ブログ040。『 主体が出てくる準備 』~44

ブログ040。『 主体が出てくる準備 』

神避(かむさ)り

【かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。 】

金山から和久産巣日(豊宇気ヒメ)までは全て主体側から見られる相手対象となっている神々です。客観現象を扱っている主体側の働きです。冒頭の造化三神で言えば神産巣日に属し、イザナミのミコトに属する側、つまり実体側の神々です。

ここまででやってきたことは実体側世界の分類で五つの次元を確認してきました。そして言霊要素、客観実体の内実は分からないながら主体の感じ考える実践材料となっています。

そしてここに視点の転換が起きてきます。日常ではこんなことを意識することはありません。心の全貌を解明してしまっている古事記の記述があるからこその記述に沿って喋ると出てくる問題です。そしてしばらく自分の心に留まってみると、なるほどそういったことが起きていることに気付くのです。

この場面で言えば、内実実相の分かっていないボールみたいなものを手にして、その物質性に囚われる心を見る替わりに、ボールをぼやっと見つめている自分自身の心持ちがあることに気づきます。ボールの物質的な性質性格あり方など何にも気にしないことがあります。

そこでは主体側の見る意識だけが問題となっていて、自分がボールに吸い込まれたり、ボールが大きくなって自分を包み込んだり、自分がボールにくっついてしまったり、ホールが重たく不動になったり等々と、まるでそこにあるボールの姿をとらないことがあります。そのボールを見つめている主体がどこからどうくるのかの主体そのものが次のテーマです。

このテーマの中には客観物は存在できず、主体の主体たるその働きそのものが追求されます。そしてそれによって五次元に分類された客観世界(イザナミの)からは完全に手を切ることを要求されます。ところが、実体実相を知らないままでも主体が係わったお蔭で客観世界が定立されていったのですから、ここに主体は縁と未練を感じ執着心を得ます。

宗教世界ではもっぱら目前にある物質世界への執着を語りますが、肝心な執着心が現れる元を語れません。フトマニ言霊学ではうまいくでしょうか。

フトマニ言霊学では、アと言おうとしてアと言ってアと了解するほんの一瞬に百の意識の過程を見ていき、それが循環するとします。その過程は順次意識が進展する順であると同時に百がそれぞれの独立した次元世界を形成していて、それら全てを前承しつつ螺旋循環して発展していく姿をみせます。

循環しつつ各意識の言霊世界が独立しているという重層的な視点からは、各意識の言霊次元はそれが表出され現象となったときには、それぞれの時点の言霊として百の循環を通過したものとして出てきます。逆に言えば、百の循環のどの時点でもそれぞれの独立した表出が起きて、そのまま百の循環を通過したように振る舞います。

ややこしい言い方で申し訳ないですが、例えば今進行中の段落で言えば、実体言霊世界の内実を得ないまま得たように表出できるということです。実体材料の上で働き材料が無いと働けません。材料があって主体側が働くのは当たり前のようですが、働いている主体をみた時には、主体そのものの働きが問題であって、客観材料は脇に置いておけるのです。

客観材料だけを見ていくならその材料の次元各層を分類することまではできます。しかしそれ以上に進むには主体側のさらなる働きに寄らなければ成し得ません。そこで次には主体側の独自の規範が確立される順番となるわけです。

そこで主体は客観材料との縁を切ろうと奮い立つのですが、煩悩迷い、囚われ依存心、執(と)らし執着心はそう簡単にとれません。(あくまで瞬時に起きている心の内容ですので、いつかそういうこともあるだろうというものではありません。時々刻々誰もが通過している瞬時の内容です。)

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主客の問題。

ここの時点での主客の客は「神避り」で、黄泉国でイザナギの言った「事戸を渡す」と対になるものです。

「事戸を渡す」のはイザナギの意思行為で客観世界を振り切ったことですが、ここでは無自覚的に客体世界が退いていくことになります。

わたしも哲学分野を知っていれば世界中の哲学者と話したり、道場破りみたいなことをしてみたいところですが、風呂敷を拡げすぎになりそうです。しかし、今後後世において言霊フトマニの知性を持った方は、三千年の哲学史を整理位置づけそれぞれの主張の出てきたところを説明し、その拡大逸脱の理由をすべて説明する義務があります。フトマニ言霊学は諸学の一角を占めるものではないし、単に相対的な位置を主張するものではないのですから。

