3.イハサクからクラミツハまで。

3.イハサクからクラミツハまで

ここに伊耶那岐の命、御佩(みはか)せる十拳の剣を抜きて、その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき。

ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、

石柝(いはさく)の神。次に

根柝(ねさく)の神。次に

石筒(いはつつ)の男(を)の神。

次に御刀の本に著ける血も、湯津石村(ゆずいはむら)に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、

甕速日(みかはやひ)の神。次に

樋速日(ひはやひ)の神。次に

建御雷(たけみかづち)の男の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。

次に御刀の手上に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(いで)て成りませる神の名は、

闇淤加美(くらおかみ)の神。次に

闇御津羽(くらみつは)の神。

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この段落は自身の判断が通用している範囲を見定めます。

ここで各自=伊耶那岐の命、が、先天的に所持している=御佩(みはか)せる、

判断力を用いて=十拳の剣を抜きて、

現象子音=その子迦具土の神、の

組成=頚(くび組霊)、を

検討した=斬りたまひき、ところ、

その運用によって以下のような道理=ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、が

意識規範全図=湯津石村、と

関連して=走(たばし)りつきて、

了解されてきたもの=成りませる神の名、があります。

石柝(いはさく)の神。 (意識の次元実在世界を見定める)

根柝(ねさく)の神。 (意識の働きの次元を見定める)

石筒(いはつつ)の男(を)の神。(意識の時処の展開を見定める)

次いで検討が深化していき出てきた道理は=次に御刀の本に著ける血も、

意識規範全図に関連していて=湯津石村(ゆずいはむら)に走(たばし)りつきて、

明らかになったものは=成りませる神の名は、

甕速日(みかはやひ)の神。 (上記三神によって成立する意識の音図上の位置を見定める)

樋速日(ひはやひ)の神。 (意識の音図上の移動先を見定める)

建御雷(たけみかづち)の男の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。(上記五神の合一された全体音図を見定める)

更に意識運用が進展していき得られた道理は=次に御刀の手上に集まる血、

意識規範図の田名間田、田の名の間よりククリ出てくる新たな田=手俣(たなまた)より漏(く)き出(いで)て成りませる神の名は、

闇淤加美(くらおかみ)の神。 (意識の新たな田によってくくって噛み合わせる)

闇御津羽(くらみつは)の神。 (意識の新たな田に向かってくくり開く)

次章では客体側から生まれる判断です。

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イザナミは神去りたまいきでここにはいません。あるのはイザナギの主体活動のみです。主体が自分の活動を検討しようというのですが、ここには自分の活動の仕方を検討しようという自分が活動をするのですから、一種の自己撞着、矛盾があります。分かり易いように矛盾といいましたが、別の言葉を使用すれば創造といっても同じです。検討される自分が検討し、創造される創造物が創造するのです。

この自己矛盾は古事記の冒頭から一貫していて創造意思行為の原理となっています。

意識の次元。

自分の思惟活動を検討する自分の思惟があり、その最初がイハサクです。五葉裂くで、意識(言葉)世界は五次元であることを検討するということです。

意識の次元などというと、目標とするあるいは理想の考えられる限りの(霊)能力や意識の獲得段階を次元と言い換えているものが多いですが、古事記でいうのはそういった御伽噺の教訓というものではありません。精神意識の解説では数学の知識が物理化学に入れ替わり、いつの間にか宇宙意識と希望の精神段階が、天文学と結ばれます。天体知識の深化と共に意識の次元が上げられていくので、主張者も適当なところで最高なるものと妥協しなくてはなりません。

言霊学による意識の次元はそういった、知識真理愛創造行動光霊塊体神指導霊根本神仏への関わりや修業の段階の違いを指しません。それらの意識の各自の持ち来たらせられる心の構造の違いを次元としています。ですのでそれらの次元世界が主張者の主張の数だけ客観的にあるのではなく、各自が意識を向けた時だけ生じてきます。彼らの主張をよく見れば宗教指導者も霊能者も意識の構造から離れることが出来ず、その意識の構造を自ら解明検討することができていないのです。

