【天地の初発(はじめ)の時】5.

≪アは誰でも皆がタカマハラナヤサ。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

天地(あめつち)。

アメツチの読み方を変えてみました。

天(あめ)の、天地(あめつち)の御中今主(みなかいまぬし)。

天を「てん」と読めば真実がでてきません。天皇も表記上の漢字というだけで、律令では「すめみまのみこと」、「すめらみこと」と読んでいました。昔から、てんと読んでいるし、それが通用しているし、訂正されることもありません。

というのも、「すめみまのみこと」や「すめらみこと」読みの内容が分からないから、読めてもオウム返ししているだけになります。

同じように、あめと読んでも、

「なぜ「あめ」というのか、その意味は分からない。そもそもいろいろな言葉の起こりを突きとめることは極めて困難であり、それを強いて解釈しようとすると、必ずおかしな解釈が出てくるものである。【昔も今も、語源の解釈は、十のうち八、九は外れている。一般に皇国の古言は、ただその物や事をあるがままに、安易に呼んだだけで、特別な理屈があるわけではないので、そうした心映えをもって古い書を解釈するべきであるが、世の「物識り」たちは、そういう上代の言語を話していた人々の心をよく考えず、ひたすら漢意によって解釈しようとするので、どれも的外れだ。」(古事記伝。)

ということですが、宣長さんに逆らって「十のうち八、九は外れている。」けれど、どこかにある一分を探そう。

古事記は言霊学でしか解けないのは分かっているのでその線に則っていく。

天はあめで、アの芽(目)であることは分かっていますが、そのアのメのアがダブっていることに、今まで気付きませんでした。

前回、金木と太祝詞音図のア行を次のシェーマをもちいて表現しました。

金木音図。

『ア(ア・タ・カ・マ・ハ・ラ・ナ・ヤ・サ・ワ)-カサタナハマヤラ-ワ』 欲望にはアワの自覚がない

太祝詞音図。

『ア(ア・タ・カ・マ・ハ・ラ・ナ・ヤ・サ・ワ)-タカマハラナヤサ-ワ』 全体的な自己が確立されている

両者共に始めのアにタカマハラナヤサが含まれているという発見がありました。これは先天的に心に実在している為に、自分の主張なり、考えなり、感じとして、自分をあらわしていく積りになれる本体です。

この先天性を設定することで、始めて進行が始められます。

そこで、【 天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、】は上記のシェーマ同様に、次のように読み替えられます。

天(あめ)の、天地(あめつち)の初発の時。

先天のアの芽の、天(アの芽が)地(チに着く)、初めの時。

になります。

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金木音図。

『ア(ア・タ・カ・マ・ハ・ラ・ナ・ヤ・サ・ワ)-カサタナハマヤラ-ワ』 欲望にはア・ワの自覚がない

金木音図は欲求の、知りたい欲しい欲しいの過程をあらわすもので、勝手に現れ出た欲求の充足が問題でした。

目標である知識が欲しい、食い物を得たい、金を欲しい、見たい聞きたいとう五感感覚からの欲求表現なるものに、支配される世界でした。

というのも欲求という形のとり方が、先天の心に成立していく時に、自覚を伴わず、対象相手との結びつきも、目的の為には手段を選ばずにいられる構造にあるからです。

先天の心の中に、欲望という名の目的がそれ自体で設定され心を支配しています。アとして設定された目的が相手との関係を持たないので、常に独自にアなる欲望が支配的にその当人の心の上に君臨しています。

欲望次元での行動形態には、先天的なアという欲望、アという目標が、最初に定立したまま変化なく、充足を完了するまで続きます。

ですので充足を完了した形は、最初に起こした欲望という形と同じです。狙った獲物を逃さないというのは、最初からそれしか頭にないことで、他のことに頭が回っていないことを指します。

無自覚的に設定された受け入れられた初動部。(アの自覚がない)

心の先天構造に始まった欲望の形がそのまま欲望として自分にかき寄せられます。(カ)

それがただちに自己目的なります。(サ)

相手のことも手段も迷惑も何もへったくりもありません。(タ)

行動に向かうには、それらの中で自分にお気に入りが選択され自分の成すべき名分とします。(ナ)

自分に依って立つ名分原理が決まればそれが公言され、自分を鼓舞します。(ハ)

その言葉は目的、相手対象に向かい、自分の為だけに実に成るようにします。(マ)

こうして動きが発揮されていき、客体側が自分側を受け入れさすようにしていきます。(ヤ)

欲望を手に入れる動きには歯止めはなく次次と進行していく世界となります。(ら)

そのため心中に完結する満足がなく、目的がまた端緒に転換して繰り返されます。(ワ無し)

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これに反して太祝詞の

太祝詞音図。

『ア(ア・タ・カ・マ・ハ・ラ・ナ・ヤ・サ・ワ)-タカマハラナヤサ-ワ』 全体的な自己が確立されている

天(あめ)の、天地(あめつち)の初発の時。

先天のアの芽の、天(アの芽が)地(チに着く)、始めの時。

アの芽は、金木とは違う様相を示します。ここでの天(あめ)の、先天のアの芽は、脱皮変態を遂げたアとしてあります。そこでは金木と比較する次元を持ちません。

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実は音図は心の動きを示したもので、心とは五重の家のことですから、音図も五種類あります。心の次元は欲望、知識、感情、選択、意思の五次元で構成されてますので、音図もそれに合ったものがあります。

大嘗祭で用いる一枝の柏に五葉が着くように、もちろん見たことも聞いたこともありませんが柏を用いれば当然そうなりますので、各葉、各次元の人間性能に見合った五十音図があります。

一覧だけ示すと、

金木音図、言霊ウの欲望次元を表現、(学校でならう音図。スメラミコトがユダヤに与えた音図。)

赤玉音図、言霊オの知識次元を表現、

宝音図、言霊アの感情次元を表現、、

天津太祝詞音図、言霊エの選択次元を表現、

天津スガソ音図、言霊イの意思次元を表現、

の五種です。

人間はこの五種の音図を全部合わせ持っていて、一単音を発音するたびに全体が物凄い勢いで脳内を廻転していき、単語、文章を構成していきます。

各音図の初め、つまり、心の始めには共通した、先天のアがあり、このアの取り入れ方に依って各次元が構成されていきます。

先天のア・・・ア(ア・タ・カ・マ・ハ・ラ・ナ・ヤ・サ・ワ)・・・天(あめ)の

心に始まるア・・・ア-タカマハラナヤサ-ワのア・・・天地(あめつち)の初発の時のア、という具合になっていて、全体として見れば、

先天のアの芽の、天(アの芽が)地(チに着く)、始めの時、となります。

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違う次元にいる時には他の次元の言葉をもってして葉その次元を語れません。例えば、禅の公案などは、わざと違う次元の言葉をまぜこぜにして語らすので、通じ合わないのです。つまり発音された言葉は同じですが、次元の違いの上に乗ったものなので下から上には、はてなとなるわけです。

