【天地の初発(はじめ)の時】4.

≪あいうえお五十音図は生きる≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

日本、日本人、日本語、日本の行事、日本の神道、日本の天皇、その他何でもかんでも日本に関すること、日本とは五十音図のことです。日本、ひのもと、霊(ひ)の本とは、言霊を基としていることです。

言霊学でしか大和日本のことは分かりませんが、言霊学を知っている人がいませんから、誰も大和日本を知りません。大和日本とは五十音図のことだといったところで、誰も理解していません。

理解しませんが、解説されればその完璧な整合性に納得します。ところが納得してもそのあまりにも完璧な整合性の為に、信じられません。あまりにも日常の、自然の、当たり前のことの、誰でもが知っている事なので、ウソだろうとなります。

それもそうです、つぶった眼を開ければものが見える、眠りから覚めれば何かを感じる、と言ったようなまるで当たり前のことを説明するのですから、馬鹿らしくて、価値のない当然な分かり切ったことなどに、意識は向いていきません。

小学校のころから教えられているのに、何を教わっているのかを知りません。それでも以心伝心で大和の心は伝わっていきますから、凄いことです。日本語を喋り出せば誰もが大和の心で知り合うことができるようになるのです。

わたしたちは五千年以上も前から五十音図で育ってきたのです。五千年というのは正確ではありませんが(八千年か)、普通に言われている江戸時代とか平安時代とかいっている方達には、単に文献が足りないだけで、文献の出来た時が始めではないことくらいは誰でも知っています。

別に五千年以上も前からと証明したところで、内容が理解できませんから無理して証明することもないのです。その逆にフトマニ言霊学の内容が分かれば、江戸とか平安時代とか言っていたことが、自動的に恥ずかしくなります。

五十音図で育ってきたということは、それ以前があるということです。それ以前の世界というのは、調和以前の世界のことです。この非調和な世界を手なずけたのがフトマニ学です。人でいえばスメラミコト達です。

勝手な主張をして生存競争の為弱肉強食の世を維持していくこと、個人レベルでも世界史でも同じですが、この人間の在り方にそれぞれその本来ある場所を与え、それ自身の発展興隆を理解して、より高次へ向かう足掛かりとしました。

人類の智恵として遠からずそのような思想も出てくるでしょうが、フトマニ学は後から追っかけてきたものではなく、歴史の始めに大和の聖人が世界と日本に与えていたものなので、その思想とその運用とがまるで一致しているのです。

大和日本が五十音図を作って来たように、進行しつつある世界の歴史と今後の世界のひな型になるようにしておいたのが日本ですが、日本においてたまに出てくる日本至上主義とか日本は神国と言うのも、フトダマ学を忘れさせない為の仕掛けです。

これは古代大和の聖人によって意識に仕掛けられたものですから、ここの現れ方のそれぞれの主張が重要であるということではありません。それぞれが狂気に走ろうと自滅に向かおうと、それらの底流で誘う原動力因となっているだけです。

個人とか集団、社会、国とかはそれぞれの底流から浮かび上がった蓮の花なのです。

ものごとが出来上がる直前には混乱が起きます。例えば冒頭の五十神はそのまま五十音が配当されていますが、五十番目に出てくるのが、カグツチで現象となって輝くわけです。その直前に大戸惑子、大戸惑女の神が出てきて、今までの主体の活動を総括して提出しようとするときに現れます。戸惑いです。

この日本では、この過程は赤ちゃんから始まる個人と大和日本社会の歴史とにわかれ、個人がフトマニ言霊学を勉強する過程にも、大和日本が世界を今後指導することになる大和世界の運用にも、この、どちらも同じ原理が適応されていきます。

現代は政治経済社会人生全体が戸惑いの時代のようです。ありすぎる物、ありすぎる情報、ありすぎる意識を持っていますが、全員が全員提供し合おうとしていてもその方法を知りません。それも歴史の五十音図の中で与えられた役割なのです。

このような五十音を作って与えた人はそれこそ神のような、現代人などにはとうてい真似の出来ないスーパー知性の持ち主だったと思われます。しかも、言語として与えていますから、個人がというより聖人の集団だったかもしれません。

また、あるときに出てきた一人の人による出来事というより、非常な長期にわたる聖集団の働きだったでしょう。後にそれらの聖人集団をスメラミコト(統すめる実言みこと)と言って、個人に伝承させ、現代は名前を天皇としています。敗戦後は古事記と天皇の関係は否定され、スメラミコトは天皇でなくともよいことになりました。

この大和の日本では誰もが五十音図の中で育っていくので、気が付いた時は、五十音図を使って考え、感じ、喋り、それに還元して相手を理解して、それの原理の上に記憶をしておきます。精神基盤は五十音図にあります。

五十音図をアルファベットのような音韻とそれの組合せとして理解していくと、単なる比較言語学になっていくだけで、世界中の言語研究には便利ですが、大和の日本語には全く通用しないのは、言語学者自身が知っています。

知ってはいても白状出来ないのは、それに変わるものの見当が全く付かないことによります。古代の聖人によって作れたなんて思うことより、実際に比較して見つかるあっちこっちのアイデアを大きくした方が、努力の甲斐があると思っているからでしょう。

聖書にある通り、言葉は一つであったを、大和言葉のこととすれば、簡単に解決していきますが、文献、考古学的な事実を見つける以上の、決意ができないのでしょう。ついでに言えば聖書の思想もモーゼが古代大和を尋ねた時に授かったものです。

(これは文献的にはもう証明されてしまっていますが、知的な納得が宗教的な解釈を越えようとしませんから、非常に遠慮されています。そういった時代もまもなく終わりますけれど、頭の衣替えは、そう簡単ではないです。)

神代の巻きはどこを取っても五十音図のことしか書いていませんから、どこを取っても五十音図の解説になります。といってもフトマニ言霊学の素養がなければ知識にもなりませんが、感じは掴めるでしょう。

あめつちの初発の時を、ここではアの芽が地に付くとしていますが、どこが五十音図かと文句が出るはずです。下手な説明を聞いて納得して言霊学にのめり込んで、も知りませんよ。覚悟をしてください。

と言えるだけの立派な説明ができないので、そうはいかないのが残念ですが、形だけはこの後も示して格好だけは付くようにしておきます。感じるかたは感じて、そこに大和と世界を見てください。

ところで五十音図はあいうえおと並ぶだけではなく、配列の違う音図がまだあります。人の心を現したもので、人の心がいろいろですから当然なことです。小学校で習っていないというだけのことです。

しかし、十人十色だからそれだけの音図があるということではありません。心にはパターンがあり形式があます。心の生きていくパターンです。生きるというのは、五、い切る、五、い着る、で五つのうちのどれかを切り判断して、出来たものを五つの中から選択して着ることです。

五というのは、五感感覚からの欲望に関すること(言霊ウ)、欲望によって得たものに対する知識に関すること(言霊オ)、得られた知識を利用選択に関すること(言霊エ)、それらに付随する五感感覚ではない感情情動の世界に関すること(言霊ア)、そして、それら全部の動因となってそれぞれを動きへと誘う創造意志に関すること(言霊イ)の、五つです。

人間の世界とはこの五つのことで、この五つの家、五重いえ、に五きて、五着ているわけです。よく言われる精神の678、、何次元世界というのも、単なる知識のことか、感じのことです。

あの世、霊界の全体も、五感感覚でか、概念知識でかで感じられるか、語られるかで、その人の五次元のさらなる上にあるものではありません。

神界、霊界というのも、人の感覚という次元でのあれこれ、人の知識という次元でのあれこれで、人の心の次元内にできたものです。人の五次元以上の、その人のさらに上にある次元ではありません。せいぜいウとオの感じと知識の言霊次元のことで、エ、ア、イの言霊次元での言及はありません。

もちろん、人が、自らの五次元以上の感じを持ち、自らの五次元以上の世界を知識として付け加えるのは勝手です。しかしただそれだけのもので、その人の感じと知識をでるものではなく、握手をしたからといって、握手した相手が自分自身の678、、次元だなんて言えないわけです。

自分以外に他がいる、他がある、というのは普通のことで、それを自分の上位次元とするのは単なる観念で、自分が678、、、次元ということではなく、他があるだけのことです。

それだけでなく、死後の世界に次元世界を作ったり、宇宙にまで次元を作ったりして、自分のことはほったらかしです。それでも真面目にあっち側に次元を作っていき、真面目な態度を自分に当てはめて、知識も真面目なものであるとしていきます。真面目であれば当否正否は問う前に、自己防御に固まります。こうして真面目に作られた勝手な何次元とか、次元上昇とかいうものができていきます。

思い込んだ次元上昇への努力に何も文句を言う筋合いは無いし、返って向こうから文句が来ても、返事する筋合いもありません。どんどん、あっち側の要素を集めて検討してもらいところです。比較検討に詰まったら、言霊学などめくってみればいいでしょう。

しかし、言霊学をいくらめくっても、五次元のあいうえお五十音図を崩すことは許されません。それは人間の脳髄を破壊するのと同じことです。自分が喋る言語基盤が喪失します。それを天津罪といいますから、その仕返しは678、、、次元からでなく五次元から来ます、根本的ですよ。

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≪意訳。五十音図≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

カタカナの「コ」を廻転すると、簡単な家ができます。二本の柱に天井屋根がのった形になります。

これは日本最古の神社『大神神社』にある鳥居、二本柱にしめ縄がかかっている形になります。(写真。http://small-life.com/archives/10/04/1120.php )

同様に、五十音図から両側母音列とア行だけを取り出すと、同じ形になります。

鳥居をくぐります。鳥居は神宮の忌柱を外に出したものです。忌柱は心の五次元世界を現し、五分の二を地中に埋めているもので、五分の三が地表にあります。これから心の家に向かいます、ということです。

頭上にあるしめ縄、貫、笠木、(鰹木)、は能動因となる言霊の働き、イ段の父韻で現しますが、ア段ならアカサタナハマヤラワ、を示します。

しめ縄が頭上にあることに疑問を持たないことが伝統的な見解です。ですので地に引かれる結界が頭上にあってもそのまま結界の意になりました。しめ縄は五十音図のイ段の父韻のことです。

