i 子様のための古事記の言霊百神 08

i 子様のための古事記の言霊百神 8

ここで無謀なことに五次元世界を生んでみたい。

人は五次元世界で息をして生きています。ということを言われるとウソなのか本当なのか、何故五次元なのかの説明されない限り分かりません。次元という言葉を使ってあらわす世界は様々で、どの世界のことを言われてもウソか本当かが分かりません。

次元という言葉そのものが概念の説明には便利です。が、何を示すのかがはっきりしていないし、ことに次元間はどうなっているのかの、聞いても分かりません。古事記では「累積(つも)りて」というように、層を作るもので示されています。現代では次元というのが一般的なのでそのまま使用します。

次元の示すものは、古事記で言う「累積(つも)りて」からすれば、重なりとか層とかの意味に近くなります。生きる=五(い)きる、息=五気のように、五層の積もり重なった世界に息して生きるということになるでしょう。

五層が次元のことだというのなら、その五層しかないところを作って見せる必要があります。霊界は十次元だ十二次元だと幾らでも勝手なことが言えますが、誰も十の次元を見せてくれた人はいません。

心は五次元だというのなら、古代で五を使用した思想のように、何でもかんでも五に押し込め当てはめてみることが全く正しく当然にならなくてはなりません。

そんなことができるでしょうか。

吾の目が付いて地に成ることが人間の全てです。フトマニ学では、言霊ウとされた五感感覚からする欲望実現世界、言霊オとされた記憶からする記憶知識の過去概念を扱う理性実現世界、言霊アとされた感情情感からする情緒感情の世界、言霊エとされた選択按配の智慧からする実行按配の実践智慧の世界、言霊イとされた意思の発現からする意志意図の創造世界、の五つの総体とその動きを人としています。

人間には五次元世界しかないというと、人間世界の材料を集めてを整理分析して五次元を探すことになりますが、五次元と言われて五を探すのでは元ある五を五だというだけのことです。そのように精神を運用してもあったものをあったというだけ、パズルのように出来上がっていた絵をばらして元通りにしただけのことですので、精神によって創造的な仕事をしたわけではありません。この思想を666と黙示録やひふみ神示では述べています。

666は人の思考行為の形を象徴的に言ってます。スフィンクスが朝に四本足で歩き、昼には二本足、夕方には三本足で歩くのは何んだと謎々をしかけましたが、足も朝昼晩も象徴表現であるようなものです。スフィンクスは人間の肉体の形を言いましたが、666は人間の精神の形を言っています。その形を見たときには6と言えますが、象徴内容を知らずに6を探しても何もありません。

666の出所は『新約聖書』の『ヨハネの黙示録(13章18節)』に記述されています。以下に引用すると、「ここに知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である」。

人間を指したものですから、人間の精神の運用が「獣」となることを解けば良いのです。ひふみ神示でばこれを肉(にく、似せて組む)を食べるといったり、汚い(きたない、気の田が無い)北から攻められるといっています。また別の箇所(白銀の巻き-1)には八つの世界前半の三角で示された図形文字として載っています。これらは全く同じことを言っていて、モーゼから伝承されたものか、キリストが古代大和で教わったものでしょう。

五次元世界を成立させ、そのまま流通させる思考法が666ですから、それを取り入れつつ止揚できるかやってみましょう。

これも実は古事記の記述に沿って書いていけばそのまま666になっていき、でんぐり返しして自覚的に続ければ666の不備を止揚するということになります。ということで冒頭に無謀なことになどと書きましたが、実を言うと上手に真似できるかどうかというだけです。

666の実体は各人の思考の運用法です。6の使用は象徴比喩ですから、5の次、7の前という意味も6個の何かの固体ということでもありません。

まず帰納演繹法を見てみます。

演繹法は一般的原理から論理的推論により結論として個々の事象を導く方法です。

代表的な手法に、大前提・小前提・結論による三段論法があります。

(例)

大前提(一般的原理)「人間は死ぬ」

小前提(事実など)「Aは人間である」

結論(個々の事象)「Aは死ぬ」

帰納法は個々の事象から、事象間の本質的な結合関係(因果関係)を推論し、結論として一般的原理を導く方法です。

(例)

事例収集(個々の事象)「人間Aは死んだ。人間Bも死んだ。人間Cも死んだ」

因果関係(本質的結合関係):「人間だから死んだ」

結論(一般的原理):「人間は死ぬ」

ここに各々三段論法と言われるものができています。3と3で6です。また、帰納演繹ともそれそれに形而上、形而下を扱いますから、それぞれが3×2で6、行って帰って6です。3は象徴的に△▽になり、人の思考法となると両方を合わせて、カゴメマーク(ユダヤマーク)の6になります。弁証法の言葉を使えばそれぞれに正反合を持った意識の仕方になります。

カゴメの頂点は6ありますが、自らを反省して自らを導き出すには、自らの帰納演繹を使用しますから、形而上形而下の正反合の各頂点に対して6つ、全体で6×6の36です。これが一番目と二番目の6の意味で、6を使用して6で結果を出すと36個の6になるということです。

別の言い方では、帰納演繹ともあった現象の世界を捕らえて構成されていますので、あった現象の捕らえたが正反合の帰納演繹で最初の6、その運用が6に対して6個づつあるのが二番目の6で、36個の運用法がでてきます。

そして運用後に出てくる形而上形而下の成果となるものが6の結果で、三番目の6のことになります。こうして三つの6の成果ということで、みっつの(三)ろく、ミロク、666、弥勒となりました。

黙示録では弥勒ではなく、獣の数字、それは人間だといっていますから、人間が人間である所以は知性を持つことですが、実はそれが動物的な運用法だということになります。自覚的な理想的な思惟活動ではないが、当然のものということです。