ここで同じ言葉を使うというのが、先天のアが共通だからです。つまり、心である五十音が共通で、心とはたったのこの五十の要素しかなく、その組合せになるからです。

どんな心もたったの五十の要素、古事記冒頭の五十神の名でで暗示されている、から成っていて、その全体をアで現した時、心の性能次元が五つあるので、五つの五十音図もあるということになります。

非常に分かりにくいというか、あまりにも簡単なことというか、この心の五重の塔を了解しないといけないでしょう。

潜在的に人はこの五(い)、家(五重)、五重の塔、息、生き(五の気)、生命(五の道)、柏の葉(五葉)、を持っていますが、その使用法も、表現法も、まったくその人各人によるというわけですが、その生(五)きる道も、五つに分かれています。

先天のアの芽の、天(アの芽が)地(チ)に着く。

今回の≪アは誰でも皆がタカマハラナヤサ。≫というのは自分でも気に入っています。

現代は、日本再生、なんていう時ではなく、世界再生という声が聞こえてきませんか。原爆は世界の再出発に火をつけ、原発は世界の再生に火をつけました。

そしてここの最後に出てくるのがスメラミコトなのです。スメラの「ス」はタカマハラナヤサの最後のサ行にあって、その音図は母音行アイエオウですから、音図上「ス」の位置は最後の最後にきます。スの芽で統(ス)めてらせん状に発展する(ラ)働きを持つのがスメラミコトになります。

世界の教導、世界という「す」のスメラです。

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≪先天のア。【 あめつち 】の完成。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

初発の時の先天のアは、ア(ア・タ・カ・マ・ハ・ラ・ナ・ヤ・サ・ワ)で構成されています。先天内において出来上がったものとしてあるので、心の働きでそれが各次元において簡単に取り出され、自分の心、自我意識のベースとなります。

とはいってもそこから始まる確証があって始まったのではありません。今はこうして綴っていますが、一時間後に書き直せば、明日にもう一度書けば、違うことになり反対のことさえ書くことになることもあります。

でも、いずれの時点でも書いていく時には、自分が書いていて自分の作品であると思えています。記録に残してあるものを後で見れば、なんだこりゃ、ということになります。それぞれ今ここの現時点での表現ですが、何故違いが出て来るのでしょうか。今日と明日では時間差記憶差とかがあるからという面倒なことは省いて、いまの時点でも、自分でいろいろなことが提出できるのは何故でしょうか。

ここの事情は古事記では四番目の神さんの、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)さんが役割を受け持っています。

古事記にはわざわざ、

『 次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、』と説明が付いています。

萌(も)え騰(あが)る物に因りて、というように時と場所を変えたらいくらでも、ごちゃごちゃと、これも自分だあれも自分だ、いまはこう考えた次にこう考えた、自分でもおかしいが全部自分だ、というものがでてきます。

それらが先天のアに含まれていればこそ可能なことです。しかそのようなことを誰が可能にするのでしょうか。矛盾した、背反した、イエスといいノーという、そういった意見が平気で出てくるのはどこからでしょうか。

子供の場合には今泣いたカラスがもう笑ったですが、大人でも変りはありません。

出てくるというのはそれなりの形をもったものですので、それなりの形成された構造があります。あれやこれやの、正反の、陰陽のごちゃごちゃにしろ整然にしろ、そういったものが、浮かべる油のごとく暗気漂える場面で燃え上がってくるのです。

その一つ一つがその人のものとなっていきますから、その人にとっては大層立派なものとなります。それがタカマハラナヤサ音図に内包されているわけです。そしてそれを築いた元があり、引き出す元があるはずです。

今度はここに出てくるのが、金木とも太祝詞ともちがう天津スガソという音図とおもわれます。これは創造意志次元を総括する心を現したものです。

意志はその自在さ勝手さによってこれを手なずけることができません。何時どこのどんな場面でという予定には無関心です。スガソというすがすがしさにおいて自由奔放で自然のままです。

以上を図にすると。

自分のこころ。

↑→ (ここに、五つの音図ができる)

太祝詞音図。(内宮) 【 ち 】

ア-タカマハラナヤサ-ワ

↑ (下全体がアに入る) 【 つ 】

天津太祝詞音図の先天のア

『ア(ア・タ・カ・マ・ハ・ラ・ナ・ヤ・サ・ワ)』

↓↑

天津すがそ音図 【 め 】

↑↓

豊宇気毘売の神 (外宮) 【 あ 】

このようになります。

天(あめ)の、天地(あめつち)の初発の時。

先天のアの芽の、天(アの芽が)地(チに着く)、始めの時。

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宣長さん、これでどうですか。

見てもらえますか。

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≪【 あ・あめつち 】の詳細。全体図≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

心の出来上がる順を【 あ・あめつち 】によって図示すると。

【 あ・あめつち 】。

〇 天地を【あ・あめつち】と読み、【あ・】の部分。➀【 〇あ 】

・人間の頭脳内に何かが起こる。先天構造の活動になる。

➊ 豊宇気毘売の神 (外宮) ➁【 先天●アからアに 。【 あ 】

・伊勢神宮の参拝する時の順序は、外宮から行きます。何故かと申しますと外宮の豊宇気毘売の豊(トヨ)は十四ということですが、先天構造を表します。宇気(ウケ)は食器です。先天構造によってこの世の中に生産されてくる精神的な一切のもの、これを先ず外宮で受け取る。

・原材料の準備。

❷ 天津すがそ音図 ➂【 アからメに 。【 め 】

・ そこで天津菅麻音図という大雑把な入物でもってそれを選別する。 (和久産巣日(ワクムスビ)の神という最小限省略された五十音図がここで出来上がります。これから以降は伊耶那岐命が心の構造として散策する基本としてこの和久産巣日(ワクムスビ)の神である天津菅麻音図を使用する。)

・利用できる材料の選択。

➌ 天津太祝詞音図の先天のア ④【 メからツに 。【 つ 】

・その次にミクビタナに並べる。

『ア(ア・タ・カ・マ・ハ・ラ・ナ・ヤ・サ・ワ)・たかまはらなやさ---』

・材料の活用イメージ化。

(上全体がアに入る)

➍ 太祝詞音図。(内宮) ➄【 チからアメツチに 。【 ち 】

・そうすると内宮の天照大神がその並べたものを自由に操作して、世界の文明を縦貫に創造してまいります。

ア-タカマハラナヤサ-ワ

・実際の運用創造。

↓→ (ここに、五つの音図ができる)

◎ 自分のこころ。 ➅【アメツチの現象創造へ。【 あめつち。】

・それからして言霊の学問には神様はおりません。天照大神なんていう神様はいないんです。天津太祝詞音図という人間の最高の心の構造、人間が持ち得るべき最高の構造、それに天照大神という名前を付けたに過ぎない。

