3-3 今とは二のこと。今の主客。

十進法

この論考では今の説明を十の経過に分けていますが、十進法を現したものでも、指が十本在るので十を単位としているのでもありません。また中華の漢数字のように、棒一本が一、二本で二、三本になると三、四本目を足すと四になるというように一つ一つ継ぎ足されていくものでもありません。漢数字式に一つを足せば前より複雑多量になるという思考に捕らわれてもいません。

一は一で、二は二で、そして三は三で、それぞれ自足充実していながら、次の次元を産む重層構造による発展経過にあります。一は二より一つ少ないのではなく、一という次元と二という次元があるのです。量の増加数字の変化を現したものではなく、実体次元の相違を示しています。

五十音図の横列、アカサタナハマヤラワの十個に十進法の意識が結ばれないのは、各言葉が別々になっているからです。二番目のカは何かの一を足して三番目のタになったものではなく、カの世界を現すのでカであり、別次元のタを現すならばタにならなければなりません。

それでは何故十で示されるかといえば、十の経過で一循環が締め括られるからです。では一循環が終わるまではどうなっているかといえばこれまた、十の経過のそれぞれが十の循環を内包しています。つまり十の経過を通過し終わって一循環が完了すると同時に経過したそれぞれの要素がそれぞれの循環を経過しています。

量の世界では1.0に至るのに0.1を十回足して完遂します。途中の0.5や0.7は0.1を単位とした欠陥未成熟未完成となりますが、意識の経過ではどの時点でも、ア~ワに至る途中は独立充足しています。

何故このようなことが起るかといえば、数量の場合では最後の結果を得た時が経過の終了となりますが、意識ではどの時点でも完了したものとしてその循環から出ることができるからです。

ワタシハと言うところをワタと言って途切れてしまう時でも、そこで意識が何らかの事情で、終了していることを納得することができます。

決まった量を目指す数量の変化ではそうはいきません。

この物量世界と意識の世界との相違がどこからくるのかが問題です。言い換えれば、意識の世界では各瞬間において輪・和が完了しているのは何故かということです。しかもその和・輪が経過の中にあるのです。

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一から二へ。

老子「道徳経」

「道生一、一生二、二生三、三生萬物。萬物負陰而抱陽、冲氣以爲和。

道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じる。万物は陰を負いて陽を抱き、沖気を以て和を為す。」

古代大和のスメラミコトの前で教えを習ったとされる老子の書き残したものですが、数霊による記載のため内容はありません。内容は数のとり方了解の仕方によりますので、抽象象徴の理解により与えられます。そんなものでも意識の運用や実体の理解を抽象的一般的に受け取るには便利なものです。ただし、自分勝手な具体性を与えてしまうのが欠点で、その具体性を又比較してしまう欠点があります。

自分なりの理解を与えられるという頭の見せ所みたいなものがありますが、数による表現は具体的な表現とは別のものです。抽象的な数から降りてくるにせよ、数にまで昇るにせよ、数を閉じ込め、数から閉じ込められたりで、その後の多くの禍を作ってしまう元となるものです。

一般性と具体性を取り違えたりごちゃまぜにしたりしてそのまま主張していきますが、実は具体的といわれる次元にも、具体性内での混乱が起きるものです。この具体性内での混乱には数霊はまるで手の出ないものです。混乱を助長するだけで、要するに役立たずということです。

冒頭の原文を見直してください。数霊表現の元となっているスメラミコトが老子に与えた思想の内容です。

「道一を生じ、」

「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかあま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、

「一は二を生じ」

天の御中主(みなかぬし)の神。

「二は三を生じ」

次に高御産巣日(た・かみむすび)の神。

次に神産巣日(かみむすび)の神。

「三は万物を生じる」

この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。 」

ここで注意することは「二は三を生じる」を二の次の序数は三であるということではなく、既存の一(神)足す二(神)で三(神)ということです。この三神がいれば万物が創造されます。とはいっても冒頭の十七神の理解がなければなりませんが。

また、二というのは二番目の二ではなく、剖判して主客裏表私とあなたになることです。そんなものは最初からあっちとここにあるじゃないかと思われますが、二つの実体があることを指していません。

そして一についてですが、一個しかない一のことではなく始めの全体のことを指しています。

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主客ができる。「今」に主客があるのか?