心の能動因で、し・め・なわ、シの芽が縄をなうことで役に立つように、イの能動因が、一つ一つ貫き通り重ね合わされ(貫、笠木)て、立派な現象へと向かうことです。タカマハラナヤサの最後のサにあるイが目標で、シの芽であるのが主体母音行のイです。

拝殿で鈴を鳴らします。鈴は切れ目が入っていて、横から見ると口の格好をしています。口からでる言霊のことです。伊勢は五十鈴川のもとにあります。五十音図川です。

鈴を振ります。振り振り、ふるふる、です。五十音図を二つ重ねると中央にふ、る、ふ、る、がきます。言霊百の要素を揺り動かすことです。

二礼します。五十を二つ重ねて、百とすることで、百の道をつけることです。餅、百道、百の道理、古事記冒頭百神のことです。

二拍(かしわ)手します。十本の指で二回音(おと、神のね、)を出します。二十の指が鳴り響きます。フトマニの「ふと、二十」です。五十音図のうち濁音になるのが二十ということです。

カシワは一つの枝に五枚の葉っぱがつきます。五葉で一枝です。この全体を人間性能の五次元に該当させたものです。各葉は独立していて手の平部分がありませんが、元で統一(稲)されています。人間性能と同じです。独立した五つの次元が統一されているので、階段のように上に昇る次元層ではありません。

大嘗祭でのカシワは五つの人間性能の先天的な根本を現し、鳥居をくぐった後のカシワ(手)は後天的な人間性能の現象となります。

八拍の例では、あ・たかまはらなやさ・わ、から、あ・わを除いた言霊の能動因のことになります。

天地の初発のとき高天原に成りませる、では、右が天、あいうえおの主体側母音、左が地のワヰウヱヲの受動側半母音、その上に高天原、あかさたなはまやらわ、の能動因であるしめ縄があります。そこから成りませるのは、御中主ですが、もちろんわれわれがくぐるのですから、御中主とは人間のことです。

このように礼儀作法も物象も五十音図からでたもので、その内容を忘れたものが引き継がれてきたまま、伝統的な解釈となり、技芸上の伝統となりました。

未だに大和日本を除くどの国にも五十音図はありません。アルファベット図形化もできていませんが、聖書では地の言語を乱したとありますから、古代大和を例外として、五十音図化は禁止されたのです。

その替わり大和において世々代々言霊フトマニ学の形式だけは残すように義務づけられました。天皇家においては忠実に儀式祭儀が継承されているようです。その内容理解の言霊学が再生してきたので、いつの日か、継承を全部記録採録した後は、無用なものとなります。

不思議なことです。数千年間意味も訳も分からず形だけは続けていたのですから、ユダヤ民族は、神に多数の中から選ばれた神選民族というだけですが、大和日本は天孫民族ということです。

神選は、鳥居をくぐって出てくる神とは人のことですから、人から選ばれたということで、人とはスメラミコトのことです。スメラミコトがモーゼを通じてユダヤ民族を選び、物質文明社会に貢献することを命じました。(竹内文書)

天孫というのは天の子の子、ににぎの命です。ニニギは二の二、次の次で三次的なことです。元に戻れば、元の元からでてきたことで、元というのはフトマニ言霊原理(あいうえお五十音図)、その次が原理の要素(言霊)、そして原理の運用(人)ということです。大和日本は言霊原理運用の為に五千年前から用意されていたということです。

人の性能を示す五つの次元の総体的な原理運用で言霊イの次元は大和のスメラミコトに残されました。言霊ウ、オの世界の産業経済社会の発展とそのための知識開発を、ユダヤ民族の飽くなき欲望追求能力に預けました。

欲望追求から起こる暴走は不幸と悲惨を産みます。その悲しみの緩衝し、絶望に落ち込まないように、言霊アの宗教と芸術次元を世界中に散りばめておきました。

しかし、時が来手、世界が世界の統一的な運用がくるまでは、言霊エの運用選択原理と言霊イの意思創造原理は公開せず、隠しました。伊勢の心の忌柱が土中に三分のニ埋めてあるのがその象徴です。

世界の物質的条件がそろったならばこの柱は引き抜かれ、世界全体を相手に指導を始めます。それには、わざわざ離れたところに、ある外宮が満たされたという、報告を待つことになります。この距離を埋めることがフトマニ言霊学を勉強する期間、時間となります。

現在世界は外宮が満たされつつあり、世界が統一されつつありますが、その後の運用処理方法を知りません。短期間のうちに滅多やたらと開く国際会議も何にも役に立ちません。

統一した後の運用法を護持している大和日本では、スメラミコトたる家系が古事記の系統を放棄してしまいました。形式、儀式、古文書は残してありますが、理解者がおらず、現在日本にはスメラミコトはいません。

古事記系統の皇位は空白ですが、大和日本が空白であるということではありません。皇室による古事記の独占が開放され、全体に行き渡るようになったのです。何故なら、日本は天孫民族に変りはないからです。

古事記のフトマニ言霊学としての真の解釈はすでに島田正路氏により完成しています。

http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/

言霊百神-コトタマノマナビ-古事記と言霊講座。

後はわれわれ自身の問題です。To be, or not to be,that is the question.

個々人に与えられた問題となりますが、ではその問題を与えた側からみるとどうなるでしょうか。つまり五十音図はこの数千年間を示していて、スメラミコトの経綸どおりであるのか、それを五十音図で辿れるかです。

人間はロボット、器械ではありませんから、言いつけられたことを連続して繰り返すのは苦痛です。すでにスメラ命の経綸など誰も知りませんので、この数千年の歴史がスメラミコトによって作られてきたなどと、信じる根拠がありません。

五十音図は心の鏡であり、心は五十音図として活動していくなら、その出来事産物歴史も五十音図となっているはずです。生存競争、弱肉強食、他を省みない個人主義の拝金社会にしたのは誰だと文句も出てきそうです。

それが五十音図で解釈できるものなら、解釈だけでもいいからやってみろといいたいです。

わたしもそんな問題は解いたことも無いし、解釈を考えたこともありません。未だに解釈もしていませんが、こう書いた以上少しだけつっこんでみます。

あ行があ・かさたなはまやら・わではなく、あ・たかまはらなやさ・わの配列があることは暗示していました。

古代のスメラが、たかまはらなやさ通りに歴史の進行を決め、そう歴史が動いていることを確認して、歴史の主体である人々がそれを受け入れていたということを確認できればいいのです。

そんなことはどこにも書かれていないし、どこにも指示する人はいないのに、とうてい不可能に思えます。

歴史は繰り返すといわれ、繰り返さないと、両方から言われます。らせん状に繰り返し発展しているともいわれます。経綸を認めるならば、それぞれの地点で経綸がなければならないのに、経綸を発するものもいないのに、こちら側が勝手に従い受け入れたのでしょうか。

これはトリックを使わず、アイデアだけの解釈とならず、希望を押しつけるのではなく、歴史の現実とすり合わせてもそうであることが確認されなければなりません。それに何故、たかまはらなやさなのかのフトマニ学の知識も要ります。

人はロボっではないのに歴史は繰り返すといわれ、らせん状に繰り返すとも言われるにはそこに理由があるはずです。

それが先天的に作用する記憶のせいです。相手対象が無く、思い出すものも無いのに、日々行動して行ける動力因となっている記憶です。この先天的な記憶が、人間の歴史の初期において、スメラの経綸として与えられたのです。

それは世界中に与えられなければなりません。どのようにかといえば、ことばによってです。聖書には世界の言葉は一つであったとあります。大和日本語との関連が世界中で見つかるのは、言葉は一つであったというその言葉が、大和の日本語であったからです。

天にまで届くというバベルの塔も高千穂のクシフル岳の聖書版で、バベル、ハヘル、葉へる、葉へるふる、言葉フルフル、ハフル、クシフル、でどこか似ています。(ただしこれは古事記の書かれた時代のことではなく、五千年以上前のことのこじつけです。)

五十音図のあ行で示してみます。今後の世界史の動きの表象です。

世界史の出発点である「ア。」 古代大和の聖集団によるフトマニ言霊学の完成とそれを行動運用原理とする宣言があります。

世界史全体の流れは以下のようです。

【 ア・タ・カ(「あ・かさたなはまやら(現代)・わ」)・マ・ハ・ラ・ナ・ヤ・サ・ワ 】

「カ」に「あ・かさたなはまやら(現代)・わ」が全部入っていて、「ら」の地点が現代です。

ひらがな部分は歴史の前史となります。

疾走拡大していく、「やら」の現代が地球規模での一応の到達点に達します。すると今まで世界を導いてきた勢力は、世界制覇後の目標が無くなります。ここが世界歴史の前半部で、後半部は世界単位での歴史の始まりとなります。

ア・スメラミコトの主体の完成

タ・経綸の発表

カ・(「あ・かさたなはまやら(現代)・わ」) 前半世界史の開始から現代まで

・・・・・人類の脱皮変態準備。フトマニ言霊学が全分野に浸透します。・・・・・

・・・・・神道が解消され最後の大嘗祭(だいじょうさい)が執り行われます。・・・・・

・・・・・憲法、法律文に依らない、スメラミコトの命令という形が確定します。・・・・・

マ・物質文明と精神文明の統合、フトマニ言霊、経綸によるすり合わせ、実となる今後の方向をさぐります。(釜で煮る)。

ハ・後半世界史の開始。前半歴史の成果が統合され、新しい創造形態が決定に導かれます。

ラ・後半世界史の一般への拡大。

ナ・生きることの名分が定まる

ヤ・世界一丸となった行動が起きる

サ・結論へ向かう

ワ・結論を事実として確認する

これが2012年から以降の三千世界となります。

。。。。。。。。。。

≪大嘗祭(だいじょうさい)と五十音図≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

即位の礼・大嘗祭

即位の礼・大嘗祭は、賢所にはじまって賢所に終わるようです。

賢所の賢とはかしこいで、おつむ(頭)の良いことです。賢所にはヤタノ鏡のコピーが置かれています。

賢所-おつむが良い-鏡-即位式、は一体何によって結ばれているのでしょうか。大嘗祭のどこに農耕を司る天皇家という根拠があるでしょうか。後で悠紀田(ゆきでん)、主基田(すきでん)が出てきますが、田というキーワードも含めてそれらを統一しているのは、農耕ということでしょうか。