参考。

ウィキペディアでは、「世界を構成するものとして、「見るもの、知るもの(主体)」と「見られるもの、知られるもの(客体)」の2種類の存在を認める。客体とは感覚を通して知ることができるものであり、いわゆる物である。主体とは感覚を受け取るものであり、意識である。

主観と客観を論じるにあたっては、いくつかの伝統的な用語法が用いられている。多くの哲学者は、客観的実在という用語を、意識から独立して存在している事物を指すために用いている。これに対して、主観的実在とは、広い意味での意識に依存する事物を意味する。」

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【かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。 】

神避(かむさ)りはもちろん言霊学では「死んだ」ことではありません。簡単な俗な例をあげれば例えば、恋人が待ちに待っていたところにやっと現れれば恋人を待つという思いはもう無くなります。そんな観念は必要でありません。これが「かむさり」で主体の自主的自覚的な事ではありません。

(このような客観世界の消失は世界のどの哲学思考にも無いのではないかと思われます。推測です。)

この「かむさり」では何にも死んだものはなく、「君を待ちに待ったよ早く合いたかった」と口に出す出さないは別として、過去に概念知識に退いただけですので、いつでも幾らでもあの時はこうだったよと思い出すことができます。

「かむさり」の世界は後に黄泉の国で解説されますが、それも同様に死者の国では全然ありません。古事記は死者の国を説くことはありません。後ほど。

今まで疑問に思っていたことが分かったということも、疑問の「かむさり」です。繰り返します。死んだのではありません。

各実体次元で問題となっていた当のことが退いて新たな実体実在が出現したのです。それは主体側の働きかけによらず起きることも主体側が関心を持ち続けたためにおきたことでもありますが、新たな事の実相内容が分かったということではありません。単に関心事の結果が得られたということです。

そこで、それを了解するまでの過程があったことを片付けなければなりません。

【かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。】につながります。

日常では主体だ自分だと言って勝手なことを随分とやっているようですが、分析してみるといろんなことがあるものです。

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ブログ041。『 当の主体が出てくる 』

【かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。 】

【かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、】

結果現象を得たので、得てしまえばそれに至る過程はそこまでで終わりです。これが出産であり現象を得ることであり、創造の結果となります。

相手側実体世界の経過結果が現象としてあられています。材料も要素も過去のものとなり、変化変形破壊補強修復新しい創造その他になり、現在に移されているのです。原型を留めることはないこともあるでしょうが、死んで無くなったのではありません。その元の姿を伊耶那美の神といい、退いたのです。

ここに退いた伊耶那美の神と伊耶那美の神の生んだ現象とができてきます。退いた伊耶那美の神は出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき、となりますが、現象子供たちはどうなるのでしょうか。イザナミの手を離れた第三者となっています。そこでイザナギのミコトは次のように語ります。

「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」

これはイザナギの働きに関する事ではなく実体側の変化現象です。イザナミ(客体側)が現象(子)の一続き(一木・ひとつき)になりました。

そこでイザナギは在るという現象を隈なく検討します。手にしている現象が一連の経過をへているのは何故か、そもそもここに現象を手にしているのはどうしてか、イザナギには根源的な問題です。

【 御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、】

ここでイザナギの徹底した猛烈な検討作業が始まっています。

【腹這い】は腹を地に付けることです。腹は原っぱで五十音図の原のことで、頭脳内に在る先天の判断規範たるスガソ音図を、地に在る実在実体、手にしている現象と摺り合わす事です。

ここには二つの経過かがあります。客観を相手対象としてそれと擦り合わせをしていることと、もう一つは、客観を頭脳ないの判断規範に持ち来たって擦り合わせをしていることです。一般的に言えば前者はイザナミの神を相手にすることであり、後者は自分自身を相手にすることという、同じことをしているようで次元の違いがあります。

腹這いは相手に対することで、「哭(な)きたまふ」は自分自身に対することです。

ここではまだ相手対象となる客体と格闘している場面です。客体に関わり客体への執着愛着から抜けていません。客体側が相手対象となっていて、客体側の実在に左右されます。相手対象が消失したり踵を返してしまったり、流れが止まり中断したりすれば、現象が生まれません。ここまでは相手対象によって主体側の出番が有ったり無かったり左右されています。

