≪美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ。≫

≪美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ。≫

≪1。美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ。≫

父韻とか父韻の働きとか言っていますか実際にどのようなものかを探るためにマグハヒの段落を引用して探ってみたい。また自分の経験をよーく省みてマグハヒを検証していきたい。

段落を細かく区切っていきます。まず、引用に要点を付します。

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まぐわいの段落。

【 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。】

・まぐわいの先天。(まぐわいしたいという前にまぐわいに至る先天構造や先天条件状態があること。)

【 かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、これ淤能碁呂島(おのろご)なり。】

・まぐわいの当事者にそれぞれの領域が確保されていること。

【 その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。】

・まぐわいの当事者に行為の基盤ができていること。

【 ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、】

・まぐわいの主体側に意思表示があること。(能動側父韻)

【答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。】

・まぐわいの客体側に主体側が受けいれられる条件があること。(客体側の客観条件)

【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、】

・主体側の行為が客体側に受けいれられるかどうかを確かめること。(主体側の働き条件。)

【伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。】

・客体側による条件受諾(受動側父韻)

・まぐわいの実行の先天構造。(まぐわいに至る行為の先天がかんびしていること。)

【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。】

【 かく期(ちぎ)りて、すなはち詔りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、】

・まぐわいの実践行為の当事者間の領域了解。(当事者が実践する領域の確立の精神的な了解、約束。)

【約(ちぎ)り竟(を)へて廻りたまふ時に、伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、】

・実際のまぐわいの表現表出実体の客体側からする一人立ち。

【後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とのりたまひき。】

・実際のまぐわいの内容働きの主体側からする一人立ち。

【 おのもおのものりたまひ竟(を)へて後に、その妹に告りたまひしく、「女人(おみな)先だち言へるはふさはず」とのりたまひき。】

・内容実体にまだ名が付けられていないのに、客体側だけが一般化していくこと。

【 然れども隠処(くみど)に興(おこ)して子水蛭子(みこひるこ)を生みたまひき。この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去(や)りつ。次に淡島を生みたまひき。こも子の例(かず)に入らず。】

・客体側の一般化を現象とすること。(主体側の意志が無いが、心の客観領域として創造される。観念世界の創造)

【ここに二柱の神議(はか)りたまひて、「今、吾が生める子ふさわず。なほうべ天つ神の御所(みもと)に白(まを)さな」とのりたまひて、すなはち共に参(ま)ゐ上がりて、天つ神の命を請ひたまひき。ここに天つ神の命以ちて、太卜(ふとまに)に卜(うら)へてのりたまひしく、「女(おみな)の先立ち言ひしに因りてふさはず、また還り降りて改め言へ」とのりたまひき。

・観念世界の創造への反省。(主体側には常に反省心がある。)

【 かれここに降りまして、更にその天の御柱を往き廻りたまふこと、先の如くなりき。ここに伊耶那岐の命、まづ「あなにやし、えをとめを」とのりたまひ、後に妹伊耶那美の命、「あなにやし、えをとこを」とのりたまひき。かくのりたまひ竟へて、御合いまして、】

・正当な主体側の納得する、現象の創造へ。

【 子淡路の穂の狭別の島~ 両児(ふたご)の島を生みたまひき。(1)~(14)】

・心の現象創造のための十四領域

▲▲▲ここまで▲▲▲

引用文が長くそれに説明も加えると馬鹿みたいに長たらしくなります。 さらにまぐわいなどというとそれなりの時間がかかる事を取り上げているように見えます。

しかしそういうことではなく、冒頭の「吾の眼が着いて地に成る初発の時」の始めの瞬間の話なのです。イマココの瞬間を語ると百の過程があり、ここではその自意識の始めの父韻の働きを見ようというものです。

瞬間は書けば書き切れないほど長い百行程を内包しているものです。言い換えれば「今」というのも同じことです。つまり三貴子までが一瞬の今を記述したものなのです。古事記の冒頭は一瞬の今を原理的に解明したものです。

この今一瞬の原理が完成貫徹しているからこそ、どこのどの場面においても適用応用できます。世界中の哲学者、宗教家が何万人集まろうと屁の河童です。

まったく古事記の超知能にはあきれるほど素晴らしいものです。

通常はそれを行為として難なく無自覚的にこなしていくわけですが。

≪2。みとのまぐはひせむ。≫

何とか父韻を理解しないとものになりません。頑張っていますが、そういった理解は駄目だと言われています。

「父韻を説明するに結局は伊豆野目に落ち着く、理論的な父韻は嘘っぱちの父韻、父韻が全てを創造するのですから、イ次元に存在してイの働きそのもの、伊弉諾尊の一切の働きが父韻、ということは創造そのもの、創造が分からなければ父韻は説けないということになります。」

「創造の光ですからイ次元に足を置かないと父韻は説けないということに気が付きましたから、だから何を言ったところで嘘っぱち。理論的には間違いはないでしょうが。何にもない所から一切を創造する原動力は無一物から万物を創造する、その最初の力動が父韻、最初の最初ですから伊豆能目というのです。」

