ひ 心の五次元。言霊学の五次元(旧稿)

➀ 心の五次元。言霊学の五次元。

心の原論である言霊学でも次元という言葉を使用しますが、数学、物理等で使用する次元や、それを反映して精神世界、神霊界に適用した次元とは根本的に違います。

精神世界や神霊界で適用されている次元という言葉は数学、物理の次元概念をそのまま当てはめただけのものですから、次元の作り方がそれを言い出した人により、早い者勝ちで勝手に次元数が決められていきます。

怪しい経験を寄せ集めて概念的に構成しただけですから何も説明できる実体はありません。もちろん説明されてしまうと有り難みが下落しますから、抽象概念を守り崇めるように誘導していきます。

主張するだけの怪しい経験はなるべく上から来た方が価値が大きいと思っていますから、自分なりに上位概念なり、神霊なりを発明していきます。ですので精神世界でいう次元も神霊界でいう次元もこの世、現界で確かめられる次元以上のことはいい加減です。

わたしがいい加減といっても、当人たちには真面目な神秘的な超経験ですし、わたしもそういったことがあるのを否定しようはありません。ただ現界を一歩でも越えてあちら側へ行った場合には、その説明が直ちに怪しいというだけです。

経験としてあるのになぜ怪しくなるのかは、現界この世の次元の扱いが怪しいからです。単なる数学、物理、等の空間を説明する用語をそのまま心の世界に適用してしまうからです。物質界の言葉がそのまま心と精神の世界の言葉になってしまっているからです。

0次元は点の世界(長さも幅も高さもありません)、

1次元は線の世界(長さだけあります)、

2次元は縦と横の世界(面の世界です。でも高さはありません。

3次元は縦、横、奥行きからできています。それが空間です。

四次元については、縦・横・高さ・時間

五次元の構成要素は、縦・横・高さ・時間・精神

六次元の構成要素は、縦・横・高さ・時間・精神・神知識。神知識という要素が入ってくる。

とこんな具合になっていて、付け足す神とか霊とかその他に応じて次元数が上がっていきます。

こういった次元解釈には数学物理的には意味があっても、どこにもこころがありません。点の、直線の、面のとかのどこに心や精神があるのでしょうか。それでも数学的客観的真理であるからと受けいれてしまい、その上に乗って自分を築いていきます。

つまり最初からそれら一切は放棄しなければ心の次元は語れないということです。ただ数的な客観世界に次元があるのなら、こころの世界にも次元世界があるのじゃないだろうか、という思いを与えくれたことに感謝できることなら立派な遺産となるでしょう。

「ドラえもん」でさえ四次元ポケットのアイデアを得たことで面白いことができるという、話ができるようになりました。神霊界の次元の話もこういったものです。アイデアと真面目なあるいは怪しい経験という違いがあるように思われますが、心、精神から見れば同一次元にあります。

例えばこういう文章を見つけました。

『 「2012年、地球は滅ぶのか?」と聞かれる事があります。

聖師様は、それが絶対に起こらないようにするために来たとおっしゃられました。

だから、地球は絶対に滅ばない。 』

地球の自然な運行に対するもので、様々な角度から言われていますが、自然と心が直結していて、心で自然が変わるということです。

それなら太陽を西から昇らそうとするドラえもんと全く同じです。政治的にエコロジー、神霊的、道徳、人の道のあり方等々からも同じような構造の意見が、ドラえもんとは知らずにかつ真面目にでてきます。そして喧嘩戦争までしていきます。

優しい心で地球に接するのにどこがいけないのかということでしょう。もちろん誰もそんなことは言っていないのですが、そう受け取ってしまう自分に気付いてないのです。ですのでそこで優しい心を出し合うと意見の違いから、嫉妬反発優越闘争心等々の心が滅びるようなことが起きてきます。

自然から得られた心を越えて、心が自然に立ち向かうようになってしまい、そこに心の優位の次元を設定して、勝手に心の次元の上昇があるとしていくからです。聖師なら地球を滅ぼさない、ポケモンなら地球を滅ぼさない、全く同じ構造です。