しかしそこでひとたび得た現象を腹這いして検討している主体自身に注意を向けると勝手が違ってきます。ここでは泣き悲しむですが、次にでてくる「御涙」を導くためです。

主体内の音図の原を実在実体の客観世界の原とすり合わせをしていきます。頭の先から足の先までとは、ア行からワ行までということです。

何をするかといえば、泣くのです。鳴くの謎で、名のあるものは名を呼び、名のないものは名を探して鳴く(泣く)のです。

そうこうするうちに、泣く・鳴くことは主体内の独自の活動で、泣く事だけに関する主体側の行為が出てきます。出会えた恋人を見て起こした意識は全くその人のもので相手側のものではありません。

猛烈に検討したイザナギはそれが何でありどうするものであるかの自覚はまだなく、ただ自分の働きに関するものだという感触しかありません。猛烈に泣いて涙がこぼれ落ちます。

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ブログ042。『 無自覚に出てきた主体 』

【御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は 泣沢女(なきさわめ)の神。】

【御涙に成りませる神は】というのですから、【涙】はきっと何かの暗示です。イザナギは猛烈に鳴くという自身の行為を検討しているところです。

涙はナミタ、名の実である田の謎でした。

イザナギの整理作業は金山始まり続いています。主体側の働きの子の一木(ひとつき)です。要素材料をたぐりよせ、明らかに使用可能な安定した要素材料を組み合わせていくと、事象があるという世界に五次元の階層を見いだし、各次元層のそれぞれ重要な隣接した三つの層を中心とした各次元に対応した判断規範ができていました。そこではまだ実在実体を集め整理しただけなので実相内容までは明らかになっていませんが、心の大枠を表現し立ち位置を示すのに充分な規範となり、これによってどのような問題、材料が持ち込まれても初歩的な対応が可能になりました。

以上は整理される側の一連の流れでしたが、ここに現象を受け取り検討している自分自身である主体を見る眼があります。それは自分自身の内容を見ることですのでいったん客観要素と応対しその現象を得れば、独自に頭脳内活動となって客観実在の制約を受けなくなります。こうして客体は客体として置いておいて主体独自の活動が開始されていきます。

主体側独自とは言っても、客体側要素材料の在ることから起きたことで、主体が自覚的意識的に立ち上げたことではありません。ですので主体は客体世界内の構造にそって動き・動かされていきます。(これを根本的に自覚して覆すのがみそぎです。)

そこでこの段、とその次では客体世界の構造に沿った、いわば無意識的な精神規範を基準にして、さまざまな判断のあり方が述べられていきます。その判断をもって客体世界を見ることを黄泉の国に行くといい、無自覚を反省して禊ぎを経て理想的な規範に到達するようになります。ここでは規範を無自覚に使用する主体のあり方が取り上げられていきます。(通常の判断活動は根本において無自覚ということで、どの場面においても自己主張することを妨げませんが。)

【御涙】は、ナミダ、名の実となる田、のことで、物事の実相に名を与えて明らかにする主体の働きを示し、そのような稔りをもたらす主体を田園に譬えています。この田園で(鳴いて、発音発生して)働くことで、事象の各次元層に係わる主体そのものが現れてきます。主体の働きは要素材料(ナミ田、名の実となる田)を相手にしないと自らを表出できません。

そこで【御涙】は頬を伝って落ちるものですからその様子を【香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもと】、根元としています。

【畝】は畑に作られた幾つもの土盛りで、ここでは主体側の畦(母音行)から客体側の畦(半母音行)へ盛られている実体世界の五つの次元層の事を指します。

【畝尾(うねを)の木のもと】は並んだ畝を平面ではなく立ち上がった【木】のように立体的に見て、五層を積み重ねたものとしてみて、その根元ということです。

【香山(かぐやま)】は書く山のなぞで、心によって表象され表出された五層の世界全体のことで、今は縦方向に見られた畝を持った田のことです。(天津スガソという音図のこと)

この田の元に涙が落ちました。

するとイザナギは自身が猛烈に泣き叫んでいる自分自身を見いだすのです。それが【名は 泣沢女(なきさわめ)の神。】で女らしく泣き叫ぶイザナギということで、泣き役の女神ではありません。

