こころの原論。天照大御神の誕生。8

036 こころの原論。天照大御神の誕生。一は二を生じ。天の岩戸開き。 ◎

ここからは動きつつ、動いていること自体が考慮されます。

7。次に投げ棄つる左の御手の手纏(たまき)に成りませる神の名は、奥疎(おきさかる)の神。

・動く物を出発点へ寄せていく働き。出発した時の意識のまま出発点から離れていく。持続して保持していく。

当初の意識、今日は良い事があったので少々深めに酔ってみようとか、を保持持続させていくのでどの消費量においても当初の意識内に収める事ができる。

マラソンの行程相手、自分の条件等を把握しているのでそれに沿ってどの地点も通過できそう。

天照は、何が起きてもどんな事にでも対応できる規範を常時保持している。

8。次に奥津那芸佐毘古(おきつなぎさびこ)の神。

・動くものの内容を出発点に関係付けをもたらせることを助ける働きの力

当初の主張条件を保持していくのに必要なものは全て用意されていく事。酔い過ぎないように食べ物を取るとか時間をかけるとか。

ランナーは目標達成のために条件を全て考慮していく。靴の選び方とか時間配分とか。

天照は相手となるもの全体への用意が出来てどのような出来事、言葉にも対応できる。

9。次に奥津甲斐弁羅(かいべら)の神。

・動くものの表現を端初からみて終端に落着させる創造的な働きの力。当初の意図が結果として出て来る。

動いていき時間が経てばそれなりの結果が出て来るが、当初の意図が結果となって出て来るだろうが、外れ乱し別物になることはない。

10。次に投げ棄つる右の御手の手纏に成りませる神の名は、辺疎(へさかる)の神。

・動く物を終着点へ寄せていく働き。出発点の意識が到達点において完成する形として動きを終着点へ運ぶこと。7と対の関係。一升瓶の残量は当初の飲み始める理由内に納まっている。

ランナーは到達点を目指して当初の目的を運ぶようなもの。

天照は用意されている規範内に全てを収める事かできる。

11。次に辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神。

・動くものの内容を終着点に関係付けをもららせることを助ける働きの力。成るだろう姿を条件付ける。

8と対の関係。

12。次に辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神。

・動くものの表現を終端からみて端初に落着させる創造的な働きの力。成るだろう姿を端緒に送り返して修正矯正する。

9と対の関係。酒は飲み過ぎか大丈夫まだ足りないのかとか。

出発の衝動を終着点に持ち来らすだろうか。

天照なら現象の内容を端緒に送り返しても同意してもらえるかとか。

出発点と到達点(主観と客観、主体と客体、わたしとあなた、天と地)と中間にあるもの、介在するも、高天原の関係の取り方を書いてきました。酒の残量だとかランナーとか天照とかいってきて、それらが動き移動変化ずるような書き方もありました。

しかし、出発点も到達点も動かないように、ランナーは常に現在を走っているだけだし、酒は現在の量を示しているだけです。天照に当てはめるなら、天照はどかっと座ったまま動いていません。

それが動いたように見えるのは父韻の働きによります。

一は二を生ずるは古事記の冒頭百神を記述し終わった時に説明し終わるという関係ですが、ここではその途中だけを書いています。

そこで天照を連れ出さなければなりません。ここで最高に注意しなくてはならないのは、天照が出て来る様子です。

「其所2隱立1之天手力男神取2其御手1引出。」となっていて、天照が自分で歩いて出てきたのではありません。

古事記伝には、「○引出(ひきいだしまつる)。書紀には「引出奉レ出」とある。その一書には「天手力男神は磐戸の蔭にいて、戸を引き開けたので云々」【古語拾遺もそう書いている。】とある。ここでこの神の名の意味がはっきりする。戸を引き開けるにはもちろんだが、御手を取って引き出すにも、手の力が優れた神に担当させるのが当然だ。【延喜六年の日本紀竟宴で、阿刀春海の歌に「止己也美母、多乃之支美與止、奈利介留波、安女多知加良乎、多須介安利介利(とこやみも、たのしきみよと、なりけるは、あめたぢからお、たすけありけり)」】」とあります。

ここには肝心なこと、何故「力」が必要なのかが書いてありません。宣長さんは「当然」というだけです。確かにここを分析するのは至難の技で、人類の秘密を開ける事です。しかし、大昔にこれが分かった人がいたから、スメラミコトは現代まで権威を持ってこられたし、誰も理解していなくとも、この余韻の威力は世界的に通用し、その余韻の威力は衰えていないのです。ただ残念な事は余韻しかない事で、天皇家自身も何の理解もないことです。平民に成る平成を心がけるよりも八千年~一万年の大和の余韻の由来を古事記に探ってもらいたいところです。

「○引出(ひきいだしまつる)。」を解決できれば万歳ですが、まだお預けです。ちょっと先回りしてヒントは見つけました。八またのおろちの段です。

オロチというのは全然蛇のことではありません。父韻(TKMHRNYS)を母音に着けることです。各子音は父韻+母音で現されます。例えば、T+AのTAで(タ)、T+OのTOで(ト)、Y+OのYOで(ヨ)のように。

父韻は常に母音の前に、頭にあります。その逆は言葉になりません。おろちというのは父韻を降ろして地(オロチ)、母なる大地、母音の世界に着けるということです。ですので当然頭と尾は八つの父韻に対応しています。「頭を垂れ入れて」という部分です。

オロチは父韻を降ろして地に着ける、なんて言うと、疑問マークを通り越して×マークが付きそうですが、

垂れ入れるのが何故酒でなくてはいけないのかが人類の秘密です。

酒、さけ、というのはサの気、さの霊、さの言霊のことです。言霊サというのは、自分と相手との境にいてまさに相手になにかを伝えようとしている処の言霊です。国のさづちの神が配当されていて、つちは鼓膜を叩くつち、のことで主体から客体への境目で、相手を叩き起こすところ、自分の思いを現すところにいます。

石屋の段では引き出すという全体的な表現ですが、オロチの段ではさらに詳しくなっています。スサノオがオロチの頭を斬るというのはスの言霊とサの言霊を母音において接続するということです。そうすると、肥の河(霊ヒの通った言葉が交流できる流れ)が血(地、)に変わる、つまり相手に伝わった母音、子音、半母音の列の流れとなって理解されるということです。

ここをもっと上手にア、エ、イの次元から解説できればノーベル賞の百個くらいすぐにくれますから、みなさん挑戦してみてください。

しかし賞を出す外国人達は何も理解できませんから諦めましょう。

とにかくまだまだ完成ではありません。物質、科学文明は驚異の進歩を遂げているのに、思想、宗教、政治分野はまるでダメの一言なのが現状です。どこにも誰にも原理を持ち合わせていないからです。

生きている間に少しでも進んでおきましょう。

「幸いなるかな、霊において貧しい人、天国はそのひとのものなり。」

天照は八百万の欲望、知識の前にいます。と同時に天照は何一つない、何の拠り所もない空のこころの前にいます。ここからは半量になった一升瓶や駈けている途中のマラソンの例は止めなければなりません。闇夜に用意されたものは世界全体ですので。そこに手力男が隠れています。