・了解できる客観現象化。自分の心という事実を形成する。

〇 自分の事実となった全体が天地を【あ・あめつち】となって、再度【あ・】の部分に納まる。 ➆【 〇あ 】

・ 先天の宇宙、空、記憶、客観、となる。

・主体内における物象化、記憶、言葉、客体化。 ⑧【 ん、のあめつち 】となる。

● 豊宇気毘売の神 (外宮) ⑨【 ➊ 】に戻る。

以上の【〇あ】から【➀➁➂④➄➅➆⑧⑨➀】、〇あ、への上昇言霊循環をする。

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【 あ・あめつち 】 = 天地

天(あめ)の・天地(あめつち)の初発の時。

先天のアの芽の・天(アの芽が)地(チに着く)、始めの時。

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≪【 あ・あめつち 】の詳細。全体図≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

≪【 あ・あめつち 】の詳細。先天のア。 ➀【 〇あ 】≫。

≪【 あ・あめつち 】の詳細。【 あ 】。 ➁【 先天●アからアに 。≫。

≪【 あ・あめつち 】の詳細。【 め 】 ➂【 アからメに 。≫

≪【 あ・あめつち 】の詳細。【 つ 】。 ④【 メからツに ≫。

≪【 あ・あめつち 】の詳細。【 ち 】。 ➄【 チからアメツチに ≫。

≪【 あ・あめつち 】の詳細。【 あめつち 】。➅【アメツチの現象創造へ ≫

≪【 あ・あめつち 】の詳細。【 あめつち 】。➆【 〇あ 】 ≫

≪【 あ・あめつち 】の詳細。【 あめつち 】。⑧【 ん、のあめつち 】≫

≪【 あ・あめつち 】の詳細。【 〇あ 】。 ⑨【 ➊ 】に戻る。 ≫

何という事もありません。精神活動も生産活動も、材料を集め目的に適うよう吟味して、創造していく、その工程のことです。思い起こせば誰でも知っている事です。神話物語というのは実はこんなことです。

下手にこんなことをシェーマ化すると返ってこんがらかります。勝手に真似てもいいし盗んでもいいしどうしても構いませんが、原理は五千年以上も前に古代大和で完成してしまっていたことを忘れないでください。つまり自分のものと主張する権利など誰にもありません。

これからはフトマニ言霊学で一儲けしたいと思うことができる時代になります。やりたい人を止めるわけにもいきません。神もいないしばちも当たりません。スメラの命になるか、金儲けをするかの選択ですので、どうぞ御勝手に。

問題は一体どこにあるのでしょか。日常の些細なことなのに、非常に拡がった問題となります。

スメラの発見した同じ原理が、大々的に世界宗教を成立させ、モーゼに命じて、戦争、貧困不平等悲惨を世界中に起こし、二千年以上もの間、わけも分からずに神道を保持させ、存在しないのに神という観念に人々を埋没させてきました。

真の古事記の解釈が分かった以上、そこから出てくるのが、文句たらたらなんていう事が考えられるでしょうか。

二千年経った後に古事記の思想の真実を知らさせる意味はなんでしょうか。

0) 大和が世界朝廷の指導の為

1) 全人間が悟りの状態であることを最低条件とする為。

2) 全人間が他人の為に働くようにする為。

3) 全人間が自分の自由を主張しても互いに不都合のないようにする為。

4) ・・・・・・・・・・・

等という前に、早く酔いをさまして、古事記の真実というのを、解明しておかねばなりませんが。

古事記は最初の四文字「あめつち」を繰り返し繰り返し説明しているだけですから、この「あめつち」をやっつけることにしましょう。

今度は、アメツチの四文字だけですか。本当に酔いは覚めていますか。

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1-1。≪先天のア。➀【〇あ】。【あ・あめつち】の詳細≫。【天地の初発(はじめ)の時】

始めに断っておきますが、これはわたしの考えで書くものですから、いい加減でまちがっています。ですのでこれを読んで、そこはこうじゃないかなどと、反対なり反論なりをするのは徒労です。反論したところであなた方の意見も真実を突いていないと言うのは分かり切っています。そもそもスメラミコトの声が聞こえてそれを書き取っているのではありません。

済みませんね、こんな言い方をして。これは強情とかあくが強いとかではありません。自分の意見は自動的に自分のものになるというだけのものです。だからといって正しいとか真実を語っているとかとは違います。正しいと、真実であると、勝手に思い込める必然性があるというだけのことです。

要するに最初から自分の考え、主張を言ってしまうのは、誰もが駄目なレールの上に乗っているということなのです。真実とか正しいとかは、単なる付け足しの装飾です。自分の頭で考えるというのは、根本的に駄目なのです。

学校の先生、人生の先生にも叱られるようなことを言っていますね。止めときましょう。

➀【 あ・あめつち 】。先天のア。

〇 天地を【あ・あめつち】と読み、【あ・】の部分。先天のア。

・人間の頭脳内に何かが起こる。先天構造の活動になる。

心理学なら、無意識、潜在意識、五感以前の了解意識、不注意や気付かない意識、想起以前の記憶、等、与えられた現象意識以前の五感感覚界や、知識記憶界のことが、先天とか無意識とかになるでしょう。現象意識に対するものですから、現象は出てきますが、そのでどころが意識でないところにある領域を設定しています。

フトマニ言霊学では、 人の意識の領域は五重の家(五重、いえ)に、生きて(五着る)、そこで息(五気、いき)をしています。五とは欲望、知識、選択、感情、意志の五重の層のことです。つまり人間のこと全般を指しています。

心理学は学問ですから、それ自体が知識領域からでられません。心を研究する学問ですが、心の使い方には一切無関心です。もちろん、禅の公案にも答えられませんし、政治行政指導、行動の指針など思ってもみません。政治家の心理を言っても、政治を主導する心理学はありません。

フトマニ言霊学の先天はこころの実在する先天のことで、心理学のように心理現象に対応した潜在意識、無意識を扱うのではなく、人間のすること何でもかんでもが心から出てくるのですから、何でもかんでも全てが対象です。スメラ(統すめる)の学問と成る所以です。

そこで、心の対象となる実在世界の先天性を、先天の言霊ア、漢字を借用して天を用い、アメと読ませています。漢語の、テン、という方面からの読みでは何の意味もでてきません。漢字の形を借りても読みは大和(訓読み)です。

アメ(天)、は先天の実在ですが、先天と言うのは現象として解し得ないことを言いますから、先天の実在、という言い方は自己撞着を感じさせると思います。先天が実在しちゃったら後天現象ですから。

また、漢字の天から来たイメージをいくら追求しても大和の日本語にはなりませんけれど、そういった方面の言霊の話が多くあります。それでもって、言葉には霊力があるなんていわれたら、言霊の神さんたちはすねちゃいます。中華の言葉でなく、早くフトマニ言霊に気付きましょう。

ですので、天を空だの宇宙だの霊界のことだのと言っていると、何も、アメ、のことは分かりません。それでも、二千年間分からないけれど、それなりに解釈されて正式の解釈とまでなっていますから、そちらに与したければ訂正することもありません。アイデアの尽きるまでやってもらえればいいのです。