帰納演繹法には欠点がありと、どの解説にもありますが、要するに、あったものを、あってしまった現象をそのままに取り上げることが、欠点といっています。

これは欠点というより思考法の本姓に根ざしているもので、生物的に物を見れば物を見たとするメカニズム、目を開ければ物が見えるというような、そこにあるものをあったとする思いから来ています。簡単に言えば始めの選択が恣意的であり、終わりの結論が時空の流れに基づかないというものです。

この生物的な本性をもった思考法を、人間的な意識的な思考法に変換するのが古事記の神代の巻きの記述です。いわはカゴメ思想、666(弥勒)思想から、人間思想へ禊ぎを経て転換脱皮 するわけです。それにはあったものを扱う世界から、成るもの生きて成る物の世界にいくことなります。

そこで今回のテーマはまず、ここにある-あった世界をつくることです。それが五つの層となっていて心は五次元で成り立っていることを追体験することです。その後成る-生きて成る世界へ向かいます。

666法でいきますと、あったものの世界から始まります。あったものを意識する人間主体側もあったもので対応していきます。欲望であるか知識であるか感情であるか、何にしろその人が持っているものが、応対に出てきます。当然そうでなければ相手を認識できません。

そうするとここに既にあったもので応対している心があることになります。色眼鏡を通しているのがわかります。色眼鏡は悪い意味で用いられていますが、日常茶飯事のことです。この無意識的に出てきてしまう応対する心に待ったをかける手法が古事記です。

しかし、待ったをかけて応対するにしろ、無意識的に反応、作用反作用して応対するにしろ、いずれにしても事は成就していきます。そしてここにまずできるのが五次元世界というわけです。

666か、かごめ法なら材料を集め資料をため判断素材の量が物をいいます。コンピュータのようにどんどん物を詰め込める方が勝ちに早く近づいていきます。ところが古事記法では素材を直接前にして事が始まりません。どうするかというと、オンかオフにするだけです。ですのでオフにされたコンピュータなんてゴミにもできないものになりますが、オンにする使い方を知ればいいのです。

あったものの世界では成るものの世界は扱えません。

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15-2. 13-3-2。腹母音。今と五次元世界の成立。母音の並び。

成る世界、成って行く世界を辿るため続けます。

論考が細かすぎるので所々に整理を入れておきます。

・ 五感感覚での欲望を充足させる表現の時には欲望の腹、

・ 知識を経験を問題としている時には知識の腹、

・ 感情を現す時には感情の腹、

・ 困ったことどうするかの選択を使用としている時には選択の腹、

・ 意思決定し行為をしていこうとする時には創造意思の腹、

この五つの腹の違いがありました。

今の構造は次の通りです。

今という一つの統体は五層の次元で構成されています。まず、静的に見ると。

一、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の構造関係、(後にウ)

二、産まれようとしてあったものが今ある、といういわば、 過去-今の構造関係、(後にオ)

三、それら上記二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、 今-全体の構造関係、(後にア)

四、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の構造関係、(後にエ)

の四態があります。

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造能動意志が今の全てを貫いています。いわば、今の持続。(後にイ)

これが現実に流れている今のスナップショットで、この五つに分かれました。

このそれぞれ次元の違う五つは、主体側から見られた今に成っている、今に成っていく今があるという関係です。

これはいわば、今において現在が成り立つ世界です。

それに対して、主体側に対応した受動側の客体側から見られた今があります。

今そこにある世界で、今そこにあったことが了解される世界です。

いわば今において過去が成り立つ世界です。

一’、産まれようとしているものが(今産まれる)今産まれた、いわば、 今-今となった関係、(後にウ)

二’、産まれようとしてあったものが(今あった)今ある、といういわば、 過去-今となった関係、(後にオ)

三’、それら二態が一挙に俯瞰された状態、今あるあったいわば、今-全体となった関係、(後にア)

四’、そして、今あるものがこれから動こうとして産まれる、今ある今あるだろうといういわば、 今-未来となった関係、(後にエ)

の四態があり、

五’、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造受動意志が今の全てを貫いています。(能動受動の)今の持続。(後にイ)

これで今の過去-現在の実在は揃いますが、今はそのままでは出てきません。

つまり今の創造出現にはまだ至っていないということです。

上記十項目だけでは今はまだ出現していないということです。

上記は「今」ではなく、今の先天世界に実在している「今」なのです。

後にこれらに父韻が加わります。

問題はこれらの一つ一つを成立させていくことで、心とは五次元世界のことであることを示したいのですが、ここでは今とか世界とかの実在世界しか示すことができません。心は創造的に動いていくのに、その動く心の方面は、実在世界として示すことはできず、また別の項目になります。それは後に父韻と呼ばれる項で説明されます。

ですのでここでは心があるという実在世界を扱いますが、心が動いていく世界の話ではありません。つまり動く心の実在できる世界のことになります。心が動ける実体となっているせかいです。

心の五次元世界が五つ(欲望、知識、感情、選択、意志)あるということは、それぞれが個別の次元層でありながら、各次元はそれぞれ五次元を内包というか重層構造を持っています。そうでないと欲望次元は欲望しかないことになってしまい、欲望に付随する他の次元世界が行方不明となります。

欲望の世界ならその次元内で他の次元の関心の程度度合いが違った形で現れます。欲望を中心とすれば、経験知識判断内容よりも、直接に欲望に応じた選択の方が重要になるようなものです。子供が欲しい欲しいというときなど、欲している物の知識など関係無く、自分の選択を主張するようなものです。また、欲望が中心となるときには、自分の意思の発露が重大な関心事になって、感情的なこと芸術的な価値とか宗教的な畏怖感とかは考慮されません。これはどれを中心とした次元を構成するかで、他の次元の位置が変化していくことを示しています。

