『09 物象の形成』

物象論 (心象論からの続き)

大倭豊秋津の島 (天津御虚空豊秋津根別) ・発声授声了解して言語化

心象論からの続きとなっていますが心象としては既に終っているのでこの後は何もありません。

前段、佐渡の島、が心象の形成される段落でした。そこでは先天イメイジが言葉と結ばれて心象の形を現したのでそれで十分です。こんどは形として動いていくので、心象の次元は出て物象の次元となります。

心象の次元は終りましたが前段は豊かに持ち続けられるのですから、物象の段階でもどの時点においても含まれています。いつでも顔を出しますが、しかし物象の次元に心象が出てくるというのは場違いです。

心象はイメージと違って言葉と結ばれますが、まだ物質化していませんから、言葉として通用する共通性を受けていません。自分の心象を言葉として自分に形を示すことはできますが、他者にあるいは聞き手としての自分に説明はできません。イメージ以上の心象があり心のもやもやを説明する言葉を持っていそうなのに、説明できないことがあります。それは自分から出る言葉はあるが自分に帰る言葉を持たないからです。

物象論では自分に帰る過程を明かします。

ところで人は帰り方を間違えることがありそこでの出会いを新たに主張することもあります。この段落では両方とも説明できればそうしたいと思います。

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心象は言葉と結ばれていますから次の段階では自分を幾らでも説明できます。しかしだからといって言葉という心象と結ばれているのであって言葉という物質現象と結ばれているのではありません。今の段階では説明できそうですが根本的にできないのです。日常の出来上がっ私たちの頭脳環境からすれば、イメージも心象もこういうものだと説明ができ、語っていきます。しかし古事記はここにも精神意識の流れる時間を見ていますので物象の次元の段階がきます。もちろん立ち止まれば誰にでも確認できます。

風の神名(かみな)は志那都比古(しなつひこ)の神 言霊フ 志那都比古とは先天活動の意図(志)がすべて(那)言葉となって活動している実体(神)と言った意味です。

前段のクムスルソセホヘを受けて舳先を向けて吾の眼が口から息として出るところです。息が出るといってもここでの吾の眼は息にもなるし光点にもなるし文字にもなるし、息そのものとか息の出方と口腔舌の位置とかを分析しても言霊学以外の成果をあげるだけです。

風の神名 風、木、山、野と続く始めです。いずれも自然現象をもじっていますがそれらを司る神の意味はありません。あくまで意識、心を象徴したものです。

風は身体全体木々家屋全体を震わすように、心象から出てきて物象に結ばれた始めの姿はあれこれの個々の言葉ではなく、意識の向かう対象全体に各自の所持している意識の全体を吹きかけることです。現実の流れでは具体的な個々の言葉が出てきますが、その出方を観察すると個々を指示する以前の全体性があります。それが全体的な風圧となって出てきます。

風は息の象徴ですがそれは自分を含む総ての人を吹き抜ける言語規範の共通性でもあります。

風は吹き渡りますが風の前に何も風圧を受容する器官が無ければ、受け取るものもいないということです。風という意識を発したことが分かりません。そこで受け取り手となる実態が必要になるばかりか、受けて側に送り手の総てを受け入れる、つまり送り手の風圧を受けつける山が待ち受けることになります。ですのでここで山といってもそびえ立つ岩石の山ではなく、吹きかける意識を受け付けるやはり意識の山のことです。意識の山の正体は二つ先の神名で明かされます。

吹きかけてくる内容です。言語規範の共通性による志、こころざし、意図、思い、心等、息を出す側の人格の全体のことです。言葉は個々の事物や心を指示するように見えますがその表現は必ず一般性の上に乗っていますから、まず一般性全体を自己主体側が表出し、相手側対象の一般全体性に載るようにします。これが二つ先にある大山津見に結ばれます。

沢山ある、ゆったりしている、美しい等の意。つまり吹きかける者のその時までの人格と知識等の全体のことですが、反芻して主体側に帰ってくる主体側にはまだ無いけれど主体側が受け取ることのできる規範の一般性も含まれています。

