【天地の初発(はじめ)の時】3.

≪高天原へ≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

ものごとを解説したいという下心を持っていると、いくら経っても解説した満足に到達しません。未だに冒頭の一句から出ることが出来ません。

言葉が言葉を生み、解説が解説を生み、アイデアがアイデアを生んで留まることがないためです。結局知っていることを全部白状すれば、それ以上は頭の中に何も無くなりますから、それで終りです。

その終りに各人なりの満足とか、自負心とか、不安とか、さらなる闘争心とか等々が出来上がれば一段落となります。

別の意見や新しい発見があると、各人の隠し持っていた感情に応じて、他の主張に対応していきます。その基本は、知っていることしか知らないという次元からですから、自分の過去概念、記憶知識との格闘になっていきます。

論争好きなら論争へ、謙虚なら受け入れへ、等と自分の得ている知っている同調できる反論できる範囲内での反応が始まります。

もちろん、一気に解説を終わることもできます。意志の変化を基本として、感情の変化、知識の変化、選択の変化があるようなときです。

それぞれプラスマイナスの方向へ行きますが、感情と知識次元では自己主張をした後でのことになります。選択の変化の場合には自己主張には関心が無くなっています。

このように始めといっても、継続といっても、中止といっても様々でそれぞれが始めの形をもっています。

そこで古事記の冒頭のいうことを聞けば、そこでは、

『 天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、 天の御中主(みなかぬし)の神。 【 言霊 ウ】 』

というのを見いだします。

「天地」は「阿米都知(あめつち)」で、「あ・め・つ・ち」で「アの芽が地に着く」です。

これは、上に記した解説する心の始めの、欲望、知識、感情、選択の、始めと継続と中止等々の心の動きの全体に対応したものです。この場合の全体を、言霊アとします。このように全体を指すことができる以前があるという、書き出しです。

この全体からお気に入りとして、しゃべり書くのがそれぞれ各人の記録作品ですが、そういった個々のものとしてでなく、全体として成りませるものがあるというのが冒頭の句です。

どこにあるのか。頭の中にです。記憶にです。意識にです。またそれらを表現できる物象である文字や言葉や絵などにです。この単なる頭の記憶に残るということではなく、その表象する場所もひっくるめて記された言葉が「 高天原、たかあまのはら」です。

どこかの高原地帯のイメージですが、この原という物象のイメージを含んだ精神意識のことです。心理学のように精神頭脳内のこととすると単なる脳内物理学となります。精神意識だけしか見なければ、観念論になります。

実際は高天原という心身、霊体、主体と客体の統一されている場所のことです。

高天原は記憶の場所であり、記憶の表現される場所でもあり、記憶が向かうあるいは記憶が出てくる場所でもあります。

記憶だ記憶だといっていると頭脳の働きのことのようですが、高天原というのは頭脳の働き以前にもある場所です。古事記でいう高天原は直接に頭脳を指しているだけではありません。

ヒントは「高天原」、たかあまのはら、たの・かの・あの・まの・はら、にあります。当て漢字をすれば、田の、火陽のように明かな、アの間の原、ということです。

原は拡げられた原理図、五十音図のことです。

田は古事記の冒頭の一連の百神のことです。カグツチまでが五十、スサノオまでが次の五十です。この百神がきっちりかっきり整然と並んで機能している構図を指します。

苗の間隔を空けることが収穫増になることから来たものです。その譬喩を用いて、この苗と苗との間の空間に含まれている、つまり、た・か・あ・ま・のことで、言葉は一つの連続で、一塊のように見えますが、実はその一つ一つが単音要素となっていて、その単音要素間が連絡していなければなりません。この単音と単音の間の連絡の秘密をいったものです。

その象徴が前半五十神、カグツチまでの言霊要素(五十音)とスサノウまでの後半五十神の運用要素(五十)になっているのです。世界最深奥の事実です。この最深奥の事実の発見から世界歴史が始まったのです。

人間意識の謎を解明したもので、大和の日本語はこの解明された人間意識の構造に基づいて作られた、完璧な人造言語体系で世界に類をみないものなのです。比較言語学は大和の日本語に適応できません。

この構造に基づいて行政を行なう人が世界政朝の長となるスメラミコトです。スメラミコトが学ぶ学問がフトマニ言霊学です。つまり古事記の冒頭の学問です。

古代にはスメラミコトの元に世界が運用されていました。その運用原理であるフトマニ言霊学に基づいて、世界中から訪れた異人達に世界史上の運営分担を与えていました。スメラミコトがモーゼに与えた経綸、釈迦に与えた経綸、等です。

闘争力で世界を従えるだけなら、奴隷がいればいいだけですが、奴隷の活用運用分野では別の能力が要ります。日々の変化のない再生産から産業経済の発展には相応の思想基盤が要ります。

動物次元の再生産から人間次元の産業生産までには、その間に介在した何ものかがあります。その中間を飛び越えないと、ニューギニアとかアマゾンの原住民に留まることになります。

この間を越え渡ることを、アの芽が地に着く(あめつち)と言い、田の、火陽のように明かな、アの間の原(たかあまの原)で行なえ、あるいは、その原を利用しろ、となります。

間というのは、何もしない無時間、空間の間のことではなく、話すこと書くことすること成すことの相手対象に行き着く途中の間のことです。対岸に行く橋のことです。

速い話人生はこの間を渡ることで、空無から生、そして空無へ渡ることです。人生がそんな調子ですから、人の成すこと全ても同じことです。人生とは間を渡ること、考えることも感じることも、皆同じです。

人生は人が生きると書き、ひとは一(ひ)十(と)のことです。生きるは、五切るで、切るというのは判断すること。一から十を用いて五つの次元を判断するのが、人という意味です。あいうえお五十音図の横十列、縦五段の全部のことです。

