06章-2 自分の時(トキ)とは何か

<時(トキ)とは何か>

<時(トキ)とは何か>

一 「とき」が動いていくより近いと感じる時の動き・「とき」そのものが現れているという動き・今-今のそのものの動き。言霊チ。

二 「とき」を思うより「とき」の動きの方が近いと感じる時の動き・「とき」の持続が感ぜられる動き・今-今の持続そのものの動き。言霊イ。

(一と二は能動受動の対)

三 あった「とき」を自分の方へ掻き寄せるときの動き。過去-今の引き寄せの動き。言霊キ。

四 あった「とき」に自分を結びつけようとする動き。過去-今の結実の動き。言霊ミ。

(三と四は能動受動の対)

五 自分を基準にして「とき」をあらしめようとする動き。今-未来に静める動き。言霊シ。

六 自分を基準にした「とき」が発展伸長させられる動き。今-未来に拡げられる動き。言霊リ。

(五と六は能動受動の対)

七 「とき」を心の表面に完成する動き。過去今未来を全体を開く動き。言霊ヒ。

八 「とき」が心の内面に煮詰まる動き。過去今未来の全体を煮詰める動き。言霊ニ。

(七と八は能動受動の対)

時。とき。十気。十機。戸気。戸機。止機。

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時とは物事の実相の変化ですから、トキとして現れたものに知らされる形をとります。何か実相に知らされる相手が自分で、そこで初めて知らされたものは何かと知ることになります。

時とは何かという疑問を持つ場合にも、自分が疑問を持って初めて時を解こうとしているのではなく、自分が持った疑問というものはどこか誰かなにかから知らされ依頼され与えられて自分に載った(宣った)ものです。

というのもトキという言葉はその人が創ったものではなく、既存のものを取り入れているからです。

従ってトキを知りたいという人は、自分の問いの前に自分がいない状態、無視されている状態から始まります。一方トキの方は、どこの誰にでも何時でもどんな形にでも宣(の)ることができますから、もともとトキに関する全世界を秘めていることにもなります。

ここにトキを知りたいという概念の疑問が出てきたならば、問いの相手はトキに関する全世界の事柄が秘められていますから、どのようにでも応答してもらえるということになります。

するとここに自分が選んだ疑問の応答があり、応答がある以前は秘められている形をとっていたので、自分の頭に宣(の)ってきたときには自分が発見作り出したように思えます。トキという言葉を借りていながら、自分で時を創っているように思えるのです。

その時はどのような時かといえば、 時、とき、十気、十機、戸気、戸機、止機、等々です。字面は大分変わりますが、内容は伝わり易い。しかし、漢字を使うとイメージが固定してしまうので注意して下さい。十のトと戸のトと止のト、では全くイメージが異なりますが、その両者の共通項を利用するために書いています。常に五十音図を思い出していけばいいと思います。

十は音図の横行十個です。戸はその十個を一つ一つ開くもので、止は一つ一つの現れです。それぞれの気(たましい)が機に応じて出てきます。そこで出てきた形(実相)が一つ一つ次々と戸を開けて十個渡っていく変化の現れが十気となります。

時間は動いているものじゃない。

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以下引用。

時は存在しない。

「時」とは何か。時は過去があって、現在があって、そして将来がある、時間を自分以外の事として見れば、そういうことになります。

あの人は何時に起きて、今、顔洗って、飯食ってる、洋服着替えて勤めに出ようとしている、これは「時」を自分以外に準えて見て考えるとそういうことになります。過去、現在、未来。では、主体的に「俺は何をすべきか」を考えているのは‘今ここ’です。紛れもない‘今ここ’です。過去でも将来でもありません。

時間というのはこの世の中に存在しない。

ですから‘今’を自分の真正面に見ることができた時にはそれは仏教の極意である寂光の中に生きている。でも‘今’は掴まえようがない。‘イ’って言っている内に‘マ’になる、では‘今’を見るってどういうことか。つまりは動かない。

手を合わせて南無阿弥陀仏でも何でも構いません。「あんころ餅、あんころ餅」って唱えるのではなくて見詰めてパッと目を開けると「あんころ餅、あんころ餅、あんころ餅、」と言っていた時間は流れた時間がない。

時間というものは動いているものじゃないということがお分かりになる。一つのことを考える時という時間がない、だから、時間というのはこの世の中に存在しない。貴方は八時間働くと一月いくら。

あれはそういう時間があると仮定して約束事の時間というものを契約書として契約を結んでいる。人事なんです。大自然には時間がない。

それで分かった、人間というものは本来、時間というものはない。時間というものは自分で作るもの。現代科学のまやかしです、時間というものは。自分でまやかしを作っておいて、アインシュタインは時間を超越した理論を発表した。