「大嘗祭(おおなめさい)をはじめとする祭儀では、神饌(しんせん)を柏の葉に盛り付けたりもするそうです。

物忌みの最中、天皇は柏で作った十枚の葉盤(ひらで)にご飯や神饌を盛り、御神酒とともに、食べます。」

かしわの葉っぱもキーワードの一つに仲間入りです。

即位の礼・大嘗祭で得られるキーワードの一つ一つは象徴ですが、別々でもうまく当てはまれば正解みたいになり、正解があれやこれやと多数でてきます。しかし、一連の儀式での各場面場面を一貫する(貫)言葉が見つけられていません。

生死の再生、子宮からの誕生、穀物の豊穣、神威神選による霊力、等々その場その場での象徴に該当するものが探していかれます。行事は象徴ですから、いくらでも解釈できます。

いわば全部正解です。何故なら、人間のすることを人間が解するのですから、必ず人間的なものが入り込みます。後は自分の主張を強め、できれば正当化して、千年間の伝統的な答にしてしまえばいいのです。

しかし、だからといって、千年間の伝統があっても、それは回答の一つで有力であるというだけです。何十億年を貫く真理とはなっていません。

何十億年を貫く真理 ?、馬鹿なおかしな譬喩と聞こえます。言う本人がそう感じます。でも、天皇、神道、大和日本というのは、フトマニ言霊のことだと言うことが分かってしまうと、そういったこともいいたくなります。

事実いままでも、内容を知らなくとも、感じで持って日本を評価してきた歴史がいくらでもあります。 神国だなんて、普通に思えばおかしなことなのに、平気で喋ってきました。そのくせその実体は農耕の神様というのですから。天孫民族だというのもあります。みんなでお米を沢山作りましょうということです。

誰も実際のその内容が、フトマニ言霊であることを知らないのに、数千年の霊威を受け入れていました。不思議極まりない日本、ひ(霊)の本、です。この不思議さは、単に感情次元にあるのでも無く、単に知識概念次元にあるのでも無く、心に根ざしています。心に根ざすことを、イの音が根ざす、イネ、稲、といいます。

生命力エネルギー、生活力の根である食料の根本が稲で、精神エネルギー、精神活動の根本が言霊イの根です。現代用語を使用すれば、先天潜在エネルギーでしょう。神の名でいえば伊耶那岐の大神(心の動きをいざなう大神)です。

何十億年を貫くの真理と言うのは、伊耶那岐の大神を発見したかどうかを言います。数千年の霊威、伊耶那岐、稲、イの音、の連結が知ってか知らずしてか知らないまま受け継いで凝られるのは、どうしてかです。賛成とか反対とかの問題ではありません。

この連結は、(数千年の霊威、伊耶那岐、稲、イの音、賢所-おつむが良い-鏡-即位式、田、そしてカシワの葉っぱ、) 一言で言い表せない限り、全ては個別的なアイデア、千数百年しか続かなかったアイデア止まりとなります。

答はフトマニ言霊学しかありません。

しかし、それは答を学として現したものです。

その実体内容は何かと言えば、なんていうこともありません、人間が今ここで生きると言うことです。

千年以上も続いてきた、形だけ、間違ったあるいは推量の解釈、その上に構築される学問体系、誰もが正解を知らず、形だけと知っていながら、継承してきた事実、こんなことが何故起きるのでしょうか。

形だけであろうと、間違った推量であろう、全て心に通じるものがあるからです。とはいっても意識に直接感じられることはまれです。意識に感じられなければどこにかといえば、言葉の中に、言葉を使う概念の中に、そして記憶の中に、各人それぞれに突つかれるところがあるからです。

その突つかれる状態が、非常に稀なことではなく、日々毎日毎秒今ここの段階で起きているからです。別に意識されていなくてもいいのです。生きていると感じて、、ああものがある、自分がここにいると思うだけでいいのです。思いは必ず言葉で頭の中を駆け回り、ある、いる、と口に出さなくても表現されています。

そこに自分の、ある、いる、という感じ思いがあるかぎり、内容を知らなくても、フトマニ言霊の中にいて、その原理を通して大和日本、世界全体と繋がっているのです。

このことはフトマニ言霊学を理解できない人も、反撥する人も、攻撃する人も、誰でも平等にフトマニ言霊学のアイウエオ五十音図の中で、疑問も了解も反撥もしているのを見れば分かることです。

That's all.

伊耶那岐の命詔りたまひしく、

国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、

伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。

この時伊耶那岐の命大(いた)く歓喜(よろこ)ばして詔りたまひしく、

「吾は子を生み生みて、生みの終(はて)に、三はしらの貴子(うずみこ)を得たり」

と詔りたまひ

どうしようか、何しようか、何かしたいね、何かしないといけないね。

そうよ、何かしないと。

やった、しちゃった、できちゃった。これが自分なんだね。

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以下は資料引用。

---引用開始------------

この大嘗祭の内容は秘中の秘で明らかにはされていない。しかし、ある程度のことは漏れ伝わってい て、それによれば天皇は殿中で三つの儀式を行なうとされる。

一、「霊水沐浴」。白い帷子(天羽衣)をきて水風呂に浸かり、浴槽の中で着ている物を脱ぎ去る。

二、「神人共食」。その年、悠紀田と主基田から取れた米を神と共に食する。

三、「御衾秘儀」。衣に包まり眠る。

この三つである。

最後の御衾秘儀・・ふすま【×衾/▽被】 布などで長方形に作り、寝るときにからだに掛ける夜具。綿を入れるのを普通とするが、袖や襟を加えたものもある。現在の掛け布団にあたる。

-------------引用ここまで-------

≪大嘗祭の三つの儀式。➀。五十音図≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

前回、殿中での儀式の三つが書いてあったので、それを引用しておきました。それについて。

一、「霊水沐浴」。白い帷子(天羽衣)をきて水風呂に浸かり、浴槽の中で着ている物を脱ぎ去る。

全てはフトマニ言霊に関するもので、精神領域での出来事です。沐浴というのも象徴表現です。禊祓というのは精神の沐浴です。以下同じ。

要は、世界運用のまつりごとの要領を得る為のものです。

天皇はすでに、立太子の礼で、壺の中の粘土板で作った仮名文字を言霊規範で判断すること(剣でかき回す動作)という要領はすでに獲得しています。

言霊原理が天皇の行動原理と知ってはいても、実際の運用は知りません。

そこで今度は言霊規範(ヤタノ鏡)の運用を実際にしていくことになります。その際の精神の在り方の通過の仕方が、即位の礼となります。

三つの儀式といっても皇室から発表されたものではなく、三つというのも正式なものではありません。ネット情報によるまた聞きです。

象徴行為ですから、秘儀といわれていても、それを行なえばそうなるこうなることはなく、あくまでフトマニによる世界運用の精神行為のありかたですので、真似たところで理解できるものではないでしょう。

理解納得は心の賢所でのできごとです。御賢所は世界最高最深奥の人間の心のあり方(フトマニ言霊学)が置かれているところです。即位の礼は御賢所で始まり、御賢所で終わる所以です。

一、の沐浴は着物を浴槽でぬぐのは世界運用のための脱皮変態の象徴です。

世界運用などという言葉が気に障るなら、大和日本でも、会社でも、市町村でも家庭でも、自分のことでも、同じことですので自分で置き換えてください。スメラミコトは世界水準の仕事をするからそういっているだけですので。

脱皮変態を理解するのに邪魔な概念があります。ここでも次元という言葉を使用していますが、次元を階段を上がるように上昇していくものとしないことです。魂の次元上昇などといって、何か悟ったり偉くなったり、次元数が増えて宇宙理解が簡単にできたり宇宙人と通信できるように、精神次元が増えていくように思えてますが、そのような増加上昇はありません。

例えば儀式にも使用される、柏(カシワ)の木の枝を一つ取ってみてください。神社での参拝のときの柏手のカシワです。手を叩く時の手のイメージならばモミジとかカエデの方が、音が出せる手の平があるのでよほど良いイメージに近いように思えます。しかし、カシワ手と言います。

カシワ。

一つの枝の先にに五葉の葉が付いて、拡がっていてそれが一つの全体になっています。かえでのような手の平部分はありません。その替わり枝の先、葉の根本部分で一つに繋がっています。ですので独立した五葉が元でつながり一つの枝から養分を得ています。各葉は独立していますが、枝を折れば五葉全部がだめになります。これを、人間性能の平面として象徴しました。それを、今度は立体的にすると五重の塔になります。

五重の塔。

五葉はそれぞれ独立していながら、一つにつながっていることを、立体で表現します。

五重の塔の構造は中国朝鮮の影響されていない大和独特なものです。また仏教の思想にも影響されておらず、神道の思想の表現となっています。この視点が必要です。(神道から始まった思想の時代による相互影響。)

五重と言うのは、五重、いえ、で家のことで、人の心の住み処、五次元世界のことです。

この心の五次元世界を模した五重の塔は、カシワの枝葉のように、各層が別別に独立しています。各層は独立した動きをもてるようになっていて、柱に固定されていません。

また、中心に心柱が塔頂まで延びていますが、この柱で五層の屋根を支えているのではなく、塔頂の相輪を被せる為に下から上まで延ばしてあります。相輪を付けるなら最上部に屋根に設置すればいいと思うのですが、地上部から上まで貫通しています。

しかも、途中の各層の屋根を支えてもいません。各層の自由な動きを保証するためにあります。もちろん各層を動かす為のびっくり装置ではありませんが、各階に人が住むことはできません。

住む為でも、経を読む為でも、講習を行なう為の場所でも無く、一年生は一階、二年生は二階といった階層の概念を与える空間が内部にありません。もちろん仏塔ではないので、仏陀の骨もありません。