ということで私の書くことは「嘘っぱち」ですので、ご注意ください。もし嘘が見抜けましたら何処からどう始まった嘘なのか、その端緒を教えてもらえれば幸いです。

いろいろと浮かんでくることはあります。

・身近な例で

・まぐわい・性交で

・父韻の解説を利用して

・「今」とは何かという風に、

・瞬間は何故創造的か

・何が何故在るのか

と、いうように、経験的なものから行こうか観念的なものから行こうかとっつきを探しています。

いずれにしろとっつきは私の過去知識経験概念の所有されているだけのものがでてきて、比較や書いていく内に思いつきが加わり考えが加わるなりして膨らんでくるものです。

知っているものしか知らないし、知っているものは単なる過去知識だし、それは誰かの主張見解から来ているし、自分で造ったものではないけれど自分が思ったとするものです。

最初のとっつきは自分から起きたものとしますから、その基盤を崩さない限りそのとっつきが膨らんでいくだけのことです。後から成否良否などがくっついてくるのでそれも自分のものとして保護していくでしょう。

心の所有物観念も自分のものを持てば所有欲保護心から、貯蓄しそこからそれを増大したいという思いなども生まれてきます。

そんなことでは、いったいどこに心の原理があるのでしょうか。古事記は心の原理論だなどと言っておきながら全然その運用を無視しているではないですか。

しかし、原理論を知らなければそこから始めることはできません。ということは私には原理を適応していくことができないということです。

そんなことなら書くな。書いたところで詰まらない感想、独りよがりの思いでの主張に過ぎなくなります。せいぜい新しい知識や見方の調味料をふりかけるだけのものでしょう。

さあ、ここでどうするか。

まず原文を理解することから始めましょうか。

≪3。みとのまぐはひせむ。≫

この段落はオノゴロ島という己の心の島の成り立ちとその働きが記述されています。すなわち自分の心の発生とその運用についてです。

その肝心なところは自分の心には先天の構造があるということです。

さらに先天の構造以前に遡ることはできません。そのように観念は動き、元の元は神じゃないかと遡れますが、それは人間には分からないことです。

そこにあるのは人間、生物、無生物、鉱物に与えられた「先天天与の性能」があるというだけです。

もしそこで「それが神だ」というと、言った時点で先天天与で無くなり、人の関与するものとなってしまいます。その意味で神がいるというのなら結構なことで、まさしく神とは人間が造ったものといえるでしょう。

この問題はこれ以上は立ち入らず、分からないものは分からないとするのを正解とします。

先天の構造から例えばマグアイをしたい、古事記を読みたいと自分の心が何かの対象を求めてすぐ働きだすように見えますが、実はその働きを支える宇宙世界の構造が先天的にあって、それに従わざるを得ないというところから始まるのが本当です。説明可能な先天実在から始めます。

別の言葉を使えば自我があるとか自分の考えがあるとかいいますが、実はそんなものはなく後から出てきたものです。自分の意志によって何でもが始まるのではなく、自分の意志を意志足らしめる先天構造がまずあります。

この先天の構造をここでは天津神諸々といっています。自分の心の先天のことで、この心の先天が時処位もろとも一つの全体として、瞬間的に今の存在が未来に向かって動いていくのです。

古事記冒頭の精神構造の十七神の原理の記述が先天実在として終わり、今度はその働きとなります。そしてその働きにおいて各神が明らかになります。

自分ではない先天があると言い出すと、それではそれが神だとなりそうですが、先天の実在世界はそれだけでは何の作用もしません。

実体は働きではなく、実在は作用ではありません。

古事記の冒頭を解読すれば、アメツチ(天地)は吾の眼が付いて地に成るで、私の主体意識の働きをまず置いています。おや何だどうしたんだ、という意識のとっつきがなければ始まらないと言うことです。この吾(私)が成るということにおいて天津神諸々が、イザそれでは、と動き出すのです。

そしてその働きが実体を成し、実体であることの印(名)を与えるのです。これが心の現象創造といわれます。

これから父韻とは何かを扱うわけですが、この質問形式である何々とは何かという問い方は普遍的に通用しています。ところが、この質問形式をそのまま受け取ってしまうと、働きにおいて出現する実体が、働き無しで設定されるということが起きます。

父韻とは何か何々とは何かと問うと、何々なるものがまずあると設定されますが、そこにあるのは聞き及び学び知った記憶概念が出てきただけです。自分において何々であるものを創造了解したものではありません。

働きにおいて実体が了解されないとその姿は現れません。その先天実在から現象実在への橋渡しが父韻となります。

≪4。みとのまぐはひせむ。≫

【 ここに天つ神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。】

・まぐわいの先天。(まぐわいしたいという前にまぐわいに至る先天構造や先天条件状態実在、先天実体があること。)

【天つ神諸(もろもろ)】 天つは先天のこと。冒頭に別天つ神五柱とありますから、冒頭五神とするのが多数意見ですが、十七神全体で諸々です。実体と働きの統体が無ければ何もおきません。

つぎにある命(みこと)という働きの内容を示したもので、天つ神という先天の実体を指します。

(冒頭にある三五七の数字は、造化三神、五柱の別天神、神世七代になっていますが、何故なのかその真意は分かりません。わざと数に囚われるようにさせる目くらましかもしれません。コトタマ学では造化三神以外は無視しているようです。

