ブログ055~。現象子音・タトヨツテヤユエケメ

ブログ055。 『現象子音・タトヨツテヤユエケメ 』

現象子音の成立過程には三態あり、それは、イメージ化、物象・物質化への変換、精神心への復帰回復化の三態のことです。下記の32過程を通過していきます。

先天構造内の「タ」の元となる母音世界とどのような「タ」として現れれるかの元となる父韻によって、「タ」を現す主体側土壌が整いました。

そこで、頭脳内でどんな「タ」かのイメージにまとめ、それをどんな表現にしたら良いのかにまとめ、そして相手側に伝え了解してもらいます。(相手側というのは自分自身であることもあります。)

ここでは先天のわけの分からないものではなく、イメージでき五感に訴え実際に受け取れる具体性を以て現れてきます。先天が具象化されるという変態をそれぞれ通過していき、相手側でまた宇宙空間に放たれるように先天に戻ります。言霊循環。

この過程は具体的に子音・現象が発生していく過程でもあり、原理としての経過を辿りながら同時に自分の言いたい「タ」なら「タ」が発生する過程でもあります。

これは言霊の幸いとなることで、大和の言語以外では言葉の意味と指示がバラバラですが、ここでは、「タ」なら「タ」が先天の宇宙世界全体を背負っていてその「タ」であることを表現するので、「タ」と言う発言と音、「タ」の発声と内容が同じままで自己自身を発生していきます。

他国の言語のように「タ」と言ったときにタで示すと約束された事柄を表示するのではなく、心で「た」と感じ考えられ思われ選択され感情が沸き起こる全ての心象が「た」で表現されます。ですので現象の単位と心の単位が同一であるものです。

巷で言われる良い言葉というように一続きの一息で吐く言葉単位ではなく、単音がフトマニ言霊・古事記の言霊学の単位です。

ですので心は無数にあるといっても、その単位要素は物質界には百ちょっとの元素しかないように、精神界では三十二の単位要素しかありません。これが子音です。それに一般共通要素の母音父韻界が十七(これが同時に先天構造となっています)と、それら全体をまとめて表現する世界を一つ足して(これが後に黄泉津国となる文字表象となって運ばれていく言霊ン)全体で五十の単位言霊=心となります。

幾ら心の表現を複雑にしようと単純にしようとも五十の言霊単位を超えることも少なくすることもできず、日本人はこの五十の中で生きているのです。そして各単位要素の発生確認において、各瞬間ごとに五十の循環を経過していきます。

先天の実在性と働きの動因が意識されることなく頭脳に載ります。原理の説明上では先天から頭脳への橋渡しですが、ここでは「タ」の発生なっていますので、先天の母音世界と父韻の働き世界がまぐわいをしてできた「タ」です。

この「タ」が確認され次の言葉なりと結ばれるためにまた先天世界に帰るまでの過程となります。

三十二を通過して最後の「コ」となる時が、現象の「た」の完成です。しかしその間に脱落したように出てくる「タ」もそれなりの位相を持った「た」となります。

途中での脱落を自己主張していくのが自我個性の元となっています。現象となった「た」は先天の実体世界のその人なりの現れとなります、先天から出てくる「タ」も先天構造から既に選択されたその人の「た」となります。そして後天現象子音を形成していく過程での各位相からの逸脱がその人なりの主張となるものです。

例えば、

五感からの欲望の「た」、情緒感情の「た」、知識概念の「た」、選択按配の「他」等のどれかがその人なりに決まった形で出てきます。

そしてその出方が父韻の八種となりそれぞれの「た」の違いができます。三十二の経過の始めは言霊「タ」で始まりますがそこだけ詳細に書くと、

・ 先天のウオアエの母音世界のどれかの、父韻チイキミシリヒニのどれかの八種の働きによって出てきた、イメージか物象化か言葉の帰還のどれかによって現された「た」ということになり、その「た」は母音実在世界のどれかで父韻のどれかの働きで子音三態のどれかとして出てきたということです。

