『言霊世界 エ・問題解決の方法』

心には隠れて表に現われない、意志の世界(言霊イ)がある。選択の世界(言霊エ)そのものも当初は表に現われない。外に現れてくるのは、感情の世界(言霊ア)で心の全体が表現され、五感の欲望世界(言霊ウ)で今あるものが表現され、知識によって過去の世界(言霊オ)が湧き出てくる。そして隠れていた世界が選択されて出てくる。

問題の解決には、胡散霧消して自覚の無いまま解決する場合と、相互了解(主体と客体、わたしとあなた)して解決する場合がある。

解決が得られればそこには喜びがある。そこには、物理的な所有感と意識的な連帯されるものがある。それは感情的(言霊アの世界)にか、物理的(言霊ウの世界)にか、概念的(言霊オの世界)にかのいずれにかによる。

本稿では古事記の言霊の原理に沿っていく形で問題解決の方法とする。原文を一文も捨てることなく取り上げることを旨としたい。

かく言う私も本稿を始めるにあたって、解決法を自覚しているわけではないが、意識運用の原理論である古事記に導かれるままにしていく。

解決法にはいろいろな主張があり、全ての方法に共通するのは、起きてしまった現象から、分析なり整理が始まっていることです。そしてそれを行なうのが既存の知識に則っていることです。つまり新しい観点、新味という何時か又古くなる意識、あるいは既存の方法に乗った上での運用法の性質から逃れられていません。元にあるものが同じ事なのでまた問題が起きるでしょう。

古事記の方法、それを身禊祓えといいます、はそれらとは違います。

とはいっても知っている者と知ろうとする者がやる方法はことなります。

無自覚者の行なう事の進行中に、意識の脱皮変態たる指標となっている、古事記の表現たる「ここにのりたまわく」が起きるかどうかが楽しみでもある。

何時でも冒頭言霊十七神が保持され、目次の構成は古事記の記述の通りで、どこまで細部に気付くか、正しい言霊循環を行なえるかにかかっています。

大神となっていない我々は問題解決のための理想的な規範を自覚していないが、それに従って始めるという矛盾を持って出で立ちます。

原文をそのまま見出し目次とします。

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ここを以ちて

主体側の意識の転換点を向かえるとき出てくる言い種です。

何らかの今までとは違う様子になります。ここでは行き詰まり問題を得ました。

【言霊運用24】伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、

イザナギの大神とは我々本人のこと、私でありあなたです。我々自身のことですから得られた問題は各人なりの色が付いています。

しかし何故その色の付き具合の違いが分かるのでしょうか。

ここに問題を認識する以前にある二つの意識規範があることになります。そうでなければ違いを意識できません。古事記の認識論はここにアワギ原という認識場を登場させ、問題の有る無しを判定させます。

もしここに前と同様な認識規範を用いたならば、またまた堂々巡りが起き、いつものように立ち往生します。あるいは有名無名な方法論を探したり、反省と称する事などが行なわれるでしょう。しかしそれらの方法を用いてもヒントの有る無しから閃きを得られる程度のことで、根本的なところには手が届きません。共に既存の、行き詰まりの問題をもたらした方法であるからです。精々試したり向きを変えたり足したり引いたりして、反省を加えることでしょう。

ここを以てイザナギの大神の詔りたまいしく、と大神である私あるいはあなたは何かに気付きます。今まではイザナギの神、ミコトと書かれてあったものから大神へと変わっています。自信のあるところを見せたり大いに自慢をするだけなら、法螺話ともなり別に話の内容が変化したわけではありません。

しかし神から大神へ変わったのは、自らの立場に質的な変化をもたらせたことを示しています。

それは客体側現象に自らの思いや係わりを寄せ、客体側を意識し判断し客体側を自己のものとし、責任を感じて係わるという事柄が加わることです。言うだけの話から言ったことを自分の創造したものへとすることの変化を得ることです。