神世七代は神世(先天)ナナヨ=7(な)×7(な)+4(よ)=4+9+4=17で冒頭全体の先天構造十七神ともとれます。)

【諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて】 「諸々」を重ねても通用するので重ねました。「命」は命令やお言葉というものではなく、働きのことです。先天十七神の働きによって、になります。働き内容の実体をもちてという全体表示です。

訳は「天つ神十七神の実体が働きをはじめて」、になります。

ところが、十七神は実体ですからそれ自身に働きはありません。そこで神(実体)と働きが噛み結ばれていることが必要となります。

十七神の先天実体が働きを持つには、創造動因の上に乗って、その創造動因の内容になっていなければなりません。その働きの上に実体が乗っていることを示したのが、

【伊耶那岐の命伊耶那美の命】 で、前段では【次に伊耶那岐の神、次に伊耶那美の神】というように【神】であったのが、直ちに【命】になっています。何遍も繰り返す通り、実体そのもの神そのものでは何の作用も起せませんから、名前を【命】(働き)に変えています。

同じ名前が付いていても実体と働き、「神」と「命」では次元がちがいます。

吾(ア・主体)に心の活動が始まり、「地」である先天構造に眼が付くとき、「先天の神」の活動が起こり、ここに先天の主客が成立します。

ついで、その交渉が始まろうとします。それ自身には動きの無い実体が他の実体と交渉するには、実体を動かし働かす力が要ります。

また実体が実体と関係するのは、能動側の働きが受動側の働きに受けいれられるからです。

ペンをとり字を書く時、ペンには手にとって自由にされる働きが内包されているから、能動的な働きに応じることができます。この同じ構造が後に言葉の発生になっていき、人の創造行為になっていきます。

【 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、】がギミの「神」ではなく「命」に応対する理由があります。そのことによって実体の移動、作用、変化等の実体側が動いていきます。

ついで能動側の働きが受動側に相互に対応し合い相互に働くための共通項を見いだすことになります。直接まぐわいをするのではありません。それに至る道のりがあります。

【伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、】

ここから見ると天つ神諸々が詔りたまひて(命令して)、ということで、天つ神諸々がギミの命に詔りたまひているのだから、天つ神諸々にはギミの命は含まれないのではと思うこともできます。

百段の階段や山頂を登り詰めて「よく登ったね」というとき、最後のしめの一歩に対してよくやったと感嘆してもそこにあるのは経過全体です。十七神のどの神に対しても個別にいうこともできるし全体を一繋がりにしてもいえます。

下段が上段に含まれるように、入り口が出口に含まれるように、十七神の出口となっている伊耶那岐の神と伊耶那美の神は前段の神々を全て含んでいます。

古事記百神では後述の神は前述の神を全て螺旋上昇状に含んでいるのです。

今までのような正統な普通の理解じゃないというのなら、普通に自然界を見てください。現在のあなたは赤ちゃん時代、幼少年時代を全部含んでいるし、大きくなった木も若木双葉種の時代を含んでいたし、何かを言われるときには過去全部を含めた今現在の状態を指して【詔りたまひ】となるはずです。

能動側の働きが向かう相手を確かめなくてはなりません。まぐあいでも、「きみの瞳に吸い込まれてしまう」なんて言って見つめたままなら、何も起きないのです。マグワイに至る過程としてならあるかも知れませんが、まぐわいではありません。

そこでまぐわいに相当する相手側の実体部と働き部分とを、合一するものと合一する働きに沿うような、実体と働きを探すことになります。

ここではこれから働きが述べられていきますから、十七全体を「神」から「命」へ変えました。はじめにとっつきとして述べたように、吾(私)の眼がつくという働きにおいて、その経過の最後にギミの命になっています。

古事記の記述での神は、前述の神全部を含んで「次」の神が出てきます。成人であることが幼少青年時代全部を含むようにです。既出の神は「次」の神の内容になって、「次」の神において実体現象と成ります。

ここ先天十七神の最後はギミの神ですから、それ以前の神々は全てギミの神の内容となっているということです。古事記では「先天」の話が終わると「後天」の話になりますが、どの後天の神も先天十七神を含んでいます。

ですので、「伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、」とありますが、ギミの「神」二柱はそれ自体はどこにもいないのです。いるのは「命」二柱で、「命」二柱の働きがあって「先天の神」から「後天の神」になっていくのです。「伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神」自身は「次の」オノゴロ(おのれのこころの)島において実体化します(見立て)。

ギミの神、言葉を変えて他の言葉で表現すれば自分、自我、自分の考え、時間、天の御中主の神、赤い花とか何でも名付けられて表現できるものどれでも好きなもので構わないのです。それらのものそれ自体は存在しないので、その先天実在が働きを受けて次に現象化するという関係です。古事記のいろいろな神様がいますが、そういった神様たちがいるわけではないのです。