いわばただ見るだけ、見せるだけ、見て感心する、感心させるだけのものです。

五重の塔という各階層が自由な動きを持つ、一つの全体であることを示しているだけです。

つまり、カシワの枝葉のように、人の心のように、各次元層は独立していながら、五層、五次元、五葉、でもって一つの全体を現す言霊思想=神道、心道を表象しています。

相輪。

相輪は五層の実在世界を貫く先天世界を象徴しています。

相輪部分は、先端は淡路の穂の先別(天の御中主)、ついで高御、神産巣日で造化三神になります。仏教ではここに釈迦の骨を象徴的に納めています。実は骨というのは、ホネ、霊(ホ)の音(ネ)、のことでフトマニ言霊のことです。心の先天にフトマニ言霊をいだく人の心のことです。

水煙は造化三神によって繰り広げられる世界創造の言霊循環、九輪の宝輪は五十音図の両側の母音行、アイウエオワヰウヱヲの九つ(ウは共通)、飾り台と伏せた鉢は伊耶那岐と妹伊耶那美の陰陽表現、それらの全体が露盤にのっているもの。フトマニには八つの父韻がありますが、仏陀には人の五つの性能の教えは与えられているが、八つの父韻と呼ばれる心の動力韻は秘められているので、省略されています。

ところで、五というものの実体内容はどの宗教も五行の儒教も説明できません。象徴的、数的に、概念的に語るだけです。占いの易は五の実体内容がないので、どんな解釈もできてしまうため、始まる前に聞き取りをします。古代大和においてフトマニ言霊思想を諸外国の偉人に伝授したときの名残です。フトマニ言霊学においてのみ五の実体内容が伝承されています。

しかし、凄いことです。千年に近い樹齢の木材を加工して、千年以上も、相変わらず眺められるのですから。人の心とは五であり、五重であり、家であり、各人の心中にこのように立つものだと教えているのす。

心の五次元。カシワの葉。

さて、ですので、沐浴での脱皮変態は五つの次元から六とか七とかへ行くのではありせん。何故なら六も七も無く五しかないないのですから。衣を脱ぐのは、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」、世界運用の為の為に次元層に行くことを象徴しています。

相撲のように同じ土俵に立つなら、力較べをするだけです。たまには殺戮になるか、原爆を落とされるかです。スメラミコトはそのような、三千年間続いてきた、弱肉強食競争原理の行動の仕方を止揚します。

言霊ウの次元。

始めの人間性能次元層は、五感感覚からの欲望次元で、欲しい欲しいやりたいに関する世界、五感から発する全欲望世界とその展開はってんした姿です。産業経済社会、金が欲しい、地位が欲しい、大臣になりたい等の欲望世界です。これを言霊ウの次元といいます。

言霊オの次元。

ついで、物や自分に関する知識や反省考える世界が、欲望とは別に存在しています。この人間性能次元が言霊オで現された、概念知識記憶の世界です。記憶、概念、知識操作をもっぱらとしていて、過去の経験事象を扱います。ここからは学問科学が発展してきて、抽象概念や経験事項の集積分類構築が得意です。

言霊アの次元。

言霊ウ、言霊オ、の世界とは独立して喜怒哀楽の情動感情の次元世界があります。五感の生理物理世界とも違った世界です。記憶に留まることができず、今ここでの歓び楽しみ悲しみ悔しさ等、知識も概念も手が出せない世界です。この次元世界の出所を言霊アといいます。これら情動感情の延長に、宗教、芸術ができます。

沐浴。

沐浴による脱皮は、ウ、オの次元からアの次元へ行くことが第一段階です。

これは仏教の世界を神道に移せば、まず大悟して悟ることが最低必要なことになります。悟りが人生の最高の目標だなんていうのがありますが、それでは困ります。最低条件としてマスターしてもらわないとなりません。

それぞれ心の次元は精神世界の出方が違い、それぞれ独立しています。立派といわれる学者、世界指導者が痴漢だったり、痴漢犯のくせに立派な痴漢哲学をもっていたりして驚かされるようなこともあります。坊主、牧師の性犯罪は日常的にあることです。それぞれの次元世界が独立しているからです。

人の次元の違いは階段状でなく、階段を上にいけば高級良質善良になるということではありません。精神の次元上昇などというのは、低級な考えでしかありません。禊祓の為に水浴びしたところで、精神次元が変化することはありません。スメラミコトの禊祓とはそういっことにはなりません。

禊祓を言霊ウオアの次元でいくらしたところで、禊祓とはなりません。経済界の指導者がいくらお経を読み、哲学を勉強し、行じようと、所詮頭の中は金と欲望の配下にあります。

また悟った宗教聖職者が、どのようなことを述べようとも、単なるその人の個人的な伝えられない経験談でしかありません。立派な方針、素晴らしい教訓、未来の倫理道徳等が出てきますが、全ては個人の到達目標でしかなく、基本的に人間に要求されているものとしても、その実現、結論は時の彼方に投げ捨てられています。

スメラはこのようなウの欲望社会、オの知識社会、アの個人の悟り宗教社会の精神次元を止揚することになります。

この最低条件のクリアが 一、の儀式に現れています。もともと五次元しかなく、六も七も無いのですから、その経過を知りたいところですが、情報がありません。もちろん情報があったところで心の問題ですから、解釈できるできないとかの問題ではありません。

帷子(かたびら)。

帷子(かたびら)を風呂の中で脱ぎ捨てるらしいですが、カタビラという発音が、悟り以前のこの世の思考運用法である、あかさたなは(ビ)まやらわ、の順になっているところから、それを脱皮するということでしょう。

あるいは同じことですが、あかさたなはまやらの順による、脱皮(悟り)以前の創造精神活動の主体側(カタ)による外国異文化、高天原に依らない創造活動の成果、固定した客観現象世界(ヒラ、ひらがな、現象子音のことで、創造現象一般)を示しているでしょう。

ウ、オ次元からアの次元へ。

スメラはそういった物の考え方を脱ぎ去るということです。脱ぎ去るということは捨てることではなくて、どうしようもなくそういった世界はあるし続くもの、五重の実在世界

ですから、それらを全部すくい上げて、有るべく位置に配置し直して、それに関わり合うもの同士の問題を全部解決することになります。その準備です。

今までと同じ時点にいたのでは、付和雷同か、弱肉強食かになるだけですので、そのような精神次元世界を脱することです。言霊ウの欲望と言霊オの概念知識を超越することになります。いわゆる悟りを得ることになります。言霊アの次元に行くことでしょう。五葉の柏のうちウの葉、オの葉、を卒業してアの葉に向かうことでしょう。

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≪悠(ゆ)紀田と主(す)基田。➁。五十音図≫。【 天地の初発(はじめ)の時】

≪大嘗祭の三つの儀式。➁。≫。

二、ついで、悠(ゆ)紀田と主(す)基田から取れた米を神と共に食する。

ユとスは共に現在使われているアイウエオ五十音図を、左右半分づつにした時の中央にくる言葉です。

前記一、の実体を米として食するという表徴で、米自体が表象ですので、直接稲作豊穣を意味するのではありません。

ア次元、悟り次元の止揚。

人間性能の前段階の全てをすくい取りあげます。仏教の悟りは、一、の段階までのことで、悟った後のことには全然手を出せません。これでは社会運用者としては落第です。

スメラは運用主宰する農耕田に自らが中央にいます。一、においてウ、オの世界に囚われない悟りを完成して、統一していますが、悟りの次元はせいぜい個人のことですから、まつりごととは相いれません。そこで、悟った段階さえも食し、消化してしまおうとするものです。

「アカサタナ」は、明き悟りの田を為せで、スキデン、宗教の心です。「ハマヤラワ」は所謂、現象ですから、物事の実相が一番表に現われ出る、「現象である端をまとめて八つの列に分けろ」、ユキデン、になります。

農耕の豊穣もその一つですが、豊穣そのものを願うのではありません。プラスマイナス、縦横、陰陽、高い低い、はつきまとうものです。豊穣だけを願うのは虫が良すぎます。そんなうま過ぎる話に乗ることはできません。自分を中心として全ての幸不幸も受け取るということです。

相手が間違っていても、批判して切り捨て、新しい道を示しただけでは相手の立つ瀬がありません。間違い部分そのものをすくい上げ導き、相手の主体性によって自ら成りませる方向を取らせることになります。

母親が子供を導く普通に見られることです。

「あらあら、転んじゃたわね。ちゃんと自分で立つの !」

こうして、主体側を傷つけることなく、悠久(ユ)に主体側の霊(キ)を尊重し、主体に須らく(ス)行なわせる元(キ)となる田を管理することになるでしょう。

その為には、

三、「御衾秘儀」。衣に包まり眠る。

ことになります。

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≪大嘗祭の三つの儀式。➂。五十音図≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

三、「御衾秘儀」。衣に包まり眠る。

これは寝ることではなく、御衾(ふすま)がキーワードです。フスマ、伏す+間、のことで、間に伏している、ことです。他の表現を使用すれば、妹伊耶那美の死を悲嘆して、「 、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、」の、腹這いのことです。

または、御衾(ふすま)というのは、

伊耶那岐の大神が黄泉の国から返って始める禊祓のときの、

「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」

とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。』

『 かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、

(25) 衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。』

『 次に投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、

(26) 道の長乳歯(みちのながちは)の神。』

『 次に投げ棄つる御嚢(みふくろ)に成りませる神の名は、

(27) 時量師(ときおかし)の神。』

『 次に投げ棄つる御衣(みけし)に成りませる神の名は、

(28) 煩累の大人(わずらひのうし)の神。』

『 次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、

(29) 道俣(ちまた)の神。』

『 次に投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神の名は、

(30) 飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。』

『 次に投げ棄つる左の御手の手纏(たまき)に成りませる神の名は、

(31) 奥疎(おきさかる)の神。

(32) 次に奥津那芸佐毘古(なぎさびこ)の神。

(33) 次に奥津甲斐弁羅(かいべら)の神。』

『 次に投げ棄つる右の御手の手纏に成りませる神の名は、

(34) 辺疎(へさかる)の神。

(35) 次に辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神。

(36) 次に辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神。』

の身に付けていたもの全部の総称です。

竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)、という長い名前のアイウエオ五十音図の扱い方に関するものです。