ここで面白いことには、客体世界に係わることが客体世界を放棄することで成り立つことです。自慢話が大神になれずに法螺となるのは、客体世界の性質を受け入れてしまっているからで、客体世界をお披露目する形で進行させるためです。これは通常の意識の進行ですがそれでは大神にはなれません。

その理由として、主客を分離し客体側の法則に則ろうとするだけであったり、そのために客体側に至る道のみを心がけたり、転換の道筋にある自己意識を塞いでしまったりすることがあります。なによりも主体性なく、際限なく過去概念に振り回されているだけです。

そこで、ここを以て、と自己と客体世界を見つめなおします。

それが次のような意識です。

「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。

客体世界の見方では、思いつくまま感じ取るままの見方なのでコロコロ変わり、一定の理が見出せません。科学の見解があるじゃないかと言いますが、それも単に物理的な条件に載った上での、意識と心を無視した数値が、物質同士で噛み合う世界でのことです。感じの一つも思いの一つも明かすことはできません。

感じ取る世界と客観数値の世界とが一致しません。

勿論、「ここを以て」の「ここ」は、イザナギのここ、わたしのここ、あなたのここと全て相違しています。そんなことなら何時まで経っても十人十色でバラバラのようにみえます。しかし十人十色をもたらし、各人に相違をもたらすものがあるからそれが可能なのです。

その可能であるものは各人が知らず知らずの内に既に身につけているので可能となっています。

つまり、全ての人は共通の言語規範を身につけていてその上に立って判断していたのでした。その共通性によって相互の相違を見ることができたのです。

それが、「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)」という音図です。

竺紫(つくし)のは、こころを尽くして運用するために、

日向(ひむか)のは、全人の健全な生命の日に向うための、

橘(たちばな)のは、意識による創造活動である性質を持った、

小門(おど)のは、音の、表出された言葉の、

阿波岐原(あはぎはら)は、意識規範図であるアワイヰと四隅を形成する音図。

この音図の上に立っているからこそ自分の主張が他者との相違の内に比較できます。

そこでバラバラなのが黄泉の国、つまり現状世界として造られているので、身禊しようというのです。

ですのでこの上に立つことで個々の主張が可能になりましたが、そのためにバラバラにもなりました。「ここ」にのたまうイザナギも私もあなたも、共通性を持つ故に共通性を無くしたのです。

そこで今一度、色付けの無い清浄無垢な、空である、あわぎ、アワイヰ原に舞い戻る決心をしたということです。

「私はみにくいシコメき、意識の調和の無い気田無い黄泉の国といわれるところにいました。主体規範を創造して所持はしましたが、客体世界の取り込みには無力でした。そこで今度は主客の両方の世界を調和して創造できるような、完璧な意識規範の元で実践をしようと思います。そのためにアワイヰ原に降り立ち、そこで主客の在り方生き方成り方を検討してみます。」

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大雑把な分類

無自覚なままの解決法

一、ウ・五感の衝動による思い付きや閃きの直接的な、押して駄目なら引いてみなのような。

二、オ・過去概念による温故知新的な、既存の知識に頼るような。

自覚者の解決法

三、ア・感情による自由奔放な、宗教芸術の激しすぎ速すぎる思いを押しつけるような。

四、イ・意志による見えないやる気や原則で、現実現象に立ち向かうには弱すぎるような。

イザナギの大神による解決法

五、エ・選択創造の叡知による経過、確認、創造が働きとその実在で調和していくような。

五-1・エ 智恵の実践規範のもと

五-2・オ 過去文明の全てを用いて

五-3・ウ 欲望の文化を創造する

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ここからは身禊の章に沿って問題解決の方法を探ってみます。

かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。次に

投げる捨てるではなくて、指針を求めて投入したことに対してです。

気田無さを感じてアワイヰ原という規範音図に相談しようとしました。駅に着いて列車の発車時刻を見るようなものです。目的地を目指す列車を探すという行為に成りませる案内の取得ですから、駅に着いただけでのことならそれだけのことで終りです。案内を得ようとする、かれ投げ棄(う)つる、という主体側の行為(問題解決とはどういうものか)に対して、「成る」ものがあります。