回帰してくるものが主体側に用意されていなければ主体側は自己確認ができないのです。その時点で十分の三で吹き出しても返って来たものが五、六であっても主体側には、元々十分の十が用意されているので、受け止めることができます。(スガソ音図)

都はミヤコと読み替えて、当て漢字をしますと実(霊)屋子となり、吹き出した息に霊の実質(霊)が留まっている(屋)現象(子)となります。

比古 ヒコは男性で働き活動を現します。

木の神名は久久能智(くくのち)の神 言霊モ ここでの木は気持ちの気のことです。久久能智とは久しく久しく能(よ)く智を持ち続けるの意。前段で物理現象として息がでましたが、これは画面の黒い光点であったりインクの文字であったりもします。心象が物象の形を取り物質と結ばれます。物質は生々流転の中にあり寿命と共に朽ちます。木である物質の性質ですが、一方気である言葉となった物象はどうかと言うと不死不滅です。

インクはかすみ画面の電源が切れ音声は聞こえなくなりますが、修復さえされればキは甦ります。実際に千三百年前の古事記はそのキの内容である言霊学を再降臨させてくれました。それによって一万年前に完成していた心とは何かの意識の学と行が、これからの世界を形作っていくのです。愛していると 言い交わした二人の当事者がいなくなってその形見の欠片さえ消滅しても、愛しているという言葉に触発されれば数多くの形の愛しているを追体験できます。

これを敷衍しますと人は死なないのです。わたしが見たことあなたが聞いたことの五感の一瞬の経験でさえ、誰にも知られず誰にも伝わらずにいても、人知れずに一人を全うしたいと思っていても、物質としての自分は自然と同じですが物象としての自分は不滅の一員となります。

不死が心象を出て、物質の形を取るところで不死の話になるところが重要です。というのも物質になってしまえば朽ちるのは眼に見えています。つまり言霊ウと言霊オの次元での世界の話になるからです。永遠の身体とか死なない霊魂とかの話は物質的に今ある物の世界と過去からやってきたものとして扱われています。あったものとあるものを死なないと言い換えています。

不滅の古事記とか愛しているよとかの場合はいずれもそれを媒介する物質、身体としては消滅するものです。しかし言霊ウオの世界もそれが物象の世界に入れば不死を獲得します。例えばここに桃がありかじりついてうまかったとします。現物の桃はなくなります。無い物には何だということはできずウ次元の物質は消えてなくなります。また桃がどういうものでどこ産のものだという知識を披露できる桃はもうありません。ところが桃があった時にそれを選んで食べたという選択をした智恵は桃が消え去っても消えません。またあるいは桃の形色香りへの感情や存在を享受する感情も、ひとたびそれが起きるや桃の存在無くして持続することができます。

更に言えば、それらを起こす意志次元の働きは消えようがありません。そしてそれによって獲られる五感感覚の物象もすくい上げられます。

先天活動が言葉と結ばれて出てきました。出てきたものは朽ちる物質の性質を超えて存在し続けなくてはなりません。それが久久、久しく久しくといわれるゆえんです。次は有るというものに主体側と客体側が結び付くことです。客体側は物質の性質を帯びていますが、その方面を扱うのは全く別の物質の法則に従いますので、言霊学の範疇を逸脱します。それのありさまが後に黄泉国(ヨモツクニ、死者の国ではない)で展開されます。今は心象から物象になり物質の性質がどこにでもこびりついてきます。だからといって心の機能を無視すると黄泉国に落ちます。ですので次に出てくる山の神名は大山津見の山も見上げる山のことではありません。

山の神名は大山津見(おほやまつみ)の神 言霊ハ 天(あめ、吾の眼) が吹き出でて山という地に着こうとしているところです。平坦な土地では居場所が見えません。意識を表出したのですからそれを分からす必要があります。そこですぐ見分けの着く大山の頂上についてはっきり見えるようになります。つまり受けて側の明確に受け入れることのできる突出した部分を互いに見えるようにすることになります。送り手も受け手も意識の輝く頂上を受け渡すことが大山津見、意識の大いなる山となって伝えたいことがはっきり見える、になります。

