無いのは物質界と同様です。

ここに橋を渡る行為が無く動きが無いならば、後にも現象となるものもありません。この橋の渡り方が鍵となります。相手対象の表現が違うのは相手の何を見るかの相違でこの橋の渡り方のことです。竺紫の島の領域にいる八神の現れの相違になります。その神がイザと立ち上がると現象を産むきっかけとなるのです。

( F) 【その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、】

直前にでてきたのは天の沼矛(あめのぬぼこ)でしたが、ここでは沼矛(ぬぼこ)になっています。天が書かれていません。

前者の場合は先天性全体の沼矛( 先天性の心全体 )を賜ったのですが、ここで自分が使う時には自分が使うようにしか沼矛( おのれ自身の心 )を使わないという事になります。

前者の場合は全体の一塊でしたが、ここからは【指し】とあるように指定選択されたものが対象化されます。自己領域の芽生えとなるものです。

こういった一字の相違が決定的に成るのは、伊耶那岐の神が伊耶那岐の大神になるとか、この段落中にも伊耶那岐の命伊耶那美の神が伊耶那岐の命伊耶那美の命になったりして、その意味が変わっています。

ここではテレビの受信機能が数十チャンネル分あるのに自分の見たいのは特定のチャンネルだけというようなものです。

客体側の受け入れが数十チャンネル分あっても自分のお気に入りに行き着かねばなりません。

この場合のこころの客観世界は超広大で過去の歴史世界全体が含まれます。それは先天の純粋な先天的客観世界を形作っています。主体の橋の渡り方に依っては手に入ったり入らなかったりします。テレビのAチャンネルを見ようとしてもAチャンネルがなければ見られません。

この渡り方には八つの方法があります。人の心はたったの八つの渡り方しかありません。複雑怪奇な心の綾はここからでてきます。神道で八と名のつくものは全てこの橋のことあるいは橋の渡り方のことをさします。心先天的な運用のことです。八の心は中国に渡って易、八卦などになりいろいろ変化してまた日本に入り込んだものです。古代中国もインドも五行とか五大とか八正道とかを別々にしてフトマニ思想から持ちだした為統一することを知りません。

ここからは後に<無い>という表現の八つの変形がでてきます。

主体側がこの八つの渡り方をもって相手対象にかかわることになります。相手というのは先天の実在対象世界でそれはウオアエの四つの人間性能次元です。次段では人間性能を霊と表現して四と共に四霊(しほ)という書き方をしています。当て感じでは塩(しほ)が用いられています。

( G) 【塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、】

過去は広大無辺でその知識は137億年前のビッグバンのそれ以前までも戻り網羅しますから、こうした言い方をするとひどく大変なことのようにみえますが、実際生活上ではそんなことはお茶の子さいさいとやってのけるのが人間です。

まさに神業です。

歴史的、空間的にどれほど広大遠大であろうと、人の心はウオアエイの五次元しかありません。

ところで、宇宙とか空間とか次元とか霊とか語ると、人の現実の次元層を語らないで、よく霊界の階層を語ったり天界を言ったりしています。人の性能の次元層は五つ、言霊学神道ではイエウオアで表象されている、だけですが、精神界を精霊界を語るのは人のイの次元内でのことです。

霊界の話は誰もがする経験から来る思いつきが 99%で後はそれを拡散拡大したものです。1%のイ次元内での真実はあります。1%の真実が持続した御告げなどもありますが、その内容はフトマニ言霊学を知らせるものです。言霊学を勉強しろと知らされているのに神を祭れと勘違いして未だに拝んだりしているようです。

さて、天の沼矛は天津神から賜ったものですが、ここの沼矛は天の沼矛に対応した伊耶那岐の、つまりわたしたち各人に対応した各人の心の、個人の沼矛です。人は大宇宙の客観性に何時でも対応できますが、個人が勝手に造り上げたものは客観宇宙に対応しなければ何もありません。

ここから各個人の特殊性個人差がでてきます。

しかし、個人の沼矛も客体側と結ばれなければ実現しません。それが引用してある古事記の記述となっています。

塩はシホで四穂のことです。人の心の五次元層の内沼矛をもって掻き回すこと自体がイの次元の意思行為をさしていますから、残りは四つの穂(ウオアエの次元)ということになります。

ホ(霊、穂、火、秀)はその内容が久しく持続発展する意味で四つの次元世界のことです。

ここで、( E) 【かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、】ですが、二神は両端に立っていますが、橋を渡っていくのは伊耶那岐の主体側だけです。つまり四つの次元世界、テレビのチャンネルを掻き回すのは伊耶那岐、主体、わたしのこと、だけということです。

伊耶那美はどうしているのかというと、向こう側で同調共感できるまで待っているのです。相手、客体は動きません。テレビも同じです。その母なる機能を包容してもっているのを捜し当ててもらうのです。

こをろこをろ、というのは子現象を降ろす子現象を産むということで、ここに先天性からの飛躍が産まれます。直接には子音の発生になります。

つまり、始めて現象なるものがでてきます。

しかしこの段階では先天世界から産まれた自己意識の領域の確定が先です。個人のための現象発生でしかありません。そのまま行けば各人バラバラとなりますが、そうはなりません。というのは天の沼矛という先天の共通性を全成員に与えられているからです。

各人はその何れかの部分を選択して個人となり自己主張となっていきます。ですのでもともと一般性と個人性とが同時に含まれているのです。ここまでは自己領域内出のことですが、次には対他、社会性を持つまぐ合いの段落が来ています。

ついで自己意識から産まれた対他、相手客観世界ができきます。そして社会性となります。まぐ合いの段落でも示されますが、ここもまぐ合いも原理構造は同じで、今までのことの繰り返しです。

指し下しがさし塞ぎになっています。

個人の特殊性と一般性とが同時に発生することは、島生みの最初で蛭子と淡島で示されます。これは人の意識活動の必然ですので、自然と世界中に流布されていきます。

現象はこうして、「先天の塩から塩へ」、「天の沼矛から沼矛へ」と、先天から後天現象へというように対応しています。先天として与えられていながら主体側の塩、主体側の沼矛となるということです。

これは伊耶那岐と妹伊耶那美の命、つまり働き内でのできごとであって、伊耶那岐と妹伊耶那美の神の原理法則としての存在でのできごとではありません。原理の存在から運用働きになります。

自分の言葉、自分だけの特殊なことを語っているのに何故一般的にしか表現できないのか。

わたしの感じ、わたしの思い、わたしの考えを自分に沿って表出したものなのにどうして通じないのか。

こういった経験は常にあることです。

その秘密がこの段にあります。

●●●

<無い>とは何か論。<無い>の存在論。>H>I>。

( H) 【引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、

とうとうここに、自己領域内でのことですが、先天の領域から後天の現象領域への道筋が立てられようとしています。自分の対応できる範囲が、島、領域、自分の締まり、として形成されます。

ここではまだ抽象的一般的な、自己の締まりが出来上がるだけですが、自己存立の足場となるものです。

言葉の変化を追えば、「天の沼矛」、「沼矛」そしてここでは単に「矛」となりその「矛の先」というように、具体化、現象化が進み、先天領域を抜け出す様子が描かれていきます。

塩も同様に天津の塩から、ここでは自己領域内に突入する個人的な塩(個人の現象次元層ウオアエ)になります。

ここでは先天領域の橋の上から個人領域の頭の中へというところでしょうか。天井にあるものを頭の中へ滴り落とし込むことになります。天井領域は全人間の全過去と記憶領域です。スーパーコンピューターが何億台あろうとそれをはるかに超えているのが一人一人の世界です。

橋の上に立ってどのようにするのかというと矛を掻き回すわけです。コンピューターは単純な二進法ですが、人の頭脳は分かる分からないの現象は二進法ですが、それをもたらす中身は八を一丸とした両サイドに0-1を付けた十進法です。

十進法といっも連続した十のことではなく、0-(12345678)-1、これが最低の要素で、1がまた0となって繰り返されます。0-1が橋の両端で中が橋板です。これを言葉にすると、ヒ-フミヨイムナヤ-コト足りで、八進法を内容として、タリの1を次回の0とする上昇循環十進法です。〇にチョンして〇チョンが〇になるなんていういいかたもあります。

〇チョンを古代人の思考法の結晶として読み直せば非常に重要なものが得られるはずです。

0-(12345678)-1、〇チョン、これらはそのままが古事記冒頭の十七神のことをさします。別のイメージもあります。易の太極図もあります。

心の循環する重層構造を言葉にするのは難しいので図を書きたいのですがわたしは書き方を知りません。そこでイメージしてもらうことにします。一つが分裂して二つになり四つになり、以下続くのですが、できたそれぞれがその内にまた同じ構造が分裂しています。卵から子がかえる様子です。

世界中で聖人たちに依っていろいろと流布されていますが古代においてフトマニから取られたものです。しかし完全な形では表されたことがなく、古事記の冒頭において始めて固定されました。というより古代大和の聖人達に依って時代の制約の為思考の秘密の構造はその一部分づつがそれぞれ与えられたようです。(いつかこれらのことも世界の常識となるでしょう。)

さて、0-(12345678)-1、を全体とするとそれが0となって、【言霊 ウ】 天の御中主の神になります。0の中に全体が含まれていますが全体は現象していない状態です。

そこに何らかの衝動力が加わると二つに分裂します。それが【言霊 ア】 高御産巣日の神 と【言霊 ワ】 神産巣日の神 です。ア、ワをそれぞれ全体としますとその内に衝動力の内容が含まれてます。

それを現すのが、【言霊 オ】 天の常立の神 、【言霊 ヲ】 宇摩志阿斯訶備比古遅の神 、【言霊 エ】 国の常立の神 、【言霊 ヱ】 豊雲野の神になります。

それぞれが母音側、半母音側になりますが、橋の両端を形成していきます。続いて橋板の部分がなければ渡れません。これが0-(12345678)-1、の中八神です。

【言霊 チ】 宇比地邇神、【言霊 イ】 妹須比地邇神 、【言霊 キ】 角杙神、-【言霊 ミ】 妹生杙神 、【言霊 シ】 意富斗能地神、【言霊 リ】 妹大斗乃弁神 、【言霊 ヒ】 於母陀流神、【言霊 ニ】 妹阿夜訶志古泥神

そして橋を渡る全体の実行精神を発動するのが、【言霊 イ】 伊耶那岐神 と【言霊 ヰ】 伊耶那美神 になります。

易の太極図は古代にフトマニ言霊思想を真似たものですが、概念のイメージとなりますので参考にしてみてください。太極図は概念を示すだけですが、フトマニは実体内容を示していきます。易は六こう位の解説がありますが、1-2-4-8が3+3の六こう位になって説明されるか、解決した人がいません。いつかフトマニで解決されるでしょう。