霊止(ひと)というのをよく見かけますが霊止は、ホト、で女陰ことです。霊止が生きるでは、人がいきるとするにはちょっと苦しい説明です。また、霊が留まるとしてしまうと、人そのものが霊であるということが無くなります。草木石ころにも霊は留まるとなると、石ころは人、霊止ですか、となる。

たかあま原のあに、あめつちを合体させて、た・か・あ・め・つ・ち・ま・の原を、作って解釈しても内容は変わりません。たかまの原と、たかあまの原と、たかあめつちの間の原と同じことです。

こういった書き方は宣伝文みたいなもので何か語ったものではありません。書く本人が理解していません。この間と言うのが曲者なのです。

マというのは心の動きからすれば、相手側に到達する直前に相手側にそれを受け入れられるかどうかの迷いを指します。巻く、混ぜる、丸める、等。

心のマの動きを自由自在に運用できることが、心の完成に近づくことで、アの芽が地に着いて(あめつち)、アの間が明確に照らされると、あまてらす(天照大神)になります。

こうしてアの心で始まって、アの心を得るようになります。

あめつちのアを巡って埒が開きません。実はアの言霊はタカミムスビに配当されていて、ここで書くにはまだ速いのですが、知識概念で書くとこんな調子になってしまいます。いつか意味のある文章になるかもしれないという期待で書いています。

つまり今書いていることはみんな駄目ということです。知的に何か主張できるものがありそうですが、知的な真実であっても、人生の真実となっていません。後出しでこんなこと書いて済みませんね。こんな調子でまだ続きます。

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≪初発の時。はじめ。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

始めのことを言って、始めの始めのそのまた始め、を言わないというのはおかしなことです。宇宙はビッグバンからといいますが、それ以前を探しています。宇宙物理学者も証拠が見つかるまでは恥ずかしいので言わないだけです。

物質の始めを求めて原子を想定していた古代の思想は、現実に原子が発見されてしまい、その途端に、そのまた始めは何か何かで、現在はどこまでいったのでしょうか。何かグルグル回す凄い器械があるそうです。

自分は母親から出てきて、母親もその始めがあって、という具合に始めとは相対的なことで、どこかで思考停止した時に絶対者が出てきます。最初から停止しているなら、そこから始めるしかないでしょう。

古事記では初発の時というだけです。相対的だとか絶対的だとかは言いません。今までの解釈上は最初に登場する天の御中主も絶対神のような扱いをされていますが、彼の声を聞いた人はいませんし、見た人もいません。あれこれ文献にでてきても説明されていませんから、人間側が勝手に都合よく考えたものです。

ビッグバンとか原子とか絶対者、神とかはそのように想定せざるを得ない人間側の問題で、人間側がその証拠を見いだすまで生き続けます。幸いに神さんは誰もその証拠を見いだせないので、神の始めの始めはなどと、問われないのです。

ですので古事記は、かしこくも、相対的であろうと絶対的であろうと、もし人間がはじめのことを考えるのなら、こういうことになると解明してくれています。初めというのは何かが 『 成りませる 』ことです。そこで今回は、「はじめ」、を扱ってみましょう。

古事記伝の扱い。

「 ○「初發之時」は「はじめのとき」と読む。

万葉巻二【二十七丁】(167)に、「天地之初時之(あめつちのはじめのときし)云々」、同巻十【三十二丁】(2089)に「乾坤之初時従(あめつちのはじめのときゆ)云々」、また書紀の孝徳の巻に「與2天地之初1(アメツチのハジメより)云々」などがあり、これらが「あめつちのはじめ」が古言だという証拠である。

ここに「発」の字を連ねてあるが、同じく初めという意味である。【字書に「発は起なり」と注がある。】事の初めを起こりとも言い、俗に初発(しょはつ)というのも、いにしえから「はじめ」と言うのに、この二文字を使い慣れていたからであろう。

【「初發」を「はじめてヒラクル」と読むのは間違いである。それはいわゆる「開闢」の意味に取り違えたのだ。天地がヒラクというのは、漢籍の言い方であって、我が国の古言ではない。上代には、戸などであればヒラクと言ったが、その他は花などもサクと言って、ヒラクとは言わなかった。

だから万葉集にも「天地のわかれし時」という例はあるが、「ひらけし時」と言う例はひとつもない。】このように「天地之初發」と言ったのは、単にこの世【仏教書には「世界」とあり、俗人もよく同様に言う。】の始めを大まかに言ったもので、必ずしも天地の発生を言っているのではない。天地の始めは、次の文にあるからである。」。ここまで。

せっかく宣長さんが解説してくれたのに、わたしの文庫本は「初めて発(ひら)けし時」になっている。まぁ、学者なんて、昔の見解を越えようとするするだけで真実とか真理とかではなく、主張とアイデアを出すことに関心があるのでしょう。いろいろ出てきたからといってそのなかに本物があるとは限らないのです。

一応、人真似しない、自分の頭でということでしょうが、文献めくって探し求めて整理して、推測してアイデアを出しても、自分の主張になって、相手を乗り越えても真理を得たことにはなりません。

いずれにしても、辞書を引いても、初めははじめである、としか語っていません。発音、文字表記なりがそのまま意味内容であるのは不思議なことです。仏教用語など無数の解説をしてもまだどこにも到達できないのです。お日様が昇った後の蝋燭の燈火というのもうなずけます。

ここで、そんならお前やって見ろ、と誰かに喧嘩を売られたいところですが、わたしみたいなものを相手にしなくとも、各人、ご自身が、数千年間の大和言葉を背負っているのを見直せばいだけのことです。