漫画ではないのですから自然から得られる心を勝手に次元上昇させて、上位の心とか神、霊に近いとか、それらを越えるとかの概念を作らないことです。

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➁ 心の五次元。言霊学の五次元。

漫画ではないのですから自然から得られる心を勝手に次元上昇させて、上位の心とか神、霊に近いとか、それらを越えるとかの概念を作らないことです。

次元という心はどこから来たのでしょうか。自然を見習う心なら自然にも次元があるからで、心もそれを真似たからでしょう。

例えば、生きることは、その前提、卵、種子、等から大きくなっていくのに前段階とは全然違う状況を経ていきます。樹木の成長も交配した種子から発芽、双葉、幼木、花を咲かせ実を付けるといった異なった段階があります。

昆虫、動物も、似ても似付かない前段階を経てその変態を越えて成長していきます。

こういった事実があるにもかかわらず、精神世界とかあちら側の魂とかの話をしだすと、数学、物理の次元から初めてしまいます。なぜこころそのものから始めないのでしょうか

心にも飛躍の精神段階があり、未知の神秘の驚嘆の経験があります。それらを精神が次元として受け取り次元層を設定して自らの層を規定していくのは当然のように見えます。

物質面を反映する心に次元層があるのだから神霊界、精霊、あの世、創造主の世界にもあるよ、そういう経験もあるよ、となっていきます。反省する心のある場合には自己の魂の高度化成長もいいます。

それが魂磨きになり、まるで勉強すれば魂が高度になっていくかのように思う人もいます。知識を覚え溜め込み量を増やしていけば、次元が上昇していくとさえ思っているようです。

あるいはアセンションとかいって意識レベルの変化が眠っていても誰にも訪れるというのもあります。地球の次元が上昇すると言われても何のことだか分かりません。

こういった様々な変化、変態、成長、次元上昇するといった意識を持つことの基盤が点-線-面------の次元から出てくるというのは全く情けないことです。副次的に経験と科学的観察とが酒のつまとして添えられているだけです。

しかしこれらが地球の人々に対して、世界の全面変革への意識を芽生えさせているのも事実です。これはアセンションという分野だけに限らず、今や経済産業、宗教、科学学問、道徳政治の世界でも共通なこととなっていています。

ではこの全面変革という意識がどのようにもたらせられたのかということになります。

霊界の次元とかアセンションとかあるかないか確かめようのないアヤフヤな知識と、心でも精神でもない数学とか物理とかを基盤とせずに、われわれの心から出発して説明できればこんないいことはないでしょう。

現代は「全体」を整理解釈して、運用していくことを前に行き詰まりを得ている時代です。「全体」に対処する思想が経済、学問、政治、宗教、道徳の人間精神全分野で芽生えようとしている時代です。

しかし誰もそこに未来を選択運用する指針を示す言葉を見いだせないのです。霊界の次元も、アセンションも、菅総理のうろたえも、G20会議も、アラブアフリカ諸国の変革も、中国の非民主化への締めつけも、皆同じところからでています。全体が見えないです。

それを、数学、物理、科学から出発して客体の方向を究めようとしていくと、人の精神分野さえも算数を基礎にしてしまいます。数は有用な心の象徴で友になるものですが、心、精神そのものではありません。

どこまでも人間精神の心の主体性から芽生え変態し成長して実を産み成す方向をとればいいでしょう。人間生命の根源に始まってそれにあくまでも頼っていけばいいでしょう。

そのための原理原典が既に存在しています。しかも数千年前に完成していて運用されているものです。「古事記の神代の巻き」に隠喩で書かれているもので、普通には神話と呼ばれている部分です。

「古事記の神代の巻き」は読み解かねばなりませんが、人間のこころそのものを書き表しているものですから、こころと照らし合わせればいいだけのものです。

古事記には次元という言葉はありませんが、現代の人が使っているように、一、二、三と積み重なっていくようなこころは単なる概念だけの解釈だから、こころの原理原論の言葉としては相応しくないからです。