引用。『 古事記神話の冒頭の言葉「天地の初発の時」の天地とは、今お話ししました如く、宇宙物理学や天文学が研究の対象として取扱う人間が外に見る宇宙空間のことではなく、その宇宙や世の中の何かを見たり聞いたりする人自身の内なる心の広がり、即ち精神宇宙のことを言っているのであります。』

何ということもない、毎時毎分毎秒の普通の心の宇宙のことを言っているのです。いい加減なことをことを言う野郎だというのも、拒否しようと感化を受けようと、毎秒の心の宇宙がアメです。

古事記のフトマニ思想の場合にはそれが、アメ、としか言えない理由が冒頭からの百の神で説明されているのです。アメの代わりに、ヘメでもオメでもクソでもケチでもアメの意味を付与すればいいというのが、大和言葉以外の全言語ですが、大和言葉は、こころのアメは「ア・メ」としか語れない原理原則があるので「アメ」となっています。

フトマニの言霊は、心がその表現(言葉)と同じになり、心の要素がその表現(言葉)の要素と同じであるばかりでなく、心の要素が単音として確立していてその表現(言葉)の要素が心の要素の単音と同じものとなっています。

アという時、アにいろいろな意味要素が付加付与されてアが構成されているのではなく、アという時にはアという心がそのまま表現されるということです。

こんなことを聞いて、「あ、そうかな?」というときの「あ、」は、その人の心の全体を表明した「あ」なのです。分かる分からないとか、明細細部化、論理化というのはその後にでてきます。

アの発音は舌の位置がどうの、安の草書体から来たもの、アルファベット表記ではA になり等々のことは、一切「ア」の心のことではありません。

アという時の心の追求と心のアがアと発っせられることの追求から、アという心は、アになり、アというときはアの心の表現となっているものです。基本中の基本ですが立ち止まって省みないかぎり気付きません。

アという時自分の全体が全面に出ます。と同時に相手対象があることに気付いて自分がそれに全面的に向かっていることが了解できています。あるいは別に表現すれば、アということに依って、自分と相手対象とを半々にしていきます。

このようにアの漢字項目からアの意味を引き出す以前に、アにはそれなりの心の動きを現すものがあります。歴史的にアの漢字項目が使用されていて、意味了解が成立していても、それらは全然アそのものの意味を指していませんから、そこから言霊を主張しても、大和日本の言霊ではありません。

そもそもアそのものに意味がなければ言霊にはならないし、それを無視して出来たものは積み木の遊びの言霊です。積み木でつくった言霊の家を崩せば、木材の切り取った破片というだけで、どこにもアはありません。

フトマニの言霊は単音を要素としています。何故なら心の要素はまずは単音で表現されるからです。ではアの言霊は何かというと、主体の心全体が何かに噛み合い結ばれる時をいいます。その心の動きもその状態もアです。あ、を探して試してください。あ、空を見ろ、スーパーマン、の、あ、でもいいです。

アが噛み結ばれることなんていうと、おい、冗談言うなよとなりそうです。というのも普段はアの現象、アで作られた現象の言葉だけが流通使用されているからです。心を落ち着けて、辞書を開けてアの大和言葉のアの使われ方の元々を尋ねてみてください。そこに「主体の全体が何かに噛み合い結ばれる」心の動きを見るでしょう。

古事記はそういった心の動きが五十あることを示して、その一つ一つに神の名を借りて暗示して説明したものです。神というのは心のことであることを示しています。その証拠は、自分で古事記、古文書、宗教書、神道、儀式、おとぎ話、大和の日本語をフトマニ言霊の観点から見たり、考えたりしていけば見つかります。決定的な客観的な証拠が欲しいなら、皇室の御賢所にあるといわれています。

では、古事記ではアは何といわれているかといえば、二番目の高御産巣日の神、です。神名を五十音図の単音に還元してみてください。

た・かみ・むすび、になります。

アの意味内容を示すように漢字を借りると、

田、噛み、結び、になります。

読みは同じで古事記の表記は、『高御産巣日』です。

あ、空をみろ、、、、のアを感じてもらえれば、高御産巣日も感じられるはずです。

言葉は単音で使用するより複数音で一つの意味があるように勘違いしていますし、主語、述語をつけて文章化しないと意味が無いように教育されてしまいました。ですので、ちまたで言う言霊も複数音の単語や一連の文章という扱いになっています。

単音が心であるなどといえば、びっくりされますが、今までフトマニ言霊学の方からの説明がなかったので仕方ないことです。従来の言霊を使ったそのような説明もありますが、ほとんどは漢字の意味からの付け合わせで、イメージ変換というだけですから、単音そのものから出てきた説明はありませんでした。

単音が心であるということは、五十音図には五十しか音がありませんから、それでは、心は五十しかないのか、ということになります。

その答は、その通りです。心は五十の要素しかありません。それは五十の心のそれぞれのちがった要素です。

古代大和は心の五十の要素を発見して、それを体系化して、創造原理として古代大和の全体を作りました。

人間の心の要素は五十しかない。その表現は五十しかない。その出所は五つつの次元層しかない、その働きは八つしかない、五十のうち心の先天構造をつくっているのが十七(省略して十四、とよ、豊)しかない、そのうち心の主体側は五段、五重の塔、それを受ける受容側も五段しかない、等々の構造細分化となっていきました。

心の要素があっても使用運用されて始めて生きてきます。古代大和はここに心の運用も五十の要素からなっていることを発見しました。そして五十を五十で運用していく道筋をつけました。象徴的に三種の神器として五十を分類してあります。

ということで、あめつち、というのは、アの芽が地に着く、着いてち(道)となることです。そこから、アメを取り出すと、アのメ、アのメという心のことになります。

では行きましょう。

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1-2。≪先天のア。➀【〇あ】。【あ・あめつち】の詳細≫。【天地の初発(はじめ)の時】

多くの神代を示す古文献は、神の名をかたった言霊を示しています。世界最真奥の真理であり、世界最高の冗談の形を取っています。ですので、その両方を取り入れたまま両者を解決する方法が見つからなかったので、神道は宗教になりませんでした。あるいは、宗教ではなく心道であるのに、むりやり神道と読み替えたのかもしれません。

なにしろ、反吐(たぐりよせる)、糞(組む要素)、小便(ゆまり、い(五)埋まり)、から神さんが出てくるのですから、冗談の裏には何かあるだろうと思わざるをえません。

同じようなことが数勘定にも当てはめられてます。いちにさん、、、と勘定することが至上の秘密の呪示呪文という真理と冗談を一緒にした解釈です。

先天のアは、

『ア・たかまはらなやさ・ワ』 のア・部分で、その内容は、

≪ア(ア・タ・カ・マ・ハ・ラ・ナ・ヤ・サ・ワ)≫/・たかまはらなやさ・ワ です。

先天のアにタカマハラナヤサが納まっている形です。

ヒフミ算数列で表現すると、(ヒフミ算は9を0とする循環数列)