フスマのマ、間、は五十音図各言霊間を渡るときの間のことです。フとスとマの連結にはそれぞれの間を通過しなくては成りません。この間の扱いの秘儀です。

それは要するに寝ること、寝ていることに似ている、伏している、腹這っている、つまり、記憶に残すこと、言霊循環の秘儀です。造化三神の後の最初の神、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神、【 言霊 ヲ】 、から起きることになります。

神と添い寝するでもいいですが、その神とは何かとその内容をいえば、上記のことです。

一、で変態脱皮して新生し、稲を食して、ここで寝たのでは、? になってしまいます。

ネットで以下の文章を見つけました。

「この寝座は、そのまま人の寝床の大きさの薄縁(畳)を、二重三重の上に八重に重ねたもので、頭の方には坂のような斜面型の坂枕、足下には沓、寝床のまんなかには、薄い「夜具」(衾、フスマ)が置いてある。」

「このとき、ただ横たわるのではなく、かたわらの「櫛」を髪にさして、眠られる。」

ここでいう儀式の説明で、「八重」「坂枕」「夜具」「櫛」でしめされることは全て言霊五十音図に関することです。

頭を支える「坂枕」は、サカ・マクラで、サガ・性・人の性、心、精神の運用使用上の性、性質のことです。ここでは禊祓されて新しい性を得ることになります。

新しい性(さが=世界運用の為の新しい精神)、心の、精神の運用法とは、「八重」の畳みの運用のことで、「八」とは五十音図の両側母音列を除いた中央の各八列のことです。

この八列をいままでの、言霊ウ、オ、世界の運用法でなく、スメラミコトの言霊エの運用法に切り換え取り入れることになります。

本来は寝ていたってできるものではないのですが、こういった象徴行為にしたのでしょう。象徴行為を繰り返していても、実質が理解されることとは別になります。

そこにおいてある、夜具、衾、フスマ、を被るわけですが、これが上記の精神運用上秘策となるものです。われわれが小学校で習う五十音図でなく、スメラミコト用の五十音図の受け渡しか伝授があります。(と、思います。)

この五十音図はア行が、アカサタナではなく、ア・タカマハラナヤサ・ワになっています。天照大神・天津太祝詞音図です。この、タカマハラナヤサ、の象徴が櫛です。音図を縦方向だけで見れば櫛になります。その歯の数は中央に八つあるはずです。

この八つの運用法が修得できれば起き上がるわけで、沓を履くのでしょうが、クツの意味を了解して完成です。

クツは、ク・ツ、九が付く、九において地に付く、とすれば、一つ加われば十になります。十にする本人のスメラミコトが加わって横十列完成します。これは主体活動の意思行為であるクツを履くことによってものごと、まつりごと、世界が動くということになります。

こうして、〇・タカマハラナヤサ・ワの〇に、点が入ると、スメラミコトの五十音図が完成します。〇にはスメラミコト自身であるアが入りますから、ア・タカマハラナヤサ・ワ、となって、古事記冒頭の天地、アメツチ、アの眼が地に付く、の完成です。

クツを履き歩くことは足を使うことです。たかまはらなやさ太祝詞音図の上段の始めににスメラミコトが入ります。その意思創造行為はイ段で示されます。アが出現して、その意思が発出すればものごとが動き始めます。

ものごとの動きは五十音図の主体側母音から始まり、客体側半母音に行きます。「さ」はタカマハラナヤサの最後です。最初に納まったアと最後のシを結べばアシです。最初であり最後です。その中間を高天原によって結ばれています。フスマ、畳み、櫛の「八」のことです。

クツを履いたアシ、足がうごく。新生となります。古代の国号にもアシは使われていました。驚異的な成長力というのは大和日本そのもののことを指していて、植物の葦は大和日本ような成長を見せているところから、アシと呼ばれるようになったのです。

そののち、フスマの八つの間を了解した新天皇は、神に、自ら悠紀・主基の新穀の御飯や酒、供物の数々を、手ずから箸をとって給仕するらしい。

その神に捧げる供物の器となるものは、代々の継承により、柏の葉の木の葉に盛られる。

子供達のお食事ごっこの遊びみたいですが、カシワの意味が理解できれば、立派な象徴です。

その後御賢所にもどって、鏡に照らして確認するのでしょう。

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表徴儀式の解釈はどんなものでもこじつけです。公式な政府によるこじつけでもあり、学者のこじつけでもあり、飛び出たアイデアのこじつけでもあります。

こじつけであってもそれの中身が分かれば、こじつけがこじつけでなくなります。

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≪国。憲法。五十音図≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

以下は、[ ガトー ]さんの 2011/6/2(木) 午後 4:37 のコメントです。

「 まさに今の世にぴったりですね。

明治憲法復活を唱える有識者の方もみえます。

陛下や皇室の方の発言をもっと重視すれば、世界も納得する新憲法が出来ると信じています。

こんな時代だからこそ、変えなくては、戻らなくてはと思います。」

---------------コメントここまで。----

心とは五十音図だ、ではじまって、神道とは五十音図だ、天皇とは五十音図だ、大嘗祭とは五十音図となってしまいました。

その間に、上記のコメントがあり、何か書きたいことがあったのですが、忘れました。

今読んで感じたことがありますので、書いてみます。

憲法は、日本ではまだ時代の新しい考え方で、昔から用いられてきたものではありません。憲法などなかった、必要としなかった時代の方が長いのです。

国という単位の取り方も変化していて、その理解によっても、違います。ウィキでいう、「憲法(けんぽう)とは国家の組織や統治の基本原理・原則を定める根本規範(法)をいう。」を逆に読んで、統治の規範から見ていくと、国は、社会集団みたいなものになり、村落になり家庭になっていったりします。それぞれに統治の規範があります。

そこから今度は社会集団単位の大きさを捨象して、集団の運用を見ていくと、現在では憲法というものが、時代によって、場所によって、変わるのが分かります。

会社へ行けば社訓になり、村には掟があり、家庭には約束があります。これら一切を抽象していくと、最高意思の決定規範の一つが憲法になります。

その運用の仕方の一つが、民主主義で多数を採用した代理人による最高意思決定です。形式を取るか、実行法をとるかの力点の置きかたで、民主主義でも多数の意味がまるでない独裁のような決定もでてきます。

こういった過程は、政治形態に違いがあっても、どこでも入り組んだものです。独裁者がいても何でも独裁というのではありません。当該社会集団の全分野を見渡す眼を持つことは独裁者程度の頭脳の持ち主ではできません。

そこで、官僚側近の民主主義的な決定に従い、最高意思とするようなことも起こります。独裁も民主主義も概して白黒を付けるような善悪のはっきり分かれたものではありません。

そこで、古事記を見てみましょう。国というのは漢語ですから、 「国」を漢語からくるイメージに惑わされず、古事記でいう「くに」という平仮名書きで読む必要があり、そうしないと、大和の日本語である「くに」になりません。

すると、まるで違うことになります。

古事記伝の宣長は、

「国」は「くもに」あるいは「くむに」の縮まった形で、

「国」はまた「くも」、「くむ」に通う言葉である。この名について考えると、そもそも「国」を「くに」と言うのは、元は「くもに」であり、「雲野」という神の名と同じ意味ではあるまいか。

と、言っています。

古事記では冒頭に、

『 次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、、、、』

『 国の常立(とこたち)の神。』

と、でてきます。

宣長も国は領域を持った国土のように考えているようですから、「 国土は伊邪那岐、伊邪那美両大神によって生まれたのだから、ここではまだ「国」というようなものは存在しないのだが、完成した後の名を借りて、その原初の姿を書いたのである。」

と、苦しい説明をしています。

現代ならはっきりした領地国土がありますから、国といえばそれをさします。

どこの国も、国土を主張していきます。その国土は国の最高意思によって決定されています。

では何によって決定されているかといえば、ある人は憲法といい、ある人は向こうに住む人間とは顔つきが違うと言い、言葉が違う、習慣が違う、自然が違う等々になります。要するに憲法もそういったもの一つで、近代的だというだけです。違いでもって分けているということを憲法と言い替えたのです。

ですのでこの違いということを勝手に活用すれば、憲法がわりに国土は手に入ります。それには頭と腕力、軍事力が要ります。

国土は物理的なものですから、元へ元へと戻ると原始的になっていきます。どこの国でも大昔は、足で行ける範囲、目の届く山の手前まで、集団の安全が確保できる地域内、というようなものでした。

現在の日本の国土も、元をただせば、オットセイ、アホウドリ、渡り鳥の休息地、プランクトンの集まる魚たちの食事処、といったようなもので、もともとわれわれのものではありません。アホみたいに昔に戻り過ぎだなんていわないでください。日本は漁業にも支えられているのです。

古事記も言っているごとく、「国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる、」というのが、国土の始まりなのです。

これを精神領域の精神国土の話としているのが、神代の巻きで、憲法にあたるのが冒頭百神です。

そこで国の話に戻ります。

「くに。」

まず、くに、の定義をしておきましょう。漢語の国「こく」ではありません。それも含めた本質です。

くに、というのは、組んで(く)似せる(に)、ことです。その組んで似せる根拠が時代により場所により人により変わってきました。

原初においては、組んで似せる(国)ことの条件が整っていず(若く)、明瞭明確な形でしめされず(浮かべる脂(あぶら)の如くして)、その判断においても不明瞭な暗いもので(暗気、くらげ、水母なす)、これといった確信もなく流動的な(漂える)判断でした。

ですので、川の向こうに住む人間は顔が違う、あっち側の国の人間だというのも国で、アジアは一つ西洋とは違うというのも国です。それぞれ組んで似せる観点の相違によって国の取り込み方が違ってきます。それを、憲法という言葉を持ち込んで判別しようとしていくのが、現在です。

組んで似せる「くに」という言葉は、数千年の歴史をもっていて、世界のどんな頭の持ち主にも理解でき該当する言葉ですが、大和日本以外の人々はそんなことは知ってはいないというのが、これからの問題なのです。彼らは自分らの考えた範囲を適応するのが国の範囲です。

とすれば、憲法でこっからここまで等としたところで、歴史的に見て大した意味はないのです。経済産業世界に国境はありません。情報通信、運輸交通世界にも国境はあっても邪魔者扱いです。