もちろん抽象化概念化数字化していけば次元は一二三と数列を構成していきますが、それはこころの数的な次元表現であってこころのことではありません。ましてや、あちらがわの世界のこころを数列で表現することなど、概念でしかできません。

概念でしかできないのに概念で出来てしまうというところが人間精神のミソです。その御蔭で弱肉強食で相手を倒して各人各国は強くなり、戦争をしては経済は発展し、原発を作ってはそれに怯え、あるいはその逆になっていくのです。

全人類の魂に全人の魂が蘇っています。現在ではどの国の人もその眼差しは地球全体を向いています。その基盤は経済産業活動から来ました。情報知識は全世界的なものとなりました。しかし誰もその統制ができません。一つには真の世界支配者がいないからです。一つには世界を導く魂の指導者がいないからです。

キリスト教会は幼児性愛の地獄に落ちていますし、仏教界は個人の救い以外は相変わらずの実現しない目標ですし、イスラムは石油による利益意外に感心を示さず、共産主義は存在せず毛沢東語録は廃れ札束の奪い合いです。

世界のどの思想もその根っこにおいて、物心両面を支えている思想を持っていません。こうした全体への絶望、あるいは逆に羨望が201年として提起されたりしています。

これを救うにはこころの全体を見直すことです。それを無視して魂を磨いても、次元の上昇をいっても、わけの分からない砂上の楼閣に、愛と慈悲と優しさのこころは揺れ動くだけです。この世の魂に基盤が見えないのにあっち側の世界のことばっかり言っているのでは、お伺いを立て大吉情報に泣きつくだけでしょう。

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➂ 心の五次元。言霊学の五次元。

一万年前以上から人々は生きるとは何か、心とは何か、言葉とは何かを考えてきました。その大労作の究極の結論が八千年前後には関していた思想を後代にまとめたのが古事記の神代の巻きです。古事記は心の原論です。

現代人にはそれは神話みたいな法螺吹き話みたいに聞こえるでしょう。ところがそんなふうに現代人が考えるということも既に一万年前から読み込まれていたと言ったらたら、さっさとページを変えるか、興味感心を示してまた例のやつかと、この続きを読み出すかもしれません。

どちらにしても、それらの両者ともブログを読む人のそれぞれの手持ちの知識による判断で、なるほどそうかと納得するか、馬鹿らしくてさようならか、になりそうです。このブログで書いていることは、何かの知識を与えて同意を得るものでも反論を期待するものでもありません。

原理に賛成も反対もなく、自分の主張も判断も創作もありません。他の客観科学に対してはそれを受けいれているのに、古事記が心の原論だというと、途端に心はかたくなになります。もちろんそういった心の動きは当然ですから、何もこちらから言うことはなく、気の済むまで、そして新しく古事記を発見するまで続けてもらえばいいことです。

既に古事記の記載から千年以上も待っているのですから、ここいら辺でまた何か言われたからといって変更するものはありません。別の方面から続けたい方には時間潰しか、光栄名誉を与えられるしかならないけれど、やれるだけやってもらえればいいのです。

古事記の序には生きるとは心とは何かの根本思想を表現するのに、それぞれ勝手な自己主張がでてきて誤りに導かれていくのを嘆いているとあります。種々様々な古文書、啓示書等々が、拡がり過ぎていたのです。そして現代にも常に新しい解釈が創造されていきます。

それらのすべての主張はそこにある原理にではなく、知識と経験と整理探求と予測なりの成果です。簡単に言ってしまえば多少の経験概念に裏打ちされた知識を正しいと主張してだけです。正しいと主張しているものに付ける薬はありませんので、効能が効かなくなるのを待つだけということになります。

しかし、現代は世界の方が人間の頭を越えてどんどんと進んでいきます。どこの国の、どの分野の、どの専門の頭脳も世界全体を統括できていません。そこで生かじりなわたしみたいな連中が出てくることにもなります。

そういった連中は世界の今までの思考法全体が相手ですから、もともと何を言っても駄目なのが分かっています。それでも何かをしないと済まないのが心の一つでもありますから、ブログ等を拡げて発信することになります。