ここで示された十七の神々が「垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島」の実体です。

つまり後に表現される<無い>はこの十七の神々に依って表されるのです。心とはこの十七神のことで、全てはここから始まりここに戻って自他を創造していきます。

●●●〇●●●●

( I) 【これ淤能碁呂島(おのごろ)なり。】

こうした重層的構造が淤能碁呂島(おのごろ)となっていきます。おのれの心の締まり、です。

自分の主張のよって立つ先天の基盤となるものです。

個人の主張とか自分の考えとか自我とかいっても、それらはここの先天の基盤の上に乗っているのです。心理学などでは潜在意識とか共有集合無意識とかいわれますが、その内容は個人の感想の分析みたいなもののように見えます。フトマニ言霊学は古代において既に完璧な体系として心の潜在意識が完成されていました。

伊耶那岐も妹伊耶那美も人の心の力動因ですが、力自体は見えません。そしてその現れ方が橋板部分の八神となります。人の心の現れ方はこのたったの八通しかありません。ですが、重層循環という構造を加味しますと途端に兆億万に跳ね上がります。人の心を単純化するのも複雑化するのもまったくその人次第ということになります。

こうして始めて先天から抜け出した現象ができました。それはできた時から兆億万の重層的な情報を秘めています。

とはいってもオノゴロ島というおのれのこころの締まりが出来ただけで、他との対比も社会との対比も無いものです。こうして自己主張の核を築いていける段階になります。

---------------------------------

ここに至る段階を振り返ればこうなります。

淤能碁呂島(おのろご)を自分にとっての何にとっても構いません。自我でも自己の主張でも、自分の意見、自分の思い考えでも、感じたことや、もちろん自分の悟ったことや感動したことでもかまいません。そういった自分の心の現象に行き着くまでを振り返ってみます。

まず先天的に自分の心の島、領域に自分を感じ思い、相手対象を感じ思う働きがあります。この心の生きた活動がなければ何事も起きませんがまた同様に、心の相手対象が無ければ何も起きません。ここは心が産まれる以前のことですから、心の働きということでもなく客観事象の影響ということでもありません。

ですが客観事象はそれ自体で力の作用反作用を及ぼしあっているので、人の目に触れない動きはあります。また一方心はいつどこでも何に対しても関心を向け動く準備はできています。それぞれに相手をしる準備はありますが一切規定されるような名付けられるようなものは無く、いわば揺り動かされれば目覚める状態です。

そこで当初は主体側も客体側も無く、相手を意識することも無いのですからどちらが仕掛けたということもありません。

つまりこでは主客と規定されない分けられていない全体の塊がうごめいているだけです。全体のうごめきというのは古事記で言えば冒頭の十七神全体で、これが一塊となってうごめく様子が現れます。何かを始める前のぼやっとした瞬間です。

いずれにしてもこの十七神全体が揺れ動くやいなや、自分の精神意識が動いたのか相手対象が動いたのか分からないながら、動きが立ち上がる状態が訪れます。動き働きがイザっと活動を始めます。

ここに当初の先天の十七神は、主体側の十七神と客体側の十七神に細胞分裂のようなことになります。主体側の十七神は伊耶那岐が引き連れ、客体側の十七神は妹伊耶那美が引き連れます。

当初は両者共に今だ何が何だか混沌とした中にあって、分かれた十七神双方が自分の状態を明瞭化したい状態に向かいます。

当初の一塊(十七神)がそれぞれ主客の十七神に分裂したからといって当初塊が消滅したのではありません。それは常に過去の実在として記憶、概念の中に実在し続けるのです。こうして何時でも過去に戻り過去さがすことができるようになっています。

狭霧の中の混沌状態をあかすのは矛(霊凝ホコ)と呼ばれる心の働き、父韻と呼ばれる八つの神さんの働きです。

当初の塊は分裂を繰り返していきますが、主体と客体との関係では、主体側の働きかけに対応して答えられるだけのものが、客体側にでてきます。客体側が働きかけることは無く常に受動的です。

そこで主客の間には必ずギャップ、背反が産まれます。妹伊耶那美の客観世界は宇宙世界時空世界全体ですが、伊耶那岐の主体側はせいぜい五感とその延長によるだけのものでしかありません。もちろん対人対物的には主体側の主張が相手側に入りきれないことも起きますが、大抵は主体側が放棄します。

おのれ、自分のこころというのは始めから有るのではなく、こうしてでてきた現象なので、最初から世界とのギャップがあり、対他対人対社会との差異を持っています。これを埋めるには天の御中主の神言霊ウに戻るしかありません。一塊の0-12345678-1 全体を設定し直すことです。

さて今度は、オノゴロ、おのれの心の内に世界を取り入れ世界に向かってけるだけの、世界と同じ構造を持ったものを造らないと、世界が相手をしてくれません。

<無い>とは何か論。<無い>の存在論。>J>K。

( A) 【ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、】

( B) 【 伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、】

( C) 【「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、】

( D) 【天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。】

( E) 【かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、】

( F) 【その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、】

( G) 【塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、】

( H) 【引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は】

( I) 【これ淤能碁呂島(おのごろ)なり。】

と、ここまでやって来ました。

オノゴロ島は天津神と伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神によって産まれた先天内の子供、現象です。人の世界では男と女の間にできますが、同じ事です。女が天津神で男が伊耶那岐の神で行為が伊耶那岐の命と妹伊耶那美の命の間にまじわされます。

人間世界のように男女で分担されていません。何故なら人間世界は個別現象界で先天の統合総体の先天性世界とは違うからです。一応先天での分担を示しましたが方便ですので注意してください。天津神は統体一般全体を持った塊ですから、それに対応する主体側も統体一般全体を持った塊となります。

これが誰が誰に対しても向き合える原理、根拠となるものです。しかし原理の動きが現れる時にはつまり橋板を通過していくときには、橋を渡り始める前のさあ渡ろうという一般性から下を見ながら前を隣を景色を見ながら実際に渡るという個別性へ移行しなければなりません。この個別性を示すのが八つの橋板、筑紫の島の領域にいる八神の父韻です。

これら八神はは伊耶那岐の命の実体内容となってあらわれます。人の行為、精神行為の全項目に共通で子を産むまぐあいにだけ適応したものではなく、現象を産むときのげんりです。男と女がいて、その間を取り結ぶ行為があってと、古事記の神代の巻はそのことをこまごまと五十の神名を使用して説明してくれています。

子現象は両親からの流れを持ち込みますが、独立したものとなります。先天世界でも同じで、先天の実在世界であるウオアエの普遍的な次元にギミの神の主体行為がまぐあいによって、あるいは掻き鳴らすことによって、独自な子現象が生じます。先天の実在世界であるウオアエ界が母で、ギミの実際の行為を成す八父韻が父です。

同じ両親なのに子現象の違いは、橋板、八父韻、チイキミシリヒニの違いによっておきます。また父韻が八つしかなく何故同じ子現象が起きないのかというはそこに既に記憶過去経験が蓄積されてしまうためです。要するに人生は常に一回限りすること成すこと歴史は一回限りということです。

したたり落ちる塩(四霊)が落ち続けます。【 垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島はこれ淤能碁呂島(おのごろ)なり。】

どうです、皆さん。

宇宙世界最高の至宝である古事記の神代の巻は。

( J) 【その島に天降(あも)りまして、】

自分の心の島に降りるのではなく、世界宇宙と同じ構造を持った自分の心の島をつくろうということです。主体意識に世界宇宙の原理原則を造るのですが、心という能動韻の上に打ち立てようとするものです。

心は客観世界ではないし勝手に動き回りころころ(こころこころ)変転変化していきます。自覚的意識的には先天構造と同じ構造を立てればいいのですが、そう簡単にはいきません。

もともと心の方が後からできたものですから先天を自覚しろと言っても後の祭です。それでも先天構造の世界をチェンジすることはできませんから、真似て同じものを造るので精一杯です。

ところが本来先天世界の真似事としてしか心は創造されませんが、(個性だとか自我だとかはもともと無いものなのですが)、積り積もった現象世界では当然違いがでてきます。

自我個性が後から出てくるということは、ここまでは全人は同じ、同じ経験ができる、同じ感動がある歓びがあることの根拠になります。しかし、それは同時に個別的であることの始めでもあります。

( K) 【天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。】

古事記にはあちこちに天、天、天という字が付いていましたが、ここの八尋殿には天が付いていません。これは天の沼矛でもみられましたが、先天から後天現象への移り行きが示されている為です。観念的な言い方なら一般性の中に特殊性が形造られて行くからです。普通にいえば現象、子供を産むことを示すことです。

八は八父韻のこと、尋は尋ねることで、心の働きは常に八つの父韻を尋ね拡げていき、そのような心の御殿を各人が形成していくということです。余計なことですがイメージとして八角駒がそれに相当するかもしれません。中心に心の御柱(伊勢神宮の御柱のことです。)があって八角錐の心の御殿が打ち立てられてきます。(御柱の上には八角の模様(見たことはありませんがそのはずです。)が入った「八咫鏡」(やたのかがみ」があります。)

ここの構造は神名で現せば冒頭十七神で、橋の形をとれば天の浮橋で、五十音図で、鳥居で、とその他多かれ少なかれ神道、天皇皇室関係とその行事でいわれるものはここの部分の変形されたものです。こころのあり方、形、整理、運用法、等を示したものです。

【淤能碁呂島(おのごろ)に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。】こうしてとうとうおのれの立つ地盤とおのれの心のあらわれる基盤とおのれの心を現す御殿ができました。

皆さんお好きな自分の考えとか思いとかが出てくる下準備ができましたが、ここから個々人の主張が一挙に出てくるのではありません。会話とか討論とか、ものを書いているときでは直ちにそういった状況のようにみえますが、なにしろ古事記は一秒の数分の一をこまごまと説明できるものですから、ここはそう急がずによろしくどうぞ。

ここオノゴロまでは表現されされるに至った全体からすると、自分の頭が働く基盤ができたというだけで、何も表現したものを持ったわけではありません。先天の実在世界を表現できる同じ構造が頭の中に移し替られただけのことです。いえ、今その移し替られる宇宙実在世界の構造を頭脳内に移植しているところといえるでしょう。なにしろ宇宙と同じ立場に立たなければ宇宙のウの字も言えませんので。