一は二を生じるは、リンゴや紙をを半分に切ったりすることではなく、種から双葉が出るように、受胎して細胞分裂が起こるように、リンゴを上からと下から見るように、一つの全体が剖判することです。また私とあなたに分かれるように、見るものと見られるものに分かれるように、主体と客体に分かれるようになることです。

私とあなた等は最初から分かれているし、種は双葉ではないし、見る側は見られる側ではないのにそれらの何処に主体と客体に剖判する以前の一つの全体があるのでしょうか。

それは二つに分離分裂して割られてしまう以前の全体があることによってです。

二つに切られたリンゴではどちらの片半分も以前にあった全体を現わしません。切ってしまった実体を二つ合わせれば元に戻るように見えますが、それは二つになってしまっているものの寄せ木細工です。切り離されたものは元に戻りません。リンゴを上から見るのと下から見るのでは全く違ったもので、一つのものの別々の見方です。

では主体と客体、わたしとあなた、という場合は一は二を生じるとはどういうことでしょうか。頓智や詭弁ではなくこの間の事情を明かさなくてはなりません。

わたしとあなたは元々別々ですから縄で結ばれようと一つにはなりません。

ここに唯一、元の全体から出てきたあなたとわたしがあります。それは各人それぞれにある意識・こころです。

この次元においてなら、私とあなたに剖判しつつ、それは元の一つの全体から出てきたものであることを示せます。

わたしが見るあなたは、わたしによって見られたあなたと同じです。

同じというにはそんなのは詭弁だと云われそうですが、よく見ると全く違います。

私が見るあなたの方は、見る側に立つ見る主体的な私のことであるのに対して、見られ見られたあなたの方には全く受動的な立場しかありません。しかしそこで見ることで見られたあなたが現れ、見ることで現れたあなたは見られたことで現れたあなたと同じというわけです。

見ようとする道が産まれるのが一です。ついで、その道は見る主体と見られる客体に分かれます。二です。道と主客が続いていくと三になり、この三によって見られたものを見るという現象が生じます。万物です。

ところがこれは肝心なものを大いに省略しています。あるものがあることに関してならそれでいいのですが、あるものが生じる、あるように成る、ということに関しては何も語っていないのです。

「今」に関して言えば、「今」があるということに関してならそれでいいのですが、どのように成る、のかについては不明なままです。

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二とは実は一、一とは実は二。

意識の話を実体としてしまうと老子のいうことは意味不明となりますが 、この段落の表題も数を実体として扱うと意味不明となります。ですのでこの表題はまともに受け取らなくて構わないものです。知ってか知らずしてかこのような表題でもって書き続けるようなことがあれば、その当人には致命的な欠落があることを明かすことになります。

つまり、内容の働きの詳細が抜けているにもかかわらず、自分勝手な思いが連なっていくからです。続ける当人は精一杯いい気分で続けるわけですが、明かに続く内容への自覚はありません。禅の公案と同じような真面目な頭の体操になってしまい、求められている実践行為の内容を得たときには、問いや公案となっていた知識概念の獲得とは違う次元であることに気付くのです。

これは知識概念から実践への道を進むときに起きてくるものですが、知識概念の延長上で捉えていると解決できません。そもそもが次元の違うことなので、同列に扱うような質問の仕方が間違っているものですが、その違いを修得させるために与えられたものです。

そこでわたしも秘密の呪文を解くようなことをしないでおきます。

実際の内容に向います。

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「私達日本人の祖先はこの一点の原始的な自覚体に言霊ウ、と名付けた」