山というのは高い山ということだけでなく、意識の時処位の高く盛り上がった所在頂点を、知らしめることです。何を知らしめるかといえば山そのものです。多くの意識や文字の中から持っている意識の頂点を知らします。こんにちはならば五文字の連続する頂点である五つの山を示します。つまり一つの単音言葉を選択したことが既に一つ山を動かしたことになります。では言葉とはどういう山なのでしょうか。

大山はオホヤマと読んで大八間と書き下し大いなる八つの意識の居間の意になります。八つの意識が矢(八)となって八間を貫き通し一つの屋(ヤ)となって出来上がり山となったのが、心象を経て物象となり言葉という物質の形をとりました。

八つの間は宇比地邇(うひぢに)の神から始る妹背の八神のことで、父韻と呼ばれます。意識の輝きの頂点が物象に渡され大山となって現れ見られることになります。その各頂点、先端に現われたのが言葉となります。「物事の表現が心の宇宙の表面に完成する韻」と成る言霊ハです。

単音の言葉がそれ自体山であり、その山頂の輝きを連続して渡って単語なりが出てきます。単音はタならタという一音が出てくるのではなく、タという山頂を持った山状の他の音が裾野に形成されています。単音の頂が不明瞭な時は下に控えている単音がとって変わることもあります。五十音が言葉の数ですから一単音に四十九音が見えない、聞こえない形で従っているわけです。

しかしただ勝手に山を形成しているわけではなく、話して側の関心の順位に依っています。聞き手側は聞き手側で話を受け取る関心の位相位階に依っています。

野の神名は鹿屋野比売(かやのひめ)の神、またの名は野槌(のづち)の神 言霊ヌ 鹿屋野(かやの)の鹿屋(かや)は神(かみ)の家(いえ)の意です。これを神名(かな)と呼びます。佐渡の島の真名が口で発声されて神名となり、空中を飛んで大山津見の言葉となり、山が裾野(すその)に下って来て鹿屋野の野に着いた、という太安麻呂独特の洒落であります。野に到って、そこで人の耳に聞かれることとなります。耳の鼓膜を叩くので野槌(のづち)の神と付け加えたのでしょう。

山が平地に降りてきました。平地に降りて鼓膜を叩くということです。よく分からないところですが普通の話し合いではしゃっべった言葉が聞かれるところです。

受け手は野で話し手は山で、話し手の輝く山頂だけが野に縫いこまれ相手に伝わればいいわけです。山と野では大きな違いがありますが、単音の一つの山頂が移動するだけではなく裾野全体も移動しています。と同時に受けての野は山頂が縫いこまれるだけの穴があるのではなく、山がどのような形で降りてきても受けられる山と同等の広がりを持つ野です。五感の拡がりと遂行される五感の錐先がこの段階では同時に起きています。鼓膜にしろ視覚にしろとりあえずは入って来るものは全部受けるわけです。山が野とまぐわいをするというわけです。

天(あめ)の狭土(さつち)の神 言霊ラ 口で発声され空中を飛んで言葉となります。通常は言葉が飛んで相手に結ばれると思われていますが送り手だけではまだ言葉に成っていません。自分の考えを述べているときなどは言葉が出てきてそれが伝わるようですが、実はそのときは頭脳内で自己回帰を経験していて、頭脳内を廻ることで自分が聞き役となっているために言葉が出てくるように思われるのです。

ここでは野槌と狭土とツチが続きます。吾(あ)の眼(め)が付(つ)いて智(ち)と成る直前の地になるところです。突く槌の男性表現と大地の母の女性表現、父韻と母音が用意され、言葉の生まれたことが確認される段階が続きます。