0-12345678-0 の下0と上0のうち下0のこと。

ヒフミで表現すると

ひふみよいむなや・ここのたり、ふるべ、ゆらゆらとふるべ

一二三四五六七八・九=0 の九を0とした先天をつくる、五十音図母音半母音を除いた形。

ひふみよいむなやこと、もち、ろらね、しきる

一二三四五六七八九十、をもって、ロラの音を、しきる、で、ロ(出発側)から、ラ(到達側)にきた音を、一~十の五十音図の横十列で仕切り直す。

全部言霊循環を指しています。

この循環の一単位をアとします。

アと言う心の動きはどうしても相手対象に結び付こうとします。アーアーァァと結びつこうとする相手対象が五十音図の半母音側です。あ行ならばワになります。ワに配当された神の名は、神産巣日の神です。単音表記では、かみ・むすび、です。

た・かみ・むすび、アの相手方のワです。三番目に出てきます。上記のヒフミ算での0を用いると下0がアで、上0がワです。つまり二番目の神と三番目の神の間に、八の何かがあるというのが神道の秘密です。

これは二から三に向かう時だけでなく、全て次に向かうということは、この八の何ものかを通過するということです。これがスイスイと分かり運用できる方がスメラミコトです。

ヒフミに相当する漢字を探してその意味を並べていますが、全然見当違いです。わたしも早く知りたいと思います。皆さんのコメントを期待しています。

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初発の時の先天のアは、ア(ア・タ・カ・マ・ハ・ラ・ナ・ヤ・サ・ワ)で構成されています。先天内において出来上がったものとしてあるので、心の働きでそれが各次元において簡単に取り出され、自分の心、自我意識のベースとなります。

とはいってもそこから始まる確証があって始まったのではありません。今はこうして綴っていますが、一時間後に書き直したり、明日にもう一度書けば、違うことになり反対のことさえ書くことになることもあります。

でも、いずれの時点でも書いていく時には、自分が書いていて自分のもの、作品であると思えています。記録に残してあるものを後で見れば、なんだこりゃ、ということになります。それぞれ今ここの現時点での表現ですが、何故違いが出て来るのでしょうか。今日と明日では時間差記憶差とかがあるからという面倒なことは省いて、いまの時点でも、自分でいろいろなことが提出できるのは何故でしょうか。

ここの事情は古事記では四番目の神さんの、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)さんが役割を受け持っています。

古事記にはわざわざ、

『 次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、』と説明が付いています。

萌(も)え騰(あが)る物に因りて、というように時と場所を変えたらいくらでも、ごちゃごちゃと、これも自分だあれも自分だ、いまはこう考えた次にこう考えた、自分でもおかしいが全部自分だ、というものがでてきます。

それらが先天のアに含まれていればこそ可能なことです。しかしそのようなことを誰が可能にするのでしょうか。矛盾した、背反した、イエスといいノーという、そういった意見が平気で出てくるのはどこからでしょうか。

子供の場合には今泣いたカラスがもう笑ったですが、ころころ変わるのは大人でも変りはありません。

出てくるというのはそれなりの形をもったものですので、それなりの形成された構造があります。あれやこれやの、正反の、陰陽のごちゃごちゃにしろ整然にしろ、そういったものが、浮かべる油のごとく暗気(くらげ)漂える場面で燃え上がってくるのです。

その一つ一つがその人のものとなっていきますから、その人にとっては大層立派なものとなります。それがタカマハラナヤサ音図に内包されているわけです。そしてそれを築いた元があり、引き出す元があるはずです。

初発の時の先天のアは、ア(ア・タ・カ・マ・ハ・ラ・ナ・ヤ・サ・ワ)で構成されています、と先程いいましたが、先天の内容をこのように言えるのは、古事記という原理の教科書があるからで、一人で考えても到底出てくるものではありません。

第一先天の中味は分からないから先天というのですから、このように書くことが怪しいのです。それをやりとげてしまった、古代の大和の聖人たちは超スーパー怪しい人たちだったと思われます。そういっ人たちがいるというニュースが世界中に伝播していたと言うのですから、古代というのはますます怪しい時代に思えます。

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2-1。≪【 あ・あめつち 】の詳細。【 あ 】。➁【 先天●アからアに 。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

言霊や神を語って金儲けをができる時代です。それを受け入れていくと自分の意見を書き主張し、知的何とかを登録して独り占めに向かいます。自分の意見とすると自動的に財産権なり意匠なりが生じてきて、売買の対象となってしまいます。

そんな思いが無くても自分の主張自分の考えとしていくと、それを保護して擁護して成り固めようとする、排他的な心が自然にでてきます。批判なり論争なりが始まると醜いアヒルの子となります。

金儲けではないですから、自分の意見として書くこともありませんが、古事記をろくに読み込めもしないのに、勝手なことをしているようです。せいぜいできる事は、原理教科書である古事記からは、逸脱しないことです。

そこいら辺の学者が二千人三千人まとめてかかろうと、どうせ古事記にはかないはしないのです。古事記の思想が日本の社会、政治、文化、言語を造ってきて、それによって世界が動いてきたのです。そんなことができる知識人などスメラミコト以外にどこにもいません。

夢妄想と聞こえているのは生半可なわたしが語るからで、他の人や読者が語ればそんなことはないでしょう。

古事記に全面的に寄り掛かり、おんぶしてもらえばいいのです。古事記は世界を背負っているのですから。

そこで、古事記の先天部分はというと、冒頭の十七神が心の先天部分で、五十音図で示せば、両側母音半母音行と横列の一行です。全部で十八になりますが、母音行を人の心に見立てた時の、五母音のうちウ(次元)の母音は、母音半母音とも重複した音でウで共通です。

ウ(母音半母音)が同じということ。

と言うことは心のウの次元では、あ行のウから始まるこころが、わ行のウに到達した時に、何にも変化していないということです。

カレーが食べたいとう先天の欲望が出現して、カレーを食べたいという欲望になりますが、例えばカレーとは何かという知識(オ-ヲの次元)を求めていく場合には、その行き着く先にはカレーとはこういうものだという知的な概念が出来ます。何を食べようか、カレーにしようという選択(エ-ヱの次元)では、選別されたものが出てきます。

食べたい食べたいの欲望の行き着く先はまた欲望なのです。欲望が他を省みず、時と場所を越えて強い力を発揮するのはここにあります。

ということで古事記では先天部は十七なのですが、ここでは詳細は省きます。両母音行と横一列を象徴物象化したものが鳥居で、神域と俗界との結界を示すそのもともとは、先天と後天の五十音図から来ています。

では五十音図の後天はどこにあるかというと、先天と後天とを分けた場合には、両サイドと横一列(これを父韻といいます)を除く、8×4の三十二音です。

しかし、日常で先天の両サイド母音も話しているのにおかしいというときは、鳥居をくぐった後の五十音全体が後天子音となっています。

これは同じものでも、角度、次元、循環した後、等の見方を変えれば変化して説明されるということです。

古事記の上巻は原理教科書として、冒頭の百神を使用して、単音一音が現象化したときをしめしています。人がたったの一音を発音するだけに百の神さんで説明しているわけです。後はそれの繰り返される循環上昇で、同じ原理の繰り返しです。 冒頭にある通り、天地の初発の時、です。その一瞬のただ今中のこととなっています。

