04- 天の御中主(あめのみなかぬし)の神

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「古事記と言霊」講座 その四- <第百六十三号>平成十四年一月号

謹賀新年

前号にて古事記神話のはじめの章「天地(あめつち)のはじめ」についてお話しました。天地とは普通言う所の眼前に展開している宇宙空間についてではなく、人間が心の内を顧みる時、心の内に展開している精神宇宙のことを言っているのだという事でありました。そしてその心の宇宙の「はじめ」とは、心の宇宙の中で何事かが起ろうとしている時の事であり、それは常に「今」であり、その処は常に「此処」である、とお話をいたしました。話を先に進めます。

高天原

この章の中の高天原とは簡単に心の宇宙の何もない広々とした領域の事です。透き通っていて清らかな大きい心の宇宙の事であります。「古事記と言霊」では、この他に高天原という言葉に二通りの内容がある事を述べておりますが、この事についてはその都度説明することにして話を更に先に進めます。

成りませる神の名(みな)は、

この文章をそのまま読みますと、生れて来た神の名前はという事になります。これだけでは単なる神様のおとぎ話で終りますが、古事記の神話が言霊学の教科書だという事が分かった今は、「成りませる」は同時に「鳴りませる」と天の御中主の神という神名が指月の指として指し示している言霊の音として受け取ることも出来ます。

天の御中主(あめのみなかぬし)の神

言霊ウ。天の御中主の神という神名のそのままの意味は心の宇宙の(天の)真中にいる(御中)主人公である(主)神という事になります。そしてその神名が指し示す言霊はウと言霊学で記されます。「あゝ、そうか」と簡単に受け取ってしまえば、それで事は終りとなります。けれど私がこうお話しますと、聞いて下さった人の中には「宇宙の中心にいる主人公の神」とはどんな神なのか、またそれが言霊ウである理由、言霊ウでなければならない理由は何なのか、という疑問を持つ方が必ずいらっしゃいます。そして質問される方も多いのです。そこで今回の講座では、今まで簡単にお話して来たこの二つの事柄について詳細に説明させて頂く事といたします。と申しますのも、この聞き流してしまえばそれで何事もないように思える事柄が、実は言霊布斗麻邇の学を勉強する上で最も重要な事を示唆しているからであります。それは何か。

言霊学といいますのは、人の心を内にかえり見て、心の構造とその動きを研究し、学ぶ学問であります。眼前に展開する宇宙を研究する天文学や宇宙物理学等に於いては、そこに起る種々の現象を観察し、それ等多数の現象間の関連性を求め、そこに働いている法則を発見して行きます。更にその法則によってはまとめる事の出来ない他の現象を発見した時には、今まで正当と思われていた研究の基礎法則を御破算にして、今までの法則と新しい発見とが共に成立することが出来る新しい見地とその法則を発見しようと努力する事となります。そういう努力を弛(たゆ)まず積み上げて行く事によってその学問は一歩々々完成に近づいて行く事となります。

それ等の学問の初心者は先ずその学問の教科書を読み、先輩から指導を受け、種々の観察や実験によってその時までに発見された学問の成果が真実である事を学び、その上で自らもその学問の研究者として心新たにして新しい発見を目指して観察を続けます。その目的とは、今までの法則・学理では捕捉し、統合することが出来ない新現象の発見です。研究の対象を自らの外に見る学問研究は以上のようにして行われます。

上に述べました客観世界の研究方法に対して、主観世界である精神界の構造とその動きの究極の学問である言霊学の勉学方法は如何にあるべきでありましょうか。詳しく説明させて頂きます。

初めて言霊学に接する初心者の方は、当会発行の言霊学の書籍と会報を読んで頂き、また御理解し難い箇所については先輩の方に質問して言霊学の理論について大体の御理解を得て頂き度いと思います。ここまでは客観世界の学問の勉学と異なることはありません。客観世界の学問はこの理論の上での理解でその十中八九までは学問をマスターした事になると考えられます。けれど百パーセント内なる心の学問である言霊学では、これからが本番なのです。客観世界の学問では、従来の学問の成果をマスターすれば、次は自分なりにその学問の新しい分野への挑戦・探究が始まるでしょう。しかし言霊学のこれより本番となる勉強は全くそれと相違します。言霊学の勉学の対象は人間の心の内でありますから、勉学者にとって勉学の対象とは勉学者本人の心の内だけという事になります。他人の心の内を探っても、その真相を完全に把握することは出来ません。頼りに出来るのは自分自身の心だけです。