天照が出て来ると、天照はどういうものだという規定が八百万同時にでてきます。光だ、空だ、女だ、高祖だ、卑弥呼だと数えて行けば一生かかっても足りなくなります。そんなことをしても、させても、平気で知らん顔をできる方がいたからです。天の手力男の神といいます。

天の手力男の神は「天手力男命またの名を八意思金命(ヤゴコロオモイカネノミコト)」といって、八種の父韻をまとめた時の名前です。

宇比地邇神・ 言霊チ T (ウ)全体性

妹須比地邇神 ・言霊イ Y (ウ) 全体性

角杙神・ 言霊 キ K (オ)拡がる動き

妹生杙神 ・ 言霊 ミ M (ヲ) 拡がる動き

意富斗能地神・ 言霊シ S (エ) 拡がりの保存収縮

妹大斗乃弁神 ・言霊リ R (ヱ)拡がりの保存収縮

於母陀流神・ 言霊ヒ H (ア)火花の先端にて、表面生

妹阿夜訶志古泥神・言霊ニ N (ワ)火花の先端にて、表面生

つまり手力男はこの八面相を持って天照に当たるわけです。

オロチの段では父韻は一つ一つの働きをするようになりますが、岩戸の段では父韻の働きによって天照が出て来るというだけまでのことしか書いてありません。出て来る条件、手順を示したものです。次段のオロチで父韻の個別化が語られていきます。

天照の洞窟内は眩い光の世界です。光しかないのですから普通の人には耐えられません。また、何もない最も貧しい世界です。よく燦然と輝く光の世界にいたなどというものがいますが、数秒の、十数秒の経験だから良かったものの、単色の光の中で一日も生きてはいられないでしょう。わたしも数秒間の経験はあります。緑から青にかけてのそれはそれは素晴らしい光の中にいましたが、これでお終いか惜しい、もったいないことをしたと思ったものでした。

天照は「見かしこ・みて 【畏みて】」(・相手の威光をおそれ多いと思う。敬って慎む。)隠れました。「○見

畏(みかしこみて)とは、荒っぽい所行を見て恐れ、天の石屋に籠もったのである。古事記伝。」。所行というのは五感の欲望と知識欲の果ての無さをいいます。原子を発見し、そのエネルギーを知り、原爆にして爆発させたらどれだけ被害が出せるか知りたいために投下するようなものです。天照は五感の欲と学術知識への欲を根本的に恐れたのです。

研究のため情操の為という言葉の綾に踊らせられないように、五感の欲と概念獲得への欲を正統に取得する為の道を案内すべくまず自分が隠れたということです。ここでは光と言っていますが最高規範でも、胎内の赤ちゃんでも、自我としてもいいものです。ただそれが無色で、空で、光だけで、そのものだけであるとしてあればいいのです。岩戸の中の天照はそういったものとしてあります。

世界の闇と自分の光だけの世界にいたわけです。

◎037 こころの原論。天照大御神の誕生。こころの貧しきもの。天の岩戸開き。 ◎

オロチの段では父韻は一つ一つの働きをするようになりますが、岩戸の段では父韻の働きによって天照が出て来るというだけまでのことしか書いてありません。出て来る条件、手順を示したものです。次段のオロチで父韻の個別化が語られていきます。

天照の洞窟内は眩い光の世界です。光しかないのですから普通の人には耐えられません。また、何もない最も貧しい世界です。よく燦然と輝く光の世界にいたなどというものがいますが、数秒の、十数秒の経験だから良かったものの、単色の光の中で一日も生きてはいられないでしょう。わたしも数秒間の経験はあります。緑から青にかけてのそれはそれは素晴らしい光の中にいましたが、これでお終いか惜しい、もったいないことをしたと思ったものでした。

天照は「見かしこ・みて 【畏みて】」(・相手の威光をおそれ多いと思う。敬って慎む。)隠れました。「○見畏(みかしこみて)とは、荒っぽい所行を見て恐れ、天の石屋に籠もったのである。古事記伝。」。

所行というのは五感の欲望と知識欲の果ての無さをいいます。原子を発見し、そのエネルギーを知り、原爆にして爆発させたらどれだけ被害が出せるか知りたいために原爆を投下するようなものです。欲望は伝搬し次元を変えて拡がります。天照は五感の欲と学術知識への欲を根本的に恐れたのです。

しかし、恐れるだけでは進歩向上との断絶をもたらすだけです。そのため、研究のため情操の為という言葉の綾に踊らせられないように、五感の欲と概念獲得への欲を正統に取得する為の道を案内すべくまず自分が隠れたということです。

ここでは光と言っていますが最高規範でも、胎内の赤ちゃんでも、自我、主観としてもいいものです。ただそれが無色で、空で、光だけで、そのものだけであるとしてあればいいのです。「幸いなるかな、霊において貧しい人、天国はそのひとのものなり。」岩戸の中の天照はそういったものとしてあります。最もこころの貧しいものが天照です。

それを、何らかのこころの貧しさとして説明した教会とか宗教者の教えは的を突いていません。こころを謙遜とか放漫とか御旨のみにすがるとか絶望とか霊が欠乏しているとか、人生を虚しいと考えているとかにして、そこから天国を渇望しているとひねりを効かせています。

イエスは、子供のようになれ子供のように神の国を受け入れよといっていますから、全くそれと同じことを繰り返しているのです。ただ前提となる子供はまず光の世界に生きている光の世界からでてきた、こころの貧しいものは光だけの世界に生きている光しかない世界から出てきたということを隠しているのです。客体(相手でも神でも)の受け取りにおいてまず自ら光となれといっているのです。信仰以前の神の世界を自らにおいて打ち立てよと言っているのです。

ところがここに、宗教者が信徒を教えたいという思いを持つようになると、ここに神の国を渇望せよ求めよという強制が発生してきます。スサノオの欲望、科学研究者の欲望と同じ道を行くことになってしまいます。現代はその真っ最中です。

天照の世界に「おやっ」と思うことが起こりました。古事記の中ではウズメのどんどこ踊りです。ふっと出てきた思いでも、哲学問題でも、音楽のノートでも、昨日の思いででも、その時その場の何でもありです。岩戸内の世界になにかが起きました。

しかし、古事記は意識、こころの原論ですからどんなことにも対応できるように書かれていますが、直接の現実に対応するにはその場面にまで来る全過程を御中主から始まって反復しなくてはなりません。

岩戸の話はハヤ・ス・サノオの命(スの言霊、○チョン、とサの言霊を速やかに助けあげ結び合わす命)によってフトマニ言語規範が破壊されたことにありました。外国語のアルファベットのみを使用して日本語を作ってみようみたいなものです。意味のないアルファベットの単音を組み合わして言葉を作ってみようというものです。

もちろんこんなことは簡単で権力の命令によってajmflhは権力という意味、imsggbehは愛する意味と教え込めばいいだけで、実際日本語以外の外国語は意味のない単音アルファベットの組み合わせに意味と内容を与えて体系化しただけのものです。

これに対して大和の言葉は五十音の単音そのものに人の意識の動きと意味が発見されて構成されています。比較の対象のない独自な言語で、多くのところで語られている他言語との相違は、偶然か大和から輸出されて変化したものが元となっています。なので今はそれらを逆輸入した形で検討されているということになります。これと同じ状態が世界宗教やアジア諸国の思想文化で、発端の力動因が大和にあるのに、(ユダヤ思想、儒教仏教思想等々の発端となる基礎のこと、)逆輸入の形で語られてます。