槌は男性・父韻活動の象徴で八父韻の動きを示し、土は女性・母音の四次元の受け入れの位相を示します。父韻の槌は言葉の芽として自分の生まれる土壌を必要とし活動を現す媒体となる母音となる土に縫い込まれなくてはなりません。頭の中で心象はできていても物的な形を獲ないと自らの誕生を告げられません。

誕生までの経過は次のごとくです。まづ耳の鼓膜を叩き、意図されている叩かれる狭い場所を探し、音を喰らい宣(の)ることで、当初の意図に合ったものに適合しているかを探し、組まれて澄んで落ち着気を得て、大いなる宜(よろ)しい言葉となり、物的な物として固定されます。ここまできて始めて言葉と成りますが、この言葉は次の使用のために先天に回帰していなくてはなりません。それが多くの名を持つカグツチです。

国の狭土の神 言霊サ 言霊フからは心象を飛び出し相手側聞き手の耳に到達した音の話になっています。

天の狭土と対になったような神名ですが配当されている言霊はラとサです。天はアメと読み吾(ア)の眼(メ)で私の意識、動き止まないあちこちへ勝手に移動する意識、狭は耳の中の狭い所で、音声は空気があれば四方八方に散らばります。肝心の鼓膜を叩く道を辿るとは限りません。どこへ飛んでいくか分からない空気振動の濃淡では何も伝わらないので狭い耳道に導かれるようになっています。土はツチで、津地、渡されて地(鼓膜)に付くです。言葉の霊・気・内容方面が流れ走り来る様子です。八方へ拡がる言霊ラは同時に霊の目指す方向も載っています。言霊ラ。

国の狭土は無定形な動きに一定の方向を指し示しその形の中に収めようとする意と成ります。五十音の音声を示し意図にあった形を提供します。言霊サ。こうして四方八方への拡がりとは一方向へ差し込む動きのこととなりますが、動きだけを見ていけば一定方向の動きとは方向の無い動きのことになり、向こう側にある体、物象で現される差し込む方向があるためにこれは一方向にあると規定されるのです。(世界的に車の名前にはラ行で現せられるのが多い。)

天の狭霧の神 言霊ロ 霊を分担。

国の狭霧の神 言霊レ 音を分担。

霊と音声(体)は四方八方に拡がりますが言葉を示すにははっきりしたものにならなくてはなりません。ピンポイント(狭い錐)で言葉が現されることになります。示された方向に進み一つ隣にずれても通じなくなってしまいます。霧は全体(五十音図)を包みますが、伝えたいことは錐の切っ先の狭い錐にあり、錐で一点をうがつことが必要です。

八方に広がるものを切っ先に集約しその方向性を示しました。広い入り口から狭い通路を目指すとそこには混乱と混雑から濃淡深浅の回転渦が生じます。耳は五十音の総てを受け取りますが必要なのは切っ先の一音だけです。五十音のどれに結ばれればよいのか霧中を歩むようなものです。

言霊ロは火を溜め込んだ炉です。指し示された方向が炉の中へ入れということです。そこで意図を示す切っ先の部分に火(霊)が加えられ意図が輝きます。こうして示された(サ)霊(キ)が大いなる意図の現われるわきまえ(リ)となります。つまり炉の中では一つの言葉だけが熱く輝く切っ先として選ばれるのです。

言霊レ。(日本の漢字の音読みにおいて、「レ」単独の音を持つ漢字は無いため、五十音で唯一単独の漢字は存在していない。)炉に入れられた霊、意図内容はそれにあった形として物象で取り出さなければなりません。そこで意図が組まれ(ク)それに似せられた(ニ)物象が炉の融解物から現われ出ることに成ります。

耳に入っていった物は単なる空気の濃淡の振動です。音声として聞かれたのは空気振動に意図の乗った音であることが分かってからのことです。意図の霊(レ)が物象の霊(レ)として、炉の中で再生されなければ音声として霊(レ)が生きてきません。