するとそこに、衝き立つ船戸(ふなど、くなと、九七戸)、という案内表示板(神)が生じてきます。九十七というのは完璧な規範より三つ少ない情報となります。最終的にこの三つを選ぶと百となって、自身の身の処し方が決まるということになります。つまりこの時点では自己の行為を決定していませんから、三つだけ残っていて、しかし、準備万端用意されているものは全て九十七の内に整っているということです。

この三のとり方は当面は汚いと感じた意識の範囲ですが、それが明らかとなって終わるか、主体か客体かどちからか両方かの問題が解決して終わるのか、まだ分かりません。言霊アの世界から始まります。

そこで、出された問題が本当に問題となっているか、その現在の姿をみます。

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(無自覚から自覚と通じている道)

投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、道の長乳歯(みちのながちは)の神。次に

駅に着いても昼時が来て食事でもと気が変われば、汚き国のことなどすっかり忘れるでしょう。

長さのある帯を蒔き終えて用を足すように、案内板の前で得たい時刻に対する問題意識が持続現前していることを確かめます。帯も道も長乳歯も現前しているものの持続を現わす言霊ウの世界です。

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(自覚に到った道の時処位)

投げ棄つる御裳(も)に成りませる神の名は、時量師(ときおかし)の神。次に

現に持っている問題意識が持続していて案内板の前に立ちますが、複数の案内板あるいは案内板の複数の表示が在ります。今度は、知りたいと持続してきた時刻を自分と案内板との上で一致を見出さねばなりません。(も)は女房装束の晴装束で用いられる、後腰に付ける装飾で、腰から後ろより引きずる布。両端に一枚の長い布を引いている。過去より引きずる時間の象徴となる。縦に区切られた時間時間の枠が自分の目指すものと、案内での記載とが一致しているかを探します。

この主客両方での時の流れを縦長の(も)に見出すということになります。方や案内板に記された時間の流れと、方や自分側に持つ時間の流れを、自分の持ち来たった都合のよい過去事象に一致させようとします。こうして過去事象を掬い上げる言霊オの世界を通過します。

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(その時処位に曖昧さがなく、その覚悟がいること)

投げ棄つる御衣(みそ・みけし)に成りませる神の名は、煩累の大人(わずらひのうし)の神。次に

みけしは上衣で脱いだり着たりしてその身分を現し、煩うこと無くその人を判定できます。

過去事象との一致を見い出せば、煩うことなく主体側の意図が、客体側に向かうことになります。ここでは上衣の有る無しの判定までで、その全体性を見通すことができるところまでです。実際にどの上衣を選択し着るのは次の神の管轄です。こうして煩うことなく全体を見通せる言霊アの世界を通過します。

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(以前の無自覚さを反省し受け継いでいること)

投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、道俣(ちまた)の神。次に

ハカマはズボンのような二股の衣類です。左右陰陽前後等の分岐選択の出てくるところです。選んだ道に乗ってしまっているのではなく、その分岐点に立つことです。

分岐点の判断を得るために既に、ウオアの判断世界を通過していますので、双方向への諾否を明確にすることです。

意識のウ次元の選択(チマタの神)。現にあること、あることの持続の現有ですから、その選択は有るか無いかで、より具体的には五感感覚による欲望の充足の選択になります。

オ次元の選択。過去にあったこと、過去にあったことに結び付くことですから、その選択は過去を持ってくるか結び付くかで、より具体的には記憶概念の選択になります。

ア次元の選択。ウオの次元とは違って主体側にとっては自明な感覚の全体ですから、その選択は自己を更に拡張するか収縮煮詰めるかで、より具体的には始めは分かっていてもその行き着く先は見通せていない上での選択になります。