そんなものは無いなんて言うと馬鹿なことをほざくなと怒られそうです。しかし、私が、あなたが、ある、と言っているものは何ですか。

言葉です。

心に現象化した存在は五層の心の現れで、そのために全世界の眼がどのような角度からも、見て見られ表現させられます。賛成反対や別の視点や次元の違いがたった一つのことにもあちこちから言えるのは、現象に心の全体(五層の家)が乗っているからです。

そこで、通常の生活会話の中では、自分の語った言葉があって欲しいと、自分の言うことが実在して欲しいと思って過去知識記憶概念を絞り出しているだけなのです。言霊で言えばウ次元とオ次元を表出しているだけです。

ですのでそれに対して、同じ主題話題なのに感情的なものにしたりとか宗教化したり、選択意志によって頑固に固定化したりするようなことも起きます。

心の五層統体を語らなければならないのに、そうしない為に不十分なまま前提とされてしまうのです。ですので例えば、考えが言葉となる以前にはそれらは先天世界に対応した先天実体があることを示しておかねばなりません。

先天的にあるというものを紹介しておかないと、働きによって出てきたものを名付けられ、現象として現す事が出来ませんから、まず先天の実体、神、実在があると記述されています。それが冒頭十七神です。

ところが言葉で現されているものは、それが現されて欲しいという欲望次元(言霊ウ)と現した言葉が正統であるという過去知識(言霊オ)との整合性でしかありません。ですので他人が見れば幾らでも違ったことを言う羽目になります。

言葉で現されたものには感情情緒(言霊ア)と、選択按配(言霊エ)と、そのものが現存しているという存在意思(言霊イ)の働きが、全部無視されています。ですので今度はそれを語ろうとすると別の言葉が必要になってしまいます。日常を超えた芸術表現、宗教表現のようなことがでてきます。

つまりあると思って語っていたものなど自分勝手な思い込みだったのです。この世はその思いつきが寄せ集まって成り立っています。

そこで天つ神諸々が全部成立するように働きかけ、語りかけ、全ての勝手な思い込みも全部がすくい上げられることが始まるのです。

その全部成立する大本が「伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神」になります。「神と命」の合一したものです。そして「伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神」と相対的な二神が後に合一した形で示されるのが「伊耶那岐の大神」となります。

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先天の構造は全部そろいました。役者もそろい、条件世界もそろいました。そして何よりも重要な働きが出揃ったということです。

先天構造からの働きかけもあるのに、ところが肝心なものが揃っていません。

私です。おのれ心がまだ生まれていないのです。

あるのは吾の眼という分けの分からないとっつきです。

この分けの分からない吾の眼が「伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神」で、眼が付く働きが「ギミの命」となります。

≪5。みとのまぐはひせむ。≫

そこで、

【伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」】

と、自分の先天から自分に働きかけて、自分の実体現象を産もうとします。

吾の眼が付く始めも先天はクラゲなす漂えるで、先天が原理として述べられた後もその始めは漂えるです。心の始めはこんな調子です。

では何がというと「国」を指します。

どういうことかというと、「国」というのは、クニ=組(く)んで似(に)せる、ことで、自分の意識のとっつきも漂えるで、相手になる先天も漂える、先天から出てくるのも漂えるで、何しろ当初の自分という自意識もまだ確立していない、現象が生まれる以前の状態を組んで似せることです。

この組んで似せる働きはどこから来たのかそれは分かりません。聖書では神の形に似せて人は造られたと出てきますが、人が神に似ていると分かる部分までは似てるというだけで、人が分からないところ、神は何に似ているかなどは分からないのです。

地球が自転しているからか、太陽か輝いているから、人も犬もあくびをするからなのか、実際先天の働きが先天に働きかける事など人にはわからないのです。

実体が動き作用し変化していくように、人の世界も意思の介在によって動き創造されていきます。そこで実体世界の創造変化を目の当たりにして、確かに何らかの働きがあることが分かります。そのような働きも人が宇宙から受け継いでいなければ起きないことです。

こうして、先天の実体があること、そして先天の働きもあることが示されました。それらは人に乗り移らなければなりません。

「国」には国土があって国境があってというのは現象した後のことで、その始めは意識の中での国です。同様にここでは心の問題ですから「国」の扱いも地理とは関係しません。ぼやっとした意識が、あれは何だという相手対象をまだ確認できないような状態です。

もちろん「初発の時」のことですから、やるぞという強い意志がある場合でもその強い意志が向かう相手の輪郭も当初は「漂った国」としてあることを、原理として表象したものです。

ですので自分にとっても相手にとってもまずは「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」ということになります。そこで起きるのが原理構造は十七の仕組みとして提供されましたから、今度はそれを扱う主体側の創造になります。

それは自我、自分とか、自己意識とか、自分の考え思いとかになるものです。

つまり元をただせば自分などいうもの、自我などというものはないのです。父母から生まれる肉体をみても分かるでしょう。心もそうです。

自分というのもいつか気付いたらそうなっていたので、自分が考えた、自分が造った、というものもいつか気付いたらそうなっていたものです。「ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて」というように、先天の活動によって自分ができました。

ところがその出来方は、天上天下唯我独尊、吾の眼が付いて地に成るなり方が唯我独尊に、アメツチ(天地)に成るから尊いのです。自分などはいないのに自分にしてくれるのです。また、各人は自分になれるのです。