これを各次元での母音の並びとして記しておきましょう。

欲望の次元はウを中心として、アイウエオ、(これが学校で教わる順位)

知識の次元はオを中心として、アイオウエ、

感情の次元はアを中心として、ウオアエイ、

選択の次元はエを中心として、ウオエイア、

意思の次元は自由自在に現れるので固定できない。

次に、例として、カゴメ(666の正反合)の世界ではあったものから出発しますが、あったものをあらしめる主体の自覚した関わりと、客体の受けいれの統合された、ある-あった世界の五次元を見てみましょう。これは言霊で言えばエの選択按配の智慧次元で見られたものです。

ここでは、エを中心としたウオエイアの次元を重層的に内包しています。従ってここでは、選択のエを中心とするのでその為のよりよい選択には、欲望の有る無しよりも、経験知識がより近く選択のそばに置かれ、より確実な選択を実行するには、感情情緒よりも意思の有る無しが選択により近い位置を与えられることになります。

次に、今ある意識をエの選択を中心とした場合を見てみます。

エ(選択)を中心とした今-あるの各次元層とのかかわり方ですが、母音の記載はエを中心に冒頭の順位を入れ換え、アイエオウになります。

解説中心のエから始めます。

エ。 今あるものがこれから動こうとして産まれる、今ある-今あるだろう、いわば、 今-未来となった関係、後にエの世界ですが、主体側の自覚のあり方によって同じ今の様相が違います。

自覚のある場合には、自分の今あることがどちらに転がるか分かってますので、今ある-今あるだろうの関係は明るく肯定的です。

自覚の無い場合には、不明不安定となります。というのも出てくる結論が肯定的に見通せないからです。

選択はあっても、自覚がないときには経験の応援を求めます。またあるいは経験知識に関わらず突進する意志を求めることもあります。意思の肯定によって選択が肯定されたように思えるようになることあります。

ところが、選択に対する感情の世界はあまり重要視されません。肯定的否定的に感慨をもようされても選択に変化はでにくいのです。同様に選択したい欲望は、未来に向かう選択からすると後を追っているように見えて、いちいち構ってもいられなくなります。

今を成そうとして、例えばパソコンのスイッチを入れるときでも同じです。電源を入れるにはなにも考えないで入れていますが、新品に初めてオンするときなど、うまくいくか不安で不明なときがあります。

オについて。その他は省略します。

今あるものが産まれようとしてあった。今あった-今ある、といういわば、 過去-今となった関係、(後にオ)で、自覚のある場合には、過去と結ばれた概念知識であることが分かっています。そこに自覚が無いと、頭の中にある事を何でもかんでも喋りだすということが起きます。そんな場合でも思いついたことや時間的な経過がありますから、自分で考えたことを喋っているつもりになっていきます。

アイオウエのオが中心で、オの発現は上に書いた通りですが、今あったことを出す世界ですから、まずそれを出したくてしょうがない、欲望や意志がすぐ隣に控えています。自覚が無いと覚えていると知っていることがどんどん出っぱなしになります。感情も選択もひったくりもありません。自覚があれば直ちにストップがかかるので、選択、感情方面へも気遣いができます。

このように自覚の有る無しでは様相が違っていますが、ここまででの話は母音世界と呼ばれるものが出てくるというだけです。実際の時の流れに沿った、どのように出てくるかは、後の父韻の項目になります。

ここで重要なことは、どのような出方をしようと、パチリとスイッチを押してスナップ写真の世界ができてしまうことです。それはそのまま記憶され概念化されてリサイクルさていきますから、その次にまた出てきたときには新しい今のような顔が出きるというわけです。

さてそろそろ腹と母音を結びつけなくては成りません。

五つの腹の違いがありました。上記の各母音世界でのスナップ写真を発声にまで導こうというものです。

母音世界はそれぞれが違った次元にいることがおぼろげに分かると思います。それの腹との対応を探そうとするものです。

それぞれの心の持ちかたで、腹に来る腹圧、反圧が違ってきますが、深刻な疑問と軽い疑問を持つときとは疑問ということでは同じです。非常に深刻な表情をして考え込んでも、軽い冗談のような疑問でも知的な疑問を発するときには、同じだけの腹圧反圧しか見いだせません。同様に、強く決意するときと、軽くホイホイ決めたというときも、その重要さにかかわらず同じ腹圧反圧を感じます。ココ見ていきます。

圧は強弱の概念で、言葉の発声の上では強い弱いが出てきますが、そこでの強弱に捕らわれますと、意識の反映している腹圧反圧での強弱にとって変わられてしまいます。現象上の強弱の中にある、基調音基底音(母音世界の音)と意識の関係ですので、充分注意して腹の反応を見てください。

そして後に、これらの腹の反圧の呼気を介しての声帯での開き方も、八百万の事象があるにもかかわらず、原理要素は八つしかないのが発見されました。母音だけでは子音ができず、子音によって現象が起きます。父韻の項で後述。

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15-3. 腹母音。呼気とこころ。母音の成立。

言霊をチャクラに結びつけたり、松果体や太陽神経叢、丹田、経絡に響かしたり、音霊と称して姓名判断に利用したりしているようです。それらを援護擁護する為に科学的な理論や機器なども利用されています。感じる人が感じるだけでなく事実としてもあると言いたいのでしょう。

母音は子音と違って塞がれる気道がないので、腹への反圧が直接現れます。脳腹丹田に響くと言うのは声帯の響きから来るのでしょう。気道を伝って肺や内臓が震え、大小の違いを感じる感じないはあっても身体全体が発音された世界に同調していると言えるでしょう。その母音の響きを腹部へ誘導して腹から声を出しているようにすることはできますが、腹から声を出していると言えるでしょうか。子音の場合には気道が一旦閉塞状態になりますから、閉塞閉塞子音頭(KaSaNa等の頭KSN)の腹への反圧がかかり、腹から子音の心持ちが産まれるように見えるかもしれません。