エ次元の選択。選択ということは現にあることをこれからの未来に置くことですから、その選択は自覚的に選択しているか知らず知らずの内に選択しているかです。

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(明らかに(自覚前の)自身が組まれていることの確認)

投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神の名は、飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。

アキグヒのウシは、明(アキ)らかに組(ク)む霊(ヒ)を遂行する主人(ウシ)で、上記四神の創造とその動韻を頭に抱くとなります。

御冠として頭に抱くということは、意識概念、象徴意志、言語表徴で自らを律することです。こうして実践叡知による準備が整いました。とは言いましてもここまででは主体側の用意ができたまでのことで、客体側をいまだ取り囲んではいません。

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意識の自覚反省(行ったり来たり)

そこで、左(ヒタリ・霊足り)と、右(ミキリ・身切り)の主客両方からの合一への道を求めます。

次に投げ棄つる左の御手の手纏(たまき)に成りませる神の名は、 奥疎(おきさかる)の神。次に 奥津那芸佐毘古(なぎさびこ)の神。次に 奥津甲斐弁羅(かいべら)の神。

立ち上げた規範を元に、遠くに向う主体を、客体側に渡して、その連結連絡を取る助けをし、主客の間隔を減らしていこうとします。主体側が客体側に向うときの態度です。

同時に、それに返答します。

次に投げ棄つる右の御手の手纏に成りませる神の名は、 辺疎(へさかる)の神。次に 辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神。次に 辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神。

立ち上げられた規範によって、沖に遠ざけられた客体側を、主体側に渡して、その連結連絡を取る助けをし、客主の間隔を減らしていこうとします。客体側が主体側に向う態度です。

物を掴むとき、音を聞くとき、何かを見るとき等、主体意識の往復と客体側の返答反作用は上記のような構造になっています。

こうして向こう側に辿り着いた問題意識は、相手を連れてこちら側へと戻ってきます。

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戻ってきた問題意識、言霊世界アオウエイ、はその全体として戻ります。そこで得られたのは奥、辺の合一された、主客の差異を減らされた、客体意識の統合体として戻ってきた自分です。そこでは統合された全体として、つまり新たな言霊アの世界次元として立てられることになります。自覚された意識となって立てられることになります。

ここで自覚されたアの世界の意識として、自分の意識の全体として自分に保持されています。ところがそれは全体感情意識となって自己を表明しているだけです。何々に対するこれこれの感情と感情の惰性を感じますが、何々に対する実相内容を具体的個別的に得たものとはなっていません。

そこで、このアの世界は自覚されていますから、今度は自らをふるいにかけることができ、必要な部分を選びます。

アの世界というのは、全体として捕らえ、全体に向い全体を受け入れることが通用するか、そして交信できる一般性を持つか、わたしの感情情緒に反せず自由闊達であるか、でした。イの世界では、現象としては五感に見えず、抽象的であるがわたしの意志の発現して起きたことか、でした。

両者は共に一般性や原理原則の抽象性を語ることには長けています。しかし実相内容に沿って実質を明かすには脆弱です。

つまり、一般抽象性を自覚しているが為に、それを以て個別の具体的な現象(音図上では八十で示されている)に向うには、禍(悪いこと、逸脱、誤謬)を生み成してしまう確認を得るものとなります。

この二つの次元世界が検討されますが、既に自覚の上に立てたものですから、奥・辺六神から戻ってきたものに関しても、ア・イの言霊世界の位置付けも分かっています。

アとイは一般的、抽象的であるので具体性個別性を持ちません。

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ここに詔りたまはく、「上(かみ)つ瀬は瀬速し、下(しも)つ瀬は弱し」と詔りたまひて、初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時に、成りませる神の名は、(所成座神名)

八十禍津日(やそまがつひ)の神。次に 大禍津日(おほまがつひ)の神。

この二神(ふたはしら)は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。(因汚垢所成神者也)