【「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。】と、先天構造から依頼を受けます。

先天は全宇宙世界と同等です。ここから宇宙世界になれ、自分になれといわれます。組んで似せてみろ(ク・ニ)、国境のある領域(国)をつくるなんていう小さなことではありません。人はそれぞれ宇宙と共に歩んでいるのです。

しかし心の先天構造は提出されていますが、肝心の私の心、人間側の心がまだ打ち立てられていないのです。そんな時に「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひきと、誰に向かって述べているのでしょうか。

文章の上からは「伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、」ですが、ここの何処に自分の心、人の心があるのでしょうか。先天の働きが先天の自分に何かを言っているようなものです。まだ生まれない子供に末は総理か大臣になってよ、と言うようなものです。

おとぎ話のようになってしまい、またそれは必要なことでしょうか。そんなことはまさに神の管轄として任せてしまえばいいように思えます。

あるいは、人というのはこのような神の管轄とされてもいいようなものを持っているということでしょうか。

心の原理を発見した古代のスメラミコト達は、ここで何かのメッセージを残したのでしょうか。心の先天原理が各人の先天に働きかけていると知らせる意味はなんでしょうか。

偉大な宗教家たちはそれぞれの教え、キリストの教え、仏陀の教え、等を広めましたが、スメラミコト達は古事記の思想で何を残していたのでしょうか。

偉大な宗教家たちは自分の名を付した教えをいろいろ残してくれましたが、その教えそのものとは何かを示していません。キリストの、仏陀の、教えは理解していくことはできますが、教えを与えたキリストとは何か、仏陀とは何かについては抽象的に答えるだけです。

またどの教えも社会問題、世界の問題、人間全体の問題に答えることできません。抽象的な人間の努力目標とか理想状態を言うだけです。

では古事記の人間の心の原理では何を残しているでしょうか。

先天の働きがあって各人の先天の働きかけるというのです。

人の先天に、天与の性質、性能に働きかけるというのですから、人の成そうとすることは何でもできるということになります。宗教家が言うようにその教えを成せということではなく、人の先天に成すことは成すことができるということになるでしょう。

≪6。みとのまぐはひせむ。≫

ではどのようにかといえば、

【「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、】です。

物質世界と同じように、心の世界もそうなりますが、心の現れは客体客観物の上に乗って出てくるものです。心の世界の客観的な現れは欲望や感情の動作反応の形をとることもありますが、自分に確認納得し、相手に伝え了解するには言葉の介在が必要となります。

言葉も物としての客体化の変化があります。当初頭脳内での頭脳内の電流信号、化学物質の受け渡しだったものから、イメージ以前だったものがイメージになり、それを表現する表象を探して結ばれ、音声になったり、書かれて文字や光点の集合から画面の字なったりしていきます。

欲望、感情次元をジェスチャーなどで知るときにも、それは何だと頭の中で確認するときも言葉の流れがあります。心の世界の客観的な介在物はここでは「天の沼矛(ぬぼこ)」というわけです。

矛(ほこ)は両刃の剣のことで、舌を出した形に似ています。ホコは霊凝(ほこ)、心の形である霊凝が舌を使って出てくるところです。

つまり舌の運用、言葉の運用のことを矛の運用に例えました。ここでの話は先天のことですからこの矛も「天の(先天の)矛」となっています。

矛を心の運用の現れと見ますと、ここで出てくるかき混ぜる使用法の他に、心の使用法として刀(かたな)があります。かたなは片刃で、ナイフ包丁刀剣、等で、片身しかありませんから精神作用から見るともっぱら切ること、分断分析要素にすることになります。

矛は幅が広いので、今度は反対側でバラバラのものを寄せ集め刃でもってすくいあげること、つるむ(連む)、つるみ合わせることができます。両刃の刀をツルギという所以です。総合統合判断の象徴となります。

沼矛の「沼・ぬ」は縫うのヌになります。切り刻んだものを集め縫い通す、分析と総合の象徴です。分析された要素実体を分析と統合を働きを以て示すことになります。

矛の両者の働きを用いて「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、心を造ってみなさいというわけです。

人には元々それぞれの心を造る天与の性能があるといっているので、宗教教祖始祖の教えを実行することだけが、人としての生き方ではないのです。

このように人は神聖な心の矛を「賜ひて」、「言依さしたまひき」と依頼されているわけです。

事は言依さしたまひきと依頼されているだけですから、何が起きるか何を起すかはその人次第となり、そのような社会、世界創造となっています。

では、心の問題として

【「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」】

は何でしょうか。

矛は心の形を現す舌で、それを使って「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」というわけですが、「固め成」して現れるものは言葉です。

現れるのは言葉ですが、ではその内容はといえば、 【 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひ】たものです。

つまり先天十七神の世界と十七神がギミの命に係わったことが言葉の内容となって現れます。

名前が付き名前があることによって内容があることがしめされます。

よく言葉には指示と内容を表示したものという意見がありますが、先天十七神の世界と十七神がギミの命に係わったことが言葉の内容となって現れるので、言葉そのものに内容があるのではありません。