同じ土俵に立たないと何もできないというのは、行事となって相撲にあらわれています。八百長ができるのも同じ土俵に上がるからです。(古代大和の聖人はこんなところにまで言霊学の原理を適応しています。)

先天の宇宙の実在世界をおのれのこころの領域にまずは頭脳内の働きとして写し取ります。そしてここに宇宙と同じ人の心、宇宙と同じ拡がりを持った人の心がでてきます。もしここに宇宙の創造主という言い方を好む方がいましたら、その人が創造主であり、神という言い方を選んだ人はその人が神であり、宇宙は物質物体の作用反作用だということを主張している方はその方が物理作用を及ぼす元の方となります。これ以上はややこしくなりますからここまでです。

いずれにしても宇宙と同じ構造を自分に取り込んでいきます。実際には各人勝手な、あるは厳格な取り込みになっていきますが、この時点ではそれらの個別性があらわれる以前のことです。かたや心の相手対象となる宇宙世界があります。この客観実在を五次元のウオアエイの言霊宇宙とします。かたや心があり、客観実在を五次元のウオアエイの心の宇宙とするオノゴロ、おのれの心の締まりがあります。

ウオアエイの世界は始めは一つの塊のようで、心のウオアエイと客観実在のウオアエイに分かれた途端に心のウオアエイの御柱対する客観世界のウオアエイになります。ここまでの対応は総体、一般的なものです。なんらの個性個別性もありません。世界全体に対応した心を誰もがもっている段階です。母なる大地、母なる包容慈しみとなる世界です。

しかし片や各人に隠し持った動きの働き生きる胎動、揺すり揺れるこころの誘われる動因が存在しています。これが主体側の能動的動因となっていくものです。心の側の動因はどこから来ているかといえば、宇宙の流れ持続する動きから来ています。この宇宙の持続する流れの心に写し取られたものが伊耶那岐の命の力動因となるものです。

そこで宇宙の動き方の研究をしなくてはならないのですが、古事記はそれを八つにまとめました。

わたしもそれを真似て次回のシリーズを考えてます。もちろんこんな予告をしたからといって実行するかどうかは保証しません。そもそもこころある各人のなすことです。わたしはそんな予定を作ろうかなというところです。

宇宙に五次元の世界を見ることは割りかし楽です。フトマニ言霊学を真似た中華やインドの五行とか五大思想とか西洋の五天使とかもありそれらを参考にできます。しかし、宇宙の動きを示すものを思想にまとめたものは、概念となった易の八卦とか仏教の八正道とかいうのがありますが、実体内容を示す思想ではないので、大本に迫るのは大変なことのように思えます。

言霊学の教科書を真似て八尋殿とか父韻とかいうのも簡単ですが、なにぶんにも猿真似ですので真に掴んだものではありません。今までのわたしの書き物は全て下手な真似事です。

まぁ、自信をもってこういうことが言えるだけは進歩したということですね。

●●●一応ここまでにしておきます。

-------------------------------

無い。何故、<無い>というか。【形式】。先天から後天へ。

【形式】

言霊●が無い、ない、という言葉に使用されない理由。

石土毘古の言霊はトですから、トの現れ出てきた所以は、

・父韻チ・・・「精神宇宙全体がそのまま後天の現象となって現われ出る力動韻」

・呼気チ( T )・・・安定した全面的なブロック。

・父韻チに対応する心の腹圧・・・一斉に動く、一気に全体がでてくる、全体が佇む、全体が閉ざされている、十の扉がある、相手を尋ねる前に戸の前に立つ、戸を開ける。

・呼気チ( T )に対応する精神内要・・・

現象して来る精神宇宙・・・

--------------------------

・父韻イ・・・「動きだした力動が持続する韻」。

・呼気イ( Y )・・・。

・父韻イに対応する心の腹圧・・・根底に溜まっていて出口とが一直線でむすばています。心の精神内容が一挙にでてきて猪の突進のように持続し心の表面宇宙に突き刺さるように入っていきます

・呼気イ( Y )に対応する精神内要・・・

現象して来る精神宇宙・・・

--------------------------

・父韻キ・・・「精神宇宙の中に己にある自己の体験内容に思いが結びつこうとする力動韻」

・呼気キ( K )・・・。

・父韻キに対応する心の腹圧・・・一斉に動く、一気に全体がでてくる、全体が佇む、全体が閉ざされている、十の扉がある、相手を尋ねる前に戸の前に立つ、戸を開ける。

・呼気キ( K )に対応する精神内要・・・

現象して来る精神宇宙・・・

--------------------------

・父韻ミ・・・「体験内容を自我の方向に掻き寄せようとする力動韻」。

・呼気ミ( M )・・・。

・父韻ミに対応する心の腹圧・・・根底に溜まっていて出口とが一直線でむすばています。心の精神内容が一挙にでてきて猪の突進のように持続し心の表面宇宙に突き刺さるように入っていきます

・呼気ミ( M )に対応する精神内要・・・

現象して来る精神宇宙・・・

--------------------------

・父韻シ・・・「精神宇宙にある精神内容が螺旋形の中心に静まり収まる力動韻」

・呼気シ( S )・・・。

・父韻シに対応する心の腹圧・・・一斉に動く、一気に全体がでてくる、全体が佇む、全体が閉ざされている、十の扉がある、相手を尋ねる前に戸の前に立つ、戸を開ける。

・呼気シ( S )に対応する精神内要・・・

現象して来る精神宇宙・・・

--------------------------

・父韻リ・・・「ある精神内容が宇宙の拡がりに向かってらせん状に発展拡大していく力動韻」。

・呼気リ( R )・・・。

・父韻リに対応する心の腹圧・・・根底に溜まっていて出口とが一直線でむすばています。心の精神内容が一挙にでてきて猪の突進のように持続し心の表面宇宙に突き刺さるように入っていきます

・呼気リ( R )に対応する精神内要・・・

現象して来る精神宇宙・・・

--------------------------

・父韻ヒ・・・「精神内容表現が精神宇宙球の表面に完成する韻」

・呼気ヒ( H )・・・。

・父韻ヒに対応する心の腹圧・・・一斉に動く、一気に全体がでてくる、全体が佇む、全体が閉ざされている、十の扉がある、相手を尋ねる前に戸の前に立つ、戸を開ける。

・呼気リ( R )に対応する精神内要・・・

現象して来る精神宇宙・・・

--------------------------

・父韻ニ・・・「物事の現象の種が精神宇宙の中核に煮詰まり成る韻」。

・呼気ニ( N )・・・。

・父韻ニに対応する心の腹圧・・・根底に溜まっていて出口とが一直線でむすばています。心の精神内容が一挙にでてきて猪の突進のように持続し心の表面宇宙に突き刺さるように入っていきます

・呼気ニ( N )に対応する精神内要・・・

現象して来る精神宇宙・・・

--------------------------

・母音世界ア・・・喜怒哀楽の感情。感嘆感動。宗教、芸術活動。

・母音世界オ・・・経験過去秩序の反省、記憶知識概念整理の世界。学問科学。

・母音世界ウ・・・五感感覚からの欲望、認識。経済産業活動。

・母音世界エ・・・按配、選択の機能。道徳、政治。

・心の領域津島・・・心の意図をイメージ化する

そしてここらの要素にかかわる人間事象にタと付く名前が与えられるようになりました。

言霊子音タは言葉として田(た)・竹(たけ)・滝(たる)・足(たる)・貯(たくわえる)・助(たすける)・叩(おし)・佇(たたずむ)・戦(たたかう)等に使われます。

以上の実在の理由から子音のタは無いという発音にも意味も持てないのです。

・しかし子音タは<無い>と関係ないのではなく、ナイと名付ける第一歩なのです。それは先天からの全体をイメージに乗せる始めです。ですので当然<無い>という主体側の意図の始めの全体として<無い>を示したものです。ですが子音タでは<無い>の心の表現にはなっていかないということです。

・子音ヨは<無い>と関係ないのではなく、根底にあるものが表面出口を目指しますがその出口がない時には<無い>となるものです。普通にヨと発声される時にはそういうわけにはいきません。

--------------------------------

〇ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、・・・・・心が活動を開始して。ウの全体。

〇伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、・・・・・先天の主体と客体の実在と動き

〇「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、・・・・・流動的を整え、秩序だて、形、名を与えよ。先天の父韻。

〇天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。・・・・・先天の物象を利用して、実行せよ。

〇かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、・・・・・主客の同次元世界に立って。

〇その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、・・・・・先天に対応した二神の物象を利用し

〇塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、・・・・・実在世界に父韻を使って

〇引き上げたまひし時に、・・・・・先天のアワとギミのアワの対応したものを引き上げ、

〇その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、・・・・・対応した母音世界、実在世界がしたたり落ちる。

〇これ淤能碁呂島(おのろご)なり。・・・・・自己の領域ができる。

〇その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、・・・・・

〇八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。・・・・・

〇ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。・・・・・自省反省より自覚の始めだが、まず相手を見る、その後、、

〇ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。・・・・・その後、、、目覚め自覚する。そして自らの行為を定める。

-------------

無い。何故、<無い>というか。➀

無いについてもう少し書き足してみます。簡単に入れる入り口から入ってみます。

五千年前に古代大和の日本人達は無いことをなんと言っていたでしょうか。

「ナイ」「ナシ」です。

物が無い。エネルギーがない。食欲が無い、性欲が無い。

知識が無い。認識対象が無い。空間時間が無い。

愛情が無い。感動が無い。

ある状態の元に無い、選択肢が無い。役立てることができない。

意志、やる気が無い。気が無い、霊、霊界がない。信心が無い。

こうして無いを挙げていきますと、無いこと、無い状態、無い中身、等が有るということになりそうです。無いと言うより、無いに関することが有ると言ったほうがいいようにも見えます。無い食欲が有るというように。

しかし、無いという言葉の位置を変えても無いという認識構造は変わりません。無い、と言った後で何々が無い、ということになりその人の心に有るだろうものが無いという形で示されます。いずれにしても無い、そのものの認識了解が示されています。

そこで前々回から書いてきたことを適応してみましょう。うまくいくかどうか、どこまで行くかは知らない。

後に何々が無いとどうして言えるのかは、そこに何々に対する概念知識が既にあるからです。ここに開陳されるだろう知識が満タンに詰まっているわけですが、あることに関してはそこに見いだせないのが、無いと表現されます。

夕食を前にして食事どういうもので、香りも色もみんな分かるけど食欲が無い。食欲はありがぶりついていくけれど、味は分からないし、食材は何なのか知らない。御馳走を前にして何をどう始めたらいいのか分からない。フォークとナイフの使い方が分からない。