有名な相対性論理、自分で作った論理を自分で潰した。時間というものは明日が来れば24時間経ったと思う頭が作り出している。24時間経ったと言うと、ここに居る人間が歩いて行って明日と言う時に止まったから、ここからそこまで24時間経ったと思うでしょ。

その時にそこに何かありますか?昨日居た所が。そんなものはないんです。ここにしかない。人間というのは同じ場所でただこうやっているだけなんです。それを頭の中でこういう波動を過去に伸ばすと歴史が、明日に伸ばすと将来の予測ができる。

みんな科学の考え方、ウとオの考え方に縛られてしまって、がんじがらめになる。

ここまで引用。

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続いて引用。

時量師の神は古事記の本によっては時置師(ときおかし)の神といって「量」ということのかわりに「置」という字が書いてあるものもありますが同じ意味でございます。時の経過を判断する元となる働きというような意味です。

父韻のところを投入したら時量師の神が出て来たというと、その通りですが、それでは時間とは何なんでしょう。時間といいますのは空間の状態の変化した時に人間は、「あ、時が経ったな」と感じるんです。

空間の変化が全然ない時は時間という観念は人間の頭に浮かんでこない。

ここまで。

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上記引用文を了解してもらえればこれ以上書くことは無いのですが、どのように了解しているのか言ってもらうと十人十色になり、どこに了解があるかとなります。

わたしもその内の一人となってしまい奈落にはまり込みます。

時は無い、というのは時という言葉を使用して説明したものですから、矛盾しているのですが、これを平気で人間社会は使用している様子が解ければいいわけです。

こうした混乱が起きるのは時という言葉一つでもって無数の意識全体を言おうとするからです。

時・時間は漢語読みを廃して大和の日本語にしますと、トキ、です。

十の意識の在り方(十気)を、十の潮時(十機)で活動させ、十のそれぞれの現れる戸を開け(戸気)、十の現象となる好機(戸機)として、十の現らわされ静止された潮時(止機)となっているものを、トキといいます。

自分の順番が廻ってくるのはあと何人目だ、腹減ったもうすぐ食事はできるだろうかと待っているとき、今生きている時の中にいますから過去も未来もありません。それらを気にしている今にいます。そこに気にしていた過去の記憶や時計の時刻を見た記憶を持ち込むと時の流れがあるように見えます。持ち込まれたのは記憶であって今成している自分のことではありません。

前章では今イマを在り方と働きから見てきましたが、ここでも同じです。

時計の時を刻む長さとか光の速度との関係とかは、物理、数学での解き方ですのでここでは考慮しません。もっぱら自分のトキとは何かになります。

言霊学はフトマニ原理(古事記冒頭)が循環していきますからここでも書くことは繰り返しです。今・イマの項目でウオエ次元を示しましたから、ここでは時・トキのア次元を取り上げることから始めてみましょう。

原理は循環して繰り返すといっても、前段で時は無いなどといわれると驚かれることと思います。一方ではイマしかないといっておきながら、イマは無いと言わないのはどうしたことだと言われるかもしれません。

こうしたことは原理と現象が同じ言葉で語られることから来ます。その成立は蛭子・淡島の段落で示しました。

では、ア次元(宗教、芸術、感情)でのトキを見てみましょう。

ア次元でのトキ。

全体が、時の表面を覆い尽くす於母陀流(おもだる)の神から、同時に内部に煮詰まり吸引されていく妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神に至る流れの中にあり、その流れは、1チ・3キ・6リ・7ヒ・5シ・8ニ・2イ・4ミ の順を通して現象していきます。

これによってトキの全体を確認する世界となりますが、全体を一般性普遍性として現し、自身の内部へは個別性特殊性となっているのに、夜に怪しくかしこまりまとまっているような状態です。比喩にもならないような変な説明ですが、元々神名がそんな調子ですから。

そこで感情次元のトキの現れです。

於母陀流(おもだる)の神 。。 欲望、知識のウオ次元の無自覚に自分のものとなっていることと違って、感情はその人のものでありその人のものであることが自覚されています。しかしその感情の現し方、行き着くさきはアヤカシコネ・言霊ニで、自分の感情を相手対象の暗闇で縮こまり隠れているものを探すようなものです。自分の方では大いなる激情に翻弄されているのに、相手方には全然届かず相手にされないというようなことが起きます。こちら側の大いに面が足りている状態を、その心の運用として相手側に現すのに、得られる結論や希望の思いは、あちら側に任せられています。あるいは自分の感情意識を相手の中で見つけるのに、アヤ・吾夜、相手側の意識の闇の中で、カシコミ、畏まって縮こまっている自分の意識を見つけるようなものです。自分側にある時にはおおいに面足るであったにも係わらずです。