これと同じ構造が岩戸にもあります。神道ではここを伊勢の内宮と外宮で表現しています。

でば岩戸の段を振り返ってみましょう。

暗闇になった後にスサノオはどこにいるのかといえば、ウズメに変身しているというところが眼の付けどころです。

海原のウの世界の統治者のあまりにも果てのない探求意欲に天照の統治規範も研究の対象として分析分解されてきました。天照はスサノオの当然な探究心を損なうことなく正しい方向を見出す為に、原初の状態になることを自ら示します。

これは母親が子供にこんなことをしちゃ駄目と叱る時に、まず子供の行為をさせて確認して駄目と言って元の態度に戻させるようなものです。と同時に母親は、まず子のしたことを許していることを確認してそれを許した自分を駄目と叱ることが同時進行しています。

スサノオには駄目と言いますが、彼の変身して始めからやり直した姿になったウズメを受け入れて許し、そして始めて天照が出て来る形となっています。

ここの過程は前に長々と書いてきましたから全く不十分ですがまた次回ということにして、天照が「御手」を出すところからやってみましょう。

天照は外部からの音声、振動、笑い声に反応しました。笑いたい騒ぎたい踊りたいもっとやりたいというスサノオの基本的欲求の音です。

もちろん当初は何であるのか分かりません。もし当初という始めの始めに戻れば、ウズメがどれほど騒ごうと笑い声どころか音が聞こえるということもありません。音は音波で単なる空気振動で強弱色つやを持った音となるには聴覚という受容器官が必要です。このことはそのまま音を発生する側にも言えます。

つまりここは光だけの無色透明空の世界、こころ貧しき者の世界というわけです。こころの原論としての意味を付け加えれば原理原則一般全般の世界です。これが天国はその人のものなりの基本です。一方では天照の全的な世界、一方では八百万の神の世界が同等にに対応する準備ができたことになります。

そこに無音の音波が届きます。音を出した方、主張を受け取ってもらいたい方、騒いだ方の媒体が天照の受容器官となる媒体を物理的に訪れます。沈思黙考でも独り言のように言葉という媒体を通過せざるを得ません。とにかく物質的な作用反作用の関係の中で、天照側の受容感覚が目覚めます。

そこで音なら音、光なら光、音なら何の音どのような音等が分類分析の対象となっていきます。しかしそこには音の意味内容がまだありません。これを決定していかなくては発生側の意図が伝わりません。ということは、発生側には意図が音に付随しているということです。

そこで天照は音の意図内容を測ることになります。向こう側から渡された音は相手の意図を含んだ物理現象です。天照はその物理現象を抜き取って意図を計ります。

どうしてするのかというのがヤマタのオロチの段ですが、突っ込んでいきます。やってきた、物理現象に頭を着けてそれぞれ切り降ろして地に付けるというやりかたです。

音波の前に適当な子音、TKMHRNYS、 を付けて、TKMHRNYS+実在音波を作るのです。

ここで人間意識、精神の全実在性能の分析分類が必要となります。これは既に一万年前に分類済みでイエウオアの五重の意識となっています。仏教での五重の塔とか伊勢の忌柱の原型です。ここではそのまま受け取ってイエウオアとします。

ウズメが出した音波には意図があるのですが、それを量り知る為にまず、音の全体的な意図内容を計ります。自分のことを見て欲しいといっているのか、光を欲しいといっているのか、光の学問的分析ができたといっているのか、光の使用法を知らせたいのか、光子ロケットイカロスを作りたいのか、音の中からその意図を判定していきます。

ウズメ(スサノオ)のやることですからここはウ次元欲望の発現に関することです。しかしそれは始めからわかりきったことではないので、天照は確かめねばなりません・天の児屋の命・布刀玉の命・その鏡をさし出だし・天照大御神に示(み)せまつる時、・天照大御神いよいよ奇しと思ほして、という怪しと思うことです。

そこで手を出してみるという行為でどの次元の話を求めているのかを計ろうとします。手を出すのは手にある五本の指を人間性能五次元世界に対応させたもので同時に手の選択機能を現したものです。

天照のしたことはここまでです。五つの次元の内どれかを差し出しました。

そこですかさず・その隠れ立てりし天手力男の神・その御手を取りて引き出しまつりきになりますが、ここまでだけなら次元世界の確認をすることとなるでしょう。

天手力男の神に手を引かれました。しかし、その隣には天の児屋の命・布刀玉の命の言霊アと言霊オを管轄する神がいます。そして天照自身は言霊エの管轄で、ウズメ、言霊ウ、は外で遊んでいます。これで人間性能の五次元全部の神が揃いました。というのは、天手力男の神は実は言霊イで、岐美の命の創造作用を言うからです。全性能主体が揃えばこれで万歳です。

外には皆が待っていてそれぞれに対応しているのを確認するのが鏡を見ると言うことになります。

こうして光が戻りましたが、ウズメの思いは伝わっているのでしょうか。

天照は当初怪しと思って光の一部を疑問と共に差し出しました。ところが手を引っ張られてたちまちの内に全身をあらわします。ここで手力男は何をしたのでしょうか。

「幸いなるかな、霊において貧しい人、天国はそのひとのものなり。」

◎038 こころの原論。天照大御神の誕生。天の手力男の神。天の岩戸開き。 ◎

光の世界が戻り、言霊五次元の実在世界が揃いましたが、岩戸の外にいたのは、天の児屋の命・布刀玉の命・天の宇受売の命、言霊ア、オ、ウ、の三者です。手力男は天照を引き出しましたが、彼は隠れたままです。

・天の手力の男の神、・戸の脇に隠り立ちて、

手力男は天照を引き出しても天照と面談することはありません。また彼は力があるので天照を引き出したのでもありません。神話のように大岩を投げ出す為に出て来るようなことをしません。現代に解されている神話の方向とは逆ですが、もともと古事記は神話ではありませんから、こうなります。

ここが理解できない混乱の元です。神話として聴けば面白い貴重な話だになり、それを元に分析していけばなるほどそういうこともあるのかになります。記述を史実に放り込めばあった無かった見つかってよかったねになっていく。出所がどうしても解けなければ過程の仮定と歴史の切り取りが顔を出す。

ここの手力男は人間意思の根本作用の解し方の問題です。意思そのものはどこまでいっても姿は見せません。

コトタマ学には自分のこころの反省があれば何も要らない。

馬鹿な、少なくとも知識は要るだろう。手力男についての知識が無いのにどうやって解していくのかと言うでしょう。ではその天手力男の神について今まで獲得されている学問的、科学的、神話想話学的な知識を開陳してもらうとどういうことになのるか。結果は要するにまとまりの無さと、多数意見への傾向が現れるだけで、真実が現れることとは違います。扱うのが神話となっていて、史実扱いができない意識の問題が介入してくると、賛否の判定に決定打が打てない。そうでない場合には史実と思いつきが混ぜ合わされ新しい想話が裏付けと共に作られていく。解釈は増えていくが真実が開かされることは無い。