ここに詔りたまはく、は意識の次元変化を示すものです。オキサカル、ヘサカルで主客の合一を得ました。そこでは意識の全容として得ていますし、その五次元世界の詳細も既に分かっています。アイウエオの次元意識が既得のものとしてあることが自覚されています。

するとそこで自ら得ている五次元五段階の意識を反省することができます。

この反省する意識を得るのに意識の飛躍変態が必要で、前の奥辺六神で得られた主客の合一を反省してみることになります。

というより奥辺六神は主客の意識の自覚反省を行ったり来たりするものとしてありますから、この奥辺六神の運用が自覚反省の運用となります。

ここでは中津瀬に成りませると同時にけがれに因りて成る二重性が両禍津日となっています。中津瀬にいるという自覚がありながらあるいは自覚があるために両禍津日を産んだということであり、それはまた、無自覚にキタナキ国に下りた時に生まれたという二重性としてあります。

無自覚な時に得られた禍は、まず一般共通性として産まれた蛭子のように、言葉の共通性という禍を元々背負っているものです。アワギ原に至って、一般性というものが意識の五次元世界では相対的なものでしかなく、絶対必要条件であるにもかかわらずそれを押し通してしまうと禍となることに気付きます。

そこで八十禍津日の神とは、一般全体性の規定(感情や情動)を以て個別具体性に当てはめることは、その八十の現れを禍事として渡してしまい、それを意識により確認できる現われになるということです。

同様に、大禍津日の神とは、抽象原則性の規定(意志や原則)を以て個別具体性に当てはめることは、その八十の現れを禍事として渡しまい、それを意識により確認できる現われになるということです。

従ってそれらの禍は、具体的個別的な実相によって直されなくてはなりません。

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「・・に成る」から「詔たまう」への言霊循環。

先天実在

一 始めは、先天。 高天原に成りませる。能動受動、主体客体の未剖判の先天十七神。(実在)

二 天津神諸々のミコトもちて、コトヨさしたまいき(働き)

三 自己領域を見立てる(現象)

後天実在

一 三十二神

二 後天主体の働き

三 後天現象、文字と黄泉国

働き実在

一’ 事戸を渡すまでの記述全体が気田無い実在

二’ イザナギの大神の主体としての働き

三’ 実在と働きによる現象。三貴子。

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次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、

神直毘(かむなほひ)の神(オ)。次に

大直毘(おほなほひ)の神(ウ)。次に

伊豆能売(いずのめ)(エ)。

神直毘は噛み返し直す霊で、既得の八十の要素を一般性抽象性としてでなく、その過去からの実相を噛み返して噛み直すことになります。(オ)

大直毘は大いなる霊を返し直す霊で、既得の八十の要素を一般性抽象性としてでなく、その現実にある姿を噛み返して噛み直すことになります。(ウ)

伊豆能売はいつく能動主体側の芽で、既得の八十の要素を一般性抽象性としてでなく、その現にある姿を今から未来へ向けて置き直す芽とすることです。(エ)

オウエの次元世界を指示してありますが、次の底中上筒三神ではオとエが逆になっています。

ここで始めて意識の意図的な運用が開始されます。

今までは自覚されていたとはいえ、意識されたもの、意識して自覚したものの実在意識でした。ここからは飛躍とか変態とか止揚とかでもなく、自由意志による≪創造≫が始まるのです。

その為の第一歩は斎く立つ芽を蒔くことです。泳ぐにはまず水にはいること、今日一日はまず起き上がること、駅へ行くにはまず玄関を一歩出ることから始まります。

そこで自身をまず置き直す言霊エの選択案配世界がまず始まります。

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次に水底(みなそこ)に滌(すすぎ)ぎたまふ時に成りませる神の名は、

底津綿津見(そこつわたつみ)の神。次に 底筒(そこつつ)の男(を)の命(エ)。

中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、

中津綿津見の神。次に 中筒の男の命(ウ)。

水の上に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、

上津綿津見の神。次に 上筒の男の命(オ)。

底-中-上(エウオ)津綿津見の神(実在実相)