カシコネのネは音に通じるもので、感情意識の流れの渡り終えたところで出てくるものですが、自分の感情意識の言葉としての表現は常に縮こまったまま畏まった音(ネ)のままということでもあります。

1チ ・・ その流れの心の運用の始めの姿は、感情を得ている時・トキの宇宙が全体そのままに現れてきます。自分の感情を自分で知っており、自分の感情全体が出ています。出てくる感情は向かう先で落ち着かねばなりません。落ち着く先はアヤカシコネで暗闇で煮詰まった自分を探すことになりますから、はっきりした方向が分かりません。感情の向かう先は不安定です。自分では「たくさん」と感じていても、相手にとっての「たくさん」とはどういうものかは相手次第です。

3キ ・・ そこで次の言霊キの掻き寄せ結び付く働きが出てきます。最初に出てきた全体の感情意識の自分にとっての関心事に結ばれます。富士山の日の出を見ているときでも、日の出の全体を見ていながら、感情の落ち着く先の言霊ワのアヤカシコネを求めて達するには、富士の日の出の自分の関心を引く何者かに結び付きます。ここでの結びつきは主体側の言霊キによるものですから、結ばれた富士の感情意識はオモタルとなって大いに感情の表面を占めていきます。朝日の昇る富士山の情景のその色へか、その輝きか、その太陽か、その稜線か、富士にかかる雲か、それらの組み合わせか、キによって結ばれます。

6リ ・・ キの主体側活動によって選ばれ持ち込まれた感情意識は、心の中に一杯に拡大発展されます。 同じ相手対象を見ていても結ばれるものが違いますから、それを表現するとなると様々となります。その一方で最初の全体の様子を通過していますから、誰でもが同じ対象の内にいます。

これは始めのオモダルの時点にいることで、その後のチキリヒシニイリを経過しないで、一般的に語り出していくと蛭子・淡島を生むことになりますが、この一般性の上に宣(の)ることで、つづく主体的個別的な感情表現表出も出てきます。

さらに言えば、ここでのオモダルの全体と言霊チでの全体とはどう違うのかということがあります。オモダル時点では先天の全体世界ですが、チの時点では富士の日の出というように相手対象となったものが出てくる違いになります。チでは対象となりますから見ない人関心のない人には富士の日の出はないけれど、それ以前の先天世界には誰にでもあります。その選ばれて心に発展した姿の表出に向かいます。明確に煮詰まった形を取るように向かいますが、その相手は畏まった自分の結び付いたものへだけです。

7ヒ ・・ こうして自分の関心事が選ばれて、それが表現に組まれます。結ばれたものへの表現になっていますから、自分ではこうこうだと説明することは出来ますが、相手を納得させる表現とは成り難いものです。私は神を見た、富士山とは真にこういうものだと分かった、と主体である自分側には表現できても、相手にはアヤカシコネ、あやしいかしこまった音(ネ)だけとなります。

5シ ・・ それでもそれが自分を述べる力量を示す大いなる地(オホトノヂ)となります。 言霊ヒによって自分に得られた表現を、イマから静め落ち着かせ調和させようとする力動がはたらきます。その表現が心の中に行動の目的となって固定されます。

8ニ ・・ ついでアヤカシコネの言霊ニがきます。行動の目的が固定されてそれが名目となって定まります。(アヤカシコネが何回も出てきますが、ウオエ次元も同じ働き方です。五十音図を見てください。両端は母音と半母音で、ここでは感情のア次元を扱っていますから、感情の五十音図を見ると、イ段がイ・チキリヒシニイミ・㐄です。学校で習うのはウ次元の五十音図です。両端のイ・㐄がここではオモダル・アヤカシコネで、感情次元のアの五十音図では常に、 イ・オモダル、㐄・アヤカシコネの間を行き交いつつ八つの父韻の働きを全うしていきます。同じ名前を共有していますが、親韻の位置にいる場合と父韻の流れの中にいる場合とがあります。)

選択された感情によって選択された感情が煮詰められていきますから、感情による判断というものはより強力で他者を入れないものとなっていきます。

2イ ・・ そのような判断をもってイマあるものをもって今にあり続け行動となり、感情を自分のものとして表出していきます。感情があるときにだけ、感情を受けているときだけは自分であることがはっきりしていきます。