どの段階からでも「た」という言葉は言霊ンとしてでてこられるので「た」としては通じていても、その内容はもともと三十二の違いがあります。人間は瞬間的にそれらの違いが分かるわけで、同じ「た」を聞いてもそこにさまざまな意味を見いだしてしまいます。

【め】、

①、 津島。先天構造内に起った活動が津島という十言霊の現象を経て、頭脳内で実際のイメージにまとめられ行く過程です(10個の言霊。)

現象の「た」となるまでの 「タ」の三十二の経過は以下のようになります。

津島のタ ・ 母音と父韻のまぐわいで最初に出てくるのは言霊タです。人の行為の最初は立つことで、精神内での意志との戦いで自分を立ち向かわさせることで、主体が立ち上がらないことにはことが動かず、まずは相手の全体像を見たり、考えのトータルな種が芽生えたりします。

ここでの特徴は具体的に立つということではなく、先天の全構造が初めに頭脳に乗りうつるその全体を言います。こちらに乗りうつる相手全体をた(漢語配当すると、他)と言い、社会と人の食料維持の基本的全体を扱う地面がた(田)であり、全体で動く様子がタタタタターです。朝目覚めて意識が立ち上がり等々、始めは立ち上げです。その立ち上げを見聞き知ることで先天の現れがどういうものか分かります。

相手対象となるものの全体といわれるものが意識され、こちら側は自分の人格の全体が応対していることに気づきます。繰り返しますが、これは原理的には先天宇宙の現れですがここでは「タ」です。

その後の「た」の全体の芽が現れます。神名はおほことおしをの神。大いなる現象として押し出てきた言霊(男)。

先天の働きでまずみずからがそのまま現れる。

そのままというのは母音世界と父韻の働きの未分化の全体ということ。

このまま進行が止まったままで自己を主張すると、お化けや霊魂や神や光や「た」の言霊を直接見たというような内容を規定できない取り止めの無いものとなる。

津島のト ・ 次に最初に出てきたものの主体働き側と客体次元側がでてくる。タには全体が含まれているのでその要素が主体客体側としてでてくる。

現象となるまでの「た」の津島のトは、主体働き側の五十音言霊(五十葉・いは)で自らの働きを開始するための自身を培(つちか)動きを始める。つちかう動きとは父韻のことで働きの向かう相手対象を求め現れれる。

神名はいはつちひこの神。母音側言霊ウオアエの実体世界に向かうため自らの戸(と)を開く。父韻はチイキミシリヒニの十あるので十をトと言う。戸はそれぞれ独立しているのでその使用にはその一つ一つを量り知ることが必要となりそこで量りである斗(と)が現れる。父韻は母音側実体が無いと自ら自身では動けないので外へ出ることになりそれを外(と)という。母音はエネルギーの続く限り鳴り通しの世界で、無色透明無味無臭の世界ですから、実際に鳴っているのか鳴っていないのか分かりませんので、そこに子音頭のTYKMSRHN で切り込みを入れると母音の所在が明らかになります。それを音(と)と言います。

このまま進行が止まったままで自己主張をすると、あるあるいる動く動くと言うだけでその実体を示さないが動きだけを示す状態になります。

津島のヨ ・ ヨはタの内容であるトの働きに対する実体側母音世界ですが、既に五十音言霊として現れていますので、ウオアエの母音世界が五十音言霊世界の住処(巣)となっているという意味で、前記トの父韻・チイキミシリヒニの受け入れが秘められた家ということです。

神名はいはすひめの神で、いはは五十葉、すは住処、ひめは父韻を受け入れることを秘めている。

現象世界はウオアエの四つの母音から生まれるだけなので、この世を造るのは四つの母音の四となりますが、世は出てくる現象の世界手すが、代は現象を生み出す力動因の所在を言います。

このまま進行が止まったままで自己主張をすると、いたいたあったあったと言うだけでどのようにかが示されないので、必要な分を超えて引き続き同じものがあまり(余)途切れないことになります。