母音の特徴は鳴りっぱなし有りっぱなしです。出しっぱなし出っぱなしの母音を心に結びつけるのは難しいことです。チャクラや気を鳴りっぱなしで有りっぱなしの状態を説明しなければなりません。ところが多くの書きものには経験的な気や響きの現象事が主になっていて、母音のようなあればあったで続いていく世界とは違います。

母音の発声は生理物理現象で、小さな声にしろ大きな声にしろ、あーー、と言うとその声は弱まり極微弱になるとはいえ、地球の裏まで宇宙の果てまで際限なく何億年も鳴り続いていきます。ですのでその逆もあります。宇宙から来る生命体からの何億何十億年前の微弱なサインを捕えようというのもあります。

このよう思えば、 数千年前に生きていた人を照らした太陽光線は今も宇宙を旅して今日明日にもあなたの視覚を叩くかもしれません。そこで共感同調し波長が合えば釈迦の顔やマリアの顔を見ることができます。あるいは現代では神と呼ばれている人の声を聴いたりすることもできるでしょう。動物には感覚として人間以上の受容力があります。人間には動物以上の感応同交力があり、精神現象として現れます。

(霊界に行くとか、神を見たり対話するとか、死者とまじわるというのは、そのようなあの世、あっち側の実在する構造世界があるのではなく、精神による感応同交による受容現象でしょう。端から見れば超能力超常現象ですが、人間の世界に元々備わっているもので、同交現象の結果をあちら側に作ってしまった結果、あちら側から来たようにしてしまったのでしょう。人間側に理解できるものとしてしか降りてこないようだし、常に人間に理解できるようなもののようですから、きっと元々人間にあったものなのでしょう。)(括弧内の発言です。)

ただしこれらのことは普通の経験談にあるような現象とするには人の五感は弱々し過ぎます。そこで言えることは母音世界の母韻(音ではない)との共感同交があるのではないかということになります。韻(響き)の共感同交があったことを元にして、後は経験者が勝手に頭の中で造り上げた話が多くなっているようです。

それにしてもそこからすれば、どのような人の廻りにも数千年数億年の地球、宇宙の歴史がまといついているということになります。そして不思議なことに人にはそのような韻(ひびき)と同調する性能があります。またその性能が発揮できないと人としての形を成しません。古事記は共感同交する性能を伊耶那岐の命といっています。イザナギ、誘う気いうことです。

みこと(命)というのは人の働き、性能、それらを表現した言葉ということで、その実践行為をしていく人のことです。命をもって行なうです。

神というのは人の行う行為の原理原則やそうしたものとしての実在、ひいてはそれらを奉り揚げたものです。ですので神は簡単に持ち上げられ拝む対象になり、拝む(おろがむ、愚か者がおろがむ)ものとなります。

命にしろ神にしろ、人間性能の外界への投影とその実在交流の実体験が元となってできたものでしょう。

奉り揚げられるものがまずあったとする設定にすると、あーーの世界は神の世界となり、地上の経験感情と結ばれれば立派な〇〇神の誕生ですが、話しが飛びすぎですので戻ります。

話が宇宙とか千億年とかで始まっていますが、もちろん日常の何の変哲もない今ここのできごとに生きていることと同じ意味合いです。

鳴りっ放しの母音はいつかどこかでそして今ここで、主体側の韻と協調できる出会いの状態にあります。アーーという声をここで聞くか、電話さきで聞くか、録音して明日聞くか、旅行先で聞くかいずれにしろアーーは宇宙に充満しているのです。

これが母音世界の特徴で、もしここに主体側の共感同交がなければ、宇宙に充満している母音アーーはいつまでも宇宙の迷子でいます。これから先も何十億年と彷徨していきます。出会いが無ければ設定された神さんも一人ぽっちです。

ですので母音世界とはこういったことが充満している宇宙全体と同じことになりますから、そこから母音の心を導き出すのは大変なことです。チャクラだとか丹田に結びつける人は宇宙世界と結ばれていることも説明しなければならないのです。今まで見聞きしてきた説明は単なる関心興味からでたもので恣意的なものばかりです。そこにある種の意図を繋げ、経験の因縁を全面に押し出して作られているようです。

そういったことは個人の意見主張ならお話として聞くことはできますが、わたしにはそれはちょっと無理にみえ、単なるちょっとした経験事実を拡大し過ぎた逸脱のように感じます。

わたしはもう少しつつましく行こうと思います。

母音世界が宇宙に充満していて宇宙と同じだけの大きさを持っていることが分かりました。今までは、発音された母音を見ていましたがこういうこともいえます。

一億年前に恐竜の歯をキラリと照らした太陽光線は微弱ではあるが、いまでも宇宙をさまよっています。この光に交感同調すれば、歯でもキリストの顔でもみられるのです。恒星だけが何億年かけて地球を訪れるのではありません。宇宙世界の全てが同じです。言い替えれば客観とは母音世界と同様であるということです。

耳で聞く母音は聴覚にかかわるものですが、母音の客観世界は人の性能の全部に対応しています。聴覚がなければ空気の濃淡しか存在せず、人の各種の性能がなければ宇宙世界も物質の作用反作用でしかありません。それを知る主体側の受容体制が整っていなければ何もないのと変わりません。

わたしの人生は宇宙地球の歴史何十億年に対して、日本の歴史の一万年に対して、たったの数十年で、地球の人々数十億人、日本の人口一億人に対してたったの一人です。それでも自分がいなければ何もないのです。わたしのいない相手は相手ではありません。