また、泣き叫ぶ自分自身を見いだすので、他者、客体実在と係わるのでもありません。それらは既に「かむさり」しています。

泣き整理検討している自分を見いだしますが、目前手持ちの要素材料の客観実在世界を相手にしていますので、全てイザナミが成立させた世界のことです。ですので自分を見いだすというのは、イザナミの反映された、それゆえ執着愛着の抜けない、客観世界の写し鏡という形をとります。これがいわゆるこの世に流布されている思想群として現れているものです。

その思想群の主体側が次にでてきます。言霊フトマニ学の思考法を除く世界思想のあれこれの原理です。

さて、この時点まででは、各実在世界層の検討で涙を流すと、各層に対しても下へ落ちるものがあり、「もと」のところに集まることが確認されそこに、 泣沢女(なきさわめ)の神が誕生しました。そしてそこに泣き鳴き騒ぐ自分自身を見いだし、鳴く自分の動因、泣く自分の活力の原因を感じました。各次元層を感じ考え思うのは、その「もと」に意思の創造原理たる動因が自分自身にあることを見いだしたのです。

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ブログ043。『 お寺の鐘がゴーン ・ 泣沢女(なきさわめ)』

【名は 泣沢女(なきさわめ)の神。】 ナキは名の霊、サワは流れの出てくるところ、メは萌芽意識で、物事が現象となって名を付け治める動因となるものです。主体(父韻)の働きで泣き騒ぎ物事に名を付け実相を示す元となる先天の起動韻となるもの。

手元に材料要素が集まりそれらをどう扱うかは、金山、波邇夜須(はにやす)、弥都波能売(みつはのめ)で整理運用され、和久産巣日(わくむすび)で大まかな規範ができています。次元世界が分類されそれらの木の元で、次元世界の違いを意識している自分がいることに気づきます。

ここからは主体側自身の問題です。次元世界の相違を見いだしたのは他ならない主体自身でした。イザナミの客体世界を扱いながらそこに主観独自の動きを見いだしました。

さらにそれは、客観世界の次元を分けてその次元内の事柄要素同士を見ていくと、関連性や連続性、配列相互の時処位、分岐点などがありました。それらの働きが主体自身にあればこそ主体はそれを表せるので、ここに次元層内での動因となってより細かいことをする泣き沢女がでてきます。

主体側の関わりが一連の連続性を表していく、ということにしないと客体要素の併置だけでは連関生はでてきません。

例えばここに物があるという知覚を考えるとき、実体実在の相違を意識してもその次元内での相違は、同じ実体での相違ですから、実体を見ている限り分かりません。それを示す規範が要ります。

そこで泣き沢女は、実体次元層の「木のもと」へ涙が落ちますから、「もと」となる創造意思、意思の動因が意志の次元、命の次元で働くということになります。ここではまだことの詳細を創造していくところまで話は進んでいません。ですので泣き沢女は原理としての意志の働きを見いだしたということです。

その内容が先人によって既に公開されている記述に沿って述べてみたいと思います。意志の働きは八つの連続した流れで出来ていて、それぞれが連続しつつ各自が独自に表出されるというものです。目的地に着く前に列からはみ出して独自な事をし出しますが、その独自性を形作るのもやっつの連続した動きの上で出てくるというようなものです。その活動を言霊イ段で象徴し、働きの流れを言霊チイキミシリヒニで示しています。

客観世界の反映が主観に載(宣)ります。

・イ・起動韻

・チ・与えられた実体客観世界を全体的に反映して主観世界を形成しています。

・イ・主観世界に形成されたものが心を推進していきます。

・キ・自分の精神宇宙に在るものを掻き寄せます。

・ミ・自分の方に引き寄せ結びつき

・シ・心の中心に向かって静まり納まる。

・リ・識別の力が心の宇宙の拡がりに向かう

・ヒ・心の表面に完成する。

・ニ・心の中心部に原因となるものが煮詰まる。

・ヰ・受動韻

イの起動韻が働く以前にも客観世界はあり、それらの反映は頭脳意識内に宣りますが、客観実体として何の性質も示さないのです。この始まりが重要なことです。実体世界があるという始まりは無色透明無味無臭無音無感なのです。

