04 (ミ)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法
(ミ)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。
(イ--意思の発動)
チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)
イ--以ちて、(や行のイ)
キ--伊耶那岐の命
ミ--伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、 妹活杙(いくぐひ)の神
シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め
リ--成せ」と、
ヒ--天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、
ニ--言依さしたまひき。
(ヰ--意思の帰還)
ミ--伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、 妹活杙(いくぐひ)の神
「 (伊耶那岐・)伊耶那美の二神がいざと立ち上がり、」
先天十七神即ち先天構造を構成する十七個の言霊が活動を開始しますと、伊耶那岐・伊耶那美の二神、言霊イ・ヰは次の様な事を実行することとなります。(なりさま、実体側)
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妹活杙(いくぐひ)の神。 (ヲの性質) 掻き集める。なりさま、実体。 過去-今。
精神内容の中に己にある自己の体験内容に思いが結びつこうとする力動韻
「言霊キ、ミ。昔、神話や宗教書では人間が生来授かっている天与の判断力の事を剣、杖とか、または柱、杙などの器物で表徴しました。角杙・活杙の杙も同様です。言霊キの韻は掻き繰る動作を示します。何を掻き繰る(かきくる)か、と言うと、自らの精神宇宙の中にあるもの(経験知、記憶等)を自分の手許に引寄せる力動韻のことです。これと作用・反作用の関係にある父韻ミは自らの精神宇宙内にあるものに結び附こうとする力動韻という事が出来ます。」
釣りあげた生きた魚をてなづけるように立てた規範に、相手対象を適合させるようななりさまを探す働き。
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伊耶那岐の命と伊耶那美の命と並んで記述されていますが、何故ギのミコトが先に出てくるのでしょうか。神としてもギが先に出てきます。ところがマグアイ、契りでは「女人先に言へる」です。
大本の天の御中主の神が、いとなみ・働き・主体側・男側、と、なりさま・実体・客体側・女側、と剖判して以来、
高御産巣日(たかみむすび)の神、次に 神産巣日(かみむすび)の神。
伊耶那岐(いざなぎ)の神、次に 妹伊耶那美(み)の神。
伊耶那岐の命、伊耶那美の命
父韻神、「妹」父韻神
というように、いつも主体側が先に来ているように見えます。
しかし注意するとそうではありません。
十七神の構造原理では、まず母音側(ウアオエ)が示され、ついで父韻です。
「お」の母音世界を示す 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神と 天の常立(とこたち)の神では、客体側「ヲ」の 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神が解説付きで先に述べられています。
ここにも男が先か女が先かという議論の種があるようです。主観か客観か、瞬間か持続か、働きか実体か、等々は全て同じ問題で、十七神を端から全部解説できたときに、説明が完了するものです。これまでの哲学史ではそれぞれが好きなところを自分勝手に自分なりの「角杙」をつくって主張してきました。
十七神を解説できれば全てが落ち着くものですが、そうはいかず、そうはいきたくなく、そうはいかせない、そんなことは無い、というのが今の時代で、残念ながらいま暫くは続くでしょう。しかし、片や盲滅法手当たり次第、片や権某術策奸智の歴史と見えたものも、どこか歴史の歯車に載っているからではないのか思う人もいます。
宗教では全ては神の手の内にいるからと平気で言います。マルクスの唯物史観では、「物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。」というように下部構造が上部構造を規定すると言っています。ここでもどっちが先かです。
フトマニ言霊学では人のすることやってきたことがあればそこに働く十七神の原理の働きを見ます。目茶苦茶に見えようと数列の完成した美をみようと、十七神からでてこなかったものはないのですから、ここでの問題も突破できるはずです。
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さて、妹活杙(いくぐひ、言霊ミ)の神の特長です。
≪ 精神内容の中に己にある自己の体験内容に思いが結びつこうとする力動韻
釣りあげた生きた魚をてなづけるように立てた規範に、相手対象を適合させるようななりさまを探す働き。 ≫
妹活杙(いくぐひ)の神は角杙(つのぐひ)の神の裏表として、客体側の伊耶那美の命の働きを説明しようとするものです。
針に食らいつき釣りあげられた魚は魚籠に入れます。尾を左右にしてビンビン動き跳ねます。
ここでは魚籠に入れなくてはならないという規範が立てられています。この魚籠に入れようという規範に沿ってさまざまな行為が起きます。
自我の成立を語っているのですから自我、自分、と言う以前にはそんなものはまだ実在していないことに注意してください。では自我の成立と言うときの自我とはなにかといえば、先天の自我、いわゆる括弧内のこれから造られる自我のことです。
品物製造物の原料材料とは違って、自我は主体客体、自意識主観を持ち自ら作り自ら破壊することもできるものです。
チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと) ・・・宇比地邇(うひぢに)の神
イ--以ちて、(や行のイ) ・・・妹須比智邇(いもすひぢに)の神
キ--伊耶那岐の命 ・・・角杙(つのぐひ)の神
ミ--伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、 ・・・ 妹活杙(いくぐひ)の神
(チ)先天の胎動が始まって、(イ)その働きが持続していく内に、(キ、ミ)自ら進め行く方向と、相手を適合させる方向へと、分けます。この両者の剖判が保たれないとそれぞれ勝手なことが起きていきます。
ここに天津神から二柱の神に仰せがあり、あるいは命令があり、と言う意味の「詔りたまひて」があります。これでお分かりのように自我は何でも自分だ自分だ自分がするのだということではなく、天津神の仰せがあって起動していくものです。ようするに自我など無いということで、自我は創られたものの上に載っているだけとなります。
しかしそんな事を言っても、誰でもが自分が感じて自分が考えて自分がやっていくこととにしています。こんなブログを書くのもこんなブログを読むのも、みんな各自自分がしていることと思っています。
そんなことが言えるのも各人に 伊耶那岐(いざなぎ)の神の主体性によってみずからの規範を立てていくことがあり、妹伊耶那美の神の客体性に拠って相手対象を適合させようとしてくことがあるからです。
人間にはこのギミの天与の性能があることを先天が見抜いて、仰せ付けるに充分な相手だと見抜いたのでした。
しかも物を創るように一方的に形を変え移動させる作用力を利用するのではなく、人間側の主体活動を発揮して意思の発現を創造という形で成せるようになっていることまで、見抜きました。
そこで当然次に、仰せの内容を明かします。
シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め ・・・意富斗能地(おほとのぢ)の神
(注意。古事記の心の原論の記述は、つまり、心の構造運用論は、前段を常に取り込みつつ上昇循環していくことです。過去は全て引き継がれていきます。)
唯物史観も、神の手の内で創られたというのも、この「シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め ・・・意富斗能地(おほとのぢ)の神」の位置付けの違いに依ります。
マルクスなら「シ」を得られた理論の正当な結果としてしまい、そこから行動の名目を立てたり、宗教では、宇宙神との自覚の内容の表現を「シ」としてそこから行動の名目を立てて、「修理(おさ)め固め」
に向かいます。両者とも結論「シ」へ集約されるものが、理論とか希望とかになってしまっています。
伊耶那岐の命と伊耶那美の命 のそれぞれの性能を全うさせるために仰せ付けるのですから、剖判するからといって、分裂させるだけではうまく行かないし、うまく分裂させなくてはなりません。
両者にはもともと誘い合う伊耶那岐(いざなぎ)の神と妹伊耶那美(み)の神で、「 詔りたまう」ことも波と凪で陰陽の作用反作用を分け持っています。
そこで、シの「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め」も波と凪の両者が内包されるようになります。