これらの無いという判断はそれぞれの人間性能次元での違いはあっても全てなになにで無いということです。

そこでこの無いを一般化して無いとは何かを示してみたい。

数千年前から無いを知っていたとしても、無いことをナイと言ってみんなが了解してそのまま使用され続けてきたわけで、大和言葉は数千年間同じでそういったナイという凄い言葉の発明創造があったわけです。

東西南北の人種が混じったとしても普通の歴史にあるように最強の権力者の言葉に統一されたのではなく、全員が大和言葉を使用してきました。幾ら権力があろうと混じろうと、耳や鼻で水を飲んだり、ご飯を食べたりできないように、口から出てくるのは大和言葉で、大和言葉による名付けと交流に逆らえなかったのです。

口で食事をすることを変えられないように、物に名前を付けてそれで社会的に流通させることも、大和言葉であったからと了解できる何らかの合理的な理由があるはずです。こんな凄い超発明を創造したスメラミコト達の行いに少々触れてみましょう。

まず、ナイという言葉が産まれる流れを見てみます。自分の状態を無いと表現するにはそれなりの経過があります。「無い」と瞬時に発音されたとしてもその実発音に数分の一秒以上の時間経過があり、また発音するに至る時間経過が頭脳内にあって、胸声帯を動かしていたわけです。この瞬間ではあるけれどれっきとした時間の流れが解明されなければなりません。

解明されたといっても自分で納得して一人だけが使用しているのでは言葉になりません。人々が了解してしまう過程があるはずです。

幸い世界の秘宝である古事記がありますから、それに沿って試してみましょう。みなさんなりにやってみてください。

今回はナイ、という言葉の現象が出てくる数分の一秒間を拡大解明することとします。

以下非常に多くの引用が無断で混入されますが、いちいち断りません。

フトダマ言霊の原理は五千年以上前に既に発見され、使用され、歴史に適用され、その後古事記の神代の巻として書かれています。これの再発見、適応はその片鱗だけが数百年に一度の単位で現れては消えてきましたが、現代はもう消すことのできない時代となりました。島田正路氏による「言霊の会」が世界歴史の震源地となって継承されているようですが、詳しくは分かりません。

元々の使用者は五千年以上前のスメラミコトですが現在スメラミコトは存在せず、形だけになっています。敗戦によって古事記の継承を否定していますから、誰が使用してもいいことになりました。当然分かっているのか分かっていないのかという問題も起きますが、既に民間の間での問題となっています。

民間が行う時は、金を儲けるために、権力をえるために、名声をえるためにそれぞれ使用され、時には著作権なども主張されていくでしょう。しかしその代わり切磋琢磨され良貨は悪貨を駆逐するといわれ、それらは淘汰されることになります。こんれからフトマニ言霊学が拡がるに連れてそういったことが起こります。(余計な感想でした。)

先に昔の人は人の言葉を雷(かみなり)に譬えた、という話をしました。天空でピカピカッと稲妻(いなづま)が光ると、ゴロゴロと雷鳴が轟きます。それは心の先天構造の十七言霊が活動すると現象子音の言葉が鳴るのに似ているからです。「喉が渇いたな。お茶が飲みたい」という日常茶飯の何でもない言葉を発するのも、実は言葉の原理から言えば、先天宇宙に雷光が走ったからです。人の何でもない平凡な言葉も精神宇宙の大活動の結果です。

そこで人間が言葉を発し、それを他人(または自分)が聞き、次にどんな活動が起り、その言葉の役目が終ったらどうなるのであろうか、という事をまとめてみたいと思います。それによって生れて来る子音言霊の精神宇宙に占める位置や区分、またその内容がはっきり理解されて来ると思われるからであります。

先天の活動によって言葉が生れ、発声され、人に聞かれて了解され、言葉の当面の役目が終り、消えて行く。何処へ消えて行くか、と申しますと、元の先天宇宙に帰って行き、記憶として留められます。これが言葉の精神宇宙内の活動の全部であり、その他にはありません。

先ず精神の先天宇宙の十七言霊が活動を開始します。この際の十七言霊を天名(あな)と呼びます。この天名の活動にて現象子音が生れて来ます。先天十七言霊(天名)の活動は、先天と呼びますように、人間の意識の及ばぬ領域でありますので、其処で何事が起り、意図されたのか、は全く分りません。

その分らない内容を一つのイメージにまとめて行く作業が、「既に国を生み竟へて、更に神を生みたまひき。……」に続く文章に生れて来ました大事忍男の神より妹速秋津比売の神までの十神の言霊の処で行われる事となります。この十神(十言霊)の属する島の名を津島(つしま)と呼びます。

またこの十言霊の作業の処では、先天構造の活動によって起った意図がどんな内容か、がイメージとしてまとめられますが、しかしまだ言葉とはなっていません。この言葉にならない状態を真奈(真名)または未鳴(まな)と呼びます。

津島の後に佐渡島があります。この島に属する言霊が八つあります。この八つの言霊の作業によってまとまったイメージが言葉と結び合わされて行き、最後に発声されます。この状態の言霊を真奈または真名と言います。

佐渡島の次に大倭豊秋津(おおやまととよあきつ)島またの名天つ御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)なる島が続きます。この島に属する十四言霊の作業で、イメージが言葉として組まれ、発声された言葉が空中を飛び、やがて他の人(または自分)の耳に聞かれ、復誦され、その内容が一つの意味に煮詰められ、最後に了解され、結果としてまとめられます。

この間の十四の言霊の中で最初の四言霊(フモハヌ)が発声された言葉が空中を飛ぶ状態です。この四言霊を神名(かな)と呼びます。残りの十言霊が耳に入った言葉を点検・復誦して納得する作業となります。この時の言霊は再び真奈(真名)と呼ばれます。納得され、了解された言葉は役目を終え、元の宇宙に帰って行き、記憶として残ります。

以上、三島に属する三十二の言霊が後天現象の単位である子音言霊のすべてであります。これを三島に属すそれぞれに別け、更に生れ出て来る順に並べてみましょう。

津島――――――タトヨツテヤユエケメ

佐渡島―――――クムスルソセホヘ

大倭豊秋津島――フモハヌ・ラサロレノネカマナコ (五十音図の母音半母音イ段を除いて造られている)

以上三島で三十二の子音が生れます。子音言霊の数はこれで全部です。こう見て来ますと、読者の中にはちょっと奇妙な事になっていることに気付く方がいらっしゃるのではないでしょうか。そうです。狐につままれたのではないか、と思われる言霊の魔術?にかかってしまったかとも思われる事が事実なのだ、という事に気付くのです。

それは、先天十七の言霊の活動で次々と三十二の子音が生れます。その生れ出て来る総数三十二の子音が、そのまま生れ出て来る順序をも示している、という事なのです。この様な奇妙な事が起るのも、言霊子音が現象の究極最小の単位であるという事、またこの三十二の現象子音の循環が現象宇宙のすべてを表示しており、少しの欠落も余剰もないという事に由来しているのであります。

かくの如き言霊原理の魔術的表現を「言霊の幸倍(さちは)へ」と呼んでおります。この人間社会の生命の営みを言霊イ次元に視点を置いて見る時、其処には五十音の言霊しか存在せず、一切の社会的事物がこの五十音を組合せる事によってその実相を表現することが出来るという、日本語の本質が確認されるのであります。

--------------

前宣伝が多すぎるというか、風呂敷を拡げすぎるというか、早く、何故<無い>というか、を喋ってしまいたいのですが、わたしの頭にはどこか欠陥があるらしい。

無い。何故、<無い>というか。➁

無い、と言い放った時には、無いという現象を確認了解して無いという現象を生んだことになります。この無いというのが何か有るにダブってきて有るものが無いとなるわけです。しかしその場合は有るものが無い、あるいは有る対しての無いという二重の対他的な無いが頭脳にまで乗ってくる過程があります。

今回は有るに対する無いは扱わずに、無いそのものだけをみていきたい。

先天構造として無いがあり、それを受け確認する自己意識内の先天に対応した無いの領域があります。

ここは自己領域だけの無いですから、他者との関係をもったものではありません。

そこで他者との関係を持てる領域が自己内に確保されなければなりません。

先天の無いが他者との関係を持てる領域に乗り移ることによって、自己内の無いは他者との関係をもてるようになります。

ここに三段階の領域が設定され通過しなくてはなりません。

それが、

・津島(タトヨツテヤユエケメ)・先天のその分らない内容を一つのイメージにまとめて行く。

・佐渡島(クムスルソセホヘ)・イメージが言葉と結び合わされて行き、最後に発声されます。

・大倭豊秋津島(フモハヌ・ラサロレノネカマナコ)・イメージが言葉として組まれ、発声された言葉が空中を飛び、やがて他の人(または自分)の耳に聞かれ、復誦され、その内容が一つの意味に煮詰められ、最後に了解され、結果としてまとめられます。

という心の三つの領域です。

この全過程を通過した後、始めて「無い」という言葉が了解できるようになります。

いつ他者との関係ができるのかというと、精神宇宙の領域内で各人それぞれが、先天から始まって、オノゴロ島、津島、佐渡島、大倭豊秋津島を通過しているという前提があるからです。各人それぞれにこの領域が通過されていなければ、発語されたところで通じないので、無いと言ったところで、ナンジャラホイとなってしまいます。

通常の「わたしの考え」というものは、個人領域(オノゴロ島)での無い(あるいは有るなり検討されている全概念)をそのまま押し広げるだけです。これは蛭子、淡島の必然的な間違い領域のできごととなります。分析されたと称して思いつかれたものが二三自己主張の形となって扱われます。

古事記はここのナイという発語までに三十二の過程を見いだしていきます。三十二というのは五十音図の両側母音列とイ段の横の列を除いた残り全部のことです。

この三十二の扉を通ってでてきたナイならば誰とでも話になり手を取り合え、誰からも文句の出てくる隙がないというものです。もちろんこれは古事記の理解者次元のものであってわたしのことではありません。

しかし何でこんなナイというたったの一言、一秒の数分の一秒後には消えてなくなることに三十二の過程を見いだしてどうするのでしょうか。わたしもこの数年間こんなことばっかりしています。ゼロコンマ一秒以下の世界が解明されているからといってそれを真似てどうするのでしょうか。

知りたいからといって知ったとしても金儲けの知識か、啓蒙の知識か、自己満足か、闘争の為の知識か、いずれにしても知的な領域で終わるものです。自分の考えだとか思いつきだとか研究成果だとかを加えて、他とは違うと威張りたくなったり、武力を使ってでも相手を納得させたいわけです。