よく神の声を聞き会話する経験があることがいわれます。そういった特殊な体験はその人の意識の次元性の高度化や高級性とは関係はなく、どのような話の内容も言霊学で言うアイウエオの五次元をでることはありません。

霊魂を語れば意識の次元が上がるということもなく、霊的な修業をし普通でない経験をすればその人の次元が上がったということもありません。霊魂の話を続けると混乱を招く元になるし、霊的な高位の次元に昇ったという霊能者も低次元とされた男女関係につまずくことが多いし、霊的な次元に高低はなくそれ自体が全体で言霊学でいうイ次元に他なりません。そんなことを言うと仏陀やキリストはどうするのかと怒られそうですが、彼らは人間離れした十次元や十一次元に昇ったのではなく、イ次元の霊的な世界において自分の意識の使用を迷わずに霊的に使用創造したのです。大工が家を建てるのに、料理人が調理をするのに自分の道具にこだわるようなものです。

意識の次元とは今ここに生きている肉体を持った意識のことで、人間らしくなる経過だとか神に近づく階段を昇るとかではありません。霊能者らが主張するようなものではなく、既にあり持っているものを、火のように明らかに(か)身(み)につけるものです。つまり、人は既にカミを持っているので、それを現象化しようというものです。

言霊学でいう次元は点や面の数学知識から宇宙天文学に勝手に結び付けられた科学知識に左右される次元のことではなく、単純に各人が持っている意識の次元のことですから、死後の魂の次元上昇だとかもあずかり知らないことです。次元上昇を主張する方も、考えられる上位次元世界が限られているばかりでなく、何十次元に上昇した次元世界の話にしろ、その内容は日常のアイウエオの五次元世界の言葉を使ってしか話し合えないのです。

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意識は五次元世界、それ以上は無い。

五次元五次元とうるさいことを言っていますが、どうせならいっそのこと五次元を悟る秘策をまず授けてしまえばいいように思います。しかし古事記はそのように出来ていません。無自覚な意識に悟りの知識は伝えられますが智恵内容は伝わりません。意識運用の手順も同様です。せっかく古事記が手取り足取り一歩一歩歩き方を示しているのですから、本人がこれぞと言う自覚に到達するまで待たなければならないようです。

この段落は自覚に至る以前の主体意識の働きですからそれをしっかり受け取るべきです。主体の働きはこういうものだという了解が得られれば、威張って自分の思惟の働きはこうだったのかと鼻が伸び、自分の創造行為や主張が強固になるでしょう。知識の女神に保護されるようにです。幾らでも自分の創造物を検討し分析ができます。

そして次に来るのが奈落に落ちることです。それが黄泉(よもつ)国となります。検討分析を外側から加えてもその本体が見えてきません。分析と主張が限りなく出てくるだけです。そしてそれに囚われ人になているか、自分が単なる分析の要素に変態してしまっているかどうかに、気づいているかどうかに追い込まれていきます。

そこで自分の創造現象が全て汚い(気田無い)物と知り絶縁し、更なる脱皮変態を自覚させられことになるでしょう。

そして再度客体側も含めた創造活動に赴くことになるでしょう。

と、希望的な観測を述べましたが、それらが実現したとして私は六次元か七次元人間になるのでしょうか。そんなことはないでしょう。

そこでは母親が全知全能で子を見守るように、五次元世界の全体が一緒になって動くので、六次元やら七次元やらを意識することもないでしょう。

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ここに伊耶那岐の命、御佩(みはか)せる十拳の剣を抜きて、その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき

と突然十拳(とつか)の剣がでてきます。しかも刀(かたば・片葉)ではなく、剣(両刃のつるぎ・連気)です。拳(つか)は長さの単位で拳骨の幅のことですが、物事の判断をツカむことです。その掴み方が十を以って把握するというものです。十分に端から端まで掴むのに意識の次元によってその十分さが異なります。