知識学術科学分野では、世界一丸での研究運用が盛んです。各界の代表、政府関係者、責任者の話すことは世界全体の円滑化です。

このような状況にあって、必要悪になっているのが軍事部門と、各軍門である国と、そのくるみの殻に閉じこもるための憲法です。

生物進化も、軍事上の防御の歴史も、自分の殻を固く堅固にすることから、自由に運動する方向へと脱皮進化してきました。現代は国がある為、軍隊が必要悪なり、それを正当化する為憲法法律があるという、悪循環の時代です。

この悪循環に乗るのも降りるのも自由ですが、言霊ウの次元の経済産業金融の世界化を見ていれば、乗るも降りるも、まもなく止揚されるように思われます。

前回、〇・タカマハラナヤサ・ワの〇に、点が入ることを、沓を履くとしましたが、その一歩手前です。

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≪スメラミコトの命令=憲法。五十音図≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

前回のガトー さんのコメントには、「 陛下や皇室の方の発言をもっと重視すれば、世界も納得する新憲法が出来ると信じています。」、とあります。現代の民主主義自由主義下の発言ならば普通にこう言えるでしょう。

発言者が「 陛下や皇室の方の発言を重視」、する、しない、を決めるわけです。天皇の発言はどこかの誰かと同様にあちら側にいて、こちらによって取捨選択の自由裁量が行なわれます。よければOK、いやなら駄目といえるということです。

これは自由主義下に育った頭脳ならば当然のことです。でも裁量を受けた本人はどうなるのですか。いやだ駄目だそこは違う、とわれわれにいわれるわけですか。あるいはああしろこうしろとだれかから突つかれるわけですか。自由の旗の元に。

天皇の発言はそういった次元にはないのです。われわれによって左右してはなりません。わたしは「重視します」、わたしは「重視しません」などは、受け付けられないことばなのです。天皇を重視しているかたにこういった言い方は申し訳ないですが、下から上に向けて、裁断することはなりません。

子供を守る母親に、子供が文句をいうようなものです。悟った坊主に学僧が、釈迦にわれわれが説教できますか。もちろんわれわれの知っている範囲で、同調できず知識の届く範囲で違った意見は言えると思っていることでしょう。それが知識の役目ですからそうなることでしょう。

しかし釈迦の言葉なら、われわれ次元を抜け出て、悟った言葉を使う釈迦から帰って来る言葉ですから、われわれの理解できる次元を越えているものです。同様に、スメラの言葉は、悟りの言葉しか語れない宗教者を超えた次元からの、言葉なのです。

そのまま生で語れば仏陀も宗教者もわれわれも理解できませんが、悟りの言葉でしか語れない宗教者の次元とは違って、われわれに語れる言葉を自在に使用できるというのがスメラの言葉です。

そのような意味で、われわれ次元にまで降りてきた言葉になっていますから、賛成反対もしやすい、ということはいえるでしょう。われわれの次元から見ているので、何でも自分と同等とし易いことになります。

ところがスメラの言葉は、われわれに向かって選択を与えるものではありません。

選択されたところから出てきたものです。ですのでその意味では賛成も反対もできないのです。スメラの言葉は基本的には、命令です。

確かに自由主義の世界ですが、知識を知っている知らない、経験概念をもっているもっていない、というだけのわれわれの次元のことではないのですから、こちら側の勝手な判断をしてもよろしいというところはありません。

スメラの言葉は、自分の判断がないのです。われわれがやるように、われわれが、われわれの、われわれだ、というような自己主張の次元にはありません。

このことは、スメラの言葉が先天構造から出てくるという古事記の構造からきています。神代の巻きのどこをとっても同じですが、では、五十音図ではどうなっているでしょうか。

ただし、わたしの理解ではまだはっきりそこまで語れません。ということはスメラの言葉ではないということです。スメラの言葉なれば、こうだこうだとスラスラでてきます。ということはわたしのいうことは、スメラを語りますが、語りだということです。

ではそのまま行きましょう。

スメラの言葉と五十音図。

五十音図は五十の現象音を並べたものです。スメラの出発点となる先天を直接示したものではありません。

どこに先天構造があるかといえば、五十音にはなく、五十音の中にあります。つまり現象音となっている五十音の中に、同じ構造を持った先天の世界があり、現象世界と先天世界とは同一構造なのです。

先天の世界が後天現象となるのですから当たり前といえばあたりまえですが、違いが無いのかといえば、はっきりした違いがあり、それが主体意思です。この主体意志があることが現象の始まりです。客観世界の作用反作用の世界とは違います。

ちょっと前には、自分の判断がないと言い、今度は主体意思と言います。目茶滅茶のように感じます。これは禅の公案のように、われわれの経験概念次元を駆使した知識で見ているからで、それ以上のことはできないわれわれだからです。これを止揚するのが禊祓ですが、その段階を通過できていなければ、口を出した範囲で理解できていても、その上の精神次元理解には全く到達していません。

それでも、われわれ次元でも分かることがあります。主体世界は自分のことを考えて自分の意見を出すように見えますが、良く自分を観察しますと、自分のことを思う以前に、相手に思いを寄せることを、自分のものにする、という関係があることに気付きます。

テレビを見たいなというとき、見たいという欲求を定立させる前に、瞬間的に、テレビはあるのかな、テレビはどうなっているのかな、という相手への係わりが心をよぎります。古事記では伊耶那岐が美の命に向かって語る言葉が、「君の身体はどうなっているの」というところです。

まぐあいしたいと述べる前の過程です。この前過程の全構造が先天構造としてあります。スメラの言葉はここから出てくるので、自分がこうしたいああしたいという欲望や希望を述べることではないのです。

また研究結果を伝えたり、知識を広めたりする事でもありません。

一緒に神に祈りましょうということもありません。祈りを超えた自覚され他覚された言葉がでてくるからです。

スメラの言葉の中心にある要点は未来へ向かう選択を按配して、混ぜ合わした中から配置具合を良くして、歓びとなるようなそれを命令する事です。

そんな事なら普段やっているよ、ということになると思います。そうです、スメラの場合は世界を相手に、行政政治のまつりごとを行なうというだけです。われわれ次元ではそれなりに、同じようなことをしています。つまり、スメラとはわれわれのことであり、神とはわれわれ各自のことであるのと変りないからです。

このことを五十音図から理解するのはとてもむずかしいことです。理解しようとすればできません。いくら書いて解説したところで理解できません。悟りを最低段階として通過していないからです。理解の為、知識の為の勉強ならやっても無駄です。

ところが理解し知識を得ようとしなければ前に進めません。要するに、いままでの言葉の体系に則っていたならば、おなじことが繰り返されるだけです。変態脱皮にいたりません。われわれがわれわれでいながら、スメラの言葉を使用できるようになるには、古事記を悟りの次元で読み込むことが最低必要です。

そして、ス、ユ、の稲を食して、悟りの座にあぐらをかくことなく、中央から脱出しなくてはなりません。

大嘗祭の三つの儀式では、この後フスマで寝るようですが、ここにおいてまだ明かされていない、五十音図の配置換えの象徴儀式があるかもしれません。あるいはフスマ、伏す間、がもともとそのようになっているのかもしれません。

どうしても、スメラの使用する言葉の体系 (スメラの五十音図)が得られなければ、元の木阿弥です。

ユ・ス・キ田の言葉は食するものとなっても、それらを使用するには上位次元の原理が要ります。

それがア行、タカマハラナヤサ、であることは知識としてはありますが、使用法が分かりません。

ここまで。

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≪メモ。禊祓とア行タカマハラナヤサの五十音図。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

メモ。

『天津金木を、本打切り、末打断ちて、

千ち座くらの置座おきくらに置足らはして、

天津菅すが麻そを、本刈断ち、末刈切りて、

八針に取辟さきて、

天津祝詞の太祝詞ふとのりと事を宣れ。』

(「千座の……」と「八針の……」の操作が金木と菅麻の双方の音図に掛かる)

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天津金木音図。

ワ・ラヤマハナタサカ・ア

ヰ イ

ウ ウ

ヱ エ

ヲ オ

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天津菅麻・伊耶那岐の神の音図。・(伊耶那岐の神の音図である天津菅麻が修祓の対象となる事は中々理解し難い事であります。)

ワ ア

ヲ オ

ウ ウ

ヱ エ

ヰ・ニリミイヒシキチ・イ

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天津太祝詞音図。

ワ・サヤナラハマカタ・ア

ヰ イ

ヱ エ

ヲ オ

ウ ウ

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大祓祝詞が述べる天津金木、天津菅麻を天津太祝詞に宜り直す方法は、古事記の禊祓では

「大禍津日神、八十禍津日神より神直日神、大直日神、伊豆能売

にかけての手順で心行くまで明白に説明されています、」ということですが、わたしには分かりません。

無門関、第一則「趙州狛子」・犬に仏性は有るのか、無いのか。

趙州和尚因みに僧問う、「狛子に還って仏性有りや無しや。州曰く、「無」。

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今回は禅の公案も禊祓しちゃおうと意気込みましたが、一夜漬けではそうもいきません。結局何も分かりませんでしたが、そのままメモとして置きます。

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古代大和において、行政まつりごとに関して、定期的に点検検査が禊祓として行なわれていました。しかし、いつしか、みそぎの行法の精神的内容は消え失せてしまい、祝詞として継承されてきました。

古事記の精神内容は葬り去れ、神話として継承された時期と同じころのことと思われます。古事記の神話部分は多くの異文献となって伝わりましたが、禊祓の文章も、多くの祝詞の文章になったようです。

( 勝手な推測。多くの古文献、古文書となって残っているのは、古代の行政機関で働く官史達の受けもつ部門の仕事内容の影響を受けて、それぞれの部門での考え方(禊祓の仕方)が入り込んでいったのだと思われます。

古文献は、隠された意図はどれも全てがフトマニ言霊の説明ですが、どれ一つとして、直接語るものがありません。これは非常に徹底したものです。もしかすれば、古文献そのものも、古事記と同じ意図を持って隠された形で撒き散らかされたものかもしれません。