上記三者は先天が初めてイメージ内で形を造るもので、既に母音のように鳴りやまない世界ではなく父韻によって母音次元が選択されまた父韻自身も選択されて、外界の物理的な形を取っていませんが頭脳内の形象となっています。ここでは「た」を発生させようとしていますから、「た」のタ・ト・ヨのイメージができたということです。

注意しなければならないのは、頭脳内に形象としてタトヨができたからと言ってタトヨは常にイメージに関するものということではありません。現象の「た」となるまでの発生の順位上の生命でタトヨが初めに来るので、現象の「た」となるのは最後の「タ」における大倭豊秋津島のコに至ってからのことです。各項目に、進行が止まって云々と入っていますがそれが現象となるのはやはり 大倭豊秋津島のコに至ってからのことです。分かりにくい説明ですが、前承する言霊循環を思ってください。いか全て同様です。

津島のツ ・ タで全体が現れその全体にトの働きとヨの実体があり、今度はそれら両者が有効に生きていることをしめします。動かない虫を突っ付いてみるとツーと動き始めます。その時の精神意識のことです。 言霊ツの神名はおほとひわけで、わけは分かれる・別けるで実体が動くことを指しています。その内実は大戸(おほと)・大いなる父韻の働きの戸で、そこにある日(霊、ひ)の働きで元の場所から離れて現れる出てくることになります。津は港で荷物が離れるところです。

ツはトヨを前承していますから、トのチイキミシリヒニがヨのウオアエにつーっと近づくことになります。まずはトヨの全体の関係で次の言霊テで選択が起きます。

このまま進行が止まったままで自己主張をすると、突っ立つ突き刺さるのツの様に、港で船が動けない状態ができます。あれだあれだそっちだ動けとはいいますが空言で実際には動きません。未来へ向かう心が込められているなら、突っ込めの始めのツの意識です。

津島のテ ・ ツによって動きの始めができたと言うことは動く相手に向かう始めでもあります。これが相手を意識して手を出すことになりツの後にテが来ることになります。手の実体は肩から伸びる運動器官ですが意識に換算転換してみると落ち着く先を選択する動きを持つことになります。照らすは光を当てると明るくなることですが、基準を相手に与えることでもあります。神名はあめのふきおの神でふきは基準を吹きつけることです。タトヨツに含まれている先天宇宙を吹きつけて主体(男)を確立して母音側世界を選ぼうというわけです。

そうするとここに男(主体)のやり方が出てきます。母音世界は鳴り響き止まない世界ですからそれに対処しなければなりません。何をもって初めに吹き出しどういう順序で続けるかによって相手側母音の姿が替わります。ここでは「タ」の発生ですから母音は「ア」で父韻はT(父韻チ)になっています。あーーと鳴りやまない母音にTをあてがうと「た」になり、K(父韻キ)をあてがうと「か」になります。父韻には既述のように動きの意味がありますから、母音はそれを受けてアーーから「タ」なり「カ」なりを生じていきます。

テとなるにはタトヨツを既に得て前承していますから、手を出したときには何がしかの内容が既に含まれてきますが言霊循環上後に来る言霊の意味内容は持てません。例えばテの次にはヤ・ユと続きますが、ヤはできた形が持続していることで、ユはそれが主客に分担されて押し出されることですが、手を出すときの時点では、その意味は持続も継続している意味もなく単発その場限りのものをいいます。

神名にある吹男は吹きつける主体ということで、吹くに関して何処の何へどうしてどのように吹きつけるのかを持っています。吹きつける働きの言霊表現は五十音図のイ段で示され、吹きつける相手によってその順位が変化します。次元に応じて五十音図が幾つもあります。小学校で習うのはウ次元の五十音図だけ。

ウ次元には、イ・キシチニヒミイリ・㐄 の順で、

オ次元には、イ・キチミヒシニイリ・㐄 の順で、

ア次元には、イ・チキリヒシニイミ・㐄 の順で、

エ次元には、イ・チキミヒリニイシ・㐄 の順で父韻の吹きつける順が変化します。

(運用例はブログ50を参照)

