[運用 38] 大禍津日(おほまがつひ)の神

大禍津日の神

八十禍津日の神が、伊耶那岐の大神の禊祓の行法に於ける菅麻音図のア段(感情性能)の意義・内容の確認でありましたが、大禍津日の神は禊祓におけるイ段(意志性能)の意義・内容の確認であります。言霊イから人間の意志が発生しますが、意志は現象とはなりません。意志だけで禊祓はできません。また言霊イの次元には言霊原理が存在します。この原理は禊祓実践の基礎原理でありますが、禊祓を実行するに当り「基礎原理はこういうものだよ」といくら詳しく説明したとて、それで禊祓が遂行されるものではありません。言霊原理は偉大な法則です。けれどそれだけでは禊祓をするのに適当ではありません。そこで大禍(おほまが)となります。しかしその原理があるからこそ、伊耶那岐の大神は阿波岐原の中つ瀬に入って禊祓が実行可能となるのです。中つ瀬に於て光の言葉(日)に渡され、禊祓は完成される事になります。大禍に続く「津日」が行われます。言霊イの次元の意志の法則である言霊原理は、それだけでは禊祓の実践には不適当であるが、その原理を中つ瀬のオウエの三次元に於て活用する事で立派な役を果すこととなる、という確認が行われました。この確認の働きを大禍津日の神と呼びます。

この二神は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。

八十禍津日の神と大禍津日の神とは、伊耶那岐の大神がかの黄泉国という穢い限りの国に行ったときの汚垢(けがれ)から生まれた神である、と文庫本「古事記」の訳注に見えます。この解釈では禊祓の意味が見えて来ません。そこで少々見方を変えて検討することとしましょう。

伊耶那岐の命が妻神のいる黄泉国へ出て行き、そこで体験した黄泉国の文化はどんなものだったでしょうか。その文化は物事を自分の外に見て、そこに起る現象を観察し、現象相互の関係を調べて行く研究・学問の文化でありました。その学問では、今までに世間で真理だと思われて来た一つの学問の論理を取り上げ、それに新たに発見した新事実を披露し、今までの学問では新事実を包含した説明は成立しない事を指摘して、次に今までの学問の主張と新しい事実との双方を同時に成立させる事が出来る論理を発表して新しい真理だと主張します。この様に正反合の三角形型△の思考の積み重ねによって学問の発達を計るやり方であります。

客観的現象世界探究のこの学問では、他人の説の不足を指摘し、その上に自説を打ち立てる競争原理が成立ち、自我主張、弱肉強食そのものの生存競争世界が現出します。伊耶那岐の命は黄泉国のこの様相を見て、伊耶那美の命の身体に「蛆(うじ)たかれころろきて」居る様に驚いて高天原に逃げ帰って来ました。この事によって伊耶那岐の命は、黄泉国で発見・主張されている文化は不調和で穢いものではあるが、世界人類文明を創造する為には、これらの黄泉国の諸文化を摂取し、言霊原理の光に照らして、新しい生命を与える手段を完成しなければならないと考え、禊祓を始めたのであります。

その結果として種々雑多な黄泉国の文化を摂取して行くのにアオウエイ五次元の性能の中で、アとイの次元の性能は禊祓の基礎とし(イ・言霊原理)、また下準備とする(ア・実相を明らかにする)のが適当である事が分かり、八十禍津日、大禍津日の二神の働きを確認する事が出来たのであります。「この二神は、かの穢き繁き国に到りたまひし時の、汚垢によりて成りませる神なり」の意味は以上の様なことであります。