お寺の鐘がゴーンと鳴ってもそこに聞く耳が鳴ければ空気の濃淡振動が在るだけです。お寺の鐘が鯨や蝙蝠、藪蚊、馬の耳に「ゴーン」と鳴っているわけではありません。早合点を止めてみれば、お寺の鐘は鳴っていません。物理現象の作用反作用で空気の濃淡が移動していくだけです。

この空気振動と聴覚器官の実体だけを取り上げていくと、釈迦では色不異空、空不異色、色即是空、空即是色の教えが出てきます。しかし人間での場合のように同じゴーンにさまざまな意味内容見いだす教えは出てこず、無音の音を聞けのように直覚を得よのような教えになります。

イザナギは騒々しく泣き騒ぎ自らに騒ぐ動因となっている泣き沢女を見いだし確認します。自分の中に起動韻と受動韻が在るために相手対象と共感感応が起こるのです。音波振動の受容器官は聴覚ですが、聴覚に与えられた空気振動に言霊「イ」が反応しなければ、何の振動か分かりません。

言霊「イ」が起動する場合でも、「イ」の命の内容が、何の音かと疑問を持てば金の音となり、喧しいうるさいとなれば感情の音なり、腹に響いて食欲を起こせば欲望の音になり、生きるための気合の音と聞けば創造意志の音となり、期待した聞きたい音と聞けば選択の音となります。このように音の「木(霊)のもと」に働きかけ働き、揺すり揺すられ、いざないいざなわれて「イ」の内容が起動したときにのみ事象が起きます。

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ブログ044。『泣く自分・秘伝書』

お寺の鐘は鳴っていません、などと言われてびっくりしたのではないかと思います。人間の頭脳は超高速で回転し超高性能ですから鐘を叩けばゴーンとなり、ゴーンと鳴らすために鐘を叩くと思っています。数十億数百億年の宇宙の進化をどの人間も瞬間に開陳し実践するように出来ています。人間の歴史としてはここまでですが、人間はあまりにも全てのことを瞬時に受け行為することに慣らされている為、古事記のフトマニのように瞬時を百に展開する優雅で優美なことをすることが不得手になりました。

頭は素早く回転し過ぎ、こういえばこうなると原因と現象が同時に語られています。だから鐘をつけば音がするのは当然と思っています。ですが、音を聞くには聴覚で、聴覚が機能しなければ鐘がゆれ動くのを見て、あるいは腹に響く音圧を受けてというように、それぞれの受容器官で鐘をついたことを知ります。「泣く」といえば泣く原因結果の方を思ってしまい、泣いている自分自身を省みることがおろそかになります。

イザナギはイザナミの死を悲しんでいるのですが、落とす涙は自分のもので、悲しむ相手を思うことと、悲しんでいる自分を思うこととの二つがあることに気付くのです。イザナミの死を、相手対象を、悲しむ話はこのあと黄泉の国に向かいます。ここでは悲しんでいる自分自身を発見確認していくのです。

なぜ「悲しみ」の物語を安万侶は作ったのでしょうか。それは生命意志の言霊「イ」が「もと」にあることを示すためです。涙(ナミタ・名の実の田)は下の田の地に落ちそこに根付いてそこから稔り多き稲穂(イの名の霊)が花開き、花に名が付けられ物事の実相が表されるようになります。物事の実相を了解するには感情感覚から全体を見ると自分にはよく納得するものです。

そこで「イ」の対の位置につまり最上位に言霊「ア」がきます。感情は気が高揚しますから、気が上昇して言霊「ア」の位置は上にくるでしょう。そして、「ア」と「イ」の間に「ウオエ」の三者(後の三貴子)が入ることになります。

こうして感情と意思に挟まれて先天の心のスガソ音図(アオウエイの順)の起動韻(受動韻)となる「イ」の位置が与えられます。先天の「イ」の位置を示すために感情の話をしたのでしょう。

しかし、注意しなければならないのは、ここではまだ個々の現象結果を対比比較するまでに至っていないことです。頭の回転が速いのは結構なことですが、個別的な個々の現象結果を示す段に至る前の話です。地(田)の位置にイザナギ自身の心の働き全体である泣き沢女を見いだしました。どうどのように働くかは後に展開されます。