また言霊のお話の中ではよい言霊とか悪い言霊とかいわれ、パワーがあるとか言われますが、言霊自体にそのようなものがあるのではありません。【命(みこと)以ちて、詔りたまひて、言依さしたまひき】内容が現れるのです。

前回出た「国、クニ、組(く)んで似(に)せる」を持ち出せば、天つ神諸々の国にあるものを、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神共にある似たものを取りだすことになります。

どういうことでしょうか。

何が「言依さしたまひき」なのでしょうか。

心の中にあるものが固まるとは何でしょうか。

先回りして言っておくと固まり成る物は次段にある現象(子音)の創造ですが、客観物質となった現象に成る以前の心における現象の創造です。その現象の形が言葉となります。

≪7。みとのまぐはひせむ。≫

ところで、まだ自分の心も成立していないのに【固め成せ】と言われるほどのものは何でしょうか。

それは自分の心よりも大事なものという意味でしょうか。

自分の心さえもその固め成せといわれるものの上に成り立つものでしょうか。

何度も引用していますがここでももう一度繰り返します。

【 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。】

古事記は必要最小限の言葉で心の原理を述べたものですので、解説をしようとするとどうしても解釈が入り込んできます。原文を読むだけで了解できるまでにならなければものにならないということですが、我々にはとんでもないことです。

心の原理の十七神は提供されていて、この段落は主体となる自分の心を造ることです。古事記の書き方は前段を全部含んで後段が出てきますので、ここでもそれは適応されます。

【 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、】の天つ神は冒頭の十七神全体であることは既に書きました。

その神々が「命以ちて」ということはどういう事でしょうか。ヒフミ神示にはミコトは「口と心と行と、口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ。命(みこと)といふぞ。」というおもしろい言葉があります。

ここで命・ミコトを三言と取れば、その実の言とは、

口により構成されている言葉と、

心に思われる言葉と、

聞き話される言葉の

「口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ」となるでしょう。

これは口により構成されている実在世界(母音世界)、

心の働きによる父韻世界の言葉、そして、

父母両者の働きにより生まれる現象子音世界(行)

のことを指しています。

命の働きの内容には、

実在世界を働きに導き(口)、

それを扱う心を働かせ(心)、

現象を創造するべく働く(行)

の三つがあるようです。

では、三言を現象と成った言葉と取ればどうなるでしょうか。言葉の働きの三態がありそうです。まず、

客観世界の母音次元層を構成してその働きを現し、

各次元での働きの違いを現し、

現象創造物として働きかけられる対象となります。

このミコトをもちて「修理(おさ)め固め成せ」となります。

この一文を一応三つにしてみます。

・修理(おさ)めは、治めで秩序をもたらし統治する。

・固めは、確認了解して固める。

・成せは、そのものを在らしめる。

ここにある、おさめ固め成せの中心にあるものは何でしょうか。それは天地をアメツチと読んだ時の「吾の眼」です。この私の心を秩序立て確認して在らしめることになります。それには、その働きの三つの要素を用いて三言の言葉の要素を結び合わせて、地に成すことになります。

古事記を勉強する側としては、古事記とは心の原論であり、心の現れとなる言葉の発生の原理を綴ったものだということが一言で分かる記述がほしいところです。心の原論として読む場合の始めは「タとアの先天の間の音図の原に成る(鳴る)」で、天照大御神で終わるところでは、玉響(たまゆら)を鳴らすで、音で始まって音で終わってはいますが。

「修理(おさ)め固め成せ」の音としての現象は言葉の発声となるでしょう。

吾の眼が付いたものに、名前が付いて言葉となることがそのものたらしめる、ということになるでしょう。

≪8。みとのまぐはひせむ。≫

【 かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、これ淤能碁呂島(おのろご)なり。】

・まぐわいの当事者にそれぞれの領域が確保されていること。

訳。

そこで心の中にある主体と客体は、 (かれ二柱の神)、

心の働きの橋渡しの両端に立ち (天の浮き橋に立たして)、

働きの元となる形を投入して (その沼矛を指し下して)、

主客に調和するように掻き回して (画きたまひ)、

実在母音世界・シホ・四霊・アオウエの言霊世界を (塩)

現象子音が発音されるようにして (こをろこをろに画き鳴して)、

両端と調和したものを得た時 (引き上げたまひし時に)、

働きの元となる形と調和した主客の結合した新しいものが生まれ落ち (その矛の末より滴り落ちる)、

まず自分の中に実在世界の次元層が出来て (塩の累積りて)

出来上がってくる各層の実在領域は (成れる島)は、

これを、おのれのこころの島という (これ淤能碁呂(おのろご)島なり。)

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下手な訳で何を言っているのか分かりません。千数百年間分かっていないものですから下手だなんて言われる筋合いもありませんが、とにかく分かりません。

もちろん分かっている人は分かっている、分からない人は分からないでそれだけのことです。分からない我々は分かりたいという欲望がある場合にはどうしようもなく突っ込んでいかざるを得ませんし、分かっている側もさらなる向上を求めるでしょう。