4ミ ・・ ところか父韻の流れの終わりは言霊ミです。感情の出た先でミ(実)を結ぶことになりますが、そこにあるのはアヤカシコネで闇夜に音(ネという現象)を探すようなものです。その方角の彼方に目標の実現があり、自分では相手に伝わっていることが分からず、結果の了解は相手側に任されてしまいます。

妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神 。。 こうして始めのはっきりしている感情も、自分側だけには受け入れられますが、それを相手に向けると単なる指示するものとなったり、努力目標となったり、修行苦行の鍛練にすり替えられたりしたりします。発信元のメッセージには有ると言われていますから、それを信じたければ信じていくことになります。

しかし、本人以外には信じる先は畏まった音(ネ)ですから、結論は出ず先送りされ、あるいは信じることだけが重要視されてしまいます。

ここはワ行半母音のアヤカシコネで、オモダルの渡り終わる先です。まさにアヤニカシコシのネ、イマある私の意識(ア・吾)の闇(ヤ・夜)相手に伝わるのに、畏まり縮こまって煮詰まったまま(カシコ)のネ(音・言葉)ということです。

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於母陀流(おもだる)の神から、妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神に至る流れの中で感情世界の時間があります。ほとばしり出て自分の表面に足らしあるいは、表面に足りている感情を垂らして相手対象側で煮詰めようとするとき、主体自分側には自覚し充分足りていて自己感情であることが分かっていますが、それを表現したり相手側において了解を求めたりすると、たちまち暗闇を彷徨うことになります。

ですので感情は自分側が意識している間だけが感情を得ているという時間があります。

相手側の見られる客体は言霊ワですが、ここにこのワ・わの拡がると同時に縮こまるワ・わ・和・輪・話・の相互了解の難しさがあります。主体側は勝手に拡げることが出来ますが、拡げて手を差し出す相手はアヤカシコネの縮こまる闇夜です。

自分にはあるのに結び付く相手が闇夜にあるということは、時間に関して言えば、自分の拡がり感じている間しか感情はないということになります。知識や概念は記憶や記録として残りまた再び取り出すことができますが、感情はそう簡単に出たり入ったり取り出したりしまったり、思い出したりできません。

そこで感情次元で重要なことは、留め置く努力です。

それのできない人達は信じること(信仰)で済ましてしまいます。

ですので感情次元の時間は無自覚の状態では、感じている間だけのイマの流れで、自覚している場合には留めようと努力しているイマの全体になります。

また、欲望との違いは、欲望の内容は自分自身ですが、感情の内容は対象にあります。寿司を喰いたいという欲望の内容は喰いたいという自分自身の欲望そのもので寿司の内容ではなく、どこの何のという指定されたものの内容とはそこにある自分自身の欲望のことです。

感情の場合には五感の意識がはじまるや、自分の感情と対象の差異があらわれます。つまり自分のものでない自分以外のものを感じます。感情は自分のものなのに、感情の相手は他者となります。喜怒哀楽は自分の心が現れたものですが、喜怒哀楽の内容は相手対象にあります。込み上げる情感が全く自己陶酔の状態で起きるときなども、自分の心が自分の心にある何者かを相手にしている意識を持ちます。

感情は喜怒哀楽のような心理的に言われる感情としてだけでなく、その初めの時には相手対象を意識することです。自分以外のものを知るのは感覚を通して、自分以外のものがあると気付いていきます。

初期の些細なときにははっきりした喜怒哀楽となり心理的に取り上げられるものとなっていませんが、対象を持つということは感情を持つということです。普通に言えば五感感覚受容器官の助けを得て、感情機能によって相手客体側の存在を知ることになります。五感による感覚受容は物理化学的な情報の生理的な移動ですから、情報が意識に宣(の)る以前のものです。生理物理情報が遮断されれば感覚は起きず対象を認識することもできません。

光が無ければものは見えませんが、闇という相手対象ができています。同時に闇の何らかの感情が無意識的にか意識的にか、現れています。闇の感情は自分のものですが、その内容は相手方(闇)が現します。

こうして感情というものは、喜怒哀楽を云々する以前に、主客に分かれたことを確認するものとなります。そして確認している間が、つまり感情がある間だけが感情としての、自他、主体と客体、相手の存在を了解している時間となります。

感情としての時間を留めるのは難しく、すぐ忘れ気分が転換してしまい他の対象に向かいやすいものです。それでも感情が続いているように感じるのは、記憶としてで当初の感情が持続することはまれです。

感情というと心理学での情緒感情、喜怒哀楽を思い浮かべやすいですが、まずは自己と他者の差異を産み出すものです。

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