泣き沢女(父韻)が自分に確認される、地の「もと」の位置に「イ」があると確認されると、そこにはまず、「イ」から「㐄」への橋渡しが出来ます。

イ㐄が確認されると順次「エヱ、ウウ、オヲ、アワ」も確認され、ここに実体世界の領域ができてきます。

欲望を起こしている自分と自分の欲望の相手、疑問を持つ自分と疑問の対象となるもの、選択を按配している自分とその相手とうとうの、主体側の働きかける自分と客体の受動する側の橋渡しを、縁の下の力持ちである「イ」の意志が介在していることに気づきます。

この領域は客体側材料要素を得ているといっても、感情は感情である、疑問は疑問である式に主体側「イ」をそのまま客体とする「㐄」で表すので、個々の特徴はありません。オノゴロ島で出てきたアワ(淡)島はこのことを指します。起動側と受動側が直接にでてくる一般性・普遍性という形が現れます。

ところがこの「ア」から「ワ」(五十音図のアからワ)に直接橋渡しされる一般性の各実体世界に乗らないと、その次元内での話は通じなくなります。こうして一般性が実体化してきます。

この一般性は無色透明無味無臭の空の世界ですが、「それに何かの刺激が加えられると、無限に現象の音をだすエネルギーに満ちておりますので、宇宙の音を「無音の音」などと呼ぶ事があります。」

カネが鳴るという表現は一般的な表現で、どこのどんな何のカネがチーンゴーンカーンと鳴ったのか分かりませんが、このカネが鳴るという一般性の上で詳細個別性が理解されていくものです。

では何故個別的にさまざまな種や意見や観点が出てくるのでしょうか。現代では意見の相違を尊重し合うといいますが、その相違の出所を解明した思想家はこの三千年間にどの分野からも出てきませんでした。

フトマニ学では古事記の書かれるはるか以前に解決済みの論点でした。これは産業経済の物質社会の進歩と相反する構造を持っているため、そのままでは豊かな社会を疎外するものでした。そのため豊饒な社会の世界的な出現までは、フトマニ学の原理に替わる社会繁栄の原理を与えておいて、時の叶ったところで精神世界の原理が世界に伝搬するように考慮されました。現在はいろんな分野で精神世界の変態を求める声が出ています。

それらは全て数千年の先まで見ていた古代大和のスメラミコト達の仕事でした。数千年経った後に原理が消滅していては元も子もありません。そこで神話の謎のお話として精神原理を残しました。物理的に形式的に文化行事の分野で、そして何よりも世界に類例のない言語構造を持つ大和の日本語を作っておいたのです。その鍵を握っているのが皇室で、宮中行事の本質はフトマニ言霊学の形象化として残されました。(非公開のため何が行われているのか分かりませんが、明治天皇がフトマニ学の存在に気付いたように、皇室の誰かが気付いたときに世界全体が変化、変態脱皮に向かうことになっています。賢所には古事記の神名と言霊五十音の対応を示した歌の手引き書があるそうです。)

話が逸れたようですが、鍵となる歌の手引き書が今後の全世界の変態脱皮を促す「香山の畝尾の気のもとにいます」 泣き沢女というわけです。

もちろんこれが見つかったところで理解できるわけではありませんから、次元上昇とか革命とかが起きることもありません。それどころか誰も知らず何も起きないで時の進行だけがあるのかもしれません。というのも「イ」の次元はそれ自身は形に現れないものです。

同時に世界の泣き方も騒々しい限りです。

世界の前に全宗教、宗教組織は無力であることがハッキリしています。

どのような世界指導の意見も提言も何の役にも立たず、根本的な思想が求められています。

世界は既に全分野で連結されていますので、自分を立てることが必然的に世界を引き寄せることにもなります。

自分の結果を結ぼうとすれば世界とも結ばれなくてはなりません。

一人自分に閉じこもることも不可能になりつつあります。

知識情報は自分の取り入れていく範囲を常にこえていくようになりました。

ますます自分の表面に完成するものが他の世界を必要とされるようになりました。

自分において完成するものが無くなり、煮詰め留めておくことが難しくなりました。

世界は繋がっていて、その変態脱皮を感じる心は拡がっています。しかし誰も世界に指し示す規範を持ち合わせていません。

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ブログ045。『言葉の発声・言葉の発生』