03 (キ)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。

(キ)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。

(イ--意思の発動)

チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)

イ--以ちて、(や行のイ)

キ--「

シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め

リ--成せ」と、

ヒ--天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、

ニ--言依さしたまひき。

(ヰ--意思の帰還)

キ--伊耶那岐の命 角杙(つのぐひ)の神

「 伊耶那岐(・伊耶那美の二神)がいざと立ち上がり、」

先天十七神即ち先天構造を構成する十七個の言霊が活動を開始しますと、伊耶那岐・伊耶那美の二神、言霊イ・ヰは次の様な事を実行することとなります。(いとなみ、働き側)

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角杙(つのぐひ)の神 (オの性質)掻き進める働き。 いとなみ、働き。過去-今。

体験内容を自我の方向に掻き寄せようとする力動韻

「言霊キ、ミ。昔、神話や宗教書では人間が生来授かっている天与の判断力の事を剣、杖とか、または柱、杙などの器物で表徴しました。角杙・活杙の杙も同様です。言霊キの韻は掻き繰る動作を示します。何を掻き繰る(かきくる)か、と言うと、自らの精神宇宙の中にあるもの(経験知、記憶等)を自分の手許に引寄せる力動韻のことです。これと作用・反作用の関係にある父韻ミは自らの精神宇宙内にあるものに結び附こうとする力動韻という事が出来ます。」

立てた規範をもってその運用に合うように相手対象を引き寄せるいとなみ、働き。

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ここに伊耶那岐の命と角杙(つのぐひ)の神が並んでいるからといって、 伊耶那岐の命を角杙(つのぐひ)の神にあるいはその逆にしようというのではありません。既に前回にこんな古事記の神さんたちはいないと断っていますから間違いはないと思います。これらは全てこころの中の出来事、心の運用を扱ったものです。

古事記は必要最小限だけを書いた完璧な心の原理です。ここでもその最小限が貫かれていて、 なんの説明もなく 伊耶那岐の「神」といわずに、 伊耶那岐の「命」 と言い換えてあります。一字一句も見逃せません。

これは「ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて 」の「ミコト」に対応しているためです。前段で心の原理の実体を十七神として述べていますから、今度はその働きを述べる段なので、十七神の働き、いとなみ、を「ミコト」と言っています。

実体は実体に作用反作用し、働きはそれを受け入れる働きに作用し、実体を介してあらわれます。

そこで今回は 角杙(つのぐひ)の神の働きをしているところをみようというものです。心の父韻は妹背陰陽の作用にありますから、 角杙(つのぐひ)の神の働きを述べることはその反対からみれば妹活杙(いくぐひ)の神を述べていくことにもなります。

先天が活動開始して、その持続の中で「 伊耶那岐の命 、伊耶那美の命の二柱の神」を見つけ、何かを二人に「詔りたまひて、」というところです。

先天が自分の活動を活動としてあらわす相手を見つけました。

先天の宇宙世界がギ・ミのミコトを見つけました。つまりわたしたち各人の中のギのミコト、各人の中のミのミコトということです。

どんなギミのミコトかといえば「イザナキ、イザナミ(誘う)」というミコトで、どんな働きをするのかといえば、「 角杙(つのぐひ) 、 妹活杙(いくぐひ)」の働きをします。

ここではギとミのミコトの二人を見つけたように思えますが、わたしたちは自分を見てみれば自分一人しかいません。ギ・ミの二人がいるのではありません。しかもここでは自我自分の成立以前の話ですから、「自分一人しかいない」というのも正確ではありません。自分という自我ははまだ成立していませんので。

それでは先天十七神は何を見つけたのかといえば、各人の自我、自分という柱の立つ以前の先天の各人((の自我))を見つけました。その先天の主体側をイザナギといい、客体側をイザナミといいます。そこでイザナギは角杙(つのぐひ) の働きをし、イザナミは 妹活杙(いくぐひ)の働きをするということです。

古事記はある種の目くらましをもって書かれていますので、古事記に沿ってその神名を使用した場合には何も分からない場合や、そのぴったり一致した表象に目を見張るようなことが起きます。ほとんど全ての人には理解不能のように書かれていますから、わたしの書くこともそのまま受け取るとさらに混乱していることでしょう。

しかしこれを科学的に証明して正解にするとか、考証して文献上で証明しろとかしたところで、こころの中を覗いたものとは全然違う方向になりますから、科学的、考証学的、文献的な証明を要求されても、そういった方面からの希望には沿えません。そういったものが証明されたところで文献の事実は証明されても、書かれていることの真実真理が理解されたのではありません。

客観的な事実は心の真実真理が無くても成立してしまいます。あるいは心などという面倒なものを持ち込まない方が、知識上の運用が楽です。こころを持ち込むと主観とか客観とかの迷路から抜け出せません。

今は自我など無い、その自我の成立をあつかっています。もし客観が言いたければ客観(主観)など無いというところから出発しなければなりません。

またそれらの心の原理は同じですから、自我を客観と言い換えれば、主観客観論もできあがるはずです。

古事記の冒頭の十七神は人類の心の秘宝であるため、数千年間維持されてきているのですから、これからの世界運用ため早く理解運用者が出て欲しいものです。

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さて、角杙(つのぐひ 言霊キ) の特長です。

≪ 体験内容を自我の方向に掻き寄せようとする力動韻。

立てた規範をもってその運用に合うように相手対象を引き寄せるいとなみ、働き。≫

角杙(つのぐひ) とは角においてクイを立てること。

人は何かしらの角(判断力、規範、自分で決めたこと等)を持たないと前に進めません。目を瞑って広々としたところを何の指標もなく歩く場合でも、足を前に進めている、右足を出している、身体は真っ直ぐである、足は直線上を歩いている右に曲がってる等々、何らかの角・指標の類が自分を裁量しています。

そこで角杙における現象となった角の現れは色々ですが、それらの現象の元となる原理を探すと、全ての場面で共通していることは角の判断力、規範なるものは過去から得られているものを立てて、今現在の指標としていることです。その角、触覚の先端に杙を立てます。

では杙とはなにかといえば、杙のあるところまでが自分の領域ということです。三メートル先に杙を打てばそこまでが、三十光年の星を探しているならそこまでが、三千億兆光年という疑問を持てばそこまでが自分の打ち込んだ杙、自己の領域です。活躍の範囲、思いの限りです。宇宙の果てまでと言いますが、その人の知っている手持ちの宇宙の果てまでということで、他の人とは違うし、時がくれば伸びたり縮んだりしていくものです。イザナギはそういった働きの過去今未来の各人が持つ可能性の総体を代表しています。

ということは天津神達はイザナギの働きを見つけ過去今未来のイザナギという杙を打ち付けたのです。このイザナギという杙は後に、腹減ったとなれば欲望の杙になり、ここが分からないと疑問を出せば知識の杙となっていくものです。しかし今は働きをもったイザナギを得たというだけです。

働きを持つものを見つけてもそれがあらわれる実体が必要ですから、その次にイザナミ(ミ)が来ることになります。ミのミコトは伊耶那美の神の実体をあらわす働き側になります。