01 抽象一般と意志のみを排す

ここに詔りたまはく、「上(かみ)つ瀬は瀬速し、下(しも)つ瀬は弱し」と詔りたまひて、初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時に、成りませる神の名は、

八十禍津日(やそまがつひ)の神(言霊ア)。次に

大禍津日(おほまがつひ)の神(言霊イ)

この二神(ふたはしら)は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。

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前段では我良しの言霊カ・カ行で始まることを排除しました。そこでは無自覚に受け入れた意識の位置づけを得ました。そして、カイ(カのイ間)から始めないで、言霊カの位置づけを探しました。

さて、この段の始まりは「ここに詔りたまはく」ということです。何か「ここに」新しく言いたい事があり、何か新しい次元に到達したことを予兆しているような感じです。

なぜここにわざわざ「ここに詔りたまはく」が出てくるのか?。今までは連続している階段を上って上階へいっているつもりでした。上に向かえば山頂に到達する積もりでした。

ここに詔りたまはく」とは、どこにいようと自他の時処位が確認できたが故に、その後に決意の第一歩を踏み出すことが強制されるかのようです。銚子は上々だし山頂への案内図はあるし万全の装備もあります。主体側の準備ができ客体側の様子も了解し、「いざ」と欠点欠如の無い主観的な真理に自らのむちを入れることのようです。

そして自信を持った主観はここに一歩を踏み出しました。

と同時に直ちに、突出して来た問題が生じます。

それは自らを第一歩に導いたものが主観的な真理で、登頂を目指す一般意志だったことです。その一般性に従った情報蒐集や装備や自己完了の確認でした。アワギ原に降り立って主体側の準備や判断が用意されていることでした。

しかし、始めの一歩に感じる土の固さ、靴の柔らかさ、手の甲に感じる風の冷たさ、現時点での山の様子や選択すべき通る道の指針が不正確なことです。

それでもある場合には、やる気があるだけでいいとされ、上に行けば山頂があるのだとされているだけで出かけることもあります。

ここではそれは意識の五つの次元のどこにでも当てはまるかを見ていきます。

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ここに詔りたまはく、

五十音図は意識の流れをアイウエオの五本の流れで示したものです。意識の用い方によって流れの起承転結が変化します。アの芸術宗教感情、イの意志創造、ウの五感による欲望、エの選択案配、オの知識概念の世界がそれぞれ意識の次元を構成しています。

それぞれの次元世界によって他の次元世界への係わり方の強弱が変わるので、アイウエオの縦の並び方は一定ではありません。

そこで身禊の始めでは、アワギ原という意識音図をかざして身禊祓いを行なってきました。その音図は縦行が

で、横の意識の流れが八父韻を挟んで、全体では次の形になっています。

ア--------ワ

オ--------ヲ

ウ--------ウ

エ--------ヱ

イ12345678ヰ (アワイヰ 原・アワギ原)

この音図上で自覚の立った時のことです。

上中下の瀬と出てきます。上流下流を想像してもらうと間違えます。一本の流れの上下ではなくその場所の幅の状態を見たものです。流れの浅いこちら側とあちら側の川岸寄りと、十分水量のある船も通える中程を区切ったものです。

この中程を利用した時に起こることです。

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「上(かみ)つ瀬は瀬速し、下(しも)つ瀬は弱し」と詔りたまひて、初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時に、成りませる神の名は、

注意深く読むと「初めて中つ瀬に入る」時におきることなので、上下の瀬には入っていなくてもいいのです。というよりも上下瀬は、感情情熱の慣性(上)、意志観念の恒久性(下)のことですから現実の水量とか冷たさとかは考慮されていません。それよりも中つ瀬の水量の多い実質的に利用運用できるところに入ることで、気付かされることができました。それが次の二神です。

八十禍津日(やそまがつひ)の神。次に

大禍津日(おほまがつひ)の神。

この二神には「禍」と付いていますが陰陽とか対になった二神ではなく、また流布されている、災厄の神、災厄を司る神ではありません。それは漢語の意味に意味に災いされた解釈ですし、神名にある「津」を全く見落としています。

言霊学は上昇循環を旨としますから、この二神の源泉を辿ると蛭子と淡島に行き着きます。

蛭子はヒルコで、霊流子、淡島は、アとワの直結した領域で、両者とも中間の父韻列との連絡が無い主客の直結した汚い、気田無い、思惟の運用にあります。

両禍津日も同様で、「禍に渡して日をみる」で、「八十、ヤソ」という有用な個別現象を生みながらそれが禍となってしまうような手続きをとるため、あるいは、大いに必要なことであるのにそれが禍となってしまう手続きをとるため、「禍」として生まれて流通させられるというようなことです。

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この二神(ふたはしら)は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。

主体の判断が確立し主観的な真理を得たと自信を持ったとき、それらの現象となる事柄は八十の禍の塊となってしまっています。何故なら上つ瀬の感情領域は自由奔放であって、個々の事情を考慮してない一般的な惰性を心に押しつけ、それを慣性化します。これは丁度五十音図の八つの父韻の横列の組み素(ヤソ、八十)を具体的な個性の無い現実現象から遠ざける禍とさせて、それを宇宙真理に渡された精神規範(津日)としてしまいます。

八十禍津日とは、主観的な真理を一般性の上に載せて、個々の現象(八十)を一般化(禍)して主張に渡し(津)それで普遍的な真理(日)を語った積もりでいることです。

下つ瀬の大禍津日とは、意志観念はそのものは現象ではなく恒久的な原動因とはなりますが、大いなる意志の表出、やる気(大)だけでは物事への対処に微々たる力も持ちません。しかしそのように意志を持った主張として渡されないと、行為実践への動因にはなりませんがまた逆に意志だけやる気だけの主張となることもあります(禍)。そしてその行為実践への意志の表明だけをもってして、ことの真理を得たものとしてしまうものです(津日)。

意志は八つの創造韻の元素(八素)となっているものですが現象そのものとはなりません。八素を創造意志として全面に押し出しては禍となるものです。

身禊の前段の準備が終わって、主体的な真理が確立されたところで、他証を経ずに他者に押しつけることでしょう。宗教芸術の感情情緒による主張のことですし、やる気や意志のみの強制の主張となるでしょう。

これら二神はいずれも今此処の八素として現象させるには、か弱き、強すぎ、惰性的、凝り過ぎ等の禍として現われます。

主体的な真理としては完了していて、個々の現象に対処しているようですが、他者によって立てられた客観事象の上に載り、客観規範に載った上の、主体的な真理の主張です。

中津瀬の実際に運用される重要な場面に到ったことで返って、抽象一般化意志の強がりだけが浮き出ることになりました。この二神(ふたはしら)は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。

よく反省ということが言われますが、反省による自覚は、創造による自覚の上に立てられたものではありません。既得の概念規範に載っていたものですから、その反省も抽象的一般的なものになりがちであり、ひいてはやる気の問題として落ちをつけたがります。

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