更に言霊学の勉学には客観世界研究の学問の手法を適用することが出来ない大きな理由があります。客体についての学問は眼前の現象の観察から始まります。ところが言霊学の始まりは、古事記の文章に見られますように「天地の初発の時……」と書き出しが人間の五官感覚では全然捉えることが出来ない、人間の心の先天構造の記述から始まっている事です。これは丁度物理学・化学の初心者にいきなり原子物理学という物質の先験構造の問題を出すようなもので、勉学者にとっては「とりつく島もない」問題だ、という事が出来ます。勉学者が初めに戸惑うのも無理はありません。

この様な事を理解しようとして、初心者がそれまでの学問のように「古事記にこう書いてあるが、何故だ」という疑問を起こして、今まで自分が勉強して来た経験知識を総動員して理解しようとする事は殆ど無意味に近い事なのです。何故なら、現代の原子物理学は人類が「物とは何か」の疑問を起こし、数千年という歳月をかけ、数えることも出来ない大勢の科学研究者の血のにじむような研究努力の結果もたらされた成果であるように、古事記の神話に呪示される言霊学の記述も、科学研究と同様の多数の人が長い年月をかけ試行錯誤の結果、約八千年乃至一万年前に完成した人間の心の一切を解明した学問であるからです。若し現代人がこの言霊学の命題に「何故」の疑問を起こし、自分なりの結論を出そうとしたら、その人の一生はおろか、数千年の歳月を要することとなりましょう。

科学研究の「何故」の疑問が通用しないとしたら、どんな勉強方法があるのでしょうか。さいわい心とは何時も自分の中にあるものです。自分から離れません。ですから人がそれを意識するとしないとに関らず、生れた時から現在まで心の現象の数限りない経験を持っています。そしてそれ等経験を記憶として所有しています。それ等の経験は、科学の観察の機械や材料とは違い、何時も何処でもついて廻っています。言霊学の本を読むに当り、その記述の幾分かは理解できる筈です。また理解には学問の先輩に聞くことも出来ます。そして言霊学というのが人間の心の先天と後天の構造とその働きを解明した学問であるという事が分かったら、また分からない部分はそのままにして置いて、次に申上げる事を始める事であります。

言霊学の勉学者が自分の習い覚えた経験知識を土台として言霊学の書物の内容を解釈・理解することが出来ないとしたら、残る方法は唯一つしかありません。それは古事記の神話が呪示している言霊学の書の内容を心の鏡として、その鏡に自らの心の構造を映して行く事です。勿論初心者は言霊学の内容が真理であるか、否か、を確かめた訳ではありません。けれどそれが真か偽かかは別に、假に真実だとした上で、それを鏡として自らの心を顧みる事とするのです。ではどのように自分の心を見るのか、と申しますと、譬えば次のようにするのです。

古事記の神話は先にお話しましたように「天地の初発の時……」と始まります。としたら勉学者は自らの心に問うのです。「自分は天地の初発の時、と古事記が言っている心の宇宙(天地)を知っているか。またその何も存在しない心の宇宙に今、此処で何かが始まろうとする瞬間の時を『これだ』と把むことが出来るか」と。自分自身それは分かっている、と思う時はそれでよし、はっきり自覚出来ないと思われた時は、その事について如何にしたらよいか考えることとなります。

この様にして古事記の神話とその言霊学の解説書を鏡として自らの心を見つめ、分かった所、分からない所を区別しながら古事記神話の文章を先に進めて行き、分からぬ所は質問し、分かった所についても話し合いすることによって、自分自身の心が神話が呪示する構造の如き構造と動きをしている事が確認されて行きます。古事記神話に示される言霊学が確かに人間精神の全構造とその動きを解明しているのだ、という事を、生きた人である自分自身の心の実相を以て証明することとなります。