母音世界、客観世界はただ有る、有りっ放しの世界です。きりの無い大世界宇宙です。このことをそのまま受け取りますとこういうことになります。

母音世界、客観世界宇宙はそのものとしては決して現象にならないということで、そのままいつまでも続く先天性の普遍の実在ということです。わたしがいなければ世界宇宙はそのまま迷子となってさまよいます。

恐竜の朝日に輝いたキラリとした獰猛な恐ろしい歯は、わたしがここで見なければ存在せずさらに次の宇宙ヘと向かうでしょう。しかし通常は経験事実としても起こりません。三日前のことでも忘れてしまえば何も無いのです。それらがあるように思え、事実として有ると言わせるのは記憶概念です。

記憶は手に掴むことも匂いを嗅ぐこともできません。それなのに有る在ったと頑固に主張することができます。記憶違いにしろ本当であるにしろそれを保証するのが五感感覚と知識となったものを了解している自分の感情です。自己感情の了解が喜怒哀楽として表現されますがその大本は自分と相手対象が全体として了解納得し合っているということにあります。その為にいろいろな自分の中にも主張の違いからお気に入りを選択して頑固な主張と成るわけです。

前述の総体が宇宙であり、この世であることになります。人の世界には先天的にこうしたことがあります。そのことを人の誕生自分の誕生に該当させると、世界宇宙から新しい世界宇宙ができるということで、そのまま先天の普遍な実在となります。赤ちゃんであるわたしは最初から宇宙として産まれてくるのです。

各人が先天的に宇宙であることなしには、あるいは、各人がそれぞれ世界宇宙そのものであるので、この世とかかわることができるのです。わたしの生と宇宙の生とは同じ土俵に産まれたものなのです。

こうして私自身の生も本来ただ有る有りっ放しです。いろいろと偉い人たちが人生のあり方生きる目的とかを講釈していますが、まずはわたしたちは、全部の世界を持っているところから、全部の世界を持ったまま産まれてきたということに注意を向けるべきでしょう。

個人があるから世界があるといっているのはありません。世界は個人的な世界である言っているのではありません。誰もガンジス川の砂の一粒も生んだことはありません。全ては先天的にあります。その先天性とはわたしでありあなたであるのです。もしあなたに差し支えなければ、あなたを神といい、わたしを神もいいます。各人が世界創造の主なのですから。

アーーだとか母音だとか客観世界だとか先天だとか分けの分からないことを言っています。この分けの分からないことが人の活動基盤となります。最初から分けの分かったことから始めると、それはその人の恣意的な意図的な興味関心からでただけの、要するにそれだけの、あーそうかというだけのものとなってしまいます。論争に依って高みへ昇るのだというのもありますが、二つ三つの観点が増えるだけのものです。

そうではなく、わたしにあなたに、誰にでもあってしまった世界があって、人はそこからしか出てこないのです。

さて、わけの分からないわたしと相手の世界をどうしようというのでしょうか。わたしのこころはどこにあるのでしょうか。

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15-4. 腹母音。呼気とこころ。先天の半母音。腹と心。言語発生の根拠。

先天の半母音。

心を表す言葉づかいに腹や胸を用いたものが多くみられます。現代科学によって腹や胸じゃなく頭だよといわれても訂正される気配はありません。 何故でしょう。

参照。生理学的にも注目されている。

「記憶転移(きおくてんい)とは、臓器移植に伴って提供者(ドナー)の記憶の一部が受給者(レシピエント)に移る現象である(ウィキペディア)」

「食道から胃、腸まで一本につながっている消化管は独自の神経系を有し、脳とは独立して機能している。

この腸神経系は研究者の間で「腸の脳(gut brain)」として知られている。

腸の脳は神経の接続を通じてすい臓や胆のうなどの臓器をコントロールしている。消化管で分泌されるホルモンと神経伝達物質は肺や心臓といった臓器と相互作用する。

脳や脊髄(せきずい)と同じように、消化管にも無数の神経細胞がある。

コロンビア大学のマイケル・ガーション教授によると、小腸内だけでも100万個の神経細胞が存在しており、この数字は脊髄内とほぼ同数であるという。

脳と消化管をつなぐ主な導管の役割を果たしているのは、脳幹から下に伸びる迷走神経。

しかし、消化管は脳から指令を受けるだけではない。

ガーション教授は「脳はマイクロマネージメントを好まないCEO(最高経営責任者)のようなものだ」と語る。

脳が消化管に送り込む情報より、消化管が脳に伝達する情報のほうがはるかに多い。(病は胃腸から)、ウォール・ストリート・ジャーナル日本版(2012.01.18)」

言葉はどこから出てくるでしょうか。もちろん口からです。気道を通って呼気がでてきます。では呼気はどこからくるのでしょう。胸、肺からです。解剖の知識が無ければお腹からと答えることもできます。何故なら実際にお腹が動くからです。

腹や胸が動けばそれに沿って物理生理的な動きや肉体的な感じであらわされることができます。形になるもの、形になったものは、物理、生理的な作用反作用の世界からきてその世界で確認できます。

ではその時の言葉の内容はどこから来るのでしょうか。 言葉の意味は、言葉が示すものはどこからくるのでしょうか。 視覚等の五感感覚や概念記憶、精神感情の等の頭脳の働きからきます。

一方の呼気音声は胸、腹なのに片方の意味内容は頭脳の中からでは話が通じていないのではないかと思われます。もちろん、胸、腹、声帯に心の内容があるわげではありませんから、どこかで両者の接点があるはずです。

片や頭の中の働きで、片や生理肉体のはたらきで、どちらも片方だけでは何も現れません。

はたしてこの両者の関係はどのように結ばれているのかが問題です。

言葉が心を表すとしても、言葉は現象になれば空気振動の呼気であり、その内容は脳髄の中です。生理学によって脳髄が呼気を統制しているのが分かっていても、心の中にあるもの心の内容が呼気とどう関連しているのかは分かっていません。