ではどのようにかといえば、難しいですが、わざと誤解を起こすように言えば、一人満足を得る為、皆さんを自己満足に誘う為にです。これは宗教的な見解の中に落ち込んでいる人たちをみれば分かる通り、取り敢えずは、常識世間一般の見解、学校で教えられたこと等々を越えて行くにはある程度効果があります。つまり古事記冒頭の解釈を、古代にあった思想に戻そうと提唱するものです。

これは既成概念に対しては、宗教のように一挙に信頼を得るか拝むかになるわけですが、わたしのように書き方がまずいとそうはいきません。人の心につけ込むことも出来ないし、奇跡を見せることも出来ず、希望与えることも苦手です。仕方なくくだくだ書いていくことになってしまいます。

一応読む人に自己満足を与えようとしてますが、それでも宗教次元でのめり込んでしまうと、先を采配する眼が失われますから、宗教のように今までの手持ちの見解まで殺すことはできません。わたしたちは宗教のように非情ではありません。過去知識概念は全部次への足掛かりです。

そこで何とかいくのじゃないかと、最初の書き出しにある通り、生きるとは何か、心とは何か、言葉とは何かの究極の結論を古代大和の聖人達と共に共有しようというものです。

さらに、古代の聖人たちが現代のわたしたちを読み込んでいたのなら、わたしたちは今後の千年間を提供しようというものです。

さあ、われわれの千年間の子孫達の為に、のめり込まない自己満足を創造してみましょう。

どうするのかといえばことは簡単です。古事記の神代の巻の通りに進めればいいだけです。何しろ心の究極の世界で唯一の原理なのですから。

古事記に沿ってといっても、自分の心を語るのですから、簡単なことですが、そう簡単なことでもありません。

通常は、自分の心と言い出したところで、既に自分の心があって自分が考え感じ思って、自分が語ることだとします。考え感じたことをそのまま自分のこととして書いているつもりです。

ところが古事記の出だしはそうなっていません。神名がヅラヅラ出てくるだけです。

原理の始まりなのに、こころとはどうなっているのか、その構造はどうで働きはこうで、という説明に該当するものがありません。

何しろ出だしは「天地の初発の時」となっています。

これは安万侶さんが、広まり過ぎた間違いを間違いのまま拡がらしておくと同時に、数千年前からの心の原理として完璧な形としておくための、両方を解決するための、天才的な書き方です。

この世の宇宙世界のことだと思わすと同時に、心の原理としてとらえ直した場合にも非の打ち所のない原理の始めの出だしとなっているものです。

ウィキペディアのように心の現象を書き出して、こころは多様で多義的だというのとは違っています。

さらに最初に何か心を語る所は、まぐわいを始めようとするところで、既に冒頭の十七神を紹介した後のことです。

【 ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。】

お前の身体は(実はお前のこころはということ)、どうなっているのか問うていますが、伊耶那岐、妹伊耶那美の命は自分の心の主体側と客体側を示したものですから、自分の心の主体が自分の心の客体に自分の心はどうなっているのかと問うことです。

最初から、自分はこう感じているとか、考えているとかを全面に出してくることをしません。

こんな風に書くと、それじゃどうしてブログが書けるのか、あなたも考えていることを書いているじゃないかと言われそうです。

考えて書くのは当然です。ではその考えの出所を尋ねたとき自分だ、自分の頭脳の所産だといいますが、どんなここにある存在も過去から受け継いだものです。

考えたことも同然で、考えるために使用した言葉のどれ一つでさえも自分で作ったものはありません。大げさに言えば自分のものなどどこにもありません。精神的にその感情を得ることも悟りのひとつです。

それでも、そんなことなら、潜在意識があり、前意識無意識、集合的無意識があるということでしょう。

しかしそれらは未だに心の構造として解明されていません。経験事象の整理集合分析の後そのまま主張となったものです。治療にも利用されていきますが、物理科学数学的な正確さとは比較になりません。

心の原理にはほど遠いものです。

ところが心を表した言葉はこの正確さをもっているではありませんか。

言葉・こ・と・ば・という時、三文字の連結を替えたら、通じません。五十音を組み合わしてこ・と・ば・と組んでいくと言葉に似てくるのです。この「組んで似せる」正確さは数学以上のものです。