こうして何がどうなるという風が吹けばそこにイメージの形が現れます。

この選択が固定し動かなくなるとそこには死物だけが横たわっている姿になります。(黄泉津国)

津島のヤ ・ 天の吹き男の一吹きは神の一撃のことです。「神の一撃、それが惑星を. 動かした。」とニュートンは言ったようですが、意識の上では天体をも動かすのはフッというほんの一息です。一撃などととおげさなものは要りません。この一息には次元世界を選ぶ父韻の選択が含まれていました。そのために何がどれがどのようなというイメージが形成できるので、ビッグバンも神さえも超えてこの世を動かします。ですのでこの選択された一点は物事の始まりとしての大構造物となるものです。そればかりではありません。突っ立っているだけの構造物と言うことではなく、動き向かっていくのです。持ち家にしろ借家にしろ家は構造物としてみるだけではありません。むしろ心にその全体を向かい合わすものです。ですのでひとはどうしても家に住まざるを得ません。

この意識を創造する父韻が八つあるので「八」をヤといい、心に向かわし向かう動きを矢ともいいます。そこに安住する場が家のヤで、八つが吹かず動かず灯らなければ暗い夜のヤとなり、父韻の八つの間からひとつ飛び出す姿をとんがった山(八間)に見立てました。

この神名は大屋ヒコの神といいますが、漢語表記では家屋ですがその内容は心のよりどころを動かし向かわすことも含まれます。というのもタトヨツテの言霊を継承しているからです。一は全体であるとか、飛矢は静止しているとか、色は空であるとか、謎々というか公案というかができあがる元となるでしょう。

動きが止まったことだけしか見なければ実体の家屋構造物にぶつかり動けなくなるでしょう。

こうしてイメージが形成されていきます。言葉として形成された場合には空気の濃淡による音声を作りあるいは物の形で言葉にしますが、イメージは何と結ばれているのでしょうか。

イメージは現代では映像心象になっていきそうですがここでは心の出来事ですから、五感から来る見る聞く感じる等ばかりでなく、心の世界の五次元全体を指し、心のどんなものでも現す言葉となる以前の心象です。

イメージそのものの解明は脳内科学や心理学の分野ですがフトマニ言霊学ではその発生は先天からタトヨツテの過程にあり、そしてヤのイメージとなりそれが言葉と結ばれていく流れとなっています。イメージが頭脳内で何と結ばれるのかは現代科学で解明中で、電気信号科学物質交換等まだ分かっていないようです。それでも言葉現象となって意味内容を持ち社会で通用し合えるようになっているのは先天の言霊原理からきています。

ここで神名に吹き男・大屋毘古・風木津別の忍男と男性が並びます。男は父韻のことですから父韻機能の連続を見ることになります。

吹き男では選択を吹き付け、大屋(大矢)では選択されたものが大いなる構造物のまま吹き付け飛翔する矢となり、そして飛び交う矢には風と木(霊と体、主観と客観)が従い押し出されてくるというものです。何かをする時には何かをするというだけではなく、そこにはすることとすることの内容が押し出されてきます。しかしここのの段階では心象ですから明確な発音を伴った表現となっていません。その途中で心に出てきてしまう現象が夢となります。さらに進むと物象を求め言葉になる段階が続きます。

津島のユ ・ 温泉湯です。こんこんと湧き出てきます。何故か分けも分からず出てきます。夢のゆです。先天の中から選ばれた全体の構築物が湯のようにでてきます。

神名は風木津別之忍男神(かざもつわけのおしおのかみ)で、原文の註記に「木は音を用いる」とあるので「も」と読みます。「も」と読よまして藻ととると風も木(も)もゆらゆらのイメージを得ます。津は港で荷物の集荷所でその荷物内容がツーと動いていきます。風はゆらゆら霊魂、霊、主体のことでそれが固い木の体、客観実在に取りついて揺さぶります。固い木がふにゃふにゃと動き出します。前段の言霊ヤを受けて家屋のようなゆらゆらの構築物として動いて向かってきます。それでも主客、霊体のゆらゆらもはっきり分けられ(風木津別)つつも同じ構築物内で互いに心を造っているものです。