津 エウオの港からの出発。エウオをアイではなく、アイとしてではなく、エウオの実相を以て出発するので、それをアイとすると禍になる。

綿 渡すものはエウオにある。綿は海、産み出す。エウオとして産み出すもの。

津 産み出したものをまた渡し直す、産み渡す。自己への帰任確認周回が行なわれなくてはならない。

見の神。そのようなことが明らかに見られ現われる実在現象を扱う。

エウオの実相から出発し、客体側へ渡し生み成したものを、主体において受領了解できるものとして明らかに感得できる実在現象を得られるエウオの実体。

その為には自己に明らかな出発点となる、言霊タで始まる世界(言霊カではなく)が用意されなくてはならない。

それが自己保障されるのが、入口から出口まで、出発から到着まで明らかに示される筒(津津)の働きの存在となる。自分の立ち位置が明白な言霊タの世界で始まり、到達位置の明白な言霊サで終える津津(筒)の領域内を通過していかなくてはならない。

そこで筒が用意される。

底-中-上(エウオ)筒の男の命(働き)

筒 津津という往復反復循環できる筒。意識手順の通過する道。

男 通過する道の上を動き、またその通過を促し誘う能動主体の働き。

各明白なエウオの次元に立ってそれを導き創造しつつ目的に向う働き。

津見、筒の男の次元では自覚されたアメツチの吾の眼は明白となっています。そこの場所からしか出発しませんが、アの次元を全面に押し出すことはしません。アから出発すると禍となるので、禍直しの三神のいずれかからの出発となります。

しかし、禍直し三神はいわば、自覚された自己領域に立つというだけです。つまり、自覚されたオノコロ島に吾の眼を付けて智となすアメツチの御柱と八尋殿を打ち立てたのです。そこで今度は、実体を現わすエウオの三次元からなる世界で創造を始めますが、「天津神諸々の命以ちて」ではなく、禍直し三神(神直毘、大直毘、伊豆能売)の三権分立に則って事が運ばれます。

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よって、ここで自覚されたオノコロ島に御柱を立て八尋殿を見立て、マグワイによる創造行為が始まります。

イザナギの大神である自分の意識は、伊豆能売以前の神々全体を引き連れて、イマココに自分の選んだ選択の芽を植えつけます。植え付けることそのものか、植え付けたことを発展伸張させるかの選択がされます。筒を一巡するだけで十分なもの(一音)か、反復が必要なもの(複数音)かの選択となります。

--------▼▼▼▼▼ ここから以下未完 ▼▼▼▼▼

この三柱の綿津見の神は、阿曇(あずみ)の連(むらじ)等が祖神(おやかみ)と斎(いつ)く神なり。かれ阿曇の連等は、その綿津見の神の子宇都志(うつし)日金柝の命の子孫(のち)なり。その底筒の男の命、中筒の男の命、上筒の男の命三柱の神は、墨(すみ)の江(え)の三前の大神なり。

ここに左の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、

天照らす大御神。次に

右の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、

月読(つくよみ)の命。次に

御鼻を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、

建速須佐の男の命。

この時伊耶那岐の命大(いた)く歓喜(よろこ)ばして詔りたまひしく、「吾は子を生み生みて、生みの終(はて)に、三はしらの貴子(うずみこ)を得たり」と詔りたまひて、すなはちその御頸珠(みくびたま)の玉(たま)の緒ももゆらに取りゆらかして、天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝(な)が命(みこと)は高天の原を知らせ」と、言依(ことよ)さして賜ひき。かれその御頸珠の名を、御倉板挙(みくらたな)の神といふ。次に月読の命に詔りたまはく、「汝が命は夜(よ)の食国(おすくに)を知らせ」と、言依さしたまひき。次に建速須佐の男の命に詔りたまはく、「汝が命は海原(よなばら)を知らせ」と、言依さしたまひき。