今回は聞きかじりで「はじめ」を語ってみましょう。馬鹿の一つ覚えのようにいけばいいのですが。

はじめは、はしの芽で、端の芽、橋の芽、ハのシのメ、です。

時間でいえば今、空間でいえばココです。

時間と空間が一緒に現れた者として、各人それぞれが、いまここ、いまそこにそれぞれいることです。

宇宙の初めなら何億年のもっと何億年ものことでしょう。宇宙形成はいろんな人が考えています。いずれにしても空間の大きさという概念の中にいますから、考えられた宇宙形成以前のことも秘密裏に思っていることでしょう。われわれは、ぱらぱらと調べて記憶している知識が宇宙の始まりです。

昨日読んだ本にはああだった、今日はこう書いてあった、さっきのテレビではこう言っていたで、つまるところ、その時その時の概念知識が宇宙の始まりです。その人の知識を得たときが、宇宙の始まりで、それい上のことは説明できず、明日になればコロリと変り、明日の今時分の知識での宇宙の始まりとなります。

馬鹿いうな、人の概念などに係わり無く宇宙はあるのだとい人も、それを説明することはできません。その人の最強最善最新の説明知識も、せいぜい今という時間以前の概念でしかないからです。明日の命など誰も保証してくれません。

数十年前は遠い星が見つかるたびに宇宙の年齢はこうだと言われました。何年前に光が届いたというだけのことですから、まだ光の届いていない星もあるのです。光で観測できるのがビッグバンの137億年前というだけで、人間には光以上の観測器械がまだないというだけのことです。

ちょうどこのことは人間の知識にも当てはまります。知識は最新の者ほど良質精密になりますから、それを獲得する経験が最近のものほと良いものだという傾向にあります。

ところが知識は過去の上にしか築けません。過去の知識を飛び越しますと、ただの推測概念、おとぎ話、科学的予想とかになります。つまり知識はゼノンの詭弁のように現在を越えることはできないのです。

つまり知識にとってのはじめとは無限に今に近づいたところにあります。

欲望をみてみましょう。面白いことに欲望には過去がありません。過去の欲望とは記憶のことです。欲望のことではありません。同様に欲望には未来がありません。明日のお昼もお腹が減って何か食べたくなるだろうげれど、その推量は欲望ではありません。

欲望は未来向かって持続していく限りつづきますが、過去に戻ることも、現在を飛び越えることも、未来で待つこともできません。

欲望にとってのはじめとはいまのここのことです。

さらに別の形がまだあります。選択按配すること、感情情動の世界と、創造意志の世界です。これらの、知識、欲望、選択、感情、意志の世界は全部別別の構造を持ったもので、後の、母音アイウエオの項目で語られます。

ここではこれら五つの人間性能を統轄的に述べている「初発(はじめ)のとき」を続けます。

人とは何かの概略。

欲望、過去無し、今のみ、、、、、未来無し、結論目的は完結しない 、、、、、、、(言霊ウ)

知識、過去有り、過去から今、、、未来無し、結論目的は完結しない 、、、、、、、(言霊オ)

感情、過去有り、今から続く、、、、未来有り、結論目的の提示のみで完結しない (言霊ア)

選択、過去無し、今において続く、未来有り、結論目的は完結する 、、、、、、、、、(言霊エ)

意志、過去有り、今、今、今、、、未来有り、結論目的は完結し常に働く 、、、、、、(言霊イ)

〇はじめ。

はじめは、はしの芽で、端の芽、橋の芽、ハのシのメ、です。

時間でいえば今、空間でいえばココです。

時間と空間が一緒に現れた者として、各人それぞれが、いまここ、いまそこにそれぞれいることです。

「は」は心的な事象の先端が出てきて、物象となるところ。

「し」は心の中心にまとめられていく。

「め」はイメージが言葉に組まれる直前の集約された姿のことです。明らかにイメージとしてまとまったものの体、客体方面。

全部で、今ここで生きている(五(い)きる)人の判断内容が主体的な心に何かが始まろうとする時で、心的事象が表面にでてきて他の物象と結ばれようとされ、それが心の中心に静まり治まって、集約された形になっていること、を指します。

人間の内面に何かの現象が始まろうとする時、という事です。それは主体的な心に何かが始まろうとする時です。それは「今」です。心の宇宙の「はじめ」とは、心の宇宙の中で何事かが起ろうとしている時の事であり、それは常に「今」であり、その処は常に「此処」であるということです。

上に橋の芽とあります。端、ならいいですが、何故橋かと?が着いたのではないかと思われます。この場合は主体的事象の初めの動きを指していて、橋の初めは土手、岸です。橋は中に浮かんでいるわけではないので、橋を渡る主体は土手に立ちます。

また、橋は心が相手対象を結ぶものです。その橋の入り口です。古事記にはよく橋のことが出てきます。というより、神代の巻きとはこの橋の説明といってもいいくらいです。心の動き方の象徴です。

高天原というのも実は橋のことです。天と地を結ぶということで、主体と客体、母音列と半母音列を結ぶことです。橋の内容はウヒヂニ以下八神のことです。

次段オノゴロでは直接橋といっています。次いで、八尋殿といい、まぐあいとは橋を渡る行為で、象徴数字で八ですから、八に関するものは全て橋(ウヒヂニ以下八神)のことです。上巻最後は、八尋ワニになります。

要するに心はその始めになる以前に橋、八尋殿、八尋ワニを通過する、心になるときも、心の現象を産むときも同じということです。

ですので、

『 天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は 天の御中主(みなかぬし)の神。』 となって、

ミナカヌシのはじめに高天原が有り、ミナカヌシが初めの神になるのです。

土手に主体が立ったときが初めですから、そこに絶対神を立てたらそれが始めになりますが、意識構造からすれば、その絶対神も橋を渡って来たものだということです。絶対神が橋を作ったのではありません。