くどくど繰り返していますが、角度、次元、循環した後、等の見方のお気に入りで自分を主張していては、古事記がせっかく教えてくれる百神に到達できません。イザナギの「歓喜」を得られなくなってしまうからです。

(だからといってわたしに期待するのは止めてくださいよ。皆さん一人一人の問題なのですから。)

相変わらず脱線脱線ですが、【 あ 】から、【めつち】に何とか行かなければなりません。

ここではまだ、先天のアの話です。

上で話した通り、先天といっても、五十音図の鳥居形部分であったり、全体であったりしますので、説明が下手だと文句をいう前に、各自で再確認をお願いします。

先天のアから、使用できるアへ。

先天部は冒頭十七神ですが、ここではその運用ですので、先天十七神そのものの説明は後のことにして、古事記のページを進め、伊耶那美の神避(かむさ)り段落部分を参考にします。

『 この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。』

『 たぐりに生(な)りませる神の名は

(1) 金山毘古(かなやまびこ)の神。

(2) 次に金山毘売(びめ)の神。』

『 次に屎(くそ)に成りませる神の名は

(3) 波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。

(4) 次に波邇夜須毘売(ひめ)の神。』

『 次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は

(5) 弥都波能売(みつはのめ)の神。

(6) 次に和久産巣日(わくむすび)の神。

(7) この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふ。』

『 かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。』

(6)の 和久産巣日(わくむすび)の神、を五十音図の単音で読み直して、分かり易いように書き換えると、

和久産巣日、わく・むすび、枠・結び、

になりますが、この書き換えたものの内容にうまく到達することが今の目的です。ここを、あめつち、に適応させてみようというものです。神代の巻きは原理原則での記述ですから、そのままでは何だか分かりません。ここでは先天のアの話ですからそれに則していきます。

この六神プラス一神、の領域の大体の様相は、国(組んで・似せる)生みの吉備の児島の解になります。

吉備の児島。

「吉く備(吉備)わった初期(児)の締まり(島)と言った意 五十個の言霊を集めて形だけは五十音図としてまとめたけれど、その内容はまだ詳細には確認されていない段階ということです 。

初歩的では有りますが豊宇気として先天の性質を受け持っているこの五十音の枠結びを天津菅麻(音図)と呼びます 菅曽(すがそ)は菅麻とも書き先天・大自然そのままの性質の音図(すがすがしい衣の意)のことです 例えばこの世に生れたままの赤ちゃんの心の性能の構造といえるでしょう。」

になります。整理、分類、分析が進んで、集め取り扱う材料のそれぞれの位置取りが全体図の中で出来上がったというところです。

先天の可能性としては、地球の全何十億、宇宙の何百億の歴史を表現できることになりますが、 各人のそれぞれの経験概念として表現されますから、そう目茶なことも言えません。

簡単に上記の神(心の動き)の流れを、枠・結び、に至るように記してみましょう。

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2-2。≪【 先天●アからアに】。➁。 【 あ・あめつち 】の詳細。 ≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

『 この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。』

・こころの現れである全部の心の要素を生みたまひしによりて、これ以上産む要素は無いので、陰、ほと、霊止、子の出来る所、の機能は必要でなくなり、病(や)み臥(こや)せりとなりました。

『 たぐりに生(な)りませる神の名は、 (1) 金山毘古(かなやまびこ)の神。 (2) 次に金山毘売(びめ)の神。』

・必要充分な全部の五十の要素をこれ以上産むことがなく、それらをたぐり寄せ集めるとそこに成りませる、金山、かな・やま、神名・やま、表現された五十音言霊の山が出来てきます。この表現されたかなやまは、文字として、言語としてその姿を現し、そのかなやまは、毘古(びこ)の主体側の音と、毘売(びめ)の客体側の文字となった形をとります。

『 次に(くそ)に成りませる神の名は、 (3) 波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。 (4) 次に波邇夜須毘売(ひめ)の神。』

・要素がたぐりよせ集められ、そこにそれぞれの音と形(文字)があるのが分かりました。今度は、音であるものと形であるものが一致していなければ使い道がありません。それを確かめます。発音された音があっても内容が無く形を成さない場合がありますので。

音と形の組み合った要素(組素、くそ、糞、屎)の表現されたもので、 波邇(はに、昔は粘土板に書いた、埴土、立太子の礼(りったいしのれい)で壷切の儀式で使う壺の中にはいっているアイウエオの粘土板)となって正確で安定した夜須(やすらか、安らか)であることの確認。

「C」と書いてあっても、シー、ツェー、セー、等の発音で通じ合わないことがある。毘古(びこ)の主体側の音と、毘売(びめ)の客体側の文字。

『 次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は、 (5) 弥都波能売(みつはのめ)の神。

・各要素の単位がたぐり寄せられ、組合せに耐える組素になっているのが分かりました。次いで、絵合わせパズルみたいに、五十音を整列させてみます。パズルでも最初に特徴のある四隅を固定するように、五十音図の五段を固定します。

小便、尿、ゆまり、い・うまり、五・埋まり、で、各五つの母音で分け、五つの母音を並べて見たということです。

並べ方は、い・埋まり、ですから、イが一番下にきます。そして、天空のアメのアが上にきて、中に三つの残りが入ります。この残りの三つが、弥都波能売、みつ・はの・め、三つの言葉の網の目、となります。

母音に添って他を配置していくと五十音図になります。その様子はちょうど網の目のようです。

『 (6) 次に和久産巣日(わくむすび)の神。』

・四隅の母音行は埋まりました。今度は両枠を連結しなくては成りません。両脇が立つと同時に中間にも笠、貫、が入らねばなりません。

和久産巣日、わく・むすび、枠・結び、で、五十の要素は全部はめ込むことができました。こうして枠結び・和久産巣日が成立しました。

五十を要素を空間、間、に縦横に埋めることはできました。縦はTKMHRNYSの父韻によって、横はAIUEO によりました。

しかし、結ばれ方の意味内容を適用して完成したものではありません。それどころか、意味内容は無く後から後から勝手に、湧き結ぶ、枠結ぶ、といったものとなっています。意図に沿って確定する以前に、先天的に各人の隠しもっている音図です。

この不思議な五十音図の空間が、天津菅曽(麻、すがそ)音図と呼ばれます。

この音図が猛威を奮うわけです。人をして、人を知らず知らずのうちに動かしていきます。 先天の【 あ 】の正体と思われます。こやつが、自我の顔をして、自分ものだ、主張だ、自分で考えたものだという顔をして、我が物顔で振る舞う実体ではないでしょうか。

先天にこのアの全体があるために、その表現ができることになるのですが、そさ自体が先天的にあったのではないので、それに材料、要素、エネルギーを供給するものがなければなりません。それが、