たったの一文が出来上がるアイウエオ五十音での数学的な確率は八百万になるでしょう。古事記とはその八百万の原理が書いてあるのです。

ですので、古事記も自分の心が考えたから考えた、感じたから感じた、ではないのです。心理学においてようやく前意識があるといわれるようになりましたが、そんなことは数千年前の古代大和では幼稚な主張でした。

心の原理として書かれた古事記をみても、伊耶那岐が心の現象とはどうなっているのだろうか反省する以前に、その心の構造は十七の神で暗喩暗示された心の先天性を通過すると書かれているのです。

自分の心、考えという場合にそれの出でくる先天の準備がなければ、自分の立つ場がありません。相撲を空中から見てください。

脇で見るだけなら単なる力比べです。岩戸で天照を天のタヂカラの男が御手を取って引きずり出したイメージから、力比べになってしまいましたが、本来は隠れた智恵を顕在化することです。

空中から土俵を見ていると、自己の主体と自己の客体がいますが、両者がいても土俵に立っているだけでは何もはじまりません。これを動かす隠れた力動因が必要です。片一方だけなら無勝負の不戦勝。自分が考えることと考える相手対象を向き合わせなくてはなりません。

両者に力動因が働いて初めて結果がでます。この結果は両者の持っていた過去過去知識記憶概念からその場に相応したものが即座に適当に出てくるものです。両者がそれぞれ手を差し延べて求め探していたものが結ばれたとき手を取り合って結果となるものです。和の座=技ありです。

自分の考えが言葉になるのも同様で、考える自分という主体と、考えられる自分の中の客体があるだけでは何も動かず、そこにタヂカラの男の力動因が働いて初めて、自分なりの考えが出てくるということになります。頭脳の中では数分の一秒単位の超スピードで行きますが。

心理学などで言われる無意識なども、客体側にそういうものがあるけれど主体と手を取り合うタジカラの男(伊耶那岐の大神のこと)の概念を持っていないために現象への顕在化までの道筋がまちまちでしか説明できません。

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④ 心の五次元。言霊学の五次元。

例として、古事記に沿って自分の言葉の出来上がりを記してみましょう。

自分が両親から産まれたように自分の言葉も自分以前にあるものから産まれます。自分の産まれる言葉の前提、お膳立て、生みの親達がいないことには自分の言葉もありません。

日本語の環境においては、一万年変わることのない日本語の構造の中からわたしたちは産まれました。世界に類のないことです。言葉の構造は変わらないのは確かに沢山あります。主語-述語の順、なんていうのなら殆どが該当してしまうでしょう。

では日本語において変わらないというのは何を指したものでしょうか。もし象形文字が生きているなら、文字と文字の指示するものが変わらないということはあるでしょう。しかしもう象形文字はなく、その発音も分からず仕舞いになっていますし、通用していません。

ところが大和の日本語という世界唯一の例外があります。というより、世界でたった一つの発音とその指示している内容とが一致して言葉が日本語です。

同様に古代の神代文字が随分沢山ありますが、心の現れを文字表現としたので、記号とか象形とかに見えるのは心の動きをそのように見て表したようです。(心の動きは八つありますから八つの表現が基本となっています。)

日本語の辞書は今でも何々〇は何々〇であるという単なる繰り返しを説明代わりにしているものが多くあります。他の言葉をもって説明のしようがないためです。

言葉で指すものがその内容を示し、発音が内容を示しているから、内容も発音を示しています。このような言語体系を持っているものはありません。

その秘密は全部古事記に記載されてあります。

古事記の示すところによればアイウエオ五十音の各単音単位で意味があります。

ところが単音に意味があるというばかりでなく各単音の成り立ちがそれぞれ五十音の単音の循環を経て成り立っているのです。

原理としての五十の連続を通過してどの言葉も初めて一つの単音として成立していきます。

その五十の連続はどの単音言葉にも共通で、古事記において冒頭のちょうど五十の神を通過すると、単音が発音され相手に通じる構造となっています。

こういう書き方をするとビックリするでしょうけど、よく見れば日常生活全部そうです。とりあえずは五十と言われたから驚いたので、この五十を無視して、要素とか基本単位とかにして思いだしてもらえれば納得するでしょう。

