14【言霊ヒ】 於母陀琉の神(おもだるのかみ)

14【言霊ヒ】 於母陀琉の神(おもだるのかみ)

この父韻ヒ・ニを指し示す神様の名前は、先の角杙(つのぐひ)の神・父韻キ、妹生杙(いも・いくぐひ)の神・父韻ミに次いで比較的分かり易い名前のように思われます。まず神名の解釈から入りましょう。於母陀流は面足ずばりです。面(おも)とは心の表面にパッと言葉が完成する韻と受け取れます。昔、滝のことを「たる」といました。水が表面に一ぱいに漲り、そして流れ落ちる。これが滝です。足る、とはその表面に漲(みなぎ)った姿です。太安万侶氏は何故に面足と書かずに於母陀流などと複雑な名にしたのでしょうか。それは勿論面足では直ぐに分かってしまって、古事記神話編纂の真意に悖(もと)るからでありましょう。

では「心の表面に言葉が完成する韻(ひびき)」とはどういうことなのでしょうか。言い換えますと、心の表面に言葉を完成させる原動力の火花とはどういう事を言っているのでしょうか。例を挙げることにしましょう。或る会社の創立三十周年の祝賀会に招待されて出席しました。盛会でありましたが、その席上、突然ある人から声をかけられました。「M会社の中村さんですな。あの折には種々お世話になり有難う御座いました。その後ご無沙汰申上げて申訳御座いません。改めて御挨拶にお伺いさせて頂こうと思います。その折はよろしく御願い申上げます。」そこまで話が来た時、その人は同席の同じ会社の人と思われる人に促(うなが)されて、「では失礼いたします」と去って行ってしまいました。自分だけしゃべって、名前も言わずに行ってしまって、無作法な人だなと思ったのですが、その人の名前を思い出せません。何処で会ったかも分かりません。けれど一度会った人であることは間違いないようです。さあ、こうなると、その人のことが気になって仕方がありません。「何処で会った人なのかな」「何という名前だったかな」考えてみても喉(のど)に引っ掛かったように答えが出て来ません。家に帰ってきてからも同じような気持で、何となく今にも思い出せそうでいて、出て来ません。翌朝、会社に出ようと靴を履こうとした時、ハッと思い出しました。「あっ、そうだった。二年程前の会社の後輩の結婚式の披露宴の席上、テーブルの隣の席にいたN販売の木村さんだ。披露宴の酒が進み、座が少々乱れ出した時、あの人と仕事のことでいろいろ話した事があった。あの人はそのことを言っているのだ。」喉につっかえていたものが一遍に吐き出された気持でした。「仕事でない所で会ったので、記憶が薄れてしまったのだ」と思ったのです。

例の話が少々長くなりました。父韻ヒの韻律をお分かりいただけたでしょうか。言葉が胸元まで出て来ているようで、喉元に引っ掛かって出て来ないもどかしい気持がフッと吹っ切れて、口というか、頭の表面というか、心の表面とも言える所で、記憶がハッキリした言葉となって完成する、否、完成させる言動韻、これが父韻ヒであります。