普段私達は忙しく活動しています。この忙しくをもっと近くで見てみます。活動しないでぼやっと何かを眺めてください。身体は動いていませんが、目の玉とそれに連動する感覚と意識は常に変化しています。誰かの写真を見つめている時でも、目の玉は常に動き回り左目を見たり右目を見たり鼻を見たり眉毛を見たりと一定することはありません。

さらに写真の鼻の頭だけに注意を集中してみても同じことです。鼻の頭だけを変化なく見ているようですが眼は、鼻の頭の周りを移動しそれによって意識も変化し動いていない積もりでも常に異なった感覚が押し寄せてくるように感じます。人には不動は不可能とさえ思えます。

見ることに固定した不動が無いように身体にも不動はありません。動かない直立起立はありません。心臓が動いてるからでしょうか、血液が循環しているからでしょうか、人には不動が無く動きのみがあります。そして常に動いていると感じることができます。これら微細な動きは生物生理的な特徴です。

人はこの動きの特徴をもって始まりますが、それらを意識してこういうものだと言うことはまだできません。しかし、後に意識され意識として発展して、自他ともにあることが了解され交流が起こり、私の発する意識の形容が他に了解されまたその逆が起こり、その動きが名付けられることで、全員の社会的な現象を共有していき、それを言葉と言う子現象に保存します。

そして眼球の運動身体の動きばかりでなく、脳髄内にも不断の動きがあり、身体と感情感覚と、脳髄内それ自身の運動に対応していくものです。意識できないような身体運動や脳内活動があります。あっても言葉にならず他には伝わりません。しかしそれなりの身体からの反応連鎖がありますから、それなりの脳内での経過があり、しいては意識への訪れが感情などの意識変化となって現れます。

これらは身体内の生物的な反応ですが、それは意識への複雑な感じとなって頭脳内に登ってきます。脳髄にまで登り出て現れますと意識できます。そこで意識の表現が起きます。その始めが感覚です。鼻の頭を見つめている場合ならばその大きさ色艶形等にかぎらず、鼻の頭がある鼻の頭を見つけたというだけでも、それなりの感覚があります。そして見続ければ時々刻々と感覚の連鎖を受け取ります。これが時間の流れの元となっていきます。

人にとっては生物的な受容器官の受容能力の大小強弱によってそれぞれの人の現れとなっていきます。画面を見つめて字が読めるのは可視光線の御蔭ですが、眼にはX線も紫外線も関知できていません。ですので、画面からすれば無色透明無味無臭の光が出ているだけで、光線の波長を可視光線と受容できるものたちが画面から文字を受け取るのです。

しかしこれらは単なる生理生物的な作用反作用でしかありません。この生理反応は人間的な意味を持たなくてはなりません。画面の生理的な反応は次元を越えて人による人のための画面とならなければなりません。

どのようにしてでしょうか。

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言霊ウ<ア-ワ。

言霊学で扱うのは生理学でも物理学でもありません。意識のあり方(実在)、意識の働き方(機能)、意識の成り方(現象)、とそれらの運用全般に係わる意識の学です。心の拡がっていく現れを心の宇宙として内省する世界を扱うものです。「今」を中華式にコン、キンと言って、過去と未来の間のある時間的な境目とすることではありません。それはあった世界あるだろう世界の意識で、可能性とかを巻き込んでいく、心の世界のあり方(実在)を強調したものです。内に省みられた成り方とその運用がないがしろにされているものです。

「今」の始まりは祈り(いのり)、イに宣(の)ることでした。イにのった次には、イの間(イマ・居間)に落ち着くことです。「イマ・居間」は十七間もある大きなものですが、実は平面上に十七間が拡がっているのではありません。

「家・イエ」は一間しかなく、五階建て(イエ・五重)で、地下一階の上に四階あります。上に昇るには一二三階と順次に昇るだけでなく直接目指す階に一足飛びに行ける(一階から三階、四階から一階へというように)という構造を持った意識のイエ(五重)です。(神道では御柱といっています。)