沸く湯水の場合には、水分と温度とに分けることができます。温度の恩恵だけを受けることも可能です。湯たんぽはその固定した使い方でどんどん沸くことは無く、温水暖房は熱湯の循環を使用します。分けることもできるし全体的でもあるし、継続して出てきてしまうのがユです。常に湧き出る注意力を断絶してしまうことを油断するといいます。この段階では心象イメージ形成中ですから油断は言葉にならないのです。

湯気のような選ばれた構築物はゆらゆらしていますが、霊主体と体客観の部分とは分けられています。しかし、それが一つのイメージでまとまっています。次から次へと出てきてユは流れますから今度はそれを見ていきます。まだ言葉と結ばれていない大きなゆらゆらな構築物はゆのように流れていくとはどういうことでしょうか。

津島のエ ・ フッと吹きかけたほんの一息が頭脳内のイメージ大構築物となりました。それには霊・意味内容・主観も客体・客観もともに備わっていますが、頭脳内のことで外へ出たことが無く社会的に通用するものではありません。大構築物とはいってももちろん物理的な構築物ではありませんが、そこから出てくる今後の意識の基盤となるものです。しかし頭脳内個人的なもので社会性を持つには物質的な形を持って一般性を得なければなりません。そこでイメージが物象となる経路が探され一般性が探されます。

エは海(わた)の神名は大綿津見の神です。海と名が付くので海洋の主催神にされていますが、意識上の相手となっている海です。海のような広い対象世界世間のことで、わたというのは、風木津別の忍男の行き先で、大屋毘古となった大事忍男が心象から物象へ変態するところです。風木の主客を物象化するために相手側に渡すことです。つまり渡された相手対象側にあるワ行ワイウエヲの全体世界(ワの田)をいいます。相手となるワ行が選択されてイメージが行き着く先は言葉となるための物象と結ばれる場所となります。これが江(河口にある江、川と海の境にあります)で、イメージを積んだ船がこの江に来てイメージを物象(言葉)に変換する巨大な集積基地というわけです。イメージ全体(タ)を言葉とするにはそれを渡(ワ)たして物象とし直すことが必要です。そのため選ばれたのがアカサタナハマヤラワのワ行です。ですのでここの「エ」は母音行のエではなく、ヤ行の「エ」です。Y+エのエで、父韻イ(Y)持続する働きの子音化となります。

夢。イメージが言葉となる江を選んで目指されない場合は、全て妄想沈没前後なしの夢ユメ(このあとの言霊の進行はユエケメ)となります。ヤのイメージの構築物はあってもその主客を江に渡すことができずに、ケの港で物象に変換変態できず言葉にならないまま現れてくるのがユメです。

ワタの語源が朝鮮とか南方とかあるようですが、それらとは関係なくまた海の古語というのでもなく、大和のスメラミコト達が心を酌んで創造した大和語です。

海(わた)の神名は綿津見の神の津も渡す意味ですから、ここでは「渡すことは大いに渡して渡し」明かになる(見)という意味になります。

綿(わた)とは渡(わた)す事で、橋を渡る例にとれば、まず橋を渡る全体イメージ(大屋毘古)があって、橋を渡る主客(霊と体)が渡り付く先をイメージして全体を動かし、渡り通った時に明らかに渡ったと分かり「渡る」という言葉ができます。

母音世界のエ次元と父韻とのまぐわいでは、母音エの性質(選択、按配、分配等)の世界から政治、道徳、統治に関する実践行動の智恵の世界が出てきます。エ段の子音テケメヘレネエセがマグアイの結果となりまろす。大綿津見は父韻イとの現象結果です。渡して明らかになるということですから、絵なども画布という海に渡して明らかになるものだし、いえ(家)、かえる(帰る)のエ等も、創造意志が何かに渡して、え(枝)を拡げる先を明らかにする意味合いを含んでいます。