そんな廻りくどい方法で古事記神話の内容を理解するとしたら、どんな長い年月が必要となるのか、と戸惑う方もあろうかと思います。確かにこの方法で即座に言霊学全体をマスターするという訳には行きません。早い人で二・三年、遅い人では更に数年を要する事でしょう。けれど自らの心の全貌を隈なく知るという大事業の達成としてはそんなに長い年月とは言えないのではないでしょうか。先に示しました自分の従来積み重ねて来た経験知識で言霊学を理解しようとするならば、一生かかっても理解達成不可能である事と比べるなら、尚更の事であります。

ここで「自分自身の心を見る」という事について、もう一つ説明を加えさせて頂きましょう。この事は古事記の始まりの文章「天地の初発の時」にも関係する事なのでありますが、現代人は自らの心を見るという時、自らの心中に起って来た事を自らの経験知識を通して見、またそれを解釈することに馴れて、その現象をそのまま、即ち実相を見ることが出来なくなっています。例えば、他人の前で自分の事を飾って話す癖のある人が、反省して「自分を飾らず正直にしなければ」と心中に強く思ったとします。しかし或る時また嘘を言ってしまいました。「また癖が出てしまった。あんなに正直になろうと努力して来たのに」と後悔します。こうしてこの人は後悔の連続となります。癖を直そうとする自分が本当の自分で、自分を飾り嘘をつくのは「たまたま」癖が出てしまったのだ、と思います。「私という人間は嘘つきなのだ」とは決して思わず、思おうともしません。他人から「貴方は嘘つきだ」と言われたら、きっとその人を恨み憎む事でしょう。「自分は嘘つきだ」または「嘘をつく事がある」と率直に認めない限り、嘘つきは治りません。この「嘘つきだ」と率直に自分で認めること、これを「実相を見る」と言います。

前号でお話しましたように、現代人は実相である太陽を直接見ないで、月である経験知識やその概念に太陽の光を当て、その反射光によって物事を見ます。ですから物事を見る人の表現が十人十色とならざるを得ません。どうしたら物事の実相を常に見ることが出来るようになれるのでしょうか。それは古事記の「天地」または「天地の初発の時」を頭の中の理論的想像でなく、実際にそれを心中に内観し、直観し、実感する事に関係しています。

先に「天地の初発の時」即ち心の宇宙の中に何かが起ろうとする時とは「今」であり、場所としては「此処」である、とお話しました。今、と思う瞬間、今は次の今に移り変り、果しがありません。「今」は頭に画く事は出来ても、実際にこれを捕捉し、自覚することは仲々困難です。「今」を捉え得ないのですから、その今から見る物事の実相も仲々捉え得ない事となります。昔からその「今」を「これ」と捉えることが正当な宗教の目的であったと言えます。この「今」を古神道では中今と呼び、禅では「一念普(あま)ねく観ず無量劫、無量劫の事即ち今の如し」と言って、通常私達が言う「今」とは違うのだ、と区別しています。

そこで従来の宗教信仰の修行の手法を例にとって、「天地」また「天地の初発の時」即ち中今を自覚する方法を明らかにすることにします。

人はこの世に生れ、長ずるに従って種々の経験を積み、知識を身につけます(図参照)。更にその集められた経験知識の有機的構造を自我と意識します。するとその自我意識は自らの内容である経験知識でもって人や物事を判断し、批判し、それが真実だと思い込むようになります。このように物事に対する自我主張が強くなればなる程、見ている<真実>は真の姿からかけ離れたものになって行く事となるのです。実は人間は生れた時から物事の真実を見る「眼(まなこ)」を授かっているのであり、自我意識の経験知識は、その真実を見る<眼>にかける色眼鏡となるので、経験知識を増せば増す毎に、真実の<眼>にかける色眼鏡の数が増すことになります。物事の真相、実相の把握は困難となります。