この段落を参考にして父韻とは何かを探してみましょう。

前もって父韻についての解説を引用しておきます。

「父韻というのは吾である母音と汝である半母音を結んで現象を生む人間意志のリズムである。 http://imakoko.seesaa.net/article/27515358.html」

「 言霊母音・半母音を結び、感応同交を起こさせる原動力となる人間の根本智性とも言うべき性能、それが此処に説明を始める言霊八父韻であります。この言霊の学の父韻に関して昔、中国の易経で乾兌離震巽坎艮坤〈けんだりしんそんかんごんこん〉(八卦)と謂い、仏教で石橋と呼び、旧約聖書に「神と人との間の契約の虹」とあり、また新約聖書に「天に在ます父なる神の名」と信仰形式で述べておりますが、これ等すべての表現は比喩・表徴・概念であって実際のものではありませんでした。言霊学が完全に復活しました現在、初めて人間の文明創造の根源性能の智性が姿を明らかに現した事になるのであります。 http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/lecture/no165/no165.htm 」

「 この八つの神名を指月の指とする八言霊――これを父韻言霊と呼ぶのですが――人類の歴史のこの二千年間、誰一人として口にすることなく、人類社会の底に秘蔵されていたものなのです。ですから、今、この謎を解いて「実はこういうものなのだよ」と申上げても、即座には頷き難いのも当然と言えましょう。 http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/lecture/no218/no218.htm」

「竺紫は尽くしの謎 八つの父韻は言霊イ(伊耶那岐神)の実際活動のリズム 「身一つにして面四つ」の意味は作用・反作用の陰陽一対四組の知性の律の島です。 http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/chart/kaisetsu/iwasaka.htm 」

引用以上。

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このブログでの突っ込みは「矛」「人間意志のリズム」を取り上げてその動きを見てみましょう。

ここは「修理(おさ)め固め成せ」といわれて自己領域を造るところです。

まず何かをしようとするとき、先天からこうしろと言われても、自分にそれが出来る領域が無ければ暖簾に腕押しです。主体側には主体があるという領域が必要です。

また先天は対象となる相手をまず立てなければ先天になれないのです。相手側客体がいないのに何かしろとはいえません。神は、人がいないと神となれない、というようなものです。

イメージとして、先天は前もってあるから先天というのでそんな言い方はおかしいと思えることでしょう。先天の実在内容が現れるのは、前にも書いた通り働きによって了解が得られた時に、出てきます。何の働きも関わりもない先天はそもそも無いのです。

無いのに先天があると見えるのは、一度どこかで関係をもっていることの記憶概念です。イメージだけが先行しているのです。今扱おうとしていることそのものではありません。このイメージだけが先行して出来てしまう必然はヒル子、淡島で説明されています。

矛は、ホコ、霊(ほ)が凝(こ)り固まって霊子(ホコ)になります。古事記の解釈ではこの語呂合わせこじつけが非常に重要です。故事記であり、記を「付け」と読む場合にはまさにコジツケとなります。また創造現象たる子の事を記したのも古事記です。

この語呂合わせにフトマニ言霊学の意味が見だせればいいのですがどうなりますか。

天津神諸、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神と役者は揃っているのですが、さらに「矛」が出てきます。矛は実体ですから働きではなく、その矛を使うという形が次に示されています。

つまり矛は父韻の象徴です。

「父韻というのは吾である母音と汝である半母音を結んで現象を生む人間意志のリズムである。」

その元は、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神の創造意志で、イザやるぞという意識の現れです。

それが、八つの父韻の実際活動のリズム、作用・反作用の陰陽一対四組の知性の律となります。

ここまでは公式の原理ですが、実際はどうなのかがそう簡単には出てきません。その働きも以下のように示されていますが不明であることは既に白状しました。

「天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて」

「その沼矛を

指し下(おろ)して

画きたまひ、

塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、

引き上げたまひし時に、」

ちなみにここで自我の領域が矛によって成立します。そして次に自分の心が成立した後、やはり同じ原理で以て現象を生みますが、そこでは矛の変わりに何が表徴とされてるのでしょうか。

それは、「成り合はぬところ一処(ひとところ)」と「成り余れるところ一処」です。その一処同士があるという矛の分析判断が双方で了解されると、こんどはそれを「刺(さ)し塞(ふた)ぎ」で統合します。矛からマグワイになりますが、急ぎ過ぎですので戻ります。

≪9。みとのまぐはひせむ。≫

下手な訳を利用して矛の働きを追います。

訳。

そこで心の中にある主体と客体は、 (かれ二柱の神)、

心の働きの橋渡しの両端に立ち (天の浮き橋に立たして)、

働きの元となる形を投入して (その沼矛を指し下して)、

主客に調和するように掻き回して (画きたまひ)、

実在母音世界・シホ・四霊・アオウエの言霊世界を (塩)

現象子音が発音されるようにして (こをろこをろに画き鳴して)、

両端と調和したものを得た時 (引き上げたまひし時に)、

働きの元となる形と調和した主客の結合した新しいものが生まれ落ち (その矛の末より滴り落ちる)、

まず自分の中に実在世界の次元層が出来て (塩の累積りて)

出来上がってくる各層の実在領域は (成れる島)は、

これを、おのれのこころの島という (これ淤能碁呂(おのろご)島なり。)

