『02 先天十七神・用意されているもの』
②-1 淡路の穂の狭別の島
天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、
高天(たかあま)の原(はら)に
成りませる神の名(みな)は、
天の御中主(あめのみなかぬし)の神。次に
②-2 伊予の二名島
高御産巣日(たかみむすび)の神。次に
神産巣日(かみむすび)の神。
この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。
②-3 隠岐の三つ子島
次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、
葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、
宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に
天の常立(とこたち)の神。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。
次に成りませる神の名は、
国の常立(とこたち)の神。次に
豊雲野(とよくも)の神。この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。
②-4 竺紫の島
次に成りませる神の名は、
宇比地邇(うひぢに)の神。次に
妹須比智邇(いもすひぢに)の神。次に
角杙(つのぐひ)の神。次に
妹活杙(いくぐひ)の神。次に
意富斗能地(おほとのぢ)の神。次に
妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。次に
於母陀流(おもだる)の神。次に
妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。
②-5 伊岐の島
次に
伊耶那岐(いざなぎ)の神。次に
妹伊耶那美(み)の神。
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以上が古事記の冒頭です。これは長い間隠されていましたが、意識の先天構造を明かしたものです。心の隠れた部分であり、働きとなって実在現象してくるものであり、人の創造活動の源となるものです。心の言霊の実相を呪示された象徴神名で現わしたものですから、あちら側にいる神々の物語を現わしたものではなく、人の意識の働きと実在による創造行為によって成るものを示したものです。生きるとはどういうことか、心とはどういうものか、その構造と本質を余すところなく示し明かしめたものです。
古事記が先天構造から始まるということは、古事記という書物で示された神様たちも先天から始まるということです。古事記は造物主創造主のそのまた先天から始まります。
その秘密があめつち(天地)にあります。
②-0 あめつち(天地)とは、吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となす
冒頭は漢語で「天地」(阿米都知)と記載されていますが、古事記の真意を問うには大和言葉に直すことが必要です。そこでテンチと読むと古事記の真意は起き上がることができません。
「あめつち」と大和言葉で読むことから始まります。大和言葉はあいうえお五十音図にあるとおり、一つ一つの言葉が意味内容を持っています。ですので「あめつち」は「あ・め・つ・ち」という四つの意味ある言葉の連結でできています。あめつちという一単語の意味だけでなく、その一単語の意味を基礎付け形成する四つの内容からできています。
天地(あめつち)
吾(あ)の、わたしの、主体の
眼(め)を、意識(知情意)を
付(つ)けて、相手対象に付けて
智(ち)となす、結果現象である智恵をなす
そしてそこに現われたものがわたしの世界、即ちわたしの宇宙天地ということです。
ここで言われる吾(あ)は私という主体となって現われてくるものですが、この段階では何の誰べぇではなく、主体活動の動因の兆しを秘めている先天世界があるというものです。
自分を指してわたしの意識(吾の眼)というときには、それ以前の次元に先天的にあるだろう構造体を指します。私たちが活動する以前に私たちの活動する形式が、既に主客共に構造的に手に触れられないところで出来上がっていることになります。
天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、
高天(たかあま)の原(はら)に
成りませる神の名(みな)は、
私たちの意識はこのように始められますが、この始められたところが私たちの意識の始めとなります。この一見矛盾したような言い方ができるのは、イマココという時空の一瞬に両方向を成り立たせる陰陽構造が含まれているためです。冒頭の十七神はその原理構造を示すためのものです。
有るの四つの次元の二方向陰陽構造。
吾の眼(天)はその実在構造の方面とその動きの二つの方面を併せ持ちます。
あめ(天)、吾の眼(わたしの意識)。
(一)吾の眼の実在は現に有り、現に有るものとして持続しています。
(二)吾の眼の実在は有り持続しているものの全体として、表面に開花する方面と内部に煮詰まる方面とが有ります。
(三)吾の眼の実在が全体として持続しているなら、吾の眼は過去から今に掻き寄せられるものとして有り、その反対に過去に結び付くものとして現にあります。
(四)吾の眼の実在が過去から有るということは、吾の眼がココから未来に選択定置され静まる方面と延び伸長する方面があるものとして現に有ります。
以上は吾の眼(天)という実在がココの瞬時においてとる位置です。それが明かされたならば同時に、それの時間的なイマの成り方も明かされなければなりません。
つち(土)、付いて智となる。
(一)付いて智になる動きは現に有り、現に有り続ける動きとしてイマに持続しています。(有る動きと有り続ける動きは同一なので、あいうえお五十音図の両端のウは同一です。)
(二)付いて智になる動きは現に有り持続しているものの全体として、表面に開花するような動きとと内部に煮詰まる動きとがイマに有ります。
(三)付いて智になる動きが全体として持続しているなら、付いて智となる動きは過去から今に掻き寄せられる動きとして有り、その反対に過去に結び付く動きとしてイマにあります。
(四)付いて智になる動きが過去からイマに有るということは、その動きがイマから未来に選択定置され静まる方面のイマと延び伸長する方面のイマが現にイマ有ります。
こうして、「あ・め・つ・ち」によって、私たちの意識が向う、吾の眼が付いて智となる、全構造が簡明に現わされています。
これは一瞬のうちに現われることでもあり、目標や目的として現われるときには一生かかかるものとして現われることもあり、歴史のように未だ結果の見えないものとして現象することもあります。いずれにしてもその意識構造は同じです。ここでは先天構造として扱っていますので、時間差や実現の長さとなって現われる現象の話はまだしていません。
天地の初発の時、高天(たかあま)の原に
こうして吾の眼が付いて智となるアメツチが先天に措定されていることになります。それによってわたしの意識が相手対象に付いてそれとの交渉(それをマグワイといいます)が行なわれます。交渉の行なわれる場所が高天(たかあま)の原です。智を創造する頭脳中枢のことです。(科学的にどの部位かということはまだ特定されていません)
古事記では高天原の天を「アマ」と読めとわざわざ指定しています。冒頭天地の天は「アメ」、吾の眼(わたしの意識)ですが、ここ高天原では吾の眼の在り場所が原で示されています。そこでは吾の眼(わたしの意識)はそれぞれの在り方をとりますから、取ったその場を間で表現して、吾の間(アマ・天)といっています。具体的には五十音図のあ段、あ・たかまはらなやさ・わ等、の間のことです。
冒頭の読み下し。
ここ五十音図(思惟規範のことです)にあ段のアが十あります。これをア段の十の内容、十気(とき)と呪示して、時で表現しています。
読み下しでは、
吾の眼を付けて智となる(あめつちの)、端緒の意識の芽の(はじめ・端芽の)、十の吾の気(とき)として、タとカで代表される吾の意識の働く間がある場所(タとカの吾の間の原)に、
となります。意識の始めが(タ)と(カ)で代表されることの意味は後に説明されます。
そして次に、そこに出てくる最初の心である意識の在り方は、天の御中主の神と呼ばれる神があらわれると続きます。
私たちの言葉は自由に出てくるように感じていますが、言語規範に則った中での勝手放題です。言語規範が共有できないところでは言葉の交流がありません。先天的な規範の実在を吾の眼といい、即ち天のこととしています。
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