08章-2 先天からイメージへ。タトヨツテヤユエケメ。

08章-2 先天からイメージへ。タトヨツテヤユエケメ。

いよいよ後天現象の発生です。

事(こと)のあることが感じられそのことが分かる段階です。

古代にはうつしみ・うつそみを現身と現わしました。うつされた身です。

現象までになる三段階ある内の第一段階で、まずは現象の発生からイメージまでの形成です。現象となる経過の発生であり、イメージへまとまっていくまでに十段階あり、その経過の各々が独立した現象の単位となり、現象となったときにはそれぞれが十段段階を通過しています。全体では三十二の神々が出てきて、後天とは何かが説明されます。

つまり後天現象全体の始めであり、経過の要素それ自体が全体であるうような全体の単位要素であって、これから出てくる三十二の神々が全部出揃って初めて現象という単位要素が完成しますが、またそれ自体が三十二の神々を体現しているので単位要素として独立していきます。言い方は奇妙ですが了解されることと思います。

成長段階の生物では前段階は未熟な未発達として扱われますが、言霊は三十二を通してその発生を説明されます、その一つ一つは独立した単位になっています。

言霊の説明上の発生順位が前段にあるから低次元や未熟の段階にあるということではありません。

よく言霊を語りながら一つの単語や文節の言葉に宿る霊力を持ったものとして扱いますが、そういったことではなく、五十音図になっている単音一つ一つに「霊力」を見ていくのが大和の日本語の言霊です。また、発音の異同によって、言霊の数を増減しているのもありますが、発音の違いを勘定するのが言霊学ではありません。

現象とは物事が現れ現れたものが進行変化することです。現れてそれで止まったら現れてしまった現象で、いわゆる結果現象です。動きの無い死物となり、いわゆる結果となります。過去の結果を集めるのは人の意識の得意とするところです。しかしそこには現象という進行変化はありません。返って見方の切り込み方の相違によって、進行変化を押しつけられるものです。意見はそういったものとしてあり、各人の主張所有となり、その後の事柄が起きていきます。

現象の現れは様々ですが、まずは単位要素として現れます。古事記では三十二の単位要素が提示され、つまり現象には三十二の現れがあり、その各々が現象の単位要素です。三十二の要素を唯一順次に渡り終わったところで、現象が完成し、それは同時に一つの単位要素の完成ともなります。

現象は変化進行していきますから、三十二を渡り終わって出来たものは現象の単位であると同時に、そこで止まった場合には結果として固定され、進行していく現象ではなく結果の現象となります。三十二の単位を全部渡り終えて単位要素の現象となりますが、それは三十二個の言霊に対応しています。言霊として現象する時には三十二を渡り終えた時にそうなりますが、それではたった一つの言霊しか成立しないように思えます。

しかし、そうではなく、三十二を通過することで一つの言霊が出てくるのは、各言霊とも同じで、三十二の各言霊の生成の異なった次元にそれぞれ三十二の名前が付けられています。

個別の単位要素は独立していますが、それぞれが先天という共通の基盤から出てきたものですから、共通の全体を含んでます。

現象には原理として三十二の形しかありません。というのも母音四つ父韻八つのまぐあいしかないからです。

【言霊 タ 】大事忍男(おおことおしを)の神。

こころに先天構造全体が直接押し出されあらわれて最初の創造現象(イメージ)の全体のきっかけとなる力動で、その韻律は言霊タとなる。螺旋上昇循環の最初の現象となる原型としての頭脳内のあらわれを探しています。幼児の言葉の発生とは違って、理解される言葉を聞けば言葉が発生したということではありません。

どのような国の子供がどのような言葉を発するにせよ、頭脳内に言葉を発生させるに至るそのまず最初の言霊の発生を探っています。分けの分からない先天の働きの頭脳内の中枢に起こった最初のものです。パパ、ママと聴覚に訴えて理解される言葉に成る、それを形成させるに至るものです。

自然な先天の働きが自然に頭脳に現れる時の始めのことで、後天現象といっても発音のことではありません。具体的に発音されるのはまだ先の段階です。

では何がそこにあるのか。十七神で現わされている先天の全体が出来たということがあります。

受胎や発芽の最初の力動と見なされるでしょう。先天の全体(おおこと・大事)が押し出てきます。

主体的と受動的。

先天構造の全体があると同時にその働きがあります。ですのでその先天が働き始めます。しかし、働くのは私たち一人一人です。私たち一人一人にある先天が働き、私たち一人一人の先天に働き掛けるわけです。働き掛けられる私たちは受動的であることになります。そして、受動的であることが確認され了解されると私たち自身の活動が始まります。それが主体的な活動の始まりです。主体的主体的といって自分自らが動き出すように思っていますが、実は全く受動的に受け入れることによってしか主体性は発揮されません。

私たちが受動的であって先天を受け入れることが出来るのは、私たちに主体性がありそれを受け入れるという働きをするということが、主体的な働きを成すことなのです。テレビの番組を主体的に選んでいるのではなく、選ばされていることを実行することが主体的なのです。その実行して自分がこうしたと納得する過程に三十二があり、その各々に独自の神名が配当されています。その始めの領域の十の言霊神の始めが大事忍男の神になります。

始めと続き。

始めが無ければ続きがありません。しかし、続いて出てきた姿は始めとは違います。続いて出てきた姿を見た後で始めと比較すると、何事もその違いの大きさにびっくりします。その比較の仕方は出来上がったもの同士の対比で、始めの姿の内に続きとなる姿があること見ていません。柿の種に桃の実は成らないのですが、柿の実と種とでは、始めに取った写真と続いて出来上がったものを取った写真を見比べる様なもので、別々のものを比較しているようになります。

ここに成長の為の時間の流れという概念を持ち込むと、それぞれの時点で切り取られたスナップ写真が成長の様子として並べられていきます。その一つ一つの段階は非常に異なった姿を現わしていますので、一つの種から出てきたものとは見られないくらいです。

しかし、それは現象の段階の違いをことさら際立たせているのでそういうことになります。つまり、時間の流れを取り入れないと成立できない主張となっています。実際は、種は発芽して成長していくので、別々の時点がそれぞれ出来ていくのではありません。途切れない持続です。いまここのその時点にこれからの段階がみんな詰まっているわけです。

そこで、いまここの時点でその後の全ての今後があることを、いまここの種が持っていることも明かしていくことが必要です。だからといって、カラスに突つかれ喰われた柿の実をいまここの種に現わそうとするものではありません。人は意識的な自由な方向へ向う存在ですので、カラスに喰われるという決まった自然過程を経過するだけではありません。ここには人の自由になる自由な実が成るのです。

何故最初の言霊の音韻はタになったのでしょう。