科学知識などは十分に端から端まで分析検討して掴めばよいのです。これを八拳の剣といいます。芸術宗教などは十分に端から端まで自分が納得できるように掴めばよいのです。これを九拳の剣といいます。そしてここ二出てくる十拳の剣で十分に端から端まで掴むということです。同じ言葉を使って八九十というようにいうことが違っています。

これが次元の相違のなせる業です。巷の次元上昇とか言うものは数字は上がりますが、言っている内容はどの次元も同じで意識を違う言葉にしたものです。言霊学ではその逆です。同じ言葉ですが、内容が違います。(頭の中では直ちに賛否の感想などが出てきますが、古事記は百神を通過したらその秘密が明かされるといいます。)

片刃(カタナ)は切って分析するだけの意識ですが、剣(ツルギ)は切ったものを連結します。主体側の判断を検討しようと言うのに始めから立派な判断規範を持たされているのです。

八拳の剣・・・自分や相手がいようといまいと、客観的判断がされればよい。あってあるものがあることを証明する判断。科学知識や五感感覚。

九拳の剣・・・相手はいざ知らず自分には明快明瞭な判断がされればよい。あってあるものがあるだろう事は自分には証明されている判断。情緒感情、宗教、芸術。

十拳の剣・・・自他が不即不離で合一している主客の判断。あってあるだろうものがあらしめられる母子の世界判断。

迦具土の神を切る。

古代表音神名(かな)文字、また自他の意識の産物のことです。自分の意識現象を自分で検討することですが、そのままでは自己撞着です。しかし現実には行われますから、検討規範を持っていることになります。ですが意識的に自主的に自覚的に使用するだけのものは持っていないのに、何が出るか分からずまた出たものにはその人を超えて全て対応出来る規範があるというわけです。

ここに無自覚な十拳の剣が先天に用意されているというわけです。

心の先天構造が活動することによって、後天の現象(出来事)が発生します。意識で捉えることが出来る現象が現れるには、意識で捉えることが出来る以前の、意識で捉え得ない心の先天構造の活動を必要とします。先天活動があるから後天活動が発生します。この事を仏教の般若心経では「色(意識で捉えた現象)即是空(意識で捉え得ない先天現象)、空即是色」と言います。またこの時、意識で捉える後天の現象の姿を「諸法実相」と言い、これと即の関係にある意識で捉えることが出来ない先天構造の働きを「諸法空相」と呼びます。

「母親は何故子を叱ったのか」という問に「子が悪戯(いたずら)をしたから」という答えも確かに答えとなります。これは一つの現象をそれに関連するもう一つの現象で答えた事です。これは形而下の答えであります。しかし答となるのはこれだけではありません。叱られた子という事を捨象し、叱った母親の心というものだけに限定して「母親はあの場合何故叱る態度をとったのか」という答えを出すことも出来ます。こうなりますと、叱った母親の心の中、「叱る」という後天現象を生むことになった原因となる母親の心の先天構造を探ることも一つの答えとなります。この探究の仕方は「形而上学」と呼ばれる分野と言えます。

以上一つの例を挙げてお話申上げましたが、一つの現象を他の関連する現象から説明すると同時に、その現象を生じる先天構造の活動からも説明することが出来れば、説明は完璧なものとなります。形而下の説明と形而上の説明がピタリと合致した時、一つの現象の説明は完結されます。この事を逆に考えますと、一つの眼に見える現象を、それに関連ある他の現象だけでする説明は「風が吹くと桶屋が儲かる」式に、その説明は限りなく続かねばならなくなるでしょう。そして限りなく続いて行く内に原点の現象の説明の影は次第に現実から遠ざかって行きます。一切の現象の説明は、その出来事が起る主体と客体の諸法空想と諸法実相の立場から考えられるべきものであります。この為に、現象が起る絶対的な原因となる人間の精神の先天構造を事細かく解説して来た次第なのであります。心の先天と後天の両構造を、心と言葉の最小要素である言霊によって解明する事が出来た言霊学が世界で唯一つ物事の真実の姿を見ることが出来るのだ、という事を御理解頂けたと思います。(島田正路からの引用)

未完

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