そんなことなら最初から自分のこころで解いていけばいいとなるでしょう。

天照だって自分で少し開けて様子を見に来たのだし、第一自分から岩戸を開けて隠れたので、手力の男の怪力は必要ないと言える。怪力無双のスポーツマンというのは後から付け加わったのが分かる。日食だとか太陽を連れ戻す話となると、日食などは毎年どこかで起こっていて特定の地域にとっては珍しくとも、話が拡がった場合にはそんなことはここでもあったよあそこでもあったと珍しいことではなくなる。

岩戸開きを、御魂の、心の、本当の自分の、生きかはり死にかはりの、悪の善の、等々とこころに関したことに結び付けるのから、中には地球の宇宙の岩戸開きまであり、キリストの再臨、仏陀の出涅槃下生というのもある。それらに啓示を受けたと称してのりたまう者まであるので、意識問題とするのもどことコンタクトを付けていいのか分けが分からない。

以上の全てに共通しているのは、各場面、各神、各物象を統一するものが何も無いということです。その場その場の思いつきとその根拠を提出しているだけで、前後の場面、その場に何故その神が出て来るのか、の連絡がまるでありません。ウズメがへそ踊りをしたと説明しても何故ウズメが出てきてへそを出すのか、その行為はどうなっていくのか、矛盾なく説明することは等閑に付しています。

このブログも口先だけでは大きなことを言っていますが中味は大したことはありません。上記の書き方はまともな真面目な研究者を傷つける事でもありますが、始めに眼の付けどころが悪いと真面目なやぶにらみという事もあります。それは持続し、固執され、自己所有の概念となっていきます。また実証を心がけるといって史実と古文書との突き合わせだけでは意識の問題はなにも浮き上がってきません。学術研究者はもともと意識の研究が苦手だという事もありますが。

今頃何故こんな事を言い出すのでしょう。手力男と全然関係ない、今書いたように人の事など言えないぞと叱られそうです。済みませんが自分でも何故こうなったか知りません。申し訳ないとは思いますが、手力男とはこういうものだという思いも湧いてきています。そうです、手力男の命のせいです。

手力男は創造意思を担当しています。

手力男の命。

・手。選択選別意思の創造行為の象徴。人間性能の五つの次元のどれかを選択して示すこと。

・タと読む場合には「手」の意味に「田」の意味が加わる。タは言霊五十音の象徴、言霊五十音を自在に使用活用すること。ただし別名が八意思金命(やごころおもいかねのみこと)から、八意(父韻の八つの意思の働きをもって言霊五十音を自在に操る意味になる。

・力。その力。力はそのものが現象となることは無い。縁の下の力持ち。

・命。その働き、その人。

創造意思の働きは、

「一、欲しいという生きる意思、知りたいという生きる意思、やりたいという生きる意思、感じたいという生きる意思の縁の下の力持ちとなって、これ等を支え統轄します。

二、人間の根本智性であるチイキミシリヒニの八父韻に展開して、四母音に働きかけ、人間の精神現象の一切を創造します。

三、生み出された現象に言霊原理に則った相応しい名前を付ける根本原理となります。」

があります。

彼は岩を投げ出す意思を創造し与えますが、その仕事の遂行は彼ではありません。意思そのものが現象となって石を動かすことはありません。食べたいという思いそのものがご飯を食べるわけではありません。岩戸を開ける意思を創造しますが彼自身が行為するのではありません。天照が戸を閉めて閉じ籠もったと同じように天照が戸を開け閉めます。古事記には手力男が戸を開けたなどと書いてありません。学者達の余計な推量から多数となり公式となりました。でも間違いです。

天照←→手力男の意思関係。

天照は外の騒がしさに関心を起こされました。そこで見たのは鏡に写った自分と同じ次元世界の様子でした。ここに自分と相対する相手世界がある事は分かりましたが、どのようなものかは分かりません。

そこで天照は試しにこのことかしらどのことかしらと自分の選択した判断を出してみました。選択判断を示す手のことです。天照が手を示しても相手世界の誰が応えるのか知りません。天照に判断材料は与えられていても、闇夜での確認はできません。そこに出て来るのが姿無き手力男の手助けです。

天照のあれは誰の笑い声だろうかという思いを確認するまでの仮定は、相手が居ること、相手が笑っていること、相手がウズメであること等相手を知り、その知った相手が天照に確認されるまでの往復経路があります。この天照--経路--闇夜の誰かの中味を媒介仲介していくのが手力男です。自分と相手しかいないのに見えない媒体を存在させないと両者は結ばれないのです。音なら音波空気、色彩なら光子、行為なら意思等となります。

天照怪しという思いは手を伝わって隠れた手力男に乗り、手力男は対象を探しにでかけ、闇の向こうに手に感じていることが見つかれば、怪しの対象があることが手力男によって天照に手を通じて知らされます。次に天照のそれはなんだこれかなという思い(選択)が手となって出され、手力男がそれを持って対象に赴き、そこで手力男は天照の手に相当する対象を探し見つけ、見つけたものを持ち帰り天照に示します。つまり天照が直接対象を探すのでなく、手力男が天照の対象に相当するものがあるかと確認して、一つ一つその対象を天照まで運び見せます。そこで、それは天照が確かに自分が思っていた対象であることが確認されれば、ああ、それは自分が思ったことだと自分を確認するのです。

天照→手力男→対象→手力男→天照の循環となります。

この往復の途中を担うのが手力男で、主体側の状態に状況に応じてことは運ばれます。この循環の糸が切られないようにするのが、各循環毎に、

・即ち布刀玉の命、

・尻くめ縄をその御後方(みしりかた)にひき渡してまほさく、

・「これより内に得還り入りまさじ」とまおしき、

となっていきます。

循環はどの時点においても記憶概念となって頭脳内に引きこもっていくことになりますが、引きこもり放しにせず、生きた意思行為の持続とする為に、記憶概念担当する布刀玉の命が出てきて、天照に後ろに引っ込んでわたしの仕事を作らないでくれと結界を引くのです。

例えば手力男を岩戸をぶっ飛ばした怪力男とするには、「引き出し」の行為を一旦切り離して、記憶に留め、その記憶から出発し直していきます。そうすると一見連続した物語が語られているように思い込むのです。布刀玉の命の仕事を勝手に増やして新しい発見研究ができたと思うわけです。

この一旦記憶に落ち込み過去に自分居場所を探しに行くのは、全ての学問概念操作の基本で、人間思想の当然の拠り所で一番駄目なところです。ここを断ち切る修行が禅とか各宗教での取り敢えずの目標となっています。布刀玉が余計な仕事を作ってくれるなと尻くめ縄(知り九目名和・)をそのたんびに引くのですが、知識はそれができません。知的に語るのが駄目なところです。

手力男から始めると、

彼の意思は天照に与えられ、天照自身が出て来る形をとります。しかし、天照自身に岩戸を開ける意思が無ければ彼の意思を受け取ることはありません。これが天照によって選択された意思が手力男に了解され、ついで手力男の実践意思を受け取り、今度はそれを受けて天照自身が実践意思となって行為していくことになります。行為はあくまで行為実践主体が行為するものです。(暗示とかのりうつりとか夢遊病とか面白い例もありますが。)