ここではサキリのサキは霊と体の両者に示された炉でも融合体の先を切り出すことで、サキリのキリは意図を発した主体側に返還、切り返す用意をすることです。

意や意図が個別的なものであるにもかかわらず、意の始めに向かう相手は全体性です。個別性が全体性に向かい全体性が個別性を浮き上がらせるわけです。

天の闇戸(くらど)の神 言霊ノ。 耳の中の暗い戸、聴覚器官。霊側。

国の闇戸の神 言霊ネ。 耳の中の暗い戸。音側。

今でこそ聴覚器官とか鼓膜とか言っていますが古代にはそんな生理解剖の知識は無かったでしょう。科学知識としてもいまだ進行中です。問題は意識との対応ですから科学知識があったところで意識との対応が探れなければ何にもなりません。闇戸は五感感覚が与えられて感覚が与え得られることを戸が開くとしたものです。

意識にとって戸が開くとは、常に八つの見通された戸(ヤ・ミ・ト、八つの父韻)を通過することです。(これは生理解剖の科学知識では全く釣り上げることはできません。)ここでは出来上がった心象が相手対象に向かって吹き出されていますから、五十音図横段のワ行に到達しようとしているところです。つまり横段十番目の戸(十)を開けようとしています。発音者側の闇、伝わるか伝わらないかまだ分かっていない、が明けるところです。

言霊はノで、宣(の)るのノです。何に宣るのかといえば、確認を確証する相手側の先天五十音図にです。ここで発声者側の発生が正しかったかどうかが、聞き手側の復誦によって保障確認されます。しかしそれには相手側も同じ発音をしなくてはなりません。それが次に続く言霊ネ(音)になります。

言霊ネ。復誦の経過は普通は超早いので復誦しているのかどうかも意識されませんが、つっかえたり引っかかったりしたときには確かに復誦している経過を得ます。ですので自分が一人で喋り考え書いているときでも、直接に自分の考えが出ているのではなく復誦された音が出ているのです。

注意することは音を繰り返すのが復誦ではなく、音を出して聞くということは先天十七神から始って心象の神々とここへ辿り着く直前の天の闇戸の神までを全部瞬時に通過し直して復誦しているということです。子を生むことが動物の復誦進化とも取れますが、人の場合には個人自分自身の内で処理できています。

大戸惑子(おほとまどひこ)の神 言霊カ。

大戸惑女(おほとまどひめ)の神。 言霊マ。

前神の通過で音が出てきました。そこでは復誦できる音が出せるというだけで、必要であるどこのどの音をどこから出すのかは分かっていませんでした。

そこで出口となる間を問う(マ・トイ)ことになります。どの母音のどの父韻次元から出れば、心象の元の発声と同じになるか、戸惑うという戸間問いにかけた安万呂さんの洒落です。こうしてどの意識も発声の直前にためらいをもたらすことになります。