ここは脳科学でも大脳生理学でもないことたま学の話です。ここまでのことをそのまま延長しますと、ことたま学にならず生理的な言語学、肉体の言語学みたいなものになっていきます。言葉の生理的な作用を見ていく科学的な見解が出てくるでしょう。

ここから先は心と言霊のことになりますから科学的な思考も納得させるように経験に逆らわずに行かなくてはなりません。しかし頭の中にある言葉の内容だけを独立させて頭脳の働きを示してしまうと、脳は物質だから意識も物理法則に従うとか、逆に、霊魂霊界神界を前提としてしまうようになります。ここではそのような、霊魂だとか言葉の魂だとかの、人の思いや考えでそれぞれに変わってしまう概念だけのものは出さないようにしていきます。

世界には多くの言葉があります。いずれも心の内容を現すものです。心を表す言葉がその呼気は胸と腹から、言葉の意図は頭脳からと二方面から出てきます。通常もっぱら頭の方面しか考えていないようですが、頭だけあっても言葉は出てきませんので、この両者がお互いに納得し合っている構造を通して働きあっていることを探さなくてはなりません。

もちろん沈思黙考で概念の運用だけということも可能ですが、そうなるとお話が出来なくなります。たとえ一言も喋らず頭の中だけで考えている積もりでも、頭の中では物凄い勢いで言葉という形を使って、頭の回転の中から自分に正当さを与えるものを選びだす動きをしています。この言葉という形をとることが既にもともとは腹胸から作られた現象を経たものとなっています。

その動きは純粋に頭の中だけでの抽象的な思惟行為のように見えますが、常に自分を満足させる、自分の感情に一致する喜びを生むものしか頭の中で生みません。抽象的な思惟行為といっても、自覚が有る無しに関わらず感情の喜びを得る性質の元にあります。この感情がきっと腹と繋がっていることでしょう。

沈思黙考独り言をしているのだから、腹胸等は関係ないという方もいますが、その頭の中で動き働いているのは言葉です。発音されてはいなくても自分を相手にした言葉の形をやりとりしています。それは既に出来上がった言語体系を借りています。頭の中を言葉が動けば心も動きそれに応じて腹も動いていきます。腹の方は、それを自分のものとしたい欲求があるはずです。

言葉の使い方をみても分かる通り腹、胸を借りた言葉使いと心に関する表現から、何かそこに重大なことが隠されています。そして実際に昔からいわれている通り心は胸と腹の中にあるのかもしれません。腸が煮えくり返るなんて言うことになれば心は腸にもあることになるかもしれません。

そこで大昔のように大脳生理学など知らず実際に感じられ確認できる心から出発してみましょう。腹に含み、胸に蓄えられる心があるとして、それを腹の心とします。

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何もしていない時何も感じない時考えていない時、こころは静かです。何も感じていないのですから静かで当然です。そこでは腹も動かず腹があるのかさえ気付きません。

心の活動が開始されました。その途端に多くのものが動き始めます。じっくり探ってみてください。

腹の腹圧が高まります。下腹部が硬くなり緊張しています。

気管支が緊張します。 声帯も閉じたような動きを見せます。つばを飲み込むような動作が産まれます。

五感感覚の何れかが何かを求め得ようとピーンと張り詰めます。耳目やきっと鼻もでしょう。

歯を噛みしめます。舌、口の動きが止まります。

感覚的に得ることは難しいですが、全身の肌、皮膚が緊張して一時収縮します。

これらを意識的な言葉で言えば、注意が集中されていきます。

するとここに、大脳がうごめくというか準備の為に待機しているのを知らせるのというか、大脳のある空間が意識されてきます。注意を向けるとそこに脳髄の中というか、脳髄を中心としてと言うか、あるいは脳の上方空間にある種の意識場が形成されていくように感じます。

これが脳空間における現実の高天原でしょう。

感覚的に頭の上方に意識している空間が感じられます。「 天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)」が成ることです。

ここにできてくる「神々」は腹、胸を相手にして、言葉(声)を出すことになるでしょう。頭上の現実の意識空間(父)と腹、胸(母)がまぐあいをして言葉(子現象)を生ずるのです。

どのような流れか見てみましょう。注意、意を注ぐ、気を注ぐです。時の流れがあります。

そして注意の時が動き、流れるのを待つような気がしています。注意を向けたその始めの時です。

これらはどれがどうだと分離して分けられるものではなく一つの全体性を形作っています。始めの始めは何だか分かりません。全体の一塊のようです。薄ぼんやりと、自己の存在があると感じるだけのようです。

これらは生理的感覚的に確認できる事で、それぞれが後に現象となって明瞭化していきます。それら自体は心の世界ではなく生理的なものですが、形として分かるようになる以前の先天の現象世界にあります。先天生理とでも言いましょうか。この先天的な生理生物的な対応分野が無いと、発音発声にまでこぎ着けつけません。

そこで先天的な生理世界を発声された母音世界に対応させて先天の半母音世界とします。そして後にこの世界から半母音が出てきます。

それは心の力動因が動いて活動を始め自らを明らかにしようと、自己表現の為にうごめいているのです。そこで一たびこころの力動因が作用し始めますと、頭は頭で内容を受け持ち、腹は腹で発声に係わって形式を受け持つように分かれていきます。産まれる子供は言葉です。

何かを考え感じようとする意識は頭に向かい、何かを語り感じたものを知らせようとする意識は腹にむかいます。

この腹側の半母音の世界は、腹の腹圧が高まったり、気管支が緊張したり、声帯も閉じたような動きを見せたり、五感感覚の何れかが何かを求め得ようとピーンと張り詰めたりして、何処がどうなり何が区別されるのか分からないけれど、そこから何か浮力のようなもので押し出されてくる感じを受けます。