何故か沈み込む内容になっていきます。止め。

●●●●

無い。何故、<無い>というか。➂。父母子供。

古事記によれば<無い>という言葉の現象が出てくるまでには三十二の言霊子音を通過することになります。その<無い>、ナイのナの言霊が出てくるのは三十一番目です。何故どうしてナが三十一番目に来るのでしょうか。漢字を使うと名(な)、菜(な)、魚(な)、成(な)る、鳴(な)る、泣(な)く、馴(な)れ、萎(な)え、治(なお)る、流(なが)る……等となり、ナが三十一番目にならなくてはならない理由から、ナと名付けられた言葉がでてきます。いつもながら変な言い方ですね。

何故ナの言霊が三十一番目にでてくるのか。(先天も含めて数えると48番目。残すのは、49・大宣都比売の神 言霊 コ と、50・火の夜芸速男の神 言霊 ン だけ。 )

最も簡単で正確な間違いのない理由となる答えは、古事記にそう書いてあるから、です。

そしてここから人々の態度が散らばっていきます。

古事記を受けいれるかどうかだけでなく、その理解解釈をどう施すかで人の数、頭の数だけ主張があるのは既に皆さんご承知の通り。

問題はそれらの総体を構成する一つとしてどこか一角に陣取って主張してしまうのか、全く主義主張と離れて総体を包括しているのかの違いになります。フトマニ言霊学には主張するものはないので、総体を形成するどこかの一つになることはありません。

わたしはこう考えるといって調べ研究した成果や三日三晩考えた深慮やパッと思いついたものなどを発表することなどもありません。旅客機は墜落しないはずですなどと言ったら客は来ません。

知識や思想、意見の世界ではわたしはこう考えているとかいって平気で旅客機は墜落するとかしないとか理性的に意見の交換を楽しんでいきます。古事記もそういった部類の解釈にはめ込んでいるようです。

わたしがあなたが誰かが勉強して相違が出てくるのは当然で、各人が心の内からそれぞれを包含していきます。水の組成がH2O で水素と酸素の化合物といわれても別に驚きませんが、言葉のH2Oに相当するものを見せられると拒否反応があります。五千年以上前の常識なのに自分の主張の方が大事であるとしていきます。

人の心とは何かという言霊学は五千年以上も前に完成してしまっているものです。例えば仏教の悟りの感情は二千数百年前に明かされ代々受け継がれていますが、悟りとは何かの理知的な見解を披露するなんてことは無く、意見の一つとして主張されたこともありません。知的にそういっことをしたい連中がいるだけです。受け継いできた者はそういったことをしません。下位の知識状況がトータルに了解できているからです。

とはいっても学として勉強している間はそうはいきません。いろいろと自分の考えだとか思いつきだとか調べたものをくっつけたいものです。仮定を捜したいものです。わたしのもそういったあたりをうろついています。水は水素酸素のH2O なのに頭が抵抗していきます。

----------------------------

さて、何故、<無い>というか。

おのれの心の領域に持ち込まれた先天領域がオノゴロ島から津島の現象領域へ移る様子を見てみましょう。おのれのこころの島には御柱と八尋殿( こころのH2O )が立てられ先天領域から移動したものが乗り込んできました。

何だか分けの分からない無いという動きのうめきのような響き振動があります。無いと分かる以前の無いですからこうこうこういうものと規定説明され名付けられるものではありません。

乗り込んできた先天からのものがそのまま対応すれば、言い替えればオノゴロ島内の御柱と八尋殿だけが対応すれば、先天世界と同様の一般化された世界としての対応となります。

一般化としての対応は既に蛭子、淡島として準備され世界に流布しています。「この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去(や)りつ。」人々はまずこの蛭子と淡島の受け取りの上に乗っておのれの心の世界であるオノゴロ島を発動します。

オノゴロ島には意図と創造意思を動因とする御柱が立っているので自由自在に動く準備も整っています。

オノゴロ島は個々人の心の領域のことですから言い替えれば心の主体が動きます。心の主体の能動因は八つあります。ということは一つのこころの御柱が八つの動きをするということです。八つを統体でまとめて動かすことができません。八つの橋板を二本の足で同時に踏むことはできないのです。

誰が八つと決めたのかといえば五千年前以上のスメラミコトです。物質元素は最近の発見で百幾つですが、誰でもが勝手に自分の考え通りに十だ二十だ自由に考えるのだとは言えないように、心の能動因は八つしかないのです。

このことは、心理学者哲学者宗教者が何百人集まって何十年研究しようと解明されるものではないのはこの数千年の歴史を見ればはっきりしています。その詳細が記された古事記はこのように人類の宝なのです。

わたしはそうは思わないこういう見方もあるのじゃないかなどという見解にも与しません。どのような見解、新発見新理論に裏付けられていようとそういった主張がでてくる元々の心の構造が明かされているからです。

もちろんこんなことを言っても分かりません。書いている本人がいうだけで本人も分かっていないのですが、同じことを何回も書いていると分かった積りになれることがあります。読書百辺何とかいうやつです。年季と共に分かったつもりになる場合(多くの禅坊主のように)と、実際に謎が解ける場合とがあります。そしてその間におおくの閃きもあります。(余談でした)

先天の統体領域に対応するのはまずオノゴロ島ですが、オノゴロ島自体が天津神達の活動によって産まれたもので、先天両親の一般性に対して子供としての後天性です。ここに既に子としての独自性の芽が主体として内包されています。

先天の統体を得る為に打ち立てた御柱、八尋殿なのに、その全体を働かすことができないのです。おのれの心のしまが先天の世界全体を引き込んでいて、おのれとは宇宙世界全体のことであるのに、その表現は常に個別的特殊で個性的です。

注意しなければいけないのはわたしの精神性能次元が宇宙世界全体を包括できないだけで、言霊イの次元に立てればこんなことをいいださないということらしい。つまりわたしはまだまだ真似さえ出来ていないということです。スメラミコトを除くどこのどの人もまだまだということです。

各人の真面目さ真剣さをもってしても、書かれていることは不十分いい加減ということになります。政治宗教の世界ではその真剣さにもかかわらずいい加減なこと勝手なことしか言わないというのは普通のことです。

おのれの島は岐美の命によるものですから岐美の命に立ち返らなければ全体は得られないということになります。しかし得られないからといってもそれでも行くのがやはり岐美の命の働きですから、このままいきましょう。

後天としての子は自らを主体だと主張して活動をしていきますが、その現れが八つの能動因の四つの次元世界への結びつきとしてあらわれます。言い替えれば後天の子供現象は母の実在世界の四分の一のどれかの次元世界の空間と八分の一の時間行為世界のどれかに結びついていきます。

つまり、子としての現れは8×4の三十二のどれか一つして表現されます。後天の子供は自分が受け継いだ先天の総体として自分自身を現すことはできず、もしそれを強行するときは蛭子淡島となります。

三十二のどれか一つとしてしか表現されないということは、そのひとつひとつが別別の現象の単位ということです。世界のあり方からしてギミの命はこの数のこどもしか産めません。古事記ではカグツチまでがまぐあいで出来た現象の単位です。五十音図の中央に全部まとまっています。

こころの現れとはその元素としては三十二しかありません。

(物質世界も100ちょっとで放射性元素を除けばもっと少ない。)

無い。何故、<無い>というか。④。タ。言葉の発生。

以下三十二の手順です。

1-大事忍男(おおごとおしを)の神。言霊タ。神名は大いなる(大)現象(事)となって押し出て来る(忍)(おし)言霊(男)を指示する神名(神)と説明されます。

言霊タが無い、ない、という言葉に使用されない理由。

(参考までに、無いを意味する外国語のカタカナ書きです。ノー、ナッシング、ノン、ナイン、ニェート、等、な行に見つかる。)

言霊タが無いの意味を持たないのは、先天から頭脳内のイメージへ出たところなので、そのイメージの全体像を造るところにあるからです。

言霊タから子音タがでてきます。タは父韻チが母音アに働きかけて産まれました。チ+ア→タ。

先天の父母から受け継いだのは全体宇宙ですが、発声発音して自らを現す時呼気の流れを制御して言葉を発することになります。

そうするとこの時チの父韻の呼気は先天から受け継いだ全体を父韻チだけで現せれば世界を示す言葉は父韻チとなりそうです。

あるいは権力者が命令してこの世をチというと定め、後から内容を継ぎ足して言って流通させればそうなります。同様にチを<無い>という意味に定めることもできるでしょう。

しかし大和の言葉はそういった恣意的な構成をもっていません。

言霊チは主体側の動きで主体的に自己の実現に努めます。

仮にローマ字表記の T を用いて五十音図イ段の言霊チ呼気を現します。

言霊チ(T)は父側の働きをしますが、働きそれ自体は現象しません。何かの物象を借りなければなりません。さらに父韻は働きかける相手対象がなければ自らを明らかにできません。

そこで言霊チ(T)が相手にする物象は自分の中にある気道を流通している呼気の流れです。

子音の頭の(T)を非常に注意深く身近に見てください。子音として発音される以前の T だけに関することです。T、T、T、、、、T----。

これは主体つまり自分自身の働きであることを忘れないでください。

Tの頭音だけでは何も発音されず言葉になりません。父親の働きはあっても彼だけでは子供は産まれません。

言霊チ(T)の働きをみていくと、T は呼気の流れを安定してブロックしています。T には気の漏れがなく呼気はがっちりと全体的に塞がっています。単発的にTTTTとしても、T----と期間をとってもいいですが、その呼気に連動していく心の動きを見てみましょう。

父韻チ(T)が動いて自らを T とする時の父韻チ(T)にまとわりつく T のこころとして現れるものを探ってみましょう。

T によって気道が全体的に塞がれていることにも何がしかの時間の流れがあります。それの時間差を始め、中、終り、でみます。どの時点であっても全面的にブロックされていることが共通です。

この全面的な呼気のブロックを人間の性能の基盤となってる心が対応していく次元で見るとつぎのようになります。

呼気の塞がりはそのまま心の全体的なブロック感になります。主体側の心の動きは全体的に塞がっている感じを得ます。一時的であれ期間的であれがっちりと全体がストップされています。

そうするとこの全体的な塞がり感が心に昇り反映されてきます。この心に昇ったものが主体側の言霊チ(T)の心となります。言霊チの動きは今度は心の動きとして働くようになっていきます。