要するに岩戸は手力男が吹っ飛ばしたのではなく、天照が自分で開けた形をとりました。何かの行為をするという時の原型です。例えば、文章を書く読む場合、自分が読んだり書いたりしている形をとっています。自分にそれらの意思があるからですが、自分にそれらの行為を決行させているのが、手力男の力です。ここで手力男の気分がころっと変わると、投げ出したりコーヒーを飲みに行ったり別の行為になります。もちろんその行為も本人がしていくという形です。

・天の手力の男の神、・戸の脇に隠り立ちて、

・その隠れ立てりし天手力男の神、

・その御手を取りて引き出しまつりき。

・即ち布刀玉の命、

・尻くめ縄をその御後方(みしりかた)にひき渡してまほさく、

・「これより内に得還り入りまさじ」とまおしき、

・かれ、天照大御神出でましし時、高天原も葦原中国も自ずから照り明りき、。

1)手力男が先天を伝える。

2)母音と半母音

3)八父韻

4)意思

5)現象出現

6)御後方(みしりかた)

7)言霊父韻と母音との交流によって生れ来る現象の実相単位三十二の子音の確認が可能となる。

うまく行けば今後はこんな調子になるでしょう。

◎039 こころの原論。天照大御神の誕生。手力男の仕事①。天の岩戸開き。 ◎

ミケランジェロの「アダムの創造」というバチカンの天井画があります。

頭脳を象ったものが空中に浮いていてその中に神がいて、アダムに息を吹き込むところです。頭脳内には十か十一人の子供?がいます。神の指は伸びているのにアダムのは力が入っていません。そして指先は接触していません。反対側の指は子ども肩に触れていますが非常に不安定な形です。

神の居場所を頭脳内に象っていますが、もちろん分からないようにです。中世にそんなことを主張したら首が飛びます。それにしても大胆な発想です。各時代にはそうしなくてはならない事情があったのでしょう。ミケランジェロの場合には後世に見つけてもらってその知識を伝達したいということで、神と脳髄の関係を考えていたと主張したいのでしょうか。それとも神とは頭脳の産物としたいのでしょうか。絵にはまだ指先が映画のETのようには突き合わさっていません。それ以上に詮索すれば、画題の神とアダムを語らなくてはならないでしょう。

絵画を、神は頭脳の産物であるとか、天井にある頭脳上のものの中に神はいるとか、天空の神は人の頭脳内に降りてきてそれによって人とコンタクトするとかいろいろな解釈はできます。しかし当時の教会の権威とはなじまないものでしょう。

フトダマ言霊の理解においても同様なことが日本で起きています。例えば日蓮はフトダマ言霊学の前には自分の教えは太陽が昇った後の蝋燭の灯火程度のものでしかないと手紙に書いていますが、当時はそんなことは言えませんので秘密裏に自分の範囲を守っていました。

その反対に現代は知っていること閃いたこと知り得るだろうこと、なんでも語れば勝ちという風潮です。速ければ速いほど価値があって専売特許権まで得るという有り様です。言霊学は既に解明され、神道神社、天皇皇室、行事文化、日本語の秘密が明らかになってしまっています。多くの方達がさらに詳細を詰めているところですが、成果が普及しているとは言えず主体側の準備が整っておらず、日本の秘密が岩戸からやっと出たというところです。

ミケランジェロも神の指先はまだ接触しておらず秘密裏にあると思っているかもしれません。

彼の秘密はどういうものか知りませんが日本の秘密は分かったとしてもそれだけではなんの意味もありません。主体側客体側の条件を整え一人一人が悟りの境地にいることから世界運営を始めるというもので、知っていることなど出だしの条件となるだけで大した意味は無いものなのです。そのために世界の宗教家達が主体的な条件造りに努め、世界の科学者達が客観条件を創造するようにさせられているのです。

隠れていることが本性であるものはどうしましょうか。隠した秘密なら何時かは見つかるしそのように隠すものです。実際、千数百年後の主体的客観的な社会条件が豊になってきたら、秘密が解けるように古事記は書かれそのようになりました。日本において古事記の本当の意味が学校で教えられるようになったら世界最強の国になるでしょう。そうでなくとも特別な違いを持った国という意識は既に普遍的に浸透していますが。しかし、今扱っている隠れていることが本性の手力男を解くのは骨が折れることです。

手力男がそのつもりならわざわざ書くことも無いし、第一わたしが分かっていないし、書いたところで分かる人もいませんからこのまま次に行ってもいいわけです。天照が隠れたということと、隠れている手力男とは全然別の次元の話です。それでも何か知っていること知り得ることを書こうというのが人の性で、踊らせられるウズメです。

アホ踊りですのでここから何かを学ぼうとか得ようとかして怪我をしても当方は感知しません。

1)手力男が先天を伝える。

岩屋戸の場面です。世の中真っ暗でそこに各自の脳髄があります。脳髄の中には無限の可能性と力を秘めた輝くだけの光の世界です。光しかない全く心貧しきものの世界です。そこに天照という名の自分がいます。宇宙全体が真っ暗ですから、自分が居ると思った時そこが宇宙の中心です。即ち宇宙のどこにいようと感じ思いだしたところ自分を反省しだしたところが宇宙の中心で、宇宙の中心とは自分のことになります。つまり、天国とはそのひとのものなりです。

しかし、注意してください。これは暗闇の中に、空中に居る場合のことです。自分が何かの知識を持ってここに居るとか、この知識があるからこうしているとかになると、全く宇宙の中心から脱落していきます。失楽園の場面となります。知識とか記憶とか概念があるとそこが自分の中心になってしまいます。知識学問の知っていることと知り得るだろうこととが、自分の中心になって宇宙を失います。別に言えばそれだけの小宇宙に固執してしまいます。

古事記のフトマニ思想は聖書の原本ですから、岩戸の場面としてさらに詳しい状況が配置してあります。(イエス、モーゼが来た来ないとかで騒ぐのでなく、彼らに教えられたことが聖書になっていることをフトマニ言霊学から読み返すことがこれから必要になります。)安の河原から始まって何があって何をどうしてどうするとこと細かく天照=わたしの頭脳外の様子が描かれています。「アダムの創造」の神を取り囲む子ども達でアダムに到達して実在現象となるもののことでしょう。

ミケランジェロに聴けばこの子はこうであの子はこうだと言うかもしれません。フトマニでは古事記の記載の通りです。ほとんどなんだか分かりませんが、暗黒内の潜在意識内の先天性内の、要するに「天の」というとです。

ここの闇宇宙に古事記冒頭の五十神ことばの要素とその運用の為の五十音図が配置されています。五十音図というのは日本語のものしかなくアルファベット等外国の言葉では示せないものです。アルファベットは数多くありますが、単音言葉の要素が意味を持ち体系付けられているのは日本語以外に存在しません。世界に対して最も日本的なものとはとりもなおさず、毎日使用している日本語のことです。八千から一万年前に煉に練られて人の心の動きそのものとなって使用している日本語のことです。

ただし流行となっている言葉には力があるとか霊力があるとかいう言霊のことではありません。どこの国の言葉も意味を持って人を引きつけ結び合う威力はあります。フトマニでいう言霊(コトタマ)は意味のある単音単音が物理の物質元素のようになって、人の精神意識と生命とを直接表現しているものです。