もちろん、そんなことを知ったところで、フトマニ学が分かるわけではありませんので、学者のような無駄な努力もしないことにします。)

大祓の行法、大祓の真法の精神内容を今ここで分かっちゃうと、スメラミコトになっちゃいます。これは馬鹿な冗談ですが、取り敢えずは、知識として分かる段階までは誰でも到達しても良い時代ですから、そこまで皆さんとご一緒したいと思います。

----モメのメモ。----------------------

各音図の両端を除いた中央にある八言霊が「 八針」で、精心の原動力因です。鳥居の上部であり、橋であり、八尋殿であり、海山幸彦の鉤、やまたのおろち、全て同じものです。

ここでの針は、ハリ、八理、葉の道理、で八つの言霊の道理のことです。五十音図を音であるアルファベットを並べたものとすれば何の理解も得られません。心の動きのことです。

大嘗祭の「御衾(ふすま)の秘儀」では、八針(八つの言霊の道理)に取辟さきて、ということで、八つをバラバラにしますから、そこに各言霊の間に隙間ができます。その間に伏すことが、衾(ふすま、伏す間)の秘儀になるので、まったく精神上のできごとです。

ああ腹減った何を喰うか、といったことや、このブログの主はけしからん、いい加減な主張を撒き散らしている、ということも全て、人間の精神行為のなせる技ですから、「八針に取辟さきて、」の禊祓の対象になります。

実際に誰かにやって見せてもらいたいのですが、どういうふうにやるのか、読者の方で、こういうことじゃないかということがあれば、教えてください。

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心の動因から派生した問題。

瞬発の今ここにあるものは、?。

瞬間とは何か。

天地(あめつち)。

天(あめ)の、天地(あめつち)の御中今主、のこと。

先天の、天と地の、中間を采配している、

御中主。

先天の、主体力動因とその受動側の真ん中に発生していて、両者をいざない合うようにうごめいている采配主、のこと。

瞬間発生時の両面である、主体側の力動因とその力動因が持続していく受動因の、合体の均衡が破れることから始まる。

天(あめ)。

上記両者の、瞬間発生時の両面である、主体側の力動因とその力動因が持続していく受動因の、合体している姿を、天(あめ)=言霊アのメ(目、芽)という。

地(つち)。

天地(あめつち)の地(つち)は、地に着く(着地する)ことで、主体側能動因が相手対象と合体することである。

地面の土ではない。

地(つち)である相手対象とは、客観対象の物質事物のいわば手で触れる物を指すのではない。それは、心、精神、意識、に昇ってきて反照させられ、心、精神、意識に了解された心内部のできごとである。

あめつち、アの芽が地に着く瞬間の出来ごと。

あの目が地に付く、アとチ、主体と受動側がある。

八つの動因。

・瞬発時の主体。その持続。チイ

・それがじぶんの経験行為となるべき為の、自己・自分化。その持続。キミ

・自分の識別部位だけを有効化する。その持続。シリ

・情緒で納得の保証。納得の確認。ヒニ

親動因。

・ゆすり揺すられる、イザナギ。イヰ。

八つの自分。

・一、実在に対する自分の動きの、自分の全体と、受動の全体(ウ)

・二、自分のものする知識の裏付けの元に、自分に引き寄せることと(ヲ)、ものに向かい続ける(オ)こと。

・三、自分において識別したものだけを追いかけようとすること(エ)、オホトノジに。

識別されたものの持続発展を受け付ける(ヱ)こと。オホトノベに。

・四、把握して心の表面に完成する(ア)と、(オモダルに)。心の底に原因が煮詰まる。(アヤカシコネに)。。。情緒面。

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≪メモ続き。禊祓とア行タカマハラナヤサの五十音図。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

『天津金木を、本打切り、末打断ちて、

千ち座くらの置座おきくらに置足らはして、

天津菅すが麻そを、本刈断ち、末刈切りて、

八針に取辟さきて、

天津祝詞の太祝詞ふとのりと事を宣れ。』

(「千座の……」と「八針の……」の操作が金木と菅麻の双方の音図に掛かる)

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中央「八針」、「千ち座くらの置座おきくらに置足らはして、」にする以前が、

竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)

という、金木音図。

ここを以ちて、 (◎) 伊耶那岐の大神 の詔りたまひしく、

音図として成り立っていると言うことは、例えば、腹減った何か喰うものあるか、とか等々、という、阿波岐原。

腹減った、の「本打切り、末打断ちて、」を実行する。

そこに中央「八針」が残る。

「本、末」が無いとはいっても、八列の言霊列(腹減った)が残る。

この八列の成り立ちは、以下のようにできていた。

(十三)、知訶島

(主観内真理)

『た』の内容。

24・・・伊耶那岐の大神 ・・例えば、腹減った、これを△として、

25・・・衝き立つ船戸の神 ・・(△の自己主張の拠り所)

26・・・道の長乳歯の神 ・・(△の関連性と連続性)

27・・・時量師の神 ・・(△の時処位の検討)

28・・・煩累の大人の神 ・・(△の曖昧性の排除)

29・・・道俣の神 ・・(△の分枝点方向の明瞭化)

30・・・飽昨の大人の神 ・・(△の実相を明らかに組む)

上記、腹減った(△)の実体内容は、主体側によって定立され、客体側へ渡される。

その経過は次の通り。

『か・ま・は』の内容。

31・・・奥疎の神 ・・(主体側の出発整理)(エ次元の選択創造)

32・・・奥津那芸佐毘古の神 ・・(主体側の選択創造性)

33・・・奥津甲斐弁羅の神 ・・(主客の間隙を減らす)

34・・・辺疎の神 ・・(客体側の到着整理)

35・・・辺津那芸佐毘古の神 ・・(客体側の結果選択創造性)

36・・・辺津甲斐弁羅の神 ・・(客主の間隙を減らす)

ところが、ここで、「本打切り、末打断ちて、」なので、24-30と31-36が、禊祓では分離され≪メモ続き。禊祓とア行タカマハラナヤサの五十音図。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

『天津金木を、本打切り、末打断ちて、

千ち座くらの置座おきくらに置足らはして、

天津菅すが麻そを、本刈断ち、末刈切りて、

八針に取辟さきて、

天津祝詞の太祝詞ふとのりと事を宣れ。』

(「千座の……」と「八針の……」の操作が金木と菅麻の双方の音図に掛かる)

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中央「八針」、「千ち座くらの置座おきくらに置足らはして、」にする以前が、

竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)

という、金木音図。

ここを以ちて、 (◎) 伊耶那岐の大神 の詔りたまひしく、

音図として成り立っていると言うことは、例えば、腹減った何か喰うものあるか、とか等々、という、阿波岐原。

腹減った、の「本打切り、末打断ちて、」を実行する。

そこに中央「八針」が残る。

「本、末」が無いとはいっても、八列の言霊列(腹減った)が残る。

この八列の成り立ちは、以下のようにできていた。

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(十三)、知訶島

(主観内真理)

『た』の内容。

24・・・伊耶那岐の大神 ・・例えば、腹減った、これを△として、

25・・・衝き立つ船戸の神 ・・(△の自己主張の拠り所)

26・・・道の長乳歯の神 ・・(△の関連性と連続性)

27・・・時量師の神 ・・(△の時処位の検討)

28・・・煩累の大人の神 ・・(△の曖昧性の排除)

29・・・道俣の神 ・・(△の分枝点方向の明瞭化)

30・・・飽昨の大人の神 ・・(△の実相を明らかに組む)

上記、腹減った(△)の実体内容は、主体側によって定立され、客体側へ渡される。

その経過は次の通り。

『か・ま・は』の内容。

31・・・奥疎の神 ・・(主体側の出発整理)(エ次元の選択創造)

32・・・奥津那芸佐毘古の神 ・・(主体側の選択創造性)

33・・・奥津甲斐弁羅の神 ・・(主客の間隙を減らす)

34・・・辺疎の神 ・・(客体側の到着整理)

35・・・辺津那芸佐毘古の神 ・・(客体側の結果選択創造性)

36・・・辺津甲斐弁羅の神 ・・(客主の間隙を減らす)

ところが、ここで、「本打切り、末打断ちて、」なので、24-30と31-36が、禊祓では分離される。

分離されるとはいっても、

『天津祝詞の太祝詞ふとのりと事を宣れ。』を作る方向で分離されていく。

つまり、実質的に、『天津祝詞の太祝詞ふとのりと』を作っていくことになる。

解体の為の解体でなく、創造の為の解体で、解体が創造の一手順の中に組み込まれる。

創造素材はそこにあるもの、で行なわれる。過去遺産、過去材料を全部吸収合体、止揚する。腹減った(△)の内容は全部引き継がれる。

以上が、(十三)、知訶島の領域、または、天の忍男(おしを)、知をしかりたしなめる、人間精神の典型的構造(天)の、大いなる(忍、おし、大いに押し出される)、働き(男)、といわれる。

人間精神の反省了解事項とそこから出発する形成創造事項のこと。

分解創造が同時に、現象創造の手順となる。

以下は禊祓手順の出発点から、となる。

始めは言霊『ア』の次元、その現れが「た」だが、ではないこと。「た」であって「た」でないこと、この矛盾の止揚(下からはこう見えるだけだが)から。

己であると同時に他であること、自利であると同時に他利であること、主観であると同時に客観であること、心の要素であると同時に言葉であること、(意味内容であると同時に指示内容であること-吉本隆明)、つまり、あめ(天)であると同時につち(地)であること、が示される。

示されると言っても、感情情緒(あ)、抽象一般(い)、概念で示されるのではない。

『た』の実質現実内容である「う、お、え」次元で示される。

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(十四)、両児島

「上(かみ)つ瀬は瀬速し、下(しも)つ瀬は弱し」

37・・・八十禍津日の神 ・・((情感による禊)-(あ)

38・・・大禍津日の神 ・・(原理による禊)-(い)

「中つ瀬」

39・・・神直日の神 ・・(経験知による探求)-(お)

40・・・大直日の神 ・・(欲望性能による探求)-(う)

41・・・伊豆能売 ・・(実践智による探求)-(え)