では、はじめのはじめは何かというと、はじめを天の御中主としてその、御中主が渡ってくる以前です。

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≪はじめのはじめ。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

はじめのはじめ、とは一見ふざけた言い方ですが、はじめとは相対的なものだからどの分野にもあります。信仰のように絶対神がいるとか、宇宙はビッグバンから始まっているとかいう場合には、べつにそれ以前を考えることもありません。

はじめとは相対的なものですから、はじめのはじめといっても、またそのはじめといっても、内容は同じです。ですので≪はじめのはじめ≫を≪はじめ≫として考えてみます。結局はじめのはじめとははじめのことになります。ここでは心のはじめを取り上げてみます。

心のはじめといえば、何もない心というところに何かが、何と言われることも無しに、起きてくる、そのはじめを指します。見てしまった聞いてしまった、感じてしまった考えてしまった、そういった現象として与えられたものを、一切捨象したそのはじめです。

どんな例でも構いません。心のはじめを想定してください。あるいは実際に何かを始めてみてください。パソコンを起動するでも構いません。そのはじめに心を向けます。眼をつぶって最初に見たものを認識するでもいいです。ただし、現象として意識したものをどんどん剥ぎ取っていきます。

〇はじめのはじめ

心の中に何かをしようとという胎動が起きます。それはそのままわたしが起こした胎動であり、何かへ向かう胎動になっていきます。(あのめがちにつく)

また、胎動はあってもその胎動がどうなるのかまだ知りません。(はじめのとき)

胎動が手の動きになるのか口の動きになるのか、何かを感じるのか考えるのか、始まる以前には何であるのか分かりません。 ただ人間としての何らかの意識行為となるのは確かです。(高天原)

このように何か分からないけれど、何かに突き動かされ、自分が何かを動かすものを持っていて、何かに向かう、一塊の全体的な心の動きを得ます。 (成りませる)

そのようなものを自分が保持している状態を名付けて、今ここ、今中、といい、ウという自覚的な意識の言霊ウとなります。(神の名(みな)は 天の御中主(みなかぬし)の神)

ここではまだ心の中になにもありませんが、何かが起きる胎動があります。つまり、各人は、わたしは、何かが起ころうとする時を創造しようとしています。この時は一連の持続の始まりになるものですが、その始まりの時を今といいます。

今というのは、い・ま、イの間、のことで、いざないいざなわれる、揺り動き揺すられ動く、うめきうごめく、場所ができたという意味です。はじめというのは今の創造でもあります。

そこで人は、はじめの今と、持続のはじめの今の二重の今を創造しつつ生きていきます。はじめの今はスナップ写真のように切り取られた今を表現しますが、持続のはじめの今をも同時に現していきます。しかしこれは不動か変動かの立場の違いです。実際はスナップ写真の切り取られた今は記憶に蓄積され、次に出てくるときの基盤になります。

時間の働くところが空間という場所です。それはどこかといえば、ここにしかありません。ここというのは自分が働いている場所です。自我を感じる場所となっています。

この今ここに全てが乗るのですが、はじめの胎動の今ですから、わたしという、あなたという自我があるわけではありません。まず始めに自我があるとか、個性があるとかではありません。胎動のはじめの上に自己が形成されていきます。

つまり自我の始まり=本体の自我は空でありゼロであり、赤ちゃんのいないいないばぁー、なのです。空もゼロも、真空とか絶対ゼロではなく、人の心にとっての空、ゼロのことです。空即是色の空であり、人(ひ・と、一・十)の生きる(い・きる、五・切る)ゼロのことです。

それは自我といわれる以前の、まずある本体の自我です。何もない空の自我が、わたしの自我なのです。運命交響曲のダダダダーーンと鳴り響く直前の一瞬間の沈黙であり、蛙飛び込む水の音の聞こえる以前の静寂であり、ご来光を拝しアーーーという歓声が出てくる直前の神々しさです。これらが本体の自我です。

では自我、自我、と自分が、あなたが、自慢する自我はどこにあるのでしょうか。それは本体の空の自我の上に乗った後から着け加わった、現象のごった煮の自我なのです。半煮え、生煮え、煮過ぎ、等々の個性となっていきます。

胎動のはじめによって、時間の今と場所のここと、それらが働く主体の自分がでてきます。次は相手を見つけ対象に向かうことです。

対象の無いはじめはありません。心の主体がうごめくとそこに、何だか分からないが、何となくした、後にあるいは直後に姿を現す何ものかを相手対象としていることに気付きます。

はじめの本体の何も無い自我のはじめがあります。何も無い自我ですから、相手を対象とするものも、特定するものも当初は持っていません。

相手という意識も無いのです。日常ではすぐにものを見相手を知ることができますが、ここでの話は、心のはじめのほんの一瞬を開示しているので、長たらしい文章になっています。しかし、このことを見逃すのが人間社会の全混乱の元ですから、確かに、一見馬鹿らしいことですが、ここをうまく通過して欲しいと思います。

自我が空であることは、相手がいると知っていることも空なのです。画面の文字が分かって読んでいるじゃないかいいますが、その読み始めに心を移動してください。はじめのはじめ、今の今、ここのここ、針の穴よりも小さなところを通過するのです。

自分が空なら相手がいることも知らないのですから相手も空です。分からないから分かったへ行くのではなく、分からないから分からないことが分かったへ行くのです。

分からないことが分かったとして、この分からないことを定立しないと、次に進めません。分からないことが分かったということになると、分からないという判断規範ができたこと地なるからです。そこで今度はこの分からないという判断規範に、新しい事象が乗るのです。