さらに、実在世界となるあり方の各階の間の入り口と出口が四つづつあり、各階に入り方出方が四つづつあるという構造です。それらは欲望の間、知識の間、選択の間、感情の間の四つになります。

各間に入る入り方出方が四つの対となっていて、意識はそれらのどれかに落ち着き、出口から出てきます。

そして入ろうとする動因のイの間と入らせようとする動因のイの間があります。

(計十八ですが実は、欲望のイの間のみ入口と出口は同一ですので十七です。)

四つの間のどれかに入ろうとするや否や、その居間に入り口と出口の二つが出来ると同時に、できた二つが一つにまとまろうとする不思議なことが起きます。

例えば、画面を見る場合も、視覚という五感感覚上のできごとですが、物理生理的に扱うなら物質の相互作用で、生理的な受容作用となります。

意識の上で画面を見るということは単なる生理上の受容器官の働きとはなりません。

後で了解に至る全過程の現存がなければ「見る」という意識は起こり得ないのです。

この「全過程の現存」というのを意識の先天の原理構造として提起しているのが、古事記の冒頭十七神なのです。

これの始めの形がウ<ア-ワです。言霊ウの言霊アワへの剖判といいます。

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ウの剖判、アワの合一

ウはアとワに剖判します。

ウ<アワというように。

と同時に、

アとワはウに合一します。

アワ>ウというように。

そこで、ただちに立ち上がるのが言霊タです。

先天での立ち上がりは「T」アで、ア。アに制限はありませんが、先天的に規定されるものをもっています。

後天での立ち上がりは「Tあ」でTア。アはTという規制を受けることでTアになります。

そしてタになると剖判していた、「タ」のウアワが合一して「た」になります。

例えば、今、画面を見ています。それを見ている次元を見始めの次元の状態に戻します。

まず、ぼけーっと漫然と自己意識の無い状態で見ているところまで戻ります。すると自分が画面なのか画面が自分なのか判らなくなる時があります。画面の中に自分がいて自分が見つめられているような、画面という意識も無く周囲の雰囲気全体が自分の全体であるような、自分が廻りに包み込まれてそこいら中に自分がいる気分になります。

今度は今の感覚を、緊張も無く弛緩して画面を見ているのか見られているのか視点も焦点も定まらない状態で体験してみましょう。

そこでは五感感覚はありますが目指した感覚も目指された感覚も無く、これこれの画面だということを知覚意識していることもなく、しかし、対象を特定していないがそれ以前の状態があります。

そこでの「今」の意識はふらふらと浮遊していて、意識のちょっとした傾きや関心によってコロコロと意識の出方が変わります。「今」という意識が持続しているかと思えば、「今」という意識は過去やうしろから来たようでもあり、「今」という意識はここを出たくて次に行きそうでもあります。漫然とぼやっとしている間はそんな調子です。

決まったもの決められないものが渾然一体となっていますが、絵の具を混ぜて中間色になるヨウニではなく、それぞれの色調は現れています。

こんなところが言霊ウです。

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「ウ」の実在はウロウロした働き

言霊ウ次元においてのみ、その実在と働きが同一だという話になります。

知識などでは知識を得ることと得た知識の内容とは別々のことがあります。ところが同じ得ることでも欲望を得ることに関しては、得ることと得る内容とが同じです。カレーを食べたいからカレーというので、得る内容を得たいというわけです。カレーの知識ではそういうわけにいきません。

言霊ウの欲望次元では、表題にある通り実在と働きが分化していません。知識にとっては実在は実在、働きは働きで別々のものです。ところが欲望次元にとっては欲望の実在と欲望を得ることとは欲望の中で同一のものです。

これが五十音図のア行とワ行のウがを同一である理由です。

剖判しておらず未分化ですが、時の流れの中にありますから、そこにはあるという姿と、あるというものが持続している姿とが剖判しないで、あるものがあり続けるという二つの姿をとります。剖判分化していませんから、そこで持続を止めますと実在も無くなるのです。欲しいものが欲しいという持続の思いが無くなれば欲しいものも無くなります。一方知識はいつまでも残っているでしょう。