「水底(みなそこ)」

42・・・底津綿津見の神 ・・(実践智の働き)-(え)

43・・・底筒の男の命 ・・(実践智の確認)-

「 中に」

44・・・中津綿津見の神 ・・(五感欲望の働き)-(う)

45・・・中筒の男の命 ・・(五感欲望の確認)

「 水の上」

46・・・上津綿津見の神 ・・(経験知の働き)-(お)

47・・・上筒の男の命 ・・(経験知の確認)-

腹減ったが自分一人で解決がつくならいいが、他の人、他の事物、他の条件が介入してくるときにはすぐ問題がおきる。「瀬」を渡るのが解決法である。

48・・・天照大御神 ・・(人類文明創造の最高規範、天津太祝詞、やたの鏡)-(え)

49・・・月読の命 ・・(精神的学問文化をコントロールする精神構造)-(お)

50・・・建速須佐男の命 ・・(欲望性能の整理、物質的繁栄をもたらす精神構造)-(う)

腹を空かした母子がいる。二人は食事を分け合う。これが禊祓である。何でもない普通のことですが、そこに問題を見いだすと人間の頭は常に混乱します。

頭の混乱は、ここでも 簡単にでてきます。結論的に言った食事を分かち合うのが禊祓だと聞けば、ただちに、馬鹿いうなという声が聞こえます。簡単に日常のこととするのが気に入らないのです。

「過ち犯しけむ雑々くさぐさの罪」はどこにでもあります。例えば、母子両者とも大いに腹が減っているけど、そこで分けるときに、自分を先にして、子供に少なすぎるけど自分の為にはいいことにして、分配してしまうときがあります。

同じ構造は、産業経済社会、世界政治にもあります。母子が禊祓によって、食事を分け合うことは、世界政治行政の基本となっていません。これを三千年間続けてきました。そして、今が、新しいこれからの三千年の出発点です。

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≪八針のメモ。禊祓とア行タカマハラナヤサの五十音図。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

音図の上では、八針に取辟さきて、は簡単に分かります。あ・かさたなはまやら・わ、の中央を、か・さ・た・な・は・ま・や・ら、の八つにばらすことです。

その各音各音は要素として五十の過程を通過し、運用されるのに五十の過程を通過してきます。各音が百の過程を通過して単音が誕生しますが、自他共になる了解事項になるには、五重の人間性能を示すことが必要ですから、百の言霊神を通過することを、さらに五重に繰り返すことになります。

こうして使用可能な単音が一つでてくるわけです。頭脳内では何の変哲もない気付かれもしない操作として、一秒の何十分の一以下の単位で繰り返されます。

脳内現象として現れるには100×5の循環が各単音ごとにあり、その積み重ねが単語になり、ついで文章になります。

各単音と単音は意味のある連絡積み重ねでなければ、通じませんから、各単音と単音の間に、それらのつないでいる何ものかがあるわけです。

単に発音された単音と単音が重なればそれで意味野ある単語になると思われていますが、各単音間にある「間(ま)」が考慮されていません。

これが大嘗祭での、御衾(ふすま)(伏す間)の秘儀です。意味ある各単音間の連絡を付けることです。

古代大和の聖人はこんな考えられないようなことを発見していたのですから、現代の頭脳を何と超越していたことでしょうか。

その秘儀の内容はというと、寝ることです。寝るというのは、頭脳内の寝た部分に言葉を安置するということで、現代語でいえば記憶することです。

喋っていても普通に単音と単音はそれぞれ記憶されていき言葉はつながっていきます。自動的なことです。考えもしません。古代大和の聖人はこれを完璧な理論として、ここに打ち立ててしまったのですから、返す言葉がありません。

日本の祖先だけがやりとげ、その成果は大和日本語となっていますが、未だに日本語が他国言語とは比較の土台を異にしていることに気付いていません。

驚嘆すべきことは、その言葉を創造した同じ原理で世界が創造されていることです。それを経綸といいますが、世界発展の為に、ユダヤのモーゼを使用し、世界に宗教をばらまいておいたのです。(日ユ同祖論などもあって、受け取り方は逆ですが、少々は気付かされているようです。しかしこれ以上の話は通じませんのでここまで。)

この記憶の間に寝ること起きることの操作が、八針を取り辟さきですが、その実体操作はどういうものかを探っていきたいと思います。とはいっても何にも分かっていませんし、書いたところで全ては完全に駄目なものというのは分かっています。ふもとから富士山の火口を見たと主張して書いているようなものです。

古事記の衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神から以降の三貴子までが禊祓の方法となっている神です。ですのでこの26神の手順を八回繰り返すということになります。

八針に取辟さきてで、か・さ・た・な・は・ま・や・ら、となって、八つの列がバラバラですが、今度はそれを配置し直すわけです。

配置し直した順位が、ア行、たかまはらなやさ、になるのですが、どうしてそうなるのか、どうして見つけたのかは不明です。

ヒントは音図の名称に示されているようです。

竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。

つくしは、人力を尽くしの尽くすこと、ひむかは、日に向かうで生命の光を問いただして得ること、たちばなのおどは、たちという人間の性(さが)を取捨選択して花を咲かした音によって表現すること、あるいは、そのようなたち(性)をもった音・言葉の名(名称)の音にすること、そのような、あはぎはらという五十音図を用いるということになります。

あはぎはらとは音図のことで、天津スガソ五十音図の四隅、ア・ワ・イ-ヰ(ギ)、を繋げたもの。

しかし、これだけでは分かりません。

自分で、順位を、たかまはらなやさ、にできません。がしかし、誰もがそう教えられていますから、その順に従って解説は可能です。それでも、操作の実体は分からないので、せいぜい漢字を当てはめてその意味を連結していくだけのものです。

心の主体がどこかで始まるかと思われます。あ行が、ア・カサタナ、、、か、ア・タカマハラ、、、か、あるいはまだべつの順によるのかです。アの芽が地に着くのアの配置です。

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タカマハラナヤサ。

腹減ったという何だかわけが分からない全体事象。目前の子供が転倒したのを見たお母さんという事例で。

金木音図のア行。

『ア(ア・タ・カ・マ・ハ・ラ・ナ・ヤ・サ・ワ)-カサタナハマヤラ-ワ』 欲望にはアワの自覚がない。

太祝詞音図のア行。

『ア(ア・タ・カ・マ・ハ・ラ・ナ・ヤ・サ・ワ)-タカマハラナヤサ-ワ』 全体的な自己が確立されている。

天地(あめつち)。

天(あめ)の、天地(あめつち)の御中今主、のこと。

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事象発生時の主客の全体から、主体側の目覚めへ。

全てはこの初発の主体の定立から起こります。そして主体の自己規定から自分の行為となっていきますが、その行為に至る過程の順位があります。行為に至る時には「ヤ」です。

事例の発生時には、直覚直感的に事例の全体が直接現象として与えられます。

これは上記のシェーマで両者共に同じアの形であるところです。事象を前にして当初は金木、太祝詞とも同じものを見ています。

ついで金木ではカに移動します。

起きた事象が自分に引き寄せられます。 それがじぶんの経験行為となるべき為の、自己・自分化・自分のものとすること、になっていきます。子供が転んだ時でも、自分の子ではなく、あるいは遠くで見る単なる視像となっただけのものでも、それを見たという確認が自分内に起きます。全部の知識、経験概念ただちに飛び出し、その記憶を頼りに事象の解釈が始まります。

太祝詞ではここで、タが繰り返されます。与えられた全体構造を知っている知識を使用してただちに判断しません。与えられた全体事象の主観主体側と客観客体側が、それぞれかみ合っているか感応同交したものかを、次のマの段階を通して見ていきます。いわばカとマを同時に釜の中に放り込むのです。

金木ではここで、経験知識による取捨が口を出しますから、その知識記憶の方向づけが後を決定していきます。その決定はサとなります。

太祝詞では自分側と相手対象側の全体が維持されていきます。

走って遊んでいた子供が転んだのを見て、母親は、今までどおり安全に走り続ける機能をとるか、全体の状況から見て、安全に停止させるのかの選択になります。

腹の減った人は今までどおり叫び続けるのか、どのような状況にあるのかを見ることになります。

その事象、視像は自分を引きつけ、自分はそれに結ばれ結びつこうとします。これは側にいるいないの距離に関係しません。自分に結ばれたことへの自己了解は自分を納得させる為の感情了解となります。それが次にきます。

太祝詞では、タカマハラナヤサでは、タの段階の全体構造が維持されます。

自分の感情情緒において自分が固まらないと一歩踏み出せません。これは正反、参加するしないのどちらになるにしろ、行動するしないの決め手になります。

全体の維持には感情情感による統轄が有効に支配的であることが必要です。その内容は表面に上昇して顔を出そうとする思いや知識です。この動きを切ると萎縮の方向へ向かいます。逆に使用すれば結論を早めることになるでしょうが、おざなりなところがでてくるでしょう。

母親の全体判断停止は子供をすぐに解放するでしょうが、見過ごした重大事が隠れているかもしれません。腹の減った人は、胃袋の鳴り具合い体力の維持具合などを気にすることでしょう。

こうして自分に識別された自分の行為の処理の仕方が行為となって持続していきます。

自分の子供に関してでなく他の子にも同様な気遣いを見せます。腹の減り具合も冷蔵の中味の具合とか調理時間の勘案とかにも気をつかうようになるでしょう。

ついでそう成すことが確認されます。こうして自分の行動の名分、眼目が自分に明かされます。

自分一人が大騒ぎすることもありません。

そして持続した行動が起こり、自分の心に確認が取れていきます。

このように自分の選択行為が自分に有効になり、目指す結論が明瞭になっていきます。

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千座(ちくら)の置座(おきくら)に置足らはして。

切り裂いたものを一応タカマハラナヤサで、再構成しましたがうまくいっていますか。八字の構成組合せは多数ありますから、それらも全部試さなければならないのでしょうか。

何万とある組合せを古代の聖人たちは謙虚に試していったことでしょう。

ちくらのおきくらにおきたらはして、ちくらのおきくらにおきたらはして、、、、、、凄いですね、古代大和は。

済みません、わたしは、はしょっちゃいます。

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