自分のうごめく胎動があるけれど、うごめき働きかける相手がいないと分かったことになります。

そうすると、今度はそこで、自分がうごめき続ける限り自分を明かし相手対象とむすばれようとしますから、自分側の主体的な動きがでてきます。

これがエランビタル、l'elan vital(生命のはずみ)、で、ベルクソンによって生命進化を説明するのに使われましたが、日常に存在している生命の創造活動の源です。ここでは心の主体のうごめきです。

この相手と結ばれようとする心の動きは、相手は何だか分からないという基盤の上で行なわれます。ここに出現するのが、主体に対する相手側、客体です。

注意してもらいたいのは、客体といっても、最初から自分の外にあるなんらかの物質対象であるのではありません。この段階では、自分の外の対象という意識はまだ発生していないのです。はじめのはじめの段階の話が続いていることをお忘れなく。

自我の空の段階で、その自我がうごめき働きかけて、相手は空であることを了解します。この了解さえうまくいけばしめたものです。

今だに何も無い空ですが、自他ともに空であることを判定する規範ができたことになります。ひとたびこの規範ができてしまえば、今度は空でないものは、有、色、の方向へ持っていけます。

しかしここで、相手側の空の世界に首をつっこむと黄泉の国に行くことなります。黄泉の国というのは死者の国だというのは、この千年間通用してきただけの解釈です。言霊学では、自分の片割れである客観世界に落ちることをいいます。片割れは自分という本体そのものの半分のほうのことです。

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≪はじめのゼロ≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

今回は、「 自我の空の段階で、その自我がうごめき働きかけて、相手は空であることを了解します。この了解さえうまくいけばしめたものです。」、というのを引き取って続けます。

どのようにはじめが空であることを了解したのかです。

はじめのはじめは空でしたが、はじめの胎動うごめきを内包していました。このうごめきが始まった途端に、自分が空であり、自分が向かう相手も空であることを知ったのです。この自他を知ったことが、また、新たな始まりとなります

この事情を述べているのが古事記では、国生みの最初に出てくる淡路の穂の先別の島です。アワ路というのはアイウエオ五十音図の母音側アから半母音側ワヰウヱヲへ渡る路で、穂の先別とは穂の元々出てくるところ、双葉の芽生え二股の松葉の根元のことで、一者が二者へ剖判していく(細胞分裂)ところの事情の島(しまり、領域)をさします。

他の文献には原初が天譲日狭霧国禅月国狭霧尊とあり、主体客体(天と国)が一体となっていてその霊と体(日と月)がゆすりゆすられ(譲と禅)朦朧とした(霧)狭い領域(狭)を統轄する神さんのことが述べられています。

全く見事な命名ですが、古事記には採用されませんでした。というのもこれは、はじめのはじめのはじめの類になってしまうので、はじめがきちんと説明されれば必要の無いことだからです。竹内文献にははじめのはじめのはじめの、、、、が載っています。

このことは言霊学を通してしか解明されません。無数の解釈はあってもご自由ですが、アイデアは真の解に向かいません。かといって言霊学を宣伝するわたしの解が正しいというのでもありません。各人の心が回答を寄せることです。

自分も相手も空ならそこからは何も産まれないはずです。しかし当初の直前の静寂、空、ゼロ、のときは、自分がゼロ、空であるにも係わらず次のことが進行していきます。

まず、自分がゼロ、空であることが分かるということが付け加わらなければ成りません。そのことで相手もゼロ、空であることを知ります。この統一的に自他ともにゼロ、空を知っていることから、自分が何か動きを始めようとするときには、自分以外のものを見ることができるようになります。

この動き始めようとすることは、前出の神さんの名前では譲と禅で共に、ゆずるです。ゆすりゆすられ、ゆりうごき揺り動かされる主体客体を、譲禅という漢字を借りて、ユズルと読ませて、胎動、うごめきを引き出すための暗喩で、漢字の意味はありません。古事記同様真の意味を隠したのです。

大和の古文献は全てこうなっています。何故隠したのかは歴史の、人類の歴史の解明となるものでいつか取り上げたい。急ぎのかたは、次へ。

http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/lecture/no201/no201.htm

(日本と世界の歴史 一~十四)

さて、穂の先別、松葉双葉の元は一つです。この一、二を生じるというのが、超秘密というか、何でもない日常のことですが、分かるようで分からないものです。

現象として一が二になると見てゆくと、全部の進行は分かるような気がします。スイッチを入れれば画面がでてきて、画面を見れば何か書いてあって、何かと見れば古事記と書いてある、というように連続しているようです。

ところがそれらをよく見ると、それらは自分のことではなく、変形された連続した物理現象なのです。力学的も作用点の移動による、電気信号の作用が発生して、科学処理された画面に燐点が発生して、、、、、等々というようにあくまでも物理作用の連続になっています。

そこには、気持ちや思いがあったはずですが、どこにも見えません。一が二になって、相手方は勝手な方へ行ってしまいます。このあっち側の世界が客観とです。または黄泉の国です。(ここの説明は後で)

そこで問題はそこに落ち込まないことです。主体を維持し持続していくことです。この原動力とそれが展開する時間場所が確保されねばなりません。それがゼロ、空、なのです。

やきもき、もどかしい言い方で申し訳ないのですが、持って回った言い方はわたし側の確信の無さの現れで、ここで一休みを入れないと、後はアイデアだけの観念になります。

一が二になるには、ヒフミヨイムナヤコトたり、を心に焼き付けることが必要です。ゼロからゼロへ行く方法、速い話が上巻の方法が心に確証されていないと、前に進めません。とはいっても、進む為の原典教科書ですから、進めるはずです。

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≪はじめの、道、みち。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

道は一を生じ、一は二を生じ、、、は、中国人も理解できません。それを書いた本人が言っていますから。もちろん解説者は無数にいますが。

読むのは簡単です。一と二と書いてあるだけで、すぐに分かった積りになれます。ですのでそのまま分かったと落着くこともできます。もともと数(数霊)を使用して書いたものですから、内容などなくていいのです。