岩戸内の天照、アダム、わたし、世界の人達各人、は光だけの他には何も無い丁度生まれたての赤ちゃんの状態です。そこに外界から何らかの刺激があれば何でもどんなものにでも反応します。その反応の仕方は頭脳内に影を作ると比喩されるでしょう。例えば母音という鳴り止まないものの頭にTKMHRNYSという子音の帽子を付けてやるとその影のお蔭でアの母音にはたかまはら・・・という子音ができます。

こういうでき方なら数学みたいなもので、各母音に子音頭を付けただけのことですが、古事記には子音頭にそれぞれ人間精神のこころもちのあり方があると説かれています。この心持ちが母音をそれぞれの父韻という帽子を被せるとそこに影ができ、ものの形ができるというわけです。つまり頭脳内には実体の影しかないということになりますが、精神の心持ちを持っている影となります。

ではその父韻の心持ちとはどんなものか示すのは、それを体現された方の言葉を引用するだけのことですから簡単ですが、わたしはまだ実体験に達していません。もちろん知っているだけでも損はないどころか、超先端の学問の原理に触れているわけですから大いに役立つものでもあります。わたしも始めは知っていることだけで嬉しかったのですが今はやはり実体験がしたくなっています。

しかし未だに何も無しです。

従ってわたしのやっていることは読みかじり聞きかじりの半煮えですのでその積りで。

文章を読む時、その仮定を分解すると、人間精神行為文明の創造行為では何でも同じ仮定が繰り返されるのでいちいち断ることもないのですが、つまりどの場面にも古事記の全過程がそのまま適応され不思議なことにそれが真実となっていくのです。文章を読む時でも書く時でも読む時でも、古事記の冒頭の百神に沿って理解していけばいいだけのこと、もし理解していくことが分からなければ、古事記の指示通りに解いていけばそのまま真実へ導かれます。これは結論までに導かれる過程だけでなく、その途中のどの場面においても通用するという超不思議なことなのです。

全ての日本人がこのことを実行していけば、・・・・・・などと余計な歴史を無視するような希望も言葉も言わないことにしましょう。・・・・・・。

次に自己研磨啓発だとか、宗教的な悟りだとか、滝修行だとか、神頼み、神への全ての投げかけ等となると、全く個人の修行自分の救いがまず重要なことになってしまいます。古事記にはそういった個人行を止揚していく方法が書いてあります。もちろんわたしではなく、それを成し遂げた方の読みかじりです。しかし、宗教的な次元に到達してやっと人類を口にできる入り国に立てると聞くと、宗教者とはそんなものでしかないのかと何となく安心します。

手力男の命の内容を書こう書くまいか迷っているので、こんなことをごたごた書いています。1)手力男が先天を伝える、として書くつもりでいるけれど、そんなことよりも、本物をコピーだけしたほうがよくはないかとも思っています。または自分が実体験して父韻を納得するまで待つのか、今まで通り書きながら何か出てくるのを期待していくか、迷っています。

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天の御中主の神曰く、

迷った時には、元に戻りなさい。

迷いはどこにも行きません。何時でもここにいます。

ここにいる迷いとのみ付き合いなさい。

◎040 こころの原論。天照大御神の誕生。手力男の迷い。天の岩戸開き。 ◎

古事記には不思議な名前、面白い名前の神様が沢山います。前回に迷ったついでに迷いという名前の付いた神さんについての感想です。迷いの本質まで辿れればいいのですが。

まず、直接「迷い、惑い」の名を持つ神さん、

大戸或子の神(おほとまどひこのかみ)【言霊カ】

大戸或女の神(おほとまどひめのかみ)【言霊マ】

どっちに行こうか角出し右往左往する様子がある神さん、

角杙の神(つのぐひのかみ)【言霊キ】

生杙の神(いくぐひのかみ)【言霊ミ】

戸惑いと関係付けられるかもしれない神さん、

意富斗能地の神(おほとのぢのかみ)【言霊シ】

大斗乃弁の神(おほとのべのかみ)【言霊リ】

(【記】意富斗能地神 【紀】大戸摩彦尊/オホトマヒコ/オホトマヂ

【記】大斗乃辨神 【紀】大戸摩姫尊/大富邊尊/オホトマヒメ/オホトマベ、から)

岩屋戸の始め、八百万の神が集まってどうしようかと迷うところから始まっています。八百万の神さん達皆が迷っています。思金の神が采配を振るいますが、おもいかねて迷うことが専門みたいな名前です。

また、天照が岩戸の中で「怪し」と思ったり、「何の由(ゆえ)にか」と迷いごとを述べています。

こうなってくると「迷い」についての感想どころではなくなってきそうです。

神様なのに迷うなんていう名を付けられて神らしくないとか、八百万にこれこそ相応しいとか言われますが、その解の捕らえ方になると国造りの最中で道に迷った意とか谷間で迷った意とかいわれている。神の方も微笑んでいいのか飽きれていいのか迷うところとなっている。(大戸或)

なぜ迷うのか?と普通にかんがえると、選択に差が無いからとか、選択肢を失いたくないからとか、分かっているつもりで実は分かっていなかった、自分を比べて飾ろうとするから、信念理念がないから、どこまでいっても八百万で、気ままにお気に入りを選ぶのに迷うくらいです。全て現象か概念か記憶を持ち出してくるものです。

八百万にかかずらうとどこかで気に入ったものが出てくるまで果てし無く続きます。ところがお気に入りが出てくると他のものは見向きもされません。そこで幾つかの意見が出てくると各自のお気に入り具合の見せ合い欠点探しとなります。学者も素人も同じです。

こういった現象は決まりきったことでいつも繰り返され、自分がどれほど強力に主張しようとその主張には迷いがあることは自分でも分かるはずのことです。といっても主張の内容に迷いがあるといっているのではありません。そういった現象主張に迷いがあったら見られたものではありません。主張を納得する意識の直前の動きのことです。こうだと思い込む直前のことです。

神さんの名前が迷いとなっているくらいですから迷いは神さんの、そして人の意識の本質に係わると見てもいいでしょう。おやおや、ここでは全智全能の創造主が迷いを本質とするとなりそうです。ここから先を読んで頭が壊れてもわたしのせいにしないでください。

うまく行くかどうかは保障しませんが、迷い解読のあんちょこは古事記そのものです。古事記をなぞって往けばそのままことが解決してしまうというのが、古事記の凄いところです。こんなわたしのような聞きかじりでもこのくらいのことは書けるのです。みなさんも是非古事記を神話としてでなく意識と心の原論としてを読み直してみてください。一言メッセージ欄から本物のかたが書いたHPへいけます。

宣伝ばかりで実力無し、早く始めろ。

先に、まず何故迷うのかと問うてづらづらと理由を出しましたが、これが、つまり、問いに答えてしまうことが、迷いの元です。迷いという既に複雑な言葉の連鎖を疑問の先頭に持ってきています。既得概念知識記憶から始めていこうとします。迷いとはと問うて、迷いとはこうだと応えると何も進歩しません。確かに回答していくのですから進展なり、真実に近づくなりの思いはでてきます。しかしそれは経験知の再発表みたいなもので、知っていることを述べただけです。