矛を「人間意志のリズム」としても、「働きの元となる形」としても、よく分かりません。聞き苦しいのを承知で続けます。

「その沼矛を指し下して」と、矛を指し下ろすイメージはし易いのですが、「人間意志のリズム」とか「働きの元となる形」とかに言い換えるとイメージ出来ません。矛は後にマグワイになって「指し下して」というイメージはよりし易くなりますが、マグワイになると子供が生まれるのが何カ月も先のことで、日常生活での了解事項の瞬間瞬間に発生していく姿からすれば何か全然別の感じもします。

簡単な要約を記します。道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ずという、老子が来朝の折、スメラミコトから教わった原則を適応します。(本当は古事記の冒頭十七神のことです。)

【指し下して】 先天実在。

【画きたまひ】 主体側。

【塩(鹽・潮・うしほ・しほ)】 客体側。

【こをろこをろに画き鳴し】 主客統合の行為。

【引き上げたまひし】 主客の了解。

【矛の末より滴り落ちる】 内容の生成。

【塩の累積りて】 現象の発生。

【成れる島】 実体と現象により名付けられようとするもの。

【これ淤能碁呂島なり】 名付けられたものの誕生。

【指し下して】 矛を「指し下ろす」は先天から「「天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて」ですから、マグワイでは「賜ひて」というものは何になるでしょうか。先天的に与えられた両陰部の形でもあり、その形より規定された行為の形、リズムの形でもあるでしょう。この先天は二柱の命に勝手に造ったものではなく、自由に出来ず従わなくてはならないものです。前に自我などというものは無いと言ったことの内容です。

意識的に自由に指し下しているようでいて実は、指し下ろされている先天内容があるということです。

【画きたまひ】 しかし主客はそれぞれ作用を持つときには二極に剖判した形をとりますから、一方は能動側の主体となり、他方は受動側の客体となります。ここでは能動側の主体が「かきたまひ」です。

「かきたまひ」の相手対象は「塩・しほ」です。

ここで注意しなくてはならないのは、主体側の掻き回す行為が客体側に対応していることです。暖簾に腕押しになっては創造現象が起きません。能動主体側だからといって何でもラッパを吹けばいいというわけには行きません。

では分けの分からない相手にどのように対応しているかを知るのでしょうか。マグアイなら自然に導かれることや事前の知識などがあるでしょうが、始めてのこと新しいことではそう行かないはずです。

この広い宇宙世界で主体側は自分に似合う相手に合って組むことは至難の業です。

そしてここに【指し下して】が出てきます。

【指し下して】の「サス」は多くの当て漢字で表現できますが、その示す内容は、皆同じで、一定方向に向かって静まる状態を目指しています。

つまり、現象として目指されるものが既に先天実在していると取れるでしょう。ということはその先天実在を【指し】という働きで実現しようとすることになります。

そこでは主体側は「指す」の内容を実現することが主要な行為となります。

簡単に言えば主体側は行為の目標が「指す」として固まっているのに対して、相手となる客体側は相変わらず宇宙世界全体なのです。

【指し下(おろ)して】は別の言葉づかいをすれば主体の吾の眼が地に付くとなるでしょう。主体は能動的に目的を目指し目標未来を達成するように先天的に造られています。これは自覚的に明瞭化するしないではなく、天与の性能としてあります。

【指す】には決まった方向の結論へと収束するように、選択肢がこれしかない状態を生み出し、今現在を鎮め修めようとする働きの元となる形を持っています。そのように吾の眼が付いて地に着くのです。時の流れからすれば先天のリズムに従い、空間を占めることからすれば働きの元となる形に従うのです。

【指す】という主体側の動きはそれが主体の動きですから自分の全体を表出していきます。それに対して相手対象は物象物質次元のものですから、その空間占有を部分としてとりいれなければなりません。

ここに部分と全体の哲学問題なども起きてくる原因があります。これは後に「ミの命」が先に口にすることで全体を作り出すことにもなります。

主体側の「指す」全体は客体側で「指される」全体に対応していきます。

【画きたまひ】 地に付く相手は宇宙世界全体です。「かきたまひ」はかき廻すですが、主体側には方向性があるのに何故かき廻すようなことが必要となるのでしょうか。

それは自分の方向性への手応えを探しているからです。

つぶった眼を開けて目前の物を見るとき、何かがあると確認するまでにほんの少しの時間がかかります。その時には相手を見つけて名前を付けて納得するまでに時間の流れが生じています。

その時の様子が

【塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、】です。

【塩(潮・うしほ)】で実在母音世界・シホ・四霊・アオウエの言霊世界を現し、主体側の方向性を探す行為と客体側が応じることが、主客統合の行為になるようにと示されたものです。

「塩」をシホと読んで四霊の漢字を当て、心の次元層に当てたものです。心はウオアエイの五次元層(五重・いえ)ですが、主体意志行為の「イ」は働き動きそのものとして現前していますので、その相手対象となる四霊・シホをもってします。

また意志の働きそのものは相手客体世界の物象でも物体でもないので、「塩」自体に含まれません。その内容として現れるものです。