何かを発声発語しようとする時、薄らぼんやりある自己存在感のようなもの出来ていきます。そこでは、 腹は頭を招き、頭は腹を招いています。しかしこの両者の招き合いを実現する動因がいります。

そこで頭への方向が強調されると独り言をしているといわれ、腹への方向を強調されると喋りたいものがあるといわれることになります。腹に言うことを蓄えていると言うことになります。

実際はこの両者は結ばれてでてきます。

これが招き合いの形をとり、腹の緊張、腹圧と、脳髄の統制の元に呼気の肺活量から来る声帯の振動が一緒になり、発声の形になります。

声帯の振動は口腔を通して脳に伝えられ、あるいは耳で聞いて、こうして脳と腹を声帯の振動が往復します。

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15-5. 腹母音。呼気とこころ。先天の半母音。腹と心。言語発生の根拠。

では脳にあるこころ、脳の心の動きはどこに伝えられどのように分かるのでしょうか。

それは不思議なことに腹に伝えられます。父が母を求めるというわけです。

声帯の振動は腹と脳を往復しますが、その振動に乗って脳内のこころが腹に降りてきます。沈思黙考、脳内で思い考えているだから脳内で言葉を作用させ脳に心があるように見えます。しかしそれは脳内での形となって現れた言葉を使用しての、いわば脳内現象ですから、それが現れる以前の言葉を使用しない過程があります。

それがどんなものかは科学的にもはっきりしていませんが、物質的な介在がありますから、ここに声帯、呼気、臓器器官の物理的な運動作用反作用を感じ取る何ものかがあるはずです。

そこで脳内の心と腹の心が共感反応して交わりが成立して行けば、新しい現象として声が発声します。この声は脳側の父の遺伝子と腹側の母の遺伝子を併せ持ちますが、第三者の現象となります。

人は動物のように脳の心に関わりなく声だけを出すことができますから、その出された声だけを収集して体系化し、約束された意味内容をくっつけて言語の体系も作ることができます。これらが外国語の言語体系ですが、大和の言葉は脳の心と腹の心の一致を目指しています。

さて、そして脳内に起きた心の在り方は、腹との共感同交を起こし腹の緊張となるのです。ということは腹においてもそれを受けいれる下地があるというわけです。これが先天の半母音の世界です。

この場合は単なる動物的な発声のための緊張ではなく、言葉を発する為の緊張となります。頭脳内の情報伝達速度は腹内での情報伝達速度と釣りあっていることでしょう。(まだ証明されていません。)

生物科学的な情報伝達速度は例えばAをAと生理的に知覚するのが100m/秒とかいうものですが、

意識の上では、AはAと最初から分かっているわけではありませんから、Aの整理分類、分別を通して確認、自己了解し、相手側に投げ返して自他ともに共認する過程を経なければなりません。ですのでそれまでには上昇螺旋状の経過を通過していきますので、生理的な反応するだけの知覚速度をさらに超えた速度で回転していることでしょう。

生理的な知覚と違って、話される言葉はゴマンとありますから、その脳の動きは未だ謎ですが、古事記の神代の巻きによれば、心の在り方の次元段階を示すものとして腹に伝えられます。それは五つの腹の緊張によって表現されます。つまり脳内の全部のできごとは腹では五つの単純化した次元層で現されることになるでしょう。

腹の心は次の五つとして受け取ることでしょう。

・ 五感感覚での欲望を充足させる表現の時には欲望の腹、

・ 知識を経験を問題としている時には知識の腹、

・ 感情を現す時には感情の腹、

・ 困ったことどうするかの選択を使用としている時には選択の腹、

・ 意思決定し行為をしていこうとする時には創造意思の腹、

この五つの腹の違いがありました。

共感同交を求める相手が腹にあることになりますが、そのことは、頭脳内の言葉内容を司る部分が自らを現すのに、頭脳内に留まっていては何も示せないということです。そこで、言葉内容を示すための形、外在しているものを通して表現しようとします。

頭脳内の意識の流れは形を持たないため、それに似せた形を腹に探していきます。腹の反応は非常に様々な所から来ますから、頭脳内の心は容易に物象化することができます。ここでは意識を表明するための言葉の形成を助ける全領域が用いられますが、殊に発声に係わるものが重要視されることになります。

その時の頭脳内の立ち位置を示すことは、同様に「過去-今・現在-未来」を、物的な表徴として介在させることになります。

それが前に「今」の五次元を紹介したものになります。それをまた繰り返しましょう。

それぞれ頭脳内の心の内容は下記の五つに対応しています。

一、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の関係、→これが欲望の腹に結ばれる。

二、産まれようとし てあったものが今ある、といういわば、 過去-今の関係、→これが知識の腹に結ばれる。

三、それら二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、 今-全体の関係、→これが感情の腹に結ばれる。

四、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の関係、の四態があります。→これが選択の腹に結ばれる。

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造能動意志が今の全てを貫いています。今の持続。→これが意思の腹に結ばれる。

このそれぞれ次元の違う五つの今の御蔭で、頭脳内の言葉内容は「今」の表徴と結ばれ、概念から表徴・イメージを通して、腹胸の物象に結ばれていきます。

腹胸は物理生理的な現象を伴いますから、その結果が発声という形ででてきます。

ここに言語の発声の根拠が見つかることでしょう。

ただし、これはまだ発語される以前の頭の中に緊張が走った時の腹へ向かう関係です。ついで今度は、ここに意を受けた腹胸が、発声へ向かう気道の準備をしていきます。

腹の腹圧が高まり下腹部が硬くなったり、気管支が緊張し声帯も閉じたような動きを見せます。五感感覚の何れかが何かを求め得ようとピーンと張り詰め注意が集中されていきます。口腔内部や全身の皮膚も緊張して、注意の中に加わっていきます。