ウは次に剖判に向う要因を秘めているため、それはウロウロ、ウヨウヨ、「う」と名の付く言葉の全部の意識を内包しています。自分が主人公でありながらうまく上に浮き上がりたくてうずうずしている様子です。自分からまだ出ることができないので、同じ場所に渦をまいて留まります。留まった全体感情の発露へ向うとウタ(歌)になります。

渦と言ってしまうと廻る形のある渦を思いますが、始めの渦はそれら二方面への形と働きになる元となるもので、それがやがて発展していく以前がウの渦です。

意識は、この渦になる以前のその後の全世界宇宙となる渦の、原始的な意識の自覚を持つことで始まります。この持続することでいつまでもある瞬間の一点の自覚体が言霊ウと名付けられ、ウの意識の表明となりました。

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始めなければ始まらない

古池の蛙は飛び込んで静寂を破りましたが、元は動きの無い静寂が支配していました。蛙も留まったままのはずです。ポチャーンの後の静寂は蛙の飛び込んだ後に得られた現象です。以前には無かったものなのに何かが起きたのでした。

ポチャーンも静寂も、蛙の生理運動と人の五感感覚活動から起きたものに過ぎませんが、芭蕉は静寂を得る以前の静寂の世界があることを示し、その以前の静寂の世界が静寂をぶち破る次元の違う破壊力を持っていることを示したのです。静寂が支配していた静寂を静寂が破壊したのでした。

ここに一続きの時の流れがあります。静寂に支配されもらきたらせられていた静寂と、飛んだ蛙とポチャーンの音と、飛び込んだ後の静寂を得て静寂に戻ったわびさびの世界とがあります。

事の起こりは、蛙に飛び込む力動を与えた一点の爆発時です。これは蛙のやることですから内実は分かりません。人に例えるならば、暑かったのか、喉が渇いたのか、肌が乾燥したからなのか、餌を見つけたからなのか、等々飛び込んだ動きの解釈が出てきます。

しかし蛙の動きにしろそれを解釈する人間にしろ、両者に共通のものがあり、それによって出来たものの味わいがわびさびとなりました。では両者に共通のものとは何かといえば、既に書いた通り蛙の飛び込む瞬発時の静寂を破る躍動です。その躍動が湖面に伝えられ単なる物理現象となった波と音波、そして波を見つめ音を聞き突然の現象の出現を了解した芭蕉の目と耳の生理現象があります。

そして最後に一連の経過を了解した彼の意識と感性の爆発的な反射がありました。突然の訪れは芭蕉が作ったものではなく、蛙の飛び込みに対して彼は受動的です。

ですが正に受動的であるがゆえにその時の全状況を受け入れることが出来ました。

そして、人には静寂という起爆剤が備わっているのだと気付いたのです。

しかし静寂という起爆剤はどこにあるのでしょうか。蛙に、ポチャンに、芭蕉に、でしょうか。瞬時の一点に火を着けたのは誰でしょうか。蛙もポチャーンも生物・物理の作用反作用の現象を起こしただけです。芭蕉はポチャーンの音を聞き聞くことが出来ただけで、これまた生理現象の感覚を得ただけです。ですがそれだけのことが、世界を産み変えたのでした。

静寂の無から生存のわびさびが産まれました。

芭蕉に五感感覚が無ければ蛙も音もありませんが、それらの元となるものが無ければ芭蕉もいません。

ここにある両者の存在と両者を結びつけるものがあります。一つは客観的な作用反作用の物理生理として現れるものですが、もう一方は心の中の活動です。

この心の中の活動は、生理物理の作用とは全く違う意識内だけのものです。

そうするとここにも客観物質世界にあるような蛙と人間側の感覚の関係が、意識内にもあることになります。

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