言霊チは物象である呼気の全体的な塞がりから、心に反映された言霊チ(T)となってきます。

そこで今度は呼気の出口側舌と口蓋ではなく、呼気の発生源側、胸または腹側を見てみましょう。胸と腹は密接な関係をもっていて、解剖学的にも呼気は腹とは切り離せません。腹を使った心の表現も多くあります。

呼気の全体的なブロック感が心に反映されるように、呼気の発生源である胸または腹も心に反映されていきます。ですのでここに心の腹ができます。

T によって塞がった呼気は心の腹側では、心を働かせ動き現れたくともブロックが強力ですので自然 T を押し返そうと、突破しようとする心の腹圧が高まります。

ここに T のブロックに対する心の腹圧が全面的に対応する構図がでてきます。そしてこの心の腹圧に心が乗っかかると、心は一つの全体となります。

T のブロックを前にして口蓋舌側と心の腹側とが一体全体となってT のブロックに立ちはだかります。

ついでこの全体が一丸となって呼気のブロックに対応することになると、それに対応した心の全体も出来てきます。

T は高まる押圧をいつまでも溜めておくことはできませんから、父韻 T で呼気の開放をしなくてはなりません。主体的な呼気の動きが父韻チ(T)の開放となって発声されなけれなりません。

ここに言霊チ(T)の心が出来上がります。

この時 T が求めるのは母音世界とのまぐあいです。というのも父だけでは自らを開放してもTTTTで何の意味も内容も表現できません。父韻チ(T)の心とこころの腹圧はブロックされたままです。

父韻に乗っている舌口蓋胸腹で共感同調のとれた父韻の心の腹は心の腹の内に積もり積もっていきます。心の腹の腹圧は高まっていきますが表出には至りません。

そこで父韻チ(T)の呼気と呼気に乗った心、心の腹圧と心の腹圧に乗ったこころが開放表出へと向かいます。子音頭の TTTT では何も表現されませんから、父韻は自分以外の借りの姿物象を見いだします。

それが実在物象である母音世界です。

しかしこの時点では実在の母音世界(現象)とではなく、父韻と同じ土俵上にある母音の物象と結ばれます。

呼気場合の対応は、父韻が主体的な意図を示す八つの父韻として現れているのに対して、受けいれ側の人の実在性能はウオアエ次元の四つですから、この四つのどれかで受けいれることになります。

四つの性能次元は大雑把に欲望、知識、感情、智恵の選択にそれぞれ対応していますので、父韻の八つの何れかもこの四つのどれかの次元へとむかうことになります。

ここでは「1-大事忍男(おおごとおしを)の神。言霊タ。」の項目ですので、母音アの世界と結ばれ、 T +aで Ta タが発声され、心の腹圧は開放発音されてタという表現を得ます。

その時同時に、全体的にブロックされていた感じ、全体的に心の腹が溜まっていた感じも、一挙に開放されていきます。その結果が発声であり、心のタが発音されたことなり、タを発音すると同時に「 大事忍男(おおごとおしを)の神。言霊タ。神名は大いなる(大)現象(事)となって押し出て来る(忍)(おし)言霊(男)を指示する神名(神)と説明されます。」とある通りに心の大事がおしだされタの意味内容となっていきます。

父韻チは心の宇宙がそのまま現象として姿を現す動きであり、母音アは感情世界の宇宙です。

この両者間を大事忍男(おおごとおしを)の意図をもった介入があって、協調共感から子音現象、子供が産まれます。

その子は言霊タという子供で、同時にタという発声音とタという心をもった子供となります。

そこで、子音タは宇宙がそのまま現象として現われたというのに最もふさわしい姿であり、その心持ちにあるものという事が出来ます。

子音タの世界は父母とは独立した世界として成立しました。ここから世界がそのまま現象として現われるという感じのものは全てタと言うことができることになります。

大事忍男は事の始めの全体とその塞がりと開放の始めを表現することができるようになりました。しかしここではアの感情次元の選択ですので、他の次元であるウオエの欲望、知識、智恵に関する表現には至りません。

つまり、父韻が母音と結ばれるといっても二つの以上の母音と結ばれることはできません。先天の実在世界内では母音世界は全体的な統体としてありましたが、人間性能の後天世界では四つの次元世界になっています。

このことは八つの意思意図の時間の現れも、後天人間世界では八通りになってまず現れるということになります。

ここ「1-大事忍男(おおごとおしを)の神。言霊タ。」の項目では父韻チ( T )と結びついた言霊タの世界としてしか表出されません。他の母音世界である T +u、o、e、とは タ以外の表現としてしか自らを表出できなくなってしまっています。それが後に、言霊ツ、ト、テ、となっていき、言霊元素、心の元素の一つ一つの要素になっていきます。

その代わり独自性を持った子音タが誕生しました。子音タは父韻チの世界と母音アの世界の両方を引き継いでいきます。同時にその心の腹圧圧力因と呼気の全面的なブロックも引き継がれます。

イ、)大事忍男(おおごとおしを)の動きだした心の意図、意思・・・先天からの一塊の全体をそのまま全部押し出してくる。

ロ、)父韻チ( T )・・・「精神宇宙全体がそのまま後天の現象となって現われ出る力動韻」。

ハ、)父韻チの呼気・・・安定した全面的なブロック

ニ、)父韻の舌口蓋側の呼気・・・呼気の流通がないので口腔に圧力が溜まり脳髄を押し上げる。

ホ、)父韻の舌口蓋側に対応する心・・・圧力感の蓄積を感じていく、ブロックが解けた時には一挙に解消の感じを受ける。TTTのブロック感を鼓動と同期させると、時の進行蓄積感を得る。

ヘ、)父韻の胸腹側の呼気・・・腹に力が入る。

ト、)父韻胸腹側に対応するこころの腹( 心の腹圧)・・・一斉に動く、一気に全体がでてくる、全体が閉ざされている、相手を尋ねる前に戸の前に立つ、戸を開ける。

チ、)呼気チ( T )の実在に対応する精神内容・・・全体的なブロック感、または一挙に与えられる解放感。

リ、)母音世界ア・・・喜怒哀楽の感情。全面的なブロックの感情。

ヌ、)母音世界アのこころ・・・まとまった全体的な感情、情動、気高いこころ。

ル、)大事忍男の動きだした心の意図、意思が両者を掛け持つ様子・・・一望の元に一挙に得よう解決しようとする。

ヲ、)おのれの心の領域、津島・・・心の意図をイメージ化する

そしてこれらの要素にかかわる人間事象にタと付く名前が与えられるようになりました。

言霊子音タは言葉として田(た)・竹(たけ)・滝(たる)・足(たる)・貯(たくわえる)・助(たすける)・叩(おし)・佇(たたずむ)・戦(たたかう)等に使われます。

以上の実在の理由から子音のタは<無い>という発音にもならず無いの意味内容も持てないのです。

しかし子音タは<無い>と関係ないのではなく、ナイと名付ける第一歩なのです。それは先天からの全体をイメージに乗せる始めです。ですので当然<無い>という主体側の意図の始めの全体として<無い>を示したものです。ですが子音タでは<無い>の心の表現にはなっていかないということです。

無い。何故、<無い>というか。➄。ト。

●●●オノゴロ島まで戻れば、

オノゴロ島から津島の領域に持ち越されるものがでてきます。まずは何だか分からないものをイメージ化していきます。しかし<無い>に関する不明な全体像は内包しています。このあるのか無いのかまだ分からない状態は自ら<無い>という方向に向かって表現されなければ、自らを表すことはありません。

ここのオノゴロ島の領域に有るものは一塊の先天性です。後に無い、と名付けられるが今は分けの分からない直接に与えられたピカッとした光のようなものですが、これもその一つを取り上げてかくからこうなるので、実際は持続の流れですから、ストロボの連続になるといったらいいでしょうか。

先天内の予兆がオノゴロ島内の津島の領域に動きます。ここでは客観物質の物の移動ではなく作用反作用とか力の伝達以上のものとなって動きます。というのも自分の心の領域に乗るからです。

ここオノゴロ島にはその根底に意志の動因意図がありますので、それがまだはっきりしてはいないものの、その意志意図内容等がどうしたいものか、どうされたいものかの統体として一丸となっています。将来、数分の一秒後にはなにがどうして何で無い、のかという形になって現れてくる大本です。

そこで先天が心に移動してくる時にはここにその意図ができあがることになります。単純に視覚に何かが映りテレビを見ていても、そこには映像にかんする意図と映像を見ている方の意図が渾然一体となって隠れ備わっているのです。

後に現れる表現内容は多様ですが、ここでは、それらが言葉で示されるところから言葉の発生という方向に見ていくといいかと思います。無い、という言葉の発生を辿ることになります。

先天から持ち越されたのはオノゴロ島にできた【天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき】のその内容です。つまり全世界宇宙とそれを切り取る主体の心です。

このようにオノゴロ島には<無い>に関する先天性が乗り移りました。そしておのれの心締まり領域に現れたのが言霊タという全体です。

後天の現象の最初にまず言霊タが来て、先天の御中主の中身の高御産巣日のタと対応がとれています。山頂の高みに昇れば一堂の元に辺りが見渡せることになります。全体がターと見渡せるその始めの能動因が言霊タです。

-----------------------

言霊。

前回の言霊タの発生で見たごとく、日本でいう言霊は単語となった言葉の言霊を指す以前のこと、つまり単語ではなく、単音を言霊としています。単音の言霊は良い言葉とか悪い言葉とかの区別はありません。物質元素も良いとか悪い元素とか言えないようなものです。

単音それぞれに心の対応のする実在的な根拠があり、その心の要素が子音で三十二になるということです。この心の実在的な根拠は息からきます。息はいうまでもなく命の気です。命はイノチで言霊イの道のことです。イと言うのは神名で言えば伊耶那岐の大神で人の生きることの根源活動因となるもののことを言います。

父韻というのはこの根源活動因の現れとなっているもので、生きること息することのイの単音の活動に良いとか悪いとか言うのはもっての外です。

しかし、組み合わせ総合されて単語となり、文章となれば社会関係のなかで、強弱正反陰陽がでてきますから、それらのどちらかに与することによって利害効用などに善悪の現象ができます。

とはいってもそれは後天の現象となったものですから、元々は善悪良い悪いの意味合いはまるで無いもので、言霊とは単音の人のこころそのものの表現ですので、あまり早とちりなさらないように、、、。

現象としてあることあったことをあげつらうようになると、利害関係を元とする善悪視点の相違でしかないのに固執するようになります。冷静にまずは元に戻るようにしてみましょう。