例えば子供が産まれるのは、男と女とそれを結ぶ行為との三要素の循環を経るとか、食事をするのは食べる人と食べられる物と食べる行為の三要素があるとか、いえるでしょう。言葉の場合にはそれが五十の要素というだけです。

これまでの研究にも、日本語の文字を単音単位で一つ一つに意味を配当しているのはいろいろとよく見かけます。しかしそれらは、個人的な経験を頼りにして恣意的に五十の配当を作ったものです。いわばそれを作った人の五十の心の現れです。

ところが、イエウオアの古事記の五十音とは人の心の五十の現れで、人の心は五十以上でもなく以下でもない五十の要素で成り立っているというものです。

複雑な心が五十の要素で出来ていて、その現れがアイウエオの五十音です。五十の心の総合としての現れではなく、心という一つのものの五十の要素です。

物質世界でもその元素はせいぜい百ちょっとしかありません。それだけでもってこの人間のからだと、この世の全部が出来ています。

古事記本来の思想を除く今までの研究で他の人たちの解説では、単音に各人の経験した意味を配当しているだけですから、言葉の数の多少に左右されてきます。言葉が22なら22、50なら50、 75なら75と一定しません。

当然配当された意味を総合し寄せ集め、22なり、50なり、75なり集めても人の意識の全体になりません。

古事記はまず一つの人の心が立てられます。それは一塊の全体として立ちますから、最初から一つの全体です。二つに分ければ全体が二つに見られ、五十に分ければ全体は五十になります。この全体に追加するものはありません。

他の言霊解釈ではアイデア勝負みたいなもので、なるほどぴったりかんかんである各自の経験から出発しますから、出てくるもの出すもの、うまくいくものと概念で埋め合わすものとの奴隷となってこき使われてしまいます。

古事記の五十の神を解釈しないで、自分で考え、あるいは得た経験を元にして組み立てていったものだからです。それなりの意志と努力、経験の蓄積の解釈、熱意があってのことですが、惜しいことです。

そんなことを言っても、わたしが書き綴ろうと他の誰かがやろうと、古代の大和で決められた世界歴史に変化はありません。心にはちょうど五十の要素があると気付いたところで誰かが何かを発表します。

前回は千年前の安万侶さんで、今回は島田正路氏です。次回は何年後の誰になるかは知りませんが、既に現代語で古事記は解明されてしまっていますので、解釈ではなく、利用運用適用が主なことになり、今までわたしがしてきた解釈などは余計なこととなっていくでしょう。

そしていつかどこかで古事記の冒頭五十神は心の五十の要素だということが、国の精神的、道徳的な責任者によって表明されます。

そんなことを待っていたら自分の寿命はないし、自分にとっては面白くないので、こうして書き進めていくだけです。ブログを見れば分かる通り決して世間に拡がるものではありません。

実際には思いつたこと、感じたこと、アイデア等を出していった方が面白いのですが、それらは単なる気まぐれだけであるのが分かっていますから、そんな真似はしたくありません。島田正路氏のようにおもしろく分かりやすく有効に原理を書く技芸がないので、いまのところはこんな調子になっています。

どうしても戯れ言が続く。頼みもしないのに書こうとも思わないのに勝手に出てくる。

止め。。。。。。。。

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➄ 心の五次元。言霊学の五次元。

未完

わたしはよみがえりです。いのちです。

御言葉:ヨハネの福音書11:1ー44

要 節:ヨハネの福音書11:25、26

「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、

死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、

決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」

言葉は命

例として、古事記に沿って自分の言葉の出来上がりを記してみましょう。

自分が両親から産まれたように自分の言葉も自分以前にあるものから産まれます。自分の産まれる言葉の前提、お膳立て、生みの親達がいないことには自分もいません。

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