『(7) この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふ。』

になります。普通には、

・「尿から若い生産力の神である和久産巣日神が誕生。その神の子が豊受気毘売の神。穀物の神、御食津の神とされる。天照大御神の食事を司る神。」となっています。

小便からうまれた神の子が食物を司る、なんていうのはふつうには思いも付かないことで、だから神話だといわれて、またそれを神として祀るというのも考えられないことです。せいぜい小便のことは忘れて、食物豊穣神ということにして納得しているのでしょうか。それでも、天照大御神の食事を司るが、天照大神の判断規範を仰ぎ、歴史行為を創造するための、材料資料を整備して提供していることと通じています。ですので当然、小便、ゆまり、五埋まり、も通過することになります。

以下引用。

「この神の子は豊宇気毘売の神といふ。

参拝。

普通は外宮から行くのが本当です。内宮からが順序かと思われておりますが、一般的には外宮から行きます。何故かと申しますと外宮の豊宇気毘売の豊(トヨ)は十四ということですが、先天構造を表します。宇気(ウケ)は食器です。先天構造によってこの世の中に生産されてくる精神的な一切のもの、これを先ず外宮で受け取る。

豊宇気毘売の神の豊とは十四(とよ)の意で心の先天構造十七言霊の中のアオウエイ・ワ・チイキミシリヒニの十四言霊のことで、豊とは先天構造を指します。宇気(うけ)とは盃(うけ)で入れ物のことです。豊宇気毘売全部で心の先天構造から成る入物(いれもの)を秘めているの意となります。「この神の子」と言う言葉が古事記に出て来る時は「この神の内容、働き、活用法、活用から現われる結論」等を意味します。豊宇気毘売とは豊受姫とも書き、伊勢神宮の外宮の主宰神であります。「心の先天構造で出来ている入れ物を秘めている神」では意味が明らかではありませんが、この神が伊勢外宮の神である、となりますと、内容が明らかとなります。

和久産巣日の神の内容が「五十音言霊を整理し、それを活用するに当り、先ず「五埋(いうま)り」によって母音アオウエイの順序に従って五十音を並べて枠の中に囲んで整理した働き」が分りました。しかしその整理は五十音図として初歩的に並べたものであって、どうしてその様に並んだのかの内容はまだ不明という事でありました。しかし「この神の子(活用法)である豊宇気毘売の神」が伊勢内宮の天照大神と並んで外宮の神として祭られている事実を考えますと、次の様な事が明らかになって来ます。

金山毘古の神に始まる五十音言霊の整理・活用を検討する作業が進み、最終結論として三貴子(みはしらのうづみこ)が生まれます。その中の一神、天照大神は言霊学の最高神であり、言霊五十音の理想の配列構造を持った人類文明創造の鏡であり、その鏡を祀る宮が伊勢の内宮であります。その内宮の鏡の原理に基づいて外宮の豊宇気毘売の神は世界の心物の生産のすべてを人類の歴史を創造するための材料として所を得しめる役目の神であるという事になります。和久産巣日の神とは言霊五十音の初歩的な整理ではありますが、その活用の役目である豊宇気毘売の神が、言霊整理活用の総結論である天照大神を鏡として戴く事によって世界中の文化一切に歴史創造という枠を結ばせる事となる消息を御理解頂けるものと思います。」

引用ここまで。

枠結び(和久産巣日)の神の主体活動を導き出す元が豊宇気にありますから、和久産巣日は豊宇気の、絶対的な配下にあります。

とはいっても豊宇気は天照らすをも配下に置いているわけではありません。天照らすも和久産巣日も同じ五十音ですが、五十音のその配置は脱皮を終えたヤゴとトンボの違いのように根本的に違います。

そして、この段の最後に、

『 かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。』

がきます。

もちろんイザナミが死ぬことではなく、イザナギの主体側に形態として全面的に入り込みイザナギを支配するほどの威力をもって生き続けるということです。ただし、イザナギの禊祓まではという条件付きです。千年以上固定した神道常識とは違います。(イザナミは、子の一木(ひとつき)に易(か)わっているだけですので)

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2-3。≪【 先天●アからアの形成】。➁。 【 あ・あめつち 】の詳細。 ≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

イザナミは決して死ぬことは無く、イザナギの内に全面的に生き続けていきます。神道常識にするとおかしいことを言っていますが、今後の世界を背負う正しい古事記解釈では当然こうなります。

これは文献の読み方の違いということではなく、何でもない日常茶飯事の全てが、イザナミがイザナギの内に生きているから成りたっていくことをみればいいだけのことです。DVD、写真をみようとする時など現代のイザナミが生き返るときですし、何よりも、文字文章を読もうとする時、記憶概念が出てくる時など、イザナミと一緒に生きるということです。

異に大事にされ過ぎている知識記憶概念が、常識というものの形を作って、その殻の中に閉じこもることができるということも、イザナミが死なないでそれが千年以上も続いているというわけです。

もし千年続いたから正しいと主張したければ、主張していただければよいことです。確かにこの千年間は正しい主張として通用していましたし、それなりの保持される努力がありました。そういう点からは、まことにご苦労なことでした。忘れ去られず消失をまぬかれ面々と続けてこられたことを感謝いたします。それがなければフトマニ言霊学のような見解の成立もおぼつきませんでした。

これからは、この古事記の神代の巻きは「心」を述べたものであるという正しい主張を、今までの理解では対処できないことがお分かりいただけるように、皆様方の今までの主張の出所を、古事記に沿って明かしていけばよいわけです。

まずはその古事記と言霊の関連を問う学問(スメラミコトの学問)が、明治天皇から始まっていることを証しておきます。

http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama/futomani/08_1222.html

http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama/lecture/no184/no184.htm

歴史上でも時折星は輝きましたが、全面的に発表する時期ではありませんでした。例えば日蓮は伊勢で教わることがあったのでしょう、その後の手紙に、真の教えが(フトマニ言霊学)でてきた時には自分の教えなど、お日さんが昇った後のろうそくの光とまでいっています。

もちろん歴史と権威をあげつらっても自分のすることが正しいということにはならず、皆が理解するということでもありません。第一ろくに漢字も読めないのに、原文の読み方はまったく他人任せです。今までの人たちの努力を受け取らなければどうにもなりません。

そういった今までの見解は間違いと言いながら、それを基礎として解していくのは矛盾というものです。学問の進歩という人もいますが、そこから逃れる、乗り越える道はただ一つです。伊耶那岐の大神が行なった心の禊祓を真似することしかありません。

新しい見解だ、新発見を元にした新解釈だ、新アイデアだなどといっていたら、概念に概念を重ねて、知識での満足を得るだけのことになります。満足を真理と言い替えていくだけのものです。せいぜいノーベル賞を得るくらいのものです。

伊耶那岐大神の禊祓は、人はそういった経過を辿り易い心を持っていることを禊祓するためのものですので、水行水浴びとは違います。心の禊祓に水など一切必要でありません。ここでも今までの常識とは違うことになりますが、よって立つ次元が違いますから全てが違います。今後はいちいちそそんなことを言うのを止めましょう。