この事に気付いた時、人はどうしたら真相を有りの侭に見る事が出来るようになるのでしょうか。それは簡単な事です。色眼鏡を外せばよいのです。習い覚えた経験知識を捨てればよい事です。しかし人間は一度覚えたものを捨て去ることは出来ません。出来なく造られています。ではどうすればよいか。今まで頼って来た経験知識の影響を少なくすることです。その影響を少なくする方法を宗教信仰が教えてくれます。

宗教が教える本来の自分に帰る道に二通り有ります。自力と他力です。先ず自力の方法から説明しましょう。

自力信仰の代表的なものに仏教禅宗があります。「父母未生以前の本来の面目」を求めること、即ち自分が生れた時から父母より受け継いだ性格、生れた後に身につけた経験知識を反省によって識別し、そのそれぞれの知識・性格を本来の自分ではないもの、と心の中で「ノー」と否定して行く修行です。身に付いた知識や性癖等は仲々離れて行くものではありません。それを毎日坐禅により、また日常の座臥に根気よく自己問答を繰返しながら否定して行きます。一度覚えた知識は忘れ去られるものではありません。しかし「今まで私はお前を頼みに生きて来た。しかしこれからは私自身が私の主人公でなければならないと知った。今までお世話になった。これからは私が必要とする時は声をかけるから、呼ばないのに私の頭を占領して私の口を無断で使うことはしないでくれ」と知識や性癖に語りかける事によって、それ等が勝手に出しゃばる事が少なくなって来ます。

この様な努力、反省を弛まなく続けて行き、ついにどんな知識や性癖も本人自身がそれを欲しない限り、勝手に頭脳を占領し、我物顔には動く事がなくなります。知識がなくなったのではありません。知識・癖が自己本体(これを禅では天真仏と呼びます)の従者、または道具としての位置に収まる時、それ等知識や癖によって構成されていた自我意識が自然に消えている事に気付きます。すると、本来生れた時から心の住家であった心の宇宙と自身との間の障壁が消え、自己の心の本体が宇宙そのものである事が自覚されます。この宇宙が即我であるその宇宙を禅は「空」と呼びます。自分が持っていたもの、見聞きしたもの、すべてが空であったと知ります。これを「色即是空」といいます。人は自分の本来である宇宙の目で物を見、宇宙の耳で物を聞く事となります。

この空なる目で物を見る時、物事は真実の姿を現前させます。万人が万人に同じように見える物事の実相を顕現します。これを「諸法実相」と仏教は呼んでいます。人々は真正面から物事を見、聞く事が出来ます。人の心はどんなに動いても、宇宙は動きません。動かない宇宙の目で見れば、自分が今動こうとする瞬間を目の当り知ることが出来ます。何故なら従来の私とは現象の私でした。動いている者が一瞬の今・此処を把握することは難しい事です。それが動かない宇宙である私からは動き出す瞬間を知る事は容易な事となります。「現在心不可得」ではなくなります。

次に他力の行を説明しましょう。自分自身が集め身につけた沢山の経験知識を心の中で識別し、これと問答することなど難しくて到底出来ないと思う方には、親鸞上人が「易行」と呼ぶ他力信仰の方がよいかも知れません。他力信仰といえば、浄土真宗の念仏か、またはキリスト教マタイ伝に説かれる信仰が代表的なものです。家の人や他人に対する自分の行いの矛盾を感じ、絶望を感じた時、自分自身が自己を反省し、自身を変えようと努力するのは自力信仰です。反対に、自分を変えることなど到底出来る業ではないと思い、この悪性の自分を助けてくれと仏にすがり、念仏するのは他力信仰です。念仏はしないでも、「この悪性の、自分でさえどうにもならないこの身を、生れてから今日までよくぞ大過なく生かさせて頂きました。有難う御座いました」と自分を包み育んで下さっている大きな力を感じて、それに掌を合わせ感謝の心を捧げる事、これも他力です。どんなに苦しい事、つらい事があっても「今・此処」に生きている事がどんなに有り難い事かを思い、自分のクヨクヨと心配する心を抑え、何事も自分を包み育てて下さる御力におまかせして心配しないで、感謝の心で暮らそうとする事、これが他力です。