思いが数の内容である一と二に合致していれば分かったつもりでいられます。易経にもでてきますが、分かった積りで書いているだけで、内容となっている思想はどこにも解説されていません。返って中華式では、道を謂うのは畏れ多いと敬遠されていきます。

何故、中国人にそのような癖が与えられたのでしょうか。古代から一般中国人は道を口にしないのです。道のことを口にしたがりません。権力との関係があるからで、大王さまのことは天が決める分野ということらしいです。要するに道の意味を知らないので誰も説けないのです。

それに引き換え大和人はすぐさま、道のことを言い出します。この人はあの人は、道にもとるなんて、うるさいくらいにいいます。この違いは大和と支那の根本にあるもので、世界史の始まりに関するものとなるのでょう。

〇 みち、道。

ちょっと寄り道して、道とは何かを。

ウィキを見たら、道のあること多いこと、びっくりです。でも全部出来あがったことの分類で、どこにも心の道がありません。

そこで哲学の道をみますと、老子によれば、道とは名付けることのできないものであり、ということで中国人にはお手上げです。

道というのは、言ったり来たりうろうろ戸惑ったりする道のりのことから、心の道のりのことです。

道、みち、三値、三置、の当て漢字。

古事記では、以下に出てきます。

『 かれその伊耶那美の命に号(なづ)けて黄泉津(よもつ)大神といふ。またその追ひ及(し)きしをもちて、道敷(ちしき)の大神といへり。またその黄泉の坂に塞れる石は、道反(ちかへし)の大神ともいひ、塞へます黄泉戸(よみど)の大神ともいふ。』

(道敷(ちしき)--妹伊耶那美の命が打ち立てた道理。道反(ちかへし)--道理の分岐点)

『 次に投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、 (26) 道の長乳歯(みちのながちは)の神。』 (道理の持続一連性)

『 次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、 (29) 道俣(ちまた)の神。』 (道理の分枝、分岐点)

あることに対して心は行ったり来たり通うのですが、その通うものが筆だったり弓だったり、抽象物だったりして、道の名称が変わっていきます。それの分類がウィキです。

では心そのものを取り上げると「心」の何が通うことになるのでしょうか。

哲学、宗教、芸技、社長道、等の道と付くほとんど大半の心は、知識の心です。

それと、味見道等、五感感覚から出てくる欲望の心です。

そして、選択、按配、行政、まつりごとの、選択の心です。

心はこの三つのどれかを背負い、あるいは全部を背負って、道々背負ったものを一つ一つ置いていきます。朝、駅までの道のりとは、あそこまで行って、あそこで曲がって、あの店先を見て、あのお寺の前を通って、桜の木を過ぎて、という風に心の記憶を一つ一つ置いていくと、みちになるのです。

『 次に投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、 (26) 道の長乳歯(みちのながちは)の神。』 (帯によってまとめられる、ものごとの連続性、乳歯のように一つ一つ出て、生えそろって長く連続した歯になる。)

『 次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、 (29) 道俣(ちまた)の神。』 (はかまのように二股の分岐点では、道の正否、陰陽、上下、前後、等の見極めが必要になる。)

人が一つ一つ置いていく心の分野は、欲望、知識、選択の三分野です。この三分野のそれぞれの値を検案し考慮して意識に乗せるのがみち、三値、で、それを一つ一つ置いて出来ていくものがみち、三置、で、そこから出てくるものが、一続きのつながりとなった道です。

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天地の初発のときを書き始めて長いこと経ちます。未だに冒頭にいるのですね。びしっといかないのは、わたしが「あめつち」についての悟りを得ていないからです。ネットを調べていろいろ仕入れていますが、言霊学以外の解釈は全て駄目なのは分かっているのですが、それを書いている本人が分かっていないから、読者は言霊学は駄目と思っていることでしょう。

知識の伝達というのはそんなもので、真理だけが伝わるということはなく、悪も極悪も駄目駄目もお気に入りで伝わっていくものです。間違っていようと千年の歴史があろうと、真実が積み重なってきているわけじゃありません。

それぞれが最後に笑うのは俺だなんて、面白い構図の中にいます。手っ取り早く結果が欲しいひとは論争がいいでしょう。事実だ真理だなんて口にしていますが、本人だけが言っていて、本人はそのつもりですから、そのままにやらせておくしかありません。

それでもそういった連中が権力を握って言論を統一しようとすることもあります。いつの歴史もそうでしょう。現代は民主主義ということで言論の自由で何でもいえますが、好きなように言わせるだけで、表面化できないようになっています。

ブログなども意見主張はできても表面化させない仕掛けです。ところが時代の動きは早くなり、こんどは、表面化させてしまって先取りしようというのが、ツイッターです。ツイッターによる革命が出来たように見えていますが、その国単位で見たときそう見えるだけで、地域、世界単位で見れば必要なことが起こされている、利用されている、と見えるでしょう。

話が逸れているようですが、道は一を生じ、から見ていくと、道はまた一へ戻る過程にあるのでしょう。しかし、いつまでも、一だ二だと言ってないで実体に突入したいです。

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≪はじめの突破口≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