-----------------------------

2 - 石土毘古(いはつちひこ)の神、 言霊ト。

石土毘古の神の石は五十葉(いは)で五十音言霊、土は培うで育てる意、即ち八つの父韻の働きを示します。毘古は主体を表わします。これだけでは何の事だか明らかではありませんが、言霊がタトヨ……と続く過程は島名で津島と教えられています。先天構造が活動を起し、現象が生れて来ますが、津島と呼ばれる過程で先天の活動が実際に何を意図しているかを一つのイメージにまとめる働きをします。言霊タトヨと続く働きを右の津島という島の意味と重ねてみますと次のような事が考えられて来ます。

先天構造の十七言霊が活動を起し、その先天宇宙が言霊子音ターと後天現象として姿を現わしました。けれどそれは先天活動そのものであり、意識の及ばぬ領域のことですから、ターと現われても何の事だか分りません。父韻はどんな並びになっているか、母音はウオアエ四次元の中の何の次元の活動か、を先ず調べる必要があります。そのため過去の経験の記憶を呼び覚(さ)ますこととなります。次元オの宇宙の中から五十音図の横の列の十音の並び即ち言霊トが、また縦の列のイ段を除いた四つの母音の並び即ち言霊ヨが思い起され、参照比較されます。それによって先天活動の実際の意図は八父韻の如何なる並びか、母音に於いてはどの次元の意図か、が測られます。

無いと名付けられる以前の無いの全体が現れます。意識の心の中に産まれる始めなので、自分が無いと意識しているのでもないし意識していないでもないが、意識の対象があるような感じを受けているところです。

それは心の奥で有るでもなしないでも無い相手対象に向かう、意志のうごめきの起動を感じることです。ひと度意志のうごめきが立ち上がりますと、将来名付けられる言葉、ここでは無いですが何でもよいものの内容が吟味されます。

まだない言葉の内容をどう吟味するのかといえば、先天のオノゴロ島の領域に全宇宙世界が既に詰まっていますので、精神世界の領域内ではできるのです。

うごめきの立ち上がりは主体側の意志を受けたものと、主体側の意志の発する側とがあります。2 番と3 番になります。

何か分からないものに主体側の心は全精神宇宙を相手にするものとして向かっていきます。ものに向かう精神の動きは八つしかありませんので、この八つで人間世界の宇宙を全部扱うことになります。

この八つの動き方の違いで、無いというのが物形としてないのか、動きとして無いのか、停止するものとしてないのか、等々の無いの違いをあらわすことになります。

言霊トが無い、ない、という言葉に使用されない理由。

引き受けたイメージを明瞭化していくにはそれなりの手順が必要です。まず全体が現れた後には、その構成が明かされなくはなりません。個別的に何々となる前に個別を可能にする要素全体が揃っていることです。この要素全体とは前段の分けの分からないうごめきの全体のことです。言霊で言えばタからトの領域にきたことになります。

毘古(ひこ)は男性主体側、比売(ひめ)は女性客体側になります。

石土毘古(いはつちひこ)の神は、大事忍男(おおごとおしを)の神の内容の五十音図のどれか一つで現されますから、個別化が指定される以前の全体が五十あることをしめしますが、同時に、主体側の活動がそこに培われるということでもあります。

主体側の活動は八つの父韻のことですから、イ段で代表される父韻の働きが出発点の主体側イと到着点の客体側ヰで五十音図のイ段横列の十の戸を構成しているということになります。

石土毘古の言霊はト(T+O)ですから、トの現れ出てきた所以は、言霊トの先天の意図とその働きが父韻、母音にかかわうことによって起こります。ここの一連の過程を禊祓・身削ぎ・全体という一塊から自らの意図に沿った個別の現象を削ぎけずりだすこと・といいます。全体から真の個別自分を現すことです。(個人的な水浴び行ではありません。)

イ、)石土毘古の動きだした心の意図、意思・・・一塊の全体を五十の要素による全体とすることです。まず主体側の活動として時所位の整理して規則立たせます。主体側の出発点のイと到達点のヰとその中間の八つの全部で十の位置づけを行います。つまりあかさたなで横列の並ぶ五十音図は一つだけでなく、心の性能次元に応じて並び方が代わります。(学校で教わるのはその一つで、モーゼ来朝の折りにも彼に授けられました。)

ロ、)父韻チ( T )・・・「精神宇宙全体がそのまま後天の現象となって現われ出る力動韻」。言霊チと同じ子音頭です。

ハ、)父韻チの呼気・・・安定した全面的なブロック

ニ、)父韻の舌口蓋側の呼気・・・呼気の流通がないので口腔に圧力が溜まり脳髄を押し上げる。

ホ、)父韻の舌口蓋側に対応する心・・・圧力感の蓄積を感じていく、ブロックが解けた時には一挙に解消の感じを受ける。TTTのブロック感を鼓動と同期させると、時の進行蓄積感を得る。

ヘ、)父韻の胸腹側の呼気・・・腹に力が入る。

ト、)父韻胸腹側に対応するこころの腹( 心の腹圧)・・・一斉に動く、一気に全体がでてくる、全体が閉ざされている、十の扉がある、相手を尋ねる前に戸の前に立つ、戸を開ける。

チ、)呼気チ( T )の実在に対応する精神内容・・・全体的なブロック感、または一挙に与えられる解放感。

リ、)母音世界オ・・・経験過去秩序の反省、知識概念整理の世界。

ヌ、)母音世界オのこころ・・・まとまった全体的な知識、経験のこころ。

ル、)石土毘古の動きだした心の意図、意思が両者を掛け持つ父韻チ(T)と母音(O)から子音(T+O→TO・ト)が創出される様子子音の体・発音と霊・こころ・・・経験的なまとまった見通しや意図や知識の実在を得る心に成る。

ヲ、)おのれの心の領域、津島・・・心の意図をイメージ化する

ここから、言霊トは十(と)・戸(と)・解(とく)・時(とき)・富(とみ)・年(とし)・説(とく)等に使われていきます。

言霊トは経験秩序記憶概念の前に立ちいわば目前の戸を一気に押し開けることですから、<無い>という言葉には使用されません。

しかし子音トは<無い>と関係ないのではなく、開ける扉の実体がない時には<無い>となるものですが、トと発声される時にはそういうわけにはいきません。

人の心は五十の言霊で表現されますから、この五十が全部揃はなくてはなりません。これを無視するのが思いつきや考えただけで直ぐ出てくる意見などになっていきます。五十の戸を全部通過した後で全体の時間的な位置と、個別的な主張の位置が決まります。勝手に偶然に開けた戸から見たものだけを押し出すわけにはいきません。

無い。何故、<無い>というか。➅。ヨ。

3 - 石巣比売(いはすひめ)の神。言霊ヨ。

石巣比売の神の石(いは)は五十音言霊、巣はその住家の意で、現象子音がそこから生まれて来る元の宇宙、即ち母音の事、比売は姫で客体を指しています。

人が<無い>を考える時、その言葉を発する時には、<無い>を抽象的な概念として使用しているだけではありません。それはこの段階ではまだイメージの形成過程にありますが人の性能の次元に対応してもいるものです。2-では全体の中の時間的な位置づけが決まりましたが、ここでは後に<無い>で表される心の次元空間場所的な位置づけが明かされます。

心は四つの次元空間があり、ウオエアのどの次元の<無い>なのかが選択されます。

言霊ヨが無い、ない、という言葉に使用されない理由。

当初の全体的な分けの分からない塊だったものがそれぞれ時空の位置を得ていきました。しかしここでの言霊はヨで、<無い>のこの世におけるイメージ内の存在位置を明かすものです。つまり他の次元にはいないと主張する代わりに、この次元での<無い>となると主張するのです。

石巣比売の言霊はヨですから、ヨの現れ出てきた所以は、

イ、)石巣比売の動きだした心の意図、意思・・・石は五十音言霊。巣は五十音を以って作られた巣の如きもので五十音言霊図。比売は「秘め」で言霊図の中に秘められたもの、この場合は言霊ヨで、世の中を構成している四つの母音性能を指します。世の中は言霊ウ(五官感覚に基づく欲望性能、その根本性能が人間社会に築くものは物質的産業・経済機構)、言霊オ(人間の経験知、その性能が社会化したものが広くは学問、物質的精神的科学)、言霊ア(人間の感情性能、その社会化現象は宗教、芸術)、そして最後の四番目の性能、言霊エ(人間の実践智性、その社会に於ける活動は政治、道徳)。以上の四性能によって築かれた四種類の社会を総合して世(四)の中と言います。

先天の全体が精神上のイメージに乗ってきました。その一端は時間方面から(石土毘古の時間方面から)、他の一端は石巣比売の空間次元の方面から現れることになります。それぞれの端があっても結ぶ行為がなければなにも現れませんから、当然この次の神さんは大戸日別(おおとひわけ)の神( 言霊ツ)となりツーっと両者を取り持つことになります。

ここでは大事忍男の全体から自らを実在次元世界に分けて出て来られる出自を主張していくのが石巣比売となります。自らの出所は四つの次元宇宙しかありませんから、この四つの内一つを選択するようになります。その四つの世界(世)に父韻は向かっていきます。

ロ、)父韻イ( Y )・・・「父韻チの瞬間力動がそのまま持続して行く力動韻」。父韻チと裏腹の関係にあります。全体的な端緒が父韻チにありましたが、父韻イはそれが引き継がれます。(Y+O→YO・ヨ)

ハ、)父韻イ( Y )の呼気・・・や行のイです。チと同様全面的に塞がれています。チのように口腔口蓋に溜まり溜め込むことことがありませんが、しかし腹の底に留まるものがあります。底にありますが既に行く方向が決まっていて出口目指して一直線に突進していく感じです。。

ニ、)父韻の舌口蓋側の呼気・・・呼気の流通がなく塞がれていますが、口腔に溜め込まれずにいるのは腹側からの呼気の発動される目標にもなってるからです。舌口腔側のイ(Y)の呼気は胸腹側の内部の呼気の直接の出発点のように感じます。

ホ、)父韻の舌口蓋側に対応する心・・・胸腹側からの呼気の目標になっている感じは口から出て行く時には一つの区切りを付けるように思われます。

ヘ、)父韻の胸腹側の呼気・・・腹圧因がはらの底に溜まっていて出口口蓋とが一直線で結ばれています。

ト、)父韻胸腹側に対応するこころの腹( 心の腹圧)・・・心の精神内容が一挙に出てきて猪の突進のようにじぞくし心の表面に突き刺さるように入っていきます。

チ、)呼気ヨ( YO )の実在に対応する精神内容・・・対応する内容が胸腹から来る場合、発音発生は口から出るけれど、口にある状況と腹内にある状況が違う次元にあることを示す。