「有難い」とは英語の「サンキュー」とは違います。「サンキュー」は自分に何かの利益を与えてくれた人に言う言葉です。「有難い」とは本来「今・此処に生きる事自体が有り得ない程の奇跡だ」の意味です。ですからつらくても苦しくても「有難い」という事です。「有難い」という言葉は人間の言葉ではなく、人を包み慈(いつく)しんで下さる大きな力に属す言葉なのです。ですから「有難い」と思う心は生命の光で満たされ、その気持ちで物事に向かえば、その物事は実相を顕現してくれます。「有難い」と思う時、人は時間・空間を超えた「今」にいる事となります。「有難い」と思う時、人は人の目から宇宙の目に移って見ている事となります。

以上、人が常なる今を自覚し、物事の実相そのままに見る事が出来る立場に立つための宗教信仰の自力と他力とについて簡単に説明しました。自力と他力とはこの様に修行の方法は違っても、行き着く観点は全く同じです。共に従来の「我」とは違う観点に立ち、広い広い心の宇宙を心とし、自らの生きる「今」を自覚し、その観点から物事の実相を見ることが出来るようになります。

説明をもう一つ付け加えておく事にしましょう。人が自らの修行によって自覚した、自らを包み慈しんでくださる大いなる力に対し「神」または「仏」という名で呼ぶとしたら、その大いなるものは宗教信仰の対象となる神・仏として崇敬されることとなります。これに言霊アと名付ける時は、言霊学が成立します。神または仏と命名すれば、人はそれに対して「有難いもの、とてつもなく大きいもの、何とも温かいもの、そして近づき得ないもの」という感じを持ち、これ以上は知的探究は及ばないもの、と思う事となります。これに対して言霊アと命名すれば、その言霊アの内臓する内容である言霊五十音の原理(言霊イ)と、その原理によって創造される人類文明の歴史に於ける日本人の聖の祖先、皇祖皇宗の御経綸という事に触れる機会を与えられる事となります。

これまで言霊学勉学についての二つの命題の中の、如何にして今・此処の中今を把握するか、物事の実相を見る方法を説明して来ました。もう一つの命題、天の御中主の神と五十音のウを結び付けたのは何故か、について説明しましょう。古事記の神話には天の御中主の神に始まり、五十番目の火の夜芸速男(ひのやぎはやを)の神まで、言霊五十音を指し示す神名が登場します。これ等五十神と五十音を如何にして結びつけたか、は一切その理由を述べておりません。言霊学成立上の大先輩である山越明将氏、小笠原孝次氏の著書にもその結び付きの理由は記されておらず、唯「天の御中主の神・言霊ウ……」と五十神と五十音が如何にも当然と言うが如く結ばれています。言霊学の学徒である私・著者もこれを踏襲いたしました。考えても見て下さい。五十神と五十音の結び付きは全部で幾通りあるか、まさに天文学的数字となる事でしょう。この作業を人間一代や二代で始めから終りまで再検討することなど不可能事に属します。多分私達日本人の祖先は遥か遠い昔、大勢の人が長い年月をかけて、物事の空相と実相の単位と五十音との結び付きに関して探究し、討論し、その結論として完成したのに違いありません。その正当性を証明する唯一の方法があります。言霊五十音の一つ一つをお分かり頂けた時の話ですが、その言霊を結び付けた日本語の単語を御覧になり、その言葉がその物事の意味・内容(実相)を見事に表現して誤る事がない、という事実であります。以上の事から古事記編纂以来、日本の皇室の中に、神話の五十神と日本語五十音との結び付きを記した記録が現存しており、言霊学復興を始められた明治天皇以来の諸先輩はその記録をそのまま踏襲したものと推察されます。

さて、古事記神話の説明を進めることにしましょう。

次に高御産巣日の神(たかみむすび)、次に神産巣日(かみむすび)の神。

言霊ア。ワ。広い何もない宇宙に何かが起る兆しとも謂うべき動きが始まりました。言霊ウです。次に人間のこれは何か、の思考が加わりますと、たちまち言霊ウの宇宙が剖判して言霊アと言霊ワの宇宙に分かれます。宇宙の剖判です。

(以下次号)