さて、道は一を生じ、一が二へ行くその実体は、

天の御中主(みなかぬし)の神 【 言霊 ウ】が、高御産巣日(たかみむすび)の神【 言霊 ア】と、 神産巣日(かみむすび)の神【 言霊 ワ】に剖判することです。

別に言えば、言霊アから言霊ワへの路を辿ろうとする穂の先っぽが分かれて出てくることで、淡路の穂の先別の領域を作ることです。

卵の細胞分裂のし始めのことですが、心の内に起こることです。心そのものの細胞分裂、剖判、を確認することです。

神道というのは言霊学の表徴になったものですから、元を質せばどんなことでも、冒頭の三神になるものです。その変り抽象度が上がって実質、実体が見えなくなっていきます。

言霊学を受け入れてしまえば、説明をするまでもなく簡明なことです。その反対に他の方向に意識が向いている場合には、説明しても分からないし、分かっても受け入れません。

このようなことを思ってると、結局、わたしなどが解説していることは、まるで意味のないことになってきます。せいぜい知的な好奇心を突つくぐらいのことです。

知的に受け取れば知的な反応しかでてきませんから、一が二へは御中主が高御産巣日と神産巣日とか、淡路の穂の先別だといっても、それぞれの記憶概念に頼ってそうかそうじゃないとかということになるだけです。

知的な理解、正否どちらにしろ、に達しても、心での理解にはなりません。説得する側はこれが真実だと声を張り上げ、罵倒してでも要求してきます。しかし、こんな真実のない態度の言葉には真実はありません。ただ、概念としては真実だと主張できているだけです。

心も態度も概念も全部が真実でなければ、ただの主張です。しかし、それだけでは充分でありません。立派な方の立派な正しい主張があっても、受け入れられないことがあります。そこには宗教的とも言われる経験、確信があってもです。

ここまでくると、猫に小判、馬の耳に念仏で、縁なきものはという放棄宣言になってしまいます。悟ったといわれる坊主たちが何もせず、何もできず、放って置かれることになります。

また逆に、政治、宗教とかの世界には正しいことを言ったから人が付いてきたということにはなりません。ウソごまかし法螺張ったりでも、いくらでも政治家の後につき、教祖を持ち上げる人はいます。人を導くのは真実からでなくともいいのです。

そういった奴らは死に際が悪いなどと言っても、もう三千年同じことを繰り返しています。 そんなことなら、つきない論争に明け暮れていても、興味関心を常に喚起していくるだからいいようにみえます。こうして、研究と知識と記憶量の大小を競う世界に舞い戻ってきてしまいます。

さあ、古事記の冒頭を利用してここを突破しなくてはなりません。

取り敢えずはまともに真実であることだけは語ることにしましょう。もちろんそれだけでは足りません。態度も心も立派になりましょう。それでも、まだ誰も納得させることができません。

ここがはじまりです。

欲望と知識の世界はことが簡単です。欲しがるものを与え、客観的に検証して再創造できればいいのだけです。ところが宗教と政治の世界は検証する対象がそく見つかりません。

信仰に関しては個人を自由にできないので、信仰の自由を与えて放っておきます。選択按配をこととする政治は、希望と予測の実現が全部未来のことですから、プラスとマイナスと量方面を言うだけは言っておき責任回避の予防線造りがまず第一です。

まともなことの内容とはこういったことでしょう。

言霊学を勉強しているのに突破口が見いだせないなんて、そんなはずじゃないのに、なんていうことですか。

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≪心のはじめの輪≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

古事記は人気が無いし、天皇の系統の権威付けのための歴史、神話という見解が支配的ですから、古事記の名を出すとたちまち、つぎ !、ということになり、古事記に関心のある方も、古事記は心の原論だなどといったら、そういった見地も、解釈もあるのかで、後は忘れて元に戻るわけです。

いっそのこと古事記とか言わず、神の名も一切使わず、現代文ですいすい表現できればいいのですが、そこまで読み込んでいません。

そんな枝葉末節なことで心配せずに、皇室の御賢所にある、アイウエオの言霊と古事記の神名との対応を書いてある秘本を公開すれば、世界の歴史と、人々の心はころっと変わります。核兵器も戦争もすぐに無くなります。

民主主義みたいな数による騙しあいでの権力支配などすぐに廃止されるでしょう。日本国憲法みたいな世界の中の一国という意識が不要ですから、憲法も廃止されるでしょう。世界を導き運用する方法が憲法代わりになるでしょう。

形而下的にはこのようなことが言える時代です。産業経済金融界、通信運輸交通界では、世界統一の最後の詰めの段階です。世界制覇を悪者側がやっているように理解することがあります。

例えそうであっても、悪人たちに世界を統一させたら、その後の仕事はもう彼らにはないのです。制覇のための思想も努力も行為も全て不要になってしまい、今後の運用に関する智恵を持たないのですから。

なにしろもう、蹴倒す相手がいなくては、今まで何てことをしてきたのだと、あまりの退屈さに気が違うことでしょう。そこでそこから後の、全く違う世界の運用原理が必要となります。ここからがスメラミコトを頂点とした大和の出番です。

古事記とはそれだけの内容があるのにもったいないことです。洗礼者ヨハネも、もっとたくさんでてくる時期です。大和日本では、伝統、行事、祭儀、天皇、神道、など全てが洗礼者ヨハネの役割をもっています。

ときには、菅原道真とか日蓮とかが出てきて、フトマニ学を暗示したり、神がかりを降ろして指示したり、古文献を発見させたり、神示を書かせたりしています。わたしみたいなものにブログを書かせるのもそういったことでしょうかね。

フトマニ言霊学は全世界の運用に関するスメラミコトの為の学問というのが、まず第一です。その内容は心の運用原論ですから、同時に、全人類の為のものです。しかし、学問を知って知識を得ても、運用はできません。

運用にともなう最低の条件がなければなりません。それが日本語を話して、アイウエオ五十音図を知っているということです。五十音図は江戸時代の作どころか、五千年前以上から世界のフトマニ運用の原図として用いられていました。三種の神器のヤタノ鏡もスメラミコトが使用するアイウエオ五十音図のことです。運用規範を照らすということです。