舌口からの場合、胸腹から出た状況が持続していく。

リ、)母音世界オ・・・経験過去秩序の反省、記憶や知識概念整理の世界。

ヌ、)母音世界オのこころ・・・知識、経験のこころ。

ル、)石巣比売の動きだした心の意図、意思が父母を掛け持ち父韻イ( Y )と母音(O)から子音 Y +O→YO・ヨが創出される様子や子音の体・発音と霊・こころ・・・石巣比売の意図は自分の次元世界を知ってもらい表出することです。そこで父韻イが経験記憶知識の次元世界と結ばれました。そうするとそこには次元そのものを現す言葉の世が現れ、人のよは四つの次元世界ですから四つあることを四とした言葉や、次元の相違を示す言葉、欲(よく)・夜(よる)・嫁(よめ)・横(よこ)・酔(よう)などが現れました。

ヲ、)おのれの心の領域、津島・・・心の意図をイメージ化する

経験的なまとまった見通しや意図や知識のイメージ段階です。それらの実在を得る心に成るまでは残りの言霊を全部一周しなければなりません。

言霊 ヨは経験秩序記憶概念の前に立ちいわば基底にあり、根底にあるものが一気に出口を目指したり、根底と出口表面が直結している感覚ですから、<無い>という言葉には使用されません。

しかし子音ヨは<無い>と関係ないのではなく、根底にあるものが表面出口を目指しますがその出口がない時には<無い>となるものです。普通にヨと発声される時にはそういうわけにはいきません。

●●●●●

無い。何故、<無い>というか。➆。ツ。

4 -大戸日別の神・言霊ツ

大戸日別の神の大戸とは、生れ出て来る二番目の神、石土毘古(いはつちひこ)の神・言霊トの示す言霊五十音図の横のイ・チイキミシリヒニ・ヰの八父韻によって構成されている戸(と)のことです。そこから父韻である霊(日)が離れて出て来る(別)働き(神)ということ。何処に向って出て来るか、と言いますと、第三番目に生れて来る石巣比売の神・言霊ヨ、即ち五十音言霊図の縦の五母音の中のウオアエの四母音に向って、ということです。心の先天構造が活動して、父韻と母音が結び付いて現象子音を生みます。

大戸日別とは大いなる戸(と)即ち言霊図の母音・八父韻・半母音計十言霊の横の列の(と)戸を通して先天の意図(日)である父韻の並び方が調べられ、その意図が現実に何を志しているか、が明らかとなり、「ツー」と姿を現わして来る姿であります。

と申しましてもこれは先天構造内部のことで、人間の意識では認識出来ません。そこで現象界にバトン・タッチされて、先天の動きと同じような動きが繰り返されて起こり、その中から実際の意図が何であるか、の検討が行われます。未だ何だか分らない意図が石土毘古の神の十の戸を通り、石巣比売の神である四つの母音の中のどれと結び付くか、に向って大戸日別の神・言霊ツと進んで行く動きであります。

言霊ツが無い、ない、という言葉に使用されない理由。

時空、主客と一口で言ってしまいますが、どちらか片方だけがあっても現実となりません。ところが、時間と空間、主体側と客体側の両方が揃っていても現実にはならないのです。その両者間を結びつけ介在して、三位一体とするものが必要です。古事記冒頭の三神のことです。その実体は父韻の働きです。古事記がキリスト教の生みの親となっているところです。(まもなく証明されるでしょう。余談)

しかしそう言っただけでは充分ではありません。

ウオの欲望感情知識記憶概念次元は時空に制御される、

アの感情宗教芸術次元は時空の束縛が無い、

イエ智恵の選択創造行為次元では時空は自分が造るもの、という人間性能次元での違いを考慮する必要があります。

<無い>のイメージが徐々に条件を満たしつつ了解できる<無い>に向かっていきます。前段階までで<無い>の時空での位置が決まりました。どういう次元のなにに属する、あるいは何を言いたい<無い>なのかの全体位置が出てきました。

大戸日別(おおとひわけ)の神、言霊ツですから、ツの現れ出てきた所以は、

大戸日別の言霊はツ(T+U)ですから、ツの現れ出てきた所以は、言霊ツの先天の意図とその働きが父韻、母音にかかわうことによって起こります。

イ、)大戸日別の動きだした心の意図、意思・・・大戸とは人間性能、精神次元の四つのそれぞれのこと分けることで、五十音図の横列、母音・父韻・半母音の十の言霊の塊をいいます。人の性能次元意図によって言霊の配列が変化します。学校で教わるあかさたな配列は欲望次元の性能を示す配列です。大戸日別は自らの実現に適した配列を捜します。

ロ、)父韻チ( T )・・・「精神宇宙全体がそのまま後天の現象となって現われ出る力動韻」。大戸日別は言霊ツですから父韻チ(T )+UでTU。

ハ、)父韻チの呼気・・・安定した全面的なブロック。

ニ、)父韻の舌口蓋側の呼気・・・タ行は全部共通。

ホ、)父韻の舌口蓋側に対応する心・・・ペタッと相手対象にくっつくこころ。

ヘ、)父韻の胸腹側の呼気・・・ツの胸腹の腹圧は五感覚上身に近くのものに付く。高く遠くにあるものは遠慮するようで、呼気の発出は遠くに及ばない。

ト、)父韻胸腹側に対応するこころの腹( 心の腹圧)・・・心の腹圧は腹や胸の内の中だけでつっと寄りついて解決しようとするようなこころ持ちにある。

チ、)呼気ツ( TU )の実在に対応する精神内要・・・

リ、)母音世界ウ・・・五感感覚の欲望本能の世界。人間の幼稚な即今獲得を目指す欲望充足の世界。産業経済活動などがでてくる。

ヌ、)母音世界ウのこころ・・・充実したうごめく胎動の兆しの心。言霊ウは総体全体のウと欲望次元のウと二つにとれますが、その心持ちは同じです。

ル、)大戸日別の動きだした心の意図、意思が父母を掛け持ち父韻チ( T )と母音( U)から子音 T +U→TU・ツが創出される様子や子音の体、発音と霊、こころ・・・大戸日別は心の次元分けを目指して自己表出の準備をします。<無い>というのを欲望次元の<無い>にするのか、知識次元か、選択次元か、感情次元かにする為の準備です。哲学思想問題の存在論だとか、存在と無だとかいうのは単に概念次元での<無い>を扱うだけのことですが、その記述の中には別次元の<無い>が混じっているのに気づいていません。

大戸日別のツはピタッと相手対象に貼り付く心持ちですが、ウの言霊は相手を知的に分析整理することがなく、欲望の直接的な充足が主ですから、相手に付く心持ちといっても相手を概念としては扱いません。ついばむ、つつく、つく、つかう等相手にツーッとくっついた姿となっています。

ヲ、)おのれの心の領域、津島、心の意図をイメージ化し、現象して来る精神宇宙・・・

にあります。

言霊ツは津(つ)・月(つき)・附(つき)・突(つく)・次(つぐ)・啄(ついばむ)・杖(つえ)・使(つかう)・仕(つかえる)・土(つち)等に用いられます。

言霊 ツ は欲望実現の直接的な得る得ない、欲しい欲しくないの世界です。言霊ウの欲望世界はあるものを今手にしてることだけが意図したものとなっています。言霊ツがツとでてくる時には欲望の動きを示しますから<無い>という言葉の意味を与えることはできません。

しかし子音ツは<無い>と関係ないのではなく、ツの動きのない時は<無い>となるでしょうが、ツという時には常に相手対象があるのでツを<無い>の意味に用いることはありません。

無い。何故、<無い>というか。

五千年以上前に完璧に解明されていたこころとは何か、言葉とは何かの問題を、現代に蘇らせる積りで『無い。何故、<無い>というか。』のシリーズを書いていましたが、そう簡単ではないですね。

現代までの名前の売れた思想家哲学者宗教家学者達をものともせず、古事記という強い味方を得て勝手なことを書いてきました。しかしうまくいきません。数千年間の間に与えられた人間思考行為の枠を出ていませんでした。

古事記の思想は心の原論ですから上手に利用すればそこいら辺の学者や思想家など相手にならないほどのものですが、やはり利用する人間の側に問題があります。

理解できないとか間違って理解しているとかは、別にたいした問題ではありません。この世の思想は誰のものであろうともともと逸脱したレールの上に築かれているものです。概念に頼った思想で頭を操作していくもので、そのように習慣付けられているからです。

とはいえやはり既成の枠というものは強いものです。タ-ト-ヨ-ツと書いてきましたが、自分の頭を使って考え出したものがどうしてもでてきます。

普通の概念思想の世界ならば自分の頭で考えたものなら大変結構なものとなり威張れるものですが、既に解明されている心の原理からすればやさしい微笑みが返ってくるだけですよね、古代大和の伊耶那岐さん。

お疲れさま。

---------------------------------

---------------------------------

以下引用。

-----------------------------------

言霊 手当たり次第に勉強しなさい

よく言葉の学問ってねどうやって学べば良いか聞かれるんですよ。コトタマの学問って言うのはね、まだほんとに決まってから30年位しか経っていない。

私の先生が「古事記解義言霊百神」ていう本を出されたのが昭和43年でございますから、まだ30年ちょっと位しか経ってございません。

何処の本屋さんだってむこうから進んで出版してあげるなどという世の中になっておりませんから、こちらから頼み込んで出版されるという時代ですから、どういうように学問をしたらとのことに、こういうようになされませとはっきりとお答えするのはなかなか難しいんですけど、手当たり次第に勉強しなさいって言うのが本音なんです。

で、判んない所は手当たり次第に質問して下さいということなんです。それはこの本の一番最後にある、著者との一問一答に活路を見出して下さいというのがこれ私の本音なんです。(先生が逝去されましたので現在は御質問を受付ておりません。)

1999.jul.講習会/コトタマノマナビ(言霊学随想)より。

-----ここまで引用でした。------------------------

----------------------------------

次回以降の出発点は以下の通り。

伊耶那岐の神。

言霊イ(い)の光の力動が射(さ)し示す名前((な)の実相実体内容となる心の霊気(き)の働き。

太初に言あり、言は人の心とともにあり、言は人の心なりき。

この言は太初に人の心とともに在り、

萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。

之に生命あり、この生命は人の光なりき。

中止します。