大戸惑子の神は霊を、大戸惑女の神は音を受け持ち、釜(カマ)の中で掻(カ)き混(マ)ぜられ大いなる戸から出て行くことになります。

この作業で言葉の意味・内容が明らかにとなり、当初の頭脳内の心象が言葉という物的な形を与えられることになります。

鳥の石楠船(いはくすふね)の神、またの名は天(あめ)の鳥船(とりふね) 言霊ナ

鳥の石楠船の鳥は十理(とり)の意で、五十音図の母音アと半母音ワとの間に八つの父韻が入って現象子音を生みます。

母音・八父韻・半母音合計十の道理で現象が起るのは、主体と客体との間を鳥が飛び交うのに譬えられます。

石楠船(いはくすふね)とは、五十葉(いは)である五十の言霊を組(く)んで澄(す)ます(楠)と五十音言霊図が出来上がること。

船とは人を乗せて渡す乗物。言葉は人の心を乗せて渡す乗物。

そこで鳥の石楠船の神とは「言霊の原理に則って五十音言霊図上で確かめられた言葉の内容」という意味となります。

天の鳥船とは「先天(天)の十の原理(母音・八父韻・半母音)の意図(鳥)を運ぶもの(船)」となり、鳥の石楠船と同じ意味となります。

言葉が耳に入り、復誦・検討され、煮つめられて「あゝ、こういう意味だったのだ」と了解されます。

その了解された意味・内容が名(言霊ナ)であります。昔より「名は体をあらわす」と言われます。

言葉が名となった事で内容は確定し、私と貴方との間の現象(子)が了解された事となります。

言霊ナは言霊コの内容という事です。

大宜都毘売(おほげつひめ)の神。 言霊コ。

言葉が耳に入り、復誦・検討され、内容が確定し、了解されますと、終りとして一つの出来事が完結します。事実として収(おさ)まります。父と母が婚(よば)いして子が生まれます。それが言霊コであります。それは物事のまぎれもない実相であり、言霊コはその実相の単位です。大宜都比売とは大いに宜(よろ)しき都(霊屋子)(みやこ)である言葉を秘めている(比売)の意であります。

言葉が最終的にその内容が確認され(言霊ナ)、事実として承認されます(言霊コ)と、三十二個の言霊子音は全部出尽くし、言霊の宇宙循環はここで終り、先天に帰ります。跡(あと)に記憶が残ります。この世の中には千差万別いろいろな出来事が雑然と起るように見えますが、親音言霊イの次元に視点を置いて見る時、世界の現象のすべては僅か三十二個の子音言霊によって構成されており、十七先天言霊によるいとも合理的に生産された出来事なのだ、という事が理解されて来ます。その理解を自分のものとする為には、言霊コである物事の実相を見る立場が要求される事を御理解頂けたでありましょうか。

(ほ)の夜芸速男(やぎはやを)の神を生みたまひき。またの名は火(ほ)の炫毘古(かがやびこ)の神といひ、またの名は火(ほ)の迦具土(かぐつち)の神といふ。

言霊ン。 火の夜芸速男の神の火(ほ)は言霊、夜芸(やぎ)とは夜の芸術の意、速男(はやお)とは速やかな働きという事。神とは実体という程の意です。これではまだその内容は明らかには分りません。そこで「またの名」を取り上げて見ましょう。火の炫毘古の神の火(ほ)は言霊、炫(かがや)毘古とは輝(かがや)いている働きの意。またの名火の迦具土の神の火(ほ)は言霊、迦具土(かぐつち)とは「書く土(つち)」の意です。昔は言霊一音一音を神代文字として粘土板に刻み、素焼きにしてclay tabletにしました。これを甕(みか)と呼びました。甕の神は御鏡(みかがみ)に通じます。

ここまで来ますと、火の夜芸速男の神とは昔の神代文字の事であることが分ります。文字は言葉が眠っている状態です。夜芸速男とは夜芸即ち読みの芸術である文字として言霊を速やかに示している働きの意であります。またの名、火の炫毘古とは文字を見ると其処に言霊が輝いているのが分ります。以上の事から五十番目の神、火の夜芸速男の神、言霊ンとは神代文字の事であると言う事が出来ます。太古の神代文字は言霊の原理に則って考案されたものでありました。言霊ンのンは「運ぶ」の意だそうであります。確かに文字は言葉を運びます。それを読めば言葉が蘇ってきます。

「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は天の御中主の神(言霊ウ)」より始まり、先天十七神、それに火の夜芸速男の神(言霊ン)までの後天三十三神を加え、合計五十神、五十音言霊が全部出揃いました。古来、日本の神社では御神前に上下二段の鏡餅を供える風習があります。その意味は言霊学が「神とは五十個の言霊とその整理・操作法五十、計百の原理(道)即ち百の道で百道(もち)(餅)」と教えてくれます。先天・後天の五十の言霊が出揃ったという事は鏡餅の上段が明らかになったという事です。そこで古事記の話はこれより鏡餅の下の段である五十音言霊の整理・操作法に移ることになります。人間の心と言葉についての究極の学問であります言霊学の教科書としての古事記の文章が此処で折返し点を迎えたことになります。

完。