日本以外の他国語には、五十音図の構造がありません。頭は言葉の体系を使用して動いていきます。言葉の体系に無いものは頭に無いし、考えられないのです。つまり、おつむの働きが五十音図どおりに行かないのです。

西洋はABCと始まります。何がABCなのかといったら、何にもありません。契約によってAはこう、Bはこうと決めていくだけです。中国は一つ一つの漢字に意味があって独立してバラバラです。それがそのまま中国人の在り方です。

大和日本はというとアイウエオ五十音図の国です。常に主体の母音行から始まって、常に相手のことを思って客体側のワ行へ渡っていこうとします。アワ路です。輪の国です。古事記のことです。

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≪意訳。天地の初発(はじめ)の時≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

冒頭の意訳に原文をはめ込んでみます。

神代の巻きは五十音図の解説ですから、五十音図を用意してください。あいうえお五十音図が、日本の秘密だなんて、小学校の時からみんなが知っていながら、誰も知らない、どんでん返しというのはこのように用意されているのです。

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心[ア]の萌芽[メ]の全体が始めて芽生えようとして相手対象に結ばれようとする[ツチ]、

その端緒[ハシ]が見え初め[メ]の時があります。

心には、心のアイウエオ五十音図の言語規範の全体[タ]があり、それが明かに[か]心の[ア]連結を探り[ま]示す心の宇宙の場所[原]というものもあります。

その時空に命名された実体現象として[ナ]成り出てくるものがあり[リマセル]、

それは、明かに[カ]現れてきた[ミ]もので、その実体現象[ミ]に名付けられた[ナ]ものは、

先天的に躍動する[天の]自分の心をはっきりさせたい[御中]と思う自分の心そのもの[主]です。

その心の実体はうずうずうごめき、自分の心の中心で心全体の主となっていて、自らを表明しようと自分自身と自分の結びつく相手とを同時に内包している主体側の胎動となっています。[天の御中主(みなかぬし)の神。【 言霊 ウ】。]

その心が動きだすと、

心の全体性[タ]は相手対象側とかみ合い[カミ]結ばれようとする[ムスビ]主体の働きと、[高御産巣日(たかみむすび)の神。 【 言霊 ア】 ]

と、

心の主体が相手対象側にかみ合い[カミ]結ばれて[ムスビ]出来てくる状態に、[ 神産巣日(かみむすび)の神。【 言霊 ワ】 ]

分かれます。

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『 天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は

天の御中主(みなかぬし)の神。』

『 次に 高御産巣日(たかみむすび)の神。次に 神産巣日(かみむすび)の神。』

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分かりづらいですね。

でも、これは古事記ではない、などと言わないでくださいね。

今まで古事記と思っていたものを捨ててもらうものですから、訳がまずい、下手くそだというのは同意しますが、古事記ではないというのには同意しかねます。

ここから話が始まるのですが、いつまでもぐずぐず踏ん切りがつかないのは、まだ迷いがあるからです。

千年以上も固定した常識をそれでは駄目だというつもりですから、知識以上に決心が要ります。

決心するというのは神が味方をしてくれることです。その味方がまだ到着しないのでびびっているのです。つまり、神、カミ、というのは、明かに[カ]現れてきたものを見る[ミ]ことに繋がっていますが、その経験が味方をしてくれないのです。

真夏の太陽を肉眼でカーッと見るような経験が無いのです。もちろんカの経験は真夏の太陽に限りません。不明ではっきり判断できないことにしても、その不明さ加減によっては匙を投げ出し、自分を放棄して何かに頼ることもあります。そういった自分の不明さをはっきり知る、そういった、カーッというのもあります。

また、もしそこでカッとはっきりしたものを見ても、個人のことでしかないのなら、いままでと何も変りはありません。単なる個人の特殊経験をみせびらかしたところで、古事記のフトマニ思想には届きません。

神をカーッと見る人と、全然全く否定する人とがいても、その各人がはっきりしした態度を取ることには変りはないのです。両者とも、いる、と言おうと言うまいと、明瞭に個人レベルの経験があるのです。

そういった個人レベルでいるとかいないとか言っていると、二人が向き合ってときには、互いに理解し合うことができず、互いに相手を否定するか無視するか、腕力を用いるか、個人の中に引っ込むか、になります。神経験があっても、職業としていても、同じようなことをしています。

肯定する仕方も否定する仕方も同じですから、表面上の違いがあっち向きとこっち向きとで、百八十度違っていても、上から見れば同じことをしています。

この単なる個人レベルで語る神さんのお話しは、多くのブログがあったり教祖がいたりします。御告げを言われるままに記録しているというのもあります。いずれにしても、他の世界があるのを無視して、その世界を背負う力量はありません。相手を理解し得ず、他の世界に向かう眼を持たないと、時には酷いことがおきます。

真夏の太陽をカーッと見る、神との巡り合いとの経験があったところで、あるいは無くても、別に大したことはありません。それらの経験無しでも信仰し全的な信頼を寄て生命を捧げることもあります。

このように経験知識の上にある世界の前には、あれやこれや言うことなどは些細なことです。が同様に、個人レベルの上位世界の経験があるといっても、単にそれだけのものです。結局どのような形であれ、その人の心であるアの芽が地に着くだけです。

わたしに関しては、わたしにはこの単なる表面上の違いでイエス、ノーを言う意識を乗り越える経験がまだ来ないということです。神経験も無いし、信仰にこころを捧げることもありません。

ですが、ここに、心というアの芽が地に着くことをそのものとして、取り挙げていくことができるでしょう。心の、意識の、精神宇宙の問題としてそのものが主題となります。心そのものが問題なら誰にとっても、平等でしょう。

現象のあれこれを取り上げるのではありませんから、そこにあるのは自分の心のあれこれです。現象は現象として客観的にやってもらえればいいのです。

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