00 ここを以ちて。黄泉国からの帰還。

ここを以ちて

古事記には「ここに、ここを以ちて」という言い方が多くあります。原理の全体がイマココの一瞬を百神を用いて説明したものなのに、その中にここ、こことそれぞれの時処位の違いや一時停止での形の違いが出てきています。一万年前に見抜かれていた実に細かい観察眼です。

ここからは禊祓の準備に入ります。今までの一連の経過とのここからの違いは何になるでしょうか。

それは客観世界の実在を、恣意的な善悪好き嫌いから見ていた無自覚な状態を脱した、ここからはということになります。

黄泉国の客観世界の実在は、湯水のように湧き出でる自然の性(さが)の無自覚な現れ、自然の坂を転がるのと同じであったことを承認したことです。人は言うなればその性(さが)の上に乗って自己主張なり創造を重ねてきたのです。

ここを以ちて、というのは一つの転換点の現れとなったものですが、それ以前の経過の全部の現われつまり、その人の主体ばかりでなく、先天構造から始まりそれを吾の眼として客体に付けて結果としてきた全体で、それを自然の性(さが)として現わしてきたのだと気付きました。

自然に坂を転がる運動ですからその客観性には善悪好き嫌いを持ち込めません。客観世界は客観の主観世界には主体の原理がそれぞれあると知ったのです。

ところがそれを知ること自体が自然の性、つまり自覚に至ることが自然の性であることを知ります。そして主体には主体の整理運用法があることを探究するに到ります。次いで

ここを以ちて、 伊耶那岐の大神、 の詔りたまひしくとなります。

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