正しくて当たっているなら文句は無いだろうと言うことになりますが、当たり正しいも、そういう方の経験内でのことです。

各人の経験、多数の経験をカバーしても世界はもっとでかいし宇宙はさらにでかいのです。精々数万人数十年の歴史をカバーしたからといって真理となったわけではありません。そもそもが自利行為からでたもので、利他など思いも寄りません。

そうではなく、まず物事を元のあり方に戻してみましょう。天照のようにまっさらな頭にしてみましょう。

迷いが一つの出来上がった言葉の連鎖でできてしまっています。そのため、その単語単語にまとい付くもの、単語と単語によってできた連絡した概念観念、そして主語述語とか起承転結となって意味内容を伝えるものを頭脳に提起し、意識を叩くことを止めます。

もしそこから出発してしまうと幾ら経っても言葉の連鎖から抜け出せず、材料が増えてくると分類分析をしているようになり、統計なり過去概念なりを持ち出して科学的、心理学的な見解となります。先見とか、発想とか、切込みとかの単なる思いつきの変形が重要視されていきます。常に現実との接点があるので現実の問題を解いているように思えてきますが、問題を変形して見方を変えて、別の言葉使いをしていくだけのことを原因を解いていると勘違いするようになります。

そこで元へ戻ります。というのは言霊学では例えば「迷いがある」というときのマヨイのマという時に既にその「マ」という単音に迷いがあるとしていきます。「迷い」「犬」「りんご」「理解した」等、各単音単音の発音次元に既に迷いがあるとします。「犬」と分かっているものを指して「犬」といっているのに、何故迷いがあるというのか、犬かどうか分からないから迷うのではないかと普通は思います。

ではイヌという場合、イといった時に犬と分かったのでしょうか、それともヌといった時に犬と分かったのでしょうか、分解できない犬と言い終わるまで待つのでしょうか。それとも言い出す以前に分かっていたのでしょうか。さぁ、この時間差を科学的に解いてみてください。また、犬かどうか分からない時、わからないというのは、ワというときに分からないのか、カというときに分からないのか、ラという時に分からないのか、それとも、それとも・・・・・

分離分解できない観念、意識の持続した流れを持ち出す方もいます。では、それは発音している時ですか、それは発音の終了の時のことですか、聴き終わった言葉を納得する時ですか、聴いている時ですか、それとも頭を過った言葉以前のイデーがでてきた時のことですか。では頭の中で閃いたときはどうしましょう。 持続の流れは起きて、それが頭の中に巣くるとしても、それはどこからくるのか、つまり迷いと思う思いは迷いの前にはどこにいてどうだったのか。

まるで観念論の哲学です。わたしもそんな分野には手が出ません。

さぁ、迷ってみましょう。

三省堂 大辞林

とまどい ―まどひ 【戸惑い】

(1)とまどうこと。

「―を覚える」「何から云出さうと各(おのおの)―するらしい/夢の女(荷風)」

(2)夜中に目を覚まして方角を失い、まごつくこと。ねぼけ。

「小便に起きた所が、つい―をして/滑稽本・膝栗毛 2」

1、は戸惑いを問うのに、とまどうことと答える漢字をかなにしただけみたいな答え。2、は戸惑った現象のことで、もちろん小便の場合もあるでしょう。

大和から引き継いだ日本語は実際解説が難しい、問いの言葉がそのまま答えになっている。ところが、こういう言葉は言霊では答え易い。縄文の大和時代に作られた言葉なので単音単音で理解できていくからです。

では言葉の発生からみた、 大戸或子の神(おほとまどひこのかみ)【言霊カ】 大戸或女の神(おほとまどひめのかみ)【言霊マ】の位置づけをまず確かめておきます。

大戸或の意識内での位置づけは、現象表現とはならず、それに名が付けられず意味内容が確定する直前の出来事です。自分が迷う時、自分のいう事で他の人が、あるいは他の人のいう事で自分が迷う時等、全て何かが起きる直前に起きます。自他とのコンタクトはあるのに今一歩のところでとか、せっかくここまで来たのにこれで最後とおもわれる時に出てきます。上記の神も五十神が出来上がる直前に出てきます。

大戸惑は陰陽対の神で物事、意識、迷いの霊的内容部分と音の媒体的表象部分とをそれぞれ受け持っています。言霊はカとマで両者の働きがカマとなります。カマは物を入れたり煮たり合わしたりかき混ぜたりするものです。そうです、お釜が迷いです。料理をしているときお釜を覗き込んで箸で突ついている様子を省みてください。時間を見たり、固さ煮得具合、たれソースの残り具合、味見をしたり、みんな大戸惑いの神さんの管轄です。それもできあがり直前の事です。

大戸惑は必ず出てきます。大戸惑が出てこないと先へ進めません。大戸惑の直前は 天の闇戸の神(あめのくらどのかみ)【言霊 ノ】と 国の闇戸の神(くにのくらどのかみ)【言霊 ネ】です。ノリノリに乗ることを示しています。

その乗ったものがどこから来たのか示すのが、またその前にある天の狭霧の神(あめのさぎりのかみ)【言霊 ロ】 国の狭霧の神(くにのさぎりのかみ)【言霊 レ】です。乗ったものと思えるものは実は霧上のはっきりしない状態の中から現れてきたことを示します。

目前の犬を見て、犬と言うのに「はっきりしない」はないだろうといわれそうです。しかしじっくり自分の心を見ると、その犬の実在の全部をたったの一言で犬というのは不安な心持ちがあります。犬をよく知った人が隣にいるときなど簡単に犬というだけに迷いさえ生じます。そういった状況を狭霧といってわけの分からない不安定感をも示しいるのです。

このようにして古事記は前に前に一連の繋がりを辿っていくと御中主の神にまでもどります。

041 こころの原論。天照大御神の誕生。迷いとは ①。天の岩戸開き。 ◎

迷う事が人間の意識活動に本質的なものでありそうな事が分かってきました。

ここで一挙に「迷い論」ができるかやってみましょう。

一番簡単な方法は古事記の冒頭五十神を迷いと言い換えてそのままの順で書いていけば、内容も分からず言っている事も理解していないのに完成してしまうということです。古事記の凄さはそういったことが平気でできてしまうことです。実際にわたしも古事記を理解している分けではないので、そうなるかどうかやってみるのも、ものは試しということになるでしょうか。成功すれば無知であっても古事記を利用すればこれくらいのことはできるということになるでしょうし、まぁ、失敗すれば阿呆らしいと言われて読者が来なくなるだけですが、古事記を傷付けた罪を負わなければならなくなりそうですね。始めてということで許してもらいましょうか。よろしく。わたしが成功しないからといってみなさんも同じということは決してありません。各自、自分のテーマで試してみてください。

古事記の言葉、表記が分かっていれば文章を複写すればそのまま「迷い論」でも何でも全テーマの回答にになってしまうものですが、理解不足のわれわれはそうはいかないので、障害とぶつかりながら行くことになります。古事記の文を引用することがそもそも障害となるものですが、もつれをほぐす頭の体操ともなるもので、固執しなければ、気分さえも良くなっていきます。各自ああだこうだそうじゃないと思うところがあるはずですが、安万侶さんの書いたものには古代大和の知性の数千年の歴史を背負って出てきたものですから、現代のわれわれの数十年の知性などたかが知れたものです。(古事記の内容が広められれば古代大和が世界政朝の中心であり今後の世界運営は日本で行なわれる研究が進むことでしょう。)