いちいちそんなことを言わなくても通用させるのが心の禊祓ですから、各人が心を保持していけばいいことです。伊耶那岐の言うように心の 「醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国」 から、心の問題として脱皮しなければなりません。禊祓を通過して出てくる言葉は言葉の質が違うのです。わたしはまだそうなっていないため、ごちゃごちゃと書くはめになっています。

時の流れ変化は早く、フトマニ言霊学の理解が追いついていかないようにみえます。フトマニ言霊学以外に世界を指導する思想は存在しないのに、それを理解する方がいません。ブログを探してもまるきり普及伝播しているとはいえず、そもそも大本の天皇家が古事記の神話との縁を切ってしまっています。神話としての縁を切るのはいいのですが、古事記が精神の原理であることを未だに発表しようとしません。

それが発表されたら天地がひっくりかえります。日本はただちに日本国憲法を破棄して、国連憲章を廃棄して、世界指導要綱に変更しなくてはなりません。それだけの準備がまだ日本にはありませんから、発表することもありませんが。

やきもやしても、あせっても、自分の勉強ができるようになったり、自覚覚醒が突出することもありませんので、つべこべいうこともありません。第一自らの禊祓がまだ入り口にも達していないのですから。

伊耶那岐は言いました。「かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」と。

御身は、おほみま、オ・ホ・ミ・マ、大いなる(お)、精神主体、霊(ほ)と客観実体(み)の両者の間(ま)を合体統一して、自らが各人が宇宙唯一神となる、ということでその禊祓をしようとすることです。この主客の間(ま)の戸を開き取り払うのが、大嘗祭での御衾(ふすま)・伏す間、の儀式にもなっています。

醜(しこ)め醜めきは、し・こめ、四・込める・固める、で、四は黄泉、四方津国・予母都国のよ(四)で四方、五十音図の四方を囲み固め込むこと、主体的な発展を望まず押さえ込み、現象結果の過去世界に閉じこもること。

穢(きた)なきは、き・た・なき、気・田・無き、で、閉じ籠もり主体の動きを無化して、過去に執着して調和した発展を拒否すること。

簡単に言うと、記憶や概念知識これらに囚われることに相当します。仏教では悟りと言ってそれ自体が目標になっていますが、古事記はそれが最低条件となってそこからが始まりです。 全宗教と古事記の次元の高さの差を見ることと思います。

(自分を鼓舞する為の古事記の宣伝でした。知識概念では多くのことが分かりかけていますが、最低必要条件であるアの次元、悟りの次元、がベースになっていません。知識だけが道案内では心細いです。)

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意志はその自在さ勝手さによってこれを手なずけることができません。何時どこのどんな場面でという予定には無関心です。天津スガソというすがすがしさにおいて自由奔放で自然のままです。

アメツチのアが出てくる時がちょうどそんな調子です。それぞれの場面にいて、それなりの反応反省反照から一応は場面にあった言葉と態度がでてきますが、そうでなければならない理由はありません。

返ってひとたび事が始まり、一言目がでてしまうと、その最初の言葉に整合性を併せていくようにしてしまいます。それが自己目的になり、連続していき、自分のもの、自分の主張意見となってしまうことが多いようです。

ここが「醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国」の始まりです。禊祓の段落ではないので、禊祓の仕方には向かわず、そのまま黄泉、四母津国を形成していきます。

最初の一言、最初に浮かんだ言葉、最初のイメージがその後の全てを主導していき、後から続いていく部分は比較的簡単に、前承、前承で行けばいいし、そのように進むものです。

ところが、肝心の最初の一言に関しては各人誰でもが何故そうなのかを知りません。最初の一言との連結を見失い、時間を経た後また書き直したような時、前とは違う書き出しで違うことを言うこともあります。

この最初の出だし出所が、先天のア、先天のアで構成された天津菅麻(すがそ)五十音図にあります。

ここでの話は常に現象表現となる以前の先天のことですから、各人がその先天から何かを選ばされて自分に取り入れて、自我の形をとって、自分を主張していきます。

ですので、元はといえば自我など無く、天津菅麻(すがそ)五十音図が頭脳内先天にあっただけなのです。天津は先天ということで、菅麻(すがそ)はすがすがしい清らかで、まみれ汚れたもののないということです。

最初の一言はここからでてきますから、その清らかさ初々しさ、潔白さによってその当人を充分に引きつけるものとなっていきます。それがそのまま出だしとして固定してしまうのも無理がありません。

黄泉国の世界は純白潔白から始まっていました。

もちろん、それは正しいとか間違っているとかに関係なく、立派とか貧弱とか、正義の意見とか悪に手を貸すものだとか、いうことにも関係しません。人は最初に定立されたアに魅せられるてしまうということです。

人の心が黄泉の国に留まるとは、純白のドレスを着て、自らの動きを止めることです。黄泉の国自体が汚いしこめの国ということではありません。イザナミは動きの取れない固いドレスで固められたということになります。

先天のアの芽が、あになろうというのに黄泉の国の話をしているようですが、その経過、構造を示そうというものですから、黄泉の国そのものの話と取らないように願います。

『 ここに伊耶那美の命の答へたまはく、 「悔(くや)しかも、速(と)く来まさず。吾は黄泉戸喫(へぐひ)しつ。』

黄泉戸喫は、四方(黄泉)の戸(と)を喰う、取り入れた、ことで、固定された五十音図から出たくない、ということです。

「黄泉戸喫というのは、 黄泉国の竈で煮炊きしたものを食べることを言う。これこそ火を忌み清めることのもとである。」(宣長)ではなく、戸を「へ」と読ませて、「へ」の意味をとらずに、「戸」の意味をとったものです。戸というのは、先天から後天へ渡る戸、五十音図の中での、横列の移動の為に単音から単音へ戸を開けて渡ることです。普通に言えば、あ、か、さ、た、、、、、と読んでいくことです。

つまり、先天内で、そこにある五十音図(スガソ)を取り入れたということです。

例えば、何をいっているのか「読んでも分からない」という時、その言葉が発せられる以前に頭脳内の先天で形成されるのに必要な元々の言語規範図を取り入れたということです。「読んでも分からない」といった時には後天現象ですから、それを構成する要素がありますが、その要素は運用されなければ言葉の列となりません。その列を造る規範図のことです。

「読んでも分からない」というのは必ずしもこう発音されるとはかぎらず、「なんだこいつの言うことは」「めちゃくちゃだ」「けしからん」「なるほど」等々になるだろう不明な言葉群の一つです。脳内の規範図にはそれらの全てが整っていて、正しい言葉正しい判断とかに関係なく、先天的にあります。

それらの選択肢を排除して規範の四隅の戸を閉めてしまい、固め成して、どれか一つだけを喰い自分のものとすることが、黄泉戸喫です。

この経過過程は、必ず通過するものですから、その都度禊祓が行なわれならないのですが、通常は不問にされます。

さて、アの芽はこうしてでてきます。

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