途中でイメージを変えたり主体側や客体側が欠けたりすると向こうへ渡れませんが、イメージ(ユメ)だけならどんな形でも渡れるということになります。ですので次に言葉が組み込まれる過程がきます。

津島のケ ・ 津島のメ は妹背の関係で、みなとの神名ははやあきつ日子の神と妹はやあきつ比売で、ケ・気・霊・主体とメ・眼・客体・体側を分け持っています。

タトヨツテヤユエで先天構造は頭脳内でイメージや考えとして位置を占め、自らを形とって表現言葉となって外へ出そうとしていきます。個人の頭に言葉が宿りますがその相手は言葉を話す世界中の人であるばかりでなく、言葉が示す宇宙全体でもあります。たった一個の狭い頭が宇宙同等になるところです。津島の領域を天の狭手依比売(さでよりひめ)と呼んでいます。津島は渡し場のことで先天からイメージへ、イメージから言葉へ渡るところです。出てくる言葉からすれば手さぐりするように一つの考えにまとめられてきますが、その霊・体全部を内包してはいても形となる言葉がまだありません。そこで秘め(比売・姫)られたままというわけです。

みなと(水戸)の神名ははや(速)あきつ(秋津)日子の神と妹はやあきつ比売の二神です。水戸は港でイメージの集積所であり、言葉へ渡す船の発着所です。(伊勢の天照らすの鏡は船の上に乗っています。鏡の下に秘められているのが心柱で象徴される心の五次元世界で、イエウオアの五分の二のイエの部分が地下に突き刺さっています。)

はやあきつとは速やかに明らかに渡すということですが、このイメージが言葉へ変態する様子を脳内科学者も見たことは無いでしょう。スメラミコトでされ驚くほどの速さで渡されるので速(はや)といったのでしょう。イメージはあっても言葉に渡されないと、エーエーエーアーアーアーしかでてきません。

はやあきつ日子の言霊はケで毛一筋の狭さが後の全ての元となっています。それを霊にとれば気(ケ)となり、ほんの集約された一点が大本となります。注意一秒ケガ一生、早とちりや先入観等がとっさに形成されることの速や明き津の瞬間を譬える言葉は多くあります。もちろんそのお蔭で、とっさの判断ができ受け答えができるということにもなります。

では言葉にあるケ(気、霊)の一点の大本とは何かといえば、イメージが渡されて成る名前、名付けです。名は体を現すですが体とはその宇宙の実相から来る名が本質を示しているという心魂です。名を付けて名の持つ意味内容で体を現すのではなく、名そのものが体を現す関係のことです。名が示す内容を示すだけなら付け足したり引いたり解釈を変えたりすればいいことです。ところが大和の言葉はそういった指示形容する言語ではなく、名が実相そのものを現す言語となっています。そうでなければ、毛一筋が体全体を現すなどとは言えません。

そこで水戸(みなと)は御名の戸で尊い名の戸は、はや(速)は葉矢で言葉の構築物の矢・屋のように、主客ともども明らか(秋)に渡される(津)主体の働き(日子)とそこに言葉となることが秘められている(比売)となります。

こうしてイメージは毛一筋の頭のように集約されていますが、俊足の頭脳内経過で言葉へわたされます。

そこで渡されるものが秘めているのが発芽のメ(妹速秋津比売)です。

芽が発芽すれば芽の次元を超えるようにここで言霊循環も、津島の渡す領域を出て次の佐渡の島へ渡ります。

クムスルソセホヘが該当した言霊循環になります。言葉が了解されて完了するまでは次の島を通過しなければならないので、ここでも渡すという言葉が使われていますが、先天から渡すことが主たる目的であったのが、佐渡の佐と助けるという意味を持つ言葉に変わっています。早速追体験しに行きましょう。

佐渡の島へ。

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