「迷い論」

『 天地の初発(はじめ)の時』

古事記の始めは 『天地の初発(はじめ)の時』 から始まります。これから先は「迷い論」ですから、この引用文も「迷い」に関するものです。

「はじめの時」というのですから、始まりのあった時以前があるということで、「迷い」がある以前があるということになります。つまり迷いの無いときがあった状態です。

そこにあるのは迷いの出てきた元となる世界があったことです。それを天地といいます。何が出るかどうなるか分からないが迷いが出てくる元の世界がありました。

その世界から迷いがでてきます。

出てくる原初の世界はあってもそれはまだ「迷い」と名付けられ、こういう迷いだと主張されるものとしてはありません。迷いの芽生えの状態で花になるのか木になるのかまだ分かりません。ただ全体的に産まれたというだけです。そして、もし産まれることを気にするとそれ、迷いの赤ちゃん、が気になりそれが意識占め、考え思いの中心を占めていくようになります。この中心を占めるものができることを、古事記は次のように表現しています。

『、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。』

高天原というのは限りない可能性を秘め、これから発展して迷っていくだろう頭脳内の精神分野のことです。その意識内に起きてきたことを天の御中主といいます。

天というのは無限の宇宙です。その無限の宇宙に中主という有限を司る者が誕生します。無限の中に有限ができるのですから、その有限はどこに出来てもどこにいても宇宙の中心になります。意識に誕生した迷いが人の頭を占領してそのことだけを思い悩むことが出来る原理です。他のことに関心を示さず人の意見も聴かず自己中心になっていく元々の姿がここにあります。

天の御中主(みなかぬし)というのは言い換えると天の中央の主ということですが、天という無限世界には中央など無いのです。無限世界ではどこを選ぼうとそこが中心となります。この二律背反は自分の考え自分の思いを主張する自我主体そのものの象徴です。自分の迷いがこの世の全てだという、生まれたての赤ん坊の世界と同じです。人間の出生と物事の始まりはこうしたものとしてあります。誰もが御中主で、どんな思いも御中主です。

問題はこの御中主が動き始めることです。なぜか。(伊耶那岐の大神の、つまり自身の)歓喜を得るためです。(迷いや苦痛の中にいる者に歓喜のためだなどというと誤解されますが、このままにしておきます。)

そこでこの一文全部で、天地という外界世界の中で、頭脳内に迷いという思いができて、それが頭脳と世界の中心を占めてきた、となります。簡単に言えば、自分の頭に迷いが生じたというだけのことです。

では迷いが生じたとなぜ分かるのでしょうか。自分が思い、考え、感じたのですから当然です。ほとんどの誰もが当然として次にすぐ迷っている状態から出発しようとします。生じてきたものを直ぐにこういうものだ規定決定していこうとします。草の芽生えを見て咲く花の色を決めつけるようなものです。人間の精神意識はそのような飛びたし行為も可能ですが、それは迷いの元となります。古事記は次のようにいいます。

『次に高御産巣日(たかみむすび)の神。次に神産巣日(かみむすび)の神。』

この二神の表記は違いますが、読み方は「タ」が一つ多いか少ないかだけの違いです。

始めて産まれたのは頭脳内に自分の感じたものを、自分の意識の中心とする自分の宇宙の主催者意識でした。そしてそれは今迷いとしてあります。

自分の宇宙意識内に産まれたものそれが「タ」(迷い)です。そこで「タ」(迷い)とはなんだと思うようになると、たちまち「タ」(迷い)の意識が対象に向ける主体的な意識と、「タ」(迷い)の意識を客体側で受け取る受動的な意識とに分かれます。

意識はさらに目覚めてきます。

「タ」を持った主体的な意識は「タ」を持たない客体意識へ、お前のところはどんな具合か、と結ばれようとするところです。

ここは概念で表現すれば主体客体、主観客観、わたしとあなた、意識と対象、精神と物質、霊と体、言葉の内容と言葉の音、等々陰陽の対になっていきます。

この次元では迷う対象と迷う自分ができるだけです。選択肢が多くて迷う、信念がないから迷うというような具体性はまだ後のことです。

選択肢が多くて迷うということも、迷う自分とその対象があるだけで、対象には選択されたものと選択されないものの総体が入っています。従って迷うものの世界は選択されたものだけから成っているのではなく切り捨てられたものとそれに伴う一切が統合されています。世界はどこまでも一つなのに、選んでしまったとろから迷いが始まってしまったということです。

ここで突然次の言葉が(といってもまだ一行めか二行めですが)出てきます。

『この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。』

独神というのは、配偶者がいないことではなく、他に依存せずにそれだけで世界を形成しているというとで、身を隠しているは、つまり現象として出てこないことをいいます。五感感覚で捕らえる現象にはならないが、心の構造の中にいるということです。そうすると今まで言ってきた「迷い」というのはどうなるかと疑問が出てきます。

今まで迷いと言ってきましたが、どのようなものか具体的なものとして現象となって今後どうなるものとしては述べていません。どういうことかといえば、迷いの出てくる世界、迷いと分かる世界はあるが、それ自身で他のものとは独立してあるということです。その後にハッピーになり問題が無くなっても迷いの出てくる世界はあり続けまたそこから迷いは出てくるということになります。

そして、概念、知覚、心理学の言葉、宗教の教え、記憶等の中にあって抽象的には扱えるが、具体的にこうだということはできず「隠れている」ということです。

ここの文はあるのに隠れているということです。あるのに隠れているのはどんなものがあるでしょうか。(ややこしい)

それは主体側から働きかけられるもの全てです。この世の人の働きかけるもの全てです。

馬鹿ななんて言わないでください。あそこに犬がいます。あれを指して犬といったら、どこに犬が隠れるというのか、訳がわからなくなるでしょう。あなた自身があそこに犬がいるといっているのに、おかしなことを言うなと文句がきます。しかし、冷静になってください。ではどんな犬ですかとわたしは質問します。さあ、答えてください。・・・答え・・・。

誰でもが答えることはできます。犬はみんなが知っている単語です。ところが百人百通りの答えになります。そして誰も当たりません。答えは、わたしはあそこにある犬の形をした雲を指してあそこに犬がいるといいました。この例でも分かる通り犬と言われる世界はあってみんなが使用しているのですが、犬そのものは隠れていて他人に示すことはできませんが、観念概念の内容として独自に存在しています。そしてそれはどこに存在しているかといえば、頭脳内です。

もう少し言えば頭脳内のみんなが使用できる頭脳を超えた世界の(宇宙の)先天構造の中に存在しています。ミケランジェロの天井画には脳味噌の中に神がいる構図がありますが、古事記は五千年~八千年以上も前から伝承された思想を記述しただけです。(みなさんも古事記を神話から解放してください。天皇をその気にさせないと、多くの人達が日本は滅びると心配しています。男系とか女系とかそんなせいぜい二千年来の枝葉末節なことから抜け出しましょう。)

この後に続く神、四柱の『神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。 』となっています。宇宙の先天構造の中にいて、独神です。