するとここに、大脳がうごめくというか準備の為に待機しているのを知らせるのというか、大脳のある空間が意識されてき、各人の高天原と呼ばれる現実の精神空間が産まれます。

腹胸、気管支声帯等、発声に伴う全身全体が共に準備されてきます。

ついでそこに、発音器官の介在によって言葉が出来て、脳内のできごとは全て言葉で表現されることができるようになるのです。ですので、言葉の創造に達しないところや失敗した部分は、腹胸を通して身体そのものによって身振り手振り等の形になることでしょう。

ここで脳内の出来事内容をうけた腹と発音器官が一致していかないと、脳内の心と発音とがバラバラになってしまいます。

古代大和の聖人たちはこれを繋ぎ止める世界最深奥の秘密を発見したのでした。それがみとのまぐあいというものです。何ということはないセックスすることと同じ構造であることを発見したのです。

印刷紙幣の零の数を変えれば価値が変わりますが、それは単なる物証との約束事で内容の実体はなく、零の数を内容としているだけのことです。大和の言葉以外の外国語ではそれと同じようなことが起きていて、新発見の科学の数値によってそれを新しい内容としたり、権威教育によって強制的に内容はこうであるとされていきます。

大和の言葉は世界唯一の例外で、内容と表徴表現が一致した作りになっていました。少しづつ絡んだ紐を解いていきます。

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脳が働き心が活動をするとは要するに日常生活をすることですが、大和の聖人たちはごちゃごちゃ無限に分類できる人の感情と実在行為を腹の緊張に対応させて整理しました。( 全く考えもつかない必殺技です。)

そうすると、人とはどのようなことをしていても、全てが五つの腹の緊張に還元できる生き物であることを見つけました。

その五つとは、脳内の心が送ってくる信号をまとめると、

五感感覚の次元、これは、今-今の関係へ。そして後に言霊う。

知識記憶概念の次元、これは、 過去-今の関係へ。そして後に言霊お。

感情情緒の次元、これは、今-全体の関係へ。そして後に言霊あ。

按配選択の智恵の次元、これは、今-未来の関係へ。そして後に言霊え。

意思創造力発現の次元、これは、今の持続の関係へ。そして後に言霊い。

の五つになりました。

見たい、食べたい、聞きたい、知りたい等欲望の充足を求める心は、何時でも頭の中のこころの動因が、同じ腹の緊張位置にあり、同じ声帯の緊張を伴っていました。カレーを食べたいラーメンを食べたいとお金が欲しいということの、外見上の相違はあっても、したい欲しいやりたいという欲望の心を持ったときの腹の緊張が同じであることを発見しました。

知識記憶に関すること、情緒喜怒哀楽に関すること、選択按配に関すること等、同じ緊張内におさまっていったのです。単語の意味は何か、空即是色とは何か、存在とは何か等の概念に対する疑問も、その概念の多様さにもかかわらず腹の緊張位置は同じであるが、欲望とはまた違う緊張にあることを発見しました。

こうして整理分類した結果、世界を反映した腹の世界は五つしかないこと、人間の世界とは五つであることを発見したのでした。

もちろんこの整理研究当時はまだ大和の言葉はできていません。雑多な混じり合った状態だったでしょう。しかし、長年の自分の腹と意識をを見つめる結果を突き合わすと一定の枠内に収まってきました。

と同時に雑多な発音も安定した五つの枠内に落着かすことができたのです。そこで見つけた、発音も五つしかありませんでした。そしてその対応も完成させて行きました。それが母音で、腹によって受け取られる側が半母音となりました。

古代大和の聖人たちの研究が進み、とうとう実在世界とその反映、頭脳内の世界が現れるには、身体・腹の物象世界の反映が必然であることから、

五感感覚の次元、それに対応する発音は、ウ、であることを見つけ、

知識記憶概念の次元、それに対応する発音は、オ、であることを見つけ、

感情情緒の次元、それに対応する発音は、ア、であることを見つけ、

按配選択の智恵の次元、それに対応する発音は、エ、であることを見つけ、

意思創造力発現の次元、それに対応する発音は、イ、であることを見つけ、

ここに人間の世界は五次元であることを確定したのでした。

こうして、心の全事象世界が五つであることが分かりました。生きていく世界とはこの五つの世界であることが分かりました。ですが、これは内的外的な人間の全世界をいうもので、言霊イの意思の世界は人間自身が受け持っていてそれ自体は外在化しません。意思の世界は人間の頭脳内に常に留まっています。

そこで意思の世界を除いて、外在化した世界を見ると四つあることになり、これが四、世となり、現実娑婆世界を指すこととなりました。

ここに人間が生きる=五きる世界が成立し、この五つの上に全ての人の心が乗っていくようになりました。この五つの世界に誰でもが乗っていれば全員が通じあえるわけですが、ここに心の個別化がまだできていません。

つまりここまでなら、心の次元層の分類ができて、どの次元の話になるのかはわかるようになりましたが、まだ現実の個別的な事象に対応して声にはなっていません。自分が生きる次元世界が分類されただけです。

こころのうごめきが腹の心に伝えられ、心の腹圧が高まります。こうして、心にあるものは心の腹圧となって腹や胸に蓄えられ、感じられていきますが、心が動いているというだけで、どのようなものかははっきりしません。

そこで、心は心の腹圧が気道を通して上がって動因となり、一方舌口蓋を変化させて声、言葉となって現れる道筋を見いだしました。ところが心は物質でなく目に見えませんし、自分の心を確かめ相互に確認了解するには物質の形になり、現象となった形をとらねばなりません

それを確認し合うのが言葉です。言葉の出所が物質と結びついていることはその表現は物質の条件運動に従うということです。

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